いままで秘密裏にされていた山蔭神道というものが日本にあります。
これの山蔭神斎第80世の「表博耀」氏の代から、日本の本当に継承されているものを世に伝えようということで、いままで秘密だったことが解放されるようになりました。
古事記・日本書紀が日本最古の書物と呼ばれているのですが、勿論これは嘘で、
漢字ではなく、神代文字で書かれたもっと古い文書に「九鬼文書」というのがあります。
前回、日本はユダヤ人が渡来している、考古学の観点から日本の縄文時代などをやっていきましたが、
今回は、ヤマト建国前の「真実」について、やっていきます。
スヤマト建国以前にあった古代出雲王朝
スサノオとツクヨミ
『九鬼文書』では、記紀の中で初代天皇とされている神武以前にウガヤフキアエズ王朝が73代続いていて、その神代からの系図が克明に記されており、古代出雲王朝の正当性が主張されています。
つまり、ヤマト王朝ができる前、縄文時代にはすでに出雲王朝ができていて、そこでは争いのない平和な連合国が長期にわたって続いていたということです。
この古代出雲王朝ができる遥か以前にスサノオが登場します。
今から1万年以上前、地球が大洪水に見舞われて古代文明の洗い直しが起きたときです。
その大洪水の後に新たな縄文文明が興るわけですが、スサノオはその時に創造神から「大海原を知ろしめせ」との指令を受けて日本から世界に旅立っていきました。
そして、各地で五大文明が興り、その中で最も目を見張る文化文明がメソポタミアのシュメールで、そのシュメール文明を継承したのがインドのドラヴィダ族の子孫が日本に来て古代出雲王朝を築いたのです。
つまり、今から15000~6000年前の縄文人たちが当時の人類の霊的な指導者、すなわち長老民族であり、その古代ヤマトの倭人たちが自然信仰に則した世界最古の調和文明を築いていた、その最古の地球文明を「初国」といいます。
初国の倭人たちは、海を移動する海洋民族であり、スサノオはその長でした。
さらに時代を遡ると、海底に沈んだムーやアトランティスなどの超古代文明があったのでしょう。
古典神道家であった出口王仁三郎は、ムー大陸はイザナミが治めていた太平洋の黄泉島だと述べており、また最近では幻の陸地「スンダランド」説も取りざたされています。
いずれにしても、少なくとも数千年前は今よりも海面が2~3メートルもたかかったことがわかっていて、その頃の縄文人は現在よりも広範な地域で海路を移動していました。
つまり、古代ヤマトの倭人は海の民でした。
10数年前にアフリカを旅立ったホモ・サピエンスが世界中に拡散していった中で、争いを好まない種族たちが太陽の登東へ向かって進み、対馬や沖縄などの南方から、あるいは北方から古代の日本列島に辿り着いて争いのない調和社会を築き、狩猟・採集・漁業の生活を営みながら神々の世界ともつながりあっていたのです。
スサノオは、朝鮮に国を建てて、その子孫が白人根国で栄えて、ノアオシワケノミコトとモーゼとイエスが出たとあり、「四方の海と五の国の主は海神の皇大神」という古神道に伝わる神歌があります。
このことから、スサノオは海神の皇大神として「大海原を知ろしめす」店名を持っていることが分かりますが、その店名をユーラシア大陸において引き継いだのがノアです。
ノアとは白人の祖先であるアーリア人種であり、このアーリア人種がスサノオの子孫として大海原を知ろしめす皇の技を受け継いだのです。
ようするに、大陸移動と大洪水の後に興った世界の主たる文明は、スサノオの子孫であるアーリア人種(白人種)とその末裔、そして非アーリア人種の子孫たちの2つの系統によって築かれたということです。
非アーリア系の民族とは、古代日本から旅立った「月読命」(ツクヨミ)の子孫たちです。
ツクヨミの子孫は、中国北方の遊牧騎馬民族である月氏族となり、その子孫である大月氏がバクトリア地方を統一してクシャーナ王朝を築き、かたや小月氏は西方ギリシャへ入り「ヘレニズム文明」の元を築きます。
また「インダス文明」を生んだ南インドのドラヴィダ族もツクヨミの末裔で、このドラヴィダ族が出雲族のルーツとなります。
さらに、出エジプトのモーゼやイスラエル(カナン)の先住民族であるエブス海洋民族などもドラヴィダ族と同じ非アーリア系(ツクヨミ系)の種族であり、スサノオの末裔である、アーリア、シュメール、エジプト、ユダヤ系白人種に追いやられて縄文時代の日本に入ってきてドラヴィダ族が出雲族となり、エブスは恵比寿となります。
片や、スサノオの系統(末裔)は大洪水の後の大陸において「メソポタミア文明(シュメール文明)」を築きます。
それはユーラシア大陸が浮上後(紀元前3300年頃)で、海洋皇集団は人類史上初の都市文明であるシュメールを開き土着しました、それをシュ(主)メール人といいました。
そのスサノオの子孫であるシュメール人種からやがてノアオシアケノオオカミ(白人種)が生まれました、それがアーリア人です。
彼らはインド=ヨーロッパ語族に属し、白色・鼻高で身長が高いのが特徴です。
イラン高原から始まったアーリア人種は、紀元前3000年頃から中央アジア、アラル海より東西へ別れていきます。
西方のメソポタミアやオリエント世界に進出したアーリア人種の中から、ゾロアスター教の開祖となるザラスシュトラが生まれます。
そして原始アーリア人の宗教の中からアフラマズダーだけが崇拝に値すると主張し、それまでの多神教から「世界は光と闇の闘争である」という善悪二元論の教義を打ち立てます。
そして祭式儀礼の簡素化が始まり、哲学化する宗教論から因果応報、終末論が生まれて、それに伴う救世主論(メシア思想)が生まれます。
ゾロアスター以降あらゆる宗教戦争が勃発
宗教文明による上下種億の分け隔てから移動を余儀なくされたアーリア人は、中央アジアのバクトリア地方からイラン高原のメディアに定住し、アッシリア帝国傘下に自治区をつくり、その後アッシリアを滅ぼしてメディア王国(紀元前715~550年)を樹立します。
そこで、拝火、ばくそう、清浄儀礼を旨としたマゴス神団を創ります。
また、メディア王国の支配下にあったペルシア人にもゾロアスター教が広がるとともに、ザラスシュトラの没後千数百年後の3世紀に入るとアーリア人の民族的な信仰を基本としてゾロアスター教の教典『アヴェスター』が編纂・整備されました。
それにより、鳥葬、毒虫退散、近親婚、牛の生贄などの宗教行為が行われると同時に、ゾロアスター教義の善悪二元論と終末論はユダヤ教着、古代景教(旧約聖書)、キリスト教義(新約聖書)、イスラム教義など他の宗教に多大な影響を及ぼし、宗教戦争は激しさを増していきます。
メディア王国以降、オリエントはメディア、新バビロニア、リュディア、エジプトによる群雄割拠の時代に入り、アケメネス朝(紀元前550~330)、セレウコス朝(紀元前312~63)、アルケサス朝(紀元前247~224年)、サーサーン朝(紀元前226~651年)に至るまでおおよそゾロアスター行こうあらゆる宗教戦争が拡大していきました。
片や、ゾロアスター教の最高神アフラマスダー(太陽神)は密教では大日如来となり、奈良の大仏となって信仰され、平安時代には弘法大師空海が大日如来の化身として不動明王を出現させました。
これこそスサノオの姿そのもの(実相)であり、不動明王が右手に携えている剣はスサノオのアメのムラクモの剣であって、同時にこれは神代の「天国之宝剣」であり、イザナギ、イザナミから受け継いだスサノオの大海原を知ろしめす玉宝剣「アチマリカム」そのものです。
一方、西洋では3世紀のササン朝ペルシアの時代にはイラン人のマニが、ゾロアスター教をもとにキリスト教や仏教の要素を取り入れて24歳で独自の教義を確立します。
マニの両親はユダヤ教、キリスト教グノーシス派、ミトラ教、ゾロアスター、道教などを学んでおり、そのためマニは「10層の天と8層の大地からなる」独自の宇宙観を描いたマニ教義(宇宙図)を確立したのですが、これは東方グノーシス主義とも呼ばれます。
ちなみに、この東方グノーシス主義をもたらしたのはツクヨミの子孫の月氏族です。
その主要な民族にサカ族やソグド人がいて、彼らは砂漠の中で水=オアシスを求めて移動した民族です。
つまり、イラン系遊牧民でもゾロアスター教(拝火教)から水の豊かなオアシス定住民となったことで、そこから東方グノーシス主義としてのマニ教の確立へとつながっていったのです。
紀元前2000年頃にはヴェーダ聖典を成立させてヒンドゥー教(バラモン教)が設立し、天、地、太陽、風、火、など自然崇拝を説いて司祭階級制度をつくり、これが後のカースト階級差別の元となります。
バラモン教というのは、仏教以前のヒンドゥー教に対して西洋の学者が名付けた名前で、一番上の階級である司祭がバラモン(婆羅門)であることからその名がつけられました。
また、古代神話に登場する火の神格「アグニ神」は、天に供物や霊魂を運ぶ装置として護摩を炊くようになり、これが護摩供養の起源です。
ヒンドゥー教の階級制度による人民の苦しみを解き放つべく解放運動を唱えたのが、紀元前6~5世紀に発生したイスラム系ジャイナ教とバラモン教から成る新しい仏教でした。
つまり、釈迦が説いた仏教は「人権解放運動」でもあったわけですが、その当時は新教義であった仏教もやがて5世紀頃には勢力を失い、結果として大乗教義主流となり、古来の民間信仰を継承したヒンドゥー教(自然崇拝多神教)との一体化をはかります。
そうした変化が後の密教教義を生み出して、7世紀には大乗仏教(大宇宙論)の中から「大日経」や「金剛頂経」(密教の二大経典)が成立して、その結果、数多くの仏尊像が出現することになりました。
古代アーリア人の信仰形態を継承したミトラス教義(ミイラ教義)は、本来は甦り、復活、生まれ変わり、不死等の救世主信仰に繋がる要素を有していたものの、紀元前1世紀頃ヘレニズム期にはゾロアスター信仰から離れた信仰形態へと変わっていきました。
その頃にギリシャ信仰と交ざりあい太陽神「ヘリオス」と同化し、さらに1世紀後半には西北インドのクシャーナ朝に伝えられて太陽神「ミイロ」となり、その後仏教に取り入れられてインド、中国を経て日本にも伝わり、聖徳太子の時代に盛んに信仰されました。
とりわけ、西方でのミトラス信仰はローマ帝国に伝播してキリスト教に習合され、後の「マリア信仰」へと繋がると共に、夏至の太陽復活を祝う儀式などは12月25日のキリスト復活祭や降誕祭など、キリスト教義にも影響を及ぼしました。
このようにキリスト教はミトラス教義の影響を色濃く残しており、ミトラス信仰が現在も健在であることはマリア信仰とのつながりによっても確かめることができます。
つまり、ミトラ信仰の東方への流れは、インドや中国を経て浄土信仰が加わり西方を浄土するアモン信仰となると共に、浄土=光明=太陽の信仰形態を形成して弥勒信仰や沖縄のミロク(ミルク)、観音信仰へと繋がりました。
片や西方への流れは、ミトラ=ミイラ信仰がローマ帝国のキリスト教に習合してマリア信仰やキリストの復活を願う復活信仰へとつながったということです。
一神教はイスラエル人によって生まれた
シュメール人の後に出てきたイスラエル・アラブ人たちの始祖は、ヘブライ語で多数の父という意味を持つアブラハムです。
アブラハムはメソポタミアの都市国家ウルで生まれ、母親はシュール人で、ノアの大洪水後、神による人類救済のために選ばれたとされる最初の預言者(スサの王)です。
イスラエル人たちは、アブラハムに率いられ約束の地であるカナンにしばらくとどまっていたのですが、その後飢饉が続いたために、アブラハムの曾孫のヨセフの時代に隣国エジプトに移住します。
そこで最初の頃は優遇されていたものの、やがてエジプト人から差別されるようになり、重労働を強いられるなど奴隷のような扱いを受けたために、耐えきれなくなったイスラエル人たちは紀元前13世紀半ばごろにモーセをリーダーとしてエジプト脱出を試みます。
そして、当時エジプトが多神教から一神教にかわっていったことなども影響して、モーセはヤハウェ(エホバ)による一神教を奉じるとと共に、神との契約としての「十戒」をイスラエル人たちに示しました。
つまり、砂漠の中で虐げられた民によって生まれたのが一神教で、すべてのものに神が宿る自然信仰(汎神論的多神教)の縄文日本にはなかった信仰形態が新たに生み出されたわけです。
これは、罪が重ねられて目的地にたどり着けない人々を「迷いから脱却させるために一神を信じさせた」ということであり、荒ぶる神としてのスサノオの武勇な武者魂を示しています。
こうして、モーセ率いるイスラエル人たちはエジプトからの脱出は成功したものの、シナイ半島で約40年近くも長い間流浪することになります。
その後、アブラハムから14代目のダビデがイスラエル王国を築き(紀元前995年頃)、ダビデの息子ソロモンが国王を継いでエルサレムに神殿を建てたものの、ソロモン王の死後、部族間の抗争によって統一体制が崩れます。
そして、イスラエル10部族がイスラエル王国(北王国)として独立し、南のエルサレムを中心とするユダ王国に分離します(このユダ王国の人々がユダヤ人と呼ばれます)。
しかし、そのイスラエル王国の10部族もアッシリアに滅ぼされて世界中に離散し(BC722年)、またユダ王国の2部族(ユダ族・ベニヤミン族)もバビロン王国(バビロニア)によって攻撃され(BC597年)、エルサレムと第一神殿が破壊されて大半のイスラエル人が捕囚されます(バビロン捕囚)。
このような歴史的経緯から当時のイスラエル人たちが日本にやって来たとする「日ユ同祖論」が取沙汰されるようになったわけですが、日本では「ユダヤ人」として一括りにして呼ばれているもののこれは侮辱表現で、しかも「アシュケナージ」と「スファラディ」では系統(血統)が違います。
アシュケナージはユダヤ教に改宗したヨーロッパ(白人)系で、スファラディはセム族の末裔で非ヨーロッパ系のイスラエル人です。
古代イスラエル人(失われた10部族)が日本にやって来たとされているその第一弾が出エジプト時です。
この時の離散イスラエル人が日本に辿り着いて神武天皇として記紀に記されたという説、あるいは南ユダ王国の崩壊と第10代崇神天皇との関連や、失われた10部族が百済の扶余族から出雲族になったとか、淡路島に辿り着いてソロモンの秘宝(アーク)を四国の剣山に埋めた等々、さまざまな説があります。
いずれにしても、スサノオの霊統を引き継ぐ者たち(子孫)は、長い旅路の果てに先祖の故郷である日の元、太陽の昇る国へと向かい、そこで縄文社会にはなかった新たな文化を日本に持ち込んだのです。
この点について、比較文化的な視点から学術的な論証を行っているのが杣浩二氏です。
杣氏は、失われた10部族が古代日本に渡来したとするイスラエルのシャハン博士の学説に触発されて独自の研究をスタートさせた民間の研究者で敬虔なクリスチャンでもあります。
杣氏は、古代イスラエルと中国、韓国、日本との繋がりを明確に示す根拠の一例として、イスラエル民族のシンボルである「メノラー」が日本の神道儀礼における飾りや冠などの形態に示されていることを確認しています。
メノラーは、荒野に造られたイスラエルの墓所の聖所内を照らす明かりとして神がモーセに命じて造らせたもので、光の源である神自身を表しています。
このイスラエル人にとっての最高のシンボルであるメノラーは、スサノオが伝えた縄文の叡智である「光(神)一元」の原理を表しており、イスラエルのみならず世界各地に同様のメノラーが存在します。
また、杣氏は日本における数多くのイスラエル文化の痕跡についても詳細な調査をしており、その内容がシャハン博士らの学説を裏付けることから、ヘブライ大学から招聘されて当地で講演を行っています。
杣氏は、聖書と日本の関係についても非常に深い考察をされており「元は一つ」との思いから創生神楽の活動にも賛同しています。
古代イスラエル人たちが何波かにわかれて中国や朝鮮半島を経て、日本に渡来し、物部氏、蘇我氏、秦氏などの氏族として日本に同化しているのは確かで、イスラエル文化と日本語や神道(神社)、修験道(山伏)などの風習や生活様式には数多くの共通点があることも周知の事実です。
イスラエル人たちがなぜ最果ての地である日本を目指して約1万キロもの旅路を経てやって来たのかというと、そもそも彼らの祖先であるスサノオの故郷が日本であり、その象徴が太陽の昇る国だったからです。
日の元が五色人にとっての母国であり、世界文明の発祥の地。
この初国を知らしめるのが長老民族であるスサノオの役目であり、そのスタートが縄文日本(ヤマト)だったのです。
縄文人といっても、今の日本列島だけに住んでいたのではなく、当時は今のミクロネシアやポリネシアなどの広範な海洋地域が彼らの活動領域だったので、縄文人=古代ポリネシアの海洋民族といっていいかもしれません。
いずれにしても、長老民族である倭人が大海原を出て世界に渡り、それぞれの地域で文化・文明をはぐくみ、やがてその子孫たちが産卵のために生まれ故郷の川に帰るサケやマスのように自分たちの魂の故郷である日本に戻ってきたわけで、このことは「九鬼文書」の系図にも記されています。
つまり、元は一つ、ユダヤ教もキリスト教もあらゆる宗教の源は日の元・縄文です。
したがって、記・紀神話で「荒ぶる神」として描かれているスサノオやオオクニヌシの出雲王朝も元は高天原・アマテラス系と同根であり、出雲はシュメールーイスラエル文化という海外の果実の種を持ち帰って植え付けるための神との約束の地でもあったのです。
シュメール人と日本人の共通点
シュメール人はいきなりどこからやってきて、その後何処にいったのかも不明にされており、それゆえ宇宙人介入説もあるくらいですが、
シュメールと日本が密接に関係していることは以前から一部の神道関係者には知られており、シュメール人が日本人と同じ黒髪であったこと以外にも多くの共通点があります
・膠着語「てにおは」を使い、シュメール文字は現代日本語と同じ漢字かな混じりと同じ構造を持ち、子音のみならず母音をも記す
・シュメール人は世界で最初に暦を作ったとされているが、縄文土器や遺跡からも二至二分(夏至・冬至・春分・秋分)の暦や方位の認識があった
・シュメールでは、古代日本と同様、神に犠牲(生贄や供物)をささげる供儀文化があった
・シュメールの創世神話は多神崇拝かつ夫婦神で「古事記」の天地の初めの章と酷似
・シュメール王の遺跡などには、日本と同じ「太陽の紋」が用いらられる
・シュメール人は自国を「キエンギ(葦の主の国)」と呼び、これは日本の「豊葦原の瑞穂の国」と同じ意味
現代文明の闇を光に還すのが初国・縄文神道の役目
最近の遺伝学の研究でも、カナダからアメリカ、メキシコ、ペルー、ブラジル、最南端のチリに至るまで、いわゆるアメリカインディアンのDNAが縄文人のミトコンドリアDNAと一致しているように、古代ヤマトの縄文人が世界各地に移動して交配したことはウが太陽の名事実です。
大海原に旅立ったスサノオ一行は、さまざまな地域で混血を繰り返し、
魂のバトンを後任のスサの王に引き継ぎ、灌漑農業、青銅器の加工技術、法や政治制度の整備といった都市文化を築き、数多の戦乱や異民族との軋轢をかいくぐりながらそのバトンを知恵深いユダヤ人たちの手に委ね、何波に分かれて祖先の故郷である日本に辿り着いたのでしょう。
彼らが築いた近代ヨーロッパ文明のベースにはヘレニズムとヘブライズがあるといわれていますが、後者はユダヤ・キリスト教の一神教と啓示解釈を意味します。
その一神教は砂漠で生まれ、唯一絶対なる神との契約に基づくことから「父性の宗教」ともいわれています。
またし西洋思想も理性と啓示が普遍的なテーマですから、西洋はいわば左脳型の母星原理に基づく文明です。
それに対して、四方を海という自然の城壁で守られ、豊かな森の中で命の水を豊富に得ながら様々な種族が平和裏に暮らしていた縄文文明は穏やかな母性型の社会でした。
つまり、神の地合いのもとで調和的に生きていた縄文人がさらなる魂の成長を遂げるべくあえて父性的な白人の根国を治めるために大陸に進出していった、それが歴代のスサノオの宿命だったのです。
「郷に入っては郷に従え」といわれるように、大陸に渡ったスサノオたちは母国っとは全く異なる土地の慣習や風俗にあった行動をとることによって、白人社会の統治者としての役割を果たしていきます。
しかし、光有れば必ず影が生じるように、結果的にそのスサノオの荒ぶる所業によってアマテラスが岩戸に隠れてしまったのもまた事実です。
そこには霊力を持つ女性たちを力づくで支配したり、レイプするなどの残忍な行為を行った男たちもいたでしょう。
とりわけ、物質文明が発展するにしたがって目先の欲に心を奪われ、力こそ正義という価値観が生まれて弱い者が虐げられ、極端な父性社会の弊害が生じた、それが今日の現代社会です。
近代文明の負の遺産は、森や自然を徹底的に破壊し、異民族や先住民を力づくで侵略したり、長い間奴隷制度や女性差別を続けてきたことですが、このような暴力性や秩序社会はスサノオ(男性性)の荒ぶる所業といえるかもしれません。
しかし、それは本来のスサノオのエネルギーの働きではなく、人間としてのエゴです。
人間は創造主の愛によって生まれたものですが、愛があるがゆえにそこに憎しみや妬み、嫉みが生まれ、やがて神の愛を見失ってしまう、すなわち罪穢れが生じてしまうのです。
本来のスサノオの役割は、いのちの源泉である水を守ることで治水や灌漑をしたり、また植樹によって森を保護することで人々の暮らしを豊かにすることです。
それはすべては同じ光から分かれた存在であるという「光一元の原理」に則った大調和の生き方だからです。
実際にそのようなスサノオの働きを見事に果たした王や部族も多かったのですが、中には他者を支配するために人々の崇敬の対象であった太陽神を利用して「我こそが太陽である」と圧制を敷いた権力者もいたのも事実です。
しかし、それは人間であるが故の業(カルマ)です。
ここに物事の二面性があるわけですが、この極端なズレを修正するのも、また長老民族である日本人の役目です。
つまり、闇を光に還すこと、これを古典神道では「光一元の原理」といいます。
光一元とは、すべてのものは光から生じており、闇もまた光の一部だということです。
それゆえ、人類も人種や宗教の違いを超えて皆家族であり、皆平等である。
虹の本質が光であるように、その光が空気中の水滴を介して7色に見えるだけで、色の違いは周波数の違いに過ぎず、人もまた己の役割を果たすことで光の一部として輝きます。
よって、スサノオたちの荒ぶる所業としての力による支配、現代文明のほころびや歪みといった闇も、祓い清めによって光に還す必要があり、それこそが初国・縄文神道の役目です。
長老民族である私たちが闇を光に返さなくて、いったい誰がやるのか
「日本がよなおし・弥勒の世のひな型である」というのはそういう意味なのです。
隠された古代出雲王朝の歴史
最初に日本に戻って来たシュメール系出雲神族の王はクナト(久那戸)大神でした。
クナト大神とは、紀元前2000年頃までインダス文明(メソポタミア文明と交易のあったインド北西部)のクナ国に住んでいたドラヴィダ族(クナ族)の王のことです。
インダス文明を築いたドラヴィダ人は、地母神信仰、水・樹機・生殖器などの自然崇拝、コブラ信仰、ヒンドゥー教に繋がる獣類神(シヴァ神の原型)、巨石・勾玉文化、ヨーガや沐浴の風習など高度な文化をはぐくんでいたと考えられます。
ドラヴィダ人のクナ国は、北方から南下してきたアーリア人の信仰を受けます。
そこで、商人から「大陸の東の海中に住民の少ない温暖な島がある」と聞いていたクナト王は、数千人のドラヴィダ人を従えて北東に向かって移動し、バイカル湖からアムール川を下り、樺太経由で日本に渡って東北から日本海沿いに南下して古代出雲地方(日本海側の高志国=越の国)に辿り着きます。
彼らは八つの支流(八岐大蛇伝説のモデル)に分かれた良質な砂鉄が豊富にとれる「黒い川」と呼ばれた斐伊川周辺に定住し、インダス文明から持ち込んだ野ダタラという製鉄法で農耕器具などの鉄器や武器を作り、陸稲作を行い、製布(織物)技術などによって日本の地に恵みをもたらしました。
こうして、ドラヴィダ人は今から約4000年前に日本海地域に定着して、先住民(当所の縄文人)に鉄器文明や陸稲農業などを伝え、人々の暮らしを豊かにすることで出雲の王となりました。
これが日本で最初に連合王国を築いたシュメール系海洋民族・出雲神族(=国津神)です。
最盛期の出雲王朝の統治範囲は、現在の出雲地方よりもはるかに広く、北九州、中国地方、四国、近畿、越(北陸)、東北地方までの広大な地域をカバーしていました。
ようするに、古史古伝に記されている神代のウガヤフキアエズ王朝とは、東北や北陸地方なども含む日本海側の古代出雲族が統治した地域の国々であり、『出雲国風土記』では高志、美保の郷などと書かれていて「越の国」とも呼ばれました。
つまり、この越の国が古代出雲王朝で「ナガスネヒコ」はそれぞれの地域でお祀りされていた土地神様を一つの神様に統合して体系化した名称だったということです。
このナガスネヒコとは山で生活をしていた山守(山かや山伏)たちのことですが、その姿が長い脛のような形をしていたことからそう呼ばれ、これが後の旅人が脛にまいたハバキ、つまり足の神様=アラハバキ神として東北地方に祀られるようになります。
そして、信濃に建御名方命、大和に登美(トミ)族、加茂(鴨)氏、三輪氏、などの出雲族の分家ができ、それぞれが土着の民と融合して地方の支配者となり、各地の分国でオオクニヌシ(大国主命)と呼ばれました。
オオクニヌシは代名詞で別名がオオナムチ、ウツクシタマ、など数多くの名前があり、オオクニヌシは17代にわたって何人もいました。
古代出雲王朝の末裔である出雲井社の故・富まさお氏は代々口承によって、次のような伝承を残しています。
・出雲神族はインドから稲の種を持ち込み、自分たちの国を「出芽(イズメ)の国」と呼んだ
・出雲神族は龍(蛇)を信仰する龍蛇族で、出雲神族の紋章はバビロンの龍蛇神マルドゥクのシンボルと同じだった
・出雲王国は武力による統一王国ではなく、同じ信仰によって結ばれていたため、出雲王国(連合国の間)では戦いの歴史は無かった
・クナト神の直系である富家は、各地の豪族を「言向けた」(言葉による説得)ことから向家と呼ばれた
・出雲族は年2回、春分の日と秋分の日を元日として、半年を1年とした
・出雲王国は各地の豪族の娘と結婚(複婚)する縁結びによる弱い連合体で、主王を「オオナモチ」副王を「スクナヒコ」という職名で呼んでいた
・出雲族は毎年10月に各地の首長(カミ)が出雲に集まり、その年の収穫物の分配について話し合ったり、祖国(インド)を偲んで龍蛇を祀るのが習わしだった。
・紀元前2000年頃、牛をシンボルとするスサ族(徐福集団=天孫族)がメソポタミアから朝鮮経由で渡来した
・そこで牛族対龍蛇族の宗教戦争が起き、それが「ヤマタノオロチ退治」伝説となった
・出雲神族は、その後の天孫族との長い闘争の末に帝位を奪われ、やがて滅亡した
・「国譲り物語」とは、2000年ほど前に天孫族の使者として日向からタケミカヅチがやってきて、稲佐の浜で矛(ホコ)を突き立て、「否、然(イエスかノーか)」と迫った事件で、そこで出雲の大国主は高福祉、抗議の自殺をした。
・出雲神族の大祖先はクナトの大首長(大神)で、女首長はアラハバキ(幸姫命=サイヒメノミコト)だったが、体制側によって二人が抹殺されそうになり、クナトの大神は地蔵に、アラハバキは弁財天に変えさせられた。
・天孫族(日向)が東征してきた時、出雲神族のアジスキタカヒコが導いたが、このカラの子と呼ばれた八咫烏は出雲の人々を裏切った。
・武烈天皇の代(第25代)で天孫族の神武王朝は断絶し、国が乱れたため、出雲神族は頼まれて天皇を出し、継体天皇~宣化天皇までは出雲神族であった。
富家は出雲神族の東の王家で、西の神門臣王家と共に極めて広範囲にわたる出雲王朝を長期にわたって平和裏に統治していたそうです。
この連合体としての古代(縄文)出雲族に共通していたのは、クナト大神とアラハバキ=幸姫命による「サイノカミ」の夫婦神で、さらに夫婦神の子としてインドのガネーシャカミをモデルにした長い鼻(男性器)を意味するサルタヒコの三神で、夫婦円満と子孫繁栄を強く願っていた出雲族はこの三神をとても大切に信仰していました。
そこに、後から上陸してきたシュメールーユダヤ系の好戦的なスサ族(スサノオ)=徐福集団が越の国の出雲族に戦いを挑み、争いを好まない越の出雲族が最終的に降伏したことでやがて出雲王朝は滅び、それまでの歴史が封印されてしまった。
これが記・紀神話の「国譲り」の実態です。
そして、その勝者によって新たに「古事記」や「日本書紀」が編纂され、出雲族による神代の歴史が消されてしまったため、出雲系の氏族たちの手によって密かに先祖代々の歴史が神代文字によってかろうじで残されたのが古史古伝です。
とはいえ、古典神道からみたら、出雲族も天孫族も元をたどれば同じシュメール系海洋民族で海と水を司るスサノオの系統です。
先祖を辿れば皆同じ縄文の倭人であり、経て来た地域や分化こそ違えども同じ先祖の故郷に里帰りしてきた部族同士であることには変わりありません。
しかし、先住出雲族(国津神)と後からやって来た天孫族(天津神)の決定的な違いは、後者にあたるBC200年頃(秦の時代)に大陸から朝鮮半島経由でやって来たユダヤ系の徐福集団は、騎馬民族の血筋でもあったため権謀術数や軍事に非常に長けていました。
その徐福一団は、出雲王朝の誕生から約480年後、始皇帝に航海の費用を出させて山東半島から日本に向けて船出を試みます。
徐福が率いたのはユダヤ人の童男、童女、工人を含む大船団で、のべ3000人を超える大移民船団が2度にわたり、山東省から日本海を渡って出雲の隣の石見国と築紫国に辿り着きます。
石見の海岸に到着した数十隻の大船団、そこから隊を成して次々に上陸してきた彼らは、養蚕や機織りの技術を持っていたことから秦族・秦氏と呼ばれました。
国譲りの真相
徐福が来日する前、出雲王朝を偵察するために使者を送っていたのがホヒ一族です。
先発隊のホヒとタケヒナドリが、青銅器の鐘を献上するなどして出雲王朝にうまく取り入り、その後上陸した徐福はホアカリを名乗り、西出雲王国の高照姫と血縁関係を結んで王族となります。
出雲王国は、大王(大国主)と副王(事代主)のやくしょくを富家と神門家(郷戸家)が交代で担う連合共和国制で、当時の出雲王国のオオクニヌシは西出雲王国・神門臣家の第8代のオオクニヌシで、スクナヒコは東出雲王国・富家のコトシロヌシでした。
徐福は重臣となったホヒとタケヒナドリの親子に時のオオクニヌシとコトシロヌシを拉致させて幽閉し、枯死させて政権転覆を謀ります。
この時、オオクニヌシはコトシロヌシに「これ以上出雲人が殺されるのを見るのはしのびない。国(王位)を天孫族に譲ろうと思うがどうだろうか」と相談したところ、コトシロヌシは「私は反対ですがお父さんがそうおっしゃるのなら従いましょう」と答えると、天孫族への呪いの言葉を残し、敵将の前に海に飛び込み自殺。
そして、オオクニヌシはウサギ峠のほら穴に閉じ込められて殺されてしまいます。
突如として主王と副王を同時に失うという前代未聞の事件が起こり、東西の出雲王家は非常に大きな衝撃を受けます。
事件後、出雲族の半数近くが両王家の分家に従って各地に移住。
事代主とヌナガワ姫との間に生まれた王子のミナカタノトミノ命は、徐福勢力(天孫族)に抵抗し続け、母ヌナカワ姫の出身地である越の勢力を背景に信濃入り、諏訪地方に第二出雲王朝を築きます。
しかし、この悲痛な出来事はのちに「事代主命は父神に対し『この国は天つ神の御子に奉り給え』と答え、大国主命はその意見通り国土を皇族に奉献した」とされました。
徐福は枯死事件の後、一旦、秦に帰国します。
そして、その後再び九州・日向に向かい、吉野ケ里に建築技術や青銅器武器などの新土器文化を持ち込んで築秦王国を作ってニギハヤヒを名乗り、ここからニギハヤヒを始祖とする物部氏が生まれます(のちに秦氏とも呼ばれる)。
一方、徐福と高照姫との間に生まれた五十猛は、京都の丹波に移住して海部氏となり、登美家とともに海部王朝をつくると共に、出雲王国第8代目スクナヒコのコトシロヌシの息子・クシヒカタが、大和の地に新たな王国をつくるために葛城に移住します(紀元前2世紀頃)。
そして、東西の出雲王家の人々もヤマトに移り住み、丹波にいた海部家もやってきて出雲族と共にヤマトを開拓しました。
出雲族は海部家と協力関係を結ぶために、婿養子に徐福の孫にあたる海村雲(アメのムラクモ=神武天皇のモデル)を迎え入れ、政治共同体としてヤマト政権が発足し、海村雲がヤマト政権の初代大王になりました。
こうして発足したヤマト政権は、初期の頃は出雲族の信仰によって国がまとまっていたものの、それを武力によって力づくで占領したのが日向にいた徐福の子孫たちです。
7代目の神武が率いる徐福・物部勢力は、出雲族が「カラの子」と呼んでいたヤタガラス(アジスキタカヒコ)を味方につけて九州から大和に乗り込み(神武東征)、若いと見せかけては次々と出雲人たちを殺傷し、ヤマトの王のトミのナガスネヒコは傷ついて出雲に逃れ、亡くなります。
その結果、物部勢力は徐福の孫の村雲を初代天皇と位置づけ、「天孫降臨」(天=徐福・孫=村雲)とし、三種の神器「村雲の剣」の神話として語り継いだのです。
こうしてクナト大神の信仰は隠され、記・紀の創作によってクナト神はイザナギに、幸姫命はイザナミや瀬織津姫に変えられて、古代出雲の正当な歴史は封印されました。
その後、神武から数代目の天孫族の王たちは、出雲族の氾濫を防ぐために出雲王家の娘を娶り、出雲人は現在の出雲(島根)・北陸・関東・東北などに分散させられました。
しかし、天孫族のヤマト王権は民衆からは信頼されず、そのため得意の武力で東国や朝鮮を制圧するなどして政権を掌握し続けようとしたものの、内政的な混乱が続いたため、やがて天孫族の王朝と出雲族の王朝の交代が続くことになります。
結局、物部王朝は仲哀天皇(14代目)で代が途絶え、継体王朝(26代目)からは出雲族の王朝が復活したものの、天武天皇(40代目)の命によって記紀が編纂され、これらが正史とされたことで古代出雲王朝の歴史は封印されてしまいました。
ようするに、同じスサノオ系の海洋民族であっても、戦いに強い部族と戦いを好まない部族がいて、戦いに長けた勝者が自分たちにとって都合のいい歴史だけを残したということです。
なので、真実の歴史を知るには「正史」とされる文献だけに頼るのは非常に危うく、それよりも古来から地域に伝わる民間伝承や『出雲風土記』など各地の風土記の方がよほど確かです。
このように、出雲の古代史を知れば、実は初代天皇とされている神武以前に王朝があったこと、そしてシュメールから海や大陸を経由してやって来たスサの王たちによって築かれた日本と日本人の成り立ちの真実が明確にわかってきます。
さて、天孫族に降伏した出雲族・オオクニヌシは、ヤマトの統治者としての座を神武天皇に譲り、出雲系の王族たち、すなわち国津神の名はかえられていきました。
神武天皇のモデルはアメのムラクモ(海村雲)で、即位したのは紀元前2世紀頃です。
その村雲の就任時に出雲王から贈られたのが村雲の剣(後の草薙剣)で、これがのちの村雲の後裔である尾張家に渡りり、熱田神宮に収められます。
海村雲の子孫は、海部氏、天野氏、尾張氏としてその血統を守り続け、一方、出雲王家の子孫は、毛利氏、浅野氏、長宗我部氏など戦国大名の名家として血脈をつなぎました。
日向の天孫族に最後まで抗ったのが、出雲王・大彦の「日高見国」です。
アベ一族の祖である大彦は、物部氏に追われる中、途中で北陸地方から信濃国にかけて平定しながらアイヌ民族な土着の勢力とも平和的な連合体を形成して一大勢力となり、東北一帯に第2の出雲王国を築くに至りました。
これが日高見国で文字通り朝日信仰を表しています。
日高見国は日の出の太陽のような王が統治する初国・縄文への回帰
元々出雲族はインドの太陽神スーリアの信仰を受け継いでいて、ヤマトに移った後も山輪山の日の出を拝んでおり、大彦が率いた出雲族の人々にとっても、日の出の太陽こそが仁徳によって民を治める優れた王や平和な国の象徴だったからです。
それゆえ、常陸国に至った大彦は、鹿島に鹿島神宮を建てて出雲の龍蛇神である雷神(タケミカヅチ)を祭神として祖先を祀りました。
これはヒ【陽・光・神霊】を立て直すことであり、まさに縄文への回帰です。
この日が高く昇る東の国=日高見国は、東北を中心として豊かな社会と独自の文化をはぐくんできたにもかかわらず、蝦夷と呼ばれて征伐の対象となり、最終的に中央政権に征服されたということしか知られておらず、その痕跡は消されてしまいました。
同様に出雲神族の神名で変えられた代表的な名が女首長のアラハバキ(幸姫命)で『東日流(つがる)外三郡誌』の中では東北にあった王国の名に変わり、ホアカリも山の民である山かの祖神となってホアケと呼ばれるようになり、本来の意味は消されました。
そもそも、アラハバキのアラ(荒)は龍蛇神、ハバキは蛇の巻き付く神木を表す言葉で、東北の大彦一族がアラハバキ信仰を継承していたのです。
アラハバキ信仰は山かが足(脛)に巻く長いムシロで編んだハバキ(脚絆)が由来という伝承もあり、そのため足の神様としても今もアラハバキ神に対してワラジや草履、靴などを奉納する習わしが残っています。
富一族の王を祀っていた「出雲社」も富神社と名称が変わり、祭神も変えられ、社紋も元は龍の鱗紋に男女のまぐあいを示したアメのヌボコの2本の剣が交差した図柄だったのが、その剣が2本のダイコンに変えられてしまっています。
この剣は銅剣で出雲王のシンボルですが、交戦ではなく生命の発生をいみしていました。
また、アイヌの古語として残っているのが、クナトは男根、アラハバキは女陰の意味で、本来一対のものとして祀られることが多く、これが出雲系の地域や神社で男根・女陰信仰の形で残っています。
そもそも、男女の生殖器を神聖視する生殖器崇拝は、インダス文明やヒンドゥー教のシヴァ・リンガ信仰以外にも世界共通にみられるものですが、このイノチを生み出す聖なる性の文化を広めたのも元は長老民族である縄文の倭人です。
この縄文から続く性(ウズやムスヒ)の理が、出雲族や天孫族にも取り入れられ、それが『古事記』のイザナギ・イザナミによる国生み神話になったわけですが、神話のストーリーからすると、イザナギが天孫族(天津神)でイザナミが出雲族(国津神)とみることもできます。
いずれにしても母性(女性)と父性(男性)双方の合一によって政を行う双分制(ヒメ・ヒコ制)が古来から日本のしきたりで、だからこそ出雲族の幸(サイ)の神信仰は今も道祖神(塞の神)として庶民に広く慕われているのです。
女性シャーマンで、この巫女の役職名が姫ですが、各地の出雲系のヒメたちの多くが天孫族に嫁がされていったようです。
そして、天孫族によって龍神信仰を禁じられた出雲族は、それに代わる裏信仰として七福神の弁才天と不動明王を仰ぐようになりました。
弁才天を選んだのはそのルーツがインドの女神サラスヴァティであり、かつ、出雲系の宗像三神のイチキシマヒメと同一視したためです。
日本神話に登場するサルタヒコも、元はインドの象神・ガネーシャですが、天孫降臨の際に道案内をした旅人の神とされ、村境や峠、境の川橋に祀られる道祖神(地蔵)となりました。
出雲系の神社が残っている地域としては、福岡の宗像、広島の厳島、鳥取の大山、島根の美保、香川の金毘羅、奈良の三輪山、京都の丹後、大阪の住吉、和歌山の熊野、埼玉の三峰、神奈川の伊勢原大山、長野の諏訪、新潟の弥彦、山形の出羽三山なども出雲族系で、宮城県の多賀神社にもクナトの神が祀られていますが、御祭神が猿田彦大神や大物主大神など大神とつく神様や、大神神社と同じ三つ鳥居があるのは出雲系です。特に出雲族と縁が深いのが熊野で、熊野大社の祭神は出雲の熊野神社のクマノ大神です。
これは、元々越の国でクナマト大神を氏神様として祀っていたのが熊野神社だったからで、それが紀州の熊野にも観請され、のちに物部軍の猛攻を受けた出雲王家の富一族が向家と名前を変えて熊野大社に移り住んだのです。
このように全国各地に出雲族の痕跡が色濃く残っているのは、それだけ出雲王家が庶民の厚い信望を得ていたからで、徐福が二ニギやスサノオを名乗るようになってからも、代々のオオクニヌシ(大国主)に対する根強い信仰は消えることはなかったのです。
とはいえ、徐福を筆頭とする物部氏らの度重なる武力制圧によって殺されてしまった出雲神族の王たちや出雲人にとっては、自分たちの国がことごとく滅ぼされ、歴史が改ざんされてことはさぞ無念だったでしょう。
無念の死を遂げた王は祟り神となるため、丁重に祀って供養しなくてはなりません。
そこで聖武天皇から板武天皇までの各天皇は、出雲族のクナトの大神の力を恐れて、平安京、長岡京、信楽京などではサイの大通りをつくり、都の四隅に神社を建てて鎮魂の供養をしています。
奈良時代の716年に杵築大社が作られ、明治4年になって杵築大社から出雲大社に変わります。
出雲大社の西側には、かつて徐福集団がやってきて出雲王に国を明け渡すように迫った稲佐の浜があります。
稲佐の浜には地元の人が「弁天さん」と呼んでいる弁天島があり、そこには出雲神族の女首長であったアラハバキが祀られていて、正式参拝ではまずそこに参らなくてはいけないのも、出雲億のご先祖の供養のためです。
つまり、今の出雲大社自体が出雲王であるオオクニヌシの祟りを鎮めるために造られた神社です。徐福=スサノオの子孫である出雲国造が代々出雲大社の神職を努められているのはそのためです。
それは、元々越の国でクナト大神を氏神様として祀っていたのが熊野神社だったからです。
また、美保神社の青紫垣の神事も、出雲神族の副王として無念の死を遂げたコトシロヌシを供養するための祭りです。
日本では古来より自然崇拝と共にご先祖様を祀る先祖崇拝があり、今もそれを継承し続けているのが修験道であり、山伏です。
それゆ、奈良県生駒市にある修験道の寺である宝山寺でも、出雲族の祟りを抑える神として「歓喜天」が祀られています。
歓喜天は、ドラヴィダ族が信仰していたヒンズー教のガネーシャ神です。
これは修験道がヒンズー教やゾロアスター教などの影響を受けているためですが、ガネーシャは荒ぶる鬼神で、この神を歓喜天として祀り鎮めているのが生駒の宝山寺です。
出雲親族のシンボルである銅剣、聖なる紋章を大根に変えられてしまった富一族の王たちの屈辱。
しかし、その怨念を光に還すのが供養です。
スサノオの使命とは
ドラヴィダ・出雲族も、徐福をはじめとする物部・秦氏などのユダヤ系帰化人も元は海洋民族でスサノオ系統です。
ドラヴィダ族が龍蛇信仰を大切にしていたのも、龍が海を支配する海神だからで、怪人族は常に水と天候を司る龍神と共に生きています。
そもそも、スサノオの神威(霊力)は、碧い地球が放つ光、すなわち、海の惑星である地球自体のエネルギーを意味します。
したがって、大海原を司るのがスサノオの役割であって、だからこそ創造神(祖神)から「海原(初国)を知ろしめせ」との命を受け手世界各地に旅立ったのです。
そして、やがてメソポタミア文明を築き、その後エーゲ海沿岸からインダス川流域に及ぶ広大な世界帝国を築いたアケネメス朝ペルシア帝国の首都であり、王の道の起点として「スサ」の名を残しました。
ところが、そのバトンを受け取ったユダヤ系のスサノオたちは、殺伐とした砂漠の風土と差別や離散、そして度重なる争いの歴史の中で騎馬民族との混血などによって、どんなことがあっても生きのびるための権謀術数と好戦的な性質を身につけてしまいました。
しかし、その半面、どこかでずっと異邦人である自分たちが安心して住める憩いの場所、ディアスポラ(離散ユダヤ)にとっての理想郷、碧い海を探し求めました。
そんな戦いに明け暮れたスサノオたち、すなわち徐福集団をはじめとする日本にやって来たユダヤ人たちは、朝日が昇る先祖の島に辿り着いて、この自然豊かな平和な血を自分たちの終わりの棲みかにしたいと思ったことでしょう。
「八雲立つ 八雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を」
これはスサノオが読んだ日本最古の和歌です。
波乱万丈な人生の中で、晴れてクシナダ姫を妻に迎え、新居を出雲の地に定めたときに詠んだとされるこの歌からは、幾重にも重なる白雲をみながら「ここは豊富な水を蓄えた森の国であり、この国ならば安心して子孫繁栄が叶う」
そんな心情が伺えます。
四方を海に囲まれ、一度も多民族の支配を受けず、豊かな水を存分に利用してきた今の日本人にはこのような心情は理解しがたいかもしれません。
しかしだからこそ、対極を結び合わせることが大事で、とりわけ古典神道では「ヒ(霊)」を結びあうムスヒ(産霊)の精神を重視します。
つまり、相対するものを和合させることによって新たな文化を創造するわけで、事実、スサノオたちもその役目を果たしました。
それが植林による日本全国の森づくりです。
スサノオ(徐福)は、息子のイタケル(五十猛)に命じて樹木を植えさせましたが、そのことからも、スサノオ親子が一旦立ち寄った朝鮮半島(新羅)では叶わなかった自らの夢を我が子に託した強い覚悟がうかがえます。
なぜ豊かな森が子孫繁栄につながるのか。
森は人々の暮らしを養う場であると共に、植林によって丸木舟をつくり、海路を自由に行き来できるからです。
現に、縄文時代の丸木舟は全国で約160そうも発見されており、黒曜石、ヒスイ、貝や琥珀など当時の貴重な資源を巡って驚くほど広域(東シナ海上)で物流があったことが確認されています。
また、森は雨水を貯える巨大なダムであり、森の中の栄養分が川を通って海に流れ込んで豊かな海の海産物をはぐくんでくれるのと同時に、里山からは落ち葉や牧などの燃料や堆肥、生活道具、建築用材などの資源が得られ、鎮守の森(神社)は村人たちの結束をはかる里地の拠点となります。
そのような父親の意向をくみ取ったイタケルは、2人の妹と共に、九州から始めて日本全国に杉・楠・桧・槙などの木をたくさん植えました。
それゆえ、イタケルはのちに有功神と呼ばれ、木の神として紀伊の国の一の宮に祀られるなど、植樹神イタケルを祀る神社は全国に300社あるともいわれています。
縄文文明と他の古代文明との最も大きな違いの一つは、縄文以外の文明においては森が徹底的に破壊されたのに対して、日本では豊かな森が保たれてきたことです。
その歴史の教訓を物語っているのが、メソポタミアのギルガメッシュ王が森にすむ神の遣いであるフンババを征伐する「ギルガメッシュ叙事詩」です。
そのメソポタミアと同じように、古代ギリシアやローマ、中国でも森は破壊されてきました。
そのような歴史を持つ人々からみたら、日本列島の豊かな森と水は、子々孫々に至るまで暮らしに潤いとやすらぎを与えてくれるまさに不老長寿の妙薬のようなものです。
そんな日本の地にやって来た徐福は、確かに平和な先住民族に対して謀略を企てたものの、その一方で、陽(ヒ)と水に恵まれた風土の価値に気づき、青銅器や鉄などの農具を使ってそれまでの日本社会にはなかった稲作農業という新たな文化をもたらしたのもたしかです。
スサノオがオオゲツヒメを斬り、その女神の亡骸から五穀が生じるという日本神話は、まさにそのことを物語っています。
その後、湿潤な気候と豊富な水を生かした日本の稲作は、全国各地にくまなく広がりました。
しかし、その後の時の為政者たちは森林の価値を忘れ、とりわけ戦国武将たちによる築城、豊臣秀吉や徳川家康の大建築物の造営、京都、江戸、大阪での木材消費の爆発的な増加などによって全国的な山林の荒廃を招き、これに危機感をいだいた幕府・諸藩はそこで森林資源保護に乗り出します。
こうして再び苗木を育てて植林する「育成林業」が起こり、やがて1933年には、神武天皇祭を中心とする4月2日から4日までの3日間を「愛林日」として全国一斉に愛林行事を催すことが提唱されました。
その翌年からは全国的な植樹運動の日となり、さらに1950年以降は全国各地から緑化関係者等の参加を得て、天皇皇后両陛下によるお手植えや参加者による記念植樹等を通じて、国民の森林に対する愛情を培うことを目的に毎年全国植樹祭が開催されています。
また、民間でも多くの研究者たちがボランティアと共に各地で森づくりに励んでいて、それが今の縄文ブームにもつながっています。
これは本来のスサノオの役割、すなわち、森を育て、太陽の光と水によって新たな命をはぐくむという生き方が再び見直されつつあるということです。
スサノオの使命
古事記の天地開闢の物語には、独り神(自然神)として「ウマシアシカビ」という微生物の神様が出てきますが、この微生物を神とするのはまさに縄文の自然信仰に他なりません。
つまり、スサノオの霊統の役割・使命は、自然を範とする縄文文化の生活様式の復活です。
縄文というと、土器の縄の紋様を連想しますが、縄以外にも縄文を象徴する紋様があります。
それは海の「貝」です。
日本列島の最南端の縄文人たちは、はるか1万年以前の縄文時代の初めごろからハイ貝や赤貝などの二枚貝の貝殻で紋様をつけた「貝文土器」を使っていたことが最近明らかになってきています。
これは、約1万年前の温暖化で黒潮前線が北上して劣等に接近するようになり、中国南部や江南から東シナ海を横断し、あるいは東南アジアから島伝いに琉球諸島へ、そして九州南部や日本列島の太平洋岸に到達した人たちがいたことを示しています。
この点に関して、元琉球放送の記者で沖縄の文化に精通している上間信久氏は次のような説を唱えています。
・3200年前、大洪水で生き残った湯王と、それを補佐した伊伊一族が殷王朝を成立し、その殷に対抗した呉太伯(周王朝)の子孫たちが、倭人集団と共に、殷で貨幣として使われていたタカラ貝や神降ろしに使われる春ウコンを確保するために琉球諸島に移住した
・そして、天孫氏として琉球に定着。彼らは琉球諸島を足掛かりとして、九州、四国、本州の伊勢、紀伊、朝鮮半島まで勢力を拡大していった
・琉球諸島には「伊」の文字がつく地名が多く、これは伊伊一族が残したもので、伊伊一族は更に黒潮に乗って日本海や太平洋に移動したと思われ、それを示す伊がつく地名が各地に残っていることから「海上の道」があったと考えられる。
さらにさかのぼると約7000年前ごろには気温の上昇で現在より海面が2~3メートル上昇していて、海水が陸地奥深くへ侵入していたことから、縄文人たちは湾内で漁を行い、採れた貝や魚を運搬したり遠隔地と黒曜石やヒスイなどを交易するのに丸木舟を使用していたと考えられます。
丸木舟を使って広域で活動した縄文人たちは海を渡る貝文人でもあり、貝殻は南西諸島から九州の西海岸を経由して日本海や瀬戸内海に運ばれていた形跡があり、「貝の道」とも呼ばれています。
このように、貝は食用以外にも、加工して腕輪(装飾品)としても珍重されていたことから、海洋民でもあった縄文人は丸木舟で朝鮮半島などにも行き来していた、つまり縄文文化は森とともに海の文化でもあったわけです。
縄文の海洋民族である倭人にとって、もう一つとても大事なことがあります。
それは見えない神々の世界とのつながりです。
とりわけ、海洋民族・海人族にとって重要な存在は、天候を制御し航海を守護してくれる龍神です。
ドラヴィダ族が龍蛇神を信仰していたのも、元々彼らがスサノオ系の海洋民族だったからですが、その流れをくむ出雲大社では今でも龍蛇神を祀る龍蛇神講大祭が執り行われています。
旧暦10月は一般に「神無月」ですが、出雲地方では全国の八百万の神があつまる「神在月」で、神々は旧暦10月11日から10月17日までの7日間出雲大社に集い、オオクニヌシ大神の御許において神々による縁結びの御話合いがなされます。
この時に神々の先導役を務めるのが龍蛇神です。
つまり、それぞれの地域にいる八百万の神様を稲佐の浜にてお迎えするのが出雲の龍蛇神のお役目で、この龍蛇神講大祭は、旧暦10月11日に本殿で斉行される神在祭の後、龍蛇神講の人々によって神楽殿において催されます。
龍蛇神は、水に住む龍から火難、水難の守護神として、また地に住む蛇から土地の禍事、祭事を除く大地主神として仰がられており、この二つの信仰が融合した神様です。
現在では、家内安全や除災招福などの守護神としても尊敬され、縁結びの神としても慕われていますが、源流を辿ればドラヴィダ族の守護神であり、さらに遡ると縄文・日ノ元から大海原に旅立ったエネルギー体としての海神スサノオでもあります。
そもそも、古典神道では日本列島自体を龍体としてとらえており、大本の出口王仁三郎も日本列島は龍体であり、かつ世界の大陸の縮図であると述べています。
このことから、世界の5大陸は日本列島をひな型としてできあがっているとされる「雛形論」が広く浸透していったわけですが、これは日本の本州はユーラシア大陸、四国はオーストラリア、北海道は北アメリカ、九州はアフリカ、台湾は南アメリカに当たり、「日本で起きたことはやがて世界で起きる」という考え方です。
この雛形論は、古典神道でいう長老民族(黄人)から五色人が生まれたとされる世界観や光一元の原理と機嫌を同じにするものです。
また、日本人が龍族であることは、ニュー字ランドのワイタハ族のテポロハウ長老も証言されています。
テポロハウ長老によると、ワイタハ族は銀龍であり、金龍である日本の弟分であることから、長老は兄の金龍である日本人の覚醒を促すために数十年前から来日して各地でご神事をされ、天皇家に対しても強い崇敬の念を示しておられます。
そして、日本の人々に対して「日本の天皇は日本だけの天皇ではない。龍族たちが協議するときには、指揮官となる」「龍族はすべて古代シリウスに属していて、日本の天皇も日本の龍族もみんな親族。天皇の起源は古代シリウスにあり、龍の法に伴っている:などとのべています。
テポロハウ長老によると、龍の役割は宇宙のバランスを保つことで、龍がいなければ地球だけでなく宇宙が崩壊するので、金龍である日本は古代の神々や日本人の中にある高貴な血族を守ることが大事だと証言されています。
北方の騎馬民族と南方の海洋民族が交ざりあい騎馬民族系が実権を握って来た
日本人が龍族であるということは、まさにスサノオ系の人が多いということですが、とりわけ時代の大きな変革期である今はスサノオの分霊がたくさん日本に生まれています。
歴史上のスサノオの分霊たちは、古代出雲神族のように歴史の表舞台からは消されてしまったり、非業の死を遂げて祟り神として祀られてきた魂が多いです。
たとえば、乙巴の変で討たれた蘇我入鹿、菅原道真、平将門など、最後は人間の憎悪や憤怒を抱え込んで非業の死を遂げたり、あるいは役行者や空海、出口王仁三郎など時代を変革するための霊的指導であったり、またそのような人物を守護する神仏となって新たな時代を拓く礎となってきたのです。
役行者の蔵王権現、空海の不動明王、出口王仁三郎の丑寅の金神、さらには教派神道と呼ばれる黒住教、天理教、金光教などもスサノオ系統で、こうした魂に共通しているのは、表で権力を握っている統治(支配)者たちとは反対の立場や役割をあえて引き受けていることです。
これはわかりやすくいうと、日本は大陸北方系遊牧・騎馬民族と南方系海洋民族の2つの民族が交ざりあっていて、表舞台で実権を握って来たのは主に騎馬民族をルーツとする人たちで、どちらかというと海洋民族系の人たちは争いに破られたり、虐げられてきた側です。
とりわけ、西日本においては、大陸北方系と東南アジア系との混血が行われて弥生文化が発展し、それが東日本に伝播していって、結果的にそれまでの縄文文化は沖縄と北海道(アイヌ)の両端に追いやられていきました。
したがって騎馬民族征服説は極論でも、少なくとも騎馬集団と一緒にやってきたユダヤ系の一部が支配層に与したのは確かで、その証拠が前方後円墳から出土している高度な技術によって製作された馬具類や鉄製武器です。
当時の日本には馬はいなかったことから、騎馬民族が馬具類を持ち込んで古代ヤマトの支配者になって前方後円墳を作ったということです。
ですから、世界や日本の歴史の深層を知るにはこうした構造をよく知っておく必要があります。
最も古い遊牧騎馬民族といえば、インド・ヨーロッパ語族ですが、そのルーツは紀元前3000年~1500年頃に出現したアーリア人に辿り着きます。
ユーラシア大陸を舞台に興亡を繰り返した諸民族には、スキタイ人・メディア人・ペルシア人・バクトリア人・パルティア人などがいますが、その頂点にいたのが史上初の騎馬民族にして壮大なる世界帝国の樹立者であるアーリア人です。
アーリアとは「高貴な人」を意味していて、彼らは先住民を「ダーサ」(やがて奴隷の意味)として区別し、肥沃な土地を求めてユーラシア大陸を次々に移動していったわけですが、そのアーリア人を祖先とするのが白色人種です。
彼らの特徴は、金髪・碧眼・長身・細面で、自分たちは世界で最も優秀な民族であると信じていて、それゆえヒトラーのナチスドイツも「ヨーロッパに入った白色人種の祖であるアーリアんはヘレンラッセである」というアーリア神話によって反ユダヤ主義を徹底したわけですが、ドイツに限らず20世紀初頭になっても欧米諸国で優生学が盛んになったのは白人の間にアーリア神話の信奉者が多いためです。
また、アメリカなどでは今も白人至上主義に絡む事件が多発しています、そのアーリア性は黒海~北コーカサスの遊牧騎馬民族スキタイにも引き継がれていて、そのスキタイの騎馬技術や馬具、武器などの戦闘的な文化が後の東アジアの民族にも大きな影響を与え、そのうちの一部が更に日本列島にやってきて大和朝廷による支配体制の強化に与したのです。
そして、日本に入って来た騎馬民族の系統が後の源氏を生み出し、結局のところ戦いに長けた氏族たちがずっと政治権力を掌握してきたわけですが、その流れは今も変わりません。
こうした歴史を鑑みればわかるように、本来のスサノオの系統は縄文的な争いを好まない海洋系の人々です。
ようするに、スサノオがアマテラスの弟であり、荒ぶる神とされてきたのは、スサノオ的な縄文文化を封印したかった弥生以降の政治勢力による策略だったということです。
大本の開祖・出口王仁三郎もスサノオの霊統で、それゆ、時の権力者たちに目の敵にされて、徹底的に教団を破壊されたのです。
大本は、時の政府から1921年と1935年の二度にわたって凄まじい弾圧を受けており、二回目の弾圧では神殿をダイナマイトで全部爆破され、完全な更地にされたうえでその費用をすべて補償させられました。
大本の信者たちは共産党の党員以上の拷問を受け、弾圧されたにもかかわらず、王仁三郎にとってはそれも祈り込み済みだったようで、信者たちも一切政府側に反撃をしていません。
末法になればなるほど、人々は目覚めにくくなっていきます。
なぜなら、私たちは生死が問われるような事態にならないと、魂のスイッチが入りにくいからです。
それゆえ、末法には末法にふさわしい、より強烈なエネルギーを持った仏が必要だったのです。
これが金峯山寺の始まりであり、修験道の起こりとされ、その後も同じスサノオの分霊たちが日本各地の霊山を開いていきました。
スサノオの霊統、分霊に共通しているのは、常に弱き者や日陰にいて苦悩している者たちへの慈愛の眼です。
これは沖縄のノロやユタにも通じるもので、その本体は、今も修験道や古典神道、民間信仰の底流にある海神スサノオ=ワタツミによる禊祓いの浄化のエネルギーに他なりません。
そのような禊祓いを促すスサノオの激しいエネルギーが、今、まさに渦巻いています。
しかし、もはやこれまでのように一人のカリスマ教祖が世を救う時代ではありません。
今、求められているのは、一人一人が争いの根となる穢れを祓い、内なるスサノオの宗像のエネルギーを完全に開花させることであり、それこそが弥勒の世の礎となるのです。
アマテラス
太陽神アマテラスはこうして日本にやって来た
海神スサノオは縄文を象徴するエネルギーであるのに対して、太陽神アマテラスは弥生を象徴するエネルギーです。
天皇家の祖先神がアマテラスとされているのもそのためですが、では、その太陽神アマテラスはどのようなルートで日本に入って来たのでしょうか。
それは、琉球・沖縄の古代史を紐解いていけばわかります。
琉球開闢神話によると、アマテラスのルーツは琉球を開いた古代王朝・天孫氏の祖先であるアマミクという女神で、その天孫氏が天孫族の由来になっていると考えられます。
天孫族とは先史時代に琉球を統治したとされる王統で、琉球王府編纂の史書
「中山世鑑(1650年)」「中山世譜(1701年)」などには次のように記されています。
・天帝が「アマミク」という女神と「シネリク」という男神を下界に遣わし、琉球の島々を創らせた。
・天帝は自分の子である男女二人を降臨させ、そこから三男二女が生まれた。
長男は天孫族の始祖、次男は諸侯の始祖、三男は百姓の始祖、長女は君々(高級神女)、次女はノロ(地方神女)の始祖となった。
つまり、天帝の遣わしたアマミクとシネリクの長男が天魔賊子になったということで、これはアマテラスの孫である二ニギが高天原から日向の高千穂峰へ天降った天孫降臨の神話と極めて類似します。
また、琉球神話では、それまで民はまだ農業を知らず、草木の果実を食べ、調理することも知らなかったのが、天帝の子供たち(天孫族)が五穀を植えることを教え、そこで初めて農業が起こったとあります。
このことから、琉球に初めて稲作農業を伝えた海洋民族がこの神話を伝えたと推察され、実際に沖縄の植田地方にはこんな稲作発祥伝説が残っています。
・アマミクの子孫・アマミクが米を求めて大陸に渡ったものの、稲の種の持ち出しは認められず、その願いはかなわなかった
・のちに北山王の使者が稲を琉球に持ち帰りたいと神に懇願したところ、ニライカナイの神は鶴が運ぶことを条件にそれを許した
・途中、嵐にあい、稲の種を加えた鶴は力尽きて、南部の新原の泉へと落下(現在のヤハラヅカサ)。
その泉で稲が発芽したのを発見したアマミクは、受水・走水の御穂田に移植し、育て方は神様から教わった
古代琉球を開いた天孫王統は、17802年間もの長期にわたって続き、25代目の時に家臣の利勇なる人物に滅ぼされたと伝承されており、この天孫氏が後世に稲作農業を伝えたとされています。
沖縄には天孫氏の伝承が多く残っていて、那覇市にあった臨済宗の崇元寺(1945年に焼失)には18世紀初頭の頃まで歴代の天孫氏の位牌が祀られていたそうで、また浜比嘉島にはアマミクとシネリクが天から降って一緒に暮らしたと伝えられている洞窟や二人の墓もあります。
また、沖縄の最高神は「ティダ」という太陽神で、昔からアマミク=アマテラス説が根強く、あまてらすはアマミクに使えるノロ(神女)だったとか、アマテラスがこもったという伊平屋島のクマヤ洞窟などもあります。
では、その琉球のアマミクがなぜヤマト政権にアマテラスとして取り入れられたか、古典神道の世界では次のように伝承されています。
・アマテラスは、オオヒルメという名で、九州の日向にいたスサノオ(徐福)の現地妻となっていた
・スサノオには出雲に正妻クシナダ姫がいたが、各地に現地妻がおり、それらの海岸沿いに棲んでいた女性たちは瀬織津姫(せおりつひめ)と呼ばれていた
・巫女であるアマテラスがスサノオとの間に産んだ子供の孫がのちの神武天皇となる人物
・スサノオの死後、出雲・日向王国のトップに立っていたニギハヤヒ(徐福の子孫)は、末娘の婿養子にアマテラスの孫である神武を迎え入れて、ヤマト政権との合体を図る
・これにより、のちに女帝として実権を握った持統天皇(第41代天皇)は、天皇家の始祖をアマテラスとすることで自身の天皇即位と万世一系としての天皇家の正当性を内外に示した
・そしてこれ以降、ウガヤフキアエズ王朝から続いてきたニギハヤヒの男系は断絶し、神武系の男系天皇(神武王朝)が続いていく
つまいr、当時のヤマト王権がアマテラスの血筋を迎え入れたことで、琉球から得た水田稲作技術によって全国各地を制圧的に統一し、それまでの植樹などの縄文的な思想や文化を封じたということです。
いうならば、それまでの出雲・縄文文化からヤマト・弥生文化へのモデルチェンジが「国譲り」神話で、そのため記・紀神話ではアマテラスを姉に、スサノオを荒ぶる弟にしておく必要があったのです。
ここから、スサノオ系の氏族たちは歴史の表舞台からは徐々に退いていくことになります。
その代表的な氏族の一つが、三種の神器の草薙剣のモデルとなったアメノムラクモの子孫にあたる忌部氏です。
忌部氏は、古代の祭祀や祭具製作・宮殿造営を担った氏族で、本来の朝廷祭祀は忌部氏が掌握していました。
しかし、中臣氏や藤原氏による天武朝の「八色の姓」の制定によって中臣氏よりも一段下となって次第に本来の職務につけなくなり、平安初期の大同2年(807年)に平城天皇に訴えたものの状況は変わらず、やがて歴史の表舞台からは姿が消えていきました。
中でも、阿波忌部氏は麻とかかわりの深い一族で、全国に麻を植えるなど日本における大麻草の文化を継承し、天皇即位の札である祭で麻布を古くから献上してきたのも阿波忌部氏です。
麻の封殺は、戦後GHQでも禁止され、米国による日本のスサノオ・縄文文化の封殺をされました。
大和朝廷は国司を送って各地の反乱を制圧しながら統治を勧めましたが、東北地方は米作りには適さず、それゆえ稲作に抵抗した人々は「まつろわぬ民」として征伐の対象となり、一部は北越・奥羽・北海道などに逃れて蝦夷やえびす、鬼、土蜘蛛、さんか、などと呼ばれました。
こうしたまつろわぬ民は元々は出雲・スサノオ系の氏族です。
スサノオの霊統は南走平家・安徳天皇へと引き継がれていった
アメのムラクモは三種の神器の一つ草薙剣のモデルとなりました。
この神剣は、アマテラスから孫のニニギノミコトに渡されて天孫降臨がなされたわけですが、これはようするに、スサノオの縄文系のエネルギーが剣の形でアマテラス(弥生)系の子孫に託されたということです。
ところが、この形代の草薙剣は、その後の源平合戦の最中、安徳天皇を報じた平家によってほかの神器と共に西国へ落ち、源氏方に擁立された後鳥羽天皇は三種の神器がないまま即位したとされています。
つまり、スサノオの霊統は源氏ではなく、安徳天皇(平家)に引き継がれたということです。
しかし、歴史上では、安徳天皇は壇ノ浦の戦いで平氏一門とともに入水し、歴代の天皇中で最も若くして崩御した天皇とされています。
そして、八咫鏡と勾玉は回収されたものの、二位尼とともに入水した安徳天皇は崩御し、草薙剣も海に没してしまったため、今、熱田神宮にある草薙剣はレプリカとされています。
ところが、安徳天皇が生きのびたという伝説は数多くあって、中でも南下したという伝承を「南走平家」といいます。
南走平家とは、壇ノ浦の戦いに赴いた平家は影武者であり、安徳天皇を含む本体は沖縄に船団で南下して渡り、琉球王朝の初代舜天王となったという説です。
良く知られる「平家物語」の竜宮城の物語は、その安徳天皇が生きのびて琉球王朝を築いたという伝承に基づいております。
平安座島には南走平家によってつけられたと考えられる平家・京都的な地名や物証が数多く残っており、地名では、平良、平安山、波平、高平、豊平、真栄平など「平」のつく地名は平家一門が本島の要所を押さえた証左だとしています。
実際、沖縄では苗字にも「平良」が多く、また平家の武将であった「羽地」の苗字、地名、河川名などもあり、石垣島、宮古島、多良間島などでも平家にまつわる伝承が数多く残っています。
一方、琉球王国の正史である「中山世鑑」では源為朝が琉球に流れて浮いた大里あじの妹の間にできた子が「舜天王」であったと記されていますが、実はこれは薩摩のでっち上げです。
当時、琉球を統治していた源氏系の島津氏に対して「先祖が同じ源氏の血を引いている」と嘘の主張をするために政治的に捏造されたものです。
舜天王朝は12世紀半ばごろから浦添を拠点として舜天王(安徳天皇)・英祖王・察度王と続く3つの王統が興り、約250年にわたって本島中部一帯を支配下に収めていたそうです。
つまり、南走平家・安徳天皇の子孫たちは、14世紀には浦添グスクを拠点に勢力を拡大し、琉球史上初めて中国(明)と公式に貿易を始めたほど進んだ政治を行っていたということです。
終わりに
この記事は、
前提として他の記事読んでいただいてからの方がよろしいかと思います。
当ブログのワイは、ある程度理屈がないと納得しないタイプなので、
この伝承だけだと、どうしても引っかかってました。
そもそも教科書すら鵜吞みにする気もなかったので改めて今回日本の古代史について調べてみたわけですが、
そこで、考古学の観点でも別記事でやります。
それで読者の皆様は、あとは適当に考えて頂ければなと思います。
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