コロナパンデミックと5G携帯電話拡大には深い関係がある
「病原菌」ほど人類の歴史上、人を殺したものはありません。
新しい感染症が流行する度にワクチンを接種して自分の免疫機能を殺していく、と。
ここまで知的水準が低いと手遅れなのですが、
何かしら原因の追及とその対策を打たなければ、世界人口削減プログラムの生贄になってしまいます。
そこで今回は、『電気汚染と生命の地球史 インビジブルレインボー』という非常に興味深い書籍をみつけた。
なんと、長寿の原因も心臓病・ガン・糖尿病も電気が原因であると述べており、
この信じられない環境要因を頭をゼロにして一から学んでいく記事にあります。
前提を否定。インフルエンザは感染しない
この記事は電磁的要因が感染症のパンデミックの原因ではないかという展開を行いますが、読者は勿論、信じないことでしょう。
しかし、そもそもインフルエンザ感染するという理屈を小学校で習ったから堂々と感染症だと言えるのか。
何かしら医学的根拠があってそれが定説になっていると思っている権威主義の日本人たちへ、残念ながら、インフルエンザウイルスが人から人へ感染するという実験が完全に否定された歴史があるので、まずはそれをみていきましょう。
ウイルスが病気を引き起こことが証明されたことは一度もない
歴史上、何千年もの間、人間と同時に様々な動物がインフレエンザに感染していたことがありました。
西暦876年、バイエルンのカールマン王の軍隊がインフルエンザに襲われた時、同じ病気で多くの犬や鳥も死にました。
それから20世紀までの流行では、人間と同時に、犬、猫、馬、ラバ、羊、牛、鳥、鹿、ウサギ、さらには魚の間でも病気が発生したことが報告されています。
べヴァリッジは、18世紀から19世紀にかけて、馬がインフルエンザに感染した12回の流行をリストアップしていますが、通常ウマは人間よりも1、2か月早く感染したいのです。
1889年12月初旬、イギリスの馬がインフルエンザに似た病気にかかったのを見たシムズ・トンプソンがイギリス医学ジャーナル誌に「人間にも近いうちに流行する」と書きましたが、この予測は間もなく現実のものとなりました。
スペイン風邪では、南アフリカやマダガスカルではサルやヒヒが、イギリス北西部では羊が、フランスでは馬が、カナダ北部ではヘラジカが、そしてイエローストーンではバッファローが大量に死亡しました。
私たちが動物からインフルエンザをもらっているわけでもなく、動物が私たちからインフルエンザをもらっているわけでもありません。
インフルエンザが待機中の異常な電磁気の状態によって引き起こされるのであれば、すべての生物が同時に影響をうけることになります。
インフルエンザという正体不明のものを解き明かす上で障害となるのは、2つの異なるものであるという事実です。
インフルエンザはウイルスであると同時に、臨床的な病気でもあるのです。
1933年以来、ヒトのインフルエンザは、その年に発見されたウイルス株で定義され、臨床症状では定義されていないため、混乱が生じます。
疾病が発生し、他の人と同じ病気にかかっても、のどからインフルエンザウイルスが分離されず、抗体もできていない場合、インフルエンザではないと言われます。
しかし、実際には、インフルエンザウイルスは病気の流行と何らかの関連があるものの、ウイルスが病気を引き起こすことが示されたことは一度もないのです。
ホープ=シンプソンがイギリスのサイレンセスター市周辺で17年間にわたって五個なってきた調査によると、インフルエンザは一般的には家庭内で人から人へ感染すると考えられているにもかかわらず、容易に感染しないことが明らかになりました。
1968年に発生した香港風邪では、70%は家庭内の1人だけがインフルエンザに罹患しました。2人目がインフルエンザににかかった場合、2人とも同じ日にかかったことが多かったのです。
つまり一方が他方に感染させてはいなかったのです。
同じ村、同じ家庭でも、異なるウイルス亜種が流通していることがあり、同じベッドに寝ている2人の若い兄弟が異なる亜種のウイルスを持っていたこともありました。
これらの事実は互いの間での感染でも、同じ第三者から感染していないことを示しています。
インフルエンザの一般的な感染拡大理論に問題があることを示すもう一つの根拠は、ワクチン接種プログラムの失敗です。
ワクチンは、特定のインフルエンザウイルス株に対してある程度の免疫を与えることが証明されていますが、著名なウイルス学者の何人かは、ワクチン接種は長年にわたって流行を止めることはできず、病気は依然として1000年前と同じようにふるまっていることを認めています。
トム・ジェファーソンは、イギリスの医学雑誌に掲載された45年間の259件のワクチン接種の研究を検討した結果、次のように結論付けました
「インフルエンザウイルスは、学校の欠席や労働日数の減少、インフルエンザに関連した病気や死亡などの実際の結果には、基本的に何の影響も与えていない」
数多の実験が証明している!インフルエンザは感染しない
1918年のスペイン風邪のとき、ボランティアを使ってこの病気の感染性を証明しようとする英雄的試みが、1918年11月12月、1919年2月と3月の2回に分けて実行されました。
アメリカ公衆衛生局のボストン医療チームが、18歳から25歳までの健康なボランティア100人に感染させようとした努力には執念のようなものを感じ、このような実験に参加したボランティアの勇気には頭が下がります。
「私たちは、この病気を発症している人の口や鼻、喉や気管支から分泌物や粘液を採取し、これをボランティアに移しました。この分泌物や粘液はいつも同じ方法で入手しました。熱のある患者はベッドで、目の前に大きな浅い洗面器のような容器を置き、片方の鼻穴を、減菌した5cc程度の塩水で洗浄してその塩水を洗面器に貯めて、患者はその洗面器に向けて勢いよく鼻息を吹きかけ、残っている塩水の一部でうがいし、洗面器に吐き出します。
もう片方の鼻の穴にも同じことを繰り返します。
次に、患者は咳をして気管支の粘液を喉に止め、両鼻の粘液面と喉の粘液面を綿棒で擦ります。次にボランティアの1人1人が、患者から採取した混合物を6ccずつ受け取りました。それを各自の鼻孔にいれ、喉にも入れ、目にも入れました。」
6ccのすべてが使われたことを考えると、そのうちの何ccかはボランティアが飲み込んだに違いありませんが、ボランティアは誰も病気を発症しませんでした。
さらに、新しいボランティアと感染者を使った実験では塩水を使わず、発症1日目、2日目、3日目の感染者を使って、綿棒で感染者の鼻からボランティアの鼻へと、感染者の喉からボランティアの喉へ、直接粘液を移しました。
このようにして感染者から直接移動された物質を受け取ったボランティアは、誰1人として体調を崩すことはありませんでした。
すべてのボランティアが少なくとも2回、中には3回の、彼らの表現によると「弾丸」を受けました。
さらに別の実験では、感染者5人からそれぞれ20ccの血液を採取して、それを各ボランティアに注射しましたが、誰も発症しませんでした。
続いて、「患者の上気道から大量の粘液を採取して珪藻土(けいそうど)でろ過し、このろ過水を10人のボランティアに3.5ccずつ皮下注射したが、誰も何の病気にもならなかった」
次に新しいボランティアと感染者を使って、別の方法で病気を移す試みが行われました。
「ボランティアは患者のベッドサイドに連れていかれ、紹介されました。患者のベッドの横に座り、握手して、指示に従ってできるだけ近づき、5分間話をしました。5分後、患者は思いっきり息を吐き、ボランティアはその息を鼻づらと鼻づらを合わせて受け止め、患者が息を吐くのと同時に息を吸いました。
これを5回繰り返した後、患者はボランティアの顔に直接、顔と顔を合わせて5回咳をしました。この調子でボランティアは10人の異なる病期のインフルエンザ患者、ほとんどが発症から3日以内の新鮮な患者と接触しました。誰も病気になりませんでした」
ミルトン・ローゼナウ医師の結論です。
「私たちは、この病気の原因を知り、ヒトからヒトへの感染経路を確実に知っていると考えてこの流行を迎えた。しかし、おそらく私たちが学んだことがあるとすれば、それは病気について何を知っているのかよく分からないということだ」
以前、馬の伝染性を証明する試みがありました。
健康な馬が、初期から晩期まですべての段階の病気の馬と密接に接触しました。鼻水が出ていたり体温が高かったりする馬に鼻袋をつけ、その鼻袋の中に健康な馬用の餌を入れて健康な馬に食べさせました。
しかし健康な馬は頑固なまでに健康なままでした。
こうした試みの結果、イギリス陸軍獣医部隊のハーバート・ワトキンス=ピッチフォード中佐は、1917年7月に「インフルエンザが馬から馬に直接感染したという証拠は見つからない」と記しています。
ここで「インフルエンザウイルスは、感染するものではない」という一般常識的なことは否定したこととします。
じゃあ、何なのか。
皆さん一旦、小学生になった気分で頭を真っ白にして次項から「電気」についてやっていきます。
電気とは????
人体を活かす電気、壊す電気
太陽光線だけでなく、太陽や星からやってくるX線やガンマ線、紫外線など、宇宙からの電磁波全般は今と昔では全然違います。
そのエネルギーは、同じ天空からやってくる光よりも、表では1兆分1程度の弱さになっていて、とても弱いので目につきません。それで地表で生きる生命は電磁波を視覚でとらえる能力は当然ありません。
太陽光線は電磁波の一種です。晴れた日は直視できない程強烈ですが、他の宇宙からの電磁波は全般的に微弱です。
私たちの思考や動作の一つ一つが低周波の脈動に包まれます。
1875年に初めて検出されたこの細胞の電気的活動は生命維持には大切です。
電気は1700年頃には生命が持つ特質として認識されました。
後に科学者たちは電気を人工的に作り出して機械を動かすようになりましたが、目で見ることができないために現実世界への影響には気づきませんでした。
いや、気づいた人もいたのですが、その声は無視されました。
そして、糖尿病やガン、心臓病、インフルエンザなど、電気の普及と共に増大したり、性質が変わってしまったりしました。
これらの疾患を増大させてしまった科学文明は、私たちの身の回りの動物や植物にも影響を与えています。
私たちがこれらの病と共に生きることになった理由は、人類が利用に成功した自然界の力「電気」をあるがままに受け入れることを拒否したからです。
家の配線、パソコン、テレビから血管を突き抜けていくマイクロ波が突き抜ける
強弱に関わらず電気が流れると、必ずそこに電場(=電界)と磁場(=磁界)の両方が発生します。
電気にはプラスとマイナスの極性があります。
異なる極性のものは引き合い、同じ極性のものは反発します。
このような電気の力が働いている場所を電場といいます。
磁石にはN極とS極があり、異なる極のものは引き合い、同じ極のものは反発します。
このように、磁気の力が働く場所を磁場といいます。
電気器具の電気コードの先のプラグをコンセントに差し込むとコードには電圧がかかります。
器具のスイッチはOFFなので電流は流れていませんが、電圧がかかるので電場が発生します。器具のスイッチを入れた瞬間、電流が流れます。コードに電流が流れると必ず磁場が発生します。
※これは自然界、というより宇宙が成り立っている仕組みの1つなので、何故そんなことが起きるのかは考え位でください。
電場と磁場の周期的変化が波として伝わるのが電磁波で、電気の流れているところでは必ず電磁波が発生します。
電磁波は、波が連続して発生しているもので、連続する次の波が来るまでに進む距離を「波長」、1秒間に波打つ回数が何回あるかを「周波数」といい、単位をHz(ヘルツ)で表します。
周波数が一定以下の電磁波を総称して電波といいます。
周波数の単位Hz(ヘルツ)は、1秒あたりの波の数です。
電磁波は周波数によって性質が大きく異なります。
暖房器具が発する赤外線は暖かく感じます。
可視光線はヒトや動物が認識できる電磁波です。
紫外線には殺菌作用や日焼けを起こす作用があり、X線は物を透過する性質がありX線撮影などに用いられます。
自然界における電磁波の発生源としてよく知られているのは太陽です。
太陽から発せられた電磁波のうち1ギガヘルツから10ギガヘルツあたりの電波と、300テラヘルツから1000テラヘルツ(1000メガヘルツ=1ギガヘルツ、1000ギガヘルツ=1テラヘルツ)あたりの可視光線は、大気や電離層を通り抜けて地上に届くことが知られています。
電磁波は太古の昔から自然界に存在していましたが、それを人間が利用し始めたのはマルコーニ無線電信が最初で、120年ほど前のことです。
上の画像から、
「電離させることができる電磁波」というのは、紫外線の一部やX線やγ線などの周波数が3000テラヘルツ以上の電磁波です。
強いエネルギーを持っていて、原子の中から電子を弾き飛ばす電離(イオン化)作用を引き起こします。このため、電離放射線とも呼ばれています。
電離した原子によって遺伝子が傷つけられることがわかっており、この遺伝子損傷によって細胞ががん化する場合があると考えられています。
一方、電波は3テラヘルツ以下と周波数が低く、原子の中から電子を弾き飛ばすエネルギーを持たないため、X線とγ線のような電離作用を引き起こすことはありません。
電磁波は波ですから、波長と周波数という2つの要素を持っています。
波長は暗三の頂上から頂上までの長さを周波数は1秒間に表れる波の数を表します。
電磁波の速度は周波数に関わらず一定で、約30万km/秒です。
これを周波数で割ると波長になります。
電磁波はその周波数によって、呼び方が変わります。
電気の正体は、現代の物理学では金属元素の自由電子とされています。
この自由電子が移動することにより、電気エネルギーが発生します。
ちなみに電気はプラスからマイナスに流れていると思われていますが、実はマイナスからプラスに向かって流れています。
家の配線に流れる60ヘルツの電流、パソコンに流れる超音波、テレビに流れる電流、携帯電話に流れるマイクロ波は歪曲した形に目に見えない電磁波です。それは私たちの血管を突き抜けていきますが、私たちを生かしたままにしています。
その事実を私たちは忘れてしまっているわけです。
電気は治療にも使えるが、かなりの危険を伴う
紀元前600年頃ギリシャのターレスという人が、琥珀を布で擦ると糸くずなどをすい寄せることを発見したという記録があるようですが、電気は蓄えることができないので使用は非常に限られていました。
電気が歴史に大々的に登場するのは蓄電装置が発明されてからです。
作られたのは1746年、場所はオランダの町ライデンだったことで、ライデン瓶と呼ばれています。
これは静電気を蓄える蓄電器の一種です。
円筒状のガラス瓶の内外面に錫箔(すずはく)を張り、ふたの真ん中から金属棒を通して内面の錫箔に接触させています。
金属棒を通じて内箔・外箔の異種の電荷がたまり、充電されます。
1752年にベンジャミン・フランクリンは、雷の鳴る嵐の日に凧を上げて雷の正体が電気であることを証明しましたが、そのときライデン瓶が使われました。
ちなみにこの実験が有名になったことで、同じ実験を試みようとして多くの人が命を落としたことはあまり知られていません。
フランクリンが死ななかったのはただ運が良かっただけのようです。
日本での電気といえば平賀源内のエレキテルが有名です。
その構造は、外部が木星の箱型または白木作りで。内部にライデン瓶があり、外付けのハンドルを回すと内部でガラスが摩擦され、発生した静電気が銅線に伝わって放電するという仕掛けでした。
源内が長崎滞在中の明和7年(1770年)、破損していたエレキテルを小道具屋あるいはオランダ通詞の西善三郎から入手したようで、それを源内が安政5年(1776年)に復元に成功しました。
電気知識がなくて復元したのですから立派です。
著者ファーステンバーグ氏はライデン瓶誕生の産婆役として、クライスト、クナエウス、アラマン、ミュッセンブルークの4人の名前を挙げ、この科学者たちは、ライデン瓶誕生を「恐るべき赤子の誕生に手を貸した」と表現しました。
彼らによると、電気による衝撃は人間の呼吸を奪い、血をたぎらせ、身体を麻痺させることが可能で、とても危険な代物だったからです。
4人の1人、オランダのライデン大学物理学教授ピーテル・ファン・ミュッセンブルークは、パリの友人に成功の喜びと共に、警告の言葉を書き送りました。
「私はあなたに、新しいが恐ろしい実験について語りたい。だが忠告しとくけど、絶対に自分でやってはいけないよ。私はそれを体験して、神の恵みによってまだ生きているが、フランス王国のために2度とやらないよ」
彼は右手でガラス瓶を持ち、もう片方の手で筒口から火花を引き出そうとしました。
「突然、右手が強打され、まるで雷にでも打たれたかのように全身が揺さぶられた。ガラス瓶は薄かったけど割れず、右手も叩き飛ばされなかったが、右腕と身体全体が受けた衝撃は言葉では表現できない。一言で言えば、私はもう終わった、と思った」
彼の発明仲間の生物学者ジャン=ニコラ・セバスチャン・アラマンは、同じ実験を行った時「桁外れの強打」を感じ、「度肝を抜かれ、しばらく息ができなかった」のです。
彼の右腕を襲った激痛はとても激しく、永久的な障害になるのではないかと彼は心配しました。
人々に警告を発したのは発明者だけではありませんでした。
ドイツのライプツィヒでギリシャ語とラテン語の教授をしていたヨハン・ハインリッヒ・ウィンクラーはこの実験の話を聞いてすぐに試した後、ロンドンの友人に手紙を出しました
「電気が流れるや私の身体に大きな痙攣が起きた。私の血液は大いにかき回されたので高熱が出るのではないかと心配になって、体を冷やすのに薬を使わなければならなかった。頭の内部にあたかも石が乗ったような重さを感じた。私は鼻血体質ではないのに、鼻血が2回出た.....(中略)ベルリンの新聞によると、彼らは電気閃光を鳥に試したようだ。鳥たちは大変な苦痛を受けたに違いない。私はこの実験を繰り返すつもりはない。なぜなら生き物にそのような苦痛を与えることは間違っていると思うからだ」
しかし、彼らのメッセージは半分しか人々に伝わりませんでした。
何故なら当時も現在と同じように、「電気は危険だ」と発言することは社会的に認められなかったからです。
この実験を行ったら、一時的もしくは永久に負傷したり、時には死亡したりする可能性があるという事実は、その後の世間の興奮の中でうやむやになりました。
うやむやになっただけでなく、嘲笑され、不信感を持たれ、忘れ去られていました。
電気の危険性がうやむやになった理由は書いていませんが、同じ時期にイギリス産業革命が始まっています。
それから20年後、酸素の発見で有名なイギリスの科学者ジョセフ・プリーストリーが『電気学の歴史と現状』を著し、その中で、「臆病な教授」ミュッセンブルークと、最初の実験者たちの正直な体験談を「誇張された説明」と言って、嘲笑いました。
ライデン瓶は、ガラス瓶の大きさによってことなりますが、約1万ボルトまで充電できたようです。
18世紀の人たちはその電圧で死を覚悟しましたが、合成繊維カーペットの上を歩くと身体に3万ボルトの電圧がかかるようです。
放電すると刺すような痛みはありますが、現代人はそれで死を覚悟することはありません。
人間という動物は刺激的体験には死の危険性も気にしないのか、当時、数匹の魚と1匹のスバメを感電死させたとの発表があったのにもかかわらず、群衆は少しも動じません。
現代の主流科学は18世紀に使われていた電気花火や衝撃や小さい電流は、健康に何ら効果を与えないとみなしているにもかかわらず、整骨院の電気治療などに現代で使わている事実があります。
その弱い電気でも効果があったのです。
例えば、ロンドンの電気治療院では、1793年9月29日~1819年6月4日までの間に、8686人の患者が電気治療を受けました。
退院時には、そのうち3962人が治癒、3308人が改善と記載されており、成功率は84%に達していました。
ベンジャミン・フランクリンはフィラデルフィアで静電気を使って患者を治療していました。
彼の治療を求める人の数の多く、彼の治療法は19世紀になってフランクリン療法として知られるようになりました。
電気は間違いなく病気を治す(隠され、消された情報)
電気は今日、さまざまな形で私たちの身の回りで使われているというのに、電気は生命にどういう影響を与えるのか、という基礎的な問いに現代科学は向き合おうとしてきませんでした。
ところが、18世紀の医師や科学者たちはその問いに真剣に向き合い、答えを出し始めていました。
18世紀における生物への電気利用はヨーロッパやアメリカで大きく拡大し、ヒトや植物、動物への影響に関する貴重な知識が蓄積されました。
現在の医師が知る知識よりはるかに広範囲で詳細だったその知識は、今ではすっかり忘れ去られてしまっています。
こんにちの医師たちはそのような知識が存在していことさえ知りません。
これらの情報には非公式と公式の両方がありました。
非公式な資料には個人の体験をつづった手紙や新聞などで、公式なものには医学者や学術論文、科学協会の会合で読まれた論文、設立されたばかりの科学雑誌に掲載された記事など、多岐にわたっていました。
それにもかかわらず、歯止めとなるべき水門は広く開け放たれたまま、電気に対する熱狂的な流れは19世紀になっても続き、岩があるという警告を拭い去り、流木が多くて危険だとの助言を踏みつぶして流れは突き進んでいきました。
電気に関するすべての知識が消し去られ、発明の歴史の中で単なる脚注に格下げされてしまったのです。
当時、電気は生命力と関係がある、もしくはまったく同じ、と考えられていました。
電気治療のゴールは、バランスを崩した身体の電気的平衡を回復させて健康を増進させることです。
この考え方は決して新しいものではなく、地球の反対側の中国で、自然の電気を利用することが何千年もかけて見事な芸術の域にまで開発されました。
これは鍼治療のことです。自分自身では気づきませんが、脳や神経など、私たちの身体はいかなるところからもごく弱い電気が発生していて、体が正常に機能していくうえで重要な役目を果たします。鍼治療はツボと経路によってその生体電気の流れを整えます。
治療に電気を使う考え方は似ていても、欧米の電気治療は未熟でした。
西欧の医師に治療を求めると、瀉血、嘔吐、発汗、出血、薬、食事の処方などを組み合わせた医療方法によって、患者は嘔吐したり高熱にうなされたりすることがありました。
また、薬の調合にはアンチモン、鉛、水銀などの重金属が頻繁に使われたので神経毒になる可能性があり、電気技師の元に行くことが魅力的に見えたのも無理はなかったのです。
そして、その魅力は20世紀初頭まで続きました。
電気が、大病、小病問わず、病気を治したのは間違いありません。
過去約2世紀にわたる報告は誇張されているものもありますが、成功事例はあまりにも多く、また多くの場合、詳細に証明されているので、そのすべてを否定することはできません。
各種の実験例をいくつか紹介します。
1752年:電気で聴力回復
1752年、摩擦で起こした静電気を治療に使っていたスウェーデンの医師ヨハン・リンドフルトがストックホルムからの手紙で報告したことがあります。
「32年間耳が聞こえなかった57歳の男性、最近難聴になった22歳の青年、生まれつき耳が聞こえない7歳の少女、11歳で難聴になった29歳の青年、そして左耳に難聴と耳鳴りのある男性に、2か月間の治療で聴力の全部または一部を回復させた。すべての患者は単純電流又は電気風のどちらかの、穏やかな電気で治療した。」
リンドフルトから約50年後、ドイツのジェバーではヨハン・シュプレンガーという薬剤師が、電池の前身である電堆からの直流電気を用いた方法で、ヨーロッパ中で有名になりました。
ベルリンの聴覚障碍者研究長は彼を非難しましたが、彼の成果は裁判書類でも証明され、聴覚障害者から治療依頼が殺到しました。彼自身、40人以上の聴覚障碍者の聴力を完全または部分的に回復させたと報告していて、その中には、生まれつき耳が聞こえない人もいました。
1851年、フランスの偉大な神経学者ギヨーム・バンジャマン・デュシェンヌ・ド・ブローニュは、中耳を通る鼓索神経の働きを解明するために、数人の耳の聞こえない人達に電気実験ボランティアを依頼しました。
彼は、生きている人間から診断のために生体組織を採取した最初の医師で、デュシェンヌ型筋ジストロフィーを筆頭に、彼が発見した多くの病気に彼の名がつけられている医学誌に残る人物です。
実験によってボランティアたちの聴力が大いに向上したことで、デュシェンヌのもとには治療を求める声が聴覚障碍者から殺到しました。
彼は、可能な限り微弱な電流パルスを半秒感覚で5秒間だけ患者に照射しました。
その後、電流の強さを徐々に上げていきましたが、痛みを感じるほどの強さではなく、一度に5秒以上流すこともありませんでした。
この方法で、10歳から耳が聞こえなかった26歳の男性、9歳ではしかにかかってから耳が聞こえなくなった21歳の男性、マラリア治療で投与されたキニーネの過剰摂取で耳が聞こえなくなったばかりの若い女性、その他多くの部分的又は完全な難聴者の耳を、数日から数週間で回復させました。
18世紀から知られていた電気の治療的側面が何故現代で消失しているのか?
当時の電気技師たちは、難聴や失明などの病気を治すことの他に、電気が五感で直接感じられるかどうかに強い関心を持ちました。
その典型的な1人が、アレキサンダー・フォン・フンボルト(1769-1859)です。
「電気は本当に生命力なのか?」という疑問は、フンボルトの生まれる前からヨーロッパの知識人の主要な課題の1つだったようで、フンボルトは20代前半の頃、この疑問の解明に自らの身体を捧げました。
イタリアのアレッサンドロ・ボルタが電堆を発明したのは1794年で、この新しい装置が生み出す電気を自分の目、耳、鼻、そして味覚で感じることができるかどうかに、フンボルト決着をつけたかったようです。
電気が五感で簡単に知覚できること、そしてその感覚が多様であることは、現在のほとんどの医師にとっては不勉強と無知です。
フンボルトは大型の猟犬を使いました。亜鉛片1個と銀片1個を犬の舌と口の中で位置を変えておきました。2片の異なる金属から約1ボルトの電圧が生じます。この実験中何をやっても犬はあまり顕著な反応を見せませんでした。しかし、その後金属片を見せた途端に怒り出しましたから、実験中は相当我慢していたに違いがありません。
彼は自分自身の身体を使った実験も行いました。
犬の時と同じ方法で試したのは勿論ですが、置く場所を増やして瞼や鼻の穴の中でも感覚を調べました。
フンボルトが自分を実験台にして発見したことの1つに、電気は傷口からの血流を増加させ、水疱から血清を大量に流出させることがあります。
彼は著名な生理学者の指導のもと亜鉛片と銀片をそれぞれ1枚ずつ用意して、兄のヴィルヘルムと一緒にキツネ、カエル、トカゲ、ヒキガエルなどの心臓に電気を流し、さまざまな実験を行いました。
別の時にムネアカヒワを一時的に蘇生させました。
その鳥は足を上げたまま目を閉じて仰向けになり、ピンを刺しても反応しなかったのです。
そこで亜鉛の小板をくちばしに、銀の小片を直腸にいれ、すぐに鉄の棒で1つの金属の間に伝導を確立しました。すると、電流を流した瞬間、鳥は目を開け、足を上げ、羽を打ち鳴らし、6~8分間呼吸を続けた後、静かに息を引き取りました。
1ボルトの電池で人間の心臓が再始動することを証明した人はいないが、フンボルト以前にも電気が人間の脈拍を増加させることを報告した人はたくさんいた。これは、現代の医師にはない知識です。
動物ではなく人間の心臓と電気の関係をドイツやフランス、イタリアの医師や物理学者たちが調べて、プラスの電気の電気浴によって脈拍は1分間に5~30回増加しますが、マイナスの電気はその逆の効果になると報告しています。
1785年、オランダの薬剤師ウィレム・ヴァン・バルネベルドが9~60歳までの男女の患者43人を対象に169実験を行いました。
プラスの電気を浴びると脈拍数が平均5%増加し、負の電気を浴びると3%減少しました。
プラスの火花を受けると、脈拍は20%も増加しました。しかし、これはあくまでも平均値であって、電気に対して同じ反応をする人は2人といませんでした。
ある人の脈は常に1分間に60回から90回に増え、別の人の脈は常に2倍になり、別の人の脈はずっと遅くなり、別の人は全く反応しませんでした。
被験者の中には、大多数の人とは逆の反応を示す人もいて、その人に負の電荷を与えると、常に脈拍が早くなり、正の電荷を与えると遅くなったのです。
この実験報告から人間の多様性が読み取れますが、これが電気過敏症という重篤疾患の発生につながります。
電気作用の脅威的な二面性発見 これが人体へのマイナス反応だ
電気は症状を改善する働きがある反面、望ましくない症状を引き起こすことも当時の人々は知っていました。
電気を流すと、ほとんどの場合、めまいが起こり、時には精神的な混乱が起きました。
その他に頭痛、吐き気、脱力感、疲労感、動悸などが起こり、時には息切れ、咳、喘息のような喘ぎもあり、筋肉や関節の痛み、時には精神的な落ち込みを引き起こすこともありました。
電気で腸が動くのは普通ですが下痢になることが多く、帯電を繰り返していると便秘になることもありました。
電気は眠気と不眠の両方を引き起こしました。
物理学者シゴー・ド・ラ・フォンは多くの実験を行いましたが同じ結果が出ることはありませんでした。
「電気が不幸をもたらし、害を受ける人々がいる。これは電気を体験する人の臓器の体質や、神経の感受性や刺激性に関連している。多くの人の集団の中で、電気による全く同じ衝撃を体験する人が2人いることは、おそらくないだろう」
1780年物理学者ピエール・ベルトロン
「人工的電気で大きな影響を受ける人達がいる。小さな衝撃や単純な火花、たとえ微弱な電気風を浴びても、深く永続的な影響を受ける。ところが、強い電気捜査をしてもまったく感じない人もいる。この両極端の間には、人間の多様な個体に対応する多くの微妙な差異がある」
1881年ジョージビアードとアルフォンソ・ソックフェルが出版した権威ある教科書【内科と外科の電気学】にはこの現象について10ページを割いて説明します。
「電気をかけると必ず怪我をする人がいる。軽度の電気と重度の電気では、前者の方が後者よりも怪我が少ないという違いがあるだけだ。電気治療の技術や経験が無駄になってしまう患者がいる。彼らの体質は電気とは調和しないのだ。麻痺、神経痛、神経衰弱、ヒストリー、特別な器官の障害など、患者が患っている特別な病気や病気の症状が何であるかは関係ない。電気治療や通電治療の直接で永久的な影響は、一般的であれ地域的であれ有害で単に運でしかない」
世の中には太った人もいれば痩せた人もいるし、背の高い人も低い人もいて当たり前という現実的時事と同じとして取り扱われました。
シャルトル王立カレッジの物理学教授ジャン・も欄は1748年に電気を浴びるのをやめていました。
モランの患者で30歳の青年が電気を浴びたあと、36時間の発熱と8日間の頭痛に悩まされたようです。
また手に湿疹ができた人が、わずか2オンスの水が入ったライデン瓶を使った帯電によって、1か月以上も手の痛みが続いたと言います。
彼は電気に夜損傷の治療は必ずしも簡単ではないから人をさらすのに賢明でないと結論付け、電気を医療用に使うことは反対でした。
彼自身も電気関係の研究をしていた頃に神経系の慢性疾患を発症してその後も周期的に再発し、1757年、ロンドンに滞在中に5か月間にわたって苦しみました。
このような反応は電気を扱う科学者に限ったことではなかったので、こんにちではほとんどの医師が知らないことでも、18世紀の電気技師や、それに続く19世紀の電気療法士には広く普通に知られていました。
電気には副作用があり、ある人は他の人よりも非常に不可解なほど電気に敏感なのです。
この時代は電気過敏症ですが、電波が登場してからは電磁気過敏症が発生します。
雷は大気の中に作られる電気
紀元前400年ごろに書かれたヒポクラテスの論文【空気・水・場所について】の中に、人間の健康状態は住んでいる場所の気候やその変化によって大きく左右されるとあります。
この方面の学問には古い歴史がありますが、現代の生気象学には公然の秘密があるようです。
それは、民族問わず、人口の約30%は天候に敏感であり、その分野の教科書によれば、そういう人は電気にも敏感だという事実です。
このことが理由なのでしょうか、1956年にオランダの地球物理学者のソルコ・トロんプによって設立された国際生気象学会の本部は、オランダのライデンに置かれました。
ライデンは、あのライデン瓶誕生の地です。
18世紀には、電気技師たちが電界と人間の関係を明らかにしようとしました。
自然主義者の医師ピエール・モーデュイ・ド・ラ・ヴァレンヌの言葉です。
「人間も動物も、嵐のある日にはある種の弱さと気だるさを経験する。この落ち込みは、嵐の前に最高潮に達し、嵐が吹き荒れた直後に弱まる。特にある程度の量の雨が降った時には嵐と共に消滅する。この事実は良く知られていて重要だが、十分な説明を見つけることができないまま、長い間、医師を悩ませてきた」
嵐が近づいていると、なんとなくやる気がなくなったり、気持ちの落ち込みを経験したりする人はいると思います。その理由がわからなかったのです。
偉大な物理学者ピエール・ベルトロンが応えています。
「自然が大気中に作り出す電気も、人間が人工的に作り出す電気も同じ流体に依存しており、肉体の効率的動きに対して様々な影響を生み出す」
大気中の電気は雷に代表されます。
雷は積乱雲にたまった電気です。
積乱雲に電気ができる過程はシンプルです。
太陽光で暖まった地表の水分が蒸発して空で水滴となって雲ができます。
雲の中の水滴は、高く上がるにつれて冷えて氷の粒に変わって徐々に大きくなります。
大きくなった氷の粒はだんだん重くなって、降下し始めます。
そのとき上昇してくる氷の粒とこすれ合うことで静電気が発生して、雲の中にどんどん電気がたまっていきます。
衝突した時、一方の粒子から電子を叩きだします。
電子を失った方が正の電荷に、たたきだされた電子を吸収した方が負の電荷に帯電します。
どうして大きな粒の方が負電荷になるかについては、まだ解明されていません。
大きな粒の方が重たいので、雲の下の方に移動し、小さな粒は上昇気流によって雲の上の方に移動します。
そのため、雲の下の方では負の電荷が、雲の上の方では正の電荷が集まります。
また、雲底に集まった負電荷によって、大地では正電荷が誘導されます。これを「静電誘導(帯電した物体を電気伝導帯に接近させることで、帯電した物体に近い側に、帯電した物体とは逆の曲正の電荷が引き寄せられる現象)と言います。
ある程度電荷が溜ってくると、蓄えきれなくなって放電します。
このとき雲の下部の負電荷は、上空の正電荷がけて高速で移動します。
これが雲内放電(専門的には雲放電)です。
ところが、暗雲が低く立ち込めているときには、上空の正電荷よりも、大地に誘導された正電荷の方が近いことになります。
そこで、大地めがけて放電します。これが落雷です。
やはり電気はマイナスからプラスに動くようですよね。
イタリアのトリノの物理学者がジャンバティスタ・ベッカリーアは地球上の電気の巡回路を説明しています。
「雨が降る前に大量の電気物質が、地球から逃げ出し、空気層の高い領域まで上昇する。雨を降らせる雲は、地球上で電気が満ちている部分から狩れている部分へと拡散し、雨を降らせることで両者の間の均衡を回復させる」
嵐の直前には大気中の電荷が増大しています。
嵐の日野ある種の弱さと気だるさは、軽い電気過敏症になっているのではないでしょうか。
ベッカリーアの説明は紀元前4世紀に中国で書かれた『黄帝内経』に記されているようです。
「気」が電気であること、「陰」と「陽」がマイナスとプラスであることを理解すれば、専門用語はほとんど同じのようです。
天候感受性が市民権を得たのでしょうか、天候の変化によって体調が悪くなる人々を取り上げた番組が、2022年4月5日7時半からの「クローズアップ現代」で放送されました。
番組は天気痛という言葉で天気の変化に敏感な人達の悩みを表現し、症状を和らげる顔のマッサージを紹介していました。
電気革命
産業を発展させるために、電気と生命は無関係であることにした
ボルタの発明した電池が産業革命を大きく後押しして「電気は生命に関係ない」という彼の主張は産業革命が向かう方向性をさらに加速させていくことになります。
これにより、世界中に電線を張り巡らすという、動植物への生態への影響を気にすることなく、工業的に電気を利用することが可能にな五r真下。
これ以後、人々は、18世紀の電気技師たちが蓄積した知識を無視し始めるようになります。
治療以外の人工的電気の当時の利用法に電信システムがありました。
最初の電信システムは1809年で、複数の電線を使い、それぞれの電線がラテン文字や数字に対応していました。
この方式の根本的欠点は、文字の種類の文だけ電線が必要だったことです。
電気で信号を伝える電信機をモールスが発明したのは1837年で、電線を通して音声を伝える装置が最初に出来たのは1849年でした。
ベルが電話機を発明するのは、それから27年後の1876年のことです。
1837年6月、イギリスで電信特許が認められ、ロンドンに最初の公共電信が導入されたのは1843年春で、ロンドン最初の電信会社はロンドン中に電線を張り巡らしました。
電線は川の欄干に沿い、木の間を通り、市民の住宅の屋根の上を通り、煙突の周りを通り、道路を横切っていました。
1869年までに第2の電信会社は2500マイル以上のケーブルと、その何倍もの電線をロンドン市民の頭上と足元の地中に張り巡らし、町中に散らばる約1500人の加入者にサービスを提供しました。
アメリカでは1829年、ボストンのトレモント・ハウスに初めて完全なシステムが導入され、170の客室が電信で結ばれました。
1844年にサミュエル・モースによる最初の電信線がボルチモア・オハイオ鉄道を通ってボルチモアからワシントンまで開通しました。
1855年、ヘンリー・ベントレーによって、マンハッタンとブルックリンにある15のオフィスを結ぶ、ニューヨーク市初の市営電信システムが構築されました。
当時はもっと密集した電線で電線の込み具合がすごいのですが、現在ニューヨーク市内の電線が全て地下に埋蔵されているのは、この状態の反動だったかもしれません。
敷設後の経過年数は差だけではありませんが劣化年数が進むと、毎年冬になると雪溶け道を散歩する犬が2,3匹感電死しています。
電線の拡張と正比例して「電信病」患者急増
高さ25フィートの電信柱が街と街の間を行き来する電線を支えています。
複数の電信会社が競合し、スペースが限られていた都市部では、家の上や教会の尖塔、煙突などの間に架線の森ができ、それが武道のつるのように絡みついていました。
そして、そのつるから下方に拡がった電界が、道路や路地、つるが壁面にまといつく家の中の空間まで一様に覆いつくしていました。
1850年までには、南極大陸を除くすべての大陸に電信線が敷設され、1860年には、オーストラリア、ジャワ、シンガポール、インドが海底で結ばれるようになりました。
1875年には、通信ための3マイルに及ぶ海底ケーブルが敷設され、70万マイルに及ぶ銅製の網に電気が流れてました。
地球を約30周するのに十分な長さです。そして、メッセージ送信に使われる電気の量は、格段に増加しました。
1876年にベルが電話を発明するまで電信は、鉄道や新聞の単なる補助的存在ではありませんでした。
電信機や消防署や警察署、証券取引所、メッセンジャーサービスの事務所などに設置され、やがてホテルや個人商店、家庭にも普及していきました。
初期の電信線の下の電界は、その周波数における地球の自然電界の3万倍にも達していました。
当時は絶縁体が不完全なため、一部の電流は電信柱を伝って地中に逃げていて、雨が降ると大地の電流が増えたのです。
初期の電信線1本から出る磁場は、その周波数における自然磁場を、電信線の両側2~12マイルの範囲で越えていました。
初期の電信はオペレーターが打ち込んでいました。
音声が送れるようになってからは電話交換手が登場し、この人達が電気の後遺症に悩まされました。
1915年カール・シリングは何十冊もの文献を調査後、慢性的な電気への暴露によって引き起こされる病気の診断、予後、治療に関する臨床的な記述を発表しました。
それによると、一般的な症状として頭痛やめまい、耳鳴り、目のかすみ、脈の乱れ、心臓の痛み、動悸などで、患者は体力の低下や疲労感、集中力の低下などが見られました。
その結果、よく眠れなかったり、憂鬱になったり、不安発作があったり、震えがあったりしました。
その一方で反射神経が亢進して感覚が過敏になったり、甲状腺機能が亢進したりすることもありました。
1956年、ルイ・ル・ギヨンと彼の同僚は「多少なりともこの神経疲労を経験しない電話交換手はパリにはいない」と報告しました。
患者たちは記憶に穴が開き、会話が続かず、読書が継続できず、理由もなく夫と喧嘩したり、子どもに大声で叫んだりすると書かれています。
患者の3分の1はうつ病や自殺願望があり、ほとんどの人に不安発作があり、半数以上が睡眠障害を抱えていました。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、電気の近くで働く人たちの職業病として、他にも関連する病気が報告されています。
例えば、電信技士の痙攣です。もっと正確にはフランス人が電信病と呼んでいたものです。
1870年代のパリで、エルネスト・オ二ミュスがこの病気を紹介しました。
患者たちは、動悸、めまい、不眠、視力の低下、後頭部を万力で掴まれているような感覚に悩まされました。
疲労感、抗うつ感、記憶喪失などの症状があり、数年後には精神障害に陥った人もいました。
1905年に匿名の電信作業員が書いた文章があります。
「私たちの神経は打ち砕かれています。元気な健康観は無くなり、病的な弱さ、精神的な落ち込み、鉛のような疲労感に変わってしまいました。常に病気と健康の間を行ったり来たりしている私たちは、もはや完全な人間ではなく、半分の人間に過ぎません。若者でありながら、私たちはすでに人生の重荷になった疲れ切った高齢者のようなものです」
この人達が訴える症状と同じものが乗客や鉄道員にも共通してみられるようになり、1862年にイギリスの医学雑誌『ランセット』が委員会を組織して調査に当たりました。
調査後に『ランセット』は鉄道脊椎症という病名をつけました。
しかし、ファーステンバーグ氏はその病名を誤称と断じ、10年後だったら、多くの鉄道員が診断されたように神経衰弱と診断されていただろうと書いています。
次の項目で神経衰弱という病名が学会に登場したのは1869年のことで、名付け親はジョージ・ミラー・ビアードという、医学部を卒業してまだ3年目の気鋭の新人医師でした。
第二次産業革命
1869年、ベルギー人ゼノブ・グラムが近代的発電機を発明したことで、実質的に無限の電気を生み出すことができるようになりました。
グラム発電機は過熱が少なく連続運転が可能な商業ベースに乗った初の直流発電機で、動力と照明を電力で供給する第二次産業革命への転換を後押ししました。
伝統産業が誕生したのもほぼ同時期です。
1875年には、パリやベルリンの屋外の公共スペースに、まばゆいばかりのカーボンアークランプがともりました。
1883年には、ロンドンのウエストエンドの住宅地の屋根の上に、2000ボルトの電線が張り巡らされました。
1879年、トーマス・エジソンは白熱電球を発明し、それを世界中に広げるための第一歩としてエジソン電気照明会社を1880年に設立し、1882年にはアメリカ最初の商業発電所をマンハッタンに造りました。
エジソンをはじめとする多くの人は交流を危険視しましたが、1885年には、ハンガリーのカーロイ・ツィペルノフスキー、オーティス・ブラティ、マックス・デリの3人が、完全な交流発電・配電システムを設計し、ヨーロッパ各地に設置し始めました。
1888年、ウェスチングハウス社の本格的な交流送電とテスラの2相交流モーターの発明によって大規模な産業への利用が始まり、電気モーターを搭載した電気機関車が地方に爆発的に普及しました。
1888年初頭、アメリカではわずか13の電気鉄道が48マイルの線路で運行されていましたが、1889年末には約1000マイルの線路が電化され、さらに1年後にはその3倍になったのです。
1889年エジソン・ジュネラル・エレクトリック社が設立され、ウェスチングハウス社はテスラの交流特許を取得して自社の発電所に採用し、発電所は1889年に150基、1890年には301期に増えました。
イギリスでは、1888年に電気照明法が改正されて電力産業に対する商業上の規制が緩和されたことで、中央発電所が設置されました。
1889年には、世界10か国の61社が白熱電球を製造しており、アメリカやヨーロッパの企業が中南米に工場を設置しました。
1889年は地球大気の人為的な電気的攪乱が、局地的ではなく地球規模で行われるようになった年です。
ジョージ・ビアード医師が神経衰弱という病気を発表した時には想像もできなかったような規模の電気が、世界を書けまぐることになったのです。
19世紀湖畔の電気革命は、電気を利用した電動機や石油を利用した内熱機関を用いることで、金属工業や化学工業の発達に多大な貢献をしました。
これが19世紀末から20世紀前半にかけた起きた第二次産業革命です。
20世紀初頭に電気治療は永久に廃れましたが、それはおそらく、当時の世界情勢と折り合わなかったからでしょう。
電気は、もはや生物に関係する微妙な力ではなくなってしまいました。
電気は力学的エネルギーと電気的エネルギーの両方を持ち、機関車を走らせたり、囚人を処刑したりすることができるエネルギーで、患者の治療用ではなくなったのです。
存在してはならない病気「電波病」として原因探索に終止符を打つ!
ジョージ・ビアード医師は1869年に発表した新しい病気の原因を推測していません。
彼は単に、それまでは珍しかったストレスによる現代文明の病気だと考えてこの病気を神経衰弱と名付け、これで死ぬ人はいないと思われていました。
彼はこの病気と電気を結び付けていませんが、患者が耐えられる場合には神経衰弱の地用に電気を好んで用いていました。
結局、神経衰弱と電気を結び付けたのはドイツ人精神科医ルドルフ・アルントでした。
彼の患者の中に電気に耐えられない人がいたのです。
メーターの針をほとんど動かさない程弱い直流電流には他の人は完治することもなかったのですが、この人達は極度に悩まされました。
彼は1885年に核心ついたことを述べています。
「電気過敏症の症状は、神経衰弱が嵩じた時の特徴である。神経衰弱を正しく研究する上で大きな障害となっているのは、電気にあまり敏感でない人々がその影響を全く真剣に受け止めていないことだ。それどころか、予知能力、読心術、霊媒などと一緒にして、迷信の領域に入れてしまった」
この状態は、21世紀の現在も続いています。
しかし、
1869年代に突如として現れ、その後の数十年間で大流行した神経衰弱は、世界の電荷が原因であることは間違いありません。
にもかかわらず、1894年12月、ウィーンの新進気鋭の精神科医ジークムント・フロイトは論文で、神経衰弱は人間の体調の自然要素と決めつけました。
フロイトは、神経疾患に分類することで、その物理的原因の探索に終止符を打ったのです。
そして、そのほとんどすべての症状を「不安神経症」と新たな病名をつけました。
彼のお陰で有害な環境によって引き起こされる病気は存在しないとされ、自動的にその症状は乱れた思考やコントロールできない感情のせいにされました。
神経衰弱は、アメリカでは「ナーバスブレイクダウン」という一般的な表現だけが残っていますが、アメリカの病院で精神疾患にコードを割り当てる公式システム「精神疾患の診断・統計マニュアル第5版DSM-V(科学的根拠なしの詐欺基準)」に神経衰弱のコードはありません。
西洋医学=科学的だと勝手に思いこんでいる方がいるのかしれませんが、
これが西洋精神医学です。
患者と医者による『詐病』と『飼い殺し』のライアーゲームを展開しろ!【ヤバい精神医学】 - 働いたら負け
神経衰弱は北アメリカと西ヨーロッパにはありませんが世界の半分は今でも神経衰弱を病名に使っています。
アジア、東欧、ロシア、旧ソ連で神経衰弱は、一般の医療機関で最も頻繁に診断される病気の1つであると同時に、すべての精神医学的診断の中で最も一般的なものです。
ロシアでは、1880年代に神経衰弱が流行しました。
19世紀のロシアの医学と心理学は、外部からの刺激や環境要因を重視する神経生理学者イワン・セチェノフとその弟子であるイワン・パブロフの影響を受けていて、ロシア人は神経衰弱を不安神経症と再定義するフロイトの考えを否定しました。
フロイトが発明した不安神経症は神経衰弱を改名したものですが、20世紀になって、ロシアの医師たちは神経衰弱の原因として、さまざまな形の電気や電磁波などの環境要因を発見しました。
そして、早くも1930年代にはロシアで「電波病」という新しい臨床症状が発見されました。
この病気は、現在では旧ソ連全土の医学教科書に最新の用語で掲載されていますが、欧米諸国では現在も無視されています。
生き物である私たちは心と体を持っているだけでなく、その2つをつなぐ神経を持っています。
神経は、かつて考えられていたのように、宇宙からの電気流体が弱まったり満ちたりするための単なる導管ではなく、また、現在考えられているように、筋肉に化学物質を届けるためためのまめなメッセンジャーサービスでもありません。
むしろ、これから説明するように、その両方になります。
メッセンジャーサービスとしての神経系は、有害な化学物質によって毒されることがあります。
繊細な送電線のネットワークとして、大きな、あるいは慣れない電気負荷によって簡単に損傷したり、バランスを崩したりします。
その結果、こんにち、私たちが不安障害として知っているように、心と体の両方に影響を与えることになります。
無線通信開発
無線通信の開発による電波病被害
1888年、ドイツの物理学者ハインリヒ・ヘルツは、電磁波を生成・検出する機械を構築し、電磁波の放射を初めて実証しました。
ヘルツは数か月実験を繰り返し、電流の流れる電線の周囲に必ず発生する電磁波が空間に伝播することを証明しました。これが無線の発明の基礎となります。
1980年、パリのコレージュ・ド・フランスの生物物理学研究所長の著名な医師ジャック=アルセーヌ・ダンソルヴァルが「高周波の電気が生物にどのような影響を与えるか」について調査を開始しました。
物理学と医学の両分野で優れた業績を残した彼は、超高感度の磁場測定器や動物の発熱・呼吸を測定する装置を開発しました。
彼はヘルツ考案の無線機を改造して、離れた場所から誘導した毎秒50万~100万ヘルツという高周波電流を、直接的と間接的の2つの場合に分けて人間と動物に照射しました(その電流の周波数は、まもなくマルコーニがワイト島から放送予定の周波数に近かったのです)
どの場合でも体温が上昇したことはありませんでした。
しかし、いずれかの場合でも血圧は大きく下がりましたが、その辺かに気づいたものは誰もいませんでした。
彼は、高周波のみならず低周波電流も調べて、いずれの場合にも酸素消費量と二酸化炭素生成量の変化を測定しました。
これらの実験数値を基に、ダルソンヴァルは、高周波の電流は生物体の奥深くまで浸透することを証明しました。
人体の奥深くまで電磁波が浸透しても、過敏症でない限りほとんどの人は気づきません。
過敏症の人が気づくのは発症してからです。
1897年、グリエルモ・マルコーニというイタリア人青年が、イギリス本土のハンプシャー州の対岸南方に位置するワイト島の最西端、海岸近くの白亜の地層に、12階建てビルディングの高さの塔を建てました。
この塔は、世界最初の常設無線局のアンテナを支えていました。
マルコーニは、1秒間に100万回近い電気の振動、つまり電磁波を、自然環境や人体に安全なのかどうか気にも留めず電線から解放して、空気中に自由に放出しました。
マルコーニは独学で電気と電磁波を学んだため、無線のもつ危険性に関して一片の知識もなく、それに恐怖を抱くこともありませんでした。
ましてダンソンヴァルの研究を知るはずもなく、ワイト島で新しい送信機の電源を入れても、自分にも他人にも害を与えているのではないかという疑念を抱くことは、まったくなかったのです。
電波の被害を顕著に受けた1人にマルコーニ自身がいます。
マルコーニはイタリアで無線技術を発明しましたが、ベンチャー企業のために母国では資本が集まらず、イギリスに渡って資本を大きくし、数々の発明を実用化しました。
1896年、マルコーニは父親の家の屋根裏で1年半ほど無線機の実験をしたとき、それまで健康だった22歳の少年が、ストレスのせいか高熱を出し始めました。
この発熱は、この後の彼の人生で繰り返されることになります。
1900年頃、彼はイギリスのコーンウォールとカナダのノバスコシア州のケープブレーン島の間の大西洋を横断する超高出力の永久無線リンク構築に没頭していました。
距離が長くなればより長い電波が必要になると考えた彼は、途方もない大きさの金網の空中ケーブルを考案しました。
大西洋の両側に、数百フィートの高さの塔から何エーカーもの土地を占める巨大な金網の空中ケーブルを吊り下げました。
マルコーニ時代の長波の波長は1キロから10キロもあり、アンテナのサイズも巨大でした。
1905年3月16日、マルコーニはベアトリス・オブライエンと結婚し、新婚旅行を終えた5月、彼女を連れてケープブレトン島のポート・モリエンにある局舎に移り住みました。
家の周囲には家にのしかかるように28本の巨大な電波塔が、3重の同心円を描いて立っています。
中央のポールからは200本のアンテナ線が、1マイル以上もある大きな傘のやのように伸びています。
ベアトリスは、家に入るとすぐに耳鳴りがしてきました。
3か月後、彼女は重度の黄疸にかかりました。
妊娠していた彼女は出産前にロンドンに移ったものの、9か月間のほとんどを強力な電波に晒された胎児はわずか数週間しか生きられず、原因不明のまま亡くなりました。
ほぼ同時期にマルコーニ自身も熱病と錯乱状態に陥り、1906年の2月から5月にかけて完全に寝込みました。
1918年から1921年にかけて、短波通信機器の設計に携わっていたマルコーニは、自殺願望を伴ううつ病を患いました。
1927年、2番目の妻マリア・クリスティーナとの新婚旅行中に、マルコーニは胸の痛みで倒れ、重度の心臓病と診断されました。
1934年から1937年にかけて、マイクロ波技術の開発に携わっていたマルコーニは9回もの心臓発作に見舞われ、最後の10回目は63歳の時でした。
マルコーニは生体に及ぼす電磁波の影響を知っていたかどうかわかりませんが、一般市民の中には忠告する人もいたそうです。
1896年、ソールズベリー平原で最初の公開デモンストレーションが行われました。
そのとき観客たちが経験した神経への様々な刺激感覚について、マルコーニに手紙を送って知らせた観客がいました。
彼の娘デーニャによると、そういう手紙は頻繁に届いていたのです。1899年、マルコーニがフランス初の短波無線局を海岸沿いの町ウィメルーに建設したとき、近くに住んでいた男性が「電波のせいで内臓が鋭く痛む」といって、回転式連発拳銃を持って押しかけてきたことがありました。
マルコーニはこのような報告をすべて幻想だと断じていたようですが、人々からの手紙は保存しました。
娘デーニャはそういう手紙を参考にして、後年父の伝記を書きました。
マルコーニが手紙を保存していたのは、ある時点で電磁波の被害に気付いたからなのでしょうか。しかし、たとえ気づいたとしても、起業家でビジネスパーソンとして大成功していた彼が無線を止めるはずはありません。
経済優先の時代に生きる私たちは彼の心情を理解できるはずです。
ワイトの北端には、ヴィクトリア女王お気に入りの別邸オズボーン・ハウスがあり、女王はそこで頻繁に家族と滞在していました。
1901年1月22日夜、女王は脳出血を起こしてオズボーン・ハウスでなくなりました。
その頃、マルコーニはオズボーン・ハウスから12マイルは慣れたワイト島の発信局で、より強力な新しい短波送信機を始動させようとしていました。
1月23日、彼は従兄弟のヘンリー・ジェイムソン・デイヴィスに電報を打ちました。
「完全に成功した。情報は内密に」
マルコーニは、それまでの無線通信の2倍の距離300キロ離れたコーンウォール州のポルドゥ・ベイとの交信を目指していて、この日見事に成功したのです。
1901年当時、ワイト島にはすでに2つのマルコーニ無線局がありました。
1904年には、さらに2つの信号所が加わりました。
ユージン・P・ライルが『世界の業績』誌に掲載した記事によると、この小さな島でマルコーニ社の4局が運用されており、同様の装置を搭載して海峡を航行する各国の海軍や商業遷都の通信を行っていました。
この近辺は、当時世界で最も電波が集中していました。
1906年、ワイト島内のロイズ信号所も無線機器を導入しました。
この時点で、島全体で90%のミツバチが理由もなく姿を消していました。
農水省の委員会はケンブリッジのクライスト・カレッジの生物学者オーガスタス・イムズを呼んで調査を依頼しました。
巣箱にはみつがたっぷり入っていましたが、そこにいたミツバチは飛ぶこともできませんでした。
「彼らは草の幹を這い上がったり巣箱の支柱を登ったりして、弱り切って地面に落ちるまでそこにとどまり、すぐに死んでしまう」と報告書に書かれました。
本土から健康なミツバチの群れが移入されましたが、1週間も経たないうちに新しいミツバチが何千匹も死んでしまいました。
その後、ワイト島病は疫病のようにイギリス全土と世界に拡がり、オーストラリア、カナダ、アメリカ、南アフリカの一部でミツバチの深刻な被害が報告され、イタリア、ブラジル、フランス、スイス、ドイツでも報告されました。
原因は、何年もの間寄生性のダニとされましたが、1950年代にイギリスのハチの病理学者レスリー・ベイリーがそれらの説を否定し、彼はこの病気自体が一種の神話であると考えるようになりました。
明らかにミツバチは死んでいるが、原因は伝染性のものではなかったのです。
時がたつにつれてミツバチが環境の変化に適応したようで、ワイト島病によって死ぬミツバチが減っていきました。最初に被害を受けた場所が最初に回復しました。
1917年4月6日、アメリカが第一次世界大戦に参戦しました。
アメリカの陸軍と海軍に最新の通信機能を持たせるために、アメリカ政府が数百万ドルの資金を投入しました。
これによって無線通信も急激に普及しました。
再び最初に被害を受けたのはミツバチでした。
1918年8月に発表されたレポートがあります。
ニュージャージー州マンモス郡モーガンヴィルのチャールズ・シルケは、約300個のコロニーを持って養蜂を行っている経験豊富な養蜂家です。
ブラッドベルト近郊にある彼の庭の1つの巣箱からミツバチが大量に失われたのです。
「何千匹もの死んだミツバチが横たわり、何千匹もの死にかけたミツバチが巣箱の周辺を這いまわり、木片や石の上、土の窪みに集団で集まっていた。被害を受けたミツバチは、通常な率先して野外活動を行う年齢の若い成虫ばかりのようだったが、あらゆる年齢の古いハチも見つかった。この時点では、巣の中に異常はみられなかった」
この異常事態はニュージャージー州内で隣り合った地域に限られていて、当時の地球上で最も強力な無線局の1つだったニューブランズウィック無線局から海の方向に、方角では東に数マイル離れたところにありました。
ニューブラウンズウィック無線局には1918年2月、当時の世界最高性能を誇る5万ワットのアレクサンダーソン社製交流発電機が設置されました。
高さ400フィートの12本の鉄塔に支えられた32本の平行する電線からなる1マイルの長さの空中ケーブルに電力を供給し、海を越えてヨーロッパの司令部と軍事通信を行っていました。
ミツバチの被害があった地域は、その電波の通り道にありました。
無線通信は第一次世界大戦中に発達しました。
当時は巨大な無線短波通信の時代で、小山ほどの大きさの非効率な空中ケーブルがアンテナの役を果たし、火花放電式送信機が散弾銃からの大粒散弾のように辺り一面に電波をまき散らしました。
30万ワットの電力を空中ケーブルに供給して出力は3万ワットだけで、残りは熱として無駄になっていました。
モールス信号は送れましたが、音声は送れず、受診は散発的で頼りになりませんでした。
当時の無線通信は一言で言えば、よちよち歩きの赤ん坊の状態で、1914年に戦争が勃発するまで、当時の大国の中で植民地との海外通信を確立していた国はほとんどありませんでした。
当時の超大国イギリスはようやく1915年から1916年にかけて、海軍との連絡をとるために世界各地に13の長距離局の設置をはじめました。
アメリカは1917年の参戦後、海軍が巨大送信機をバージニア州のアーリントンをはじめとして、運河地帯のダリエン、サンディエゴ、パールハーバー、フィリピンのカビテ、オレゴン州レンツ、カリフォルニア州南サンフランシスコ、カリフォルニア州ボリナス、ハワイ州カフク、ハワイ州ヒアイアポイント、ロングアイランド州セイビル、ニュージャージ州タカートンに設置し、ニュージャージー州ニューブランズウィックの民間・外資系無線通信局にあった最新の高速交流発電機を引き継ぎました。
1917年後半には、アメリカのこの13の無線通信局が2つの海を越えてメッセージを送っていました。
海軍は艦船に装備するために、低・中・高出力の無線送信機を1万台以上製造・配備しました。
1917年4月6日から1918年初頭までの1年という短期間に、海軍は世界最大の無線ネットワークを構築し、運用を開始しました。
海軍はニューブランズウィックに強力な200キロワットの交流発電機を2台目として発注し、6月に設置されたこの交流発電機は9月から本格的に稼働を開始しました。
ニューブランズウィックは、ドイツの期間無線通信局ナウエンを凌ぐ世界最強の無線通信局となったのです。
また、大西洋を横断して音声と電信の両方を明瞭に、連続して、確実に送信した最初の曲でもあり、その信号は地球上の広い範囲で受信することができました。
地球の電気回路とは
私たちが住んでいる天の川銀河は、直径10万光年の中規模渦巻き銀河で、地球時間で2億5000万年に1度回転し、その周りには巨大な磁場が発生しています。
銀河の中心からは、さらに磁場を発生させている500光年の長さのプラズマ(固体・液体・気体に次ぐ物質の第4の状態。気体を構成する分子が陽イオンと電子に分離して動いている、電気的には中世状態。電離層、太陽風、星間ガスなどがプラズマ状態)のフィラメントがループ状に拡がっている様子が撮影されています。
太陽は同じくプラズマでできていて、膨大な量の電子、陽子、ヘリウムイオンを太陽風と呼ばれる定常的な流れとして送り出しています。
毎秒300マイル(約480キロメートル)の速さで吹きだす太陽風は、地球と全惑星の縁に沿って流れてから、星と星の間のプラズマに拡散していきます。
鉄の核を持つ地球は、太陽系や銀河系の電場の中で自転しており、自転にともなって磁場が発生し、太陽風の荷電粒子を捕捉して曲折します。
太陽風は地球を磁気圏と呼ばれるプラズマの包囲網で包み込み、地球の夜側には何億マイルもの長さのすい星のような尾が伸びています。
太陽風から粒子の一部はヴァン・アレン帯と呼ばれる層に集まり、私たちの頭上600~3万5000マイル(約970~5万6000キロメートル)を循環しています。
電子は磁力線に沿って局地に向かい、大気中の酸素原子や窒素原子と衝突して蛍光を発し、高緯度地方の冬の夜に舞うオーロラ(北極光、南極光)となります。
太陽は地球に紫外線やX線を降り注いでいます。これらは上空50~250マイル(約80~400キロメートル)の空気の層にぶつかり、イオン化して上層大気中の電流を運ぶ電子を解放します。
この地球上には宇宙線と呼ばれる顆粒電子が四方八方から降り注いでします。
地球内部からは、ウランなどの放射性元素が発する放射線が出ています。
宇宙からの宇宙線と岩石や土壌が発する放射線は、大気の下層部で、私たちを取り巻く電流を運ぶ小さなイオンの材料となるのです。
私たち人類はこのような電磁環境の中で進化してきました。
私たちは、1メートルあたり平均130ボルトという、ほぼ一定の垂直電界(大気中には、大気電界あるいは大気電場と呼ばれる、常に大地に垂直な方向の電界が存在する。大気電界の値は、大気の状態、場所、時刻によって大いに変わる)の中で生活しています。
天気が良ければ地面はマイナス、上空の電離層はプラスの電荷を帯びており、地面と空気の電位差は30万ボルトです。
電気は、はるか上空を通過し、雷雨の中では地面に向かって突進し、地中を駆け抜け、天気の良い日には小さなイオンに運ばれて空中を静かに上っていきます。
このようなことが連続して起こるのは、電気が地球全体に生命を吹き込むからです。
電気が太陽や星からのメッセージを持ってきて、いつも私たちの周りにいることを教えてくれるのは、稲妻です。
約100もの稲妻は、1本が1兆ワットのエネルギーを持っています。それが毎秒のように地球に落ちています。
また、雷雨時には、空気中の電気の強さは1メートルあたり4000ボルト以上になることもあります。
生きとし生けるものが地球を必要としているだけでなく、地球が良きものを必要としているのです。
例えば、大気が存在するのは、何十億年もの間、緑の生物が育ってきたからです。植物は酸素は勿論のこと、おそらく窒素も作り出しています。
植物も動物も生きているものはすべて地球の電気回路の一部で、生命は地球にとって必要不可欠な存在です。
生きている木は、マイナスに帯電した地面から何百フィートもの高さで空中にそびえたっています。
また、雷雨を除くほとんどの雨粒は正の電荷を帯びて地上に降り注ぐため、木は雲から雨を引き寄せます。
木の伐採は、かつて森があった場所で雨が降らなくなることに、電気的な面での一因になっています。
また木は、地球が砂漠に水を供給する道具です。木は蒸発を促進して温度を下げ、受益の中を流れる生命の流れは空や雨と連続しています。
私たち人間はそれぞれ電界を発生させており、大気と同じように垂直方向に極性を持ち、足や手は背骨や頭に対してマイナスになっています。
マイナスの足はマイナスの地面を歩き、プラスの頭はプラスの空を指しています。
私たちの身体をゆるやかに流れる複雑な電気回路は、大地と空によって完成されています。
共振空洞で生命はシューマン共振している
私たちが生活する空間は、地球を包む高さ約55マイル(約89キロメートル)の空気で満たされた生物圏で、雷が落ちる度にゴングのように鳴り響く共振空洞です。
雷は、私たちが立ち、歩き、鳥が飛ぶ、1メートルあたり130ボルトの静電場を維持するだけでなく、毎秒8拍子14、20、26、32などの特定の低周波音を生物圏に鳴り響かせています。
これらのトーンは、その存在を予言し、1953年に弟子のヘルベルト・ケーニヒとともに大気中に常に存在することを証明したドイツの物理学者、ウィンフリード・シューマンにちなんでシューマン共振と名付けられました。
シューマン共振の正確な数字は7.83ヘルツ、14.1ヘルツ、20.3ヘルツ、20.8ヘルツ、27.3ヘルツ、33.8ヘルツと続きます。
シューマン共振のエネルギー源は雷の放電や太陽風による電離層の震動だと言われています。
私たちが起きてリラックスしているとき、私たちの脳はこの周波数に正確に同調しています。
生後間もないころから大人になるまでの人間の支配的脳波図は、8~13ヘルツ(新生児では7~13ヘルツ)のアルファ波、すなわち最初の2つのシューマン共振になっています。
感情や長期記憶に関わる大脳辺縁系と呼ばれる脳の古い部分では、4~7ヘルツのシータ波が発生し、その波の上部は第一シューマン共振と境を接します。
シータ波は幼い子供や瞑想中の大人に顕著に現れます。
このアルファ波とシータ波は知られている限りでは驚くほど変化の程度が少なくすべての動物で脈動しています。
リラックスした状態では、犬は人間と同じ8~12ヘルツのアルファ波を示し、猫の場合は8~15ヘルツとやや広い範囲を示します。
ウサギ、モルモット、ヤギ、牛、カエル、鳥、爬虫類などもほぼ同じ周波数を示します。
ケーニヒは、1番目のシューマン共振(7.83ヘルツ)はアルファ波のリズムと完全に一致していることに注目しました。
1番目のシューマン共振が現れるのは、天気の良い日、つまり穏やかでバランスの取れた状態であり、それは脳の中でアルファ波が穏やかでリラックスした状態で現れるの同じです。
一方、3ヘルツ前後の不規則で高い振幅の波で構成されているデルタはは、天候が乱れてバランスのとれていない状態の大気中や、頭痛、痙攣、腫瘍などの障害や病気の状態の脳内に現れるのです。
またケーニヒは、デルタ波が大気中に存在する場合、人間の反応速度が著しく低下することと、8ヘルツのシューマン波はその逆で、大気中のシューマン共振が大きければ大きいほど人々の動きは素早いことを明らかにしました。
雷は、毎秒数千サイクルにも及ぶ空電(雷の放電によって生ずる電磁波。継続時間は1000分の数秒にすぎない)と呼ばれる高周波による安定した交響曲を奏でます。
空電を超低周波無線で聞くと小枝が折れたような音がしますが、発生源は何千マイルも離れた雷雨ということがよくあります。
また、特殊な空電としては、地表と電離層を導波管として地球を周回するシューマン共振(基本波8ヘルツ)や、電離層を抜けて地球磁力線に沿って地球の反対側に伝播するホイッスラと呼ばれる、スライドホイッスルの下降音に似た音を引き起こすこともあります。
ホイッスラは、地球の反対側で起こっている雷雨から発生した電磁波が磁力線に沿って宇宙空間に導かれ、反対側の地球に戻ってくるという長い旅行中に発生します。
この波は地球の端から端まで何度も跳ね返ってくることもあり、これが1920年代に最初に発見されたとき、この世のものとは思えない程の連続音に「宇宙からの声」というタイトルをつけた新聞記事が出ました。
このほかにも、特に高緯度地域では、地球の電気的環境のどこかで発生する音として、間断のないヒスや、鳥のさえずりに似ていることから名づけられた「夜明けのコーラス」が聞こえることがあります。
これらの超低周波音のシンフォニーはいずれも地球の磁場のゆっくりした脈動に合わせて約10秒ごとに穏やかに上下して、私たちの神経系を包み込んでいます。
その周波数はおよそ200ヘルツから3万ヘルツで私たちの聴覚システムの範囲をカバーしていて、脳が筋肉に送るインパルスの周波数も含まれています。
超低周波に囲まれた環境が私たちの健康に大きな影響を与えることは、1954年にラインホールド・ライターと彼の同僚がドイツで行った100万人を対象とした人口調査の結果を集計したことで明らかになりました。
出生、死亡、自殺、レイプ、労働災害、交通事故、切断手術を受けた人の痛み、脳障害者の訴え、そして人間の反応テンポが、いずれも超低周波空電が強い日に大きく上昇しました。
低周波が生体に与える影響を、ハムスターを使った実験と、実際に人間を使った2種類の実験があります。
今回は人間の方を紹介します。
1957年、行動生理学者ルトガー・ヴェーファーはドイツのマックス・プランク研究所で、完全に遮蔽された部屋に人間の被験者を数週間入れて何が起こるかを見る実験を行いました。
ヴェーファーは地下に2つの隔離質を持つ建物を建設しました。
隔離質は両方とも外界の光と音を遮断し、1つは外界からの電磁場をも遮断しました。
その後20年間何百人もの人々が通常は1か月間、どちらかの部屋に滞在しながら、睡眠サイクルや体温などの体内リズムをモニターされました。
明暗の変化なく時計や時間の合図がなくても、地球の自然な電磁場が存在する限り、体の睡眠サイクルと体内リズムは24時間に近い状態を保つことがわかりました。
しかし、外界からの電磁場を遮断すると、体のリズムは通常、長くなり、不規則になり、お互いに同期しなくなりました。
平均的な睡眠サイクルは25時間でしたが個人差があり、最短で12時間、最長で65時間でした。
体温の変化、カリウムの排出、精神処理の速さ、その他のリズムは、各人が全く異なる別々の速度で漂い、もはや睡眠・覚醒サイクルとは一致しなくなりました。
しかし、一番目のシューマン共振に近い10ヘルツの人工信号をシールドルームに導入すると、体のリズムはただちに24時間周期に同期しました。
地球磁場が危ない
1970年代初頭、大気物理学者たちは地球の磁場が大きくかき乱されているという事実に気づきました。
半世紀もの間、彼らが効いていた口笛、ヒス、「夜明けのコーラス」、ライオンの方向などの特徴豊かな音のすべてが自然に起因するものではなかったのです。
この発見は、地球の電磁環境を意図的に変えようとする企みを、詳しく調査したことから出てきました。
その企みとはこんにち、アラスカのガコナにある「ハーププロジェクト(HAARP)」に結実しています。
1958年、地球上で発信された超低周波が磁気圏の粒子と相互作用し、粒子を刺激して新たな超低周波を発し、それを地球の反対側で受信できることが偶然発見されました。
これを意図的に行うために、スタンフォード大学無線科学研究所の研究者たちは米海軍研究局との契約に基づき、南極大陸のサイプル基地に100キロワットの超低周波発信機を建設し、凍った氷の上に長さ約20.8キロメートルのアンテナを設置して1.5キロ~16キロヘルツの周波数帯の電波を送信しました。
十分な量の超低周波エネルギー磁気圏に注入すれば新しい波を引き起こすだけでなく、これらの波が新たな電子を発生させ、その結果、電子が地球の放射線帯から大気中に放出されて電離層の特注を変化させる可能性があり、その現象を軍事目的に利用することを米軍が目論んだのです。
国防総省の主な用途は海中深く潜っている潜水艦と通信するためでした。
電離層を刺激して低周波や超低周波、さらには極超低周波を出す方法を考案するための初期研究の一部が、サイブルの超低周波発信機と、ケベック州北部ロバーバルにある超低周波受信機でした。
彼らが集めたデータは驚くべきものでした。
まず、南極から送信された直後にケベックで受信した信号は予想以上に大きかったのです。
南極から送信された電波は、磁気圏の粒子から新たな放射を引き起こしただけでなく、磁気圏で1000倍以上に増幅されて地球に戻ってケベックで受信されました。
発信された電力が磁気圏で中継後、地球の反対側の極の近くで検出されるためには、わずか0.5ワットの送信出力を要しただけでした。
2つ目の驚きは、ケベック州ロバーバルで受信した周波数が、サイプルで発進した周波数とは関係なく、60ヘルツの倍数であったことです。
サイプルの信号は、宇宙空間を旅する間に地球の電気回路が刻み込まれて変化したものです。
この最初の発見以来、科学者たちは「電力線高調波放射」として知られるこの汚染現象について多くのことを学びました。
世界中の電力網から発生する高調波(50または60ヘルツの基本周波数の波形に対し、その3~40倍の周波数の波形のものをいう。交流の波形をゆがませて、電気機器や設備に対し悪い影響を及ぼす)は磁気圏に継続的に漏れだし、北半球と南半球を行き来することで大きく増幅され、まるで稲妻からの放射線のように、上昇と下降の口笛を発生させているように見えました。
しかし、根本的な違いがあります。
1889年以前は、雷鳴に伴う口笛やその他の音は、地上の楽器の全音域で連続的に演奏されていました。
しかし現在の音楽はぎこちなく、多くは50ヘルツや60ヘルツの倍数に限られています。
つまり、自然の交響曲のすべての構成要素は、根本的に変化してしまったのです。
こんにちの「夜明けのコーラス」は多くの企業が休む日曜日には他の曜日よりも静かです。
なぜならコーラスの放射開始周波数は、送電線からの放射エネルギーによって引き起こされているからです。
1ヘルツ以下の自然でゆっくりとした地球磁場はすべての生命にとって重要ですが、その脈動は週末に最も強くなります。
なぜなら平日の地球磁場は、送電線からの放射エネルギーに抑圧されているからです。
送電線の放射エネルギーは平日に強くなることが明らかになっています。
物理学者たちは、なぜ地球周囲には電子で満たされた2つの放射線帯、ヴァン・アレン帯が内帯と外帯の2重になっていて、2層の間にはほとんど電子のない割れ目があるのだろうか、と考えてきました。
これらの電子は地球上に降り注ぎ、大気の電気的特徴を変化させます。
その結果、雷雨の頻度が増えるだけでなく、生物が調子を合わせて共振しているシューマン共振の値が変化する可能性があります。
1889年以前と現在では、地球全体の電磁環境が大きく異なっています。
衛星観測によると、送電機からの放射エネルギーは非常に強力で雷による自然放射エネルギーを上回ることが多く、大気科学者は基礎研究ができないと嘆いているほどです。
超低周波受信機を使って自然現象を研究できる場所は、地球上はもちろん、宇宙にもほとんど残っていません。
1889年以前の自然な状態では、電子の雨やシューマン共振のシフトに繋がる強力な超低周波活動は、地磁気嵐のときにのみ発生していました。こんにち、磁気嵐は終わることがありません。
ところで2022年3月13日、読売新聞科学欄の「火星の海 磁場消え蒸発?」という記事では、東京大学の地球深部の物質構造を探る高圧地球科学の広瀬敬教授が発表した、火星磁場と海の消滅に関する新学説を伝えています。
要約すると、地球の兄弟星の火星に太古の昔に存在した海が消滅した原因は、40億年前まであった火星磁場の消滅です。
消滅の原因は、火星内部の金属に水素のような軽い元素が含まれていたことで金属対流が止まったことです。
磁場がなくなると、太陽から来る電気を帯びた粒子(太陽風)が火星に直接降りそそぎ、その粒子が水を宇宙に飛ばして海が蒸発したようです。
地球に降り注ぐ太陽風と宇宙線という高エネルギー電子は地球磁場に押し留められて、ヴァン・アレン帯から中に入れないので、地球大気中にはほとんど届きません。
ヴァン・アレン帯に感謝したいですね。
がんも心臓病も糖尿病も住宅の電化と直接関係していた
厚生労働省発表の「人口動態統計月報年計の概況」による死因ランキングでは第1位ががん、第2位は心疾患で糖尿病は世界保健機関が2000年から2019年の
20年間の世界の死因トップ10では9位になっています。
この3つの病気には共通点が2つあります。
・電気が一般的になるまでは非常に稀な病気だったこと
・年炎死亡者数は増加の一途をたどっていること
です。
この表には糖尿病は出ていませんが、世界規模では同じく年々増加傾向にあります。
心臓病の原因は主にコレステロールと洗脳されてきたが.....
大学の医学部では、心臓病の原因は主にコレステロールだと徹底的に教え込まれます。
現代の疫病の最も重要な要因は悪い食事と運動不足という常識に疑問を持つ者はいないでしょう。
しかし、サミュエル・ミルハム博士が2010年に「現代の心臓病や糖尿病やがんの流行の一因は電気である」という論文を発表しました。
1950年代以降、先進国で行われた大規模な研究で、コレステロールと心臓病の間に直接的な相関関係があることが示されています。
また、ベジタリアンと肉食する人を比較した研究で、現在のベジタリアンはコレステロール値が低く、心臓発作で死亡するリスクが低いことも分かっています。
腎臓病専門の内科医でスウェーデンのルンドに住むウフェ・ダウンスコフが2000年に出版した本があります。
彼は代替医療界の一部では象徴的な存在となっていて、この本で、現代人が心臓発作を起こすのは動物性脂肪を祖先よりも多く摂っているから、という説を否定しました。
キリスト教の一派、セブンスデー・アドベンチストでは、全員がタバコやアルコールを控えていますが、肉を控える人は約半数です。
それdめおアドベンチスト教徒は心臓病で死亡する確率が3分の1から2分の1であることが、多くの大規模な長期研究で示されています。
心臓病の原因は必ずしも肉食ではないということなのです。
家族性高コレステロール血症の人は、血液中のコレステロール濃度が非常に高く、コレステロールの結晶が原因で足の指や足首、膝などに通風のような症状が出たり、間接に脂肪がついたりすることがあります。
現代ではそういう人達は若くして冠状動脈性心臓病でなくなることが多いのです。
しかし昔はそうではなかったことが、オランダのライデン大学の研究者たちが行ったリサーチによって判明しました。
研究者たちは現代の3人の冠状動脈性心臓病患者の祖先をたどって、18世紀後半に生存していた2人の共通祖先を見つけ出しました。
そして調査の結果、1860年代に以前にはこの遺伝子を持つ人々の死亡率は、一般の人々より50%も低かったのです。
つまり、コレステロールには保護作用があったようで、当時コレステロール値が非常に高い人は平均よりも長生きしたのです。
しかし、19世紀後半になると彼らの死亡率は着実に上昇し、1915年頃には一般人口の死亡率と同じになりました。
その後も上昇を続け、1950年代には平均の2倍に達し、その後はやや横ばいとなっています。
1965年、マニトバ大学で研究していたレオン・マイケルズは、冠状動脈性心臓病が極めて稀であった過去数世紀間の脂肪の消費について、歴史的な資料を調べました。
すると彼が見つけたものは、コレステロールは心臓病の原因とする常識と矛盾していたのです。
彼はコレステロール悪玉説には何か問題があるに違いないと確信しました。
1696年に書かれた資料によると、イギリスの人口の半分の富裕層(約270万人)は、1人あたり年間平均147.5ポンドの肉を食べていたようです。
これは、266年後の1962年のイギリスにおける肉の消費量の全国平均を上回る量です。
また20世紀以前に肉の消費が減少したこともありません。
1901年の別の資料によると、1900年のイギリスの使用人を雇っている階級の平均的な肉の消費量は、1950年のそれよりもはるかに多かったのです。
マイケルズは、運動不足が現代の心臓病の蔓延を引き起こしたとは考えませんでした。
なぜなら、心臓病が最も増えた階層は、肉体労働に従事したことがなく、乗馬やポロに興じる男性以外は運動不足で、以前よりはるかに少ない脂肪しか食べていない上流階級の人々だったからです。
ロンドン大学の社会医学教授ジェレマイア・モリスは1908年から1949年までのロンドン病院での検死記録を調べました。
1908年には、30歳から70歳までの男性の剖検のうち30.4%に高度な動脈硬化症が見られましたが、1949年にはわずか16%でした。女性では25.8%から7.5%に低下しました。
病気や狭心症、心臓発作の原因とされていた冠動脈コレステロールプラークは以前よりはるかに少なくなっていたのです。しかし冠動脈患者は増加しました。
1961年、コレステロールが心臓病の原因とする説が主流の時代に、モリスはエール大学医学部で論文を発表し次のように述べました
「食事中の脂肪が血中脂肪に影響を与える以上に、血中脂質がアテローム(動脈壁内に付着して血流を妨げる脂肪の粉瘤)形成に関与する以上に、アテロームが虚血性心疾患の原因となる以上に、他の未知の環境要因が重要なことは、かなり確実です。」
その未知の環境要因とは、電気です。
私たちが生きる現代の環境では電磁界が激しくなり、祖先のように脂肪を代謝することがえきなくなってしまったのです。
戦争と無線通信と兵士たちの疾患の関係性
電信が広く使われた最初の戦争、アメリカ南北戦争では、過敏症心臓が顕著な病気として取り上げられました。
若き医師ジェイコブ・メンデス・ダ・コスタがフィラデルフィアの軍病院を訪れた時に語った患者の様子があります。
「数か月以上現役で働いていた者が下痢に襲われる。うっとうしいが、戦場に出られないほど重くはない。あるいは、下痢や熱に襲れても、短期間の入院を経て、再び部隊に復帰する。彼の意志で再び軍人としての努力を重ねていく。そしてまたそれを繰り返す」
ダ・コスタは、ダ・コスタ症候群、努力疲労、呼吸困難、ため息呼吸、動悸、発汗を組み合わせた不安障害の発見で知られる著名な医師です。
彼はアメリカ南北戦争で兵士を観察して、その研究結果を1871年に文書化しました。
ダ・コスタ症候群とは、身体検査で生理学的異常がまったくみられないにもかかわらず心疾患の患者と似た症状を呈する症候群で、症状には運動時の疲労、息切れ、動悸、発汗、胸痛などがあります。
このダ・コスタ症候群の特徴的症状は、南北戦争のすべての軍隊で観察され、多くの軍医が注目していました。
しかし、過去のどの戦争でもこのような病気を記述したものがいなかったことをダ・コスタは不思議に思い、過去の多くの戦争の医療資料を調べました。
電信線が世界中を網羅したのがこの頃です。
クリミア戦争以前にはこのような病気の兆候は見られなかったのは、電信が過去の戦争で使われたことはなかったからです。
南北戦争が勃発した1861年当時はミシシッピ川以西のほとんどの地域にはまだ電信線が通っていなかったので、北側の兵士は皆、電信線の近くで行進し、キャンプもしました。
第一次世界大戦勃発直後は、一般の人々に心臓病がまだ少なく、心臓病学が独立した医学専門分野として存在していませんでした。
この戦争でダ・コスタ症候群を発症した全員に共通するのは、新しい通信手段を使って戦いに挑んでいたことです。
イギリスがドイツに宣戦布告したのは、ドイツが同盟国フランスに侵攻した2日後の1914年8月4日でした。
イギリス軍は8月9日にフランスに向けて出発し、ベルギーに進み、無線電信の助けなしで8月22日にモンスに到着しました。
ところがモンスではすべての騎兵師団と旅団に、移動式無線機と5マイルの範囲をカバーするナップザック型無線通信機が割り当てられ、前線のすべてのさんごう戦でナップザック型無線通信機が使用されました。
無線電波の暴露はイギリス全部隊で強烈でした。
モンスからの退却中、多くのイギリス兵が胸の痛み、息切れ、動悸、心拍の乱れなどの体調不良を訴え、心臓病の可能性があるとしてイギリスに送り返されました。
イギリスの陸海軍で戦った650万人の若者のうち、10万人以上が「心臓病」という診断で除隊・年金を受けました。
アメリカ陸軍では、このような症例はすべて心臓弁膜症に分類されており、陸軍を除隊する医療上の理由としては3番目の多さです。
同じ病気は空軍にもありますがほとんど飛行機酔いと診断されて、原因は高高度で酸素濃度の低下に繰り返しさらされることとされました。
ミルハム博士は、フランクリン・ルーズベルト政権が、アメリカのすべての農場と農村に電気を供給することを国家の優先事項としていた1930年代から1940年代の生命統計を調べて、気づいたことがあります。
それはがんも糖尿病も心臓病も、住宅の電化に直接関係していたことです。
電気が通っていなかった田舎では、電気が通るようになるまでは心臓病はほとんどなかったのです。
実際、1940年に電気が通った田園地帯の住人は、電気が通っていない地域の住人に比べて突然、4、5倍の頻度で心臓病によって死亡しました。
19世紀後半にニューヨークで内科を開業していた著名な医師オースティン・フリントは、5年間にわたって狭心症の奨励に一度も遭遇しなかったと記しています。
ハーバード大学医学部の著名な循環器学者ポール・ダドリー・ホワイトは、自分が開業した1911年以降、故郷のマサチューセッツ州で心臓病の発症率が3倍になったことを知って「心臓病はしいんとして、この地域でますます大きな役割を占めるようになり、今では結核、肺炎、癌をはるかにしのぎ、他のすべての死因をリードしている」と書いています。
冠状動脈がつまることで発症する冠状動脈性心臓病は、当時の心臓病の中で最も多い病気でしたが、かつては非常に稀な病気でホワイトが開業して数年はほとんど奨励がありませんでした。
心臓病は、何もないところから20世紀に入って本格的に発生したわけはありません。
比較的珍しい病気ではありましたが、現代の流行は電信線の普及が始まったのと同じころの1870年代に始まりました。
更に、今でも電化が進行中の国をインドを例にとります。
1984年から1987年にかけて、インドのシタラム・バルティア科学研究所の科学者たちは、デリー市の冠状動脈性心臓病の異常に高い罹患率と、50~70キロメートル離れたハリヤナ州グルガオン地区の農村部の罹患率を比較しました。
2万7000人に聞き取り調査を行ったところ、予想通り、都市部の方が田舎よりも心臓病が多いことが判明しました。
しかし、危険因子と思われるものはほとんどすべて農村部の方が多かったのです。
都市部に住む人々は喫煙量が少なく、カロリー、コレステロール、飽和脂肪の摂取量も農村部の人々より少なかったのです。
しかし、都市部の心臓病発症率は農村部の5倍でした。
「この調査で明らかになったことは、冠動脈疾患の有病率の都市と農村の差は、特定の危険因子とは関係がない。したがって、従来の説明を超えた他の要因を探す必要がある」と研究者は書いています。
シタラム・バルティア科学研究所の研究者が注目しなかった最も明白な要因は、電気です。
1980年代半ば、グルガオン地区にはまだ電気が通っていませんでした。
1901年、アメリカペンシルバニア州フィラデルフィア市の動物園に比較病理学研究室というユニークな施設が設立されました。
1916年から1964年まで、研究室長ハーバート・フォックスとその後継者であるハーバート・L・ラトクリフは、1万3000頭以上の動物の解剖を完全に記録しました。
その結果、この動物園にいる45科の哺乳類と65科の鳥類に動脈硬化や心臓病が発生したことが明らかになりました。
動脈硬化は1916年から1964年までの期間に、すべての哺乳類と鳥類の間で10倍から20倍という驚異的な増加が示しました。
動脈硬化発生率は1930年代に急速に上昇し、1964年には、ほ乳類の25%、鳥類の35%にこの病気が発生しました。
1930年代から大動脈での動脈硬化は定期的に発生し、1963年には動物園で死んだ哺乳類の90%以上、鳥類の72%以上が冠動脈疾患を患っていました。
心臓発作が初めて記録されたのは1955年のことで、心臓発作の大部分は寿命の前半にある若い動物に発生し、ほ乳類では24%、鳥類では10%で発生しました。
このような陛下に食事は関係ありませんでした。
なぜなら動脈硬化の増加は、動物園に栄養価の高い食事が導入された1935年よりもずっと前から始まっていたからです。
ラトクリフは1940年に始まった品種改良によってもたらされた社会的圧力による心理的なストレスが動物の心臓に影響を与えているに違いないと考えました。
しかし、その考えでは、それから20年以上経っても冠動脈疾患や心臓発作が動物園全体で人工繁殖されているかどうかにかかわらず、すべての動物種で驚くほど増え続けている理由を説明できません。
また1930年代に心臓以外の動脈硬化が増加した理由や、1960年にロンドン動物園の動物の22%、1962年にベルギーのアントワープ動物園という何千マイルも離れた場所で、同程度の動脈硬化が発見された理由も説明できません。
ロシア・東欧における電波病研究はアメリカ・西欧で完全に無視された
人や動物に冠動脈疾患が急増した1950年代に、環境で最も顕著に増加した要素は電波放射です。
第二次世界大戦以前に電波が広く利用されていたのは、無新通信と、医療現場で身体の一部を温める透熱療法(ジアテルミー)の2つでした。
1950年代に、留まるところを知らず拡大したのは電波発信機の需要です。
電波発信機が量産され、何十万人もの人々が仕事中に電波に晒されるようになりました。
電波は、レーダーだけでなく、飛行や航行、ラジオ・テレビ放送、電波天文学、多くの産業における加熱・密封・溶接、そして家庭用電子レンジにも使われました。
産業従事者だけでなく、全国民がかつてないレベルの電波に晒されるようになりました。
電気に対する考え方は、政治的理由で西欧と東欧で全く反対になりました。
西欧圏の国々では、電気の科学的事実はほとんど否定されて活きました。
レーダー技術者が、頭痛、疲労感、胸の不快感、目の痛み、さらには不妊症や脱毛などを訴えると、簡単な健康診断と血液検査を受けさせられ、重大な結果が出なければすぐに仕事に戻ることになります。
東欧圏は西欧圏と違って、労働者の不満は重要視されました。
超短波放射に晒された労働者の診断と治療に特化したクリニックがモスクワ、レニングラード、キーウ、ワルシャワ、プラハなどに設置されました。
超短波放射に晒される産業で働く労働者のうち、治療を受けなければならない程の病気になった労働者は平均15%、永久的な障害を負った労働者は2%でした。
旧ソビエトとその同盟国は、超短波によって引き起こされる症状が、1869年にアメリカの医師ジョージ・ビアードが初めて記述したものと同じであると認識していて、ビアード用語を使ってその症状を神経衰弱と呼び、その病気をマイクロ波病または電波病と呼びました。
1953年、モスクワの労働衛生・職業病研究所で集中的な研究が始まりました。
1970年代に入ると、これらの研究成果は何千もの出版物となり、電波障害に関する医学教科書が作成され、ロシアや東欧の医学部のカリキュラムに組み込まれました。
現在、ロシアの教科書には、心臓、神経系、甲状腺、副腎などへの影響が記載されています。
電波被曝の症状としては、頭痛、疲労感、脱力感、めまい、吐き気、睡眠障害、イライラ、記憶喪失、情緒不安定、抑うつ、不安、性機能障害、食欲不振、腹痛、消化器系の障害などがあります。
その患者は、目に見える震え、手足の冷え、顔の紅潮、過度の反射作用、大量の汗、脆い爪を持つようになります。
血液検査では、炭水化物の代謝障害、トリグリセリドやコレステロールの上昇が認められます。
心臓の症状が顕著です。
動悸、胸の重苦しさや刺すような痛み、骨の折れる作業後の息切れなどがあり、血圧や脈拍も不安定になります。
急性の場合は心拍が速くなり、血圧が高くなります。
慢性の場合は逆に低血圧になり、心拍数が35~40回と遅くなることもあります。
1971年に出版された医学書の中で、著者にニコライ・タイアギンは、自分の経験では、電波に晒された労働者のうち、心電図が正常だったのは15%程度だったと述べています。
この知識はアメリカ医師会によって完全に無視されて、アメリカのどの医学部でも教えていませんが、アメリカの一部の研究者は気づいていました。
携帯電話で若いアスリートたちが突然死
超短波や一般t京奈電気は細胞レベルに影響して、心臓の酸素を奪ってしまうことが明らかになりました。
1980年には若いアスリートの心臓発作は珍しく、アメリカではわずか9件しか発生していませんでした。
その後、毎年10%ずつ増加し、1996年には突然、スポーツ選手の致命的心停止件数が64人に増大し、翌年は66人、98年には76人の競技スポーツ選手の心臓が力尽きて止まりました。
そのほとんどが18歳未満でした。
1998年秋、元オリンピック陸上競技金メダリストのフローレンス・グリフィス・ジョイナーが、睡眠中に心臓が停止して38歳で亡くなり、カナダのアイスホッケー選手、ステファン・モーリンが、ドイツでのアイスホッケーの試合中に突然の心不全で29歳の若さで亡くなりました。
アイスホッケーのスイス代表チームで活躍していたチャド・シルバーも29歳で心臓発作によって亡くなり、NFLの元タンパベイ・バッカニアーズのノーズタックル、デイヴ・ローガンも同じ原因で倒れて42歳で死亡しました。
子の選手たちは心臓病の既往歴はありませんでした。
それから10年後、スポーツ界での不安の高まりを受けて、ミネアポリス心臓研究所財団は『スポーツ選手の突然死に関する全国登録簿』を作成しました。
公的機関の記録、報道、病院のアーカイブ、検死記録などを駆使して、1980年から2006年の間に突然の心停止に見舞われた38種の異なる競技のアメリカ人選手、1049名を特定しました。
このデータは、スポーツ界ですでに知られていたことを裏付けるもので、アメリカ医学会はその説明に窮しましたが、ヨーロッパでは一部の医師がその答えを知っていると考えていました。
なぜ多くの和解アスリートの心臓が運動の緊張に耐えられなくなったのか?
なぜ高齢者しかかからなかった病気に、多くの若者がかかって死んでいるのか?
2002年10月9日、ドイツの環境医学を専門とする医師の団体が、携帯電話通信用の鉄塔とアンテナの一時停止を求める文書の配布を開始しました。
電波放射の影響で、急性疾患や慢性疾患が激増しており、中でも「血圧の極端な変動」や「心臓リズム障害」、そして若年層の心筋梗塞や脳卒中などが顕著にみられると、かれらは言いました。
3000人の内科医が署名したこの文書は、起草されたドイツの都市名にちなんで「フライブルグ宣言」と名付けられました。
彼らの分析が正しければ、1996年にアメリカのスポーツ選手の心臓発作が突然2倍になったのは、この年にアメリカでデジタル携帯電話が発表され、携帯電話会社がそのために何万ホンモノ電波塔を建設し始めたからです。
2022年4月11日、OANが報じたところによると、2021年3月から2022年3月の1年間に世界中で769人の男女が協議中に心臓の問題で倒れました。
呼吸ができなくなり、苦痛で胸を掴むことになり、本格的な心停止を経験した人の平均年齢はわずか23歳でした。このタイミングは5Gを含む電磁波だけでなく新型コロナワクチンの影響もあると思います。
12月には、約300人のアスリートがコロナワクチン接種後に倒れたり、心停止を起こしたりしたと伝えられています。
コロナワクチンについては後で詳しく取り上げます。
若年層の心臓ストレスはスポーツ選手に限ったことではありません。
2005年、CDC(アメリカ疾病予防管理センター)の研究者が、15歳から34歳までの青少年と若年成人の健康状態を調査したところ、1989年から1999年の10年間に、若年男性の心臓突然死の割合が11%、若年女性の心臓突然死の割合が30%増加していることがわかりました。
また、心臓肥大、心臓調律障害、肺性心臓疾患、高血圧性心臓疾患による死亡率も、この若年層で増加していました。
21世紀に入ってからもこの傾向は続いています。
20代のアメリカ人の心臓発作の数は、1999年から2006年の間に20%増加し、この年齢層のすべての種類の心臓病による死亡率は3分の1増加しました。
2014年、心臓発作で入院した35歳から74歳の患者のうち、3分の1は54歳以下でした。
発展途上国はそれどころではありません。
彼らは先進国に続いて電化の華やかな道を歩んでいます。
そして彼らは無線通信テクノロジーの大規模な容認を先進国よりも早く与えましたから、その影響は避けられません。
かつて低所得国では心臓病は重要疾患で張りませんでしたが今では、1つの地域を除くすべての地域で、心臓病は死因の第1位となっています。
サハラ以南のアフリカだけが、2017年の死亡原因として、貧困の病気であるエイズや肺炎が心臓病を上回っていました。
心臓病を克服するために何十億もの予算が費やされているにもかかわらず、医学会はまだ暗中模索の状態です。
150年前から心臓病の流行を引き起こしている主な要因が世界の電化であることを認識しない限り、この戦争に勝つことはできないでしょう。
糖尿病も電化率と密接に関係
かつて糖尿病は非常に珍しい病気でした。
紀元前4世紀の古代ギリシャで、それまでの呪術的医療と異なり、健康・病気を自然の現象と考え、科学に基づく医学の基礎を作ったことで「医学の祖」と称されているヒポクラテスは、糖尿病について言及していません。
糖尿病に関する最初の本が書かれたのは1798年のことで、その著者でイギリス人医師ジョン・ロロは、23年間の医師生活の中で3例しか観たことがありませんでした。
17世紀に活躍し「イギリス医学の父」と呼ばれるトーマス・サイデンハムの著作には、糖尿病に関しる記事が1ページだけあります。
その中では、病気についての説明はほとんどなく、肉食を推奨し、薬草療法を処方しています。
1876年にニューヨークで出版されたベンジャミン・ウォード・リチャードソンの500ページに及ぶ著作『現代生活における病気』には、4ページが糖尿病に振り分けられていました。
リチャードソンは、糖尿病を精神的な過労による疲労や、神経系への何らかの衝撃によって引き起こされれう現代病と考えていましたが、まだ稀な病気でした。
1881年から1886年にかけてドイツ語と英語で段階的に出版された3巻の大著『地理病理学と歴史病理学の手引き』は、既知の病気の歴史と世界中での流行や分布をまとめています。
その中で糖尿病については6ページを割いて、稀な病気であることと、ほとんど情報がないことを指摘しています。
症例については時折、トルコ、エジプト、モロッコ、メキシコ、セイロン、インドの一部の地域では報告されていました。
セネガンビアとギニアコーストの開業医は症例を全く見たことがなかったようです。
中国、日本、オーストラリア、太平洋の島々、中央アメリカ、西インド諸島、ギアナ、ペルーでは、発生したという記録さえもありません。
リオデジャネイロで長年診療している医師の1人は、糖尿病の症例を1例も見たことがないと言いました。
では、なぜ糖尿病が人類の大敵になってしまったのでしょうか?
1922年から1984年の間、1人あたりの砂糖消費量は全く増えていませんが、糖尿病の発症率は10倍にもなっていますから、現代の糖尿病の流行が食生活だけが原因ではないことは間違いありません。
こんにちの多くの糖尿病研究者は、否定する証拠があるにもかかわらず、いまだにこの病気を誤った食事と運動不足と遺伝のせいにしています。
ダン・ハーリーが2011年に出版した『糖尿病の台頭』で述べているように、インスリンが発見されてから90年間、人類の遺伝子は変化していないというのに、食事も運動も薬のどれも、この病気を減少させられないでいます。
心臓病と同様、1830年代の糖尿病による農村部の死亡率は、農村部の電化率と密接に関係しており、電化率の低い州と高い州では、10倍もの差があります。
アメリカにおける糖尿病の全体的な歴史は心臓病の歴史と似ています。
1922年にインスリンが発見されたにもかかわらず、糖尿病による死亡率は1870年から1940年代まで着実に増加しました。
1950年代後半には、オリナーゼ、ジアビナーゼ、フェンフォルミンが発売され、インスリンの効き目が弱いインスリン抵抗性の糖尿病患者の血糖値をコントロールするための経口薬の先駆けとなりました。
これらの薬によってこの病気による死亡率は抑えられましたが、減少はしませんでした。
アメリカでは、糖尿病と診断される患者数は着実に増加しています。
1997年、全国的に糖尿病患者が急増して1年で31%も増加がみられましたがその理由は誰にも説明できませんでした。
この年、通信業界はデジタル携帯電話をアメリカに大量導入しました。
最初の携帯電話がアメリカの数十の年で発売されたのは、1996年のクリスマスシーズンでした。
それらの都市で携帯電話の電波塔建設が始まったのは1996年で、翌1997年は、それまで大都会に限られていた電波塔の大部隊が農村部に進出して未開拓だった領域を占領しました。
この年は、金持ちの贅沢品だった携帯電話が庶民の必需品となり、鉄塔やアンテナからの極超波放射がアメリカの大部分で避けられないものとなった年です。
こんにちのアメリカの状況は手に負えません。
アメリカ疾病予防管理センターの推計によると、20歳以上のアメリカ人成人で糖尿病と診断されている人が2100万人いるのに加え、診断されていない糖尿病患者が800万人、糖尿病よびぐんが8600万人いるようです。
これらの数字を合計すると、1億1500万人のアメリカ人、つまり全成人の半分以上が血中に糖分濃度が高いという衝撃的な事実が見えてきます。
世界では、2000年には1億8000万人以上の成人が糖尿病を患っていると推定され、2014年には3億8700万人と推定されました。
地球上のどの国でも、糖尿病や肥満の割合は減少しません。
原因の変遷は、今、電気へと帰着しつつある
疫学者サミュエル・ミルハムが、心臓病、糖尿病と並ぶ電化と関係した第3の文明病としてあげたのが「ガン」です。
脂肪の代謝障害が心臓病に、糖質の代謝障害が糖尿病に関係しているのは確かですが、がんはどうなのでしょうか。
その鍵を握っているのは、慰安から100年以上前に研究室でウニの卵を研究していたドイツ人生理学者オットー・ワールブルクです。
彼は細胞内で酸素と反応する酵素の部分が、血液中の酸素と併合するヘモグロビンの一部と同一であることを証明しました。
ヘモグロビンの一部で酸素と結合するヘムと呼ばれる化学物質は鉄と結合したポルフィリンです。
それを含む酵素はすべての細胞に存在し、呼吸を可能にしていて、こんにちそれは、シトクロム酸素酵素として知られています。
この業績によってワームブルクは、1931年にノーベル生理学・医学賞を受賞しました。
1923年、彼は酸素の使用量が劇的に増えることを期待して、培養液に様々な栄養分を加えてみました。
ところがブドウ糖を加えたところ、腫瘍の呼吸が完全に止まってしまったのです。その原因を探ってみると、培養液には大量の乳酸が蓄積されていました。
腫瘍は1時間に体重の12%もの乳酸を生成していました。
単位時間当たりの乳酸生成量は、血液の124倍、安静時のカエルの筋肉の200倍、限界まで働いているカエルの筋肉の8倍もの乳酸を生成していました。
腫瘍は確かにブドウ糖を燃焼していましたが、燃焼に酸素を利用していなかったのです。
動物や人間の他の種類のがんを対象にした実験ワールブルクは、この事実が全てのがん細胞に共通して当てはまり、正常な細胞には当てはまらないことを発見しました。
酸素を使わずにブドウ糖からエネルギーを取り出す嫌気性糖分解は、発行とも呼ばれる非常に非効率的な代謝プロセスで、ほとんどの生体細胞でわずかに行われていますが、酸素が十分にない場合にのみ重要です。
例えば、ランナーが失踪すると、肺が酸素を供給するよりも早く筋肉がエネルギーを消費し始めます。
筋肉は一時的に無酸素状態でエネルギーを生産するため、酸素の借金状態が発生し、失踪を終えて立ち止まってるから大きく空気を吸うことで返済されます。
しかし嫌気性糖分解は同じ量のブドウ糖から得られるエネルギーは非常に少なく、しかも組織内に大量の乳酸が蓄積されます。
発酵は地球上に緑の植物が現れ、大気中に酸素が充満するようになる何十億年も前から、すべての生命体がエネルギーを得ていた非常に古い代謝形態です。
多くのバクテリアや酵母のような原始的生命体は今でも発行に頼っていますが、複雑な生き物はすべてその方法を放棄してしまっています。
ワールブルクが1923年に発見したことは、がん細胞は酸素があっても高い嫌気性糖分解を維持し、大量の乳酸を産生するという基本的な点において、高等生物の正常細胞は異なるということです。
この発見はワールブルク効果と呼ばれ、こんにちの陽電子放出断層撮影(PETスキャン)によるがんの診断と病期分類の基礎となっています。
無酸素糖分解は効率が悪くブドウ糖を大量に消費するので、放射性ブドウ糖を与えるとその取り込み速度が速いのでPETスキャンで簡単に見つけることができます。
腫瘍は悪性なほどブドウ糖の取り込み速度は速いのです。
「悪性腫瘍が始まる原因は、酸素不足に他ならない」とワールブルクは提唱しました。
細胞が一時的に酸素不足に陥った場合、緊急の間は糖分解が肩代わりしますが、酸素が再び得られるようになると、糖分解は停止します。
しかし、繰り返し、あるいは慢性的に酸素が欠乏すると呼吸のコントロールが損なわれ、糖分解が自立するようになるのです。
「成長中の細胞の呼吸が妨げられると、原則としてその細胞は死ぬ。もし死ななければ、腫瘍細胞になる」
ワールブルク理論は、当初から議論を呼びました。
1920年代には何百種類ものがんが知られていましたが、それらは何千種類もの化学物質や物理的な要因によって引き起こされていました。
多くの科学者は、あまりにも単純な共通原因を信じることに抵抗を感じました。
そこでワールブルクは彼らにシンプルな答え方をしました。
「何千もの化学物質が、それぞれの方法で細胞の酸素を奪っている。例えば、ヒ素は呼吸器系の毒物でがんの原因となる。ウレタンは呼吸を阻害する麻薬であり、がんの原因となる。皮膚の下に異物を埋め込むと血液の循環が阻害され、隣接する組織に酸素がいきわたらなくなるので、がんになる」
ワールブルク効果の確認は時間をおかず実行されました。
1942年、アメリカ国立がん研究所のディーン・バーグは、彼が調べたがん組織の95%以上は酸素なしで成長する能力を持っていたと報告しました。
腫瘍は酸素なしで成長する能力を持っているのです。
1950年代初頭、ロサンゼルスのシーダーズサイナイ病院医学研究所のハリー・ゴールドブラッドとグラディス・キャメロンは、生後5日目のラットの心臓から培養した線維芽細胞に繰り返し酸素を遮断することで、正常な細胞をがん細胞に変えることに成功した、と報告しました。
1967年、アメリカ国立がん研究所のバークのチームは、悪性腫瘍ほど糖分解率が高くブドウ糖を多く消費し、その結果乳酸を多く産生することを証明しました。
ワールブルクが83歳でこの世を去った1970年に、初めてがん遺伝子が発見されました。
がん遺伝子とは、がんの発生に関連して、突然変異によって引き起こされると考えられる異常な遺伝子のことです。
がん遺伝子とがん抑制遺伝子の発見により、がんの原因は代謝の変化ではなく、遺伝子の変異であるという考えが広まりました。
ワールブルクの仮説は当初から論争の的となっていましたが、以後30年間にわたって放棄されました。
しかし、PETスキャンによるがん診断と病期分類が普及したことで、ワールブルク効果は再びがん研究の主役に躍り出ました。
今では、がんが嫌気性の環境に生息し、成長するために嫌気性代謝を利用することを否定する人はいません。
かつては、がん遺伝子説に終始していた分子生物学者も、やはり酸素不足とガンには関連があることを認めつつあります。
全ての細胞にぞんざいするタンパク質である低酸素誘導因子(HIF)は、低酸素状態で活性化し、がんの成長に必要な遺伝子の多くを活性化することが発見されました。
HIFの活動、大腸がん、乳がん、胃がん、肺がん、皮膚がん、食道がん、子宮がん、卵巣がん、すい臓がん、前立腺がん、腎臓がん、脳腫瘍などで上昇するとわかっています。
ミトコンドリアの数や大きさの減少、ミトコンドリア遺の構造異常、クエン酸回路酵素の活性低下、電子輸送連鎖の活性低下、ミトコンドリア遺伝子の変異など、呼吸の障害を示す細胞の変化は、ほとんどの種類のがんで日常的にみられます。
ウイルスによる腫瘍であっても、悪性腫瘍の最初の兆候の1つは、嫌気性代謝速度の増加なのです。
実験的にがん細胞の呼吸を阻害したり、単に酸素を遮断したりすると、がんの悪性化や成長に関わる何百もの遺伝子の発現が変化することが分かっています。
呼吸を阻害するとがん細胞の侵略性が高まり、正常な呼吸を回復させると侵略性が低下します。
がん研究者の間では、細胞呼吸が低下した場合にのみ腫瘍が発生するというコンセンサスが形成されつつあります。
2009年には、オットー・ワールブルクに捧げる本『細胞呼吸と発がん現象』が出版されました。
この本はがんに関する関する問題のあらゆる側面を網羅していて、アメリカ、ドイツ、フランス、イタリア、ブラジル、日本、ポーランドの第一線のがん研究者が参加しました。
こんにち、がん研究者が問うているのは、もはや「ワールブルク効果は本当にあるのか?」ではなく「低酸素はがんの原因か、それとも結果か?」ということです。
しかし多くの科学者が認めているように、この問題は重要ではなく、単なる意味上の問題に過ぎないかもしれません。
がん細胞は酸素がないと増殖するので、酸素不足は初期のがん細胞に生存上の優位性を与えます。
そして、呼吸にダメージを与える環境因子は必然的にがんの発生率を高めます。
これまでみてきたように、電気がその要因です。
もし、電磁界に夜エネルギー代謝の低下という同じ原因で糖尿病とガンの両方が発症するのならば、糖尿病患者にはがんの発症率が高く、その逆もまたしかりでしょう。
この2つの病気の関係を最初に確認したのは、南アフリカの医師ジョージ・ダレル・メイナードで、1910年のことでした。
彼は1900年の国勢調査における15の脂肪登録州の死亡率統計を分析し、人口や年齢を補正した結果、この2つの病気には強い関連性があること発見しました。
一方の病気の発生率が高い宗派、もう一方の病気の発生率も高かったのです。
それから1世紀がたち、糖尿病とがんが併発していることは周知の事実となりました。
世界中で160以上の疫学調査が行われ、そのほとんどがこの2つの病気の関連性を確認したのです。
糖尿病患者は非糖尿病患者に比べて、肝臓がん、すい臓がん、腎臓がん、子宮内膜がん、結腸がん、直腸がん、膀胱がん、乳がん、非ホジキンリンパ腫などのがんを発症しやすく、またこれらのがんで死亡する可能性も高いです。
2009年12月、アメリカ糖尿病協会とアメリカがん協会は合同会議を開催し、その結果、以下のような合意が得られました。
「がんと糖尿病は同一人物の中で、偶然に予想されるよりも高い頻度で診断される」
電波の普及に必ず付きまとうがんの増加
がんの増加は、心臓病や糖尿病の増加よりも少し前に始まっています。
イギリスの初期の記録によると、がんによる死亡者数の増加は、1850年の時点で始まっていました。
歴史的な資料を見ると電気には必ずがんが付きまとっています。
1914年、電気が通ていない居留地に住む約63000人のアメリカ・インディアンのうち、がんによる死亡者はわずか2人でしたが、アメリカ全体のがん死亡率は、その25倍でした。
1920年から1921年にかけて近代化を進めたすべての国で、1年間のがん死亡率が3~10%上昇するという異常事態が発生しました。
これはAMラジオの商業放送が始まった時期に相当します。
1920年には、ノルウェー8%、南アフリカとフランスでは7%、スウェーデンでは5%、オランダでは4%、アメリカでは3%のがん死亡率上昇がみられました。
1921年には、ポルトガル10%、イギリス、ドイツ、ベルギー、ウルグアイで5%、オーストラリア4%、がんによる死亡者数が増加しました。
肺がん、乳がん、前立腺がんの罹患率は、データのあるすべての国で20世紀前半に大きく上昇しました。
乳がんによる死亡者数はノルウェーでは5倍、オランダでは6倍、アメリカでは16倍に増加しました。
肺がんの死亡者数はイギリスでは20倍に増加し、前立腺がんの死亡者数は、スイスでは11倍、オーストラリアでは12倍、イギリスでは13倍に増加しました。
肺がんはかつて非常に珍しく、ほとんどの国では1929年まで個別に記載しませんでした。肺がん追跡調査を行った数少ない国では、1920年頃になってから急激な増加が始まっています。
ベンジャミン・ウォード・リチャードソンは、1876年に出版した『現代生活における病気』の中に「喫煙によるがん」の章では、タバコの喫煙が唇や舌、喉のがんを引き起こすかどうかという論争について述べているが、肺がんについては言及していません。
アメリカがん制御学会が設立された1913年には肺がんはまだ珍しかったのです。
この年、ニューヨーク州悪性疾患研究所に報告された2641件のがん症例のうち、肺がんは1件しかありませんでした。
カロリー制限で寿命が延び、疾患が減少した
この記事では直接関係しませんが、フォーステンバーグ氏は非常に逆説的な事実をとりあげています。
病気の人は健康な人より長生きするということです。
1880年、ジョージ・ミラー・ビアードは一般大衆向けに書いた『アメリカ人の神経質さについて:その原因と結果』で書いたことがあります。
「神経質になる人が増える一方で、その結果として、寿命が延びている」
片頭痛、耳鳴り、精神的ないらいら、不眠、疲労、消化器系の不調、脱水症状、筋肉や関節の痛み、動悸、アレルギー、かゆみ、食べ物や薬への不耐性など、一般的な健康状態が悪化していく一方で、世界的に人間の寿命は延びていいたのです。
これらの症状で苦しんでいる人は年齢の割りに若々しく見えて、平均よりも長生きする傾向があるようです。
それは鉄道や電信の到達範囲と同じで、電気が密集している北東部で最も多く発生しています。
ビアードは長寿と病期の関係を見抜き、現代の寿命の延長が必ずしも健康や人生の向上を意味するものではないことを理解していたのです。
20世紀初頭、アメリカの生化学の父と呼ばれるイェール大学のラッセル・チッテンドンは、カーネギー研究所とアメリカ科学アカデミーの資金援助を受けて、ボランティアを対象に正式な実験を行いました。
イェール大学教授・教官5人、陸軍病院隊の志願者13人、学生8人、全員が十分に訓練されたアスリートで、中には運動競技に優れた成績を残した者もいました。
1日の摂取カロリーを約2000キロカロリー、タンパク質を50グラム以下に制限しました。
半年後の被験者の健康状態は、例外なく依然と同じかそれ以上で、体力、持久力、幸福感が向上していたのです。
チッテンドンは寿命については何も証明しませんでしたが、健康を維持するのに必要最低限の栄養素を摂取していれば、カロリーを極端に減らすことで寿命が延びることを明らかにしました。
延命を確実に行う方法は現時点でこれをおいて他にありません。
厳しいカロリー制限をするとネズミの寿命が60%延び、4歳や5歳まで生きるマウスやラットが日常的に生まれます。カロリー制限されたネズミは老衰せず、同年齢の他の動物よりも若々しく元気です。メスの場合、性成熟が非常に遅くありえないほどの高齢で子作りします。
他の生き物の例:
ブラジルに生息する1年魚のキノレビアス・アドルフィーは餌を制限した場合、3倍も長生きしました。
野生のかわますの集団は餌が不足すると寿命が2倍になり、24年も生きたますがいました。
週に8匹ではなく3匹のハエを食べさせたクモは、平均寿命が30日ではなく139日でした。
充分にえさを与えていないミジンコは、46日ではなく60日生きました。
ぜん虫の一種の線虫は寿命が2倍以上になりました。
軟体動物のセイヨウカサガイは、食物が豊富なときは2年半、そうでないときは16年行きます。
毎年冬に通常の半分の量の飼料を与え続けた牛は、20か月も余計に長生きしました。
また、その呼吸数は3分の1に、心拍数は1分間に10回減少しました。
ウィスコンシン国立霊長類研究センターで行われた25年間の研究では、十分な餌を与えられた成獣のアカゲザルの加齢による死亡率は、カロリー制限をした個体の死亡率の3倍でした。
2013年の研究終了時点では、完全きゅうじしたサルに比べて、食事制限したサルの方が2倍も生存していました。
カロリー制限は、生涯にわたって行う場合でも人生の一部の期間だけ行う場合でも、また、早期に開始する場合でも成人期に開始する場合でも、比較的遅い時期に開始する場合でも、いずれの場合にも効果があります。
カロリー制限の期間が長ければ長いほど、延命効果があり、加齢性疾患を予防します。
心臓病や腎臓病を遅らせたり、予防したりすることができ、がん発生率は大幅に低下します。
ある研究では、5分の1の量の餌を与えられたラットの腫瘍発生数は、全体のわずか7%しかいませんでした。
アカゲザルでは、がん発生率を半分に、心臓病を半分に減らし、糖尿病を予防し、脳の萎縮を防ぎ、子宮内膜症、繊維症、アミロイドーシス、潰瘍、白内障、腎不全の発生率を低下させました。
食事制限を続けた高齢のサルは、皮膚のしわや老人班が少なく、髪の毛の白髪も少なかったのです。
人間の心臓の鼓動の数は決まっているという考えは古くから存在しています。
現代では、1908年にベルリン大学のマックス・ルブナーがこの考え方のバリエーションを提案しました。
それは、心拍数規定の代わりに、細胞に割り当てられたエネルギー代謝量は決まっている、としたのです。
つまり、エネルギー代謝が遅いほど長生きすることになるのです。ルブナーの計算によると、ほとんどの哺乳類は一生の間に体重1グラム当たり約200キロカロリーを消費するといいます。
人間の場合、寿命を90年とすると、約800キロカロリーになります。
もしエネルギー使用量を減らせば、それに応じて人生も長くなることになります。
低温で寿命が延びるという原則は、すべての冷血動物に当てはまります。
動物が新陳代謝を低下させる一般的な方法は冬眠です。
冬眠するコウモリは、冬眠しない種よりも平均して6年長生きすると言われています。
コウモリが同サイズの他の動物よりもはるかに長生きなのは、事実上、毎日冬眠しているからです。コウモリが翼を広げて夕食の獲物を探して活動しているのは、毎晩数時間だけです。
それ以外の時間は寝ていますが、寝ているコウモリは温血動物とは言えません。
コウモリの専門家であるドナルド・グリフィンは、「実験室では、コウモリが昼寝をしている間、直腸の熱電対を時々設置できる場合がある。そのようなケースでは、コウモリが活動していたときの体温40℃から1時間で1℃まで下がった。それは休んでいた場所の空気温度とほぼ同じだった」
このことはわずか4分の1オンスのコウモリが30年以上もいきられる理由を示しています。その一方で、同じ体重の実験用マウスは5年以上生きた例がありません。
カロリー制限は、温血動物、冷血動物、冬眠する動物、しない動物等、すべての動物に有効な唯一の延命方法で、固体の消費酸素量で量ったエネルギー代謝を遅らせます。
老化問題研究者が強調するように、私たちの生命エンジンは細胞内のミトコンドリアにある電子輸送システムです。
私たちが呼吸した酸素と私たちが食べたものがここで結合します。
その結合速度によって基礎代謝率と寿命が決まります。
結合速度は、体温や食物の消化量によって変化します。
私たちの基礎代謝率が低下する3つの目の方法は、電子輸送連鎖を破壊することで、破壊方法の1つに、電子輸送連鎖を電磁場に晒すことがあります。
カロリー制限とは異なり、これは健康を促進する者ではありません。
細胞から酸素を奪ってしまうので、安静時の代謝量は変わらないが最大代謝量は変わってしまいます。
したがって脳細胞も心臓細胞も筋肉細胞も、その能力を発揮できなくなります。
カロリー制限ががん、糖尿病、心臓病を防ぐのに対し、電磁場はがん、糖尿病、心臓病を促進します。
つまりカロリー制限が健康を促進するのに対し、酸素不足は頭痛、疲労感、動悸、ものわすれ、筋肉痛などを促進します。
どちらの場合も全身の代謝を低下させるので、寿命が延びることになります。
電気と電磁波を浴びると、疾患は増加するけど寿命は延びる!?
1960年代後半、ロスアラモス国立研究所で陽子加速器が建設され、800メガヘルツの電波が使われることになりました。
この電波が施設内の作業員に危険を及ぼす可能性があるかどうかを調べるために、48匹のマウスを使って実験が行われました。
そのうち24匹のマウスに1平方センチメートルあたり43ミリワットの電力を1日2時間、週5日、3年間にわたって照射しました。
これは内部やけどを起こすのに十分な威力を持つ巨大な被曝で、実際に4匹のマウスが火傷で死にました。
5匹目のマウスは肥満になり、曝露区画から取り出すことができず、その場で死にました。
しかし、実験で直接死ななかったマウスは、被曝しなかったマウスに比べて平均19日も長生きしました。
X線やγ線などの電離放射線(物質をイオン化する能力、すなわち電離能力を有する放射線)でも、強すぎなければ寿命は延びます。
ゾウリムシ、コドリンガ、ラット、マウス、ヒト胚細胞など、あらゆるものが電離放射線の照射によって平均寿命や最大寿命を延ばしています。
捕獲した複数の野生のシマリスに電離放射線を照射後はなった結果、そのリスたちの平均寿命が延びたことが報告されました。
電離放射線には、寿命を縮める有害な作用と、寿命を延ばすことになる基礎代謝量の減少という、相反する2つの作用が常に存在することが分かりました。
電離放射線の量が十分に少なければ、明らかな傷害にもかかわらず寿命を延ばすことになるのです。
アメリカ国立がん研究所のエゴン・ローレンツは、マウスに生後1か月から1日8時間ごとに10分の1レントゲンのガンマ線を照射しました。
照射された雌は、照射されなかったマウスと同じくらい生きましたが、照射された雄は100日も長生きしました。しかし、照射されたマウスには、リンパ腫、白血病、肺がん、乳がん、卵巣がんなどが多発しました。
極端に低い線量の放射線でも、損傷を与えると同時に寿命を延ばすことができます。
環境放射線(生活環境中にある放射線。中性子、ミューオンやガンマ線といった宇宙由来と、トリチウムや炭素14、カリウム40やウラン系列、トリウム系列など地球由来がある)の20倍にあたる年間7センチグレイのガンマ線を浴びたマウスは平均125日も寿命が伸びました。
ヒトの線維芽細胞に、宇宙飛行士が宇宙で受けるのと同じレベルのガンマ線を6時間だけ細胞培養で照射したところ、未照射の細胞よりも長生きしました。
人間の平均寿命が延びたのは現代医学進歩のおかげですが、それがすべてではありません。なぜなら寿命の延びは抗生物質発見の1世紀前から始まっていたからです。
現代の人間の最大寿命の延長については、現代医学は何の功績もありません。
とはいえ、世界的にみると死亡時の最高年齢は着実に上昇しちえます。
スウェーデンは、1861年から続く、人間の最高長寿年齢に関する最も正確で長い連続する記録を持つ国です。
1861年に記録された最高死亡年齢は100.5歳でしたが、1969年に105.5歳になるまで徐々に、しかし着実に上昇し、その後は2倍以上の速さで上昇し、21世紀に入るころには109歳に達しました。
1969年、スウェーデンの長寿とガンの傾向がともに加速しました。
この年は、カラーテレビとUHFテレビが導入された年でした。
長寿県の沖縄でも、1960年時点で100歳以上の人は1人しかいませんでした。
日本全体でみると、1978年に香川県が発表したところによると、男性の100歳長寿者はわずか25年で4倍、女性は6倍になりました。
一方、中高年の日本人の乳がん、大腸がんは約2倍、肺がんは約3倍、心臓病は約40%、糖尿病は約80%の上昇が起きました。
寿命は延びましたが、病気も増えたのです。
どちらの減少も電気によって説明がつきます。
電気や電線が地面を通って伝わり、電気によって生じる電磁波は空気中と同じように体内の骨にまで放射されます。
電気と電磁波の両方とも160年間強くなる一方で、私たちは皆、代謝低下状態にあります。
私たちは祖先よりも長生きしています。
しかし、彼らほど元気で活発には生きていないことは、間違いありません。
終わりに
現在、表立って「5Gは人体に影響ない」と主張する記事も散見されますが、
このような電磁波と人体の疑いのない歴史を振り返っても
素知らぬふりをしていられるのでしょうか。
日本では、論点にすらされていないので全く無関心の話題ですが、
これから5Gの時代に人類は電磁波に侵されどうなっていくのでしょうか。