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剣道はどうあるべきか???現代剣道人への警鐘【剣道の歴史】

道家の皆さん、こんにちは、さっちゃ~んです。

高段者の皆様、剣道の指導するに当たって間違った剣道観を伝えたりしてないでしょうか?

勿論、剣道指導要綱だったり、講習会だったりで学んだりするわけですけれども、

それ以上のことをちゃんと調べられているでしょうか。

指導の際「怒る」というのは、自分が無能であることを引け散らかしているの同じです。

主に高校の教員・顧問の体罰による生徒の自殺を揉み消すなど剣道の事件がネットで流れる度に、情けなく感じますし、

国民体育大会も毎年地元が優勝する度に情けなく感じます。

今一度、「剣道」とは何なんのか振り返って「剣道」そのものに本当に価値があるのかどうなのか?

それで、いいものだったらそれを子供たちや後世にちゃんと伝えられるのかっていうのは考え直して頂きたいなと思います。

日本刀の特徴とは?刀が分かれば剣道がわかる

日本刀のことを一般に「刀剣」と呼びます。

しかし、日本では「刀」と「剣」は本来用途が異なりました。

刃を振りかぶって、その勢いを持って振り下ろし、対象物を立ち切ることに主眼を置いたのが「刀」であり「剣」は突き刺すことを目的としていました。

日本人は全体として太古の昔より、民族の習性、癖からか、もっぱら「刀」を得意としてきました。

この「刀」、世界の基準が両刃の直刀なのに、日本刀はいつしか片刃でわん刀(反りのある刀)となりました。

欧米諸国の人や中国の人は、突いたり蹴ったりする動作が多いです。スポーツでいえば、ボクシングや中国拳法でしょう。日本人は、歴史的に突くよりも、手を振り下ろす、振り払うなどの動作、拳を固めないで叩く→ぶつ動作の方が得意な民族であるようでした。

剣道も、打突をポイントとしてはいますが、その根底に「斬」が想定されています。

この片刃の武器を両手でもって、一刀両断に斬るものは日本刀以外にありません。

世界の基準は片手に剣、もう片手に自身を守る楯を装備しますが、日本にはこの流派が存在しないのは不思議ですね。

西洋のフェンシングのように片手だけで突っかかるような戦法も日本の武術には存在しませんでした。

日本人は刀剣を単なる武器としてのみ扱わず、神秘的な霊の宿るもの、さらには信仰の対象としてもあがめてきました。

神話の時代から歴史の世界に入っても日本人は刀剣に神仏をみていました。その証拠としては歴代天皇が受け継いだ三種の神器に「草薙剣」があります。

復古刀~新々刀の巨匠である水心子正秀は、『刀剣弁疑』、現代刀工にとって最も重要視されている『剣工秘伝志』、『刀剣武用論』など多くの著述しています。

内容も共通しているところがありますが、多くの著書の中から、『刀剣実用論』の内容を取り上げると、

武家にとって大小、すなわち刀と脇差は身を護り、家を治め、ひいては国を治める貴い(とうとい)武器に他ならない、といっています。

禽獣に牙あり、角あり、刀剣は武士の護身の道具で会ってその牙や角に相当するものである、とも述べられています。

このような考えを元に水心子は、日本刀に対して純粋に実用性、武用制を希求するべきであると主張しますが 具体的には「折れず、曲がらず、よく切れる」の3つの要件が求められるとしたのが刀の「本意」であると述べています。

この三要件を総称して「刃味(じんみ)」ということばを用い、それは「刀の魂」であるといい、反り・かっこう・釣合(体配または姿のこと)といった「刀の身体」に相当する要素を顧慮した刀であれば、武用の上では十分である、とも言っています。

折れないことが第一条件

折れないためには素材の鉄(鋼)が軟らかくある必要がありますが、軟らかいと曲がりやすいし、切れ味も鈍ってしまいます。

折れないために、柔らかくするとよく切れない。

この矛盾を克服するために、独特な鍛錬法を開発しています。

「刀は強く戦つて折るるより曲る位が宜く候」 この水心子の文言から、日本刀の切れ味のよさの程度を語っています。

日本刀は元来は渾身の力をもって「たたき斬る」武器で、その点では鎌や庖丁より斧や鉈に近いです。

少なくとも真剣勝負においてはそのように使用されるのが日本刀すので、鎌・包丁あるいは剃刀のような鋭利な切れ味は二の次とされるもので、あまりに刃が研ぎ澄まされていると、かえって刃毀れのためにただちに役に立たなくなることも想定されて危険この上ないわけです。

刃毀れは仕方がないにしても、折れるのは困ります。

折れてしまっては戦闘を続けるわけにはいけないので、刀が折れることは致命的な一大事でした。

そして、刀は打ち折れやすいものであるということは著述に多く記されています。

また、日本刀は寒さに弱く、 他にも斧や鉈の類も極寒の早朝には用心しないと損傷するそうです。

日本刀は「平」とも称している鎬面、棟の部分においては、ガラスのように脆く折れるようになっています。

刀が折れた実例の多くはその弱点への衝撃によって折れたことが想像され、堅固に作られた木刀による打ちを平・棟に喰った刀が脆くも折れてしまった例も数多く伝えらています。

なので、斬り合いにおいて「平打ち」「棟打ち」は厳に忌むところですが、凡庸の遣い手が意に反して平打ちしてしまうことはよくあったに違いないです。

暴れん坊将軍の峰打ちなんかは自殺行為にひとしいものとして知らねばなりません。

特に「棟打ち」する刀がガラスのように脆く折れるので絶対にやってはいけません。

ただ、水心子は、折れることに対しては細心の注意をしなければならないのは当然にしても、強い平打でわずかに曲がる位のものはゆるすべきであるとも述べています。

ここで一旦、現代剣道に顧みてみましょう。

真剣の操法、剣の理法を修練するのが剣道の定義になっておりますが、「試合剣道」のことは全く考えずに「理合剣道」のことを考えてみます。

まず、刀は「たたき斬る」武器であることから上から下に振る動作、刃筋がみてとれます。

打突部位にしても、面の優先度が高く、胴・突きの優先度が下がるのも伺えますね。

刀の特性を理解すれば竹刀のつるが必ず上向きにしなきゃいけない理由が棟打ちは刀が折れるからとわかりますし、「たたき斬る」武器だとわかれば素振りの意味合いもなんとなく想像できます。

平打ちも、絶対ダメというわけではないですが、なるべく避けたいので最強の刃物である日本刀を使う場合において日本刀の刃に対して「返し技」を使うというのも、刃が折れやすくなるので、なるべく避けたいというのも想像できるはずですし、技をださないで守る・受けるというのも同様ですね。

戦国時代。刀は合戦に不要だったのか?

戦国時代は槍と鉄砲による集団性を旨としていました。

甲冑(南蛮具足)の共通点を上げると、一つには、多くが胴を右脇で引き合わせにする式の従来の胴丸を継承している点で、しかも鉄板を多用するようになったことです。

また、小道足(装具)を共づくりして具備しているのもポイントで身体をすっぽり覆う作りとなっています。

こうした様式は、戦国時代の主要な武器となった 「槍」、さらには鉄砲の攻撃に即応するためになったものです。

甲冑は太刀による斬撃に対してはすこぶる強く、表面にとどまっていて裏まで達していないものが数多くあります。

しかし、槍や銃丸、弓矢など一点に大きな力が集中する平気には弱い面があり、兵器の貫通した甲冑が多く伝存しています。

槍術は、戦場にのみ活用される武芸であることから、屋内での末技にとらわれる稽古は役に立ちません。 長刀も同じく戦場の道具でありますが、槍は先制攻撃向き、長刀は後手に回る性質があります。 槍も長刀も、狭い場所では利点が少ないです。

鎌倉時代の末期に生まれ、集団的に用いて馬の胸や腹を攻撃し、騎馬武者を落とす戦法があったとされています。 室町時代前期には雑兵を一隊として隙間なく槍を立てる「槍衾(やりぶすま)」の戦形を旨とするのが槍組でした。

その柄は時と共に長くなり、戦国時代の末期には柄の長さ約4.5~5.5メートルの長柄の槍が一般的に用いられるようになりました。 一方、上級の武士が使用することになった槍は九尺(2.7メートル)足らずの柄が付いている素槍が標準とされました。

この穂に横刃をつけた鎌槍・鍵をつけた鍵槍なども出現します。

槍組が組織されて発達した集団戦法を、さらに規律と統率を持って綿密にすることになったのは、鉄砲という火器が戦争で使用されることになったからです。

鉄砲:

日本に渡来した鉄砲は先込め式の火縄銃で玉をこめるのに10~15分ほどかかります。 また、導火線がぬれると役に立たないため、雨に弱いです。 したがって、籠城戦においては最高の武器です。 野戦でも戦闘がはじまらぬ以前にはその効力を発揮します。

弓矢:

槍組、そのほかの諸隊と連繋して、軍勢の初動を容易にします。 敵との距離が約36メートル以上では不十分な武器です。 実際、戦国時代では白兵戦は少なく、弓矢による直撃で死亡するケースが基本でした。

刀: 戦国時代の合戦では、刀による死亡ケースがほとんどなかったといわれています。

では、刀って使われないように思われますが、平時でも、いかなる状況のもとでも役に立つのが特徴です。

平時における不慮の襲撃から身を護るための居合「抜き切り」、槍と違い屋内でも使用可能、合戦においては首とり、時として一騎打ちに使用されました。

戦国時代の合戦では、打物の中では槍が一番有効な武器として活用されましたが、刀の臨機応変な活用が可能であることから、武術は刀の操法、すなわち剣術を主体として、槍・長刀・棒・杖、柔などの武術を包含していることから発展しました。

剣道の誕生

1686年に著された『夕雲流剣術書』では、「当世より百年ばかり以前は兵法さのみ世間にはやらず」とあります。

戦国時代では「武士安座する暇なく」「習うべき隙もなく、もし、また、たまたま習うても、戦場其外真実の場所の働きの及ては、我に習いを以て勝利を得難く」とされています。

しかし、「近代(ここ最近という意味なので著された1686年付近のこと)八、九十年このかた」「互いの了簡(とりはからい)をあわせ勝理の多く負るの理少なき方を詮議(評議し明らかにすること)し勤習し」、「隙ありの浪人等朝夕工夫鍛錬し」兵法がはやるようになったとされています。

中村敏雄は、西山松之助の「慶重5年(1600年)の関ケ原の戦いにあたって伊勢の津城を攻めた吉川軍は、75名の戦死者と227名の負傷者を出し、その負傷は鉄砲きづ141、槍71、矢37か所」などの研究から当時の戦闘において刀傷が圧倒的に少ないことを指摘しています。

さらに中村は「戦国末期以降の戦場においては、剣術が有効性を発揮することはあまりなく、その死傷率はつぶて以下」であり、「剣術は多数と多数の争い合う戦場よりは一人対一人の闘争場面においてのみ有効性をもちえたのではないか」と述べています。

1606年に80歳で死んだ兵法者・柳生石舟斉宗厳が60歳余りで読んだとされる膨大な道歌には、兵法剣術の実用性について次のように歌われています。

「かくれがと たのむはよしや 兵法の あらそひごとは むようなりけり」

→隠れ家と たのむはよしや 兵法の 争いごとは 無用成りけり
「兵法はうかまぬ石の ふねなれど すきのみちには すてられませず」
→兵法は 浮かまぬ石の 舟なれど 好きの道には 捨てられもせず
「いのちとて おもきたからを 持人の 兵法をして 蔵にせよかし」
→命という重い宝を持つ人が兵法を修業して、心の蔵にしたら良いものを
ここには、剣の技が、戦場での実用性を失いながらも、自分の命を守る「隠れ家」であり、「好きの道」であり、なお「命の蔵」とされており、なにものかの文化意思を孕んでいることが推測できます。
宗厳の子である柳生宗は、1646年76歳で死亡しますが、その著作『兵法家伝書』では
「表裏(表と裏。外面と内実とで違いがあること)は兵法の根本なり、いつわりを以て真を得るなり、真実を討ちにかくして外にはかりごとをなすも終に真実の道に引き入る時は偽皆真実になるなり」などの政治的治世を剣の思想としています。
また「大軍を引きて合戦して勝と立相(たちあい)の兵法とかわるべからず」という軍略的支配の剣道論でもありました。
そこでは手字・手裏剣にみられるように相手の出方、機を予測し対応することが大事であり、「一人の悪をころして万人をいかすはかりごと」としての活人剣・殺人刀の思想を展開しています。
これらの記述から、
剣の技は火器の出現を伴う戦乱を経て誕生し発展しますが、次第に戦場的実用から離れていき、剣の技の追及とともにある時は政治的に、ある時は戦略的に、さらに独自の実用としての剣の技と思想を確立していったことがうかがえます。
剣の道を極めることは、合戦においても使えるし、兵法の根本的な考え方も習得することができる。
さらに、剣の技が、戦場での実用性を失いながらも、自分の命を守る「隠れ家」であり、「好きの道」であり、なお「命の蔵」という文化思想・も記しています。
また、相手の出方、機を予測し対応することが大事であり、「一人の悪をころして万人をいかすはかりごと」としての活人剣・殺人刀の思想。
他の流派の影響もあるかもしれませんが、ざっくりというのならば、柳生新陰流が、現代の剣道の理念の元となっているといっていいでしょう。
当時の事情としては、江戸時代になり、平安の世になってからあらゆる武士の流派はなくなっていった中で、柳生新陰流は「剣の道は心の道」でもあるという展開が当時の農民たちに受けて、生き残ったといわれています。
1645年宮本武蔵によって書かれたとされる『五輪書』では、また違う考え方を持っています。
「六十数度の勝負けつすといえども、勝利を得ざるという事なし」という体験のもと「その後もなおも深き道理を得んと朝鍛夕鍛してみれば、をのずから兵法の道にあう事、我五十歳の比なり.......兵法の理にまかせて諸芸諸能の道となせば、万事において我に師匠なし、今、此の書を作るといえども仏法儒法の古語をもからず、軍談軍法もからず」と記されました。
それゆえ武蔵の実用主義的立場からみると、当時の道場剣道は「色をかざり、花をさかせて術とてらい」と批評されるモノでした。
ちなみに、1対1の決闘で60連勝している剣豪は歴史上宮本武蔵のみであり、剣の実用性をもっとも体現している人物が晩年に発行した書籍が『五輪書』なので、この『五輪書』を剣道では絶対無視できません。
宮本武蔵は人間形成に置いての部分については「修練し続けたけど結局わからない」と記しているためか、現代の剣道の理念に関しては柳生新陰流の影響が大きいことが伺えます。
こうした真剣の技と思想を基礎として、中村敏雄が述べるように「わが国独特の『稽古の思想』が江戸初期以降の平和が保たれ、士農工商の階級制度が確立して道場経営が可能になった時代になって生まれ」ます。
そのことは剣道にあっては「一対一の個人戦では常時携えている大小をまず役立てねばならないのだから、封建の制が続く限り、剣技の習得は武士にとって第一のつとめ」となるのでした。
『夕雲流剣術書』・柳生石舟斉宗厳が60歳余りで読んだとされる膨大な道歌・『兵法家伝書』・『五輪書』が現代の剣道の礎となっております。

主な剣術

神道
天真正伝香取神道流が発祥。
下総香取の地(現在の千葉県辺り)で守られてきた剣術の源流で、約600年前にに生み出され今日までほぼ完全な形で伝えられてる奇跡の剣術です。
開祖は飯篠長威斎(1387年)で、新陰流の開祖、天然理心流、槍の宝蔵院流、薩摩の示現流などの源となっています。
「受ける間があったら斬り、必ず敵を倒せ」が鉄則ですが、 「形」がどれも1本が非常に長く、縦横無尽に素早く身体をさばきながら、しきりに木刀を激しく打ち合わせます。持久力と瞬発力を養う意図があるのはわかりますが、肝心の決め技がなく、鉄則に反しているのではないかと思われます。
しかし、これは「形」を見たものにそう思い込ませる工夫が施されています。
というのも、他流の者に見られても技が盗まれないように、形の中に決め技が隠されいて、本来ならば決め技が出る所でわざと木刀を打ち合わせ、次の技に移ってしまうようにされているわけです。
そして、通常は隠されている決め技をあらわにして行う稽古「崩し」が同門でさえ見ることも許されなかったぐらい極秘で行われ、「形」→「崩し」を行うことで完結します。
また、特徴としては「平和の伝統」で、香取神道流の門弟で争いの巻き込まれて命を落としたりするものは600年間でほとんど出ていないといわれています。
開祖も102歳と長寿をまっとうした者が多く、これは『太刀を抜かず人に勝つことが神道流の建立なり』という教えが厳しく守られてきた証ともいえます。

いざという時の備えである兵法をみだりに用いることを戒め、戦わずして勝つことを最も尊ぶ考え方が随所にみられます。

新陰流
柳生新陰流を創始したのは上州上泉出身の武芸者、上泉伊勢守秀綱です。
上泉は、新当流、念流、陰流を学んで大成してきました。
「中古、念流、新当流、陰流、その他諸流の奥義を究め、陰流において別に奇妙を抽出して、新陰流を号す」 陰流から得た奇妙とは「転(まぼろし)」であるといいます。新陰の伝書には転について「懸待表裏は一隅を守らず、敵に随って変転して、一重の手段を施すこと、あたかも風をみて帆を使い、兎をみて鷹を放つがごとし。
懸をもって懸となし、待をもって待となすは常のことなり。懸は意、待にあり。待は意、懸にあり」と書かれています。
懸とは攻撃で、待とは受けを指すと考えられています。
これらは別々に考えるのではなく、常に表裏一体として転がる丸い球のように状況に応じて変化し、自在に応じて勝つ。この理を伝えるのが、新陰流であるといいます。
転の理合を学ぶために段階的な製法(形)が編まれています。
新陰流では「形」を「勢法」といい、構えは「位」と呼んでいます。
位、製法は一つの形にとどまらず、常に相手との相対的な状況の中で変化することを意味しており、形や構えに頼らない剣を教えています。
その基本は、太刀をげえ段に下げた「無形の位」であるといいます。
流転する位と勢法を遣い、転の理に従い敵を充分に働かせて勝つ。これを「活人剣」と呼びます。
逆に敵の動きを押し殺し、敵を封じて勝つ剣を「殺人刀」といい、明確に区別されます。
新陰流では、敵の動きにリアルタイムで反応し、動かない敵には攻撃を誘い、技を出させた上で勝つことを教えています。
具体的な技では「十文字勝」と「合撃(がっち)」に注目すると、十文字勝とは、相手の太刀筋に従って自分の人中路(中心線)を切り下ろすことで、剣は十字にあって相手の剣を切り落とす技をいいます。
合撃は真っすぐに切ってきたとき、少し遅れて人中路を切り下ろし、相手の太刀に乗って勝つもの。新陰流の勢法では、さまざまな状況に対して十文字勝と合撃を行い、勝つ理を教えています。
小野派一刀流

現代剣道では、直線的な攻撃が尊ばれています。

基本技も、正眼の構えで相手の中心を攻めて崩し、そこからまっすぐに放つ小面打ちです。

曲線的な体移動などで相手の死角に回り込んでの攻撃はあまり良しとされていません。

その理由としては現代剣道の誕生にもっとも深くかかわった一刀流からの遺伝子にあるとみています。

小野派の基本にして極意である「切落し」と呼ばれる究極の直線技、敵が一瞬先に切りかかりながらもその刀は我に届かずに落ち、逆に我は敵を真っ向から斬り下ろすという幻術のような技です。

切り落しの大事な部分はこの精妙な刀の操作もさることながら、相打ちの覚悟で死地に飛び込むことであるといいます。

開祖の伊藤一刀斎景久は、鐘捲自斎に就いて中条流の小太刀と、鐘捲流の中太刀を学び奥義を極めるとともに、白刃が殺到する死地に何度も身を投じ、その中から文字通りしのぎを削って死中に活を求める「身を捨ててこそ浮かぶ瀬」を見出したといいます。

一刀斎は生涯士官することなく、流浪の中で日々を送り、流儀を弟子の小野次郎右衛門忠明に継がせると姿を消し二度と再び世上に現れることはなかったといいます。

二天一流(円明流)
宮本武蔵が、その晩年に細川藩に伝えた剣で、『五輪書』がベースの剣術です。
ただ『五輪書』でも「武士はは二刀を腰に帯びているのだから、いつでも二刀を使えなければならない」と言ってはいますが、「必ず二刀で戦え」とまでは行っていません。臨機応変、その場その状況で得物を選ばず、最善の手段で敵に勝つことを教えています。
一刀を用いる太刀勢法の一本目に『指先(さっせん)』という技があります。
天二一流で、最初に学ぶ勢法です。
ここでは、ただ自然体に立って敵に向かい、敵の攻撃と共に半身に捌いて剣を突き出す。
ただ一つの単純な動作で敵に勝つことを教えています。
しかし、それは只ことではない胆力と一瞬で攻防を行う技量を求められる技でもあります。
剣を持って向かう相手に、剣を構えることもせず、自然体で立つだけで相当な恐怖心を感じる。
そのまま相手が切りかかるのを待ち、剣を切り下ろす瞬間に、身体を半身に開いて剣を喉に突きこむ。
動くのが早ければ避けられてしまいますし、遅ければ斬られるのはこちらです。
相手が動き出す先を捉えて、一瞬早くこちらが動く。「相手の機前の気を捉えて動く」と教えられる要訣は二天一流の極意です。
「敵が動いている間は、逃げることもかわすこともできません。
攻撃中こそが最大の隙といえます。その隙に乗じて勝ちを得るのが当流の教えです」と言います。
いわゆる「先々の先」に通じる技で、相手が「打とう」と考え動き出す前に、こちらは攻撃を察して動かねばなりません。
二天一流の構えは中段から攻撃に入ることはあまりになく打太刀は八相の構えから切りかかることが多いです。
中段は他の構えに移行するときにとられることが多いです。
無構は、宮本武蔵画像にもあるとおり修行を重ねた暁には何事も感じさせないゆったりとした構えになるといいます。
両手首をだらりと下げるわけではなく、何時敵が斬りにかかってきても対応できるように、手首が生きてなくてはなりません。
代表的な技「指先」には子の構えからまさに一瞬で敵の喉を貫きます。

竹刀剣道の誕生

今日使われているような竹刀と道具が考案されたのは江戸時代の中頃でした。
宝暦年間(1751~63年)、組織的に訓練を始めたのは一刀流の中西忠蔵の一門です。
木刀だけの稽古では、強く本気の撃ち合いができないので、技は弱くなり、気合がどうの、禅の言葉や境地がどうのと、剣の実力ではなく観念や理屈が多くなり口達者になってしまうばかりだと考え、中西は業が弱くて理屈ばかりとなってしまうと形の世界を批判し、竹刀と道具による方法を擁護していました。
同時に、相手から痛みを感ずるほど強く打たれないと自分がやられたと思わない者が多く、そんな心得ではかすってさえも斬れる刀による実践には役に立たないことも知っていました。
そのため、中西は、相手から打たれ田場合は軽くてもやられたと思い、自分が打った場合は十分に強く打ち、木刀で稽古している気持ちで練習すべきだという気持ちの持ち方を弟子たちに強調していました。
しかし、江戸時代の中頃の時代、剣術の指導は師匠から弟子への「一対一」郷愁に酔っていたが、弟子・受講者の増大によりこれまでの教授方法では需要に間に合わなくなり、稽古をしたとしても教えが行き届かない有様となり、集団的阻止的訓練を求められるようになりました。
そうしたこともありますし、当時の庶民向けに発行された『剣術論(あくまでも命を守るという動機とそれによって孝道を貫こうとする実用主義的なもの)』の影響もあって、自分は打たれず、相手を打とう打とうとして、日々大汗をながすものが多いといわれるほどの状況を生み出していきました。
この竹刀打ち込み稽古は他流派をも圧倒し木刀による「形」の稽古から完全に一人立ちし、実践・実用から離れていきました。
幕末に開祖された剣術 神道無念流 下野南部に伝わっていた新神陰一円流を学んだ福井兵右衛門が1735年頃に新たに興しました。
「無念の境地で神旨を受けた」ことに由来するといわれています。
相手に対して左斜め前、あるいは右斜め前に身体をさばいて攻撃をかわすと同時に、わずかな角度差で生じた隙に打ち込むことです。
明治期に同流の道統を継いで現代剣道の成立に貢献した根岸信五郎は「三寸横に動けば相手は隙だらけ」と門弟に指導していたといいます。
天然理心流 多摩地域を活動拠点とし、小手先の技に頼らず器用さ以上に精神的強さを重んじる「力と根」の流派です。
命を懸けた真剣での立会こそ剣理の実戦であるとする、剛毅木訥な剣法です。
常に相打ち覚悟で挑み、敵の力が尽きるまで何度でも切り結び、気迫を絶やすことなく肉迫し、敵の闘気が萎えた瞬間、踏み込んで勝負を決します。
こうした太刀さばきは、泥臭い「田舎剣法」と揶揄されもしましたが、実戦性の高さは、やがて新選組の活躍によって証明されることととなりました。
北辰一刀流
小野派と中西派の一刀流を学んだ千葉周作は、両派の難解な教義を会得し易いように簡略化し、68手の技を制定して試合稽古をさらに進歩させ、新たに北辰一刀流を創始しました。
「拳攻め」はそのまま剣道の稽古で応用ができます 「剣先で相手の右拳を鍔元に沿って半円を描くようにしながら、相手に上から乗るような、乗り身の心で攻める。
この繰り返しによって相手の心が委縮して居つく(その場で動けなくなる)ようならこちらから技を仕掛け、無理な攻撃に出てくれば応じて切落とす」相手は拳の攻めの面妖な竹刀の動きに注意を引かれて居つくか、逆にいら立って攻撃してきます。
しかし、おびき出された打ちには医師が通っていないのでブレがあり、冷静にこの瞬間を待ち構えていたこちらに切り落とされてしまうわけです。

試合の誕生

1853年ペリー来航に始まる欧米世界からの外圧と百姓一揆の激化による「よなおし」運動が激化しする中、幕府の戦力強化を図るために講武所が設立されました。
こうした軍事的要求も再び形中心の稽古法への逆行をさせることはできず、講武所の実際の剣術は「仕合」だけで、竹刀の長さを三尺八寸と定めました。
三尺八寸は長い竹刀を使うことをいましめ、適正な長さによる技の修練を意図していました。
竹刀による打ち込み試合は、それまでの師匠の認定や権威による「形」の善し悪しや出来不出来ではなく、自由な打ち合いにより「勝負の理が分明」となり、試合する者同士がその実力を判定できます。
それまで禁止されていた他の流派と試合ができ、競技することが可能となりました。
講武所では、このような試合によって狭い流派の枠組みを超えてわあを交流し、流派の秘密主義を一掃しながら、互いに実力を高めていったものと思われます。
こうしたなかで平等な試合を行うために、共通の約束事や打突部位の確定などが徐々に整っていったと思われます。
この竹刀剣道の普及は、打突の基準をつくりだすことを必然のものとしました
当初は実践を想定し、相手から打たれた場合は軽くてもやられたと思い、自分が打った場合は十分に強く打ち、木刀で稽古をしている気持ちで練習すべきだという気持ちの方の問題でした。しかし、このような自己抑制による思い込みの打突基準は次第に「我打たれまじ、敵をば打たんと志.....是一刀流の名のみにして一刀流にあらず」というように基準を変えることになっていきました。
その結果「業を試みるには面、小手をあて互いに怪我せぬようにして、しなへにて撃ち合う手も勝負の理は分明」となっていきました。
このことは木刀による組太刀の勝敗決着は過程であり、権威の認定によるものですが、それに比較すればある基準に基づきながら互いに自由に撃ち合える可能性を開いたことを意味します。
試合の審判が検証として行われるのは明治になってからの「流行」であったとされますが、この意味で多様な実用的思想から、技の争いを通じて勝敗をみせるという単一の思想に近づき、平等な約束事や審判が必要となり次第に定着してくのでした。

「日本剣道形」の誕生

剣術各流派基本的にその多くが実戦経験から得られた形を、主に木刀を使って繰り返し反復練習することで、いざというときに自在に動けるように身体に技を覚えさせるという稽古法を採っていました。

一刀流の達人として知られた高野佐三郎は、大正4年刊『剣道』のなかで、ともすれば打ち込み稽古と試合稽古ばかりをするようになり、形は忘れられようとしているということを嘆いていますし、戦後剣道の復興に尽力した笹森順造も組太刀で原理を学んだあとに竹刀稽古で活力をつけるべきだと強調しています。

現在でも剣道を学んでいる人間で普段から形の稽古を必ずするという者はおそらく少数派でしょう。

竹刀、防具の発明は、剣術同士の交流を盛んにし、剣術を共通化することに大いに役立ったものの、導入された江戸後期、すでにある意味スポーツ化して真剣勝負の世界から離れてしまう危険をはらんでいたのでした。

流派にとらわれない形の作製は警察において明治19年に「警視庁流撃剣形」十本が制定されたのを嚆矢(こうし)として、その後、剣道を教育に採り入れるため、流派を超えて統一された形の制定の必要を迫られたようです。

そして、明治28年に大日本武徳会が設立されてからは、各流派の技を研究して明治39年に「大日本武徳会剣術形」を発表し、その後明治44年に中学校の正科になるに及んでますます形が必要になり、ときの文部省が動き、武徳会が当時一流の各流派の専門家を選定、委員会を組織し、そして現在の形の原形、「大日本帝国剣道形」が完成しました。

当時の委員には神道無念流中山博道、その師である根岸信五郎、高野佐三郎などそうそうたるメンバーが顔をそろえました。

高野佐三郎、曰く「形、試合、打ち込みをおこなってはじめて完全なる剣道の稽古」だそうです。 剣道の修行は、他のスポーツ、武道と比べてももっとも厳しい部類に入るのに「当てっこ剣道」と揶揄されるようになっては真面目に修行している者がうかばれない。

これを本来の姿に戻すには、競技主義に陥りがちな剣道稽古を本来の「真剣勝負」に根差したものに変えていくものを目指しました。

「昭和50年理念」及び「修行の心構え」

1972年(昭和47年)に施行され、1976(昭和51年)年に改正された財団法人としての寄付行為の目的では、「剣道の普及振興を図り、もって国民の間に剣道精神を涵養し、あわせて国民体位の向上に寄与する」としました。

次第に剣道精神が強調されるようになりますが、精神の内容は明らかになっておりません。

この理念の制定について、1972年に第1回目の会議を開きました。

会議では「戦後の剣道は、刀の観念が薄くなっているのでぜひ」ということで、理念の原点は「刀という言葉」になり全員一致したと言われています。

その後の会議と案文づくりは難航し、

1975年(昭和50年)全剣連「剣道は剣の理法による人間形成の道である」という理念を定めました。

「剣道とは、剣の理法の修練による人間形成の道である」

剣...両刃であり相手も斬れるし自分も斬れる

理...人の力では動かすことはできない物事の当然のすじ道

修練...何度も繰り返し経験を積んで身につけるもの

「人間形成の道」とは?

剣道とは、そもそも、相手をたたき、突き、体当たりしたりするものであり誰かが言いました。

「知のない剣道は、ただの暴力である」と「知」とは?それは、知性であり、教養であり、徳性です。昔で言うところの「礼」や「義」も含まれることでしょう。

柳生宗矩の「兵法家伝書」「不動智神妙録」本武蔵の「五輪の書」これらの書が武士に問いかけたことは、如何にして死を超越して生に至るかという問題であり、それはそのまま武士の日常生活の教育でした。

日常生活は厳格で質素であり、才能を磨き、武術に励み、善悪を知り、一旦緩急があれば藩のために国のために命を捧げることを知っていました。通常の仕事は現代でいうと官僚であり軍人になります。

この理念の趣旨が、1979年の試合規則の改訂に影響を与えることになります。

改訂に手をつけたのは、昭和64年にできた中野二十八を委員長とする技術委員会でした。

しかし、審判規則が否決となって、試合規則もこれと切り離すことができず一括差戻しとなったりそうこうして、

なんと、8年にもわたる規則の改訂作業があったのですが、中野委員長時の技術の問題とは何であったのか、審判規則が否決になったのかは明らかになっておりません。

結果的には理念の制定により理念の側から試合規則の改訂になっていきました。

新たな理念の制定により、戦後の理念であった各自が活動そのものを楽しむという理念でなくなったことを意味します。

それは、組織が目的を制定し、その結果、これを達成する手段としての剣道に剣道がなったこととなります。

この理念の制定には、戦後の剣道の性格や技術問題がありました。

1953(昭和28)年に、剣道のスポーツ化を進めた一人であった中野八十二氏は、「剣道がスポーツとして誕生した以上は、剣道の特質をスポーツの精神とスポーツの条件のもとに生かすように努力しなければならない」と述べています。

ところが10年後の1962年に、同氏は「所謂『足が地についていない』というか、柔・剣道本来のしっかりした足場に立っての発展ではないような気がする」と述懐していました。

剣道の技が勝利至上主義とその結果である勝つための技に変わり「小手先のあてっこ」という状況が進行し、その克服を課題にせざる負えなくなったわけです。

戦後、試合時間を定め、曖昧な有効打突の基準のもとで、協議として展開すれば当然現れる問題でした。

民族的文化を主張し、反・非スポーツ論的傾向に立つ視点は、このような問題を、特に技の問題を勝利主義に毒された試合者の意識や観念の問題として捉えざる負えませんでした。

この理念は、1979年の試合規則改定である「昭和54年規則」は実施され、それから「昭和62年規則」への改訂・変化となっていきました。

・女子の竹刀の重さが規定

・打突部がこれまでは竹刀の全長の三分の一だったものが、刃部の三分の一と短くなり、これまでの中結あたりから上になり、明確になった。

・判定の基準がこれまでは姿勢・態度・反則であったものが、姿勢態度・技能反則となり、幾分技術の評価のウェイトが高くなった。

・打突の部位を図入りで明示したこと

・有効打突では、これまでの表現に加えて「刃筋正しく、打突し、残心があるもの」とし、「鍔ぜりあいからの後の技は特に確実でなければならない」とし、鍔迫り合いからの技がだしやすくなったこと。またこれまでは有効としない者に「見苦しい引き揚げをした場合」があったが、改定では残身あるモノという本文で規定したことにより、これを削除したこと

・場外反則は、原則として区画線から出ることによるとなったこと

・竹刀放し。これまでの竹刀落としに対して竹刀の使用能力にもとづき判定すること

・鍔迫り合い、これまでは注意2回で反則1回であったが、注意のあとは直ちに反則となったこと。

これにより、ある程度合理的改善はみられたものの、そもそもの宿題とされていた「小手先の打突」の技の是正の問題や、剣道らしい態度の回復の問題は依然解決されず、またもや、1995(平成7)年の規則改定にならざる負えませんでした。

1995年では、鍔迫り合いでの膠着状態では、「わかれ」をいれるとか、竹刀の打突部にあいまいな物打ちをいれて結果として打突部を拡大するとか、判定の基準を具体化したとか、開始線を規定し直すなどがされました。

しかし、有効打突そのものの基準や思想性の明確化、そして勝負本数と時間の矛盾関係を検討したものではなく、なによりも剣道の理念を冒頭に入れることによって、かえって規則の性質を曖昧なものにしているでした。

剣道の基礎

真剣と剣道の狭間

井伊直弼を襲撃した水戸浪士の一人である蓮田市五郎は自訴してから記した『憂国筆記』にて 刀をぬきてからは間合いも確かに知らず、目はほの暗く心は夢中なり、試合稽古とは又一段別なり。 こう記しています。 抜刀するや眼前が暗くなり夢でも見ているような心持ちになった彼は、味方の増田金八という者と知らずに戦っていたといいますが、この急襲ではいわゆる同士討ちで疵を追う者が多かったという事です。 また、勇猛をもって知られた武将山中鹿介が、いざ合戦の場におどり込んだ当初は、目の前が真っ暗になるのが常だ、という意味のことを語ったことがある、と物の本に書かれていましたが、斬り合いが当事者に与える恐怖感は壮絶なものだったでしょう。

蓮田は、道場での試合稽古を積み重ねる中で、敵を致す距離、つまり、間合いが非常に重要な修行の技術であることを教えられ、自分なりに体得するところがあったのでしょうが、間合いに限らず道場で学んだ技術はまったく実用性を発揮することができなかったようです。

そもそも、幕末からのことですが、剣道具を身につけて竹刀を持って行う稽古は、面・小手・突き・胴と、打突部位が定められています。

ただし、幕末に大いに盛行した柳剛流などの剣法には脛打ちがあり、明治になってもこれを得意とする剣士が残存していましたが、敵の足を狙うなぞは卑怯で、品格に欠けるといった風潮があって、しだいに脛打ちは行われなくなりました。

一方、斬り合い、真剣勝負はというと、もとより約束された打突部位などというものはありません。

眼・肩・首・足・股間など、斬ったり突いたりして血の噴き出る所ならば不都合は毛頭ないのです。

現に、古武道大会では、ルールに縛られた現代剣道を冷笑するかの如く、様々な打突の部位と、底を攻撃する太刀筋が、伝承されている諸流派によって演武されています。

しかし、何もルール有る無しだけが現代剣道と斬り合いを分かつのではありません。

ひと昔前までの剣道人には、竹刀を真剣、試合を真剣勝負と心得ていた人が大半を占めていたのですが、今はそんな人はいないでしょう。

生死を明らめる道という「覚悟」の有無が、真剣勝負と、私たちが今目にする剣道との決定的な違いと考えるんのです。

納刀が左の理由

 1相手の心臓部(急所)を狙いやすくなるため

2真剣時代は左側通行であるため、刀が相手側に当たらないようにするため 刀は武士の魂であり、刀の鞘がぶつかるのは慣習的にタブーであるため

目付け

常ににらみ合いえば、いいというものではなく、首を動かさず、落とし目、流し目で敵を一挙一動を見逃さないのが「目つき」 血ぶり 人を斬った刀には、血や脂がこびりつくのでこれを振り落とす行為 残心 敵を倒し、血振りを終え、納刀する。

この間から、死体から注意を離すことなく行動すること。

構え:一刀中段の構えの特徴とは

五行の構え:

中段 敵の動きに反応して、次の1歩を踏み入りやすいようにするための構え

また、「正眼」は拳は身体からふた拳分離すため剣道の中段より切っ先がかなり高く感じます。

最も多種多様であり、水月、または中墨の構えといわれることもあります。

送り正眼といって、最初相手の水月を目標にして一歩に保と進むにしたがって喉部より眼に剣先を上げていくものあります。

最初から喉元をつけるあるいは、目をつけるなど、各流の形によって異なり、異なる意味も充分正しい目的のもとに示されて今日に及んでいます。

また間の遠近の違いを生じる結果剣先も移動しますので、一括して中段の剣先のを規定するのは不可能で、一定に統一することは形自体がこれを許さないとしています。

中段の構えは入り易いだけに敵もまた入り易く結局難しい構えとなります。

上段 攻めの構え

敵に威圧感を与え敵の技、心、力を萎縮せしめ、捨て身以外に攻め入る隙を与えぬ堂々たる貫禄のある仕切りの構えを指すもので、名人達人にして初めて把握し得るものというべき構えと中山博道は言っています。

大先輩や師匠に対して

下段 守りの構え

常に、己を守り、相手のいかなる動きにも自由に応じられる構え

足を防ぐ意味で充分定義づけられるといわれています。

八相

自分より先に技を出さないで、相手を監視し、その出方によって攻撃に変わる構え 実践での相手の出方が見えない場合、発想が最良の手段と言われているが、これは打ち込みの速さに自信がなければできない戦法だといいます。

脇構え

自分の武器を相手に知られないように構え、その出方に応じて刀を長く、あるいは短く使えるようにする構え

竹刀の長短について

剣道の戦技化の際に竹刀の長さについて議論がされました。

この時に、竹刀を短くしてもう少し本当に斬れるようにやらせるという考えがありました。

「海軍では一尺、陸軍では一尺一寸です。柄が長いと現在のように柄が長いと、肩や腕の関節を大きく自由に使う練習にはなるけれども、敵を打つのに、てこの理を利用し、軽く素早く打つために真剣では非常に勝手が違い、当たっても切れない。これは竹刀の柄をせいぜい、九寸くらいにして、竹刀の先端が大きく円弧を描いて当たるようにしなければならない」という主張もありました。

しかし、本来竹刀の定寸は三尺八寸です。

その理由は竹刀で練習するには、小手を用いるので、その小手の握り幅は約四寸五分として、これを握り合わせれば、約八寸五分ないし九寸となります。
 刀の柄は、八寸とすれば、左右の小手の間に、間隔の余裕がなく、また縁の寸を余すこともできないから、手の自由が利かなくなります。

そこで、柄の長さを一尺一寸として、三寸だけ刀の柄より長くしたわけです。

しかし、その全体の調和を計るため、切先へ三寸伸ばしたのであって都合刀より全長六寸伸ばした三尺八寸が、すなわち竹刀の定寸となったのです。

かつて幕府講武所にて竹刀制定のとき、小手幅四寸五分と、この寸尺ができたのです。

人には大小があるから、一律に柄の長さを定めるわけにはいかない、各人の体に合致するように、仕立てなければいけないのです。

切り返し

試合勢法:

面、小手、胴の連続打ち。左右の切り返しと受けで前進後退を繰り返し打ちます。

反復稽古で反射的に動く身体を作っていきます。

正式な勢法の稽古に入る前に徹底して行われます。

これにより竹刀の振り、手の内、打つ間合いなどさまざまなことを学びます。

これは単純な組太刀を繰り返し稽古できることから、刀の操作になれない現代の人でも学びやすいという利点がありますが、本来は「三学円之太刀」の方が基礎となりますので、そこで行われるのはやはり懸待表裏を意識した間積もり(間合い)と技の稽古です。

上段から真っすぐ、あるいは左右に袈裟懸けに、互いに剣を切り結びながら前進後退を繰り返す。

時に静かに、時に力強く足を運びながら、相手が打つ間を読み、人中路に合わせて剣を打ち合わせていきます。

日本剣道形

日本剣道形に関して一番詳しく綴られていた「はくどーブログ」がなくなってしまいましたので、ソースがなくなってしまいました。

ここでは非常に簡素に説明し、発見次第更新します。

 

一本目・四本目

三学円之太刀: 試合勢法の方がやりやすいということですが、新陰流の最も基本的な太刀筋です。

相手に応じて勝ちを得る勢法の基本です。

その形の一つである「一刀両断」ではまっすぐ切ってくる相手の剣に合わせるように自分の剣を切りだし、相手の剣を外していきます。

一見相打ちのように見えますが、相手の剣より一瞬遅れて剣を切りだすことで、相手の剣は外れてこちらの剣が当たります。

一歩遅れて切り結ぶのは実は極めて難しい技術です。

切ってくる相手の動きを冷静に捉え、技を信じて剣を出す。

自分が相手を切るのではなく、技が相手を切る。

それが絶対の自信になるまで、形稽古を繰り返していきます。

新陰流は本来無構えである双方下段にまっすぐ剣を垂らした「無形の構え」で礼をします。

打太刀は中段、仕太刀は脇構えで相対し、打太刀が正面を切ってくるので中心線をまっすぐ切り下ろして合撃し、それに乗り勝ちます。

打太刀の剣は外側にはじかれ、仕太刀の剣は中心(人中路)を真っすぐに切り下げ相手の面に吸い込まれるように入ります。

つまり、相手の剣に乗り勝ったわけです。

打太刀は八相の構えになりながら下がる相手に仕太刀は順勢(身体の転換に合わせた袈裟切り)に切り込んで残心をします。

「右旋左転・長短一味」

こちらは相手と呼吸を計りあう連続の技です。

1双方、下段の無形の位を取ります。その後、呼吸を計りながら近づいていきます。

2竹刀の切っ先が触れ合うところでお互いに竹刀を順勢に振り合い、間合いを呼吸を計ります。

3仕太刀はすっと剣先を下げ、呼吸の計りあいを切ります。これに耐えかねた打太刀が攻撃に出ます。

4小手をめがけ順勢に切って下ろす打太刀の剣を、仕太刀は振りかぶって上段に抜いてはずします。

5そのまま一歩前に出て打太刀の面を打ちます。

この形は続きがありますがここでストップします。

さて、ここで柳生新陰流の形の説明を聞いてピンと来ていただきたいのですが、これ「日本剣道形」の「一本目」と「四本目」の原型でございます。

この通り「間合い」「合撃(相手に乗り勝つ)」が「日本剣道形」に組み込まれて、かつ、柳生新陰流の最も基礎の形となる「三学円之太刀」が組み込まれているわけです。

「切り返し」は、この「間合い」と「合撃」をもっとシンプルに誰でもわかりやすいようにするために江戸後期に開発されたものが原型となります。

また宮本武蔵二天一流の二刀勢法でも、同様に空を切った打太刀の剣の上から、仕太刀は二刀をもろとも切り下ろす形があります。

二本目

ソース忘れました。

小手抜き小手の形ではなく、

打太刀が仕太刀に「正中線」という概念があるということを教えるための形です

三本目

中心と打突機会の形

相手の打突の尽きたところ・相手が打突を受けたところ・相手が打とうとするところ・相手が下がろうとするところ

これらの打突機会を全ていなしていくという形で、打突機会を養う形となります。

相手が打とうとするところはわかりずらいですが仕太刀が「トウ!」と言った後、打太刀が下がるところです。本来は打太刀が出ようとしたんですけど、そこを仕太刀がいなす流れとなります。

五本目

応じ技・すりあげ技の形です。

六本目

三殺法「剣を殺す、気を殺す、体を殺す」形です。

七本目

変幻活在の形。いわゆる相手を遣って打てるんだよという形です。

小太刀三本目

北辰一刀流小太刀之形二本目に類似しています。

軽やかつつ大胆な動きで太刀を制する形です。

違う部分としては、北辰一刀流では、左側に大きく出てすれ違い、右腕で打太刀の身体を止めつつ、左手に持ち替えた小太刀で背を貫く終わり方をしています。

鍔迫り合いについて

「最後の武芸者」と呼ばれる中山博道の『日本剣道と西洋剣技』では鍔迫り合いについてこのように書かれています。

一体、この鍔ぜりはどうして起こるのかというと、むろんその原因は複雑であって、簡単にこうなったからだ、といってしまうわけにはゆかないが、要するに両者の術、変化、駆け引き等が咄嗟の間に行われる乱打の刹那、期せずしてあらわれてくる状態であって、その武器が触れても相手を傷つけたり、または倒すような危険のない竹刀であることにも無論その原因を帰することは出来る。そして、真剣勝負においては古来、鍔ぜり合いになった例は皆無といっても過言ではない、という意味のことを述べています。

片手で竹刀をもち相手の横面を打つ剣道の業について。

竹刀の稽古と、剣の本則とは必ずしも並行しないので、武芸家はその武器の特色と運用の方法とを平常から心がけて、万一の用意に備えなければならない。

本場合のような横面の業も竹刀にあって平常に行われて効果のあるものではあるが、刀術にこれを用いても同様かというと決してそうだとは断言しかねる。

いうまでもなく刀術は諸手を用いて初めてその効果を得るのであって、それを片手で行うという事は行っても行い得られないわけでもあるまいが、まず難しい仕事であろう。

→これは宮本武蔵と見解が相違しているが、二刀流・上段の人口が廃れていった要員の一つともいえるだろう。

これからの剣道「竹刀を刀のように扱うこと」への警鐘

「刀のように竹刀を扱うこと」という建前と現実問題の竹刀が一致することは不可能であり、この二重構造が、非常に曖昧なものを生み出しています。

剣道の理念の分析吟味して、規則をより明確化しなければ、剣道の普及は現実問題として厳しいものになっています。

剣道の歴史的の流れをみても、剣道の競技化・普及化に伴って、見苦しさが露呈し、全日本剣道連盟をはじめ多くの剣道指導者や権威者たちは「竹刀は刀である」と繰り返し唱えてきました。

稽古・試合・昇段審査の指導と評価も「竹刀を刀のように扱っているか」という観念的な根拠によって基準化されているが、そのことによって剣士たちの意識と現実の間には、さまざまな齟齬が生じました。

現実問題として、勝負決着の判定や審査における評価基準を武士道のように求めること自体、その基準が抽象化され、意味不明になっている。

剣道を教える側が普及する際にこの問題を説明できなければ、新規獲得が難しくなっています。

現在の剣道の有効打突は「充実した気勢、適正な姿勢をもって、竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるものとする」となっています。

この有効打突の基準、「竹刀の打突部で打突部位を打突」しか素人が見た感じわからず、「刃筋正しく」「充実した気勢」「適正な姿勢」「残身あるもの」は主観的判断による。有効打突には「技の完結性」が大きなポイントとなりそれは「攻め」ー「打突」ー「残心」の一体的な連なりや質のことをさしているがそれは様々であり、試合においてそれを一瞬で判断しなければなりません。

しかし、現実問題として「誤審」だったり観客からすると「今の1本じゃないの?」と、有効打突の基準が高段者しか判断できない、ましてや、高段者さえも意見がわかれたりするなど、各1本の有効打突の基準が明確化されておりません。

特に毎年地元が優勝することが約束されている「国民体育大会」は、試合そのものではなく、地元民の歓声に乗じて審判も一緒に旗をあげる茶番になっていて、「人間形成」もその剣道家としての品格もない恥ずかしい大会となっております。

そんな現状があるにもかかわらず、剣道家の間では「これは仕方がないこと」と解釈する人が大多数です。

何故なら「竹刀は刀のように扱う」のだから。

しかし、こんな曖昧な理由で剣道がこれからも普及されるのでしょうか? 剣道を知らない一般の方からすると「なんかややこしくて取っ付きにくいから近づかないでおこう」となるのは当然でしょう。

道家として今後やるべき有効打突基準の研究とは、

①理念とともに規則を一体的に捉えること、規則への理念の浸透と矛盾を分析すること

②そのうえで打突基準の抽象性の意味を文化的特質として腑分けし、さらに基準としての厳密性や具体性の欠如を補うこと

③この打突基準とその他の規定との整合性や矛盾を吟味検討すること

④腑分けされた特質を評価できる具体的な方法を検討、開発すること 

そのために、この記事においてまず剣道の歴史・刀の特性というのを触り程度ですが紹介してみました。

このような部分は、我々が馴染みのある剣道といえば、剣道なのであるのだが、「剣道を普及する」という観点からすると、剣道をやっていない一般人からみたらどう思うだろうか「剣道とは、専門家しかよくわからんもの」として捉えられいます。

しかし、剣道史において剣道が普及できた要因としては現実として「誰でも打ち合いができる」にあります。

何故、日本剣道連盟は動かない? 元々は「刀」を扱うための「竹刀打ち込み稽古」なのであるから、その伝統を継承していきたいという理念が現時点では保守的になっています。

オリンピック種目となった柔道をみてみると、「柔よく剛を制す」「乾坤一擲」という技の醍醐味がなくなり、重量性やポイント制によって日本の武道の精神性や美しい技が変質させられていきました。

しかし、日本剣道が世界剣道として昇華する道を自ら閉ざしてもよいということにはならず、実際、剣道人口は減り続けている。

少なくとも、剣道を世界に誇りうる普遍的文化として発展させていくためには、世界の人々が理解し、納得できる理念や規則を新たに創り、実践しなければならない。

それで、2020年コロナをきっかけに暫定的な「鍔迫り合い解消ルール」「長時間における試合には休憩を挟む」などが行われ、長時間の鍔迫り合いの状況、試合時間の長時間化は少し改善されました。

しかし、「有効打突の明確化」は全く解消されておりません。

そもそも、「竹刀」は「竹刀」、「刀」は「刀」なんですね。

「刀」には僅かな「反り」がありますし、「刀」は「たたき斬る」ものです。

「竹刀」では勿論「打つ」ことはできますが、「たたき斬る」ことはできません。

どこからどこまで竹刀として扱い、どこまでを刀の観念として扱うのか。

これは、勿論難しい問題なのですが、剣道家の皆さんは、「『竹刀を刀のように扱う』という観念には、それ自体が悪いこととは言わないが、ルールを曖昧にする問題がつきまとう」ということをそれぞれ自覚を持つことが、まず最初の段階なのかなと思います。

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