今回は、ジャンルでいうと「哲学」になります。
本当に今、苦しかったりしている方も、
悟り開きたい方も、是非、この内容おすすめです。
おそらくみんな好きであろうジャンルであり、
この記事で、極端な話「人生」が180℃変わる人も出てくると思います。
現実とは
世の中は自分の思い通りに動いている
あなたはすでに幸せであり、あなたの願いは1つ残らず全て目の前に叶っています。
ある人の「現実」とは、100%その人の思い通りにできています。
不幸な人ははこの世には1人もおらず、幸せ(=望みは全てかなっていること)に気づいておりません。
その人の現実に、その人が望んでいないことはなに1つとして起こりません。
これが宇宙の大原則、ルールとなります。
勿論、信じられないと思いますので、これを分解して考えていきましょう。
この世は全て、その人の望み通りです。
・願いが叶うころに、本人が願ったことを忘れていたり
・願いが複雑で、叶ったこと自体に本人が気づけなかったり
・まちがいた願い方をしたせいで、変な形で叶ってしまったり
そして「望んでいないことが人生には起こる」と感じたときに人は苦しみます。
例えば、人それぞれ「青がほしい」「赤がほしい」「黄色がほしい」「緑がほしい」とが願ったとします。
するとどうなるか。
その条件を同時に満たした「ぐんじょう色」が出てきました。
すると人間は「こんな色は願っていない」と目の前の現実に、不満を言い始めるわけです。
では、「青」「赤」「黄」「緑」を同時に願うと「ぐんじょう色」になるという危険を事前に教えてほしいと考えるでしょう。
しかし、それはつまり、「赤という願いは止めたほうがいいですよ、青という願いだけにしなさい」と、あなた以外が勝手に選別する世界ということになります。
人の数だけ異なる「現実」があり、かつ同時に願いをかなえる方法が「ぐんじょう色」でした。
信じたものしか現実はおきない
この宇宙の法則なのですが、
「じゃあ、おれが何でも口に出せばそのものが突然現れるのかよ!」と言う反論がでてくるのですが、
誰も「口に出せば」とは言っていません。
「信じた」ものが出てくるのです。
願いには色んな種類がありますが、その一つに「信じたい」という願いがあります。
「信じる」というのは「こうであってほしい」と願っている状態のことです。
例えば、
「無職は働かなければならない」
これは社会的ルールでもなく、単なる底辺労働者の願いです
願いの形にすると「無職は働いてほしい」となります。
「一切働かず生きるのは簡単ではない」
これも願いの形にすると
「私のことを、簡単に働かずに生きる生活にしないでくれ!」
となります。
「いや?社会ってそうでしょ?」と底辺労働者は思われるかもしれませんが、ワイは「生活保護でええやん」となります。
はたまた別の人の視点なら「親に一生やしなってもらえばいい」
縄文時代には、仕事という概念はありません。
現代社会に「働かなければ、生きる権利が与えられない」というルールはありません。
憲法にもそんなこと書いておりません。
そして、憲法に書いてあったとしても破ればいい。
番犬国家なのか知りませんが、例えば、働かない無職が捕まって刑務所に行ったら衣食住が保障されます、職業訓練はやらされるようでしたら暴れて独房いきになればいいのです。
死んだら働けませんので、死ぬのも有効です。
プライドの高い多数派常識の皆さんは、わざと超加工食品を食べて過労で身体を壊して病気になり医者に入院を宣告されることによって働かないという手も使っています。
病気になることで職場を放棄します。
健康を維持する方法なんていくらでも調べればあるのに、調べないということは、それを放棄しています。または、そんな方法はないと信じ込んでいる、そうであってほしいと願っているとも言えます。
あなたが「世の中は働かなければ生きていけない」というあなたが信じたルールにのっとってそれが「現実」にあるわけです。
宇宙の法則に「常識」なんてものは存在しません。
日本の「常識」は海外では「非常識」であり、あなたの「常識」は誰かの「非常識」です。
この場合は、日本人と韓国人のみが働かなければいけない強迫観念が強い傾向にあるらしいですが、そんなのもどうでもいいでしょう。
「常識」もその人が勝手に信じ込んだルールです。
それぞれの人が、それぞれになにかを信じ込み、各々の「常識」の中で窮屈に生きています。
これは「一生働かないでだらだら暮らしたい」と口でなんと言おうと、心では「働かないで過ごすなんて無理」だと信じています。
また「現実」とは、「あなたにみえるもの、きこえるもの、触るもの、かげるもの、味わえるもの」の総称ですので、あなたが信じていないものを、みることも、聞くことも、触ることもできません。
つまり、一般的に、オカルト、非現実といわれる要素も信じていなければあなたは感じ取ることもできません。
現実なんてものはなく、あるのは解釈だけ
人の数だけ異なる「現実」があるのです。
現実とは、その人が信じた通りに、見えているだけの幻なのです。
これは、つまり、「信じることが全て現実となる」ということなのです。
観念とは
もう一つ「じゃあ、信じればいいんでしょ?目の前にベンツ出してほしい」って信じたら出るんかいな。
勿論、出てきません。
あなたはいきなり目の前にベンツが出てくるなんて信じていないからです。
これは同時に、あなたが突然目の前にベンツが出ることを願っていないからです。
同時に、物質がいきなり目の前に出てくること自体を願っていないのです。
それでも、「自分が信じたこと」だと、どうして思えないでしょう。
人間には2つの意識があります。
心理学でいうところの「潜在意識」と「顕在意識」です。
「表層意識」と「深層意識」といいます。
表層意識では「働かずに一生ダラダラしていきたい」と願うとしましょう。
しかし、深層意識では底辺労働者というのは「一生働いて、せっせといきたい」と強く信じています。
だとすれば深層意識って必要なのか?と思いますが、
例えば「床は硬いものである」とあなたが信じていなければ、あなたの現実には床は堅いものとして現れません。
しかし「床は硬いものである」とあなたが考えていなくても、床は硬くあなたをささえています。
これは深層意識の中で「床は硬いものである」と無意識に考え続けているからです。
この自動で考え続けてくれる機能が「観念」といいます。
もし「観念」がないと四六時中「床は硬い、床は硬い」と唱えながら生きていていくことになります。
他にも「天井は抜け落ちてこない」「私の足は短い」「空気は吸える」と考え続けます。
あなたの現実にあるもの、それらをすべて考え続けるのは大変でしょう。
それを「観念」が担ってくれています。
つまり、自動で考え続けてくれる「便利」機能で、今現在も、更新、蓄積されている意識の領域で、宇宙が創造して今に至るまで膨大な情報量が保存されている巨大な記憶の貯蔵庫です。
「観念」とは、その人の大切な願いの結晶であり、「なにか」と「なにか」を自動的にくっつけてくっついたままになっている状態のことです。
この「便利」機能のお蔭で今日皆様は、余計に考えるということを自動的に処理してくれるわけですが、この無数にある観念の中で、強くくっついて固定化されてしまったものを「固定観念」といいます。
そして、人類みんなが、その人の固定観念の中で生きています。
例えば、拝金主義の底辺労働者は「お金」と「幸せ」を勝手に結びつけると思いますが、本来は「お金」と「幸せ」なんて全く関係ありません。
「労働」と「お金」も勝手に結び付けているでしょう。
このように地球にはガンコマンしかおりません。
しかし、眼に映るものがそのように見えているのは、創り上げたその人だけです。
時間という概念もそうで、「次の日の朝」とあなたが信じているだけで本当は「今この瞬間」しか実在していません。
あなたが今「昨日があった」と信じているだけです。
記憶なんて言うものは脳内のただの電気信号です。
つまり、あなたが今まさに世界を創造しているので「あなたの宇宙」にとってはあなたは中々の神です。
あなたは「表層意識」と「深層意識」の両方含めてあなたの信じた世界を思い通りに生きています。
ということは、「現実」とは、あなたが何を信じているか映し出す鏡なのです。
そして、自分の固定観念を知りたければ、目の前の「現実」をみればわかります。
「現実」とは自分自身がなにを信じているかをチェックするためだけにあります。
そして、固定観念はあなたの中の「正しさ」となります。
生まれてから意識の変化
赤ちゃんはどうなんでしょう。
生後6か月の赤ちゃんを想像してみましょう。生まれたての赤ちゃんは、1つも観念を抱えていません。
赤ちゃんはなんでもできて、何も信じておりません。
そして、赤ちゃんはなんでもできるから、なにもしません。
なにも信じていないということは、すべてを信じているということになります。
数えることができる有限の「数」を超えて、無限に何もかも、すべてを信じています。
無限とは「全て」のことで限定された「有限」ではなく、無限の「無」を信じています。
だから、なにも信じていない赤ちゃんは、すべてを信じていることになります。
そして、すべてを信じているから、すべての世界を、今同時に見ています。
安全も危険も全てただただ受け入れます。
だから「つまらない固定観念を獲得していくであろう今後の人生」さえも、大丈夫だと思っています。
小学生の頃なら
「大人の言うことは正しい」とすべて信じ「私の周りには素晴らしい人がたくさんいる」と信じ、「私の周りには素晴らしい人がたくさんいる」と信じていたのは、生まれた来たこの世界のすべてを信じていたからです。
こうして、信じた観念が、次の観念を創り上げ、それを繰り返して成長していきます。
人生は3段階あります。
1「すべてが大丈夫」だと知っているから、つまらない観念も無数に獲得していく時期
2「大丈夫」だということを忘れてしまい、抱え込んだ無数の観念のせいで悩む時期
3誰かに秘密の人生のルールを教えてもらい、理想通りの現実へと構築しなおしていく時期
読者の方はおそらく「3」に突入するチャンスをこの記事で与えられているかもしれません。
「2」のように一度落ち込まないと、その後、喜びを感じることはできません、
これは力の原則であり、この世界は相対性の世界なので「なにか」と「なにか」を比べることではじめて、すべての位置が確定します。
ジャンプをするために、人は屈まなければいけないように
「自分は不幸である」と一度思わない限り「自分は幸せである」ことは実感できません。
子供の場合は、周囲との関係性によってズレていきます。
例えば3人兄弟の2番目の子供は「親に認められていない」という思いこみが強くなる傾向にあります。
両親にとって1番目の子供は初めての子育てですから「過保護気味」に育ててしまい、最後の子供となる3番目は「ただただかわいがられる」
かの上下とのギャップで、真ん中の子供は「無価値観」を覚えて傷つきます。
そうするともっと「認められたい」と思うようになります。
子供にとっては生存をかけた問題です。母親に「認められない」ことは死を意味します。
その後、その人間の行動は全て「認められるため」だけに行われるようになります。
そうして当然ですが「認められる」ためには「正しいこと」をたくさんしておりこうさんになればいいわけです。
一方で、その人の内部には「認められたくない」という否認欲求も同時に生まれます。
エネルギーは両極で「バランス」を保とうとするためです。
そうすると「悪いこと」をしてバランスを保とうとします。
言葉に宿る力を知る
超意識と言葉に宿る力
顕在意識・潜在意識の一番奥の層に実は「超意識」というものがあります。
これは、日々の暮らしの中に埋没してしまうと知覚しずらいのですが、深い眠りの状態の時や、瞑想しているときに垣間見れます。
ここは物凄いパワーと精妙さ、豊かさが内包している命の源の場所です。
人は古来より、この意識の最奥部を「神」や「魂」、「本質」など呼んでいました。
日本では、昔から言霊といって「言葉の一音一音に神が宿る」という風に考えられていました。
神代より言い伝えて来らく そらみつ倭の国は
皇神の厳しき国 言霊の幸はふ国と
語り継ぎ 言い継がひけり
山上憶良 「好去好来の歌」
「言霊の幸はふ国」、日本に住み、日本語を語る私たちは、つまるところ言葉の持つパワーが充分に発揮されやすい国に住む民族です。
せ世界中の言語の中で日本語程、母音と子音が美しく、はっきりくっきり分かれ、整列している言語はありません。
一説によると母音は物事を生成していく力を生み、子音は物事を現象化していく力を生み出すと考えられています。
また、古代文献の一つであるホツマツタヱ(秀真伝)では、五母音の持つ音質を次のように伝えています
あ:ウツボ(空)
い:カゼ(風)
う:ホ(火)
え:ミヅ(水)
お:ハニ(土)
私たちが語る母音そのものが、宇宙の五大要素、つまり自然界を構成している5つのエネルギーとつながっており、その言葉を発するだけで、こうした力の元がむくむくと湧き出てきます。
「聖書」にも以下のようなことが書かれています。
はじめに ことばがあった
ことばは 神と共にあった
ことばは 神であった
「想い」を形にしたのが「言葉」であり、
「言葉」は最初の「行動」である、と。
「語る」というのは、立派な行動の第一歩です。
そして、「言葉」は「想い」と「行動」を結ぶ連結器の役割も果たします。
宣言すると動き出す仕組み
私たちが何かを思うと「神経ペプチド」という物質が生まれ、化学物質が好感されます。
はっきりと語る(宣言する)ことで、その思いが更に強化され、神経伝達物質の活動も活発になると考えられます。
つまり、身体というのは、あなたの思いや言葉を正確に映し出すフィードバックシステムを搭載していて、優秀な生体コンピューターのようです。
明確で明瞭な言葉を放つアフォメーション(宣言)は、あなたの身体に指示を出して、60兆個もの細胞に命じています。
また、宣言することで、自分の視点がはっきりとし、意識化できるようになります。
対象物が明確になることで、近くできる意識だけではなく、無意識層にも届きます。
これでも言葉の力を信じない人に量子学的視点からの説明も加えます。
すべての物質は原子からできており、その元は素粒子と言います。
これが集まって、人間の身体も、空も、鳥も、宇宙もできます。
素粒子は時間も空間も軽々と飛び越えて、自由に、活発に飛び回っています。
私たちが何も考えていないときは、この素粒子は、ばらばらと自由に飛び回っているだけで「塊」になっていません。
しかし、何かを考え始めたとき、そこに素粒子たちが集まってきて、流れが生まれたり、集まりが生まれたりします。
やがて、考えがまとまったときは、素粒子たちの考えも一定方向の流れが生まれ、ゆるやかな塊となり、素粒子が集まった想いのエネルギー量子になります。
あなたが「宣言」という行為をすることで、エネルギー量子となった素粒子たち、ひとつひとつの回転数が上がり、よりパワーアップして、成就することを促進するのです。
引き寄せの法則とは何なのか
この法則は「望む現実をイメージすることで、現実を引き寄せよう!」といった誤った解釈で広がっています。
素粒子物理学で説明してみましょう。
「ワクワク」というナビゲーターを「磁力線」だと捉えます。
素粒子物理学では空間から常に2つの粒子がペアで、「ボコ」っと生まれることが分かっています。
何も無い「真空」の場所から、急にボコっと物質の元である「粒子」が2つ生まれます。
この現象を「対生成」といい、この2つの粒子はお互いに電荷が違う反ペアで生まれて、お互いに引き合って、お互いに「対消滅」という衝突をして消えます。
「場」自体が持つエネルギーがそれを可能にし、エネルギーが揺らいで物質化し、物質がまたエネルギーに戻っていきます。
そして、物質というのは全て素粒子でできているのですから「この世界のすべてはエネルギーの表れ」だということになります。
この2つの粒子は常に反ペアなので、こっちが「プラス粒子」だったら向こうは「マイナス粒子」になります。
2つは常に正反対で、こっちが「望むもの(=欲しがるもの)」なら、向こう側にはその正反対の「望まれるモノ(=まだ手にしていないモノ)」が発生します。
要するに、何も無かった「空間」から「夢見るもの、私」と「私に欲しがられるモノ」が分離していたわけです。
この現象が「夢」です。
夢を見たのは「その本人」ではなく宇宙全体が「夢」を「その人」を使ってみているわけです。
この2つの粒子はお互いに引き合って「対消滅」する運命にあるから「夢」はほおっておけば叶うわけです。
引き寄せの法則でまず理解しなければいけないのは、人の中核にある本当の振動数はいつでも望ましい現実を引き寄せている、ということです。
ですから、望むものを引き寄せる方法を学ぶ必要はなくて、むしろ「ネガティブな思い込みによって、望んでいるものを自分から遠ざけるということを辞める方法」を学ぶ必要があります。
そこが引き寄せの法則について多くの人が理解できていないところです。
例えば「努力して、チャレンジしてやっと叶うくらい難しいのが、願いであって欲しい」というのが願いになってしまうということです。
「私の願いだけは、簡単に叶えないでね」というようにです。
このようなネガティブな思い込みによって、良い現実を遠ざけているのです。
嫌いな人・アンチの対処法
学びとは知らないことを知ることですが、
関係性を学ぶためには「あなた」以外の存在が必要になります。
1つしかなかったら学べないのです、
1つなるものは、1つであるがゆえに、なにも学べません。
右手と左手でジャンケンを何回やってもそこに学びはありません。
2つ以上ないと、「教える者」と「学ぶ者」があって、はじめて学べます。
同時に「傷つける者」と「傷つけられる者」、「愛する者」と「愛される者」2つ以上いて、初めて学べます。
あなたの目の前には今日も「他人」がうつり、どんな相手であろうと、その人からは学ぶことがたくさんあるのです。
なぜ「感情」がわくのか?固定観念を取り除け!
そもそも人間は、感情と一体化しているので「どうして感情がわくのだろう?」と立ち止まって考えたことすらない人がほとんどでしょう。
ほとんどの人間は、怒りにまかせて怒鳴り、悲しみにおぼれ泣き、感情に振り回されて生きておる。
本来は、感情を選択する立場が人間です。
感情がわく場所には、1つも例外なく理由があります。
悲しみの理由は、目の前にあるその出来事ではなく、そのできごとを「悲しいこと」と勝手に信じ込んだあなた自身にあります。
なので、前提に「固定観念」がないと感情なんてわきません。
「労働」と「義務」を勝手に結びつけると「労働をしていない人」に勝手に怒りがわいてきます。
このような固定観念に怒り、この人が勝手に苦しんでいるだけです。
もっとわかりすい例だと
「生活保護」に怒りを覚える人の固定概念をみてみましょう。
「自分はせっせと苦労して働いていてお金をもらっているのにずるい」
つまり、
「労働は正義であり、正義は勝つ」
「お金は労働をして手に入るもの」
「労働して社会に還元?できる。労働こそが社会に還元できる唯一の手段」
「俺が苦労しているのだから、自分より楽している人間がいてはいけない」
「労働している俺は報われるべき」
「妬ましい」
「生活保護は恥、社会的に最底辺だから文句を言ってもいい」→「自分より上の立場の人間に文句がいえない」→「上には従って下には文句いうもの」→「自分は矮小な人間である」
このように感情がわくときというのはそのときの「固定概念」が存在します。
「正しい教え」があって、そしてそれを抱え込んだその「正しさ」のせいであなたはくるしむことになるのです。
小さいから「弱い」とは限りませんし、善だから「良い」とは限りません、悪だから「悪い」とも限りません。
これを自分にフォーカスすると
「自分が勝手に仕込んだ固定観念が原因」だと気づければ、悲しみに覚えれることはなくなります。
「別れは悪いものである」という固定観念があれば、その人が勝手に泣いたりします。
感情があふれるできごとが「現実」に起きた場合は、自分の固定観念をみつけるチャンスと言えます。
そうして、先ほど、自分の思い通りに世の中が動いているこの「現実」という鏡をみてみましょう。
捜す場所は勘定があふれる出来事の周りでそこに真の犯人である固定観念があるのです。
もし苦しいのなら、かならず「正しさ」を先に抱えています。
人間は「正しさ」以外の方法で苦しむことはできません。
見つかった固定観念とは違うことを信じてみるだけで、観念はすぐに消えます。
「生活保護は恥ではなく、誰もが受けられる正当な権利である」
「労働はくそなんだから、生活保護を受けるのが正解」
「生活保護は社会を正しく動かすファクターであり、社会の頂点」
現実はただの鏡です。
「生活保護は恥、廃止すべきだ。お金を得るには必ず労働が必要」と表層意識で思ってても、深層意識では「労働をしなくても毎月最低限度のお金がもらえて生活できる。生活保護は、羨ましいし、自分もそうありたい」という深層意識があります。
2つの矛盾する「信じること」があるので、「現実」で何度も苦しむことになります。
表層意識であなたが「嫌い」だと思っていることのすべてを、実は深層意識では「好き」だと思っています。
そして、深層意識だろうが表層意識だろうが、信じたことが現実に移ります。
大抵の場合、自分の信じている深層意識の意見は「他人」を使って言わせているのです。
しかし、あなたの現実に登場するのは、他人も含め、すべてが自分です。
ということは、驚くことに、自分の意見を、自分で言い合いしているだけなのです。
だから、すべての固定観念=正しさを疑ってみるのです。
疑って、自分が信じている「反対側」を信じる勇気を持てばいいわけです。
先程の「現実」の定義を振り返りましょう。
「現実」とは、「あなたにみえるもの、きこえるもの、触るもの、かげるもの、味わえるもの」の総称ですので、あなたが信じていないものを、みることも、聞くことも、触ることもできません。
現実なんてものはなく、あるのは解釈だけです。
人の数だけ異なる「現実」があるのです。
現実とは、その人が信じた通りに、見えているだけの幻なのです。
これは、つまり、「信じることが全て現実となる」ということ
「現実」とはあなたを映し出す鏡です。
ということは、あらゆるものは、あらゆる形で跳ね返ってきます。
優しくすれば、優しさが還ってきます。
短パンを穿いたOLが鏡をみながら「私はスカートを穿いたはずよ!」と言っていました。
人間というのは、これをいつでもやっているのです。
次に、鏡の中に手を入れて、鏡の中の自分の髪型を先に変えようとしている人がいたとします。
これもあなたが普段「現実」をみて、やっていることです。
鏡に映る、自分の髪型を先に変えようとしているのです。
自分に映っているもの変えたければ、映っているこちら側の髪型を先に変えればよい、こうして「現実」を先に変えるのです。
現実を変えたいのなら「投影元」であるあなたの考えを先に変えるしかありません。
「鏡は先に笑わない」
あなたの「現実」をみて「現実」よりも先に笑いなさい。鏡は先には、笑わないのですから。
なので、起こったできごとを先に変えようとせず、そのできごとをどう解釈するかを先に変えましょう。
他人の心は変えられないし、現実も変えられない。
だからこそ、その変わらない外の世界をどう思うかという私の解釈を変える必要があります。
世界は、「私」にしか変えられないのです。
「正しさ」とは、奇跡を起こさないためにその世界を小さくするものであり、悪とは正しさを疑う行為のことです。
したがって「正しさ」が減れば減るほどできることが増えるようになります。
考えが変われば、ただの鏡である「現実」はあとを追うように自動で変わっていくのです。
ブッダのいう「悩み」
- 生きること
- 老いること
- 病にかかること
- 死ぬこと
- 煩わしい人に会うこと
- 愛する人と別れること
- 求めるものを得られないこと
- ままならない人間の心
仏教の世界では
「苦しみの原因は執着にある」と語られている
それは「手放せない心」
何故人は手放せない心があるのか
それは「心が反応するから」
世の万物、
我々は心が反応します
心が動きます
それが執着につながるわけです
今の自分の状態
「あぁ、緊張しているな今」「今、親を〇したいと考えているな」
と自分の状態を自分で理解する作業です
これは、自分の五体を意識して動かすだけです
日常では無意識のうちに身体を動かしているけど
意識的に「右手を挙げよう」と思って右手をあげる
などで
剣道のウォームアップでも
五体を意識するようにして身体を軽く動かすと、
緊張がほぐれます
貪欲
怒り
妄想
特に剣道では勝ちたいという欲
試合に負けると周囲の反応という妄想
こういったものが大きく囚われます
「これは全て『妄想』である」
と理解をするのです。
怒りを鎮めるには
人間が怒る理由は、その人に期待しているからです。
「あの人はこう動くだろうな」と勝手に期待しているからでこれは例外なくそうです。
怒りっぽい人というのは世界に期待しすぎているということです。
口先ではいつも他者を「悪者」にしていますが、原因はそこにありません。
自分が相手に期待して怒っているだけなのです。
相手の行動は変えられませんが自分の期待値は変えられます。
「誰にも」「何にも」期待していない人間は、怒ることがなくなります。
こうして、世界に期待しなくなり、世界中、クズしかいないと思うようになることで、ゆとりがうまれるのです。
世界を自分の期待通りにしようという不可能な夢を見るより、世界への期待をただ捨て去ればよいのです。
同様に自分にすら「期待」はしてはいけません。
自分で、自分に期待して、自分が怒る.....。
全ての期待を忘れることで、
「こうしたい」「こっちが正しいはず」「あぁしてればよかった」などという気持ちが起こらなくなるので、毎日が楽しくなります。
そもそも「許さない」などといった違反している奴が許せない理由というのは自分が禁止されて我慢していたからです。
過去の自分を救出するために他人に感情をぶつけているにすぎません。
他人を強く叱責することで過去の「我慢した自分」を慰めているのです。
他人を怒っているようでいて、過去に「やりたかった」けど「我慢させた自分」を説得してるのです。
そんなことせずとも他人を使わず、自分の心を「直接」慰めればよいのです。」そして、他の奴らもやっているならお前もやっちゃえよ自分自身に許可を出すのです。
自分が他人に対して「イラっとすること」をメモして、それを自分自身で「やってみる」わけです。
例外なくすべてのケースにおいて、人間が「いらつく」のは過去に自分へインプットした「我慢データ」のせいです。
「やりたかったこと」なのですから「やれば」いいのです。
「イラっとする行為」は本人が忘れているだけで「やって」みれば誰よりもその行為を自分が大好きだったということを思い出せるでしょう。
「ノートする」とは潜在意識の領域に保存されたデータを前意識にダウンロードする方法です。
次にノートした「イライラする行為」を心の奥で泣いている幼少期の自分自身に「許可して」「自分が」やってみればいいのです。
少なくとも、世界の果てまであおり運転で「追いかけて」「我慢した自分と同じ目に遭わせてやる!」という無駄な行動は消えるでしょう。
大嫌いな人は最強の教師
あなたが知らないことを一番よく知っている人というのは、あなたが一番嫌いな人です。
大っ嫌いな人のことは例外なく、行動原理が、まるでわからないのです。
浮気する神経=浮気する楽しさ
裏で文句を言う=裏で文句をいう気持ちよさ
先輩を呼び捨てにする=そのワクワク感
高学歴を自慢する=その快感
このように、例を上げてみて嫌いな行動で消化。それは嫌いな人が、あなたが知らないことを一番よく知っているのです。
この原理上は理解した上でも、嫌な気分になるのはまだあなたが「あなたの価値観」の中に囚われていることになります。
あなたの知らない価値観=あなたとは違う価値観です。
あなたが知らないことを一番よく知っているのは、あなたが嫌いな人なのです。
「学ぶ」とは、「知らないことを知る」ということです。
大っ嫌いなその人に歩み寄ってみましょう。
こうして、学んでいき、怒りや嫌悪感がなくなっていくとどうなるか。
また「聴きたくないタイプ」「嫌な奴に思えるタイプ」があるなら、それは間違いなく自分のことだと思ってもらって結構です。
最低野郎が多い自己中の性格は全てを「自分のやり方」でやらないと気が済みません。
「周囲をコントロールしたい」のですから当然です。
そして頑固でせっかちです。
そうして他者へ「自分のやり方」を無理やり押し付けてくるのです。
このタイプは幼少期に「自由じゃない家庭」や「ルールにうるさい家庭」だった可能性があります。
または親が離婚してたなどの「放任主義」となり自由すぎて「混とんとしていた」ため、自分の手で生き抜こう=コントロールしようと脳の傷プログラムに書き込んだのかもしれません。
周囲をコントロールしないと生きていけないと自分の脳へ書き込み、常に州をコントロールするための行動を続けます。
そして、ついには0ノ一を超えてプラス側へ転じると、「コントロールしすぎている」=自分だけが役目が多いと勝手に思いこむようになります。
こういう人が嫌いで悩んでいる方は、自分の「やり方」だけを押し通そうとせず、逆に他人にすべてを任せようともせず、それらすべての「コントロール」から手を引くのです。
全てのコントロールから自由になった時、脳の傷が消え、リコールが完了します。
または1つに集中しないと「コントロール」などできない、つまり「切り替え」が下手くそなので逆にいうと「中途半端」をあえて目指すとよいでしょう。
他人は褒めておけばよい
人間はいつも「自分がどれほどがんばっているか」を語りたがっています。
いつでもすぐに苦労自慢大会が始まります。
「私は大変だ!」と伝えれば、優しくされると人間は思いこんでしまいました。
ところが、これは宇宙で唯一の法則に照らすと文字通り「大変なこと」です。
この不幸自慢大会の優勝者は地獄息のチケットが用意されることとなります。
そこで、こちらとしては「私の人生とは、いかに素晴らしいのか」を語るのは恥ずかしいし自慢に聞こえるかもしれません、それなら、相手の頑張りを褒めるのです。
「あなたはがんばっていますね」「すばらしいですね」「いつもありがとうございます」「お疲れ様です」
そうすることによって、他人をほめるだけで自分の幸せに気づくことができるわけです。
自分の幸せに気づくためには他人の努力を誉めてあげること、それはこらえきれない幸せは周囲にあふれ出すことになります。
バカと言われて傷つくのはあなたがバカだから
人間は絶対に他の誰かを傷つけることはできません、
誰かが悪意でもって他人を傷つけようとし行動しても「傷」をつけることは本人以外に絶対できないのです。
自分がそう思っているから、自分で傷つくわけです。
鞭で叩かれることを快感に覚える人たちのことを変態と呼ぶのならば、
意味なんてない中立な現象を、常にネガティブに捉え続けている人も同様に変態となります。
そもそも他人なんてものはこのように存在しません。
「現実」に登場する人物は、すべて、あなたが考えている意見を語ってくれているだけです。
それぞれの人の口を使って、あなたが自分の意見を言っているので、他人だと思っている人の意見もあなたの意見なのです。
自分がそれに対して、なんとも思っていなかったら、絶対に引っかかることはないのです。
「バカ」とか「ナリキン」と怒鳴っても、傷つく人がいたり傷つかない人がいます。
もし傷つくなら、あなたが、他人のその意見を、支持しているわけです。
相手の口から出たその意見を一番認めているのは、あなたなのです。
自己弁護が起こるときはいつでも、反対側の意見も自分が指示しているからなのです。
なぜなら、自己弁護とは、自分自身に「言い聞かせている」状態のことですから。
「自分」 だけを応援しなくなったら、二度と苦しみません。
苦しいのは、「自分」がピンチになるからですし、「自分」を守りたいからですし、「自分」を幸せにしてあげたいからです。
もっとわかりやすく、無職や生活保護受給者は「怠け者」「甘えていきている」「社会のゴミ」とか言われて傷つけようとするとしましょう。
これでもし傷ついているのでしたら、それは自分がそう思っているということですよね。
ただ、それも「固定観念」になります。
当ブログを読んでいるとこんなコメントには傷つきません。
怠け者=意図的に何もしないというのは、過剰な生産を抑制する素晴らしいことをしている人です。
甘えてきている=経営者の利潤追求にひれ伏して薄利多売している底辺労働者とは違って、公的扶助を正しく受けているので、甘えでは全くないですよね。
社会のゴミ=無駄な生産をして無駄な消費をして不健康になり病気になる底辺労働者のことを指す可能性のことですが、ワイは全然違いますね。
これに傷ついて、社会の圧力を感じるからといって働こうとするんですかね?
それは、アンチの問題ではなくて、あなたの勉強不足または固定観念に縛られているということです。
所有はすべては幻
「土地」を「人間」が手に入れるなんていうのは狂気の沙汰です。
大きな大地をイメージしましょう。
その大地の上に、一人の人間が現れました。
さぁ、どうやれば「人間」よりも大きな「土地」を、「人間」が手に入れられるのでしょうか。
エゴにまみれる現代社会では、
権利書という「紙切れ」であたかも「土地」と「人間」を結び付けているようにみせています。
恋人へも「所有感覚」を持ちます。
例えば、リンゴが2つあって、右側のリンゴが左側のリンゴを「所有」することなど、できません。
それと同様です、あの人とわたしは別々の個体です。
リンゴが「ベンツを所有した」といい
リンゴが「高級バッグを所有した」といい
リンゴが「土地を手に入れた」と言い張っています。
これが人間社会であり、人間は毎日こういうことをしているのです。
「時間がないんだ。はやくしろ!」もそうです。
それはつまり「持ち時間の残量が少ない」と主張しているのですが、時間を「所有」した気になっているのです。
どうすれば「わたし」が「時間」を所有できるのか。
そもそも、この「わたし」に所有できることなんて、外界には1つもないことに気が付きます。
そして「わたし」が「わたし」を所有できるのでしょうか。
それも不可能なのです。
ただそこに「わたし」が置かれているだけなのですから。
インディアンや先住民、ネイティブに原住民、彼らはそのことを理解しているので、ネイティブには「所有」という概念がなく、単語もありません。
「手に入れる」とはどういう意味なのか全く理解できません。
一部が、全体を、手に入れる????
こうしてインディアンたちは「外界の何かを所有する」という近代文明の考えを死ぬまで理解できませんでした。
だから、海を越えてやって来た欧州人が
「この土地は今日から俺たちのものだ!よこせ!」
といった際も、何の話をしているのかすら、本当に理解できませんでした。
これはあなたの話なのです。
どうして死を恐れるかというと
この肉体を「わたし」が所有していると思っているからです。
「所有している」と思っているから「失う」という恐怖が発生します。
しかし、初めからその肉体は誰の所有物でもなく、ただの大自然の一部に過ぎません。
どうして失恋でなくのか。
「恋人」を「わたし」が所有していたと錯覚しているからです。
しかし、初めから「恋人」と「私」の間に所有できていた関係性など何もありません。
恋人以外の、すべての他者とのつながりにおいても、所有できる関係性などないのです。
どうして、争うのか?
それは失いたくないからです。
すなわち、自分が何かを所有できてたと錯覚したから争いが起きたのです。
他人への強き、他社との力比べ、頑固な態度、執着する心。
そのすべてが幻の「所有感」から発生しています。
実は、支配者が一番苦しむことになるのです。
所有を手放す
所有とは、「支配し続ける」という意味です。
だから、1秒も休まず、「これは私のものだ!」と主張し続けなければいけません。
なぜならロープでつながれているわけじゃないからです。
所有を証明する明確な証拠なんて誰にも観えません。
だから、ずっと目を光らせなければいけない。そうしないと、ある日イギリス軍が奪いに来るかもしれません。
ライバルが、他者が「俺のものだ」と言い始めるかもしれません。
こうして、支配者は心が休まることのない日々を手に入れます。
この世で手に入れられるのは「物質」ではなく「心の不安」だったのです。
実際は「支配した」と思った瞬間に、その本人の心が世界に支配されるわけです。
「多くを持っている者」とは「幻想を多く抱えている者」だということです。
これは権力者の話ではなく、あなたの話です
「もっと得たい」と思った瞬間から、人間は壊れ始めます。
「保有する」「独占する」「自分だけのモノ」にすることによってそれに対する執着が心を締め付けます。
それ以外のものは明確に自分のものではないと主張することになります。
外界のものは「わたし」にはコントロールすることはできません。
それどころか「わたし」さえも「わたし」にはコントロールできません。
「ない」と思っているから「手に入れよう」とする
「ある」と気づいている人は「手に入れよう」としない
「幸せになろうとしている」奴ほど、幸せではない
「立派になろうとしている」奴ほど、立派ではない
これらから解放するには、自分自身の中にある「もっと得たい」という支配欲から解放することにあります。
そして、
「手に入れよう」としなくなれば、より「手に入る」ことになります。
なぜなら、すでにあるものにいっぱい「気づける」ようになるからです。
「コントロールしよう」としない人間ほど、コントロールされた人生に変わります。
すでに、完璧に調和された宇宙の流れに気づくからですね。
持っている量が減れば減るほど心はどんどん自由となり、
何も保有していな人は全てが自分のものなのです。
世界は必要なときに、必要な分だけ、自分のものになります。
現代社会において所有したら最悪なのは
「家」「車」「恋人(現代人)」「子ども」で、
どれもコストが高いです。
不可能とは「正しさ」を乗り越えられない者の言い訳
現実とは、その人が信じた通りに、見えているだけの幻なのです。
これは、つまり、「信じることが全て現実となる」ということでした。
その場所には、もうすでにそれを叶えている「別のあなた」がいますし、
ここでは今ちゃんと「それを叶えたがあるあなた」が叶っています。
信じていない者が、願い
信じている者は、ただ感謝しているのです。
全てを悟ったらそこで終わりです。
人間は、永遠に「分かれない」ですし、それが宇宙からの最高のプレゼントになります。
自分の中に「これが答えだ!」これこそが「正しい!」と思ったら、もうそれ以上の成長はありません
「正しさ」が人間の可能性を潰します。
「正しい」とは、それ以外のことをすべて信じないという宣言です。
宇宙にとっては死刑宣告で、成長が亡くなります。
だから、自分の中に「正しい」意見など1つも持たないことです。
不可能とは「正しさ」を乗り越えられない者が作ったただの言い訳に過ぎません。
思い通りに現実を変えるには??
「想像」こそ宇宙にお願いする唯一の方法である
重要なことなのでおさらいしますと、
「現実」とは、「あなたにみえるもの、きこえるもの、触るもの、かげるもの、味わえるもの」の総称ですので、あなたが信じていないものを、みることも、聞くことも、触ることもできません。
現実なんてものはなく、あるのは解釈だけです。
人の数だけ異なる「現実」があるのです。
現実とは、その人が信じた通りに、見えているだけの幻なのです。
これは、つまり、「信じることが全て現実となる」ということでした。
言ってしまえば、この世界で人間たちは悩んでいるかもしれませんが、結局は、みんな幸せなわけです。
じゃあ、今ある「現実」を変化させるにはどうしたらいいか、
その原則は、現実とは違うことを信じることです。
「鏡より、先に笑う」とはこのことです。
人間は悲しいことが起こるとただ「悲しい」といい、いらだつことが起こると、ただ「むかつく」と言います。
それでは、いつまでたっても変わりません。
現実とは違う、なにを先に思えるか。それが重要です。
なので、「できごと」が起こるたびに宇宙はあなたにたずねています。
「このできごとを、どう思いたいのですか?」と。
現実という鏡をみて感想文をいうのではなく、それをどう思いたいのかを意思表明をするわけです。
出来事→悲しい→出来事→悲しい,,,,その連続「鏡」地獄から抜け出すには、
ふと、上を見ましょう。
そして、現実とは違うことを想像すればいいのです。
「想像」とは、現実とは違うことを好き勝手に思える奇跡の能力です。
現実に起こったこととは違うことを、現実より先に思える。
これが宇宙に変化を起こせる、唯一の力です。
ちょっと、トレーニングしてみましょう。
公園の駐車場に止めてあるあなたの車が、ぶつけられました。どうしますか?
「車と車がぶつかる」現象はただの物理現象です。
それなのに、人間はその決まりきった「現象」に対して、違う反応を起こせます。
ある人は「残念だ」と思うのですがある人は「よっしゃ!」という人がいます。
新しい車を買いたがっている人が車をぶつけられると相手の保険で新車が買えます。
これが何を意味しているのか。
「できごと」には、与えられた唯一の意味なんてないということです。
「無意味の出来事」に人間が意味をつけているのです。
起こったその出来事を「どう思うか?」じゃなくて「どう思いたいか?なのです。
ただそれだけのことが、非常に重要です。
車と車をぶつければ、いつでも同じ反応が起こるだけのこの世界に、人間は違うちからの方向を与えたわけです。
だから、「現実」を変えたいのなら、幸せになりたいのなら、今日からは「現実」をみて、それとは違う「思いたいこと」を想像するのです。
「想像」という人間の奇跡の能力をフルに利用するのです。
現実と「違うこと」を想像すること、それがこの連続鏡地獄から抜け出せるわけです。
今、あなたが「それ」をみて、何を思えるか。それだけが重要です。
ここで一つ、想像の際の注意があります。
それは宇宙にお願いごとをする時、否定語は通じないことです。
信じたことが、現実となるこの宇宙のシステムでは想像したことがそのまま宇宙に注文されます。
そのときに例えば「苦くないものをください」と注文するのではなく「甘いものをください」と言わなければなりません。
もっと極端な例を挙げると「黄色いバナナが望み」なのに「紫色じゃないバナナ」を望んだとします。
それなのに人間は「紫色のバナナは嫌だ」「紫色じゃないバナナが欲しい」と言いっ続けることで常に「紫色のバナナ」を想像し続けます。
宇宙は否定語なんて理解できないためです。
というより、人間が「否定語」という概念を想像できないのです。
「あなたの願いは何ですか?」と宇宙に聞かれたとして
「私は貧乏なんて嫌です。苦しい生活はしたくないんです。家賃の請求書におびえる日々は嫌なんです」と答えます。
この間、この人はずっと「貧乏について」想像し続けます。
想像したことが叶うこの宇宙で、ずっと「貧乏」を想像し続けることになるのです。
なんどもいいますけど
現実とは、その人が信じた通りに、見えているだけの幻なのです。
これは、つまり、「信じることが全て現実となる」ということでした。
そして「現実」とは違うことを想像できるのが人間の奇跡の能力です。
ということは、望むことを想像すれば、願いはかなうわけです。
それなのに、人類は想像の仕方すらわかっていないのです。
嫌いなものを「嫌いだ」と考えるのではなく、好きなものを「好きだ」と考えるのです。
「私は不幸にはなりたくありません」と言っている間、ずーっと、不幸しか想像できないのです。
幸せになりたいのなら、好きな方向にちゃんと想像するのです。
幸せとは何なのか?「やりたいこと」についてもっと考える
幸せを分解してみると2つのエネルギーが存在しているようです。
1つは「やりたいこと」
もう1つは「それがやれている状態」です。
幸せの場合はこの「やりたいこと」と「起こる出来事」が一致しているので、2つのエネルギーがあなたが行きたい方向に2倍の力で引っ張ってくれるので、あなたはうきうきとなります。
幸せとはつまり「やりたいことがやれている状態」のことを指します。
サルから進化したはずの人間が、どうしてサルでもできる「やりたいことをやる」ができなくなってしまうのかというと、「やりたいこと」をやるための環境や資源が「今はまだない」からです。
要するん、「今はまだないもの」を手に入れたら、未来で「やりたいこと」をやろうとあなたは思っているわけです。
「ない」ものを「環境がない」「時間がない」「資源がない」「才能がない」の4つに分類してみましょう
そして、「やりたいこと」を手放した代わりに「今」に「やりたくないこと」が割り込んできます。
こうして、かわいそうな僕たち人類は「やりたくないことをやる」という地球始まって以来の前代未聞の事態に陥りました。
こうして手に入れてしまったのが
義務感「しないといけない」と我慢「してはいけない」です。
これを試しに箇条書きしてみましょう。
ものすごいほどの義務感と我慢があなたのなかにあることでしょう。
お金がないといけない、「お金」を得るために働かないといけない、「働く」ためには遅刻してはいけないと。
このように義務感と我慢も借金のリボ払いのように雪だるま式になっていたのです。
本来、あなたが背負い込んだすべての義務感は、やりたいことを叶えるための「道具」だったはずなのですが実際はこれらの「道具(義務感)」が増えれば増えるほど、実は「やりたくないこと」ができなくなっていくのです。
「やりたいこと」をやるために、本当にこれらの道具(義務感)は全て必要ないということに気が付きます。
つまり、道具を1つ消すたびに「やりたいこと」ができるようになるわけです。
そうです。
結局は、あなたの単なる思い込みなわけです。
そして「幸せにならないといけない」と勝手に思い込んでいるあなたは、これこそが全ての苦しみを生んでいるのです。
幸せも、不幸せも許せる人間になることで、起こる出来事のすべてが、素晴らしいと思えることになります。
幸せにならなくてもいいなら、これほど、幸せなことはありません。
もっといえば、誰もが常に「やりたいこと」を今やっています。
たとえば、「歌をうたい」と思うとします。
これは歌をうたっている自分を思っていることを今あなたはやっているのです。
人間はやりたいことしかやっていません。常にです。
だから、人生のすべての「瞬間」において、あなたはあなたが「やりたいこと」だけをやり続けてきたはずなのです。
人生のすべての瞬間においてその「やりたいこと」を積み重ねていくわけです。
常にその時一番「やりたいこと」をやり続けているのに、人類のほぼ全員が「やりたいことができていな!」と愚痴りだすわけです。
やりたいなら「やれ」ばいいのです。
でも人間流行りません。
それは、「やらない」のほうが実は「やりたいこと」だからです。
そしてあなたたち人間は「やりたいこと」をやれていないと勘違いした時、自分自身を「不幸」だと初めて感じる生き物なのです。
逆にいうと「実は自分はやりたいことしかやっていなかった」と気づけたなら、誰もが1秒で幸せになれるわけです。
願望をイメージするのはやめろ!「足るを知れ」!
「苦いものは嫌い」と願った時点で、結局「苦いモノ」しか想像できません。
「変なおじさんとは絡みたくない」と願っているとずっと「変なおじさんと絡んでいる図」を想像します。
「想像」は「願い」です。
では、ポジティブに「~したい」とイメージするとどうなるでしょうか
「金持ちになりたい」と考えましょう。
しかし、これも一緒で「金持ちになりたい」と考え続けている人は、金持ちにはなれません。
「金持ちになりたい」と考えているということは、現状「自分は金持ちではない」と言っているようなもので、それは否定語になってしまうのです。
「考えたことが実現化する」という、簡単なルールしかないこの宇宙で、常に「私は幸せじゃない」と本人が考えているのです。
なんと人類は、何前年もの間、願い方を間違えてきたわけです。
幸せになりたい人は、幸せにはなれません。
幸せな人が、ただ幸せであり続けただけです。
再三言いますが、
現実とは、その人が信じた通りに、見えているだけの幻なのです。
これは、つまり、「信じることが全て現実となる」のです。
世の中は勘違いだらけで、みんながみんな、ただの勘違いをして生きています。
ある人は目の前の現実を「幸せ」と感じ、ある人は「不幸」だとそれぞれ勘違いをします、ただそれだけです。
どうせみんな勘違い野郎ですから、「私は幸せである」と勘違いした方がよいのです。
飢餓状態であれば「欲求には順序がある」ということに気づけますが
現代人は全ての欲求が「少しずつ満たされている」せいでこの順番に気づけません。
日本には飢餓の人などいないし、40時間ずっと寝ていない人もいません。
「安全」だって国がある程度保障してくれます。
こうして、全てのベース欲求である安全・生理的欲求が満たされているせいで欲求と幸福の関係性さえも忘れてしまっています。
そして統計上、人間が一番幸福を感じるのは「欲求」をいだいた瞬間に元の位置に戻せた瞬間です。
マイナスに傾いた瞬間に0に戻すわけです。
人間の幸福レベルには、2つの要素が関係しています
・手に入れたいものや環境(外的要因)
・それを受け取る本人のポテンシャル
この両者のバランスによって人間の感じる幸福指数は決まります。
例えば、満腹の状態で10万円のステーキを奢られても全く幸せではありませんよね。
高級ステーキだけではなく、本人の空腹度が重要なのです。
ところが現代人は外的要因にだけ強くフォーカスします。
砂漠で喉からからのときに5000万円の札束を渡されても重くて捨てるでしょう。
実はお金が「いつでも」欲しいわけじゃないんです。
ということは、「内的要因」を使えばもっと簡単に幸福度を上げることができるわけです。
外側を大きく変えるより、内側をちょっとだけ変えればいいのです。
だから、まず「なりたい」というおかしな言葉は今すぐ忘れるのです。
「なりたい」という願いは今日限りで、すべてを捨ててください。
そして、やりたい時に「すぐやれる」ことです。
お腹がすいたときには「すぐに食べる」
とても勇気がいる作業です。
朝とても急いでいる時に5分間ベンチで座ってご飯を食べる。これができないと勇気が足りていない証拠です。
「勇気」だけが幸せへ辿り着く最後の鍵です。
・やりたいことを
・やりたい時に
・やれている状態のことを「幸福」といいます。
逆に言えば、やりたくないときにやってもそれは幸せではありません。
怒っている時に一番欲しいの「笑い」です。
相手を怒ってコントロールして支配下に置いていつか自分が「笑える」環境を作ろうとして今起こっています。怒っている理由は、いつか「笑うため」です。
だから怒っている時ほど、あえて微笑めばよいのです。
そして、身の回りから「不足」ではなく「充足」を探します。
不足側から見て「ない」といわずに、充足側から見て「ある」というのです。
今「幸せ」じゃないなら、その人が「幸せ」を探せていないだけです。
身の回りから「幸せ」を探すのです。
それを遠くで探すと、不足になります。身の回りに見つければ充足となります。
このことを「足るを知る」と中国の老子は言いました。
こうして「ある」を探し続ける癖がつけば、あっという間に現実が変わります。
何度も何度も「充足」を感じていると、深層意識さえも「充足」を信じ始めます。
人類はこれまで、全く真逆なことをしていました。
常に「不足」を探して、99%の幸せに囲まれているのに、たった1%の不幸だけを探し出していたのです。
幸せな人がいるわけはなく、「幸せだ」と思った人がいるだけなんです。
結局のところ満たされないことを人は望んでいる
この世は、不足も重要で「ない」からこそ「ある」と思えるわけです。
願いというのは「不足」のことす。
仮になんの不足も、不快も、不便も、あなたに一瞬も与えない世界を想像してみましょう。
「腹が減った」「喉が渇いた」これらも1秒たりとも満たされます。
あらゆる願いが1秒で叶います。
そうなんです、願いが叶いすぎる世界はものすごく退屈な世界となります。
しがたって、人は「持っている」よりも「不足」状態を望みます。
願いをかなえる方法というのは実をいうと「なれていない状態」をわざと一度創り上げることなのです。これを欠乏欲といいます。
なので、不足をみたくないなら「なりたい」とは言わずに「すでにそうである」と信じることが大切です。
「なりたい」と思わないこと、あなたはすでになれています。
「ほしい」と思わないこと、あなたは既に持っています。
以上を踏まえて現実を正しくコントロールするには?
現実とは、その人が信じた通りに、見えているだけの幻なのです。
これは、つまり、「信じることが全て現実となる」わけです。
そして、あなたは充分幸せであり、充分手に入れています。
でも、まぁ、そうではない、とw
この現実を変えたい、今見ている幻を変える方法を読者は知りたいわけです。
ここまで読んでいただいたのなら、やり方は、こうなります。
あなたがすでにそうなっている姿を、ありありと具体的にイメージすることです。
自分が思い描くことのできる、最高形の未来をイメージの中で作ってください。
そうして、自分のありたい未来の姿をイメージすることができたら、次は既にそれが叶ったと仮定して、叶ってしまったときの感情や状況をありありとイメージしていきます。
同時に家族や友人から「いったい、どうしたのよ~!」などと言われ、驚かれる姿をワクワク楽しそうにしている姿も思い描いてください。
あたかも成就してしまったかのように、先に振舞ってもいいでしょう。
あなたが幸せに満ちたうれしい感情で満たされていると、あなたの身体の細胞も、潜在意識下以降でつながっているあらゆる命も、「この人が顕在意識で願っている願望を、いっちょ実現するのに手を貸しましょうか(*‘ω‘ *)」という形で、協力体制に入ってくれます。
要するに、素晴らしく勘違いすることで「せかい」のすべてが「わたし」の望み通りになるのです。
そして、今やっている行動の逆側をやれば実は幸せになれます。
感謝とは「わたし」よりも「人生の流れ」の方を信じる宣言である
「感謝」とは、目の前で起こっている「現実」のすべてを、素晴らしい!と賞賛する行為です。
「わたし(副操縦士)」自身よりも「起こること=人生の流れ(パイロット)」の方を信頼する。
そのとき何を観ても、何を聞いても「ありがたいな」という波動しか湧いてこなくなります。
「わたし」には今はわからなくても、目の前に起こるすべてはきっと良いこと。
仏教ではサレンダー(明け渡し、聖なるあきらめ)といいます。
ただ、「わたし」に役割が無いわけではありません。
パイロットと協力するのです。
「じゃあ、誰かに殴られそうになったらよけないんだな?」って聞いてくる人がいますが違います。
「必死になってよける」も「悟ったふりしてよけない」もその両方とも実は「わたし」が起こしていることです。
すべては、ただ「起こる」ことで、それを見た脳が、その後に「私が起こしたんだ!」と錯覚しているだけで卯s。
だから「ゆだねる」というよりは、もう委ね切れているという気付きをもてるかどうかです。
ネガティブなエゴも、肉体のマインドも、ハイヤーマインドもすべてが既に連動して動いています。
そこに「ワクワクする」という波動が発生します。
肉体レベルのマインドと、ハイヤーマインドの向かう方向が一致した時に、ワクワクします。
ですから、普段あなたが「わたし」と思っている肉体側のマインドにおいて大切なことは
1ワクワクを追及して
2能力を最大限に使い
3結果には執着しない、という3つのステップです。
実践
継続力
継続してやるというのは中々大変で、この記事を読んだ人も3日で忘れることでしょう。
それでも、続ける方法を紹介します。
1:自分の達成した姿を意識化する
意識化した分だけ、エネルギーが集約され、現実化の波が促進されます。
なので、自分が達成した姿をときどき思い出すと効果的です。
決して毎日じゃなくてもいいので、自分の思い描いた完璧な姿をノートに書いてたまにみたり、目につく場所に貼っておくだけでも十分に効果があります
2:小さなアクションを起こしてみる
成就するための小さなアクションを、実際に起こしてみましょう。
ちょっとでもできたら「マル」をあなたにプレゼントし、最初から完璧を目指さないことがポイントです。
人は行動化することで、進んでいる実感を得て、ますます意識化に拍車がかかります。
できなかった日があると「あ~だめだぁ~」と落ち込む気持ちや攻める気持ちが生まれてきますが、自己卑下や自分を責めるというのは非常に無駄なエネルギーの使い方なので、日々の中で苦労しないでできるちょっとしたことにひとつでもしたら、その日のアクションはマル!としましょう。
もし、だるくて何もできない日になっても、それはそれで明日やればいいのです。
大雪なのは、そのように像を描いたあなたがいて、そのことを忘れない(意識があること)です。
その気持ちがある限り、ゆっくりでしょうが、さっさとだろうと、必ず前に進んでいます。
3:小さなアクションを繰り返してみる
まずは「続けている」自分を褒めてあげましょう。
また今日が駄目なら、明日があります。
継続力も一つの癖漬けです。
続けるためには、そのアクションを「好きになること」もしくは「気にならない部分」を広げていくことです。
感謝力
日常のちょっとしたことも「ありがとう」って声掛けすると、毎日が気持ちよく流れていきます。
「ありがとう」の反対は「あたりまえ」って誰かが言っていたのですが、そうなのです。
いろんなことがあたりまえになってしまい、どんどん感謝が薄れてしまいがちになります。
そんなときは、心も乾いている状態です。
なので日々の中で「ありがとう」の言葉が減った時、それは自分の心がガソリンを必要としているという解釈をして、自分のためにエネルギー補給する時間を作ってあげるとよいでしょう。
それは、一日の中で少しでもいいから、自分にとっての心地よい時間と空間を提供することを許してあげることです。
こうした「ありがとう」の力が、どうして宣言力を加速させる力になるのでしょうか。
まず考えられるのは、感謝できる状態であるというのは、間違いなく心のエネルギーも高い状態になっているということです。
エネルギーが高いと、自分がイメージした内容をより早く確実に目的地へ運ぶことができます。
次に「ありがとう」の力は、潜在意識をクリーニングし、超意識やその奥にある魂とダイレクトに繋がって現実創造を応援します。
私たちの内にある3つの意識の一番奥のコアにある「内なる叡智(超意識の奥)」にはどうやら「愛と調和で創造・発展」といった見えない自然界のルールが存在してるようです。
この絶対なる愛と調和を知り、体感するために、私たちは、さまざまな存在物と触れあい、肉体を持って学んでいるのだそうです。
そして、起こる現象というのは、ほとんどが潜在意識のメモリーからくみ上げられてきたもので、いわば過去の集積から取り出した記憶の断片が、この三次元で現象化してしまったものだというのです。
いってみれば過去の古傷みたいなもので、この「古傷」を癒して、潜在意識をクリーニングするとっておきの洗剤が「感謝力」というわけです。
そうすることで、私たちの顕在意識はダイレクトに超意識とその奥に繋がり、圧倒的なパワーをもって、「愛と調和で創造・発展」ができるようになります。
このように、潜在意識をピカピカにして内なる叡智とつながる力が「ありがとう」です。
また量子力学の観点でも「愛」
という精神波動と限りなく同調し、陽子にくっついている中性子は常に「調和」の方向性を求めています。
そして、この陽子と中性子を結び付ける力が、なんと「感謝」という精神波動です。
この前提を元に考えると、私たちは「感謝」するからよいことが起きるんじゃなくて、私たちの身体、空、モノ、あらゆるもののすべてが、もともと「感謝そのもの」「愛と調和そのもの」でできていたということです。
あらゆる物質が愛と調和、感謝の塊からできているんだと思うと、現象化を促す最大のコツは、その本来の姿に戻すこと、ということになります。
手放す
今までやった努力も叶えたい望みも、まるごといったん手元から離してしまいます。
手放すこと、それは「執着をやめる」ということです。
自分の望んだ姿・願望をすぱーんと言い切る行為が宣言力でもありますが、執着をすると「ない」ものを欲する状況になってしまいます。
その時は、いったん執着をやめて、ものごとに足らわれなくなる状態をつくりましょう。
それか忘れるか、流れに委ねるというのがいいでしょう。
宣言力を一気に加速・実現させる魔法の切り札が「手放す」です。
選択と共振の法則
どんな夢でもあっさり叶うことを選ぶ
理想の家に住めるという現実を選択したとします。
「もっと絵がかきたくなるような、自然がいっぱいの環境に引っ越したいな」と思いました。
するとみどり一杯の公園と木立の中を歩いたり、夕暮れ時の海辺を散歩している姿が浮かんできました。
家をイメージすると、窓の大きな洋風のお部屋で緑を眺めながらゆったりとお風呂に入っている姿が浮かび、お気に入りのプルも近くにありみんなが幸せそうに笑っているのを感じます。
よし、この「現実」を選択しよう!と決め、イメージに感じるままに不動産屋さんに駆け込みました。
そこでイメージで浮かんだことをそのまま不動産屋に伝えたら
どこも「そんな物件ありません」と門前払いです。
わかった今の家があるから見つからないのかもしれないから解約しようと解約手続きします。
しかし、いつまでたってもみつかりません。
だんだん気持ちが沈んでいくのが分かります。
心の耳を傾けると「この世界が分離を楽しんでいるゲームだとしたら望みがかなわないということも、不可能ということもないよ」と心ははっきり言います。
そして、気が付くわけです
「あぁ、これは自分の中で作った恐れのゲームなのだ」と
自分の心の内をよくよく覗いてみると
「山と海とプールと公園なんて......そんな贅沢な物件なんてありえない。あったとしても賃料は物凄く高い。私には払えないかもしれない」
という恐れがあったことに気づきました。
その恐れに呼応するような現実が引き寄せられたのです。
そこで一旦気持ちをゼロにします。
そして「奇跡って、あっさり起こっていいんだ」と自分の中に許可を出しました。
「私は豊かさを受け取るに値する!」と決めたのです。
その後、ただ豊かさを受け取るに値する存在として生きる、という現実を選びます。
すでに理想通りの家に住んで暮らしているかのような気持ちで過ごすことにするわけです。
家の解約日は刻々と迫ります。
そして最終日、家を契約しないと次の家が亡くなる締めの日に、不動産屋さんへ向かう電車の中でぽんっと新しい物件が出たのです。
そして、その家の敷地に足を踏み入れた瞬間に、それが自分のイメージ通りの住まいだと感じました。
「ここに決めます!」とそおっけつ。
宇宙は太っ腹です。
ケチじゃありません。
望むものは気前よく出してくれるし、出し惜しみしません。
ただしどの現実を出してもらえるかは、実はあなた自身が決めています。
いま、この瞬間、あなたがほおっている心の状態が、次の現実を決定づけているのです。
怖れの思いから発したら怖れに適った現実が現れてくれます。
同じように、愛や思いやりをベースに行動したら、愛や思いやりに満ちた現実がさくっと現れることになります。
つねに、なりたいものを選び、行きたいように生きることです。
私たちを取り巻く世界はたった一つではありません。
世界は同時に無数に存在していて、私たちはいつだって自分の好きな世界を選べます。
そして無数にある世界の内、どの世界で生きるかを決めているのは自分自身なのです。
パラレル・リアリティです。
「この世は不条理に満ちている」という目で世界をみれば、本当に不条理な世界が立ち上がり、不条理なことが起きます。
でも「この世はあらゆる可能性に満ちている」という目で世界をみれば、チャンスが巡ってきます。世界はその人の主観がつくりあげるのです。
だから、いま、どの世界を選ぶかがとても重要なのです。
次の瞬間をハッピーなものにしたい、夢を叶えたいと思うのなら、一番大事なのは、いま、どの世界を選ぶかです。
あなたは、「がんばらなくっちゃ」よりも「自分が生き生きと輝いている世界」を選ぶことができるのです。
「つらいけれど、がんばる」という世界を選べば、あなたはそういう現実がやってきます。
しかし「自分が生き生きと楽しく仕事をする」という世界を選べば、未来はきっとそうなるのです。
世界は多数あって、いまいる世界は自分が選んでいるだけ、しかもいまいる世界が次の表れを決めます。
世界は一つではありません。いまいる世界が嫌だったらそこから飛び出せばいいのです。
次の瞬間を良いものにしたければ、多数のある世界のうちから希望する世界を選べばよい。
次の良い瞬間に続くような「いま」を選べばいいのです。
人の数だけ世界は存在し、家族はそれぞれ別の世界を生きています。
今いる世界とは別の無数の世界が存在するわけです。
常に主観で世界を見て感じ主観が自分なりの世界をつくりあげているのです。
そうはいっても、この主観というのが中々にやっかいです。
モヤモヤしているときというのは、この世界の移動が難しいです。
ここにいてもつらいだけと頭では分かっていても、感情がついていかないときがあります。
そんなときのコツのひとつが「思い込み」を捨てることです。
私が「内なる世界」を変えた途端に「外の現実」も姿を変えます。
宇宙というのは、過去・現在・未来という直線的な時間の概念がないのです。
なので、たとえばあなたが何か夢を持っているとしたら、そこにはすでに夢をかなえてしまっている世界というものもあります。
夢がかなうまであと一歩という世界もあり、全く夢がかなっていない世界、完全に夢をあきらめてしまっている世界もあります。
夢をあっさり叶えるには、まずこの夢のかなっている世界に行くと決めること、そして夢のかなっている世界を生きればいいのです。
「最高のことしか起こらない」ことを選ぶ
人は常に、あらゆる人生の選択肢を持っていて、どんなに年齢を重ねていたとしても、命ある限り、人生は360度の可能性があり、あらゆる人生を生きられるチャンスがあるのです。
言い換えれば「私の人生には最高のことしか起こらない」と決めてしまうのもよいでしょう。
こういうと、少し違和感を覚える方もいるでしょう。
たとえば、自分や家族が病気にかかっている人は、人間関係のトラブルを抱えている人などつらい状況にいる人は「では、、いま起きていることは何なのだろう?」と思うかもしれません。
ここでいう最高のこととはハッピーなことばかりとは限りません。
苦しかったり、辛かったりする場合もあるでしょう。
でもそれは、やがてくるハッピーの種なのです。
「あぁ、いまのしあわせはあの経験があったからこそだ」と思える日が必ずやってきます。
そういう意味で人生には最高のことしか起こらないのです。
ではなぜ、最高のことしか起こらない人生が可能なのでしょうか。
それは宇宙がいつも私たちの見方をしてくれているからです。
宇宙に流れている純粋でパワフルなエネルギーが、愛です。
愛は「天意」とも書けます。愛は宇宙の意思なのです。
すべてが愛という感じで、宇宙は愛に満ちています。
私たちはいつも圧倒的な愛に包まれているのです。
そんな宇宙は、私たちに最高最善ベストなことしか起こしません。
だから一見マイナスに見えるような出来事も、すべてはよくなるために起きています。
とはいっても人生に不測の事態やハプニングはつきものです。
しかしすべては「最高のこと」につながるために起こっているのだ、ということを信じられたら「最悪」に思えるこもまた「最善」にしていくことができるのです。
抵抗しても起こる出来事は起こりたいように起こるでしょう。
だったら無駄な抵抗はやめて、起きている出来事をただ「見よう」と思うのです。
いまという一瞬を心を込めて、ひとつひとつ積み上げていけば、次に現れる現実はきっと良いものになるからです。
待つことを楽しむ、イライラしながら待つのではなく、その時間と「ひとつになる」のです。
そもそも真の平安や喜びというのは、プロセスそのものにあります。
プロセスそのものを心から喜べたら、結果はどうでもよくなります。
そして、もうひとつ役立つ考えがあります。
「本当の自分は命であって、心と体は後付けのオプションである」ということです。
このことを知っていると、何かを失敗した時に、失敗した自分をもう一人の自分が客観的にみることができます。
そうはいってm、やっぱり悲しい出来事が起きたり、つらい状況に陥ってしまうと、宇宙は本当に味方なのだろうか、と思うことがあるかもしれません。
そんなときのために、心の処方箋を4つほど紹介します
1大変なときというのは、大きく変わるときであることを知っておくこと
大変という言葉は分解すると「大きく変わる」となります。
心のどこから「ただ大変なだけでなく、大きく変わる時だ」と思ってみて下さい。
人がジャンプするときというのは逆境という形でジャンプ台が用意されているのだなと思います。
2泣きたい時にはしっかり泣こう
本当に悲しい状況に陥ったら無理しなくもよいのです。
泣きたい時にはとことん泣いていいのです。
そこに抵抗しなくても無理して頑張ろうとしても、人はきちんと成長するようにできているからです。
全ての状況はいつかは必ず変わります。
苦しい状況にとことんはまって、底から抜け出た経験を持っている人は次に同じような事態になった時にはいまよりもっと賢くなっています
3山より大きなイノシシはいないと知ること
何が起きるとしても、その人が乗り越えられる丁度良い課題が、ちょうど良いときにちょうどよいだけやってきます。
っ繰り返しになりますが、愛に満ちている宇宙は私たちを潰すようなことは決してしないのです。
4八方ふさがりの時ほど天に近くなっていると考える
八方ふさがりの状況にも一か所だけ空いているところがあります。
それは「天」です。
天を見上げればそこは空いています。
「行き詰まることができるぐらいに私も成長したんだ、ありがたい」と思うようにします。
「いま、ここを生きる」ことを選ぶ
自分の夢がかなう流れというのは先述した通り、
すでに夢が現実になっている世界がすぐ目の前にあり「その世界を選ぶ」というイメージです。
目の前にあるのは、夢が現実になっている世界ばかりではなく、夢がかなっていない世騎亜、少しだけ夢に近づいている世界、夢のことをすっかり忘れてしまっている世界など、無数にあります。
次に現れる世界はその人の心の状態が決めます。
宇宙に存在するすべてのものはそれぞれ固有の波動(バイブレーション)を持っています。
そしてあらゆる物質は波と粒の両方の性質を持っています。
これを「波動性」と「粒子性」といいます。
波動性は、波動が細かいと「波動が高い」状態、波動が粗いと「波動が低い」状態となります。
たとえばイライラしている人の波動は、その波形が荒々しい海の波のイメージで「低い」状態です。
一方で、穏やかな気分の人の波動は、その波形がないでいる海の波のイメージで「高い」状態です。
自分が高い波動を放っていれば、波動の高い世界が現れるし、波動が低ければ波動が低い世界が現れます。
そしておそらく、夢がかなっている世界というのは波動の高い世界でしょう。
つまり、自分の波動を高めれば(=心の状態をよくすれば)夢がかなっている世界に生きられるのです。
そのためには「いま、ここ」を生きることです。
真に「いま、ここ」を生きることができたとき、波動は高まり、夢の実現が近づきます。
「いま、ここ」がオーケーなら、次に現れる世界はより高次なものになります。
だんだんと高次な世界にいくことができ、徐々に夢の実現に近づきます。
これは宇宙の大原則とも言えます。
ここで誤解されがちなのが「いま、この瞬間にベストだと思う行動」というのは夢に直結する行動ばかりとは限らないことです。
一見、夢の実現からh遠くのような行動でも、それが「いま、この瞬間にベストだと思うこと」なら、それをやることで夢に近づくのです。
どちらが本当にやるべきことか迷った時には、心がワクワクする方を選んでください。
世間の常識や義務感に囚われず、自分のハートの声に素直に従ってみるのです。
また、同時に、夢の実現に必要な行動ならば好きになろうとする思いを持つことも大切です。
「いま、ここ」はあらゆる可能性が解放系にあります。
「いま、ここ」は360度の可能性が手に入る「ゼロポイント地点」
どんな世界も選び放題の可能性の交差点が「いま、ここ」なのです。
過去でも未来でもない「いま、ここ」を意識すると、いったん、自分がゼロ化され、過去にも未来にもこだわらない新しい世界を選べるのです。
「いま、ここ」を生きる方法
・深呼吸して「いま、ここ」と心で唱え、今この瞬間を意識する
・笑うこと(これをみれば思わず笑ってしまうというコンテンツを見つけておくこと)
どんな自分も丸ごと許す
夢があっさり叶いやすいのは自分以外の誰かの喜びを生み出そうとワクワクしている時です。
誰かのためを思っている時です。
誰かのためを思うには、まず自分で自分のことを思ってあげる必要があります。
他人がどう見ようと自分だけはどんな自分も丸ごと受け入れてあげるのです。
いのちがその人の真の部分で身体と心は後からくっついたものに過ぎません。
命の世界というのは無限の海みたいなところで全てが繋がっています。
限界も境界もないしごく平穏な世界です。
でも、その世界だけでは退屈なんです。そこで「私」という意識が生まれました。
意識だけでは何も行動もとれないので肉体を持ちました、色々考える思考も持ちました。
このようにして、大きな無限なる命の中の「私」といういのちが、肉体を持ち、感情を持ち、思考を持ったのです。
そして、命は太陽みたいなもので、本来は誰の命もぴかーんと輝いています。
自分というのは命なのです。
太陽のような輝きが、誰の内にもあるのです。
これがわかると、自分の心と体を客観的に観察できるようになります。
だから多くの人は「許しなさい」と説く。
しかし、赦せないと思う人を無理して許そうとする必要あありません。
強引に許そうとすると、自分の心に更なるストレスをかけることになります。また無意識に自分が許せるような状態になれるよう、期待と不安、そして執着心も増すのです。
これでは多分、永遠に許せません。
そこで相手を許そうとするのをやめる。許すのは自分自身に対してです。
許せない自分を許してあげる、許せない自分を認めてあげるのです。
こうして自分の心を客観的にみつめていくと、ああ、許すというのは相手ではなく、自分の心の問題だったのだと、言うことに気が付きます。
もっといえば「許せない」という思いは感情の領域で「許さなくては」というのは思考の働きであって、つまり自分の本質ではないなと気づけるのです。
真の自分は命であることを知っていると「人にどう思われても、別にどうでもいいな」という気持ちになれます
何かを言われても「そうかもしれませんが、それが何?」と思えるようにあんります。
私という人間は役割によっていろいろ変わります。そして他人は大抵、この「役割」を通してその人を見ています。
でも「役割」はその人の陰のようなものであって、その人そのものではありません。
だからだれかに何かをいわれたとしても「あぁ、影に対して言われているな」と思えるようにあんります。
「影に対して言われてもな~」と軽く流すことができるようになるのです。
自分を好きになるワークは簡単で、
鏡に映る自分に向かって「愛しているよ!がんばっているね!」と言葉にして言うだけです。
この瞬間、いい気分で過ごすことを選ぶ
「三年後に英語がペラペラになる」という夢をいだいているとしてこの夢を確実に実現するために、あなたとるとよい行動は3つのうちどれでしょう
1一日最低10個新しい単語を覚える
2毎日、部屋の掃除を少しずつやる
3ネイティブの人を見つけて、出来るだけ話しかけるようにする
正解は2です。
なぜならそうじをして部屋がきれいになるといい気分になるからです。
いい気分でいると夢の実現スピードが速まります。
なぜそうなるかといえば、いい気分というのは、良い未来を引き寄せるから、
今の自分の状態が次に現れる現実を決めるのです。
いい気分というのは、心もからだもリラックスしている状態です。
細胞の働きさえリラックスしているでしょう。
波動でいうなら、きめ細かい振動を繰り返す「高い」状態です。
このような状態のときは自然といい未来とつながります。
勿論逆もあります。
あまり良くない気分の時は悪い未来を引き寄せやすいです。
「昨日も夫婦げんかをしてしまって....。本当にイライラしてしまったわ」という人がいますが、本当は喧嘩をしたからイライラしてしまったのではなく、もともとイライラしていたから喧嘩が起きてしまったのです。
たとえ夫や妻がかちんとくるような言動をとったとしてもそれを「かちんとくる」と受け取る心が無ければ喧嘩は始まらないのです。
結果に至る過程の一瞬一瞬を深く楽しめたら、結果はどちらでもよくなります。
そもそも、結果というのはただの「事実」にすぎません。
冒頭の問題の答えで「一日最低10個、新しい単語を覚える」を選んだ方もいるでしょう。
英語をペラペラになりたいという夢なら、単語を覚えることは必須ですが、でもやはりそのベースに「いい気分」があるとよいのです。
単語を覚えることを楽しむという具合です。
できなくても「できませんでしたが、それが何か?」って考えればいいのです。
いい気分を選択するにはちょっとしたコツが必要です。
「~せねばならない」「~すべき」という自分のルールを手放すことです。
人は勝手にルールを背負いますが、そのルールは本当に必要でしょうか。
つまり、不必要なルールに縛られて「いい気分」を選択するチャンスを逃がしてしまっている人が多いのです。
落ち込んでいる時は
「落ち込んでいますけれど、それが何か?」
と自分を責めずに「そりゃ、人間だから落ち込む時もあるよね」と落ち込んだ自分を肯定してあげます。
いちばんよくないのは、落ち込んでいる自分に対抗して、何とかこの状況脱しようとがんばったり、強引にポジティブシンキングに持っていったりする事でしょう。
落ち込んでいる自分と戦うのは、一見雨向きなようで落ち込んでいる状態にますます埋没していくことになります。
だから落ち込んだ時は、落ち込んでいる自分にそっと寄りそってあげてください
「大丈夫。宇宙はあなたを潰し様なことは絶対にしないよ」
人間関係の悩みも同様です
「●●さんに嫌われている気がして、でもそれって何か問題ある?」と
「●●さんは私のことを嫌っている。そんな●●さんのことを私も嫌っている」という事実だけです。
これに気づかないでいると、こんなとき、私はつい、相手のことを何とかして許そうと頑張ったり、相手から嫌われないようにしたりともがいてしまいます。
しかし、何とかして許そうと頑張ったり、相手に嫌われないようにする努力は無駄に終わる場合が多いです。
ただ人間関係で困るのはどうしてもつきあわざるを得ない人とうまくいかないときでしょう。
こんあんときは、嫌だなと思う人こそ、その人の素敵なところを見るようにすることです。
そして素敵なところをみつけてきちんと言葉にして言ってあげます
「笑顔が素敵だよね」「いつも洋服のセンスがいいよね」などです。
すると、最初は嫌だと思っていた人ほど、オープンハートになってこちらをみてくれます。
嬉しい念を与えてもらえるので、こちらもまたうれしい念を送ることができます。
また自分にとってレッスンだと思うことです。
「嫌なところ」というのは、実はその人自身の中に資質としてある場合が多いので、自分の中にある潜在的な種の発見になります
「この出会いによって、私はどんな地球学校のレッスンを受けているのだろう?」と考えます。
「いばっている」こと嫌だと感じるので、その反対の「謙虚とは何か」という内容のレッスンです。
自分が嫌だと思う人はそのようなレッスン科目を与えてくれているわけです。
あらゆることが自分自身への気づきの機会なのです。
「意図を放ち、行動する」
夢をかなえるためにまずやるべきことは意図することです。
最初に「こうなりたい!」「こうしたい!」「これが食べたい!」などの意図があってこそ、その思いはかないいます。
夢が中々かなわない人は、この肝心の「意図すること」を忘れている場合が多いのです。
「今年の夏休みはどこか遠くへ行きたいな」ではなく「よし、ハワイに行こう!」と具体的に意図することです。
ここで思い描いた未来の世界というのは、実はすでにあります。
世界は同時に無数に存在しますが、あなたが思い得たいが未来の世界は無数にある世界のうちの一つです。
その世界を選ぶこと
自分が欲しい未来をありありと思い描いたら、その世界で生きると決めてしまいましょう。
このとき夢の実現にマイナスイメージが出てきます。
夢をいだきつつも「無理かも」「むずかしそう....」などのマイナスの気持ちが湧いたらそれを灰色の雲にみたて、その雲を心の消しゴムでさっさと消していきます。
消しながら、心の中で「大丈夫だよ」「すべてはうまくいってるよ」「ありがとう」などと肯定的な言葉をいうのです。
また出てきてもさっさと消します。
これを繰り返していくと、いつしか台風一過の空のような、雲一つないっクリアな青空が心に拡がる感覚を得られるでしょう。
想いを実現させるためにはその思いをできるだけ具体的な形に如かなければんりません。
その本当の第一歩が夢を言葉にすること
「思い」を形にしたのが「言葉」です。
言葉にすることは最初の行動です。
言葉にする時には感謝の気持ちを込めて過去形で言い切るようにするのがポイントです。
たとえば「無事、〇〇の資格がとれました。ありがとうございます。」
感謝の気持ちを込めるのは、自分がこうありたいといったイメージは「感謝力」が満ちたときに加速して現実化すると考えているからです。
過去形で語るのは「思いが現実を作る」ためです。
「思い」とは、つねに「いま」の状態を表します。
たとえば「お金持ちになりたい」の裏には「いまはお金がないから」という状況
「スリムになりたい」の裏には「いまは太っているから」という状況があります。
つまり「お金持ちになりたい」ということは「お金がないんです」といっていることとと同じで「スリムになりたい」ということは「太っているんです」といっていることと同じでその「いまの思い」が現実化されてしまうんです。
そうではんく、イメージの赤でもそれがすでにかなっているような過去形で言い切ると、現実化が加速します。
自分が欲しい未来を言葉にして宣言したら、その未来の様子をありありとイメージして、さらにその未来にいる人たちがいい気分になるイメージをします。
ただし、夢を具体的に意図することは大事ですが、執着したとたん、ネバネバが加わり重みが出て前に進みにくくなります
この執着になりそうな心を話すコツが、いったん夢を忘れること。ぱっと手放すイメージです。
長い間「いい人に出会って、結婚したい」と願っていた人が、その願いを手放した瞬間善き出会いがあったと可、そんな夢を持っていたことを忘れたことに突然かなったとかです。
「無邪気に願う」ことで。無邪気というのは文字通り邪気がないことです。
それでも執着してしまっているなと思う時は「執着していますけど、それが何か?」と軽くいってみましょう。
すると執着から離れられます。
さて、無邪気に願った後は具体的に行動に取り掛かります。
「まず動く」ことです。
動いているうちに選択が違うと思えば辞めればいいし、やり方が違うと思ったら方法を変えればよい。頭で考えているより、実際に行動を起こした方が多くの気付きを得られるはずです。
まずは行動をしましょう。行動力が進化の鍵です。
感謝のためにお金を使う
お金の一番の望みは、誰かの役に立てたかどうかであり、お金の気持ちになってお金を使うことです。
つまりは、だれかの幸せに役立つ使い方をされることが、お金の本望です。
お金を使う時、私たちは消費者と呼ばれることが多いのですが、単なる消費者ではなく決定権がある能動的な「生活者」であることなのです。
もちろん価格もチェックしますがその前に「この野菜は身体が喜ぶ者か?」「地球にやさしい作られ方をしているか」など総合的に判断し、生産者の方やここまで届けてくれた方たちに感謝の気持ちを返すものとして価格は見合っているか、と考えていきます。
食べ物に限らず、衣類や日用品においても、外食においても同様です。
お金は能動的な生活者として使えばそれだけで世の中の役に立っていることになります。
お財布の中がレシートやカード類でパンパンにならないように、お金さんがいつでも居心地よく過ごせる空間を作ってあげましょう。
そして自分のお財布にお金が入って来たときには「私のところへきてくれてありがとう。あなたを喜ばすからね」という気持ちで迎えます。
お金の「か」は感謝の「か」です。
つまり、お金を使うということは、自分の感謝の気持ちを流すことです。
感謝を乗せてお金を流すと、お金そのものが戻ってきた利、信用や信頼という別の形で戻ってきます。
誰かの笑顔のために感謝を込めて使うのもよいでしょう。
積極的にお金は自分以外の誰かの笑顔のために使うと自分の心がとても喜ぶことが分かります。
感謝を込めて相手が笑顔になるようなことをさせる。
それが結果的に相手も喜ぶし、自分も喜ぶのです。
こういう生き方をすると、お金も物もすごく回ることが分かってきます。
このように考えると、お金を使うという行為は自分の感謝を示すことになります。
いまあることや、人やモノやことに、感謝できるような気持ちを持っていると、人も物も全部エネルギーなので絶対に寄ってきます。
お金はエネルギー。よってエネルギーが高まっているところ、また上質なエネルギーのところに集まりやすい。
お金に好かれるためにも、この大事な法則を知っておきましょう。
「お金持ちごっこ」も有効です。
「お金持ちごっこ」は「お金持ちになったらいいな」と思うのではなく、いますでに自分がお金持ちになっているところをイメージします。
そして、お金持ちになっている私は、どんなふるまいをして、どんな顔をして、どんな服を着て、何をしているだろう、などと考えるのです。
イメージの中で100万円を使い切ってみましょう。
100万円が入った袋は毎日あなたの手元に届くのです。それらをすべて自分がワクワクすることに使ってみましょう。
そして自分にこう問いかけてみます
「満たされた自分は何が欲しい?何がしたい?」
それがお金持ちの感覚です。
持っているお金や財産に関係なく、今の自分の状況を肯定できれば人はハッピーになれます。
いますでにあるものに目を向け、感謝をすることです。
私たちはつい、無い者に目を向けがちです。
これをやめてすでにあるものに目を向けてみます。
「ここにある」と考えると、ものすごい感謝の気持ちが湧いてくるのです。
心が本当に「こんなにも満たされている」と思えば、現実もそうなります。
努力よりワクワクで生きる
人は誰でも喜ぶために生まれてきました。
命の本質は喜びからできています。
寿命という言葉を大和言葉に直して書くと、寿ぐいのちです。
これは、寿いで、喜びながら生きるのがいのちなのだ、と考えても良いのではないでしょうか。
つまり、歯を食いしばって頑張ったり、苦労して生きるのではなく、喜んで生きることが、私たちの命が一番うれしがる生き方です。
そして喜びながら生きると、自然と自分の望む人生がやってきます。
喜んでいる、そのためには、つねにワクワクを選んでいきます。
その仕事は自分の心がワクワクすることか?
「~すべき」「~しなくてはならない」などと考えることは世の中常にそれが正しいというわけではなく、絶対の正解というわけでもないのに、がんじがらめになっています。
真の心の声「ワクワク」に素直に従えばうまくいくのです。
このようにワクワクする感じは、ときめき、喜び、心の奥からのダイレクトメールです。そして同時に、あなたの心の処方箋であり、人生のレシピでもあるのです。
夢をかなえるには多少なりとも努力が必要と追っている方は多いかもしれませんが、努力というエネルギーは我が入るので、実はジャンプには向きません。
でも「ワクワク」はその人の固有振動を変えます。
固有振動が変われば夢がかなった世界へシフトしやすくないrます。
つまり、夢というのはあっさり叶ったいます。努力ではないのです。
だからまずは「夢はあっさり叶う」と決めてしまいましょう。
決めるためには、言葉にして声に出して言うのが近道です。
「夢はあっさりかなっちゃいまーす!」と
目の前のことに愛を込める
たとえば玄関のドアを閉めるとき、最後までドアのノブに手を添えて静かに閉めていますか?
駅の自動改札を通るとき、定期券やカードを優しく機械にかざしていますか?
お店での支払い時、受け取ったお釣りのお札は綺麗にそろえてお財布に入れていますか?
家に帰ってきて靴を脱いだ後、靴をきちんとそろえていますか?
たとえば、このような日常の書さが丁寧に出来ている人は、自分が望む未来を手に入れやすいといえます。
なぜなら、そういう人は良いエネルギーを放っているからです。
ここまで何度かお伝えしてきましたが、自分が放つエネルギーの質や高さによって次に現れる現実は変わってきます。
所作という言葉は仏教の教えでは「身・口・意の3つの働きが現われること」とされています。
これは所作とは身のこなしや振る舞いだけでなく、言葉遣いや心の持ちようまで含まれるということでしょう。
では、所作を丁寧にするとはどういうことか。
それは「つねに目の前のことに愛を込める」ことです。
愛を持って思えば、人は自然と優しくなれるでしょう
「愛を持った行動、言葉遣い、想い」の対象は人だけとは限りません。
自宅のソファや椅子、台所、野菜もそうです。
不思議といつもと同じようにしてもとても行動がよくなっていきます。
「共通の思い」
対立関係ができてしまうのは常に自分が正しいと信じているからです。
自分は正しい、相手は正しくないと考えると簡単に対立関係ができてしまいます。
そんなときは、正しいかどうかではなく「美しいかどうか」で判断すればよいのです。
正しいかどうかではなく、美しいかどうかで考える。美しいかどうかで考えると対立するものが生まれにくくなります。
「躾」という字は、身が美しいと書きますね。
ここでもう一度、日本人の美意識を取り戻します。
「正しいかどうか」ではなく「美しいかどうか」で考えるのです。
これが相手を責めない(自分の優位性を示そうとしない)ポイントのひとつです。
つねに目の前のことに愛を込めること、愛を持って行動し、愛を持って言葉を語り愛を持って思うことが次の良い現実を作り出すのです。
もし神様がいるとしたら、この広大な宇宙を鬱食った大いなる存在というべきものがいるとしたら、私たちに次のように問われています
「あなたは愛を放っていますか?」
この世界の資質は何かといえば、愛です。宇宙は愛の海です。
私たちもそれと同じで、普段は愛の存在を忘れがちです。
しかし、実際は愛にあふれてい、愛につつまれています。
私たちは愛から生まれ、愛に行き、愛に帰っていく存在です。
だからつねに目の前のことに愛を込めるというのは、次の良い現実を作り出すことも勿論ありますが、それ以前に、私あっちが生きていくうえで与えられた課題とも言えます。
自分の人生の主人公になる
外ではなく内側を観るのが基本
私たちが問題を抱えたときについやってしまうのは「なぜ?」「どうして?」と考えてしまうことです。
さらに「なぜ?」「どうして?」と考えていくと、けっきょくは自分以外の誰かを責める結果につながる場合が多いのです。
その人の、その時の心のありようがの感じ加賀を決めます。
つまり自分の身の回りに起こること、現れている現象というのは、すべてその因は自分の中にあります。
「他人はなかなか変えられない。だから自分を変えなさい」
とはよくいわれることですが、他人とは自分の目にどう映るかは結局自分の心が決める者です。
もし自分が辛い思いをしていて、それがすべて自分の心が作り出したものだとすれば、私たちの心はもっと新しい世界を作ることもできる、ということです。
したがって、何か問題起きたときは、基本は外側ではなく内側をみます。
だれかを責めたりせずに、自分の何がそういう現実を作り出したの感を考えます。
そして問題に対して「ああ、そうか。これは自分の心がそうとらえているのかと客観的にみられるようになったら、問題は半分解決したも同然です。
私のみの周りに起きている現象は、私の心と目の活動なのだと気づくことができます。
このように私たちは自分の人生に起こることをつい受け身t¥に捕えてしまいますが。
自分の身の回りに起こること、現れる現象というのはすべてその因は自分の中にあります。
あらゆる現象は自分の心が作り出し、世界にあらゆる生き物、植物、モノ、自然、人、現象などのうち、見たいものだけをみているのです。
そこで「自分の人生」という映画の監督・主演になると決めてしまうのです。
きっと人生も同じでしょう。
すべてはひとつから生きることを選ぶ
会社の経営者であればだれもが「少しでも多くの利益を出したい」と考えるでしょう。
でも「なぜそうなのですか?」と聞けば、きっと答えは経営者によってそれぞれ違うはずです。
このとき「会社の発展は社会がよくなることにつながるから」と思っている社長が一番実現しやすい特徴を備えています。
同じ夢でもその実現によって自分だけがハッピー、または自分とごく限定された人多田家がハッピーで後は泣いていたり、不幸になってしまうものは実現しにくいのです。
たとえ実現しても、結果、だれかが泣いたり不幸になっていたら、おそらく何らかの不調和というバランスをとる出来事がおきて、崩れていくでしょう。
自分も周りも地球もハッピーになれるような夢なら、宇宙(天)を味方につけることができるからです。
自分の力(自力)、他者や天の応援(他者)も加わり、自力+他力=全力となって、物事が成就するのです。
つねに大調和へと向かい生々発展を繰り返しながら拡大していくのが宇宙の法則であり、それは、天の意思(天意=愛)ともいえます。
自分もハッピー、まわりもハッピー、地球もハッピーになる夢がかないやすいのはわあつぃたちの命は、深くでつながっているからです。
究極的にはどんな人も「他人」ではなく、他人の姿を借りたもう一人の「われ」という見方ができるようになります。
なんだか嫌な相手だと思う人も、もう一人の自分の姿を見せてくれているんだなと思うと単に「嫌だな」だけではなくなります。
だから何が起ころうとも次のように言ってみましょう
「アイ・アム・パーフェクト!(私は完璧です!)」
家族、その日に会う人、その日に行く場所を思って、それぞれを光で包むようなイメージをすることです。
私たちは素粒子的な存在です。
素粒子は時間も空間も越えられるので、席に行って、そこを調和で満たしてしまうとよいのです。
夢をかなえる方法というのは「いま、ここ」を最高に生きる方法と全く同じだということです。
今この瞬間がパーフェクトで最高だったら、他に何も望まなくなるからです。
全ての瞬間が満たされていて、そこには感謝があるだけです。
逆説的ですが、そのような状態になった時、「すべてはあっさりかなう」ようになります。
最強の言霊 一覧
アイムパーフェクト
この「完璧、完全」という概念は内なる叡智の属性です。
ここを呼び覚まされると、身体の全細胞をはじめ、まわりにあるすべての存在、事象も含め、そのうちにある完全性を表そうと「現実」を再構成します。
「アイムパーフェクトボディ!」「アイムパーフェクトラブ!」など後に言葉を続けるのも効果的です
私にはパワーがある
同じように内なる叡智にストレートにつながら、力を呼び覚ます強い言霊です。
長きにわたって、私たち人間は無力であると思いこまされてきたのですが、そんなことはありません。
思考と想像の力を使って何でも創り出すことができる、たいへんパワフルで創造的な存在です。
この言葉を言い切ることで、自分たちは無力であると思いこまされてきた呪縛がほどけ、集団的催眠状態から抜け出すことができます。
人生に躓いたとき、落ち込んだ時ほど、繰り返し言い切ってみて下さい。
口先だけでも構いません。言っているうちに、内側からパワーがじわじわ溢れてきます。
愛しています ありがとう
愛と感謝の言葉です。
この言葉を使う飛びに、モノゴトは本来あるがままの状態に向かって加速し始めます。
自分の身体にも、自然にも、出会う人にも、建物にも、最初は口先だけでも、だんだんと、穏やかな心でいる時間が増えてきます。
ハワイの伝統的解決法:ホ・オポノポノにもあるこの言葉は、本来あるがままの姿ではないすべての情報(潜在意識
をクリーニングする、素晴らしいマントラです。
大好きだよ 愛しているよ
「愛している」とか「大好き」という言葉、照れくさくて恥ずかしいですが、なんだかほかほかしてうれしくなります。
これをいつも心の中で唱えていると、不思議と、ハッピー出会いがいっぱいになり楽しくなります。
私は愛 私は光 怖れよ、去れ!
心に何か不安があるとき、私たちは光ではなく闇を見ているものです。
闇は恐れとなって顕れ、あなたの心を暗くしていきます。
けれども闇は、光によって照らし出された陰であり、実体のないものです。
闇は幻影です。
そのことを知ったとき、それは消えます。
怖れは、打ち負かされるためにあるのではなく、越えるためにあります。
あなたの本質は光です。
自分の内なる光にアクセスし、愛であることを思い出し、怖れに対して、きっぱりと「去れ」と命じましょう。
大丈夫 すべてはうまくいっている
ピンチや窮屈に立ったときに、この言霊を繰り返し唱えると、不思議と心が落ち着き、新たなよき展開が起こりやすくなります。
すべては超えられることしか起こりませんが、イノチのしくみのようなので、私たちは安心して、困難にあうときは、あっても大丈夫です。
ちゃんと、すべてうまくいっていて、乗り越えられるようにできています。
このパワフルな言霊が、心の奥にしみていくにしたがって、ますますあなたの目の前には、充実した人生が展開されていくことになるでしょう。
うれし たのしや ありがたや
道を歩きながら唱えます。
気分は七福神
するとだんだん陽気な気分になってきて、歩いているだけで、息をしているだけで、生きているだけでまるもうけなノリになっていきます。
どうぞなるように なりますように
あなたが想像したあとに、いつも付け加えることをおすすめします。
自分のエゴから出た執着や期待といった不要な波動を打ち消していく役割を果たします。
身体でいえば、肩の入った余分な力がふっと抜けて柔軟でしなやかな身体に戻ったという感じです。
この言葉を一言加えるだけで、あなたは本来のあなたとつながる、ニュートラルポジションに戻ることができます。
すべて内なる叡智にゆだねます
期待も執着も願望も皆、いったん手放し、すべてを統括する内なる叡智に委ねます。
古典神道において神が残してくれた言葉「アチマリカム(どうぞ、神様ご統治下さい)」と類似語です。
そうすると、一番良いことが、良い時期に、最も良い形であらわれることになるのです。
やれることをやったあとは、すべて内なる叡智におまかせして、宇宙を信頼してゆったりまちましょう。
私って いつも 運がいい!
運がいい人生を歩むコツは、自分はいつも運がいい!と先に言ってしまうことです。
私っていつも運がいいと言っているうちに、本当に良きことを引き寄せやすくなります。
ということは反対のことばかり言っていると、その反対が起こりやすくなってしまいますから要注意です。
もし、すでに「自分はついていない」とか「運が悪い」と言ってしまっているとしたら....。
残念ながら放った言葉は戻ってこないので、今から言葉の質を変えて、今から起こるすべてのサイクルをよきものへとチェンジさせてしまいましょう。
私は 何をやっても うまくいく!
たとえ、一見うまくいかないように見えることでも、そのプロセスを経ることで、結果として、さらなる良い流れを引き寄せていることがわかりました。
だから、安心して失敗していいし、回り道をしてもOKです。
なにをやっても、どう転んでも、うまくいっている。
それ以外のことは起こっていないのです。
私は生まれながらにして豊かです 私は〇〇の豊かさを恵のもとにあらわします
私たちは本来、生まれながらにして豊かな存在です。
そのように創られていたのです。
私たちは無意識のうちに、質素は美徳である、豊かになってはいけない、という思いこみの拘束服を着せられました
私たちが豊かでいるということは、既得の権利であり、内なる叡智の恵みを享受するということでもあります。
使い方としては、〇〇のところに、あなたがいま望むもの、好きなものを入れて下さい。そして、いまの目の前にあること、しなくてはいけないことを、心を込めて、たんたんとやってください。
すると、一番良い形で一番良いときに、ちゃんと「それ」はやってきます。
私は富を受けとります
富というのは、何も物質的なものばかりではありません。
私たちの心の富は愛となって現れますし、身体の富は健康です。
物質としての富は、お金だったりものだったり、目に見える何かになります。
富んでいるのは、どこか軽蔑すべく卑しいことではなく、同様に、失うかもしれない恐れの対象物でもありません。
ただただそれは受け取って、あなたという栄光を表す道具なのです。
あなたの富を受け入れることを、あなた自身に許して下し亜。
あなたは生まれながらにして豊かであり、さらにそれをこの世界でも物心両面であらわすことができる、これがイノチの真実です。
私はあふれる豊かさの泉です
あなた自身が清らかな泉であり、そこから溢れるほどの愛、富、完璧なる自己実現、健康、すべての豊かさがこんこんと湧き出ています。
イメージを持ちながら唱えると、更に効果的です
天晴れ天晴れエンヤラヤ~
「あっぱれ」とは漢字で書くと天晴れとなります。
文字通り、天が晴れているんです。
天が晴れると心も晴れる。笑顔で顔晴れ、日本晴れです。
エンヤラヤーは古代へブル語で「我、神を賞美します」です。
「神」を外にも内にも見出すとしたら、エンヤラヤーと言いながら、自分自身の神性なる意識をも祝福してしまっているというわけです
素晴らしい朝をありがとうございます
今日も私も家族も出会う人も
皆が幸せでありますように
今日一日が感動感激の
ミラクルな一日でありますように
こうして朝起きれたこと、そして始まる一日のすべてに感謝をしてから、麻のスタートを切ります。
すると、本当に素晴らしい一日になることが多くなります。
時間的には一分もかからないと思うので、起きがけに布団の中でやってみるといいでしょう。
今日という素晴らしい一日を
ありがとうございます
今日私が体験できた
すべてのことに感謝します
どうぞ私もまわりも地球さんも
すべてが栄えていきますように
出逢った人、やったこと、感じたこと、そのすべてがあなたを明日へと導き、成長を促します。
あたたかい布団の中で、安心して眠りにつきましょう。
出会いに感謝します
あなたと分かち合う時間が
素的なものとなりますように
出逢ったあなたが
ますます幸せでありますように
これを唱えると、本当に素敵な時間になりやすいことがわかります。
会った後に唱えると、それ以降も素的な関係を築きやすくなります。
世界中で60億と言われる人の中で、実際に出会え、触れ合える人はごくわずか
いただいたご縁を大切にしましょう。
そうして出会ったご縁をとおして、相手の幸せを祈ること
この想いが、あなたをますます豊かに幸せにさせてくれます。
私は大地でつながっている
人との絆を深めたい時、コミュニケーションを図りたい時に使う言霊です。
もし、苦手だなぁと思う人がいても、私たちは足の裏を通して大地に接触し、繋がっているのです。
絆は気綱。
相手と心を通わせることができたら気の綱ができ、相手とエネルギー的に繋がることができるのです。
人だけではなく、モノや自然、動物に対しても使えます。
絆を深めて、交流し合い、あなたの人生をますます豊かなものにしていきましょう。
私の身体はやわらかい
緊張した時に、この言葉を唱えてから物事にのぞむと、とたんに身体がふっとゆるみます。
誰かと心を通わせたい時、構えてしまう時にも役に立ちます。
お金さん 来てくれてありがとう 大切に扱います
通貨は「流れ」という意味を持っています。
お金というのは、物質世界において力のある、循環するエネルギーです。
お金は物質世界における豊かさの象徴で、このエネルギーを使って、ますますすべてを栄えさせていくことができます。
なので、その豊かさの象徴が自分の手元にやってきたときは、感謝と敬意を持って、大切に扱ってあげましょう。
お金さん いてくれてありがとう
いってらっしゃ よい旅を!
できればお友達をつれて戻ってきてね
もしあなたがお金だったら、どういう人のところに行きたいかを考えてみてください。
大切に扱ってくれる人がいいですよえ
そうして送り出してくれる人がいたら、ほかのお金さんたちにも「あの人のところはいいよ~」って伝えたくなります。
お金というものを構成している原子の意識に向かって語り掛けます。
最後の一文に「できれば」という言葉を付け加えたのは、お金とは執着を生みやすいものなので、控え目な一言をいれ、お金さんの自由な気持ちに任せることで、エゴを最小限に抑えたいためです。
私はお金に使われません
私はお金を使う側にまわります
使う時に「もったいない」とか「少なくなる」という欠乏の意識が生まれる者ですが、
この言葉を使うと、気持ちよく使えるようになります。
お金というエネルギーが、この世界すべての豊かさのために働く道具であると考えるようになります。
私って かわいい!
私って 素敵!
いい笑顔 最高!
朝晩の洗顔時に、鏡を見ながら宣言すると元気が出ます。
声に出して言うのが恥ずかしかったら、心の中でいうだけでかまいません。
いった後は、鏡に向かってニコッと笑いましょう。
笑顔は心を緩ませ、自分も周りもクイックに幸せを運ぶ最高の薬です。
天地の恵み 人の愛に感謝します
この恵みが
私たちをますます元気にしてくれます
頂きますという前に、このような言霊を唱えてから食事をとると、今目の前にある食べ物が、貴重で有難いものだということを感じながら食べることができます。
「食」という字は「人を良くする」と書きます。
さまざまなイノチがあなたのイノチとなってふきかえられ、いろんないのちの代表者となったあなたが、この世で責任を持って、よりよく生き、生かされていくのです。
美味しい食事をいただきます!
この食事は心の栄養にはなっても
身体のお肉にはなりません
美味しいものをいただくときで、ダイエットしたい時に最適な言葉です
怖れるな!
人はときに不安や恐怖、心配で身動きが取れなくなってしまうことがあります
怖れは、まず自分の心の中に巣をつくり、そしてじわじわと蝕んでいきます。
そうなると、本来あるべき自分の力が出しにくくなります。
こんなときは、はっきりくっきりと自分の心に命じましょう
「恐れるな!」
とてもシンプルで短い言葉ですが、心の中心からスパッと剣が出て、怖れという闇を切ってくれるパワフルな言霊です。
できる やれる 必ずそうなる!
叶えたい望みに対して、力強く言い切って前進力を高めます。
不安が沸き上がったり、地震がなくなったり、やる気が失せそうになったときにもつかえます。
私は、私が心地よく暮らすための時間を
つくることを自分に許します
自分のことは一番気になるくせに、なぜか自分のことは後回しです。
そして、いつのまにかストレスがチリのようになり、気が付いたときには、心も体も重たくなってしまいます。
そんな自分に気づいたら、この言霊
顕在意識を通して、自分自身が心地よい時間を過ごすことを、内側の自分に語りかけて、許してあげることで、自信を持って、その時間を自分のために使うことができます。
私は最高のパートナーと出逢いました
この恵みに感謝します
あなたにとって理想のパートナーをイメージしてみてください。
イメージができたら、その特徴を紙に何十個でも書きだしてみましょう。
そして、その人が隣にいる自分を思い描いてから、この言霊を唱えます。
自分のイメージに近づくように、心と言葉と行動をそろえておきます。
私は本来の姿になり
輝く健康体であふれています
ありがとうございます
私たちは本来、心魂体ともにパーフェクトな存在です。
もともとあるがままの姿、本来の形に戻ると、私たちのボディも必然と健康体で溢れるようになります。
まずは自分の病んでいる部分に、気遣えなくてごめんね、ありがとう、と言ってから、内なる自分に聞いて、この言霊を使いましょう。
心も体も健康でいること、毎日を快適に過ごすことは、あなたにとって素晴らしい贈り物です。
私は最高で完璧な人生を歩んでいます
すべての恵みを祝福します
あなたが今、ここに、こうしているということ
それは天からの大いなる祝福であり、あなた自体が恵の表れなのです。
あなたはあなたの自由意思によって、どんな人生も選び取ることができます。
どんな航路を歩むにせよ、あなたが真にいる場所は光の中であり、闇は幻影の一部に過ぎません。
あなたは光、あなたは愛
すべては美しく完璧に運ばれます。
終わりに
はい、というわけで。
皆さんがよくやってるような「自己啓発セミナー」の記事になります。
末期じゃなければ、
これで、皆さん大分、不幸成分取り除かれるかなと思います。