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日本人は最古の人類!35000年間平和な世界が続いたユートピア「縄文文明」 日本人よ、縄文文明に帰るとき

古代日本はユダヤの歴史だった!ユダヤ人が日本列島に5回渡来してきた衝撃の歴史的事実 - 働いたら負け

前回は、ヤマト建国前後の歴史をやりましたが、今回はもっと前の時代、縄文時代の真相をやっていきます。

結論をいうと、日本は世界最古の民族であり、世界の始まりといえる民族です。

しかし、皆様大好きのGHQ洗脳教育によって、民族としての誇り・伝承・先祖代々受け継がれたものなどなど、そんな大事なものを破壊されました。

こうして、過去の歴史もしらずアイデンティティを失った精神疾患現代人を作り上げることになります。

というわけで、今回は皆さまが失ってしまった縄文人としての記憶を呼び覚まし、私たちが本当はどのような人の先祖だったのか。

ペトログラフ学で遡っていきたいと思います。

アカデミズムはやっぱり揉み消していた禁断の超古代史

考古学者は相手にするな

当ブログこの分野でも一般的なアカデミズムは無視する方針を取ります。

西暦紀元前660年以前の日本は「神代であって、歴史学の対象として研究・解明しようとすることは禁忌」という前提の延長にあります。

戦前の国是の史観の延長線上で仕事をしている学者たちは、今もなお旧態依然としてその鉄則からはみ出した思考はかたくなに拒否しており、仮に個人的にそれがおかしいと思ったとしても

近畿大和王朝以前に国東半島はもちろんのこと、九州や四国、中国、東北など、日本各地に部族国家と王朝が存在していて、それらを侵略しあるいは懐柔しつつ、大和朝を中心とした国家を形成し、日本全土にその勢力を展開し、やがて統一を果たした。その根幹となったのが天皇であり、皇室の起源である」という図式を描き、理解しては観る者の、公式には全くそのことを発表しようとはしません。

まとまな学問のあり方からすれば、もちろん日本の考古学は虚弱体質そのものです。

そこには学者間の「縄張り意識」が強く、日本では権威あるとされる考古学専門家の発する「鶴の一声」で物事を判定しようという傾向にあります。

日本の斬新な発見は地方ほど多く、日本史を揺るがすような考古学上の大発見のほとんどは地方でなされているのにその遺跡を発掘する担当者に「縄文時代弥生時代には文字がなかった」という認識が横行していると、せっかく発掘した場所に仮に文字や文様を刻み込んだ岩石があっても、それらは単に自然にできた傷などとして処理され、未来永劫ぺトログラフはおろか、古代文字の存在さえも闇に葬られて世に出ることがなくなるのです。

また戦後GHQ洗脳教育により、日本は神話を含めた「民族の誇りの教育」を禁止。

一方で、アイデンティティを欠いたわけのわからん歴史教育がなされた結果、振動を始め日本古来の習俗や風習に関心を持つことなく、いたずらに外国かぶれの浮ついたばかりが助長され、地に足をついていない我々世代が誕生したのでした。

「日本にはまだ文字がなかった」という大ウソ

日本の国家成立の起源を含む従来の古代史観や、古代(超古代)は野蛮な未開社会とする見方は誤りでした。

例えば、「魏志倭人伝」について「初期日本のことに関して記された貴重文献であるが、中国で書かれて物であり、日本の歴史学国語学民俗学・考古学などあらゆる学問成果から、文字を持たない日本人自身が書き残した文献は奈良時代の『古事記』『日本書紀』までまったくない」と紹介されます。

単純に考えてもおかしいことです。

「日本にはまだ文字がなかった」のに「魏志倭人伝」にある卑弥呼はどのようにして三十もの国を治めたり、中国との国交ができたのでしょうか。

ビデオメッセージやスカイプ、ディコードでもあったのでしょうか。

もちろん「魏志倭人伝」の冒頭に、漢の時代に挨拶にやってくるものがいた。倭国は使者や通訳で行き来できるところは三十国ある)と書いているように、漢字や漢語を自由に使える人々が相当数いたわけです。

卑弥呼は魏に使者を送り、魏の王朝からも「魏の皇帝に親しく使者を送っている卑弥呼を倭の国王と認め、その証拠とするための金の印象などを与える」という文書を送っています。

古事記」「日本書紀」は中学・高校の社会科や歴史の時間には必ず「日本最古の書」と教えられます。

これも「初期日本には文字がなかった」とする現れです。

しかし、その中に「一書に曰く」とか「またある書に云う」などと書いてあることどうして無視するのか。

どう考えても、それ以前にあった歴史書を寄せ集めて編集しなおしたものであり、当然、記紀以前にも「同じような史書があちこちにあった」ことを物語っています。

これは記紀を作製した政権の美点のみを著述し、それ以前の記録や伝承などは無用の長物としたのです。

ちょうど、古代中国で秦の始皇帝が「彼にとって無用の文献を焼却処分し、前王朝の歴史や習慣、伝承などに詳しい知識層を生き埋めにして殺戮した」焚書坑儒の事例と同じことです。

こうして記紀にいう「歴史」以前に52代もしくは27代あったという鵜茅葺不合王朝(うがやふきあえずおうちょう)はなかったものとされ、鵜茅葺不合王朝の第四子としてイワレヒコを、神武のおくりなをもって初代の天皇に仕立て、それ以前に各地にあった王朝や政権の存在を消し去り、大和王朝の創始として登載することで記紀を日本の正史にしていきました。

鵜茅葺不合王朝については、記紀以前の書とされる『上記』『九鬼文書』『富士宮下文書』『東日流外三郡誌』『竹内文書』などがあります。

これらはすべて「偽書」とされ、特に明治期からの皇国史観が国の主流思潮となるなかで、歴史学はもちろん国学などからも研究対象としてさえはずされ、顧みられなくなりました。

ペトログラフの研究で明らかになった

ペトログラフとは、太古、人類が後世に伝えたい様々な意匠や文字を岩石に刻み込んだものです。

もともとはギリシア語で石を意味する「ペトロ」と記号を意味する「グリフ」の造語です。

日本のペトログラフの始まりは1985年の山口県下関市彦島の杉田丘陵の一斉調査でした。

ただし、当時の調査は西日本民族芸術調査会によるものです。

同調査によると、

1924年「不思議な絵模様がある岩」が発見されたものが、地元では多少話題になりましたが。

1952年に下関文化調査会と九州大学考古学研究室は「かつて古墳の一部であったものが表土の流出により岩だけが残った物だろうから、とりあえず古墳として記録しよう」とそこに彫られた文様や記号が何を意味するかについての本格的な考究はされないままでした。

ところが1977年になって郷土史家の澤忠宏氏が「杉田丘陵の謎の絵模様岩は、関門海峡源平合戦でほろんだ平家の財宝を埋めた場所を描いたものだ」という説を発表したため注目され、宝探しと絡んで関心が沸騰します。

ここで日本にペトログラフ研究が萌芽し、1968年に彦島ペトログラフを守る会が発足されました。

文字としてのペトログラフということでは、世界中で調査されGPSで記録されたそれぞれを分析した結果、紀元前3000年頃のものを中心に、全域の広い範囲で共通性があることが分かっています。

この一致を利用して、ペトログラフを「碑文」として解読しようという動きも当然出てきます。

ハーバード大学の教授で米国碑文学会会長のバリー・フェル博士は世界宙に同じようなペトログラフがあるのを利用して、シュメール古拙文字やオガム文字など種々の古代文字を総動員してアメリカのペトログラフの解読を試みました。

日本でも同様に、日本の仮名や神代文字、中国のロロ文字なども使って解読を試みますが、神代文字への減給などから一部にペトログラフ研究そのものをオカルトと考える人がいます。

しかし、発掘された文字を解読しようという試みは、世界的には古代エジプトのヒエログラフ解読、中国の甲骨文字、ギリシャの線文字Bの解読等々、古くからおこなわれていることであり、それ自体なんらおかしいことではありません。

ペトログラフ研究はさほど注目もされず、日は浅いのは日本だけでしょう。

しかも、「日本で発見されたペトログラフの多くがシュメール文字として解読できる」とした研究結果の発表は、さまざまな国際会議での承認を得ています。

このように日本にもペトログラフがあるという厳然たる事実はなんとしても損塗油されなくてはなりません。

そして、この文字の研究により、カナダやアメリカのいわゆるインディアンもまた、超古代には日本と同じ文化の系統に属していたことが証明されました。

メソポタミアでシュメール国家がセム系のアッカドによって倒され、世界に散ったのはたかだか紀元前2000年程度のことにすぎないのに対して、日本の縄文文化は日本列島が大陸から分離され始めたおよそ1万8000年前のかなたです。

それは三内丸山遺跡の発掘以来、常識となっています。

三内丸山遺跡は紀元前5000年頃のものですが、つまりは、シュメール人フェニキア系の人々が到来する以前に、はっきりとした祭祀場が確立されていて、その土台上に後来の人々が、改めて新たな構造を築いたことも十分に考えられるのです。

例えば、世界最古の文字文明は、紀元前3500年頃にメソポタミアで始められた楔形文字であり、これを担ったのがシュメール民族であることが定説です。

そして、紀元前2000年頃、このシュメール民族の造り上げた諸都市はセム系のアッカド人に倒され、その文化は文字と共にアッシリアバビロニアへと拡散し引き継がれていくことになります。

さらに時代が下ると、このシュメールの楔形文字はさまざまなバリエーションを産み、アルファベットが作られ、ユダヤアラム語ヘブライ語、交易の記載に便利なフェニキア文字ギリシャ文字もその流れから派生したことは周知の事実です。

と同時に、それらの「根」となるものがそれぞれにあったことは、今日、誰も疑問としません。

それはまた、地球上の人類文明が果たしてどのように始められたかという、その根源にも行きつきます。

世界・日本問わず、歴史の根底にはいくつも折り重ねられた秘密が隠され、その秘密を本来は口をきくことのない岩が岩刻文字を通して、まさに語り始めたのです。

主なペトログラフ

ペトログラフは太古、海洋民族が世界各地の民族と共に創出した文化遺産です。

では、世界各地にある主なペトログラフを紹介します。

ドルメン

「支石墓」の訳どおり基礎となす支石を数個、埋葬地を囲うように並べ、その上に巨大な天井石を載せる形態を持ちます。

新石器時代から初期金属器時代にかけて造られたとされます。

多数が西ヨーロッパにみられ、ほかに中東ではイラン高原ゴラン高原、インドには南部に多く、インドネシア南アメリカ北アフリカにもみられます。

東アジアでは中国東北部遼東半島朝鮮半島西北部に分布しています。

このうち朝鮮半島南西域の高しょう・和順・江華のものは世界遺産にも登録されました。

日本では、九州北西部に縄文時代最晩期のものとされるドルメンがあります。

日本にはないとされてきたのは、弥生時代前期が終わるころにほぼ終焉を迎えたためと考えられていました。しかし、厳然と存在しています。

ストーンサークル

大湯環状列石(大湯ストーンサークル)

環状に配置した石の遺跡をいい、イギリスのソールズベリーにあるストーンヘンジがよく知られます。

これも世界各地にみられますが、日本では秋田県鹿角市十和田大湯にある縄文時代後期のものが国の特別史跡に指定されており、ほかに東北・北海道を中心に各地で見出されています。

つまり「ストーンサークル」の語が入ってくる以前から「環状列石」として研究され、神社との関連では「環状石り」と呼ばれて存在してきました。

そして、大湯環状列石の北東には「日本のピラミッド」と目される黒又山があり、大湯環状列石からはきれいな三角形の姿を示して、黒又山大湯環状列石との関連の可能性が一部より指摘されてもいます。

メンヒル

ヨーロッパ、特にフランス・ブルターニュ地方に現存する最大のものがあることから、欧米の考古学の基本用語となっていますが、日本の考古学でも「立石」として通常に研究されています。

つまり、世界で最も一般的なロックアートであって、ヨーロッパでは先史時代から、日本では縄文時代、特に後期に多く造られたとされます。

形状は日本での立石の名の通り、単一で直立した巨石記念物をいい「モノリス」や「メガリス」とも呼ばれます。

ただし、メンヒル群として列石もあり、ブルターニュのカルナック列石は三千以上のメンヒルが三つのグループに並べられたうえ、数キロメートルにわたって整列しています。

日本では前記した大湯環状列石中の「日時計壮組合」が有名です。

盃状穴

岩石に彫られている盃状の穴のこと指します。

ドルメンやメンヒルより多く、世界中で見られます。

しかも、現在でも病気の治癒や子宝に恵まれることを願って信仰されてもいます。

もともとは再生や不滅のシンボルとして崇拝されてきたそうです。

日本の盃状穴は縄文時代から造られていることが確認されており、磐座に彫られていることが多いです。

時代が下がって古墳時代には棺に彫られ、鎌倉時代には村の入り口に魔除けの目的で造られたり、神社の灯篭や手水石、鳥居等に彫られたものもしました。

江戸時代には昔に造られたものを基にして新たな製作もあり、根強い信仰から維新後も残って昭和初期まで造られていたという説もあります。

日本人は世界で一番遅れた人種という大ウソ

1.先史時代の世界(人類の起源・移動地図・年表) - 比較ジェンダー史研究会

これが教科書でやる人類の始祖の歴史ですが、世界の現生人類というのは約4万年前に登場した新人類であるクロマニヨン人によって現在に至ると教わります。

19世紀に南フランスのクロマニヨン洞窟で発見された5体の人骨をはじめに、その後同種の特徴を持った人骨がヨーロッパ各地に発見されたことにより、クロマニヨン種というのは、ヨーロッパ白人種の始祖であるとされました。

そしてこのことから「人類で最も進化したのがクロマニヨン人である白人種であり、その白人種が大陸に散らばって劣化したのが、黒色人種や黄色人種なのだ」という説が20世紀に入ってからヨーロッパで唱えられるようになりました。

この説だと、約4~3万年前に移動してきた日本人は最も遅れた人種となります。

しかし、2013年6月、島根県出雲市の砂原遺跡の調査をしていた学術発掘調査団が、約11万~12万年前の旧石器36点を発見したと発表しました。

しかもこの発見のすぐ後に、今度は11万年前の人骨が発見されました。

つまり、日本人の始祖はアフリカから移動してきた人々でもなければ、クロマニヨン人が退化した人々でもないことが証明されてしまったわけです。

そこで新たな通説として縄文人は「海洋民族」だったのではないかという説が出てきました。

これは「文明は海洋で発達した」と考えるからです。

人間が生きるためには塩が必要であり、実は大陸で文明を発達させるというのは容易ではありません。

塩分の補給が簡単にできる環境にいないと、人は生きていくことができないのです。

大陸にも岩塩の出る場所はありますが、そういう場所には真水がありません。

真水がなければ、やはり人は生きていくことができません。

それになにより動き回る動物を捕まえて食べるより、魚を捕まえる方がはるかに楽です。

一般には、旧石器時代の人々は大型の動物を飼って暮らしていたと言われていますが、発掘された旧石器時代の人骨をみると、みな細く、ろくなものを食べていなかったことがわかります。

と考えると、わざわざ水も塩もない内陸部で人が暮らしたとは思えず、旧石器時代の人々は、海沿いに住み、貝を拾ったり、小魚を捕ったり、海に潜って海藻などを採って暮らしていたと考える方が自然なわけです。

そうなると全身が毛で覆われているよりも、裸のサルでいた方が、身体の渇きが早く、風邪をひきにくい。つまり生き残るチャンスが増えるように人類は、島に残されたサルたちから始まったと考えるのが新たな通説です。

海藻を消化できるのは、日本人だけだそうです、これも日本人がそれだけ古い順守であるという証拠になります。

このように「人類文明はマンモス狩りからはじまった、文明は陸から始まった」という説は、実は全く逆だった可能性があるわけで、そうなると、日本の海洋民族が世界で一番古い人類である可能性が高まるわけです。

世界より3万年以上日本の新石器時代

従来の所謂四大文明、エジプト・インダス・中国・メソポタミア(シュメール)は4000年前、遡っても7300年前ですが、日本は3万8000年前となるので、日本こそ世界最古の文明発祥の地と言わざる負えないでしょう。

これは非常に重要なことを示します。

逆に言うと、日本の海洋民族が大陸に移動する以外で、人類がいないのに、どうやってこの古代四大文明が発達したのでしょうかという話になるのです。

東日本にブナやナラ、西日本にシイなどが広がり、大型獣が絶滅してシカやイノシシが多くなりました。

この環境変化を基盤に「縄文文化」が成立します。

人類は新石器時代を迎えることにより、社会的分業を行い、情報を共有し、言語を発達させ、そして神を持つようになるといわれていますが、こうした新石器時代のはじまりは西洋ではおよろ7300年前のシュメール文明からとされています。

一方、日本では、今見つかっている最も古い黒曜石でできた石器(静岡県沼津市井出円山遺跡)から年代測定すると、3万8000年前のものです。

しかも、この黒曜石は、伊豆諸島の神津島産のものが、日本中に散らばって発見されたりしています。

伊津の神津島と伊津半島突端とは、海上約50キロメートルの距離があり、しかも水深が深く、さらには強い海流が流れていて、泳いだり、船を人力で漕いだりして海を渡ることができません。

しかも帰りには重たい黒曜石を持って海を渡るのです。

ということは、私たちの先祖は、すでに38000年という途方もない昔に、外洋航海する技術を持っていたことになります。

考古学では、ついこの間まで、12000年前に縄文時代が誕生したと言われていましたが、現在、38000年前に更新されました。

そしてこれは世界が新石器時代を迎えるよりも、3万年以上も前のことです。

新石器時代は、古い時代の磨製石器の発見は世界でもあります。

ヴィレンドルフ遺跡(オーストリア)約25000年前

コスチョンキ遺跡(ロシア)約14000年前

アフォントヴァ・ゴラ遺跡(ロシア)約20000年前

ナワモイン遺跡(オーストラリア)約21500年前

ランガンガー遺跡(オーストラリア)約29000年前

しかしこれらの遺跡は、単に新石器がそこにあったというだけで、これら新石器を用いていた人たちが、その後にどのような文化を発展させながら現代に至ったのかを示すものがありません。

単に、ポツンとその場所に新石器があった、というだけなのです。

一方、日本では、秋田から奄美群島まで135か所の遺跡から400点余りの新石器が発見されています。

それらはすべて3~4万年前の地層から出たもので、どれも世界最古のものです。

イギリスの考古学者のJ・ラボックは「日本列島の住民は世界に先駆けること2万数千年前から3万年前に、すでに新石器時代を迎えていた」と述べています。

そこで日本の約38000万年前にはじまり、3000年前(縄文晩期が約3300~2800年前)の弥生時代までに続いた35000年という途方もなく長い期間を「縄文文明」の時代と呼びます。

日本は世界でももっとも古くから歴史を持っている国なのです。

黒曜石が導く文明の夜明け

新石器時代には打ち砕いた石の破片を利用した旧石器時代の石器と違って、打製や磨製によって、石が加工されるようになります。

ここでとりわけ重要な役割を果たすのが、割れたガラスの破片のように鋭い切れ味を持つ黒曜石です。

マグロの解体ショーをご覧になったことがある方であれば、胴体の直径が1メートル以上にもなるような巨大マグロを、職人さんがこれまた巨大な包丁で「えいっ」と解体していく様子をご覧になると思います。

この解体ショーでは、切れ味の鋭い包丁が用意されますが、新石器時代というのは、まだ鉄器も青銅器もなかった時代です。

その時代に、大きな魚や、大きな動物の肉を食べるには、当然のことながら刃物が必要になります。

そしてこの刃物の役割を果たしていたのが黒曜石でした。

新石器時代になると、人骨の、特に上腕部の骨や腰骨あたりがものすごく太く丈夫なものに変わっています。要するに、食べるものが変わったといえます。

つまり、黒曜石を包丁代わりに使うことで、大きな動物や大きな魚を食べることができるようになり、それにより体を作る栄養状態が劇的に変化したことを意味します。

38000年前から始まっていたもの

黒曜石が発見されているのは日本で約400か所

長崎県佐世保や島根の隠岐のように地元の黒曜石を用いた痕跡のある遺跡もあるのですが、九州・沖縄から北海道まで、大半の遺跡で発掘されているのが、伊豆諸島の神津島でしか産出されない黒曜石です。

たとえば東京の武蔵野台地の旧石器遺跡から、発見された石器類も神津島産の黒曜石が使用されていました。

伊豆半島の先端から神津島まで海上で約50キロメートルあります。

しかも黒潮の通り道ということで、海流が時速20キロメートルと大変速いです。

つまり最短距離でまっすぐ島に向かっても潮流に流されて辿り着けない場所に「神津島」があります。

もちろん泳いでいける距離ではありません。

また丸木舟を用いたという説もありますが、この時代には太い木を切り倒し、さらにくりぬいて丸木舟にするだけの道具がまだ存在しません。

仮に丸木舟ができたとしても、潮流に流されて、神津島に辿り着くことができません。

そこで思い当たるのが葦船です。

葦というのはススキや蒲と同系統の植物で、海水に浮く特徴があります。

一年草で成長が速く、1か月もあれば高さ4メートルに成長します。

日本の海沿いや川沿いに密生しており、いくらでもとれます。

日本語の葦船は「あしぶね」と読みますが、葦と足と同音です。

つまり人々の足として多用されてきたから、人々の足になる植物ということで、われわれの祖先がこの植物のことを「あし」と呼んだ可能性もあるのです。

日本神話では豊葦原の中つ国に、天孫が降臨されて今の日本がはじまったとされています。

どうして「豊田畑の中つ国」ではなく「豊葦原」なのかといえば、海洋で暮らす人々にとっては、豊かに葦があることが、いくらでも船を作ることができる国を意味していたからだったとも考えられるのです。

さらに、この葦船を使って神津島までの往来をしていたのだとすれば、それには手漕ぎ船では無理があります。

つまり当時の人たちは、葦でできた葦船に、同じく葦を用いた帆を張って航海していたとしか考えられないのです。

もっというなら、葦船は、葦を船の先端と後方で縛って留めます。

縛るのも葦を用いるのですが、この縛り目が水面下にあると、ほぐれてしまうのです。

そこで、船の前後が

う上に向かって反りあがるように伸びる形状になります。

この形は、つい近世までの船舶の形の原型になっています。

潮流の速い外洋であることを考慮すると、神津島に渡った葦船は帆船であった可能性が高いです。

というのは38000年前という途方もない昔に、われわれの祖先は外洋航海をすることができるだけの船と、航海の技術を持っていたことになります。

そしてそうでなければ神津島の黒曜石が全国に散らばっていることの理由の説明がつかないのです。

縄文人は鍋が好き

黒曜石製のナイフにより、大きな獲物をさばいて食べやすいサイズに切り分けられるようになると、今度は煮炊きができるものが必要になります。

ある程度の火力に耐えることができ、石と同じくらいの硬いものといえば、まさに丈夫な貝殻が用いられたと推測します。

火があって器があれば、なべ物にすることが可能になります。

17000年前から土器が用いられるようなり、鍋料理も土器で行われるようになりますが、それまではおそらく貝殻だったと推測します。

そうした生活を万年単位で続けていると、鍋の時に焚いていた火の下の土が、いつの間にかカチカチに硬くなっていること「粘土」が発見されます。

これに気が付いた人々が粘土をこねて器の形にし、焚火の上に載せると、火が消えた後に、粘土の水分が飛んで、固い器が出来上がります。

これが縄文式土器の始まりとなります。

焚火の温度はせいぜい800℃くらいです。

焼きの温度が低いと土器は水漏れがします。

このため初期の頃の縄文土器は、底がとんがった形をしており、おそらくは土に埋めて使っていました。

時代を経るにつて、焚火の火が消えないように周りに石を積み、火に風が当たらないように工夫されるようになりました。

すると火力が強まって、土器に入れた水が漏れにくくなります。

このため中期以降の土器は、底が平らになっています。

もちろん、鍋を食べるための「古代箸」もありました。

この箸は今も使われていて、新嘗祭天皇陛下が行う儀式に用いられます。

新嘗祭」は、天皇陛下が皇居の中に特別な神殿をつくり、天照大御神(アマテラスおおみかみ)をはじめとした天神地祇をお招きして、神々とともに今年できた新穀、お米を炊いたご飯をお召し上がりになる、という皇室祭祀です。

この時に使っているのが古代箸です。

鍋料理を入れる器は貝塚です。

貝塚には大小様々な貝殻が捨てられていますが、二枚貝でお茶碗くらいの大きさのものは器としてちょうどよいものです。

その貝殻にお鍋で温めた熱い食べ物を入れて食し、そこにたまったお汁を飲む。

おそらく日本の御出汁の文化もここから始まっているのではないかと思います。

貝殻は、大きなものは土を掘るための農機具として、小さなものは食事のお皿にもなったことでしょう。

この伝統は現代にも受け継がれています。

高級日本料理店にいくとお膳の上に小さなお皿に盛りつけらえた様々な料理が出てきますが、これはまさにわれわれの祖先が縄文時代に貝殻でやっていたことが変形されて現代に至った物といえます。

海面低下17000~12000年

12万年前は現在とほとんど海面の高さは変わらなかったのですが、

10万年の間に海面は下がり続けます。

とりわけ17000年前(縄文時代草創期)はピークで今より14メートルも海面が低くなっていました。

ここまで下がると、

いま東シナ海黄海となっているエリアは、かつては広大な平野部になっていて、琉球諸島もかつては巨大な島が連続する「琉球列島」でした。

そして琉球列島とこの東東亜平野との間には広大な内海があり、ここは水深が浅く、当時は公害なんてありませんから、太陽光が海底にまで届き、海藻が繁殖し、プランクトンも繁殖し、それを食べる小さな魚たちが豊富に暮らし、それを食べる中型、大型も豊富に暮らしていました。まさに魚の宝庫でした。

しかもここには、太平洋の赤道直下で暖められた暖流が流れ込み、さぞかし人々の暮らしやすい地域だっただっろうというのがうかがえます。

氷河期が終わって地上が暖かくなっていくと、陸地にあった氷が解けていき、これが海に流れだし海面が上昇します。

沖縄早期(草創期)約12000年~7000年

日本の歴史と文化が本格的に動き出したのは縄文時代でしょう。

地球はこの100万年の間、数回もの大氷期間氷期を迎えています。

およそ20000年前(一部の陸橋は18000年前の再浮上がありますが、それも15000年以降に水没します)、気候が10年に平均5℃あがる温暖化により、海面がおよそ100メートル上昇したため、日本列島が大陸から切り離されて自然環境が一変します。

この2万年という数字は確定事項で、この2万年という年数だけでも、古代四大文明よりも古い文明で、記録上、世界最古となります。

赤道付近の大陸の河口に住む民族、主にボルネオ(ジャワ島)・ソロ川(インドネシア)河口に住む湊川人(沖縄人)は、沈みゆく大陸から高みへと逃れ、島々に散っていきます。

早くから、ミクロネシア(フィリピンの東当たりの国)の海洋に属していたマオリ民族は「麻織」民族で、麻の糸、紐が出来ることにより、麻布が織られ、ロープがあまれ、人の服が作られ、船の帆が作られ、丈夫なロープが発明しました。

そうするとマオリ族イースター島からハワイ諸島まで大航海を行い、その足跡はハワイのペトログリフマオリの神々と共に磐に刻まれます。

一方、海面上昇により、スンダ大陸(一説にムー大陸)の沈没により、島々に散った湊川人は、ニュージーランド先住民族であるマオリ海人に助けられながら、スンダ大陸の文明、つまり、太陽崇拝と巨石信仰(ざっくりいうなら古神道)を持って移動を開始し、海洋民族ラピュタとなります。

海洋民族は陸を見るとき形のいい山影を見て河口から入ります。

そして沢を上って水の源流を求め、底の水が腐らない水とわかると、自分の村から船に積んだお祀り石を持ってのぼり、水場を祀ることをしていました。

これが巨石文化の伝搬の始まりといわれています。

その磐座(いわくら)の背後の森が神庭で不浄の身では入れません。

また、その奥の頂上に立つ磐座には宇宙の神が依りついて、皆に水を与えてくれると進行しました。

まさに、日本の「古神道」となります。

そんな森の水場を中心にして生活しているのが、日本縄文人でした。

海洋民族が起きの方に船団で現れると、あと2日で来るかな、などと考えて皆で狩りに出かけ、猪、鹿、鳩などを狩り、女衆は海や川で貝やアワビなどを採り、ドングリをこねて料理の準備をし海洋民族を迎えていました。

縄文時代にはとにかく戦った傷や、殺し合った痕跡がありません。まして戦闘の武器がないのです。

そんな縄文が1万年も続いています。

海洋民族ラピュタは日本列島に住む日本縄文人山と同化します。

沖縄前期:7200年前鬼界が島海底火山の爆発 約7000~5500年

7300年前、地球における広範囲な異常気象温暖化の影響で、陸の氷河は溶け落ち、北海に氷のない時代が来ていました。

海水面は現代より8メートル高く、そんな中、地球は南極、北極の氷河の融解により、地球的重力のバランスを壊していました。

世界最古といわれるシュメール文明はこのとき、水を求める祈りイルガガつまり「我に水を」という祈りの言葉が出来ました。

日本では、鹿児島の沖合の硫黄島竹島を含む鬼界大カルデラが爆発し、何十年もの間降灰が続き、西日本に人が住めない時代がありました。

海洋民族ラピュタと日本縄文人は本拠地を失い、拠点を北方、東北に移動していきます。

そうして移動していくと、北の海に氷がないことを知ったので、新天地へ船団を走らせます。

北海・バルト海、あなたは違いが分かる? - 西尾 麻貴 Maki ...

当時、北海を超えるとバルト海は海峡となっていて、スカンジナビア半島ノルウェースウェーデン)ではなくスカンジナビア島でした。

縄文人は水の島日本を中心に、北海を超えバルト海ブリトン島(イギリス)まで航行し、北欧では東洋から巨石文化と土器を伝えたとデンマークやドイツの文化庁では定説になっています。

その足跡はラピュタ土器と呼ばれるチェコの曽畑式土器の流行に見られます。

また、東北の火炎土器の文様がアイルダン度に代表されるニューグレンジ古墳と文様になっています。

ソールズベリーのストーンサークルも約5000年前北方より侵入した縄文人によって初期のサークルは築かれたとされています。

しかし、彼らは温暖化の終息に伴う寒冷化による北海の凍結により5500年前に帰路を絶たれ、縄文人とヨーロッパの交流は絶たれます。

縄文中期:金属文化が起こり、沖縄文化の変容が始まる 約5500~4500年

ラピュタは日本の熊本で曽畑式縄文土器、阿高土器、三万田土器など薄くてかたい、まさにセラミックのような土器を作っていました。

天草の陶土は今でも日本の90%のシェアを持つ上質な陶土でした。

それに腐らない岩清水を詰め、海洋を航海しました。

そのような土器は高温を出せる炉を持たないと作れません。

そのテクノロジーラピュタは知っていました。

小アジアに残されたラピュタとアルプスで岩塩を採掘するケルトが出会います。

ケルト人 - Wikipedia

そのアルプスの氷河の中から発見されたアイスマン・エッツィ(紀元前3500年)というケルト人は鉄器の斧を持っていて、身長165センチメートル足のサイズ26センチメートル、そしてピロリ菌を持っているというまるで日本人でした。

そして、体のツボにあたる所に入れ墨があり、何か医療に施されたタトゥーだといわれています。

アナトリア | 世界の歴史まっぷ

そして、アナトリア高原(トルコ)のヒッタイトケルトラピュタの土器製造の技術者が、いつしか土器の製法を教える工程の中で金属が誘拐されたのではないでしょうか。

それは、日本の陶石より質が悪い(ミネラル分が多い)土を使ったために偶然発見された金属であり、それは果てしない未来を創ることになりました。

彼らはその技術の神をガラム神としました。

その金属は農業を発展させるためではなく、最初は、農民を襲い、作物を食い荒らす動物たちや猛獣から人々を守る役目の弓矢や槍でした。

また、この時期、地球温暖化は終息を迎えると、南西モンスーンは逆転し夏は乾季、冬に山に雪が降り続き、春は洪水を起こす気候に変わり、人間が最も住みやすい北緯26度から35度のおび帯は砂漠化していきました。

サハラ砂漠メソポタミア、インダス、黄河アメリカ大陸もサンディエゴを中心にアリゾナも砂漠化しています。

しかし、その頃は、世界最古と呼ばれる文明がありました。

ナイル文明、シュメール文明、インダス文明黄河文明アステカ文明です。

そこは早くから麦、米の文化で都市国家の基盤を作っていましたが、その農業が水の枯渇により水場・水利の争いが起こります。

それは民族の土地の境の争いが、国家の存亡をかける帝国主義的王朝の主張へと発展していたのでした。

縄文後期・沖縄晩期:シュメール人は世界へと散っていく 約4500~3300年

4200年前、シュメールに戦乱が起こり、アッカドサルゴン1世がメソポタミアを摂関し、キシュの王ルーガルザギシをニップールのエンリルの門に1週間もの間、磔にさらしものにして、その前で首をはねて処刑します。

それによる、ウルク、ウル、キシュ、ラガシュ、ニップールのシュメール人は世界へと散っていきました。

しかし、シュメールの核となっていた海洋民族ディルムン、プント、メルッハ、マカン族たちは、ギルガメッシュ叙事詩が語っている伝説によって、東海の蓬山の存在を知っていました。

サルゴンとの戦いで、キシュ王ルーガルザギシに雇われたケルトの傭兵集団や羊飼いのヘブライ人、フェニキアラクダの商人たちも同時に国を追われ、行く先が亡くなったので新天地へと旅立つことになります。

多くの民はユーフラテス川を遡上してアナトリア高原からフリ族やイリキュア人などと同化し、またある一帯はレバノン山脈を越え地中海方面へと逃げていきますが、

シュメールの海洋民族マカン族と出会ったシュメールの王家の一族は伝説の島、デイルムンの都である東海の蓬山、つまり、日本列島を目指しました。

そして3300年前に旧約聖書出エジプト記の通り、モーゼ達、ユダヤ人(ソロモン、フェニキアケルトの精鋭たち)が第1波が日本に渡来します。

森の民となって地元に根付き、邑(むら)を形成し、鉱山、治金、石工の技術を提供し始め、縄文時代弥生時代へ移行します。

縄文の主な生活

豊かな食糧事情を反映して、土器が発明され、火を利用して煮炊きの技術や保存技術が発達しました。

石器文化に土器文化が加わったことで、いわゆる新石器時代が誕生しますが、日本の縄文文化は世界最古の新石器文化でもあったことになります。

これまで土器の初見はメソポタミアとされて、そこから「世界文明の祖国」と称されることもありましたが、縄文文化の土器はメソポタミアより6000~7000年は古く、12000年前まで遡ることが珍しくありません。

最近では太平山元遺跡(青森県蟹田町)から16000~15000年前とされる土器が出土して話題になりました。

メソポタミアよりも6000~7000年も古いというのは世界史の序章が書き換わるので非常に重大なことです。

そして、縄文時代人といえば、たいていの場合、粗末な毛皮や衣をまとって野山の獣や鳥を追いかけたり野生の植物や木の実を求めて放浪する姿が想像されてきたこれまでとは異なり、豊かな暮らしがあったことも明らかになっています。

そもそも裸同然の格好で、寒い冬などに捕まるか捕まらないかわからない獲物を追いかけるなどということがあるはずないのに、勝手に超古代人をバカにしてイメージしていたのです。

何故かというと、いつの間にか考古学者の常識として「水稲栽培(水田による稲作)が始まる弥生時代になって初めて集落が出現し定住生活が始まった」という定説ができあがり、あたかも真実であるかのように語られてきたのです。

しかし、1997年5月、鹿児島県国分市の上野原遺跡が、紀元前7500年頃には50軒ほど住居や集住遺構を伴う集落になっていたことがわかりました。

縄文早期にはすでに定住生活が行われていたのです。

青森市三内丸山遺跡においてもほぼ同じか、それ以上の規模の集落が縄文早期から前期にかけて存在したことが明らかになっています。

三内丸山遺跡はたまたま野球場一つ分の広さを発掘できたため、かなり広い範囲で実態が明らかにされましたが、それでも予想される遺跡全体の8分の1にすぎないといいます。

また津軽海峡を挟んで反対側、北海道函館市でも函館空港遺跡群(縄文早期)が見つかり、縄文時代の早い時期から集落を形成して定住生活をしていたことが次々と立証されつつあります。

三内丸山遺跡函館空港遺跡群では、ヒエやクリなどの選択的栽培(農業)を営み、直径1メートル余の木柱を使った建造物を建て、長さ30メートル余りのロングハウスを造って生活していました。

それだけではありません。

大湯環状列石秋田県)や忍路環状列石(北海道)などの巨大な配石遺構(ストーンサークル)や黒又山秋田県)などの人工の山(ピラミッド)を日本各地に残し、天文学や地球物理学と結びついた祭祀施設を持っていたことも確認されました。

ほか、現在ではプラント・オパールの研究により、縄文後期から南西諸島を通って劣等に伝播した熱帯ジャポニカ焼畑稲作が行われていたことが判明しています。

さらに、晩期では岡山市の津島江道井関から3×5メートル前後の小区画水田遺構が発掘され、弥生時代からの水栽培説が覆されました。

より以上に驚くのは、古墳時代をイメージさせる勾玉が、遅くとも縄文中期ごろには造られていたことの判明です。

特に新潟県糸魚川市の長者ヶ原遺跡からは翡翠製勾玉とともにその工房が発見されており、蛍光X線分析によると青森県三内丸山遺跡や北海道南部で出土される翡翠糸魚川産であることがわかっており、このことからも縄文人が広い範囲で互いに交易をしていたことが明かされました。

後年には、日本製勾玉は朝鮮半島へも伝播しています。

こうして1万数千年間も咲き誇った縄文文化ですが、地球の寒冷化につれて食糧不足に陥り、農業を不可欠とするようになって弥生文化を導入しなければならなくなり、終えんを迎えたとされています。

しかし、本当はどうだったのか。

現在のペトログラフはまだ、その全貌を明かすまでに至らず、語り継がれる伝承もない以上ははっきりしたことはわかりませんが、今日の意味でいう国家を組織し、狩猟用具に転換した集団が登場したことによって、事態が一変したのではないでしょうか。

他の人間を情け容赦なく殺傷し、武力で支配することをしなければ、滅び去る他になかったゆえに、「意識の断層の向こう側にある縄文時代の心のあり方を代表する石棒や石皿や丸石に霊威を認めて」ミシャグチ神が登場したのではなかっただろうか。

ミシャグジ神とは御石神のことで、女神転生において「ミシャグジ」と悪魔で登場させたことで制作陣が何かしら祟られたことで、「ミシャグジさま」と「さま」をつけたことによってその祟りが鎮まったというエピソードは女神転生ファンではそこそこ有名な話ですが、そのミシャグジ神です。

こう考えるミシャグジ神ってレベル90超えの悪魔ではないのか?と気がしなくもないですが話が脱線するのでここで終わります。

しかし、記紀神話の中にありながら、ミシャグジ神と同じようにして今日に至った神がいます。

それも石神である少名毘古上(少彦名命)です。

記紀神話をはみ出したトリックスター「少名毘古上(少彦名命)」

少名毘古上とは、記紀大国主神の国造りの箇所に現れる異形の神で、国づくりを手伝ったのち、忽然と常世の国へ去り消息不明となる謎の神です。

古事記」によれば「大国主命が出雲地方を平らげ、国造りをしようとして御大之御前(みほのみさき)(現在の島根県美保関あたり)にいたところ、天之羅摩船に乗ってやってくる。しかも大国主神が名を聞いても答えず、周囲の神たちも知らないと言う。そこで崩彦を召して、ようやくわかった」とします。

この崩彦は案山子(かかし)のことで、羅摩とはガガイモといい、その実を二つに割って船にしたというのですから、童話の一場面のようです。

画像はガガイモの実です。

ガガイモの実(夏)

この形状からはエモスキーやイヌイットなどが今でも使っているカヤックのような小舟を思い浮かびます。

また、崩彦が「御祖(みおや)」である神産巣日神に問うと「わが子のうち、指の間から落ちた子」であり、現れたときの風体は「ひむしの皮を内剥ぎに剥いで衣服にして」いました。

ひむしはガチョウのことですが、古事記伝では本居宣長は「ガチョウでは大きすぎて皮というものに当たらない」と記し、少名毘古上神は、一寸法師のように小さいことを想定されました。

少名毘古上神は大国主神を助け、国造りを行っていくうえで医薬・温泉・禁え(まじない)・穀物霊・知識・酒造・石など多様な姿をみせます。

つまりは農業など様々な技術指導をしたということです。

こうして創造における多様な面を持つ神ですが、悪童的な性格を有することも「日本書紀」は記します。

この少名毘古上神の「小さい」という身体性について、ガリバーの小人の国の物語や親指トムの物語などから類推すると、大昔にはそのような異常に小さい小人族が世界のいろいろな場所に実際にいたのかもしれません。

日本には北海道のアイヌ族の伝承に出てくるコロポックルがいます。

コロポックルとは「葺(ふき)の葉の下にいる人」という意味です。

ハワイ諸島のホノルルにあるビショップ博物館の記録によれば、メネフネ小人族は1951年の調査でハワイの7つの島で概算5万人いたとされています。

ハワイの伝説の小人族『メネフネ』。|Yass☆

メネフネ族は現在も生きておりますが、風邪や感染症この60年間で人口は激減しており、2007年時点でわずか40人程度が住むに過ぎないそうです。

メネフネ族は「先史時代の後期に太平洋の西からやって来た海洋民」とされているため、少名毘古上神は、このメネフネ小人族であったかもしれません。

また、このメネフネ族ではないですがアフリカには身長150センチ以下の小人族としてしられるピグミー族がいます。

かれらはかつてはマレー諸島やインドネシア諸島などにも同じような小人族がいた可能性は高く、少名毘古上神の現れ方からして、既述どおり「ガガイモやヤマカガミで作った舟と水鳥の羽や皮で作った衣服」のあるところ、少なくとも各種蔓草・竹・柳などの舟の用材と鳥類が採取できる地域から漕ぎ渡っていったことが考えられます。

90センチのメネフネ族から150センチのピグミー族では違いが大きすぎると思われるかもしれませんが、少名毘古上神の小ささは相対的・比喩的なものとされますので相対的な小ささで問題ありません。

つまり、メネフネ族もピグミー族の祖先も晩期:約3300~2800年辺りに神話として出てきた少名毘古上神が日本列島から移動してきた民族だったのではないかということです。

少名毘古上神が目指した「常世の国」は四国

大国主神と行動を別にするのは、少名毘古上神が常世の国に去ってからです。

常世の国とは、古代日本では「はるか遠い海の彼方の国」や「遠方の海の向こうにある理想郷」を意味します。

四国の南矛地方、ことに愛媛県大洲市菅田町では「少名毘古上神は温泉治療、薬草を使っての病気治療、稲や栗などの農業耕作、河川補修や沼地の干拓など多くの面で技術指導した」という伝説が残され、さらにその仁徳が敬愛されていたことが伝えられています。

忽然と出雲国(一説には伯耆国)を去って、常世の国に向かったという少名毘古上神は四国にいたわけです。

この地方は、先史時代には高度な文化があって開けていたようです。

その証拠として、山間部にはかなりの数の巨石文化遺跡があります。

1メートル角ほどの自然石を円形に配置した環状列石(ストーンサークル)や平たい大石を3個の支石で支えてテーブル状にしたドルメン、細長い巨石を建てたメンヒル、それに岩石に文字や文様を彫り込んだペトログラフ、岩石に杯状の穴を幾つも彫り込んだ盃状穴石などの遺跡がかなりの数で残っています。

同市高山にあるメンヒルは、高さが地上部分だけでも4.75メートルあり、1929年に現地を調査した東京帝国大学の当時助教授の鳥居龍蔵博士が、東洋1のメンヒルと認定したことで知られています。

このほか、環状列石など50数基の遺跡があると大洲市教育委員会は記録します。

ただし、長年の風化と放置によって半数以上が失われています。

これらはいずれも巨石文化時代(ヨーロッパでは約6000~5000年前でストーンヘンジはその代表)のもので、日本では縄文前期~中期(約7000~4500年前)にあたります。

少名毘古上神の時代は特定されていませんが、神代としてのこの巨石文化時代の頃の伝承かもしれません。

大洲市菅田町都地区h、瀬戸内海の伊予難から直線距離で約12キロの内陸部の山村地帯で、出雲からは瀬戸内海を隔てて実に200キロは優にあります。

記紀の成立時代にあっても、瀬戸内海を隔てた伊予後は、海の彼方の遥かなる国であり、常世の国であったに違いありません。

また、少名毘古上神が住んでいたという都地区には、その屋敷跡があり、少彦名命を祀る神社もあります。

加えて、「少彦名命は九州の別府から四国まで地価の湯道を堀り、別府温泉の湯を松山に引いて道後温泉を造った」という壮大な伝承もあります。

その少彦名神社傍で見つかった盃状穴石は、地元の伝承で「少彦名神は薬草を調合して医薬品を作っていた」というから、その薬草をすりつぶすのに使った一種の薬研でしょう。

オーストラリアのアボリジニー穀物などをすりつぶすのに使っていましたし、石器時代には世界中の様々な場所でそれぞれの民族が同じような用途に使った道具です。

少名毘古上神は都地区から約1キロほど下流肱川(ひじかわ)を渡ろうとして溺死したといいます。

10月から3月にかけての冬場には、山間部で発生した霧が寒気とともに河川を一挙に下り、河口の汽水域で濃い霧として吹き荒れる「肱川あらし」ちう強烈な自然現象で知られています。

少名毘古上神は、浅瀬を渡っているつもりが、実は深みの激流であったためにそこで水死したとされます。

その亡骸を葬ったとされる梁瀬山には、少彦名命の御陵があり、戦前までは山全体が神域であり、立ち入ることのできない禁足地でした。

ここは愛媛県最古の神社とされます。

少名毘古上神を祀る神社は日本各地にありますが、神陵は大洲市の梁瀬山だけですから「この地こそ少彦名命がやって来た常世の郷であり、終焉の地である」と地元は誇りにしています。

アニメですが、アクダマドライブで「四国」へ向かったのもこの「常世の国」を意識して制作したのでしょうか。

世界最古の縄文日本人が航海して別大陸へ

先史時代からの岩石に刻み続けられた文字や文様、記号、絵などの総称をペトログラフといいますが、特に日本の神社や霊山の三兆などには巨岩・巨石に刻まれたペトログラフがあり、先史時代から人々はそれを磐座(いわくら)として崇敬し、そのための拝所が神社となります。

そして世界中の文明地にペトログラフが残されていて、この構造が同じなのです。

では、日本が最古で他の大陸に移っていったという話をしていきます。

ハワイ~エジプト 世界のペトログラフがみな日本を指し示した

まず、ハワイ島のワイコロアには盃状穴を主体に膨大な数のペトログラフがあります。

それらは、伝説によれば溶岩原洞窟に住むメネフネ小人族によって刻まれたといわれています。

メネフネ小人族は、先史時代後期に「太平洋の西から来た渡来人」とされていますが、ハワイから見た太平洋の西には日本・韓国・台湾・中国があるものの、同形のペトログラフは日本にしかありません。

一方で日本にも九州の土蜘蛛、四国のクンピラー、北海道のコロポックルなどの小人伝説があり、メネフネ族伝説に重なる部分が多いです。

またメネフネ族にはワ、ワオウ、ムウなどの部族などがあり、倭・倭王・ムーと推定されます。

ワイコロアにある「ムー大陸のシンボル」の線刻も同様なものが岐阜県中津川市高山にあり、滋賀県高島市安曇川町には「ムー文字」の岩、熊本県人吉市には「サ・ラ・ムー」(ムーの守護神)の線刻岩があります。

このほか、これまでハワイ諸島特融とされてきた「ヘイアウ」という石積み神殿もメネフネ族の神殿とされますが、これも山口県の角島や徳島県美馬市穴吹町、福岡県の平尾台山麓熊本県天草市栖本町に同様のものがあります。

なお、天草には小人族の洞窟もあります。

さらに、ワイコロアには三重同心円に向かって進む騎乗の人馬の線刻があります。

先史時代には馬は神聖な存在とされ、乗る神と同一視されました。

いわゆる神馬伝説がそれを傍証します。

おそらくハワイ島の神馬は、火山島でもともとはいなかった馬が、初めて到来した記録として描かれたものでしょう。

一般に4~7世紀に築造されたとされる装飾古墳にも馬の絵があり、これも神馬伝説の具現です。

日本も先史時代には乗馬の歴史はなく、その渡来は弥生時代末期とされます。

したがって、ワイコロアのペトログラフと同様な意図があったのでしょう。

これは福岡県嘉穂郡桂川町の王塚古墳での、玄室入り口の両脇に書かれた黒い馬などにも言えます。

他方、福岡県宮若市の竹原古墳には舟に乗った武人と馬が描かれていますが、それはのちにマジャールとなる一派の日本到来を明らかにしました。

マジャールヴォルガ川東方から現れた遊牧民の集団フン族の末裔で、フン族は370年頃にヨーロッパに移って西ローマ帝国を崩壊させ、いわゆる民族大移動を誘発したことで知られます。

そしてアッティラ大帝国を築きましたが、453年の彼の死と共に現在のハンガリーなどに残るほかは世界各地に散りました。

こうした日本における古代の、いや超古代の世界交流は特別なものではありません。

大分県宇佐市安心院町には、北アイルランドのタラ遺跡に匹敵するストーンサークルがあります。

ストーンサークルは紀元前2500年頃のケルト人(民族はイギリス人のほかスペイン頭部からフランス・ドイツ南半部・スイス・オーストリア等に分布)の巨石文化が始まるとされますが、ケルト人のトライを示すものなのでしょうか。

このケルト極東渡来説はバリー・フェル博士などのハーバード学派が提唱しています。

ケルトの極東渡来を裏付けるものは、七面草という植物にあります。

七面草は黄海周辺から日本列島に分布しますが、その原生地は不明でした。

しかし、2004年、フランスのビスケー湾沿岸ゲランドの塩田のそばにその群生地を見つけました。

植物は自力で移動できない以上、ケルト人が異動する際に持ち込んだものと推測できます。

この七面草の渡来ルートの発見は植物学会への朗報であると共に、伝承とペトログラフを組み合わせた成果です。

さらに福岡県うきは市芳井町の珍敷塚古墳の壁画にエジプト国立カイロ博物館のラーマン館長は「エジプト人が日本に到来した証拠だ!」と感激をあらわにしました。

というのも、同壁画はエジプトのセン・ネジェム墳墓の壁画と瓜二つだからです。

また、これと同じく船・太陽・鳥を描いた壁画は鳥船塚古墳にも発見されました。

さらに、この「太陽の船」と名付けられたものは、近年にギザ・クフ王のピラミッド横から副葬船として発掘されましたが、それと驚嘆すべき一致で日本の船形埴輪がみつかっています。

それら船形埴輪のなかには、舳先に鳥を止まらせたものまで出土していました。

航路上の島々に残されたペトログラフを解析したオランダの歴史数学者レイノード・ヨンゲ博士は、

エジプト海洋民が「ジブラルタル海峡から大西洋に出て南下し、アメリカ大陸に到達した」とか「カナリア諸島から北上し、アゾレス諸島シェトランド諸島アイスランドを経て北米のニューファンドランド島に到達。また、セントローレンス川を遡ってオタワまで到達していた」という説が提示されていますが、エジプトの海洋民は太平洋を渡って日本にも到着しているとしました。

そして、ヨンゲ博士は日本の装飾古墳は4~7世紀ではなく、ヨーロッパなどよりずっと古いもので、少なくとも一部は紀元前1000年、場合によっては紀元前5000年に達すると述べています。

仮に紀元前5000年のものなら、エジプト文明は紀元前3000~前2000年の間にその際隆盛期に達しましたから、日本の装飾古墳のほうがより古いことになります。

さらに、このようにも述べています。

「日本の考古学は、特に戦後のGHQの指導下で編年が行われたせいで、年代を政治的に繰り下げられている。装飾古墳中でたまたま5世紀や6世紀の人骨とか土器などが発見されたことから、古墳の年代をそれに合わせただけなのだ。実際は装飾古墳は紀元前5000年の巨石時代に造られていたもので、当初は墓でさえなかったかもしれない。時代の流れの中に種々そのときどきの需要に合わせて用いられ、石棺や副葬品などが置かれて墓ともなった。そうしたことのために、戦後の日本の考古学が編年したに過ぎない。だから原点に戻ってうすべての古墳の年代測定をやり直すべきだ」

戦後の日本はGHQにより骨抜き支配され、その骨抜き最大の手法は神話をなくす崩壊教育でした。

神話は民族の尊厳にかかわり、神話のない国家や国旗は国家のない国も同然です。

日本国民は神話を持たない民とされ、彷徨える民となって占領国の隷国民に落ちぶれます。

古代ギリシャアルキメデスに先行し凌駕する九州古代王朝の文明

2007年、元自衛隊レンジャー部隊教官の石本今朝氏は阿蘇外輪山の一角に出た「日中坊主」の写真撮影に成功しました。

昼日中に坊主頭のような光体が出ることから、地元では「日中坊主」と言われ習わされ、農作業の手を休める目安としていました。

そして、調査隊日中坊主が出る岩場までついて調査すると、岩場でした。

横幅3.4メートル・縦1・5メートルの大きさに岩肌がなめらかに加工され、わずかにその表面は湾曲し、全体として凹面鏡を作っていました。

こんな加工は、現代の科学でもなかなか困難です。

第一、この岩場は絶壁にあり、そこに機械を持ち込むことはできません。

人力でやるとなると固い岩をどうやって凹面鏡に仕上げるのか、至難の業です。

しかし、現実にこの凹面鏡があることは、古代にそれだけの技術、文明がこの阿蘇谷にあったということになります。

そしてこの凹面鏡に加工された岩は、いつ頃造られたのでしょうか。

阿蘇の伝説では神武天皇の孫である健磐龍命が作ったといいますが、年代は明らかではありません。

もともと記紀による神武天皇がいつ天皇であったのかも不明です。

ただ凹面鏡については古代ギリシャアルキメデス(紀元前287~前212年)は円や球・楕円・放物線の体積の求め方やπの数式を知っていて、凹面鏡を製作し、これを利用した望遠鏡を製作。また、シチリア島に置かれたギリシャの植民都市シラクサにおいて、多数の鏡で集めた太陽光を凹面鏡に集中させることでローマの軍船を焼き払ったという記録もあることから、およそ2300年前にはすでに凹面鏡があったといえます。

さらに、メキシコのオルメカ文明(紀元前800~前~300年)にも凹面鏡を使った採火技術があったことが知られています。

このオルメカの凹面鏡は抱えて持ち運びができる大きさであったことが知られています。

このオルメカの凹面鏡は抱えて持ち運びができる大きさであったとされますから、阿蘇外輪山の断崖に作られた岩の凹面鏡は現存する世界最古かつ当時最大の凹面鏡といえます。

あるいは、阿蘇の岩の凹面鏡はこの両者以前の可能性があります。

となれば、先史時代に阿蘇にはアルキメデスを超える数学・物理学者がいたことになります。

凹面鏡型の岩の存在は事実存在します。

日本の、しかも阿蘇地方に古代ギリシャの数学・物理学を超える知識があったのは驚愕の事実です。

考古学的には、縄文前期(約7000~5500年前)に阿蘇霧島を中心とする九州古代王朝があり、そこの凹面鏡を製作しうる光学理論まで持った文明があったことになります。

日中坊主の不可思議な光を空中に現出する神であるはずなのに、不思議なことに、村落の人々は誰も昔から、日中坊主をご神体として崇拝するものはいなかったそうです。

ムー大陸の考察

幻の大陸の伝説

ここまで古代を深掘りしていくと幻の大陸の存在と時代重なったり重ならなかったりしますので、

全く知らない人のために、創作物でよく聞く、アトランティス大陸ムー大陸などの幻の大陸に関してザックリ説明します。

アトランティス大陸

アトランティス - Wikipedia

生みの親は古代ギリシア最大の哲人プラトンです。

アトランティスの建国者を海神ポセイドンにおいているように、そもそもは神話からはじまっています。

アトランティスの消失はソロンの時代を遡ること約9000年、つまり紀元前9560年のころのできごととと付け加えられています。

アトランティスはポセイドンの子孫が統治する10の王国からなり、各王は領内で絶対的権力を行使しましたが、高邁な精神のため住民が圧政に苦しめられることはありませんでした。

軍事組織も万全の態勢を取っていて、爆薬や円盤、サーチライトといったものを発明し高度な科学技術を誇っていたと指摘する者もいます。

しかし、この島は一夜にして海底に消え去ったといわれています。

そもそも、大西洋の向こう側にある島といったようにプラトンの記述辞退いかようにも解釈できるあいまいな部分が多いです。

www.youtube.com

ただ、アトランティス大陸はこの動画説が一番有力なのではないかと個人的には思います。

ムー大陸

ムー大陸 - Wikipedia

12000年前のある日、忽然と海中にその姿を消した幻の大陸です。

1926年ジェームズ・チャーチワードという退役軍人が書いた「失われたムー大陸」という世紀の奇書によって出てきました。

原典となったのは、カシミール地方のヒンドゥー寺院の高僧から門外不出といわれる粘土板「ナーカル碑文」とされ、そこにはムー大陸とその滅亡までの経緯が絵文字で記録されております。

ムー大陸に人類が最初に誕生したのはおよそ5万年前で、都にヒラニプラと呼ばれましたが、現在のミクロネシアのポナペ島のナンマドール遺跡がそれにあたります。

大陸は都を含めて7つの大都市があり、最盛期で6400万人の人口を擁したといわれています。

10の民族からなる住民はさまざまでしたが差別は一切なく、ラ・ムー、つまり「太陽のムー」と呼ばれる帝王により統治されていました。

学術に通じた優秀な民族でとくに航海術で巧みで広い大洋の隅々まで航路を開き、アジア大陸からヨーロッパ、アメリカ大陸を植民地にするほどの力を誇示していたといいます。

豊かな水、温和な気候、肥沃な土地でほとんど栽培らしいことをせずとも自然の恵みを豊かに実らせます。

絵にかいたような楽園浄土だったそうです。

しかし、ムー大陸は唐突に大地震と噴火活動が地上の一切を根こそぎした挙句、大音響とともに台地は粉々に砕けて陥没し、四方八方から海水が流入し大帝国が一夜にして跡形もなく海中に没してしまったといいます。

スピリチュアル界隈では、

ムー大陸アトランティス大陸)あたりが全人類の先祖→大陸が亡くなり、日本列島から移動し、大陸で文明を作り渡来人(ユダヤ人)が秦氏として、実質的に日本に戻って来たという流れがありますが、それはあながち間違ってないのかなと推測します。

レムリア大陸

レムリア大陸 レムールが示したその可能性/世界の新七不思議 ...

アトランティス大陸ムー大陸がロマンの色濃い性格であるのに対して、存在の有無はともかくとしてレ無理はもう少し専門的になります。

さまざまな科学的調査によって、インド洋一帯に巨大な大陸が実在したことが分かっています。

南米、アフリカ、インド、オーストラリアの各大陸は地質学的に同一であるうえ、出土する動植物の化石分布を調べても不可分の関係にあり、北半球の大陸ユーラシアとは明らかに異なっています。

この巨大な古代大陸は2億年前から1億4000万年前まで存在しましたが、やがて分離して北進したインドは、ユーラシアとぶつかりその衝撃で現在のヒマラヤ山脈が造成されてといいます。

地質時代の区分から言えば中生代ジュラ紀で巨大な肉食性の恐竜がのし歩いてた時代です。

沖ノ島海底遺跡の発見

玄界灘に浮かぶ沖ノ島宗像三女神のうちの田心姫が祭祀され、島そのものが神域であるとともに、古代から大陸との往来の安全を祈願する「通過儀式の場」でした。

そこに1954~71年にかけて、毎日新聞の西部本社が中心となって学術調査団が組織され、三次に渡る学術調査が行われました。

その結果、宗像大社沖津宮の周囲の岩陰から4~10世紀にかけて鏡・玉・刀剣・金銅製の馬具など多くの品が12万点余り発見され、一括して国の重要文化財に指定されました。

そのなかの340点は国宝にあります。

このことから、沖ノ島は「海の正倉院」とも呼ばれており、

発掘品はすべ宗像大社文化財管理事務局に保管され、展示されています。

ちなみに、宗像大社は海に臨む辺津宮筑前大島中津宮と前記の沖津宮の三宮の総称で、辺津宮には市き島姫・中津宮にはたぎ津姫がそれぞれ祀られています。

この沖ノ島の東北の深さ約40メートルの海底に古代神殿跡と思われる遺跡が1998年に地元の漁師によって発見されました。

世界の水中考古学などにも問い合わせて考証した結果、おそらく「ムー大陸アトランティス大陸などが海底に没したといわれる1万2000年前に、かつて朝鮮半島と九州との間にあった地峡の残りが沈下して、そこにあった地上の祭祀遺構が海底に没したもの」だろうと想定されました。

2006年には不思議な男女一対の神像がある漁師によって引き上げられたことが判明しました。

鵜とペリカン 失われた古代文明のカギを握る水鳥|ぽーるそん

神像の頭部にゲキと呼ばれる想像上の水鳥があり、これは世界でも例をみません。

この一対の神像の謎の完全な解明にはまだ時間がかかり、沖ノ島海底の巨大円筒型神殿とみられる遺跡に謎の神像があったということは衝撃的であり、日本の古代史・超古代史にとって注目すべき発見として、今後ともその追求を粘り強く進めていかなければならないでしょう。

失われた文字を求めてのムー大陸の断章

沖ノ島海底遺跡与那国島海底遺跡との関連性について、推定水没年代の一致があります。

そしてこの年代が、およそ12000年前となれば伝説のムー大陸に思いをはせることになります。

琉球古陸の想定域は幅こそ狭いですが、大陸から現在の西表島石垣島宮古島慶良間諸島久米島沖縄本島伊平屋島・徳之島・奄美大島までを結んでいます。

これが今に残る島々をのぞき沈んだのであれば、「大陸」の水没と言えます。

しかも琉球古陸の沈下は年間数十センチ(ところにより数メートル)を超え、人々の感覚と記憶からはそれこそ一夜で沈んだとなるかもしれません。

ともあれ、18000年前に浮上し15000年前以降沈んだ陸橋ということでは、沖ノ島海底遺跡にも同じことが言えます。

この時代の古地地図では、琉球古陸や大陸とは途切れていますが、沖ノ島近辺もかなりに広い陸地になっています。

冰河期台灣琉球古陸地圖- 遙望山的網誌- udn相簿

縄文文明の神のあり方

3万5000年争わなかった平和な民族

縄文時代の遺跡は、日本中で9万1637か所もはっけんされていますが、世界中の古代遺跡から必ず発見されているのに、日本の遺跡では未だに発見されていないものがあります。

それは対人用の武器です。

もちろん、矢尻や石斧、石包丁のようなものは多数出土していますが、いずれも小さく、対人用の武器としては使えない小型のものばかりです。

矢尻は多数出土しています。

ところが動物の身体というのは、きわめて弾力があるもので、たとえば、人間の体の弾力は自動車のタイヤほどあります。

縄文時代の矢尻で自動車のタイヤを打ち抜くほどの威力のある矢尻はまったく出土していません。

また村落同士の戦争によって亡くなったと思しき人骨もみつかっておらず、頭蓋骨に穴が空いている、あるいは骨折をしているといった人骨は見つかっていますが、それらはすべて単独で埋葬されており、数順の遺体がまとめて埋葬されているような遺跡は、まだ一つも見つかっていません。

加えて頭蓋骨に穴が空いている等の外傷のある人骨はみつかった人骨のわずか1.3%しかありません。

これは世界の標準から比べるとおよそ10分の1以下です。

さらに、外傷のある人骨の多くは、遺体の周りに多数の花粉が付着しており、美しい花々に包まれて埋葬されていたことが窺われます。

縄文時代は、いまから38000年前から弥生時代の始まる3000年前まで、およそ35000年続いた時代ですが、そんな長期にわたり、わが国では、人が人を殺すことのない、平和な文化が営まれていたのです。

このように平和を愛する種族は旧人類であるネアンデルタール人にもいたことが明らかにされています。

ところが、そのように平和に暮らしてた種族に対して、攻撃的な種族「白人種」が誕生し、先住民であるネアンデルタール種を滅ぼして、現代文明を築いたといいます。

日本に通底する7つの思想

日本に通底する思想的背景をまとめると7つに集約されます

天皇

日本民族としてのアイデンティティとは何かといえば

天皇の存在のありがたさを自覚すること」

に着きます。

天皇の存在のありがたさをじあっくし、そこに感謝の心を持つ仲間、それが日本人です。

2神話

天皇の権威は、日本の最高神である天照大御神の直系の御血筋であることに由来します。

神話があるということは、歴史が記録されないくらいの古い昔からその国が存在しているということに他なりません。

日本の紀元前660年の建国宣言は神武天皇が「ハツクニシラススメラミコト」と称して建国宣言を行った時のもので、その神武天皇は、そもそも日御子であり、天孫降臨したニニギノミコトの末裔です。

3:シラス・ウシハク

大日本帝国憲法の第一条は「大日本帝国万世一系天皇、これを統治す」と書かれています。

ここにある「統治す」は音読みで「トウチス」ですが、訓読みにすると「スメラヒ、シラス」となります

「統」はスメラフです。漢字で書いたら「統メラフ」です。

スメラフは、シメラフからきています。

そして、シメラフは、シラス(知らす)から来ている言葉です。

「シラス」は「古事記」では天照大御神月読命須佐之男命の三貴神がお生まれになる所で、3度も繰り返して出てくる大切な言葉です。

シラスというのは、神々とつながることをいいます。

神々とつながり、神々の命のままに世の中を保持します。

われわれ日本人を代表して神々とつながるお役目が天皇です。

一方、政治権力のことを、古い大和言葉で「ウシハク」といいウシ(=主人)が私有する(=はく)からウシハクです。

4:対等観

シラス国であるがゆえに、日本では社会秩序として身分制度はおきましたが、すべての民は人として台頭とされました。

貴族も武士も百姓も、等しく天皇の「大御宝」です。

ただし、等しいというのは「平等である」ではなく「対等」です。

対等は、彼我の違いを見極め、そこから自己の実現を図ろうとする概念です。

それぞれが互いの役割分担の違いを意識して、その役割に応じて最大限の努力をする。

それが日本人にとっての対等観です。

5:和をもって貴しとなす

聖徳太子の十七条の憲法の第一条の冒頭です。

人の和は、人の輪です。

6:明察功過

十七条憲法の第十一条

「功過を明らかに察しよ」とよみます。

「功」は功績、「過」は過ちのことです。

消防、警察、お役所、災害対策、学校教育もすべてあらかじめ起こりうるリスクを読んで先に対策を講じる。

ほんのわずかな隙も見逃さず、いじめも起こさせない、これが人の上に立つものに与えられた使命とされてきました。

7:修理固成

イザナキ、イザナミの神様が、天のヌボコを預かった時、神様から言われた言葉です。

日本の国土を混とんとしたところから「作り固めなさい」といっているようにみえますが、「修理」とはもともとは「理を修める」なので、

もともと日本人にとって「つくる」という言葉はただ「新しく作る」という意味だけではなく「大切に修理しながら使うこと」を意味しています。

終わりに

GHQ洗脳教育の教科書では、

縄文時代といえば、野蛮な狩猟民族のように描かれていましたが、

少なくとも1万年以上平和を築いていた文明がユートピアじゃないわけがないんですよ。

日本歴史史上最もユートピアであった、自然と共生した豊かな生活ができていたこの縄文時代を皆様が細胞レベルで思い出していただきたいと思います。

今回は考古学視点ということでやりましたが、

日本書紀古事記によって消された九鬼文書伝承編も次回やりたいと思います。

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