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数字の世界を楽しむ記事 数学の苦手を読むだけで払拭するぞ!

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本日の講師紹介「さっちゃ~ん」

実は、彼は数学が得意でも何でもない。

現役時代、数学Ⅱbは「4点」は今でも一部で語り継がれている。

「数学は正しく理解すれば必然的に点数はとれる」という言葉をモットーに、 数学に悩める学生たちには、おすすめのアニメを勧める。

今回は、そんなさっちゃ~んが、何故数学を勉強させられたのか、数学という学問は何なのかを改めて調べてきました。この記事の作成は2週間くらいかかりました。

暇な人はこの記事だけで1日を潰すことができるぞ!

数学の基礎は教科書に書いてあるじゃないですか?

いや、数学の教科書だと、知りたいと思う部分が書かれていないんですよ。一般的な数学の基礎イメージ部分がしっかりしていないから応用問題に使えない→数学が全く面白みに欠けるわけで、その根本的な数学の仕組みを紹介して「あぁ、こういうことだったのか」と思っていただければ幸いです。

  東大理Ⅲ「数学は正しく理解すれば必然的に点数はとれる」

www.youtube.com

どういった経緯で東大理Ⅲを受けたのかという動画であるが 数学が生まれつき化け物じみていた

11:03

彼はこういっている 「数学は正しく理解していれば必然的に点数がとれる」

つまり、東大で五完できない人は数学を正しく理解していない

細かいところで理論を曖昧にすると数学は解けない

といっているのだ。

「本当にそうかな~?」と思って、ワイは再び数学を一からやり直すのであった

「数学」とは??

◆ここにがポイント!◆
数学=集合学=論理学 論理が矛盾していなければなんでもありの世界

ただただ「論理」だけの世界であり「証明」ができれば終了 この時に、注意しなければならないのは「存在問題」である

「存在する」ものに対してその特徴などと違う場合は「偽」になっていまうが 「存在しない」ものに関しては何を言っても「真」のである

例えば、 ワイの恋人はめちゃくちゃ美人で家事も出来るし、おしとやかでどんなプレイも喜んでやってくる

しかし「ワイの恋人」というもの自体が「存在しない」

存在しないモノに関しては何を言ってもいい というのが数学的思考になる

ただし、ワイに恋人が本当にいたら 「えぇと、身長160センチ...」などと事実を述べないと「解」にならないのだ。

数学の世界では、 説かれていない解の存在が無数にあり 解が存在するというだけでも大発見となる 解がわからない問題なんてうじゃうじゃある

それを検証する学問が数学 「集合学」であり、「論理学」である。

数学の教科書はその中から 「解の存在が発見され、更に解がわかった奴を寄せ集めた」ものに過ぎません。

数学に具体的(物理的)な概念がそもそもあるわけではない

もともと数字というものが現実に存在するわけではない

だから、「虚数が実在するのか?」という質問自体がバカげている

いままでの数は、2乗すると正の数になっていたため

なんか「虚数」と名付けられていたが、

なにも2乗すると負の数になってはいけないという論理があるわけではない

  • ・そもそも解が存在するか考える力
  • ・命題の正否、必要十分条件(教科書にもある)
  • ・矛盾を明確につかむ方法

数学的思考原則

「困難を分割せよ」

数学だけではなく、物事を研究する思考の原則としては、「モノを分けて、再び、繋ぎ合わせる」という作業だ。

これを「分析して総合する」というが、数学だけでなく万物の思考の原則となる。

ワイの例えで行くならば、剣道を究めるなら、動作ごとに分解し、関節や筋肉を分解して、再構築する。そうすることで、安定した打突をする。

「基礎」が大事とは、いうけれどもそれは、動作の分解した最初のパーツを大事にするということである。

読者の皆様も自分の好きなもの、熱中しているものを上達するためには「分析して繋ぎ合わせている」はずだ。

数学も例外ではなく、問題を解く場合は「分解して繋ぎ合わせる」ことが大原則となる。

集合+相互関係=構造

数学というのは、バラバラに存在している(集合している)モノを相互関係を結び付けて構造する学問であり、相互関係を指定する設計図に当たるものは公理もしくは公理系と言われています。

集合→建築材料でいえば、構造は建築物となります

数学脳は、

①定義を大事にして、

②「やり方」ではなく本質を捉え、

③なぜそうなるのかを考えて、

④工夫をし、

⑤ミスをしても気づける感覚を身につけ、

⑥大局的に物事を捉え、

帰納法的思考をして、

⑧条件を見落とさない

ようにすれば数学脳になっていきます。

「定義」と「定理」の違い

数学の世界には、決まり事である「ルール(定義)」と、すでに学術的な照明がされている「事実(定理)」がああります。

教科書の内容と言うのは、ルールと事実がごちゃごちゃに扱われているため、この区別する思考が重要です。

「定義」の場合は、「誰かがそのように決めた約束事」なので、すべての人が納得できる明確な理由がないのに対し、「定理」は、前提となるルールが変わらない限り内容が変更されることがない絶対的なものであります。

数学者が数学の醍醐味を味わうのは、まだ未知だらけの数学の世界の中で、「事実(定理)」を発見したり、証明したりすることにあります。

学校で教える数学は、その入門の入門になっているのか、甚だ微妙な所です。

具体例を挙げるなら、

「ルール(定義)」

・+、-より×や÷を先に計算する

→一つの式に()をいちいちつけなくていいため

・四捨五入

→5は0と9の中間にあり仮に「五捨」にしてしまうと、更に下のケタの数値が「0」か「1」かどうか確認しなければならず面倒であるため

・1より大きく、正の約数が1とその数のみである整数を素数という

素数に1を含めてしまうと素因数分解の際に複数の方法でできてしまって面倒なため

「事実(定義)」

整数について、各ケタの和が3の倍数ならば、その数は3の倍数である

123=1×100+2×10+3

   =1×(3×33+1)+2×(3×3+1)+3

   =1×(3×33)+2×(3×3)+1+2+3 (+1を()内から外した)

   =(1+2)(3×33)+1+2+3

「3の倍数」+「各桁の数の和」の形となります。

実は、「定義(数学のルール)」というのは、数学を考える上で非常に重要な約束事なので、先に紹介しておきます。

円周率:円周率とは直径に対する円周の割合、すなわち円周/直径

ところが、これを先走って「3.14」だったり「π」と決めつけてしまうと、数学の応用が利かなくなっていき、数学が苦手な子供が量産されるわけです。

速さ:速さとは、単位時間あたりに進む距離

当たり前のように使っている「速さ」ですが、速さの定義を理解していなで「はじき」とだけ覚えてしまうと応用で躓いてしまいます。

圧力:単位面積にかかる圧力。

つまり、面積が狭くなれば小さな力でも圧力は大きくなり、針の先で軽く突っかかるだけで痛いのは針先の面積が小さいので、とてつもない圧力がかかっているから。

ちょっと先に進みますが

乗数「0乗は1」はルール

「0乗は1」というルールがあります。これは数学の定理ではなく、数学者の人たちがその方が都合がいいということで設定したものです。

a³=a×a×a

両辺をaで割ってみます。

a²=a×a

さらに、両辺をaで割ってみます。

a¹=a

さらに、両辺をaで割ってみると

a⁰=1

このようにa⁰=0とする場合に不都合が起きるので、「0乗は1」という定義(ルール)が定められました。

0!=1」というルール

n!/(n-1)!=n

n=2を入れると

2!/(2-1)!=2

次にn=1を入れると

1!/(1-1)!=1

分母が0乗になりますので、「0乗は1」というルールの方が都合がよかったわけです。

もっと詳しく記載したいのですが、パソコンで表記しにくいので割愛させていただきます。他の応用問題を解く場合にこの定義をしっかりチェックしていると応用が効きやすくなります。

「現実」なくして「数学」は存在しない

数学とは、生物学や物理学、化学と比較すれば、論理的な学問であり、理屈だけで押し通せる学問ではある。

しかし、数学は現実に対して無関係な学問とはいいけれない。

速度×時間=距離

単価×分量=値段

たて×よこ=面積

というように、現実の世界で支配している法則を考えに入れて、計算規則を定義している。

ビュートンも注意しているが、分数×分数の規則は理屈だけの力で決して導き出せるものではない。

もし、現実にそのような法則が存在していなかったら、わざわざ分数×分数の計算規則を定める必要もなかっただろう。

また、計算においての数学の「乗除先行の規則」は、現実の世界では乗除を先にやって加減を後にやることの方が多いからという事実に基づいている。

計算規則を定める際には、現実のある側面を忠実に映し出すように約束されている。

後々紹介するが、「関数」も近代数学から誕生したのは近代が「変化する数学」を求め始めたからでもあるし、微分積分学は望遠鏡・顕微鏡から発現されている。

というわけで、数学は決して現実に対して無関係な学問というわけではない。

代数学

数学の基礎の基礎は「数」ではなく「量」

◆ここにがポイント!◆
「数」から始めるのではなく「量」からはじめよ

広義的な意味での「量」:体積、体重だけでなく、面積、密度、時間、運動量、エネルギー量、人口密度、温度そういった広い意味での量。

「大きい」「小さい」「速い」「遅い」「強い」「弱い」「エロい」

私たちが、多くの形容詞身につけているということは根源的に「数」よりも「量」が根源的に備わっています。

それらが、私たちの生命を維持していくのに必要不可欠だった。

「数」という世界の下の段に「量」という基礎の土台があったわけです。

義務教育の数学はそれをすっぽかしてスタートします。

後で説明しますが「量」という概念をとばして「数」を説明しているから数学の最初の段階でつまづくのわけです

「量」の分類 1「分離量」と「連続量」

分離量:HOW MANY

連続量:HOW MUCH

分離量は、「1」がそれ以上分けられないこと、お互いに孤立していてつながらないということが条件になります。

それに対して連続量は、無限に分割が可能です。分けることとつなぎ合わせることが自由にできます。

例で挙げるなら、水1ℓとか。無限に分割できるし無限に合併できるのが連続量です。

英語の場合これに関しては明確にわけてあるので、この点英語圏の人の方がイメージがしやすくなっています。

連続量は、整数だけでは間に合わなくなります。

どうしても、小数分数、無限数が必要になり、それらの総称を「実数」というわけです。

連続量は、分離量と違って、1個、2個、3個....とあらわすことができないので、デカルトは連続帳を直線の長さで現すことを思いつきました。

連続量といっても、長さの他に、重さ、広さ、体積、時間、密度、温度などさまざまな種類があるけれどもデカルトは全部、長さで表現しました。直線はいくらでも分割出来て繋ぎ合わせもできる。

◆ここにがポイント!◆
連続量は直線で表現する
りんごが3個とみかんが5個で合わせて何個でしょう?は糞問

「量」にしても「数」にしても集合の個数を問いています。

集合の個数は整数となり、集合というと物の集まりで、意味は非常に広いわけですが「いくつある」というときには、そんなに無条件ではありません。

そこにあるものがだいたい一つ一つが「等質」であることが条件としてあるわけです。

完全に同じでないとしても、等質とみなすほど似ているものではないといけないのです。

この原則を忘れている問題は、数学の根本的な考え方に違反しているので、数学の問題として成立していません。

「連続量」の分類:「外延量」と「内包量」。分数を理解するために必須

分離量は分類しませんが、連続量を更に細かく分類していきます。

外延量は、外に延びているという意味で、大きさ、広がりを表す量です。

見た目でわかるわかりやすい量です。

対して内包量は、内に包んでいるという意味で、量と質の「質」をあらしています。

外延量:体積、重さ、長さ、時間

外延量は、加法性です。元来、量とは何かというとそれは「物」ではありません。

2メートルというと、それは、物そのものではなくて、ある2メートルの棒の持っている一つの性質です。つまり、物の一属性です。

つまり、量とは、物そのものではなく、物の属性なわけです。

外延量は、合併した時に足し算になります。これが加法性です。

ところが、内包量は合併した時、足し算にはなりません。

内包量は掛け算、割り算です。

で、ここが子供が算数を学ぶ時に最もつまずく部分になります。

内包量の例題として「温度」をあげます。

子供たちに、20℃の水と30℃の水を合わせたらどうなるのかときくと、おそらく50℃と答える子供がきっと出てきます。

これは、温度という内包量を外延量と取り違えているためです。

現状の日本の算数はこの違いを説明していません。

このように外延量と内包量の区別が分からないと数だけの計算はできても具体的な応用問題が出てくると駄目になります。

内包量:速度、密度、濃度、温度

内包量はイメージしにくいので典型的な「密度」を挙げて説明します。

密度とは、何かの容れ物に中身がどれくらいつまっているかを示すもので「1つ辺りにどれくらい詰まっているか」を考えて出すことになりますので「割り算」は必須となります。

内包量はどうしても掛け算割り算が必要になります。

第一用法:中身の量÷容れ物の広さ=密度

第二用法:密度×入れ物の広さ=中身の量

第三用法:中身の量÷密度=容れ物の広さ

といった感じで密度には三用法があり、内包量では、割り算と掛け算が主役になります。

◆ここにがポイント!◆
外延量は+、-を使い、内包量は×、÷を使う。
算数の誤った掛け算の教え方

2×3=2+2+2 「数え主義」で、2を足し続けると2+2+2と書いていいけど、これだと長すぎるから2×3にしようね。という風に我々は教わったはずです。

しかし、これだと、「分数」で説明がつかなくなります。

子供たちは、「3×4分の3」で「3を4分の3回かける???」という感じで狂います。

先程の内包量を使った考えを使うと、掛け算は内包的なものに使うのであるから、足し算の延長で掛け算を語っていないので、 「3という全体の水の量に、4分の1を出すために4で割って、それの3倍」とすぐにわかるようになります。

「外延量」と「内包量」を分類して理解していないと、この考え方を理解するのに時間を要するし、子供によっては、意味が分からなくなり、ここで算数を投げ出します。

量というものから数の計算を眺めると、足し算引き算の世界と掛け算割り算の世界は別物として考えて、あとで結び付けた方がいいのですね。

「外延量と内包量」の概念を念頭にこれからの数学を解いていくと、応用問題も数学的な閃きがしやすくなると思います

掛け算は足し算の延長で略した表記って考えてると、掛け算の使い方って、その程度なのかって感じになって、たしかに応用しにくいですね

どうしてもイメージしにくい人は普段の数学の掛け算と足し算が混ざっている問題をイメージしてみましょう

例えば「2×3+2」を「2×5=10」とかしちゃダメですもんね。先に「2×3」を優先する謎のルールが足し算と掛け算が絡まると発生しますね

これはもう「足し算引き算」と「掛け算割り算」が「外延量と内包量」の中で行われる計算が故に独立しているものであるからと考えてよいでしょう

「内包量」の分類:「度」と「率」に分類

「内包量」は更に分類できます。

度は、中身の込み具合で、率は、中身の割合と考えて下し亜。

度:密度、速度、温度

率:濃度、利率

量は多次元

身長だけみると一つの属性としての量ですが、ほかにも身長体重胸囲座高など体格は多次元の量としてかんがえたほうがよくわかります。

数学はいままで一次元で量を学んでいたことになります。

これらの一次元の量を一緒に考えた場合に多次元の量という発想が生まれるし、高校数学で習うベクトルもいままでは「矢印」と考えているけれども、これは多次元の量として考えたほうがずっと発展性が多く、広くて、わかりやすくなります。

いままでの数学の教育は、一つの量に対するものであったけれども、量をたくさん組み合わせたものに対する代数であり、量が基礎になっているわけです。

「数」という概念:一対一対応

先程の「量」の分類から「分離量(HOW MANY)」から整数が出てくる場合には、一対一対応という手続きにより、はじめてはっきりすることになる。

一対一対応:一つ一つを組み合わせてくらべること

それに対して、「物」の集合とは限らず抽象的なものもの集合であってもよいわけです。

「1,2,3....」と数を数えることは「数の言葉」と一対一対応させていることになります。

つまり、「1,2,3.....」というのは、自分の頭の中に刻み付けられている言葉の集合と、椅子(椅子でもなんでもいいもの)が一対一対応しているということです。

数えるという操作がすでに一対一対応を行っている。

これが「数」という概念で最初の出発点となります

椅子の集まりや子供の集まりをみてみます。

それぞれが両方とも5つ(5人)あったといえるためには、一対一対応の手続きが必要となります。

両方に余りも不足もないということになった時に、同じ「5」という共通の名前を与えることになりました。

これが「5」という数のものとです。

一対一対応のできる集合に共通の名前を与えたわけです。

これを「集合数」と呼びます。

集合数とは、集合の個数だと言ってもいいです。

分離量は一対一対応をやることにより明確になります。

もちろん一対一対応のつかない場合も起こってくるわけです。

椅子が5つもあるのに、子供は3人しかいない。

一対一対応をつけると、椅子のほうがあまりができます。

あまりの方が大きいという大小の考え方が生まれます。

しかし、算数の教科書の1ページ目は「序列数」から始まっている

このように、「量」「集合数」「一対一対応」という概念をはしょって、算数の教科書は「序列数」からはじまります。

序列数は集合数に序列(1<2<3<4...)がついた。

これが、どういう影響あるんですか?

一見、「それが何?」と思われるかもしれないんですが、意外ともうすぐにつまづく部分が発生するんですよ

引き算でつまづく

例題:男の子が5人いる、女の子が3人いる、男の子は女の子より何人多いでしょう。

式:5-3=2 答え:2人

これの何がおかしいんですか?

これを最初に学んだ子供は、とある疑問を口に出すわけです

「男の子から女の子は引けません」

たしかに笑。

引き算には、「求残」だけでなく、「求差」という考え方もあり、この2つをはっきり区別しなければならないわけです。

この式は、男の子から女の子を引いていたのではなく、一対一対応で男の子と女の子のペアをつくって男の子全体から引いていくわけです。

つまり、一対一対応をやって、対応のついたものを引いています。

だから、「求差」は「一対一対応」と「求残」を組み合わせたもの。

数の世界だけで考えると同じ引き算ですが、具体的な場面になると細かい相違が発生する。

こういう疑問をもった子供を放っておくと、子供はだんだんわからなくなって算数が嫌いになっていきます。

当たり前のことを言っているようにも聞こえますが

ただ、明確に、引き算の意味合いは2つあるんだよって抑えたことはないんで、こういうところから応用しきれなくなるのかなと勝手に思いました

1mの定義

現在は「光が真空中を299792458分の1秒間に進む距離」

と定義されています。しかし、その定義は各国に配られたメートル原器という金属の棒を1mの基準としたのでは温度により誤差が生じてしまいますので、技術の発達した現代においてできる限り誤差をなくすために後から決められた定義です。

元々は、人類共有の財産である地球を基準に統一したのがメートル法で、このメートル法では、「北極点から赤道までの距離の1000万分の1を1m」と定義しました。

この定義を知っていれば、北極から赤道までの距離は地球の外周の4分の1なので、

地球1周の距離=4000万メートル=4万km

とすぐにわかりますし、光は1秒間に地球を7周半するという知識があれば計算で光の秒速が、

4万km×7.5=30万km

つまり秒速30万kmと出すことができます。

さらに、月までは光の速さで約1.3秒、太陽までは約8分20秒=500秒という知識があれば、

月までの距離=30万km×1.3=約39万km

太陽までの距離=1天分単位=30万km×500=1億5000万km

ということまでわかります

1m³と1ℓとは

1km²=1000×1000=1000000m²

1ha=100×100=10000m²

1a=10×10=100m²

というふうに1km²と1m²の間にある便利な単位として「ha」「a」というものなんかが存在しています。

体積も同様で、

1cm³と1m³は大きさが違い過ぎるので途中で単位が必要です

1辺の長さが1cmの立方体と1辺の長さが1mの立方体の途中に単位を作るなら、やはり1辺の長さは10cmでしょう。それが1ℓなのです。

したがって、

1ℓ=10×10×10=1000cm³

という定義が成り立ちとなります。

分数とは?

さて、「外延量」と「内包量」を抑えて置かないとまず、つまづくのは分数のかけ算・割り算である。 連続量を測ると、半端な数値になるのが当然であり、その答えは分数か小数となる。 分数には二つの意味がある

  • ・「単位分数」の寄せ集めであるという意味
  • ・分子÷分母であるという意味

「単位分数」とは、分子が「1」である分数のことを指す。

一見、当たり前のように感じるであろうが、古代エジプト人は「分子÷分母」であることを知らなかったため、エジプトの数学者は、「分数は単位分数の寄せ集め」である考えからどうしても離れることができず、割り算を分数で現すことに大変苦労したという。

3÷5=1/5+1/5+1/5

これは、3枚の紙を重ねておいて5等分をしてみるとよくわかる。

1/5毎の紙片が3枚できるので、1/5+1/5+1/5を表現できる。

分数の現し方
分数の分母と分子に同じ数をかけても、または、割ってもその大きさが変わらないのは何故か?

これは、タイルを使った水道方式が分かりやすく、このブログではタイルを使わないで文章のみで説明するので、各自で紙を用意してほしい。

紙に正方形を書いて、紙片に縦の線を入れる。2/3だとすると2つ縦の線を入れ、3分割して、2/3を表現する。

そこに2/2をかけてみる。

まず、1/2×3=1/6で、大きさ変わらず6マスできる。

分子は2×2で4マスなので、4/6となるが、紙片の大きさ自体は変わっていないのが分かるだろう。

先述した通りかけ算と割り算は内包量の計算であるので、足し算と引き算とは独立した考えとなる。

何故、割り算なのに割って増えることがあるのか?

ここで分数でかけたら減るように、何故、分数で割ったら増えるのか?日本の小学生のつまづきポイントの重大ポイントである。

英語の場合はかけ算を「multiply」を表記し、「かける」に「ふえる」という意味が含まれるため、「WHY、かけ算なのに減るの??」という疑問が生じるが、日本語の場合、「かける」という意味に「増える」という意味がないため、分数をかけ算して減ることに引っかかりはない。

しかし、割り算には、コトバから引っかかりを覚えてしまうのだ。

ここでは一旦「割り算」という固定概念を一回捨てて、今一度、割り算の意味あいを考えてみよう 割り算は「包含割り」と「等分割り」の2つの意味がある

等分割り:全体をいくつか同じように分けること

包含割り:全体をいくつかずつに分けること

「÷分数」の場合は「包含割り」と考えることでこの疑問を解決する。

Q3メートルのヒモから1/2メートル(50cm)を切り取ったら何本できるか? 答えは、6本となる。

また、同時に「分数で割るには、分子で割って、分母でかける」という共通の法則も発見される。

最初の「定義(ルール)」と「定理(事実)」

以上の割り算の際に「包含割り」と「等分割り」という考え方は「定義(ルール)」と考えて欲しい。だから、「割り算とは『a÷b』とは、a個の物をb人で等分した時に、一人あたり何個になるかを表す数」であるが、学術的に証明されている絶対的なものではなく、あくまでも割り算の理解を深めるためのルールなのである。

ただ、割り算に関しての絶対的な事実は

a÷b=cとなるとき、a=b×cである

となる。

ある定められた「ルール」をもとにしたとき、必ず導き出される事柄は「事実」という。

この先、応用問題で割り算に出くわすとき、いちいち「包含割り」か「等分割り」かを考えるのは億劫であろう。割り算の性質として抑えて置けば、今後の応用問題を解ける鍵となる可能性があるけれども。

割り算というのは、本質的にはモノを分ける計算と考えるのではなく、「かけ算の逆演算」という原則で抑えて置いた方がいいでしょう。

数学の勉強をした時に、式って割り算は基本的にかけ算に直したと思いますが、その本質には定理である「a÷b=cとなるとき、a=b×cである」があるというわけですね。

2÷0=0

先程の割り算の考え方から

物を分配する算数のルールだと

0÷2=0

2÷0 わからない

0÷0 わからない

となります。

「2個を0人で分ける」とか意味わからないですよね。

先程の逆演算ルール「a÷b=cとなるとき、a=b×cである」であてはめてみると

0÷2=0

2÷0 存在しない

0÷0 すべての数

となります。

0÷2:2×c=0となるcは?0になります。

2÷0:0×c=2となるcは?そんなcはないの「解なし」

0÷0:0×c=0となるcは?どの数もcに当てはめることが可能です

このようにわからない部分が解明されますので、割り算はかけ算の逆演算の思考を持ってた方が崩れないのかなと思います。

分数の割り算が何故、分母と分子をひっくりかえすのか

分数の割り算も逆演算ルール「a÷b=cとなるとき、a=b×cである」で展開していきます。

(a/b×d/c)×c/dという式をいきなり持って展開します。

最終的にはうまくいく天下り的謎の計算です。

=a/b×1=a/b

つまり、(a/b×d/c)は「c/d倍するとa/bになる数」です。

また、「c/d倍するとa/bになる数」はa/b÷c/dとも表せます。

a/b÷c/dは「c/d倍するとa/bになる数」

a/b×d/cも「c/d倍するとa/bになる数」

で同じ数になります。

A=B、B=CだからA=C論法です。

このように、

ぎ逆演算ルールにのっとると、同じ数を導き出すことができ、「分母と分子をひっくり返してかけ算する」という事実(定理)が導き出されるわけです

分数と小数

小数を分数に直すのは非常に簡単だけれども、分数を小数に直すのは大変である。

分数は分子÷分母だから、そのまま計算すれば良いのだが、割り切れない場合どうすればいいのか?

2/3=0.66666.... 8/37=0.216216216.... 31/101=0.30693069....

ある程度実例をながめると、どうやら、分数を小数に直すと、必ずあるところから先は繰り返しになるようである。

ここでの証明は割愛する

分数を少数に直すと、有限小数になるか、無限の循環小数になる

分数と無理数

ところが、無限小数は必ずしも循環はしない。

0.1010010001000001....という小数をみるとどんなふしをとっても循環しない。

こうなると分数では表せなくなる。

こういった数字を「無理数」と呼ぶようにされていて、高校数学の時に登場した用語である。

数学を勉強する最初の土台として、無理数がどういった数字であるのかというのは最初に抑えて置きたい。

そのためには「分数」がどういった数字なのかというのも抑えて置かないと理解できないようになっているのである。

◆ここにがポイント!◆
無理数は分数で現すことができない、循環しない無限小数である

正と負 プラスとマイナスの関係は、いわば、数の「反語」でそれ以上の説明もそれ以下の説明もない。

0から右直線上に1メートル、2メートル、3メートルと直線を引いた時に、右とは反対の左の方に伸びる半直線上にも数字を並べることができそうだった。

しかし、合理的な名がついていないと、計算が酷く難しくなるだろう。

自然数に分数が新しくつけ加わった時も、全然新しい記号が作られたわけではない。

今回の新しい数には古い数に「マイナス」という接頭語を付けて呼ぶことにしている。

数学者は無造作に古い数の前にマイナスをつけて新しいマイナスの数を表すことにした。

何故、マイナス×マイナス=プラスなのか?

直線状の図をみてみると、絶対値はそのままに、符号をひっくり返すそのかけ算は、一直線上の値から180℃に「0」の周りを回転するのと同じである。

クラヴィウスはこのように語っている 「プラス・マイナスのかけ算の規則を証明するのはやめたほうがよい。

この規則の正しい理由を理解できないのは、人間の精神の無力によるというほかはない。

しかし、このかけ算の規則が正しいということは疑問の余地がない。

何故ならそれは数多くの実例によって確かめられているからである

ダメじゃん

残念ながら、理屈でこうという説明はできないらしいので、具体例を持ってなんとなく理解したという範疇に抑えます

何度も言いますが、プラスマイナスという概念は 「対極に並ぶ方向」でかけると180度ひっくりかえる数を「負の数」と 名付けました。

具体例: プラス×プラス=プラス

時速3キロメートルで上昇する気球が、5時間経過すると、気球は元の位置より15キロ上方にいる。

マイナス×マイナス=プラス気球が時速3キロメートルで落下している時、5時間遡ると、気球は元の位置より15キロ上方にいる 。

同じ符号が全く違う意味で使われている「方向算」と「単位算」を合体したようなものになるわけですね。

虚数は存在するのか!?

実数とは

  • ・数直線上に書ける数
  • ・分数で表せる数も表せない数も全てひっくるめて実数

え?じゃあ、全ての数のことを「実数」というのならば、わざわざ問題に「xが実数ならば~~」という問題文ってなんなんだろう?と疑問に思わなかっただろうか。

そして、月日が経って思うのは、こういう部分をおろそかにしていると数学が伸びていかないことに気が付くのであった。

ここでは、実数ではない数である「虚数」「複素数」について解説していく

2次方程式は高校数学Ⅰの範囲になる。

「Xの二乗(x2)」という項が絡む方程式を2次方程式と呼んだ。

9世紀のアラビアの数学者モハメット・イブン・ムサ・アル・クワリズミは代数学の本の中で6種類の方程式を研究している

  • x2=ax
  • x2=a
  • x=a
  • x2+bx=a
  • x2+a=bx
  • x2=bx+a

アル・クワリズミは、6種類とも右辺を左辺に移行して右辺を0にしてしまう方法で、ax2+bx+c=0という形をとる。

a,b,cという数はプラスにもマイナスにも0にもなりえる。

この辺は高校数学Ⅰのおさらいですが、今回とりあげるのはこれ。

x2+2x+2=0

(x+1)2=-1 xが実数である限り、x+1も実数であり、(x+1)2はマイナスになることは出来ない。

ところが、それが-1に等しいというので、始めからこの方程式は無理な方程式だったということになる。

このような事態に、実数のワクを守って、この方程式には「根がない」と断定するか、実数のワクを打ち破って新しい数を認めることによって、「根がある」と主張することの2つの意見があった。

どちらが正しく、どちらが誤っていると判定することは出来ないが、数学の発展は後者の方に進んでいった。

よって、実数のワクから外れた新たな数字が開拓された?

2次方程式が、あるときは、二つの根を持ち、あるときは一つの根をももたないという事実は、例外というものの嫌いな数学者には何ともやり切りれない思いであった。

√-1が存在してくれたら、すべてがうまくいくのだがなぁという割り切れぬ思いは長い間、数学者を支配していたそうだ。

ライブニッツは次のような言葉を述べている 「解析学の脅威であり、観念の世界の生まれそこないであり、尾を持って実在と非実在との間をうろつくもの、それが虚数というものである」 また別のところでは 「マイナスの数の平方根を取ると、不可能数もしくは虚数が生まれてくるが、この数の性質は奇妙であっても、役に立つ点では馬鹿に出来ないのである」

例えば、原子は古代ギリシアの哲学者や物理学者の頭の中にあった想像上の物体に過ぎなかった。

それが実在するかどうかわからないが、ともかくいろいろの現象を説明する上で役に立つものと見なされていた。

そのような時代が長い間続いた後で、精密な実験機械が作り出されるようになってはじめて、その実在がはっきりと証明されるようになったのである。

この「生まれそこない」の√-1に関してはその後の数学の歴史では、大数学者ガウスと測量技師ウェッセルであったそうな。

虚数が存在するとか、そういう話ではないんですね

√-1=i 純虚数複素数

先述した通り、「実数」とは直線状にある数のことである。

横線を引いた時に、自然数、分数、無限循環小数無限小数無理数)は直線状にあるということだ。

しかし、この「虚数」は「実数」ではないため、直線の外になければならない。

じゃあ、どこにあるのだろうか?

「正と負」でやった実数の「符号をかえる」手続きを再び考えてみる。

(-1)×(-1)=+1

(+1)×(-1)=(-1)

であった。

×(-1)という捜査は、実数を乗せた直線を0のまわりに180℃だけ回転することと同じであった。

ところで、√-1=iなので、両辺を2乗すると-1=i2となるのだが、

(-1)は、×i2ということは、×i×iと2回引き続いて行うことで180℃の回転に等しいとしたら、×iは180℃の半分だけの回転、つまり90℃の回転を意味するはずである。

だから、×iを行うと水平の実数の直線は、垂直の直線になるはずである。

つまり、iという数は0における垂線の上に1だけの距離のところにあるわけである。

この推薦状の点はすべて、2i,3i,4i....のように実数×iという形の数となる。

このような数を純虚数という。

しかし実数に純虚数を付け加えただけでは全ての2次方程式の根をつくすることはできない。

たとえば、x2-6x+25=0の根x=3±4iをみると、3は実数、4iは純虚数であるから、それらを加えたもので式にすると、実数+実数×iという形の数となる。

このような形の数を複素数と呼ぶことにする。

3は元通り水平線の上にあるが、4iは垂直の方に4だけへだたったところにあるだろう。

つまり、+3は右への移動を意味し、+4iは上への移動を意味しているわけである。

これはガウルが発見したので、平面上の各店が複素数を表していると考えた時、この平面を「ガウル平面」と呼ぶ。

「×i」は平面全体の90℃回転を意味している。

幾何学

「図」の導入はここから始まる

幾何学は、図形空間の性質について研究する数学の分野である。

「原論」は1482年に初めて活字になった。この書籍は「なにが」書かれているかではなく「どのように」書かれているか、つまり、そこで繰り広げられる考え方や配列の仕方が重要であった。「原論」というタイトルの意味は「入門」「初歩」という意味であるが、ユークリッドは図形をこのようにはじめた

  • 1.点とは部分を持たず、また大きさを持たないものである
  • 2、線は幅を持たず長さだけを持つ

点はこれ以上わけることのできない化学でいうところの「原子」であり、これが図形(幾何学)全体の土台石だと述べている。

私たちは図形を眺めた時に、そこに直線があり、円があり、正方形があることは、すぐさま見て取れることができるが、大きさのない点に気づく人は少ない。

だから、教科書なら直線や円から語り始めるが、この「原論」は「点」から語り始めている。

まず、図形と言っても無数にあるが、その中でとくに直線だけからできている三角形を取ってみよう。

三角形は点と直線と角にわけることができる。

三角形は3つの点を直線で結んでできる図形と考えてもよいし、3つの直線が交わってできたと考えてもよい、また3つの角を集めたものとみることもできる。

だから、点と直線と角は図形を組み立てている原子のようなものである。

その原子から出発して一歩一歩複雑な図形を作り上げていこうとするのがユークリッド「原論」の研究方法である。

もっとも、後に「集合論」によって線も面もすべてもの点も打ち砕いてしまったが、図形の導入としてはこの「原論」の考え方からスタートする。

幾何学を学ぶ意義、幾何学で得られる究極の思考がある

物質をどこまでも分割していくと、これ以上分割できないような最後の単位に当たる。

複雑なものを単純な単位に分けること、すなわち、分析ということは、すべての学問のもとになる大切な考え方となった。

物理学者の原子や素粒子、化学者の元素、生物学者の細胞などのようにもっとも単純な単位に当たるモノを要素というが、要素への分割という考え方を最も早く作り上げたのがユークリッドの原論であった。

しかし、わけるだけでは世界はばらばらの原子になってしまう。

いちど分けられたものをもう一度繋ぎ合わせなければならない。

それは、分析に対する総合と呼ぶ。化学者の仕事は化合物を元素に分けることだけではない。

さらに、それらをつなぎ合わせること、つまり、合成することによって新しい化合物を作り出すのがもう一つの仕事である。

物事を理解する上でも複雑な構造を持った複合物を要素にまで分解し、さらにその様相を再構成して今までになかった複合物を作り出す。

今、この記事の数学の作業は「分析」そのものである。

幾何学は、そういった分析して繋ぎ合わせるという研究の大原則を「数学」という学問で抽象化したものといってもいい。

数学とは現実とリンクしていると先述したが、図形の在り方、現実としてのリンクとして、我々人類にとって何を伝えているのかというと、思考の方法である

幾何学のように、物事は分析して総合することによって理解が深められることを現実の思考としてあるなら、図形というのはその思考形態を形にしたものである。

◆ここにがポイント!◆
物事を理解する大原則は「分析して総合する」を思考したのが幾何学
これは「理解する」という言葉の意味も共通している。
「理解力」...①自分の知識と②知らない新しい知識の③関連性がわかること。

いろんな図形の名前は数学の「定義(ルール)」

数学の世界には、決まり事である「ルール(定義)」と、すでに学術的な照明がされている「事実(定理)」がある。教科書の内容と言うのは、ルールと事実がごちゃごちゃに扱われているため、この区別する思考が重要である。

「定義」の場合は、「誰かがそのように決めた約束事」なので、すべての人が納得できる明確な理由がないのに対し、「定理」は、前提となるルールが変わらない限り内容が変更されることがない絶対的なものである。

数学者が数学の醍醐味を味わうのは、まだ未知だらけの数学の世界の中で、「事実(定理)」を発見したり、証明したりすることにある。

図形を分解していくにしても、何故?を突き詰めるとその理由が分からないであろうまずこの2点から説明していくが、この2点に関しては「何故?」という理由もなく、単に「定義(ルール)」である。
数学の世界でその方が都合がいいためのルールの一種で、いわば、「×、÷の方が+、-より先に計算するのは何故か?」「何故、四捨五入なのか?」と同じである。
ここでは、様々な図形のルール(定義)紹介していこう。
合同:ある図形を回転させたり裏返したり、移動させたりすることで、もう一つの図形とぴったり重なること
中学の時に合同になるための条件「3辺が等しい」「1辺等しく、1辺に連なる2角が等しい」「2辺とその間の角が等しい」は、事実(定理)になります。
数学には「合同」というルールが存在して、そのルールをの形の図形を「合同」だと証明するためには、この3つの定理を利用して証明していくというのが問題の流れになります。
スマブラで例えるなら、
最強:どのキャラクターよりも、キャラクター性能が高いこと
ピカチュウが最強だと証明したい。
最強(どのキャラクターよりも性能が高い)の条件「全ての技の判定がどのキャラよりも強い」「しっぽ技の攻撃判定がどのキャラよりも強く、移動速度がどのキャラよりも強い」
といった感じです。
二等辺三角形:2辺の長さが等しい
→底角が等しい三角形は二等辺三角形であると証明されます。
これは問題によって「逆」にすることも可能です
平行四辺形:
平行四辺形の同義の定義は5つ
・2組の対辺がそれぞれ平行
・2組の対辺がそれぞれ同じ長さ
・2組の対角がそれぞれ同じ大きさ
・1組の対辺が平行で長さが同じ
・2本の対角線が、それぞれの中点
問題を解くとき、この5つの中でどれか1つでも当てはまれば、それは「平行四辺形」であり、同義を使用することができます。
平行四辺形は同義が多くて、ひし形、長方形、正方形も平行四辺形であるため、基準である四角形として最初に取り上げられます。
平行四辺形は、同義が多いため、問題を作りやすいわけですね
長方形:4つの角の大きさがすべて同じ四角形
ひし形:4つの辺の長さがすべて同じ四角形
正方形:4つの辺の長さがすべて同じであり、4つの角の大きさも全て同じである四角形
と、このような感じで図形問題は、こういったルール(定義)がちょっと多いだけです。
これを「え?なんでこの四角形は正方形っていうんですか?」と問われたら「4つの辺の長さがすべて同じであり、4つの角の大きさも全て同じ角である四角形を数学の世界では『正方形』と呼ぶ『ルール』を設定していて、こうやって設定した方が数学的には色々と楽なのよ~」という回答になっていくわけです。

円1周分の角度が360度・円周率が約3.14の理由

・円1周分を360度と定めているのは、それが最も便利だからという結論になっていて、特に、円1周分が360度であるという事実(定理)ではない。
しかし、このルールのおかげで、「半周分の角度は180度」という設定になります。
また、三角形の内角の和は180度というのは証明された事実(定理)であるし、360度は約分しやすいという理由から、今日まで円1周分は360度ルールが採用されています。
・円周率が約3.14であるのも、図形を解きやすくするための都合のいいルールです。だから、「なんで円周率は3.14なんだろう?」「円周率ってなんで、こんなの使うんだろう?」と考えることは「×、÷の方が+、-より先に計算するのは何故か?」「何故、四捨五入なのか?」と同じ疑問になります。
円周率とは「円周÷直径」です。
この数値と言うのはどの円に対しても一定の値が示され「3.14159.....」とどれも一緒です。算数では「約3.14」と紹介されると思います。
円周率≒3.14の証明は、「円周率が3.05より大きいことを証明せよ」という問題が東京大学で出題されたこともあるくらいかなり大変らしいです。
しかし、「円周率が3より大きいこと」は算数の範囲内でも証明できます。
正六角形の周の長さ=3×「円の直径」
正六角形を均等に六等分した時に、円の直径=正六角形の一辺の長さ×2で、表し、それが3本、正六角形なので、辺の長さは一緒ですので、
正六角形の1辺の長さ=半径=rとすると、
円周率=「円周」÷「直径」
   >「正六角形の周の長さ(6r)」÷「直径(2r)」
   =3
少なくとも円周率は3より大きいんだよという証明は結構簡単にできるわけです。また、一時期「円周率は約3で教えよう」という発案がありましたが、それが、子供たちの数学的思考にどれくらい悪影響を及ぼすかは想像できたと思います。

円の面積「半径×半径×円周率」

このまま「円の面積」についても触れていきたいと思います。

円を横に2つに切って、長方形にして並べますと、縦が半径、横が円周の半分の長さになります。

円の面積は

 半径×円周÷2

=半径×直径×円周率÷2(円周=直径×円周率)

=半径×半径×円周率

図形の拡大

底辺2cm、高さ1cmで、面積は2×1÷2=1cm2の三角形の図形を2倍にすると

底辺4cm、高さ2cmとなり、面積は4×2÷2=4cm2で4倍になります。

このように、

図形をk倍に拡大すると、面積はk2(kの2乗)倍になります(定理)

体積の場合は縦×横×高さなので、

図形をk倍に拡大すると、面積はk3(kの3乗)倍になります(定理)

ここまでは教科書通りなのですが、ここで更に抽象化すると

どんなd次元の図形も、k倍拡大すると、大きさは「kのd乗倍」となる

この事実を知っておけば、平面でも、立体でも、図形を拡大した場合に大きさが何倍になるのか、同じ式を使って答えられるようになります。

三角形、長方形、円→面積4倍

立方体、球→体積8倍

一見わかりにくいのですが、このような図形以外に対応する時に一般化というのが有効になり応用に対応できるわけですね。

関数編

時代は「動」の数学を求めた

現実なくして数学は考えられないと言いましたが、人間の思考ではものごとを「変わる」と「変わらない」という2つの側面に分けて考えようとするのが、人間の根深い傾向であるらしいです。

これまで紹介した「算数」的な学問は不変という側面が強く、1,2,3...とかいたとき、それらの数は動かない、変わらない数で変化や運動はほとんどしません。

ところが、近代がはじまるにつれて不変と静止の数学はしりぞいて、変化と運動の数学が前面に出るようになりました。

静の側面ではなく動の側面から世界を眺めようとする近代精神が高鳴ってきました。

しかし、静止ではなく運動を、恒常ではなく変化を研究しようとするこれらの要求に応じるためには、+-×÷しか知らない計算術や、縁と直線だけしか知らない幾何学は役に立りませんでした。

そのために、「変数」や「関数」という全く新しい道具を作り出さねばなりませんでした。

◆ここにがポイント!◆
「関数」は従来の「静」ではなく、「動」の数学である

変数と関数が何故、教科書に載っているのか

デカルトは文字を動く数=変数とみるようになりました。

例えば、「t」という文字はある一つの瞬間ばかりではなく、一定の時間の間を変化し、次々の時刻を取りえる得るものとなりました。

それは連続したフィルムのある長さの全部を表すもので、そのなかの一コマではなくなりました。

また、xという変数は直線上の一点ではなく、直線上を動くことのできるものになりました。

長さ、体積、重さなどの長はある物体もしくは物質のある性質を表すものであるが、もしその物体が永久に変わらないものであったら、それらの量は「不変」です。

しかし、その物体が変化するなら、それらの量は変化するであろうし、その値は変数となります。

自動車の運転台の取りつけてある時計、速度計、走行距離のメーターも変化するし、台所に備え付けてある時計や、電気、ガス、水道のメーターも消費量を示す変量です。

多くの場合はそれらの量の間には何らかの関係が潜んでいます。

このように、ワイらの世界にはm数の量が存在し、しかも、お互いに感れを持ちつつ変化しています。

それらの変化のあり様を研究することが近代数学の最も重大な課題となりました。

関数は変化と運動の「普遍的な言語」となりました。

関連しつつ変化する量の関連の仕方も多種多様で、それらを手当たり次第に研究することは難しいです。

そこで、これまでと同じように、もっとも単純なものから始め、それを足場にしてより複雑なものにせまっていく方法が、ここでもとられることとなりました。

もっとも単純な場合というのは二つの変量が関連を持ちながら変化する場合です。

一つの変数が定まると、それについてもう一つの変数が定まる場合のことを指します。

x→y これをオイレルは、y=f(x)とかくことにしました。

硝子の器があって、間はカナアミで仕切ったもので例える 関数をイメージするものとして最もわかりやすい例えであるのでかみ砕いて説明をしますと、

水を入れるコックと、水を出すコックがついていて水の量はいくらでも増減できるものとします。

左側に入っている水の量をℓで測ってx、右側に入っている水の量をyとします。

仕切りは金網で水は事由に行き来できるから水平線はいつも同じなっています。

だから、左側の水の量xが決まるとyも自然に決まってくる。

xを変化させるとyもそれにつれて変化します。

だから、この場合y=f(x)と書いてよいわけです。

この例で右側のガラスの形を色々変えるとそれぞれ違った関数が得られます。

違った関数の場合はそれぞれy=g(x)などとかけばよいです。

これから、関数は、この右側のガラスの形を色々と変えた状態を考え続けることになります。

このように関数とは、対応を指します。

元々英語のfunctionを日本語では「機能」あるいは「関数」と訳すわけですが、function自体は数という意味を含んでいないのに、訳語を決めるときに数という字を使ってしまったので、地面と意味との間にずれができてしまいました。

常用漢字では関数と書きますが、本当は「函数」といった方が正しいです。

函は箱のことで、自動販売機にお金を入れると商品が出てくるみたいに、箱に何かのxをインプットすると、アウトプットyが出てくるという感じです。

注意したいのは、入り口に入れると出てくるのはひとつだけということです。

ひとつを入り口に入れて複数出てくるのは関数にはなっていないということになります。これは関数の絶対的ルールなのは勿論、まず三角関数を理解する上で非常に重要なルールとなります。

デカルトのグラフの発明

y=f(x)という関数があると、xが動くにつれて(x、f(y))という点は動いて一つの曲線もしくは直線描きます。

このような曲線はy=f(x)の変化の肩を目で見るためには、全く素晴らしい手段でした。

グラフを発明したデカルトは次のように述べています

「....そして、このような方法によって幾何学的解析と代数学のすべてのちょうちょを借りて、一方の短所はすべて他方で訂正しようと考えたのである」

どこまでも精密に計算できるのは代数学の長所ですがが、見透かしを描いています。

一方、幾何学(図形)は見通しの点では優れていますが、精密な計算の点では行き詰ります。

デカルトは計算する代数学の手と見透かす幾何学の目を結び付けて、それまでになかった強力な武器=グラフを作り出しました。

直線の関数の問題は主に何故「y=ax+b」ではなく「ax+by+c=0」にこだわるのか

横にx、たてにax+bの長さを取ると、そのようなたての線の先端の集まりは直線となります。

別の言葉で言うと(x、ax+b)という座標を持つ点集まりは直線にりました。

ここでy=ax+bとおくと(x,ax+b)は(x,y)と同じになるから結局「y=ax+b」という条件を満たす点の集まりが直線になる」となります。

では「関数の問題文の冒頭y=ax+bの形で出題してくれた方がらくなのに、何故ax+by+c=0だったんだろう?」とワイの青春時代、関数の問題を解いていて疑問に思ってました。

そこで、この命題を逆転してみると「すべての直線はy=ax+bで表される」といいたいところであるけれども、例外が発生します。

その例外はxに垂直な直線です。

この直線のx座標は一定だからx=aとなるが、yの式に入ることができません。

そこで、そんな例外をなくすために、逆にしても大丈夫なように次のような式が組み込まれた。

ax+by+c=0ここでa,bが両方とも0になることはないものとする。

ここでbが0でないとき、移行してbでわると y=(-a/b)x+(-c/b)となって、y=mx+lと同じ形になります。

また、b=0のときはx=-c/aとなって、これはx軸に垂線な直線になって、これなら例外的な場合も含まれます。

なので、この形の方程式にすると逆が成り立ります。

「ax+by+c=0は直線を表し、逆に直線はax+by+c=0という式で表される」a,b,cという定数の取り方によっていろいろの直線ができます。

逆にy=ax+bの形の問題で出題された場合「xに垂直な直線だったら解けないじゃないか」と突っ込まれないようにするためなのです。

◆ここにがポイント!◆
命題を逆転しても例外が存在しない形で問題文は出題される

回転

代数学が「関数」つまり、変化する動的数学を解禁してから、「回転」という概念も生まれました。

現実と数学がリンクしているように、人間にとっては、時計とは逆の回り方が自然であると考えます。

左にある心臓を内側にして、利き腕の右手を外側にして回る方が普通の人には楽であるように思えます。

角の測り方は、すべてこの自然な回り方を「プラス」に、その反対を「マイナス」ととることにしました。

このように角を基準の線から回転の大きさを考えると、どのように大きな角度でも考えることができます。

ちょうど一回転したら360度、2回転が720度、時計の針の向きに一回転するとー360度になります。

はじめのうち「角」とは、図形の「とがり具合」を表すものであったので、180度以上の角は考えられませんでした。

しかし、見方を変えて、回転できると考えることにすると、プラスマイナスのいずれの角でも自由に考えられることになりました。

点の位置を中心からの距離rと東から測った角度Θで現すことにした時(r,Θ)の極座標といいます。

ここで、半径1の円を考えてみましょう。

このとき角度Θの放射線(中心からの直線)上の点(x,y)を(r,Θ)で書き換えてみると、この放射線と半径1の円の交わりをSとし、Sの座標を(a,b)とします。

図がないとわかりずらいので各自、図で書いてみて欲しいのですが、このとき、相似三角形の辺は比例するので、各辺がそれぞれr倍するので、ra=x,rb=yとおけます。

このときのa,bはΘが動けば、それにつれて動く数、Θの関数となります。

a=f(Θ)、b=g(Θ)このような関数をそれぞれcosΘ,sinΘと呼びます。

sinはsineの略、cosはcosineの略である。a=cosΘ,b=sinΘしたがって、x,yはつぎの式でかけます。

x=rcosΘ,y=rsinΘ。Θがいろいろに変わるとcosΘ,sinΘも変わるが、ある場合にはプラスになり、ある場合にはマイナスになります。

「関数」の項目の際、人類は「静」の数学から「動」の数学を解禁したと述べましたが、このように「動(変化する数学)」の数学は、比例関数、二乗関数といった関数だけでなく、角度Θによって変化する数学を編み出しました。

この角度の移動は、すなわち、「回転」であり、教科書に載っている「三角関数」とは回転を数学にした学問であるといえます。

微分積分

望遠鏡から始まった

1609年ガリレオは自分で作った倍率30倍の望遠鏡で月をのぞいてみると、月の表面はなめらかではなく、地球と同じようにいたるところ、大きな山と深い谷の断層で覆われていた。

この瞬間から、それまでに人々を支配していたアリストテレスの有限の宇宙観は決定的な打撃を受け、無限大の宇宙観がそれに変わり始めた。

時代は時代なので、科学の解明はキリスト教にとって打撃であることから、ガリレオは宗教裁判にかけられ権力によって弾圧されそうになるが、続いて「顕微鏡」がさらなる衝撃を与えた。

望遠鏡が無限大の世界の扉を開いたとすると、少し遅れた現れた顕微鏡は無限小の世界を繰り広げてみせてくれた。

この肉眼では確認できない10万分の1、10万倍の世界が解禁され、2つの無限から出発して科学の新しい道具を作り上げたのが微分積分学であった。

◆ここにがポイント!◆
微分積分学は「望遠鏡」と「顕微鏡」から始まった

微分とは、思考の顕微鏡

微分とは、思考の顕微鏡であり、この顕微鏡を関数に当ててみよう 関数f(x)=x2を思考の顕微鏡に当ててみる。

x=1の付近でどのような変わり方をするのだろうか。

はじめに、この曲線の一部分を10倍に拡大してみる。

すると、この曲線が次第に直線に近づいていくことがわかるさらに、この一部分を100倍に拡大したら、もうほとんど直線と区別することは出来ないだろう。

自分たちが地球の丸さを感覚的に捉えることが難しいのと同じようにこの付近にすむ小動物がいたとしても、彼らはこの放物線の曲がり方を感覚的に知ることは出来ず、曲線のこの部分を直線だと思い込んでいるに違いないだろう。

電子顕微鏡は200万倍以上は拡大できないが、数学の思考の顕微鏡の拡大倍率は無限大である。

ところが、どの顕微鏡もであるが、倍率を大きくするとそれに連れて見える部分、視野の方はせまくなっていく。

なので微分は、倍率が無限大で視野は無限小の思考の顕微鏡と言える。

ヨハン・ベルヌーイはこの事実を次のように定式化している「すべての曲線は、無限に小さい直線を無限個集めたものである」

代数学では、この定式はどの曲線にもあてはまっているそうだ。

接線とは?

さて、この顕微鏡を式関数f(x)=x2に移し替えてみる。

まずは10倍から x=1の点から0.1だけ右へ動いた時の曲線だ。

このとき、xの増加分0.1に対するf(x)の増加分は(1+0.1)2-1。

その傾きは(1+0.1)2-1/0.1=2.1 次に100倍にしてみるとxが1から0.01だけ右へ動いた時の曲線なので、f(x)の増加分は(1+0.01)2-1。

その傾きは(1+0.1)2-1/0.01=2.01

このようにして、1000倍、10000倍....と倍率を増やしていくと、傾きは2.1、2.01、2.001....となっていって、次第に2に近寄ることがわかる。

つまり、無限大の倍率をもった顕微鏡でのぞくとこの放物線の一部分は傾きが2の直線に近づくことが分かる。

これを今度、文字にして一定の式をつくると x=aで、xがhだけ増加すると、yはf(a)からf(a+h)に変化するからf(a+h)-f(a)だけ変化したことになる。

その増加の比率は、f(a+h)-f(a)/h=2a+hここでhを次第に0に近づけると、この値は2aに近づく。

このように曲線上の2点を通る直線を引いてその2点を近づけていくとその直線が一定の直線に近づくとき、その直線を曲線の接戦と名付けた。

つまり、曲線の無限小の部分は直線となり、その直線を限りなく延長したのが接戦ということである。

積分

足す・引く。

かける・割る。

演算は逆演算を持つ時、その逆演算を組み合わせれば強力となるが、微分の逆演算は「積分」と呼ぶ。

微分は細かく分解することであるが、分解することの逆の操作は「つなぎ合わせる」ことである。

いちど細分したものを繋ぎ合わせる計算の簡単な実例はおそらく多角形の面積の計算である、それぞれの面積に分けて、最後にそれを繋ぎ合わせて全体の面積を出す。

ここではたしかに「分けること」と「繋ぎ合わせること」つまり、分析と総合の方法が使われる。

これだけなら、まだ「積分」の世界には突入しにくいので、次は曲線で囲まれた図形で考えてみよう。

曲線で囲まれた図形ならば、三角形や長方形に分けることができない。

しかし、いくらかの食い違いは問題に竹刀とすれば、それに近い多角形はつくることはできる。

江戸時代の数学者は円を細長い長方形に分けて面積を計算した。

ところが、問題は長方形に分けた時の切れはし。

この切れ端の部分を小さくして面積の本当の値に近づいていくには、できるだけ細長い長方形に分けていかなければならなかった。

しかし、細かく分ければ分けるほどつなぎ合わせる計算は面倒になるが、正しい値を求めるためにはそれもやむを得なかった。

このように分析と総合という逆の演算を極端に無限にまで推し進めることによって曲線の面積を求められることがわかる。

これで何をいいたいかというと教科書でもご覧の通りだが、積分とは繋ぎ合わせであり、積分という演算は、例題としてはよく、面積にかけ合わせに使われることがわかるであろう。

◆ここにがポイント!◆
積分微分の逆演算で「繋ぎ合わせる」こと

代数学になって「関数」が創造された理由:「無限」

変化や運動を科学のなかにもちこんだガリレオデカルトの功績は偉大であったが、その反面において変化や運動そのものが新しい困難を持ち込んだことになる。

その困難というのは「無限」という怪物である。一直線上を点xが動いてaからbまで移ったとする。

このときxは有限の時間内にa,bの間にある無限に多くの点を通過したことになる。つまり、線分abの長さは有限であるが、その間には無限の点が詰まっている。

このようにおよそ運動というものが起きる限り、無限という怪物をそっとして眠らせることができなくなった。

古代ギリシア人はそのことをよく理解しており、ゼノン(紀元前5世紀ごろ)はそれを逆説の形に言い表している。

「駆け足の選手アキレスがカメに追い付こうとしては知っている。カメの出発点にアキレスが来た時、カメは先へ少し動いているさらにその位置までアキレスが来た時、カメはまた少し先まで動いている。

こう考えると、アキレスは永久にカメに追い付けないはずである」

横に時間を取り、たてに距離を取る。アキレスもカメも等速度で走っているとするといつまでも終わりになることはない。

無限という怪物を目覚めさせるとどんなに厄介なことが持ち上がるか、警告されていた。

ユークリッドが『原論』を組み立てた時もそうした警戒心を持っていたらしく、彼は図形を動かすことをできるだけ避けようとしたらしい。

何故なら運動は必然的に無限の問題を伴っているかであった。

実際、動的数学の解禁によって、関数だけでなく、対数、ベクトル、数列、微分積分学などといったジャンルが拡大されている。

それほどこの「無限」という怪物は警戒されていた。

同時に、数学も「静」と「動」で大きくわけることで体系的に数学の在り方を納得することになるでしょう

まとめ

数学の醍醐味というのは、この理論的な原理にあります。計算テクニックの暗記だけだと、単なる意味の分からない計算ゲーム面白くないですし、ちょっと応用問題になると解けなくなってしまうんですよね

ところで、なんで数学の記事やってるんですか?真面目なんですか?

数学偏差値トップクラスの人たちの「数学のコツ」って何なんだろうなって単純に興味がありました。あと、これほど、論理的な哲学もないので、学問として面白いですね。「面白いからやる、きついことはやらない」それだけのことなのさ

なんで名言っぽくしてるんですか

しかし、旭川の某高校時代に、何もやってないのに、機嫌が悪いからと当時の数学の教師、首掴まれて平手7発くらってからは、受験勉強系の学問に嫌悪感満載なので、これ以上はやらなくていいかなと思ってます。

トラウマですね

今もニコニコ教えてますよ。本気で死ねばいいと思ってますけどね

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