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古代日本はユダヤの歴史だった!ユダヤ人が日本列島に5回渡来してきた衝撃の歴史的事実

画像は金沢大学の「図1 縄文時代から現代に至るまでの日本人ゲノムの変遷」です。

日本には古来、渡来人が来ていますが、この渡来人が中国や韓国ではなくてモンゴロイドユダヤ人ではないか。

というか、ほぼユダヤ人という根拠しかない話があります。

しかし、高校の教科書には近代史は間違いなく世界の覇権を握っていた「ロスチャイルド」というワードが絶対書かれません。

同様に「ユダヤ人」というワードも出てきません。

そして、古事記日本書紀に登場する秦氏系の竹内宿禰(すくね)という人物はユダヤ系の渡来人です。

秦の始皇帝ユダヤ人です。

トランプ大統領の義理の息子であるジャレッド・クシュナーもユダヤ人だったりと、ユダヤ人は権力に結びついているものの陰に徹する数の少ない勢力でした。

このようにGHQ洗脳教育を受けた日本人は幼少期の頃から、日本のルーツ歴史を学ぶ機会を奪われまして日本人は民族意識と歴史の重要性を全く理解しておりません。

日本人の知的水準は「アウストラロピテクス→縄文→弥生→大化の改新」で終わっているはずです。

これは、やばい。

日本人が日本という国を知らないというのは、自分という存在・家系などすべてを放棄・認識していないということになります。

これはあなたが日本「国民」であることを蔑ろにしている行為でもあります。

そんな理想はいいんですけど、知らないというのはどうなのでしょう。

問題が少なくともあると思いますので、当ブログで取り上げていきたいと思います。

ユダヤ人迫害がなかった日本は楽園

ユダヤ人の歴史は迫害の歴史でありあらゆるところで虐げられていましたが、日本という国は、ユダヤ人迫害がなかった非常に世界でも稀な国でした。

ユダヤ人にとって日本こそ楽園だったのですが、それは彼らの神(ヤハウェ)を裏切っていることにもなっていました。

他の国々へ行った人たちはユダヤ教を唯一絶対の教えと信じてがんばっているわけですから、日本に同化して、名前も地位も土地ももらって、混血の子供も育ててそこで一生過ごすようになり、3代もすると完全に日本人化してしまいます。

それは裏切り行為になるので、彼らはあえてそこには触れません。

日本に来たユダヤ人については世界に向かっては建前上語れないわけです。

日本に来たユダヤ人たちから見ると「この国に来て本当に良かった。素晴らしかった」という思いになります。

だから彼らは天皇にもずっと協力的にふるまいます。しかし、外国のユダヤ人たちには伝えていない。だから、このような事実が知られなかったわけです。

ユダヤ人渡来5つの波

古代において日本に来た外国人と言えば、中国や朝鮮半島など東アジアからの来訪者と考えられています。

しかし、正倉院に残される西欧の様々な宝物をどう考えるか。また、中国大陸の人々は海を渡ろうとはしませんし、石器時代の遺跡の分布からわかるように、朝鮮半島には元々人がいなかったということも大事な視点になります。

それに、ユダヤ人には移動をしなければならない理由がありました。

縄文から弥生時代にかかる紀元前13世紀以降に、彼らは初めて日本に矢って気、日本神話に出てくる天照大御神といった人々(神々)と交流を開始します。

日本列島に本来の日本人、すなわち縄文人がいたところに、ユダヤ人たちが入ってきて同化していきます。

主はあなたとあなたが立てた王とを携えて、あなたもあなたの先祖も知らない国に移されるであろう。木や石で作ったほかの神々にあなたは仕えるであろう。旧約聖書申命記』第28章36節

木や石でつくった神様とは、日本の古神道を思い出させます。

日本では神様のことを柱と呼び、ご神木も各地にあります。

石というのはまさに磐座のことです。

「あなたの先祖も知らない国」とは日本だったということです。

モーセ五書』というのは、モーセが書いたとは思えず、その弟子たちが書いたものとされますが、紀元前13世紀、少なくともその頃もうすでに、ユダヤ人たちは世界に散っていったという話が残っているわけです。

日本という遠い地へ行った同胞たちの記憶をこの『申命記』に書いたのだろうと思われます。

また、免疫のない人は簡単にウイルスにやられてしまいます。

一度感染して自然免疫ができると強くなります。

マヤ、アンデス文明の人々は日本人と同じモンゴロイドですが、16世kにスペイン人がもたらしたウイルスで大勢の人が亡くなりました。

しかし、日本には定期的に大陸系の遺伝子が少しずつ入ってきていたので、免疫力を強化していったことで生き残ったともいえるのです。

では、これからユダヤ教とはそもそも何なのかと

ユダヤ人渡来、5つの波についてを説明していきます。

ユダヤ教とは

「砂漠的風土に発生した宗教」の代表的なものが、ユダヤ教キリスト教イスラム教です。

ユダヤ教から分かれてキリスト教が成立し、のちにイスラム教が成立しますが、キリスト教ユダヤ教の『聖書』を『旧約聖書』と名付けて、イスラム教は神の啓示を記した「啓典」の一つとして、それぞれ取り入れています。

これら3つの砂漠的風土に生まれた宗教にとっては、ユダヤ教の『聖書』は最初の神の預言書・啓示の書なのです。

ユダヤ教古代オリエント文明時代(紀元前4000~同4世紀頃)の末期に発生した世界最古級の宗教です。

ユダヤ人の民族宗教であり、現在のユダヤ教人口は1500万人といわれています。

ユダヤ人だけれどもユダヤ教徒ではない人もいますから、ユダヤ人=ユダヤ教徒というわけではありません。

ただ、日常生活と密接に結びついた民俗宗教ですので、ユダヤ教徒ユダヤ人の家庭に生まれれれば、誰もがユダヤ教の信仰に基づいたユダヤ人として生活を送ることになります。

ユダヤ教には、ユダヤ人は唯一絶対の神ヤハウェから選ばれた特別の民であり、神から与えられた律法を厳格に守って生きることで救済が約束されている民だという選民思想があります。

この、ユダヤ人は唯一の神に選ばれた唯一の民であるとする信仰に、ユダヤ教ユダヤ人の民族宗教である根本の理由があります。

ユダヤ教は、エジプトを出てからの民族的な苦難の歴史を通して形成されていきます。

その過程で救世主(メシア)出現への信仰が生まれ、パレスチナの地に定着してから、エルサレム神殿を中心とする信仰教団が形作られます。

イスラエルが紀元前1世紀にローマに征服されて以降、ユダヤ教内部の対立からイエスの教えに従うユダヤ教徒が出現するようになります。

彼らはやがてユダヤ教から離れてキリスト教を形成していきますが、ユダヤ人国家が滅亡したため、ユダヤ教パレスチナの地を出たユダヤ人とともに、ローマ帝国内に分散的に広がります。

以後ユダヤ教は、祖国を失って世界各地に離散したユダヤ人の間で代々伝えられて現在に至っています。

ユダヤ人とは、元来は古代イスラエル(十二士族の連合体)の一部族であるユダ族をいったものですが、広くはイスラエルの民を総称してユダヤ民族としています。

狭くは、紀元前1000年ごろの統一イスラエル王国分裂後の、北イスラエルて王国に対する南ユダ王国の住民を呼ぶ場合があります。

また、紀元前6世紀にバビロニアに大量移住させられた「バビロン捕囚」の後に、旧南ユダ王国の地に住んだ民を呼ぶ場合があります。

また、ヘブライ人ともイスラエル人とも呼ばれました。

歴史的にはセム族の中の、古代オリエント遊牧民アラム族の一派とされています。

ユダヤ教は、唯一の神の啓示を受けた唯一の民族がたどった歴史と不可分のものです。

ユダヤ教聖典

ユダヤ教聖典には『聖書』『ミシュナ』『タムルード』があります。

その中で正典とされるのが『聖書』です。

ユダヤ教の『聖書』は紀元前4世紀までに書かれたヘブライ語アラム語の文書群で構成されています。

キリスト教の『旧約聖書』も同じ内容のものですが、キリスト教の『旧約聖書』とは収録書・配列が多少異なります。

キリスト教の『旧約聖書』は、このユダヤ教の『聖書』を自分たちの正典の一部としたものです。

キリスト教会は、福音書や使途の書簡などをキリストによる新しい契約の書、つまり『新約聖書』としてまとめるようになります。

そして2世紀末頃から、ユダヤ教の『聖書』をイエス・キリストの出現を預言した緩い契約の書、つまり『旧約聖書』と名付けて、両者の区別をはかったのです。

『聖書』は、創造主からのメッセージを「預言者(言葉を預かる者)が霊感で受信して、言葉に書き留めた文書を1冊にまとめたものです。

「旧約」とは「(万物の創造主が与えた)古い契約」という意味です。

片方から一方的に与えられるという点で、双方の合意を条件とする人間社会の契約とは異なりますが、いったん与えたら「与えた側も決して変更しない約束」という点では同じなので、あえて契約と呼ばれます。

創造主が与えた法(律法)を守って生きれば幸福(物質的)を与えるという約束です。

旧約聖書は「万物の創造主が、被造物たる人間に与えたメッセージを集めたもの」で、

キリスト教ユダヤ教の大きな違いは「新約聖書」とイエス・キリストを認めていないことがあげられます。

創主からのメッセージは霊感として与えられ「啓示」と呼ばれます。

感知できるのは「預言者」といわれる霊感豊かな人だけです。

旧約聖書は39巻の文書から構成されています。

その第一節は「モーゼ五書」と呼ばれるグループになります

「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」の五文書のことで、その著者が預言者モーセです。

また、これは「律法の書」ともいわれます。

律法とは「創主の命令」のことで、創主の命令がこの五書の中にはたくさん書かれています。

成文律法(トーラー)は絶対に変更不可能な神聖な文書なので、現実の状況に適合する規定を作り出すためには、成文律法の解釈のほかに、成文律法と直接関係のない広範囲な権威に基づく決定が必要でした。

そのため、成文律法と同じ神聖な権威を持つものとしたのが『ミシュナ』の口伝律法です。

『ミシュナ』をめぐってユダヤ人律法学者が数百年積み重ねた議論を集大成したのが『タルムード』です。タルムードはヘブライ語で「学習」を意味します。

十戒」は律法の代表格です。

「ラビのユダヤ教」の伝統的戒律を文字通り遵守するのが正統派です。

「ラビのユダヤ教」で一貫しているのは「賢者が預言者を凌駕する」つまり「賢者が神の霊感を受けたメッセージを解釈し、それを民族の生活へと生かしていく」というユダヤ教の伝統です。

この「神→預言者→解釈者」の構図はほかの宗教にもみられるもので日本の神道にも「神→巫女→サニワ」があります。

パレスチナ移住、エジプト移住、エジプト脱出

モーゼ五書の「創世記」「出エジプト記」を実際の歴史時代にあてはめるとおよそ次のように描くことができます。

紀元前1600~同1500年ごろ、中東各地の城壁で囲まれた小さな古代都市国家が散在していた時代のことです。

その頃のパレスチナの地にさまざまな遊牧民が雑居していました。

この地中海に面した肥沃な土地には、アラビアの荒野から移住してくる人々が後を絶ちませんでした。

早くは遊牧生活を捨てて定住し農耕を始めたアモリ人がいました。

また、人口過剰のメソポタミアの地から移住してきたアラム人がいました。

このアラム人移住者たちはへブル人あるいはヘブライ人(移動者の意味ともいう)と呼ばれましたが、その中にカルデアのウルからやって来たアブラハムに率いられる一団がありました。

彼らは羊の群れを追い、天幕(テント)もって各地を移動する遊牧商人でした。

『聖書』では、アブラハムは彼の子孫にカナンの地(パレスチナ)を与えるという神の約束を受けた(アブラハム契約)としています。

このアブラハムパレスチナ移住がユダヤ民族の始まりとされてます。

そのためアブラハムユダヤ民族の父といわれます。

やがてアブラハムの息子イサクが一団のリーダーとなりましたが、イサクの子のエサウヤコブにいさかいが起こります。

そして、ヤコブエサウの嫉妬が原因で家を追われ、メソポタミアの縁者に身を寄せて生活することになりました。

ヤコブは神の命によってイスラエルという名を与えられ、一族の長であることを告げられます。

『聖書』では、このヤコブの十二人の息子がイスラエル十二士族の祖先とされます。

やがてヤコブつまりイスラエルは独立して遊牧商人の一団のリーダーとなり、パレスチナに帰ります。

パレスチナに帰って間もなく飢饉が起こり、イスラエルは一団を率いてエジプトへ移住します。

当時のエジプトは遊牧民ヒクソスというセム族系の「ヒクソス王朝」の時代(紀元前17世紀半ば~同16世紀半ば)でした。

そのため、エジプトの王朝は同じセム族系民族のイスラエルたちには好意的でした。

しかしまもなくヒクソス王朝が倒れ、再びエジプト人の支配の時代がやってきました。すると、しだいにイスラエルたちの立場は悪いものとなっていきました。

そうした民族受難の状況の中で、王の宮廷で育てられ、エジプト高官となったユダヤ人モーゼが、民族の英雄として登場します。

モーゼは厳しい苦役に追い立て同胞をムチ打つエジプト人の労役監督者をふとしたことから殺害してしまい、すべての地位を捨てて砂漠の流浪の生活を送ることになります。

モーゼはその砂漠生活の中で神の啓示を受け、民族の復興に目覚めました。

そして民族解放運動の先頭に立ち、やがて父祖伝来のパレスチナの地を目指すイスラエルの民脱出の計画を成功に導いたのでした。

時に紀元前1227年頃のことだったといわれています。

モーゼを介した律法の授与

モーゼに率いられたイスラエルの民は、紅海でエジプト軍の追跡から奇跡的に救われたのち、シナイ半島シナイ山ヤハウェ(エホバ)と呼ばれる神と契約を結びました(シナイ契約)。

この契約基づき、ヤハウェイスラエルの民の唯一の神となり、イスラエルの民は神の選民となりました。

このシナイ契約を確認するために、モーゼを仲介者として律法(トーラー)が与えられました。

この律法は、民族的・宗教的共同体として成立したイスラエルの民の生き方を決定する基本法となりました。

これがいわゆる「十戒」と呼ばれるもので、唯一神偶像崇拝禁止、日曜日、殺人、姦淫、盗み、偽証、貪欲などを戒めたものです。

この律法授与の形は、原始的な部族の男子が成人として認められるようになるための通過儀礼と酷似しているといわれています。

王国の建設と滅亡による離散

エジプト脱出がモーゼの指導で遂行された後、イスラエルの民は約40年間シナイ半島の地にとどまりましたが、やがて約束の地カナン(パレスチナ)への器官がモーゼの後継者ヨシュアの指導で実現しました(紀元前1250~同1020年頃)。

こうして、イスラエル人はカナンに侵入して「約束の地」に定着したのです。

社会が発展するにつれて、部族連合的な支配携帯が変革され、立憲君主政体を採用して王国(イスラエル統一王国ともいう)が建てられ、王サウルが初の王となります。(紀元前1000年頃)

しかし、まもなく他部族との戦いに敗北してしまいます。

次にユダ族のダビデが王になると(紀元前1000年頃~同961年)、イスラエルはシリア・パレスチナ全域にまたがる大帝国となり、エルサレムを首都に定めました。

次にダビデの子ソロモンが王となり(紀元前961~同922年)、エルサレムのシオンの丘に神殿を建立します。

これに対してヤハウェダビデ家をイスラエルの支配者として選び、シオンをヤハウェの名を置く唯一の場所に定める約束をした、と理化されています(ダビデの契約)。

ここから、メシア(原義「即位に際して油を注がれた王」)が、世の終わりにダビデ家の子孫から現れるという期待と、エルサレム(シオン)を最も重要な聖地とする信仰が生じました。

ソロモンの次の代に王国は、南のユダ王国と北のイスラエル王国に分裂します。

そしてイスラエル十部族によって建設された北イスラエル王国は、紀元前722年にアッシリアに滅ぼされ、王国の民は世界に離散していく先々の国民に同化し、消え去ってしまったといわれています。

一方、イスラエル二部族(ユダ族とべ二アミン族)によって建設された南のユダ王国も、紀元前586年にバビロニアに滅ぼされ、人々が捕囚としてバビロニアに連れ去られることによって同じ消滅の危険に遭遇しました。

しかし、彼らは消滅することなく、十部族とは異なる運命を辿ることになっていきます。

その後、バビロニアはペルシアに征服され、彼らはペルシアによって捕囚を解かれました(紀元前536年)。

そして、一部はエルサレムに帰還し、一部はペルシアに残って故地とは異なった土地で生活する中で、民族として生き残りました。

エルサレムに帰還した者たちによって、紀元前520年に第二神殿が建設され、この時点でユダヤ教が成立したとみられています。

そして紀元前400年頃にモーゼ五書が確定します。

パレスチナは紀元前63年にローマ帝国の征服によって直轄支配地となります。

紀元前37~同4年の間はヘロデを大王としてパレスチナ統治権が与えられますが、ヘロデ大王の死後、パレスチナは再びローマ帝国の直轄地となります。

紀元41年にアグリッパ1世を大王として統治権を与えられますが、死後は再びローマ帝国の直轄地となります。

ローマ帝国の直轄支配が長らく続き、66年にユダヤ人は反乱を起こしますが、70年、ローマ軍に鎮圧されてエルサレムは陥落し、神殿は焼き払われてしまいます(第一次ユダヤ戦争)。

以後、ローマ軍が常駐する支配の中で、1世紀末にヘブライ語『聖書』が正典化されます。

そして132~135年にユダヤ人は再び反乱を起こしますが、ローマ軍の猛攻撃によってエルサレムはついに廃墟と化してしまいます(第二次ユダヤ戦争)。

ローマ帝国は「改宗しない者は死刑に処す」とし、エルサレムの名を廃して「アエリア・カピトリナ」と改めます。

こうしてすべてのユダヤ人がエルサレムの地から追放され、世界各地へと離散することを余儀なくされたのです。

現代のユダヤ

祖国を失った以後のユダヤ人は、ディアスポラ(離散民)と呼ばれました。

ディアスポラユダヤ人は、周辺地域の情勢に応じて各地を転々と移り住みました。

5世紀初めまではガリラヤ地方(現在のイスラエル北部地域とヨルダンの一部)がディアスポラユダヤ人の中心地でしたが、以後10世紀まではバビロニアが中心でした。

11世紀になりますと、イスラム教圏のスペイン・北アフリカと、キリスト教圏のヨーロッパが、二つの大きな中心地となります。

前者のユダヤ人をスファラディー系、後者のユダヤ人をアシュケナジー系と呼んでいます。

西ヨーロッパでは、第一回十字軍遠征(1096~99年)を契機にユダヤ人迫害が始まり、西ヨーロッパにいたユダヤ人は大挙にして東ヨーロッパへ逃亡しました。

以後20世紀前半まで、東ヨーロッパがアシュケナジーユダヤ人の中心となりました。

一方、スペインがキリスト教化したことによって、スファラディー系ユダヤ人は15世紀末にスペインを追放され、中東各地に移住して現在に至ります。

アメリカへ大量移民したユダヤ人の大部分がアシュケナジーユダヤ人です。

1948年に現在のイスラエル国家が建国されましたが、国民はこの2つの系統のユダヤ人で構成されています。

エルサレム神殿

第34回 イスラエル・エルサレム編 「聖地の生活」 | 窓から ...

エルサレムは上の画像でいうとこの辺になります。

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こちらがエルサレム神殿の模型図、適当に引っ張ってきました。

異教徒の王だったヘテロが、ソロモン神殿をなぞって設計したユダヤ教の神殿で「第2神殿」とも呼ばれます。

建物はイエス・キリストタツ刑を象徴する「T型十字架」をしています。

ソロモン神殿は、エルサレム攻囲戦(紀元前587年)に破壊されていて、第一神殿と呼ばれています。

第1波:縄文時代の日本文明とユダヤ人の出エジプト(紀元前3000年~1000年)

縄文人

縄文人の食事は肉や魚の種類が多く、山菜などのキノコや野草も豊富で貝も食べています。

貝塚はゴミ箱とか言われていますがそうではありません。

食べるものは神様だから向こう側にあるという理由で食べるときにお箸をお膳に揃えておきます。

そして、「いただきます」と拝んでから食べるのです。

自然が「神」ですから、自然が与えてくれたものはすべて「神」になります。

日本の神道の基本は太陽信仰であり、山信仰であり、木信仰であり、岩信仰である、そういうものが全部「神」ですから必ず縄を這って決壊を作ります。

「神を食べる」ということになるのでありがたいと思いながら、拝んで食べるのです。

貝塚をよく見てみると綺麗な層となっています。

ただのゴミ捨て場じゃないことがわかります。

集落は、台地の端にありますが、まず真ん中に広場を作ります。

ここでお祭りをしたり、お墓も中央に作ります。

そして、その周りを囲むように竪穴式住居を作り、その外側に貝塚を作っています。

その形状には「自然から頂いたものを自然にお返しする」という意味合いがあります。

弥生時代の吉野ケ里遺跡の復元をみると、周囲を防壁と堀で囲まれ、物見やぐらが立っています。

そういう観点からみると縄文時代三内丸山遺跡には壁がありません。

竪穴式住居は二世代・三世代が一緒に暮らすにはちょうどいい大きさで、覚醒代が一つの屋根に下で暮らすことによって、しっかりとした上下関係が生まれます。

そんな戦争のない縄文時代は1万年以上続きました。

共に暮らすことで、父母に対する尊敬というものがおのずから生まれてきます。

だから日本では「長い」という言葉が大事になります。

社長、部長、村長、このような「役割」があることによって秩序ができているといっていいでしょう。

神道とは

神道」という語それ自体は日本本来の言葉ではなく、古代において中国から借用した漢語です。

日本書紀」「古事記」「風土記」「万葉集」などといった神道古典にも「神道」という語を見出すことはできません。

同族間の間では阿吽の呼吸で分かることも多く、いちいち言葉などは必要としなったこともあり、わざわざ「神道」という語を使う必要がなかったといえます。

自然と人間を区別しない精神性

古代に儒教道教や仏教が伝えられる以前から日本にあった土着の信仰に基づく儀礼・生活習慣などを総合して、一般的に神道と呼びます。

日本には八百万神がいるといわれるほど、たくさんの神々が人々に信仰されてきました。

神々には自然神、土地神、国家神、職業神から生活にかかわる神々に至るまで多種多様なものがあります。

地域ごと、季節ごとに神々を迎えて行われる各種の祭りは、いまなお全国各地で行われており、日本人の生活と歴史の中で重要な役割を果たしています。

日本最古の書物『古事記』(712年)や日本最初の国史(720年)には、古くから日本の神々についての記述が神話伝承の形をとって収録されています。

そこにはおおきく3つの特徴がみられます。

1「かつて木や草が人間と同じように話した時代があった」とされていること。

木の葉や枝が風に吹かれる音、川が流れる音、虫の声など、自然が発する音を人間の言葉と同じように意味あるものとして聞いていた時代があったことを示しています

2神々の多くが、さまざまな自然物や自然現象や自然景観を本体としていて、しかも人間と同じように名前を持って呼ばれ、人間同様に扱われていること。樹木や草花、鳥や動物、川の水の流れやその深み、海の渦潮や波、岩石や土地や山や谷や森、嵐や雨や霧、月や太陽や星など

古事記』では、たとえば花の神を「木の花咲くや比売(このはなさくやひめ)」と、讃岐の国(今の香川県)を「飯依彦(いいよりひこ)」、阿波の国(今の徳島県)を「オオゲツヒメ」など、いずれも人名をつけて呼んでいます。

花や川や土地も、人間と同じに人格を持った存在と見なす意識があったことを物語っています。

3太陽の光に感応して妊娠したとか、蛇と接して妊娠したとか、風に吹かれて妊娠したとか、つまり人間が相手ではなく、自然に触れて子供をはらんだという話が多々見られること。

自然界から人間生命の「原素」がもたらされる、という観念があったものといえます。

こうした精神性は通常「自然を神と感じた時代」のものとされます。

しかし、神々はカミ(神)とかミコト(命)とか尊称をもって表現されているものの、人間とはっきり区別がつけられているとはいえません。

自然を神として人間から区別する自然信仰よりもさらに古い、自然と人間とを区別することがなかった時代、自然と人間を同一次元で対等なものとみなした時代の精神性にまで届くものです。

これは、自然と自分を同一視する意識といえます。

現代日本人の信仰には、自然と人間を区別しない自然信仰以前の要素が強くみられ、ここが日本人の信仰を理解する上で、きわめて重要なところです。

神道の底流としての自然信仰

自然信仰は、自然と人間との違いを感じ取った時からはじまります。

あらゆる自然物も人間と同じようにそれぞれ意思を持っているという感じ方から、どうもそうではないらしいという感じ方が芽生えたときから、自然に対して「おそれ、かしこむ心」(畏怖する心)が生まれます。

たとえば、川が氾濫するのは川が怒っていることだから、川を叱ってやめさせたり、あるいは宥めておとなしくさせたりすればいい、そうやって川と親しい付き合いをしていけば、川が怒ることはないという感じ方が、自然信仰以前の人々の者です。

一方、川の意志はは人間の意志とは違うようだ、人間の意志の力ではどうにもならないすごい力のようだ、人間もこの意志の管理下にある、という感じ方から自然信仰が生まれていきます。

自然と人間の分離感覚が、あらゆる「生死」をコントロールする力が自然にあるという考え方を生み出し、生と死の区別の意識、精神と物質、精神と肉体、言葉と物の区別の意識を生み出します。

農耕生産の開始とともに、こうした意識が強まっていくものと考えられています。

農耕の発展に伴って人工の力が生活面に与える効果が次第に大きくなっていくと、人々の自然からの分離意識が加速されていきます。

たとえば、太陽神は全自然に活力を与える太陽それ自体の性格から、稲の生育に大きな力を果たす神というように位置付けが変わっていきます。

川の神や水の神は農耕水利の神に重ねられ、山の神は春に平地に降りてきて田の神となり、秋の収穫を終えると再び山に帰って山の神になる、という循環する性格を帯びています。

また生と死についていえば、稲作では田植え期の生命の息吹の状態からだんだん成長していって、収穫期に死の時を迎える、というように農耕生産の循環に重ねて考えられるようになっていきます。

「モノを鎮めてカミとして祀る信仰」

自然と未分離な意識をベースに、やがて特定の山、岡、森などを、神々が寄り集まる場所とする意識が生成していきます。

その場所は地域の中でもとくに自然威力の集中する場所として考えられました。

こうして、特定の場所で神々を迎えるための祭りが行われるようになっていきます。

初期には神々が降臨するとされる森や山それ自体が神域であり、建築物としての神殿も拝殿もありませんでした。

山中にある磐座(いわくら)あるいは磐境と呼ばれる特定の岩石などに神が降臨するとされ、その前で祭りを行ったのが古い形です。

やがて神域には直接足を踏み入れずに、山や森の入り口に常設の拝殿を設け、そこから山や森に宿る神を拝むようになっていきます。

さらにのちには、その拝殿を神殿とするようになり、神殿を拝む拝殿が付設されるようになり、現在の神社の一般的な形が整いました。

民俗学者・国文学者の折口信夫は、定住生活が持続するところから、やがては自らが家に住むようにして、神々にもしだいに住居(神社)を与えていくようになったのだと推測しています。

これが神社建築の起源といえます。

こうして日本人は、魂には2つの性格があると考えるようになりました。

1つは常に生成、変化、流動し、一所不在にさすらう性格のもので、この状態の魂が一般にモノ(精霊)と呼ばれます。

魂はそういう性格を持ちながら、一方では人々の願いに応じて一定の場所に集中して常在する性格をもつものとも考えられ、この状態を魂をカミ(神)と呼んだのだと思われます。

そこで「日本の神道の核心は、モノを(歓待し)鎮めてカミとして祀るところにある」ということができます。

鎮めるとは平静・平安な状態にさせることを意味します。

そこに日本の祭りの意義があります。

キリスト教に代表される普遍宗教は、自然から人間を主体として分離させ、その主体をどこまでも鈍化していった先に唯一の主体である創造主(唯一神)を打ち立てました。

そうすることで、基本的にモノ信仰を「悪魔崇拝」として否定・排除する方向を辿りました。

それに対して日本の神道(神社信仰)は、浮遊するモノを否定するのではなく、聖なるものとして丁重に鎮め祀り奉仕することによって、自らに幸いをもたらすカミへと転移するという宗教意識を獲得したのです。

ことのほか清浄を好むところにあり、とくに無色・無味・無臭な清潔感を好みます。

汚れを嫌い、派手な色を嫌い、強い臭いを嫌い、大声を嫌い、およそオドロオドロしいものや刺激の強いものは「慎みがない」と嫌います。

静けさをことのほか好み、また一種、潔癖症といえるほど漂白好きな宗教性だという言い方をしてみてもいいでしょう。

東南アジアや韓国など、アジア各地のアニミズムシャーマニズムが、祭事で豚や牛や鳥などの動物を殺害し、その血で大地を清めたりするのが一般的であることからすれば、日本の神道は同じ背景を持つにしても、およそ特異なものだといわなくてはなりません。

このように清浄を好む日本の神道の性格は、執拗に汚れや罪を払おうとする意識のあり方や紙の到来を持つ物忌みの習俗などにすぐれて現れているといえます。

鹿島神殿が一番古い神社説

鹿島神宮 - Wikipedia

茨城県鹿嶋市宮中にある神社

普通の神社は鳥居から入ると、本殿が一番奥にありますが、この神社は、西に鳥居があって、そこから長い参道が一本東へ向かっています。

しかも参道をずっとまっすぐ、神社の外に出て海の方へ進んでいくと、高天原という地名が現れます。

一般的な神社は南向きか東向きで、参拝者が南側化東側に立ちますが、

この神社は、本殿が北を向いています。

本堂が中心でなければ、何をお祀りしていたのかというと太陽です。

参道の先に太陽があり、お天道さまの日の出を拝むということで鹿島神社は始まっています。

よくみると本殿の後ろには大木がありますから鹿島神社は太陽と木でできています。

これがおそらく日本の神社の原型ではないかと一説にあります。

ユダヤ人が作ったとする「日本人ユダヤ人同祖論」がありますが、当ブログでは、ユダヤ人が渡来する前からこの神社があることから、ユダヤ人が日本と同化したのではないかという説をとっています。

第1波:出エジプトスサノオ

縄文時代といえば、神話では天照大御神(以下、アマテラス)やスサノオミコト(以下、スサノオ)が、高天原で活躍していた時代です。

スサノオは暴力性、衝動性に突出していて、和を尊ぶ他の神々と全く違います。

乱暴狼藉の末に、高天原の神々から干されて葦原中国(日本列島)へ追放されてしまいます。

スサノオはアマテラスの弟」という設定にはなっていますが、もっと何か違う人物なのではないかと感じます。

スサノオという人物とその一族が、日本に来た最初のユダヤ人グループといえます。

天津神/国津神という神の分け方があります。

天津神高天原系、国津神は出雲系の神々ということですが、スサノオ国津神の方にいます。

スサノオは元々天津神だったのが、高天原から葦原中国(日本列島)に追放されて国津神になった、という設定です。

そして、高天原系というのは縄文時代の有力者たちが、東日本に作った日高見国の人々ではないかと考えます。

イザナギから生まれたとされる三人の神(三貴子)がいますね。

アマテラス、スサノオツクヨミミコト(以下、ツクヨミ)という3人です。

このうち、スサノオとアマテラスの二人が対立し、全く違う性格を持っています。

スサノオは他の神々とは実に対照的で善悪二元論の「悪」として描かれます。

スサノオは徹底的に日本社会における異物として扱われているわけです

あまりに言うことを聞かず泣いてばかりいるため、父であるイザナギからも追放され、姉のアマテラスに会いたいといって高天原に行くわけです。

ところがアマテラスは「弟スサノオがこのちを奪いにやって来るに違いない」と疑い、男装して戦う準備をします。

頭には「みずら」を束ね、左右の手には勾玉を巻き付け、背中には千本の矢が入るユギを背負って弓を振り立てて勇ましい叫びとともに迎えます。

その後、二人は「誓約」という形で勝負を行い、スサノオの件からは宗方三女神が、アマテラスの勾玉からは天忍穂耳命をはじめとする5柱の男神が誕生し、事は一件落着と思いきや、スサノオはアマテラスに勝ったといわんばかりに、暴れまくります。

馬の皮はいで屋根の上からぶん投げたり、農地や田んぼを破壊したり、糞で戸を塗りたくったりと、明らかに縄文的ではない遊牧民的な乱暴狼藉を行います。

神道ではこれらを「天つ罪(八の大罪)」といいます。

最終的にはこの騒動に責任を感じたアマテラスは「天の岩屋戸」にお隠れになります。

スサノオはその後、高天原から追放されるわけですけれども、そのまま出雲へ行き、そこでヤマタノオロチと戦って勝つというストーリとなるのです。

出雲の神、出雲大社の御祭神は、因幡の白兎を助けたことで有名な大国主神(以下大国主)ですが、それ以前にスサノオがお染めていたということになります。

大国主はもっと後の時代、少なくともスサノオよりも6世代後であると『記紀』に書いてあります。

出雲国が国譲りをするまでは、ユダヤ系を中心とした渡来人が、出雲を中心に活躍していたことになります。

出エジプトから荒野の40年

ところで、スサノオの一族が出雲に渡来した時期というのが『旧約聖書』に出てくる「出エジプト」のタイミングに重なります。

ユダヤ人は元々ヘブライ人と言い、始祖をアブラハムといいます。

羊を飼う遊牧民の長で、今のイラクのあたりから西に移動していきます。

その子ヤコブ、そしてイサクと続きますが省略します。

いろいろあってこの一族は最終的にエジプトに住むこととなり、異民族として迫害を受けます。

紀元前13世紀頃にヤハウェという神がモーセという男にお告げをします。

この預言者モーセが、仲間たちを引き連れてエジプトを脱出、カナンの地(現在のイスラエル周辺)に行きます。

これが「出エジプト」の物語です。

この逃避行は40年かかり、途中で石板を授かったり、海が割れたりする有名なエピソードがあります。

カナンに辿り着いた後も、先住民との長い戦いを経て、ようやく紀元前10世紀頃に「ヘブライ王国イスラエル王国)」を建てました。

初代サウル王、そしてダビデ王、その子であるソロモン王の時代には大繁栄をします。

出エジプト」の途中でヤハウェ神から授かった「十戒」の石板には十か条のおきてが書いてありその1か条目にこうあります。

私は主、あなた方の神、あなた方をエジプトの国、奴隷の家から導いた神である。私以外のものを祀ったり、神として仕えてはならない。(『出エジプト記』20章1節)

これが「一神教」です。

エジプトを出て40年、そのさまよっていた時点で将来、「あなたを散らす」つまり、ユダヤ人たちが各国に離散していくことが書かれているのです。

ですので、このタイミングで日本に来ているということが予想できます。

それが、日本の神話における高天原時代のスサノオだと一説にあります。

日本とユダヤの「三種の神器

日本には「勾玉」というのは1万年前からありましたが、

天皇家のレガシアでシンボルといえば「八咫鏡」「草薙剣」「八尺瓊勾玉」の三種の神器になります。

天孫族皇位継承に不可欠で、「伊勢神宮」の内宮に、屋がの鏡がアマテラスの御神体として鎮座し、草薙剣が愛知県の「熱田神宮」に鎮座するとされています。

八尺瓊勾玉は一般的に「御所」の剣じの間に草薙剣と一緒に安置されていると流布されていますが、それらはレプチカです。

対してイスラエル三種の神器があります。

神器の人が、モーセ出エジプトの際、シナイ山で2枚の石板を授かった「十戒石板」です。

モーセは前と同じ石の板を二枚切り、朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の意志の板を携えていた。旧約聖書出エジプト記第34章4節

二つ目の神器が、モーセの兄アロンの持つ杖で、一夜にしてアーモンドの蔓が杖に巻き付き花を咲かせたことから神器に加えられました。これが「アロンの杖」です。

明くる日、モーセが掟の幕屋に入っていき、見ると、レビの家のアロンの杖が芽を吹き、つぼみを付け、花を咲かせ、アーモンドの実を結んでいた 旧約聖書民数記、第17章23節

3つ目の神機が「マナの壷」です。

シナイ半島のをさまようイスラエル人に、神が与えた食べ物「マナ」を記念するため、黄金の壷が作られた。

その壷を「マナの壷」といいます。

モーセがアロンに、『壷を用意し、その中に正味一オメルのマナを入れ、それを主の御前に置き、代々にわたって蓄えておきなさい』と言うアロンは、主がモーゼに命じられたとおり、それを掟の箱の前に置いて蓄えた。出エジプト記 第16章33~34節

まずは「八咫鏡」ですが、鏡は人の真の姿を映しみる道具で閻魔大王の「閻魔協」も、人の真の姿を通し見るとされます。

実際、ウラオモテを映し見ようとする2枚の鏡で見るしかありません。これを「合わせ鏡」といいます。

十戒石板も、人の行いを十の戒め見る2枚の大理石で象徴的な意味で合わせ鏡と同じとされます。

戒めは石の片面にへブル(ヘブライ)語で彫られ、一節では八咫鏡の片面にヘブル語が彫られているといいます。

さらに磨かれた大理石は、古来「鏡石」と称されてきました。

草薙剣」は、草を薙ぎ払った剣とされ、草が剣にまとわりつく状態を指します。

アロンの杖に芽が出て蔓のように絡みついた状態との一致は偶然とは思えません。

八尺瓊勾玉」に関しては、「勾」を漢字分解すると「ム」の解字は壷の形です。

意味は「私有」で、「私は有る」となります。「包み込む」でやはり壷と同じ意味になってきます。

神はモーセに『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ 旧約聖書 出エジプト記 第3章14節

現在、イスラエル三種の神器は行方不明です。

出エジプト」に関しては『申命記』にこう書かれています。

主は、私に言われた。お前は石の板を二枚に切って山に登って私の元に来なさい。また、木の箱を一つ作りなさい。そして神の言葉を刻んだ石板をアカシヤの木で作った箱に収め、これを祀りなさい。『申命記』第10章1節

この石板には「十戒」が刻まれました。

またモーセの杖も霊力を持ち、海を二つに割って海底に道を作り、ヘブライ人たちを避難させました。

弟のアロンがこれを受け継いだので「アロンの杖」と呼ばれます。

そしてもう一つ、40年間荒野をさまよって飢えに苦しむ彼らに神が与えたのが「マナの壷」。

マナという食品が無限に出てきて食糧問題解決という、ドラえもんのポケットみたいな壷なのです。

モーセの「石板」と「マナの壷」と「アロンの杖」という、まさに「三種の神器」の起源に思えるところです。

日本には「勾玉」というものが1万年前からあります。

その勾玉が今、三種の神器の一つとして皇室にあります。

これは「偶然」では片づけられません。

どちらかが影響を受けたと考えた場合、当時の縄文人イスラエルに行くよりも、イスラエル人が渡来して縄文人に影響を与えたというのが自然となっていきます。

日本への定住を望んだ古代ユダヤ

他の宗教を拒絶し、唯一神ヤハウェだけに仕えるのがユダヤ教なのに、ユダヤ人が日本へ定住を望むことがありえるのか?

ところが、実際には、先住民である多神教の民族と混血が進んでいました。

ソロモン王が死ぬと王位継承争いと宗教対立が結びつき混乱を呼びます。

そこで、「多神教でもいいじゃないか」という戒律違反のグループ10支族が北イスラエル王国をつくり、「一神教を守ろう」と頑なななグループの2支族が南ユダ王国を作り、王国が2つに割れました。

この混乱に乗じて、今のイラクがあるあたりを統一していたアッシリアという国が攻め込んできて、北イスラエル王国を滅ぼします(紀元前722年/アッシリア捕囚)

この時にとらわれ、行方不明になったのがいわゆる「10支族」です。

イスラエルの失われた10支族といわれ、世界各地に散ったとされます。

10支族が多神教を受け入れたことは大変な重要なことで、他の民族とも帝国なく共存下でしょうし、混血もしたでしょう。

また、そのルートは不明ですが、10支族の一部が日本列島に来ている説いわゆる

日ユ同祖論」の中核部分になります。

日本では戦う必要もないし、どこかへ逃げる必要もありません。

彼らは日本の豊かな自然信仰をみて、一神教の人格神を捨てざるをえませんでした。

そして「この地こそが福音の土地だ」と心から思ったそうです。

そのことが『旧約聖書』でも書かれています

東で主をあがめ、海沿いの国々でイスラエルの神、主の名をあがめよ。

我々は地の果てから賛美の歌を聞いた。「栄光は正しい者にある」と。

しかし、わたしは言う、「わたしはやせ衰える、わたしはやせ衰える、わたしは災いだ。欺く者は欺き、欺く者は、はなはだしく欺く」

地に住む者よ、恐れと、落とし穴と、わなとはあなたの上にある。

恐れの声をのがれる者は落とし穴に陥り、落とし穴から出る者はわなに捕えられる。天の窓は開け、地の基が震い動くからである

旧約聖書 イザヤの書 24章15~18節

これは何かというと「東の果ての海沿いの国に行ったら、イスラエルの神の名を崇めなさい、そうしないとやせ衰えますよ」ということです。

イスラエルの神は人格神ですからやせ衰えるのです笑

イザヤは南王国の預言者です。一神教を守り続けた南ユダ王国は、最終的には新バビロニア王国に滅ぼされ、住民(ユダ族とべ二ヤミン族の2支族)は捕虜となり、敵の都バビロンに連行されました(紀元前586年)。

ここから半世紀の間、異国で辛酸をなめたのが「バビロン捕囚」です。

イスラエル12支族のうち10支族がアッシリア捕囚で行方不明。残り2支族がバビロン捕囚を受けたわけです。

ベニヤミン族は少数でしたので、実質的にユダ族が捕囚されていたといっていいです。

だから彼らのことを「ユダヤ人」と呼びます。

東にある海沿いの国とはまさに日本ですが、日本で「イスラエルの神を崇めよ」といったって、できません。

日本の自然や人々が素晴らしすぎて、つい忘れてしまうのです。

そうすると、イスラエルの神を裏切ることになってしまい、悩み、ついには自分がやせ衰えてしまう。つまり、ユダヤの神が「みんなが東の国へ行ってしまうと、もう自分は忘れられてしまう」と、日本に定着してしまう恐れをはっきり感じて、神が嘆いているわけです。

彼らからみたら、日本に定住してユダヤ教を忘れてしまった人は、やはり裏切り者ですが、「神」からも「もう仕方がないな」というニュアンスを感じます。

こういう聖書の言葉は預言のようにいわれますが、そうではなく、事実を記した備忘録としての一面もあります。

それにしても日本に渡来人が来たことに関してはだれも異論しないでしょうが、それが中国や朝鮮ではなく何故ユダヤ人なのでしょうか。

それは当時の彼らがディアスポラ(離散)で国を絶たれているからです。

「故郷がない」ということは人格形成にとって、とても重要なことです。

あらゆる民族は、たとえ故郷が貧しい場所でも故郷があれば帰るのです。

故郷というのは長い旅をして戻るところです。

ところが、ユダヤ人たちは「出エジプト」(紀元前13世紀)、「アッシリア捕囚」(紀元前722年)、「バビロン捕囚」(紀元前582年)、「第1次・第2次ユダヤ戦争」(135年)と、何度も、何度も、荒涼とした世界に放り出されていました。

イスラエルのカナンの地でさえも、厳密にいえば、故郷と言っていい者かどうか。

カナンという場所が神が決めた土地というだけであって彼らは最初から帰るところがないのです。

ギリシャ系、シュメール系の人々はそうではありません。

帰るところがないから、せめてもの魂のよりどころとして、神を作ったのかもしれません。

モーセの頃、つまり紀元前13世紀頃から、ユダヤ人たちは世界に散り、世界の様々な場所で生活と移動を繰り返しながら生きる中で、日本に安楽の土地を見つけた可能性は大いにあり得ることです。

第2波:日本建国の真実と失われた10支族(紀元前660年~)

第2波:失われた10支族、日本へ

第1波は「出エジプト」紀元前13世紀の時に、ユダヤの人々が日本列島にまでやってきた可能性の話をしました。

仮にこれが確定じゃなかったとしても第2波のユダヤ人渡来の可能性が高まってきます。

第2波とはユダヤ人たちにとって最初の離散の危機となった「アッシリア捕囚」(紀元前722年)や「バビロン捕囚」(紀元前586年)の時になります。

世界にい散らされたユダヤ人たちが紀元前660年までに日本に来て、日本建国に様々な影響を及ぼしていると考えます。

明治維新の時に、日本国の建国を、初代神武天皇が即位した紀元前660年2月11日と定めており、紀元節(戦後は「建国記念日」)として国民の祝日にもなっています。

しかし、その意味を学校で教えることはなく、歴史教科書でも無視していますので、おそらく9割の日本人は「建国記念」の意味を知りません。

そもそも神武天皇を歴史教科書で教えることをGHQが禁じ、これに全面協力したマルクス主義歴史学者たちがこの方針を墨守して四半世紀がたちました。

敗戦の後遺症です。

この9割の日本人が知らない日本建国にまつわる「国譲り」や「天孫降臨」の概略を、当ブログの読者に正しく理解して頂かないと、その先へ進めません。

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日本神話では神々を高天原からやって来た「天津神」の神々と、「国津神」=日本列島(葦原中国)の神々とを、はっきりわけています。

天津神というのは太陽神アマテラスの一族で、その末裔がご皇室につながるという設定ですが、問題はこの高天原です。

元々は「たかあまのはら」「たかまのはら」と読んだようですが、のちに「たかまがはら」と読むようになりました。

高天原の所在については、まったく空想だという説、ユーラシア大陸のどこかだという説などありますが、当ブログでは高天原=東日本/日高見国という仮説です。

縄文の頃から何千年もの間、東日本は「日高見国」として栄えており、アマテラスなどの神々が政治を司る「高天原」を運営したと考えます。

古事記』の最初に出てくる話、日本の「国生み神話」では、イザナギイザナミが島を作っていきます。

しかし、その島々は、なぜか西日本の島だけがつくられます。

津島とか隠岐とか小さな島を数多く作りますが、なぜか西だけなのです。

佐渡はかろうじて出てきます。

東日本には大島であるとか、北海道もありますがそれらの島を一切書いておりません。

この「国生み」を「国を発見した」あるいは「征服した」ことの比喩ではないでしょうか。

古事記」の順番でいいますと、最初はなぜか淡路島、次に、四国、隠岐島、九州、壱岐対馬佐渡島、本州、です。

かつてよくいわれたように、天津神朝鮮半島経由で九州に渡来したのなら、こういう順番にはなりません。

これはつまり「東日本の本州はもうすでに知っていること」「西日本は出雲系に取られているから、それらを取り返すため」という意味もあるのではないかと考えます。

「元々それは日本のものだ」ということをあえていうために、あの神話ができているのではないか。

その後「天孫降臨」をした彼らが、九州にいた者たちや地域を一つ一つ平定していくという話に繋がります。

国生み神話をよく読むと、高天原からやって来た男神イザナギと女神イザナミは回数を鉾でかきまぜて、その雫から「おのごろ島」をつくりました。

そこに大きな柱(アメノミハシラ)を建て、そこを拠点として「国生み」をしています。

そして最初に作ったのが淡路島です。

つまり、イザナギと・イザナミ夫婦が住む「おのごろ島」とは淡路島ではなく、淡路島にも四国にも近い別の島、ちおうことになります。

淡路島の南、船で10分のところに、「沼島」があります。

勾玉の形をした不思議な島です。

島の北、淡路島側に漁港があり、南側、太平洋側に出ると、海岸線が断崖となっており、その下の波打ち際に奇岩が立っております。

高さ約30メートルの人工物のような巨岩で「神立神岩」と呼ばれています。

太平洋からこの島に向かってきた人たちの目には、いやおうなく目に入ります。

仮にこの沼島を「おのごろ島」と考えると、この「神立上岩」が「アメノミハシラ」に相当します。

ここからさらに船を出して北の淡路島に渡り、西の四国・徳島に渡っと考えると、すべて辻褄が合います。

淡路島は未だに謎が多い場所で、国生み神話は、高天原=日高見国勢が日本列島を統一するときに、まずは西の島々を支配しようとした、という歴史的事実の反映ではないかとも思います。

特に対馬は最も朝鮮半島に近いところですから、外来に移民も多く板に違いありません。

征服された側の「国津神」、その代表が出雲大社で祀られている大国主であることは、ほぼ定説になっております。

天孫族のアマテラスが、武人のタケミカヅチの神を派遣して大国主を威圧し、出雲国を譲らせた、これが「国譲り神話」です。

ところが奇妙なのは、「国譲り」の前の話として「スサノオの出雲降臨」の話があります。

姉のアマテラスと喧嘩したスサノオ高天原を追放されて出雲に天下ります。

そこで村人を苦しめるヤマタノオロチという頭が8つある大蛇に酒を飲ませて殺し、その尻尾の中から神剣・天叢雲剣を得た、という話です。

この剣は三種の神器の一つで、今も皇位継承の際に、次の天皇に引き継がれています。

出雲は渡来人が流れつく場所で、ユダヤ人も多く入っていたと思います。

人口が増加するにつけ発展していったことでしょう。

このころ、およそ紀元節10世紀前後には、船での交通網も発達して、物品や人の移動も顕著になってきました。

また「島国としての防御体制」も考えだした頃なのだと考えられます。

西の村落の治安悪化に加え、大陸からの防御にも対応しようとしていたのです。

スサノオの子孫である大国主が出雲を統治していく話は「古事記」にもたっぷり描かれています。

東日本が寒冷化するにつれ、西に南に、人々も移動して発展していった可能性もあります。

出雲の大国主「国譲り」の話

それでは詳しくみていきましょう。

出雲の「国譲り」は、紀元前12世紀から前7世紀までの間に行われています。

前660年の天孫降臨から神武天皇の即位の時よりも前でしょう。

鹿島神宮の主神であるタケミカヅチは、アマテラスの命を受けて諸国平定に回っていたのですが、出雲への「国譲り」の交渉という大仕事を任されました。

「出雲の稲佐」の浜に降り立ったタケミカヅチは、十ツカの剣を波の上に逆さに突き立てると、その切っ先の上に胡坐(あぐら)をかいて、大国主に対して国譲りの談判を行ったという場面は名シーンです。

タケミカヅチは、武と剣の達人です。

大国主は「息子たちに聞いてくれ」と丸投げし、二人の息子、兄の事代主神(以下、コトシロヌシ)と弟のタケミナカタの神が応対するのですが、兄コトシロヌシは、あっさり降伏して姿を消してしまいます。

一方、弟タケミナカタは国譲りを拒否して抵抗した結果、怪力のタケミカヅチに手を握りつぶされて敗北し、長野県の諏訪盆地まで逃げて屈服しました。

その後、出雲の人々は諏訪へ移動させられ、国譲りが完了しました。

父の大国主はアマテラスに対し、国譲りをする代わりに巨大な神殿を建ててくれと求めました。

それが高さ48メートル(ビルでいえば17階建て)の巨大神殿です。

そんなに巨大な建物を建てたいなんていうのは、ちょっと日本人の発想とは思えませんよね。

神殿を支えていたとされる巨大な柱も、出雲大社の敷地から見つかっています(2000年に発掘)。

木の年代を測定したところ、実際に鎌倉時代までは巨大神殿が建っていたとのことです。

出雲大社の出雲の国造家が所蔵する文書によれば、鎌倉時代の宝治2(1248)年に運営(建て替え)が行われています。

遺構はこの時のものである可能性が高いです。

昭和59(1984)年には、出雲大社の近くにある荒神谷遺跡から、358本の銅剣が出てきました。

しかも不思議なことに、剣の一つひとつに「×」のマークがついていて、実に謎めいているのですが、「もう使いませんよ」という意味とも解釈できます。

大量の銅剣や銅矛が出土発見されたことにより、古代出雲国の存在は明らかになったとされていますが、研究者たちは未だにその解釈をしかねています。

この銅剣は、埋められた時期は紀元前後とされていますが、「国譲り」ではないかと考えます。

日本の青銅製の剣は、殺傷能力が低いものですから、武器としての剣というより、ある意味、祈りの対象として埋められたものだった可能性もあります。

山の神に奉納すると共に、高天原の神に対する、出雲=葦原中国服従を意味し、出雲系の人々が高天原に恭順の意を示すものだったと考えます。

諏訪大社の奇祭・御頭祭とお船祭りの謎

出雲で敗れたタケミナカタを祀るのが長野県の諏訪大社ですが、上社と下社があります。

上社は御神体が守屋山ですが、御頭祭という奇祭があり、75頭の鹿の頭(剥製)を捧げるのです。

さらに江戸時代の国学者菅江真澄の記録によれば、この祭りで少年を柱に縛り付け、神主が小刀を振り下ろす所作をしたというのです。

これは『旧約』のアブラハムが我が子イサクを神にささげたというイサクの燔祭(はんさい)にそっくりです。

イサクが捧げられたのが「モリヤの山」で、話が出来過ぎです。

それから長野県では「お船祭り」といって船を運ぶお祭りが各地に残っていますが、なぜ海もない長野で船を運ぶのか。

それはまず、彼らが日本海から信濃川千曲川)を伝って、船でこの地に入ったということがいえます。

出雲に着いた渡来人たちは、船の技術がぴか一だったのです。

また、古代には新潟平野は海だったようですし、船でのぼるのは今より楽だったと考えられます。

そして、安曇野の元祖といわれる安曇氏というのは、海神を信仰する一族です。

京都の「祇園祭」の山車(だし)も船の形をしているものがあり、祇園祭は「ノアの方舟」を模しているといえます。

祇園祭の巡航は毎年7月17日で「ノアの箱舟」がアララト山に辿り着いたのも7月17日です。

祇園とシオン」も音が似てますし、

エルサレム」をヘブライ語で「エル・シャローム

その意味は平和の都であり「平安京」です。

イスラム帝国の都だったバグダッドも、正式名はマディーナ・アッサラームで「平和の都」であり、「平安京」は世界中にあふれています。

ちなみに徳島県の剣山山頂にあります宝蔵石神社の例大祭もなぜか7月17日で、ユダヤとの関連が一部でささやかれています。

話を戻すと船祭りというのは古代史を読み解くうえで実に重要なカギとなります。

鹿島神宮香取神宮でも12年に一度の大祭で「御船祭」があります。

100隻以上の豪華な船団がタケミカヅチの神様を乗せ、利根川から出発し、対岸の香取神宮の船団と水上で出会うというお祭りです。

先頭の船などは非常に立派で、龍や鳥の姿が装飾されています。

古代の時代の船は、まさに龍や鳥だったのではないかと彷彿させます。

また、「香取」というのは「舵取り」という意味もあります。

「舵取り神社」から「香取神社」になりました。

鹿島神宮香取神社、そして息栖神社のことを「東国三社」と呼び、三社巡りの産廃をする人も多いですが、息栖神社はまさに船の神社なのです。

息栖神社は交通安全の神様で、一所に祀られている久那斗神は境界の神であり、大国主以前に出雲の先住民が祀っていたという謎の神です。

相殿神天鳥船命は「古事記」ではタケミカヅチの副神として登場します。

名前からみて艦隊司令官だったようですね。

船とユダヤ

古代地中海において、船の達人といえばフェニキア人でした。

フェニキア人とは、レバノンを拠点都市、優れた航海術を持っていた地中海の海洋民族です。

ヘロドトスの「歴史」によれば、紀元前600年頃、紅海から出港し、喜望峰を経て時計回りにアフリカ大陸を一周し、3年目にエジプトに帰って来たといいます。

のち北アフリカに移住してカルタゴを建設し、ローマの最大の敵となりました。

しかし、フェニキア人もユダヤ人と同じように、アッシリア新バビロニアに滅ぼさてしまいます。

おそらく

ユダヤ人がフェニキア人を吸収して、船で旅に出て行った可能性があります。

こちらも離散したといえます。

当時、縄文時代に、関東に渡来人がやってきたのか。

あそこは浜が多く浅瀬になっています。

日高見国があったと考えられる縄文時代前~中期は「縄文海進」の時代です。

現在より海の水位が5メートルほど高く、茨木健の霞ケ浦は今の数倍の広さの内海で「香取海」と呼ばれていました。

関東平野群馬県南部まで入り江が入り込む浅い海でした。

そういうところには船は着き易く、今みたいに大きな船ではないですので座礁することはありません。

対して九州などの西日本は岩が切り立っているところが多いです。

まさに、鹿島神社は玄関口で、高天原の本拠地である筑波山の麓あたりまでなら船で簡単に行けたと考えられます。

当時は全部小舟なので、大きな海流に乗ってしまうと瞬く間に漂流してしまいますので小さな港から小さな港へと岸伝いで船に移ります。

天孫降臨」を歴史的にひも解く

「国譲り」以降も、西国はますます収まらない状況が続いていました。

寒冷化による人の移動、大陸からの移民の増加で、西日本の人口が増えつつありました。

そこで日高見国(高天原)は九州と関西の2か所に統治者を派遣します。

アマテラスの孫の邇邇芸命(以下、二ニギ)が高天原から九州に降り(天孫降臨)、そのひ孫にあたる神武天皇(本名はイワレビコ)が大和に遠征します(東武遠征)。

大和の国(奈良盆地)にはナガスネヒコという豪族がいて抵抗しますが、イワレビコは武力でこれを滅ぼし、橿原宮で即位したのが初代神武天皇である、というのが日本の建国神話です。

二ニギの九州降臨と、ニギハヤヒの大和降臨、天孫降臨は2回あったということになります。

紀元前660年に「最初の」天孫降臨がり、二ニギは日高見国(高天原)がある茨木の島しかから九州の鹿児島へ船で渡りました。

こちらがいわゆる「記紀」にもある「筑紫の日向の高千穂峰」です。

一方、ニギハヤヒは、千葉の香取から大和(大阪、奈良)へ天降りました。

「鹿児島」という地名は茨木の「鹿島」から撮られています。

鹿島の子供(児)だから鹿児島です。

一般的には、二ニギが九州の高千穂に天から降りてくることを、天孫降臨といいますが「大和盆地にも降りた」ということが重要です。

鹿島から鹿児島へいったグループ(二ニギ)と香取から大和へ行ったグループ(ニギハヤヒ)、それぞれが共に、紀元前660年に国を形成していきます。

その時にまず、ニギハヤヒが、大和を最初に統治して「大和国」をつくりました。

九州の二ニギは天孫降臨したものの、なかなか攻めることが出来ずにいました。

4世代にかかってやっと出雲勢力が跋扈する西日本の地域へ軍勢を送ることができたのです。

こちらの神武天皇は「カムヤマトイワレビコの命」(イワレビコ)と「記紀」では呼ばれていますが、実はニギハヤヒこそ、初代の神武天皇でした。

しかも、二ニギとニギハヤヒは兄弟でした。

あまり知られていませんが、「日本書紀」と「先代旧事本紀」ではニギハヤヒがア兄、二ニギが弟であると書かれています。

天孫降臨とは、日高見国による日本統一事業の総仕上げだったと考えることができ、そして、この九州から東征した神武天皇というのは、第十代崇神天皇のことではないかと考えられます。

初代の神武天皇と第十代崇神天皇とは、「はつくにしらす すめらみこと(最初に国土を統治した天皇の意)」という同じ名前で「記紀」に書かれているからです。

つまり、大和国は2回征服されたと考えていいでしょう。

神武天皇崇神天皇、同一人物説もありますが、ここでは両者は別人説を提示します。

二人の神武天皇

二ニギは鹿児島に降り立ちました。

降り立つといっても天からではなく船で到着します。

鹿児島の錦江湾の一番奥に「天降川」という川があるのをご存じでしょうか。

地元の人は「天の川」と呼んでいますが、ここに鹿島から鹿児島への船が入ったとみていいでしょう。

そこから上っていく、霧島や高千穂峰に行けますが、川から降り立った場所には鹿児島神宮があいrます。

鹿児島神宮というのは、山幸彦を御祭神とする神社です。

山幸彦は二ニギの息子です。

「天」は「あま」と読み、「海」も「あま」と読みます。

天孫降臨とは海からやってくる人々の話です。

海から上陸した二ニギの息子・山幸彦は、兄の海幸彦から預かった釣り針を探して綿津見(海神)の国まで行き、海の女神・宝玉姫と結ばれます。

浦島太郎の竜宮伝説の原型になった話ですが、あきらかにこれは、海洋民族系の神話です。

そして、生まれた子がオシホミミ、その子が神武イワレビコです。

浦島伝説では、釣り上げた五色の亀は「亀姫(乙姫)=豊玉姫」となります。

亀姫はユダヤ人女性です。

「かごめかごめ」の歌(鶴と亀がすべった(統べった)」

亀の甲羅は六角形、カゴメ模様も六角形。鶴は日本を象徴します。

九州には二ニギ(弟)の一族が上陸し、大和はニギハヤヒ(兄)の一族が支配しました。

この2つの政権が長い間同時進行で存在指定のです。

ところがヤマトの政権でナガスネヒコ率いる出雲系=物部系が実権を握り、勝手なことをしているとわかったので、鹿児島側のイワレビコが挙兵します。

そこで「神武東征」が始まります。

イワレビコは、兄のイツセノミコトと千軍を率いて瀬戸内海の中国地方を制圧していきます。

大阪の難波に到着するまでに17年かかったとも言われています。

最終的には天孫族同士で妥協が成立し、徹底抗戦を続けるナガスネヒコニギハヤヒに斬られ、イワレビコが大和の橿原宮で即位し、天下統一を宣言する詔勅を発しました。

このイワレビコこそ二人目の神武天皇であり、第十代崇神天皇でもあるのです。

また、ニギハヤヒは二ニギに「国譲り」をしたといってもいいでしょう。

出雲の大国主の息子たちが抵抗の末に国譲りをしたように、ナガスネヒコも同じ運命を辿りました。

ニギハヤヒ天皇とイワレヒコの天皇、二人の神武天皇がいたというのは歴史学界の主流派の考えを覆します。

崇神天皇以降は、天皇を補佐する有能なユダヤ系渡来人もまた出てきますが、ユダヤ人といっても日本に住めばだいたい2,3代で日本人になってしまいます。

失われた10支族

教科書にも載ってない重要な神武天皇のお話でしたが、

この紀元前660年という時期以前に、ユダヤ人は日本にやってきているのでしょうか。

基本敵には、どちらの王に対しても配下に着いたものが渡来人系でした。

後の時代で出てくる竹内宿禰(たけうちのすくね)や秦河勝(はたのかわかつ)もそうなりますが、ユダヤ人は常に補佐する役割です。

なぜかというと基本的に少数派だから、表立っては雌雄を決して戦うことはできない人たちです。

君主の側にはユダヤ系のガイド役というのが常にいて、サルタヒコがその筆頭で、天孫降臨の時に、国津神として二ニギの道案内を買って出ています。

サルタヒコは『日本書紀』によると「鼻の長さは七あた(約1メートル26センチ)、背の長さは七尺(約2メートル20センチ)余、り、また口尻は明るく輝き、眼は八咫鏡のようで、照り輝く様子はあかかがち(ほおずきのような赤色)似ている」という異形な紙で、ほとんど「天狗」です。

それから「塩爺」という人物がいます。

この人は「日本書紀」では塩土老爺といって、海を案内する達人で、天孫降臨の際の案内もしています。

日本書紀」では、この塩爺が「東にいい土地がある」と言ったことから神武天皇は東征を決意した、ともあるくらい、重要な指南役として活躍する神です。

この神は塩釜神社宮城県塩竈市)の主祭神であることから、明らかにスサノオのように日高建国に属していた人物だと思われます。

10支族の話に繋げると、彼らは一致団結してきたわけではないようです。

今のイスラエル政治状況を見ても、彼らは派閥抗争が大好きです。

彼らは分裂するのが好きで、日本のほかにも中国の開封という街(河南省)にはユダヤ人街が残っていることが分かりますが、アジアやアフリカの各地でもいくつか10支族の証拠が見つかっています。

アフリカは、エチオピア、アジアですと、アフガニスタンやインドの北部カシミールなどにもそういったユダヤ人の痕跡があるようです。

アジアとヨーロッパをつなぐ「オアシスの道」や「草原の道」がありますが、東の絹をローマ帝国に運ぶ人たちが行き来する道で、これは主に旅と商売を生業にするユダヤ人たちが使っていたことでしょう。

ローマ人やペルシア人など、様々な国の商人がいたとしても、彼らは基本敵に戻る国がありますが、ユダヤ人だけは祖国を失っていますから、戻るという意識がありません。

第3波:秦の始皇帝からキリストの時代へ(紀元前300年~)

第3波:秦の始皇帝と徐福伝説

日本列島が弥生時代に移行した頃、中国大陸では群雄割拠の春秋戦国時代が続いていました。

七大国が抗争を繰り返す中、秦という国が紀元前221年、中華統一を成し遂げ、秦の王様だったエイセイが始皇帝を名乗ります。

この秦の王族と渡来人秦氏の関係は謎めいた伝説があります。

ユダヤ人渡来の第3波は、秦の始皇帝の命を受け、数千人の同志を引き連れて日本にやって来た「徐福」という人物によってもたらされました。

司馬遷の歴史書史記」によれば「最初の皇帝」として空前の権力を握った始皇帝でしたが自身の肉体の衰えだけは止められませんでした。

まだ中国に仏教が伝わっていない時代です。

「来世」での救済を知らない始皇帝は死を恐れ、「不老不死の霊薬」を求めます。

これに応じたのが「方士」と呼ばれる呪術医たちで、徐福はその一人でした。

徐福が「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と始皇帝に具申したところ、三千人の若い男女と技術者集団に、財宝と財産と五穀の種を持たせ、東方に向かって船出させた。三神山には着かなかったが、「平原広沢」(広い平野と湿地の土地)で王となり、秦には戻らなかった。

三神山とは、東方の絶海に浮かび千人が住むといわれる蓬莱・方丈・エイ州の3つの島です。

徐福が生まれた斉の国(現在の山東省)の海岸から東方海上に現れる蜃気楼を見てそう呼んだという説や、実在の島だという説もあります。

徐福が来日して各地に滞在していたという伝説は、青森県から鹿児島県まで20か所以上も存在します。

例えば、徐福渡来の地として名高い、和歌山県新宮市には蓬菜山と徐福の墓があり、隣市である三重県熊野市波田須町には徐福を祀る「徐福の宮」という神社があります。

そして、この波田須町では秦の時代の古銭「半両銭」も出土しているのです。

「半両銭」は全国で9か所の遺跡から合計25枚も見つかっていて、徐福らの置き土産である可能性が非常に高いです。

また、「波田須」の原語は「秦住」であり、徐福とともにいた人々=秦氏が住んでいた土地であることが想定されます。

また、10世紀の中頃、中国は南宋の時代にシャクギソという層により編纂された「魏楚六帖」という仏教書には徐福が富士山の麓にいたことが記されています。

始皇帝呂不韋漢人ではなかった

そもそも「秦」は漢人だったかという問題があります。

漢人/漢民族とは秦の次の漢王朝の時代に、様々な民族が「漢語」を共通語とすることで徐々に形成されました。

それ以前の戦国時代までは、いろんな民族が勝手に国を作っていたわけです。

秦については「西じゅうの覇者」と「史記」に書かれています。

西方の遊牧民をまとめた国だ、というわけです。

明かかに「別の人種」という認識だったのでしょう。

シルクロードの住民はモンゴロイド漢人ではなくコーカソイド(イラン人、ユダヤ人など)で、堀の深い顔たちでした。

王を支えたという人物・呂不韋ユダヤ人だったという説もあります。

始皇帝の父が敵国で人質になっていた時、これを助けて秦王に擁立したのが呂不韋という大聖人でした。

彼は自分の愛人・チョウキを始皇帝の父のお妃として差し出しましたが、彼女はその時すでに呂不韋の子を宿していたという一説が「史記」にあります。

チョウキが身ごもった呂不韋始皇帝となってしまったのです。

となると、呂不韋の出自が気になるところで呂不韋ヘブライ語系の男性名レヴィと同一であるとする説もあり、この奇妙な名前は明らかに漢人のものとは違い、ユダヤ人のものであることが推測されます。

また、呂不韋はきょう族の出身だったという説もあります。

きょう族とは、チベット高原に居住する少数民族であり、またイスラエルの失われた10支族調査機関・アミシャーブが「失われた10支族」の末裔であると主張している民族です。

1975年に設立されたアミシャーブは、インドや中国、ミャンマーなどで該当する民族を発見し、イスラエルへの帰還を果たした例もあります。

つまり、呂不韋がきょう族だとしても、その子と考えられる始皇帝はやはりユダヤ系であると考えられます。

さらに「史記」には、始皇帝の容貌についての一節があります。

「鼻が蜂のように高く、切れ長の目、鷹のように突き出た胸」と書かれており、少なくとも漢人らしくないという意図が感じ取れます。

ユダヤ人と断定できる証拠は見つかっていないのですが、少なくとも漢人ではないことがわかっています。

中華統一を成し遂げたということは、それまでの中華の常識を気にしない外部の人物が徹底的にやった可能性があります。

呂不韋の子である始皇帝には、その能力と実行力に、ほかの戦国諸侯とは隔絶した力があったと考えなければなりません。

例えば、「焚書坑儒」という新機軸の統治方法は、情報統制もやったことは象徴的です。

徹底的な情報統制と、逆らう者に対する徹底的な弾圧というのは、それ以前の中国の歴史には見られない特徴で、ある意味、一神教的な不寛容を感じます。

紀元前221年に始皇帝を名乗ると、それまでの封建制度を廃して郡県制を敷き、度量衡や文字、貨幣を統一しました。

そして、万里の長城をはじめとする巨大な公共工事を次々に行うなどして強力な中央集権国家を建てました。

西方の、ペルシア帝国やローマ帝国など中央集権国家に似た制度を一気に実現しようとしたわけです。

こうした始皇帝の背後には、始皇帝自身の考えだけでなく、配下にいた他のユダヤ人的情報網、それこそ徐福のような存在が活躍してい他に違いありません。

秦帝国はわずか15年間ほどで終わります。

カリスマ始皇帝の死とともに大反乱が発生し、群雄割拠の中から漢の劉邦が登場します。

ユダヤ人自身が王になったケースは稀で、始皇帝の失敗は教訓として彼らの間に、それこそロスチャイルド家などに残っているのかもしれません。

第4波:巨大古墳の時代 (200年~)

応神天皇の時代、弓月国からやって来た秦氏

いよいよ秦氏(はたし)の登場です。

もう神話時代ではありません。

第15代応神天皇の時代、秦氏新羅を経由して日本列島にやって来たとはっきり記録が残っています。

この年、弓月君百済からやってきた。奏上して「私は私の国の、百二十県の人民を率いてやってきました。しかし新羅人が邪魔をしているので、みな加羅国に留まっています」といった 日本書紀 全現代語訳

「県(あがた)」というのは当時の行政単位で、120県の人民というと、少なくとも1万人から2万人の規模でかなりの大所帯です。

その秦氏のリーダーが「弓月君」と称し、自分たちは秦王朝の末裔だ、と名乗ったわけです。

平安初期の貴族の名簿「新撰姓氏録」にも「秦の始皇帝の三世の孫」とはっきり書いてあります。

だから、「秦氏」と呼ばれるわけです。

秦氏が単なる渡来人ではないなら、神武天皇は秦人の王、秦氏そのものとなる。

事実、「秦」の文字を「漢字破字法」で分解すると「秦=三・人・ノ・木」となり、三神構造を象徴する名になります。

同じ構造は「ユダヤ密教」のカッバーラ(カバラ)にもあります。

カッバーラを具象化した「生命の木」は三本柱で象徴されています。

中央の柱を「均衡の柱」向かって右端を「慈悲の柱」左端を「峻厳の柱」といいます。

日本でそれを具象化したのが「三種の神器」で、これもユダヤ三種の神器と対応します。

ユダヤの地で天界の三神を解き明かしたのがイエス・キリストでした。

「彼らに父と子の聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け」新約聖書 マタイによる福音書 第28章19節

イエス・キリストは、天の父「エロヒム」御子「エホバ(ヤハウェ)」聖霊「ルーハ」と解き明かしました。

すると均衡の柱が天の父、その右の慈悲の柱が救世主イエス・キリスト、反対の峻厳の柱が聖霊となります。

そのため一神教ユダヤ教徒から異端にされ、イエス・キリスト磔刑にされます。

その時代のイエス・キリストの信者たちが、ある日、忽然と行方が分からなくなるという記録がるのです。

話を戻すと、

秦王朝ユダヤ系だとすれば、秦氏ユダヤ系になります。

「弓月国」から、大将格の弓月君という人物がおよそ2万人の大集団を率いて日本にやってきました

これが日本渡来第4波になります。

「弓月国」はシルクロード沿いの都市国家で、イリ盆地にあった国です。

現在では残念ながら中国共産党政権が占領中の「新疆ウイグル自治区」に編入されており、事由に入れません。

西へ行くと旧ソ連圏のカザフスタン、その南がキルギスです。

キルギス人はトルコ系遊牧民ですが、顔たちは日本人そっくりです。

「昔、キルギス人と日本人は兄弟だった。肉が好きなものはキルギス人となり、魚が好きなものは東に渡って日本人になった」という伝説まであるそうです。

日本書紀」によれば、秦氏が最初にやって来たのは応神天皇の父親である第十四代仲哀天皇の時で、「コウマンオウという渡来人がやって来た」とあります。

弓月国からの移民の先駆けです。

こうまん王の子は融通王とも書かれていますが、この「融通王」は「弓月君」と同音です。

仲哀天皇から移民受け入れのOKが出たので日本に行こうと思ったら、今度は新羅が邪魔をして日本に渡ることができないということになりました。

そこで応神天皇新羅に出兵し、彼らを迎え入れたと記録にあります。

応神天皇新羅に葛城氏の軍勢を送り込みました。

派遣された葛城襲津彦という人物は、第十二代景行天皇から第十六代仁徳天皇まで、計5台の天皇に仕え続けたという武内宿禰の子です。

この武内宿禰も、子孫の葛城氏も共に渡来系であり、元々日本にいたユダヤ系の一族です。

武内宿禰は、約330年間、5代の天皇に仕えたという王伝説上の忠臣で戦前にはお札の顔にもなっていました。

ところが敗戦後の教育では、そんなに長生きしたはずがないので架空の人物だとされ、教科書から消されてしまいました。

また、応神天皇のお母様は神功皇后で、応神天皇を身ごもったまま新羅を攻めたという「三韓征伐」の伝承で知られ、やはりお札の顔になっていましたが、戦後教育では消されてしまいました。

神功皇后の母は葛城高ぬか姫という方で葛城氏です。

記紀」には新羅から来た天之日矛アメノヒボコ)と呼ぶ王子が登場しますが、葛城高ぬか姫はアメノヒボコの子孫とされています。

つまり葛城氏とは、まさに大陸の血筋にあることを示唆しています。

朝鮮半島に渡った葛城襲津彦は、弓月国の民を当面は加羅伽耶)国が引き受けるよう尽力しました。

ところが、3年経っても葛城襲津彦は弓月国の民を連れて帰還することができませんでした。

そこで応神天皇はさらに強力な軍勢を加羅国に派遣し、たちまち新羅を降参させました。

こうして無事に弓月国の民を日本に招くことができたわけです。

2万人の秦氏系移民を受け入れた応神天皇

第3波の徐福の時でさえ3000人ですから、その6倍以上です。

応神天皇は後に八幡宮主祭神に祀られるわけです。

それはつまり「よくぞ受け入れて頂いた」という、彼ら弓月国の秦氏への感謝の意味が大きいといえるでしょう。そもそも八幡宮は、秦氏が創設した神社ですから。

八幡神というのは武家の神とされていますが、その起源は謎めいています。

日本にやってきて、応神天皇を神にしたことから始まっています。

八幡を「ハチマン」と呼ぶようになったのは後の時代からで、元々は「ヤハタ」と呼ばれていました。「八」という数字には「沢山」という意味があります。

つまり、八幡(ヤハタ)とは、秦(ハタ)がたくさん、またユダヤ唯一神ヤハウェ」の名前とも近いです。

平安時代以降は神仏習合が進み、八幡神八幡大菩薩となり、応神天皇がなぜか武士を守る武神になりますが、これもまた非常に重要なことです。

百済で苦境に陥っていた彼らを救ってくれたので、武神と考えたのでしょう。

そして応神天皇のために、巨大な古墳が作られました。

これは秦氏にとって大きな意味があります。

巨大古墳は秦氏が行った公共事業

5世紀は、前方後円墳が超巨大化した時代です。

特に大阪湾に面したモズ古墳群、古市古墳群が突出しています。

宮内庁が「応神天皇陵」と比定している誉田山古墳は長さが約425メートル、「仁徳天皇陵」と比定している大仙陵古墳は長さ約486メートルで日本最大、面積では世界最大の墓です。

いずれも陵墓、すなわち天皇の墓として祭祀の対象であるため、宮内庁は発掘を許可していません。

仁徳天皇陵にいたっては、その規模においては世界一巨大なお墓です。

それまでの日本人が自らそんなものをつくるのか?縄文時代の日本人は長い間、竪穴式住居でした。

元来、木の文化である日本に石の文化を持ち込んだのは渡来人たち、つまり秦氏です。

彼らが土木と建築の技術を日本に持ってきて、自分たちの技術を誇った証でしょう。

古墳時代というのは完全に技術力と資源の時代です。

巨大な石をどうやって運び、加工したのか、秦氏は土木工事を得意とする一族として、堤防をつくったり、沼地を水田に変えたり、日本の国づくりに貢献してきました。

古墳の建設は所謂積極財政、国家の公共事業だったという説があります。

当時、大阪平野は浅い海で人は住んでいませんでした。

そこに山を崩して土砂を運び、埋め立てて水はけも良くして水路を作る、ということを行いました。

盛土で人工の小山、モニュメントを築き、水田開発の事業の記念碑としたのが古墳の期限で、そこに指導者を葬るようになったという説です。

後の時代、聖徳太子の側近として有名な人物に秦河勝という人がいました。

秦氏の下で古墳の造築を担当し、埴輪を発明した氏族に「土師氏(はじし)」がいます。

土師氏の開祖は野見宿禰ですから、第1波か第2波できたユダヤ系の子孫と考えられます。

古墳の建設においては、民が強制労働をさせられたという話もよくありますがそれはマルクス主義の歴史館、階級闘争史観からきている完全な俗説です。

エジプトのピラミッドは強制労働で建設されたと考えらえてきましたが、近年の考古学調査ではピラミッド労働者の住居跡から、ちゃんと給料が出ていた記録が出てきました。

給料はワインやパンといった現物支給で、出欠簿も合って「〇〇さん、今日は二日酔いで休み」と書かれた石板も出てきました。

クフ王を恨むどころか、仕事をもらえて感謝していたわけです。主に農閑期で働いていたのでしょう。

ナイル河流域では、頻繁に洪水が起きました。

洪水が来ると畑仕事はできなくなりますから失業対策でした。

祖先信仰もあって祖先信仰は神道の思想の基本です。その情熱に火をつけて古墳を作らせたのが秦氏です。

古墳建設の際も、彼らは毎日、コメであったり衣服であったり塩であったり、報酬をちゃんと提供していました。

日本は7世紀後半から律令制度に入ったとされていますが、それ以前に秦氏は各地に派遣され、土木事業を通じてそれぞれの地域の統治者たちを結びついていたのです。

のちに荘園なども彼らが開発したものでしょう。

この時代、農業あるいは、土木建築産業の基礎ができました。

秦氏が持ち込んだ能力や技術力の背景には、大陸で培った経験という者があります。

また武内宿禰に代表されるような、側近として天皇を支える存在が常にいました。

天皇はあくまでも血筋によって天皇になられているわけで、権力や財産を持っているということとは結び付いていないわけです。

ユダヤ人は決して天皇にはなれません、あくまで補佐役として天皇を支えてきました。

武内宿禰秦河勝の姿、まさにそれになります。

古墳時代から考える変化「大建築の時代」

古墳が作られていた時代は「大建築の時代である」ということができます。

建設大手の大林組が1985年に仁徳天皇陵築造の試算をしたことがあります。

それによると工期は15年8か月、作業員数は一日当たり2000人、延べ680万7000人、総工費は資産当時の貨幣価値で約800億円というものでした。

当時の世界最高、世界最大の建築物が日本で作られていたということです。

古墳のような建築物は、縄文からの日本の伝統にはありません。

古墳においてはがっちりとした石棺を作り、遺体を保存する。

これは中東系の文化です。

これは肉体が蘇ることを意図しているわけで、縄文的な死生観ではありません。

古代エジプトは輪廻転生を信じ、乾燥気候を利用してミイラを作るわけですが、高温多湿な日本では難しいので、真っ赤な辰砂(硫化水銀・朱の原料となる鉱物)で遺体を包み保存しようとしました。

古墳のあの高い場所、円の部分の上の方に石の棺を置いて、故人が天に上って蘇るという信仰でつくっているわけです。

そういう信仰と技術が、日本に同時に外から入ってきて、それを見た日本人が驚嘆し、積極的に協力・採用しました。

秦氏、あるいは外から来た人たち、特にユダヤ系の人たちが相当な組織力と資金力を持ってやらなければできるものではありません。

それが「ヤマト王朝」の始まりといっていいでしょう。

明治維新以後、西洋文化を積極的に取り入れた日本人と似ている時代で、うまく日本化して折衷はしていますけれども、実は特異な時代です。

日本は、湿気が多く雨の多い風土です。

だから植物がよく育ち、豊かな自然環境が保たれます。

西洋を参考にした丹下健三から続く現代建築は日本だとたいてい雨漏りするようになっています。

7世紀に入ると、日本は仏教色も強くなっていきます。

法隆寺ができ、それに続いて立派な仏教的建造物がどんどんつくられると、とたんに古墳は消えていきます。

あんなものは自分たちには合わないということに気が付き誰も古墳の文化を受け継いでいこうとはしませんでした。

戦後の高度成長の土地開発では、団地や工場を建てるために破壊された古墳もたくさんあったそうです。

埴輪の起源とユダヤ人埴輪の発見

古墳の造築を担当した土師氏はユダヤ系の渡来人と考えられます。

そして重要なのは、彼らが「埴輪をつくりましょう」と提案したことです。

日本書紀にはそのことが書かれています。

当時、「首長が死ぬと、臣下があとを追って殉死する」という習慣がありました。

第11代垂仁天皇の皇后が亡くなったとき、「殉死する人間の代わりに粘土で埴輪をつくり、これを埋めましょうと土師氏が提案したところ、天皇が喜んで採用した」という埴輪紀元説話があります。

土師氏は、歴史上きわめて重要な位置にある氏族です。「土の師」と書いて「ハジ」と読みます。

土師氏がつくった素焼きの土器は「土師器」とも呼ばれます。

菅原道真の祖先ということでもあります。

土師氏そして秦氏の活躍が応神天皇の時代から始まるわけです。

埴輪は古墳の周囲あるいは上に並べられるわけですが、発掘調査によって古墳から出てくる人物埴輪のほとんどが「みずら」をつけています。

「みずら」とは、耳のところに束ねられた髪のことです。

聖徳太子肖像画の両脇に並ぶ子供の髪型といえば、分かりやすいかと思います。

「みずら」というものは、どの民族もがやるわけではなく、割礼に加え、「みずら」がユダヤ人(ユダヤ教徒)の証ともいわれます。

あなたがたのびん(みずら)の毛を切ってはならない。ひげの両端をそこなってはならない。(旧約聖書 レビ記 19章27)

「びん」とは髪の毛の左右両側のもみあげの部分です。

ユダヤ人の男たちは、髪と髭を切るな、男性器の表皮は切り取れと、異教徒と違うことを肉体的に表現しようとしました。

ユダヤ人であるということをわかりやすく主張するには、もみあげを伸ばすということです。

それを、埴輪がつくられていた時代の人たちはみんな知っていたのです。

三角帽子や長い髪も特徴的ですが、何より大事なのが、もみあげの長さです。

女性の場合には、さらにそれを編んだり、一つの装飾的なものとして着飾ることが多いわけです。

「みずら」はユダヤ人の文化と考えていいでしょう。

古事記の中ではスサノオが「みずら」をつけているとはっきり書いてあります。

また、アマテラスとスサノオの誓約の場面では、アマテラスが「みずら」を結うことによって戦う姿勢になる、いわば「武者」の姿として述べられています。

スサノオの大蛇退治の物語にも「みずら」は登場します。

戦いのシンボルとしての「みずら」があったに違いありません。

ユダヤ人埴輪」については関東だけでなく、九州や監査にもあることがわかりました。

人物埴輪が多いのはやはり関東で、千葉、群馬、茨木に多いです。

千葉の芝山古墳の人物埴輪の多くに「みずら」がつけられています。

十四代天部天皇が「みずらはやめなさい」ということをはっきりおっしゃって、その後はだれもやらなくなったようです。

日本書紀」の天部11(681)年4月に「今後、男女ともみな髪を結い上げることとし、12月30日までに上げ終わるようにせよ)という勅を出されています。

ちょうど仏教が入ってきて、古墳の造営が終わる時代です。

ここでまた大きな転換が起こっています。

また、三角形の帽子も特徴的です。

平安時代の貴族は「烏帽子」という帽子をつけていましたが起源は謎です。

第5波:蘇我氏とは、いったい何者なのか(400年~)

第5波:キリスト教ネストリウス派蘇我氏

古墳時代は仏教の普及と共に終わりました。

次は聖徳太子が活躍した飛鳥時代で、この時代に隆盛を誇ったのが、蘇我氏です。

この蘇我氏が第5波のユダヤ人になります。

4世紀初頭、ローマ皇帝コンスタンティヌス帝が出したミラノ勅令(313年)

によって、キリスト教はようやくローマ帝国公認の宗教になりました。

その100年あまり後の431年に「エフェソス公会議」と呼ばれるキリスト教の重要な会議が開かれます。

少し前の395年にローマ帝国は東西に分裂しており、この公会議東ローマ帝国のエフェソス(エーゲ海に面する都市)において、高低テオドシウス2世が招集した者です。

このエフィソス公会議は日本にとってもきわめて重要です。

ネストリウス派は異端である」と公式に認定された会議だったからです。

ネストリウス派キリスト教徒の一派で、2世紀にユダヤ戦争を起こしてローマ帝国に弾圧され離散した一部が東方へ広がる過程でキリスト教に改宗していたのがネストリウス派です。

異端とみなされたネストリウス派は国を追われ、東へ旅立ちます。

そして、シルクロード、または草原の道(ステップロード)たどり、弓月国、支那満州朝鮮半島を経て、日本までやってくるのです。

蘇我氏は「我、蘇り」と名をつけています。

それは自らネストリウス派を名乗っているようなものです。

彼らこそが蘇我氏の始祖です。

蘇我氏は日本でも力を得てくると、すでに政権に入り込んでいた葛城氏をはじめとする渡来系豪族の権力を奪いました。

天皇に巧みに接近し、自分の娘を天皇家に嫁がせ、政治を支配するようになりました。

それが、蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿と続く蘇我氏四代の時代であり、ユダヤの日本渡来第5波です。

蘇我氏は日本で「自らの宗派のキリスト教」を広めようとしました。

しかし結論から言うと失敗し、蘇我氏は滅亡します。

そこには隠された歴史があります。

まず聖徳太子はなぜ「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」と呼ばれたのか、馬小屋の前で産気づいて生まれた皇子の逸話ですが、これは福音書イエス・キリストの出生エピソードとそっくりなのです。

蘇我氏はつまり、「聖徳太子を日本のキリストにしたかった」のですが、聖徳太子はこれを拒否しました。

拒否したというより、元々彼は天皇の交代しですから心は神道です。

十七条憲法の冒頭は「和をもって貴しとなす」ですが、日本の伝統的な思想も十分に心得ており、そういった日本人の心を見事に文字化しました。

元々やまと言葉になかった抽象概念を文字化できたのは、仏教の言葉を学んだからともいえそうです。

聖徳太子は仏教を深く学び法隆寺四天王寺を建てました。

そんな中、聖徳太子が政治家として経験を積み成長していく中で、蘇我馬子の太子に対するコントロールはどんどん聞かなくなっていきました。

聖徳太子の享年は48歳です。なんと、その前日に妃もなくなります。

これは蘇我氏が后ともども暗殺したものじゃないかという説があります。

蘇我馬子聖徳太子の叔父にあたる崇峻天皇と穴穂部王子も殺しています。

蘇我馬子天皇も皇太子も殺している日本史上最大級のテロリストといってもいいでしょう。

馬子の孫の蘇我入鹿は、聖徳太子の御子息である山背大兄王をも攻め、斑鳩寺(のちの法隆寺)に逃げ込んだところを包囲して、一族もろとも自死に追いやっています。

そういうわけで、その時代の心ある中心だった中臣鎌足などの新しい勢力が、中大兄皇子をたてて蘇我入鹿を斬るという「乙巳(いっし)の片」(645年)を起こし、蘇我本宗家を滅亡させ「大化の改新」を成し遂げるのです。

蘇我本宗家の滅亡以降は、有力豪族が皇室に対してテロを企てるなどという物騒な事件はなくなります。

中大兄皇子が即位して天智天皇となり、その後に続く天武天皇の御代となります。

この時の日本はまさに「日本を取り戻す」という危機的状況にあった時代でした。

聖徳太子暗殺説」では梅原猛さんの『隠された十字架』が有名ですが、こちらは中臣氏=藤原氏が黒幕説ですし、タイトルに反してキリスト教の話は出てきません。

これに対して今回のは、蘇我氏黒幕説であり、キリスト教絡みということです。

国宝に指定されている法隆寺釈迦三尊像聖徳太子の死から1年後の623年に完成したもので、その像の背面にある光背銘には「なぜこの釈迦三尊像がつくられたのか」という理由がびっしりと書かれています。

推古天皇30(622)年2月21日に太子の后が亡くなられ、翌22日に法王すなわち聖徳太子が亡くなられた、といったことが非常に細かく書き残されています。

また、太子の死後に「殯(もがり)」が行われなかったという事実も見逃せません。

殯とは、本葬まで遺体を棺に納め、殯宮と呼ばれる臨時に仮設した宮に安置し、死者の復活を期待しながらも別れを惜しむ貴人の風習のことです。

皇族が亡くなれば長い日数で殯を行うのが通例のことでしたが、大使はその死の翌日に埋葬されたといいます。

異常な死であり、隠したいことがあったのではないか、ということさえも考えられます。

蘇我馬子に暗殺された祟峻天皇の場合も、殯を許されずに即日埋葬されています。

まるで証拠隠滅です。

聖徳太子は、蘇我馬子の娘、刀自古郎女も娶っていましたが、それほど大事にしなかったらしく、それも馬子に恨まれた一因であろうと推測されています。

蘇我氏ユダヤ的であるとする理由

蘇我氏は日本人にはない暴力性と排他性を持ち合わせています。

旧約聖書」を読むとわかりますが、ユダヤ人というのは非常に積極的に戦争支援を行う性質を持っています。

そして、砂漠の民あるいはノマド、つまり遊牧民の必然ですけれども、日本と比べると異質なほど暗殺が多いのです。

蘇我馬子は祟峻天皇を暗殺しましたが、馬子に命令されて殺害を実行したのは東漢駒という男です。

「漢(あや)」という氏からわかるように、漢民族系渡来人です。

事後には証拠隠滅という感じで、その男は蘇我氏に殺されてしまいます。

確かに中国人も暴力的なのだけれども、ある意味使われているわけです。

ユダヤ的な暴力性はもう少し知性的に、頭を使い策略をめぐらすものです。

国家を転覆させるような思考は、基本的に中国人は持っていません。

例えばマルクスを使って社会主義を作り革命を起こす。

そういうことが、いわゆるユダヤの暴力性の特徴です。

戦争では常に負けてはいるのだけれども、暴力的なものに臆さず戦う強い精神と組織力があることが分かります。

そして、秦氏は土師氏にみられるような商人的な能力、あるいは石工たるフリーメイソンの歴史で語られるような積極的な技術力やアイディアがあります。

こうしたダイナミックな能力は、中国や韓国・朝鮮にはあまり見られません。

蘇我氏飛鳥寺をつくりました。

法隆寺も彼らが金を出しているはずです。

秦氏だけではなく蘇我氏も建築を率先してやっています。

そうしたことができるのは、まずユダヤ人以外には考えられないということがあるのです。

ただ、蘇我氏は自らの一神教を強引に押し付けるということまでは必ずしもしていません。

日本人には向かないということをちゃんと計算していやっています。

そういう判断力もまた中国人や朝鮮人には見られないところです。

また内部分裂と派閥抗争もユダヤ人のお家芸なので、秦氏蘇我氏の内紛もその一端です。

結局、秦氏の方が利口で、うまく生き残りました。

渡来の歴史をみてあらためて考察

日本人のDNA

DNA官邸において日本人のD2遺伝子がユダヤ人に近いといわれています。

これが中国人や韓国・朝鮮人のDNAと大きな違いです。

父方を辿れるY染色体遺伝子のお話で、D2系統は震いモンゴロイドの遺伝子で縄文人チベット人に強く発現します。

これに対して中国人や韓国・朝鮮人は新しいモンゴロイドで、O2系統という遺伝子です。

ユダヤ人を含む中東の諸民族はE系統に属します。

このE系統と縄文のD2系統の起源をたどると、約7万年前に東アフリカにすんでいた男性に起こった遺伝子の突然変異に行きつきます。

この変異をYAP遺伝子といい、アラブ人やチベット人もこれを共有していますが、日本人とユダヤ人がこれを共有しているのは事実です。

ただ蘇我氏の時代、7世紀頃の人々がユダヤ系の顔をしていたかといえば、必ずしもそうではなかったでしょう。

世代が3代経てば、顔も変わります。

日本人的な顔になったりするわけです。

渡来人も結婚相手が土着日本人となればミックスされていきます。

もはや日本人全員が混血であることも、DNA鑑定で明らかです。

最新の核ゲノムの分析では、弥生時代には縄文系が60%で大陸系が40%でしたが、古墳時代には縄文系が20%を切ります。

古墳時代に大陸から日本列島へ大規模な人の移動が起こったことがわかります。

ところが「西洋人あるいは中東人的風貌が残されている( ;∀;)」が伎楽のお面や、仏像の中の男性的なきょう侍像の姿になったりしているのです。

鼻が異様に高いなど、日本人離れしている顔のお面が、法隆寺東大寺などには沢山残されています。

それは中央の釈迦像、菩薩像の平面的な顔たちとは対照的です。

鬼の面、天狗の面も平均的日本人の顔と比べれば「異形」です。

日本には古代の頃より、外国の地が入ってきていて、日本人は特に差別をせず旅人には寛大であり、外国人も3代も経てば、日本と同化していきます。

高天原系神社と秦氏系神社

平安京の建設用地を提供した秦氏は、

彼らの地元である太秦を中心に八坂神社、伏見稲荷退社、松尾大社などを創建していきました。

この時代は仏教界で最長と空海密教という新たな思想をもたらしましたが、神道界でも秦氏が新たな運動を起こしています。

八幡神社と、赤い鳥居の稲荷神社をどんどん作っていきました。

いま全国におよそ8~11万社ある神社のうち、八幡神社は4万社、稲荷神社は3万社もあるようです。

神社の鳥居の価値もよく見ると、日本古来のスタイルである「高天原系の神明鳥居」と7,8世紀以降の「秦氏系明神鳥居」でしっかり分かれます。

伊勢神宮などの素朴でシンプルなスタイルが「高天原系」でやはりや稲荷神社にみられる赤くてゴージャスな鳥居は「秦氏系」と大雑把に言えばそうなります。

高天原系神社(画像は、高天彦神社)

高天彦神社 | 御所市

八幡神社

八幡神社 | 埼玉県の神社

稲荷神社

稲荷神社 - Wikipedia

秦氏系明星鳥居」だと、ところどころユダヤ教と類似する建物の印象があったりしますが、今回は割愛します。

観光する際に、それを探してみるのもいいでしょう。

秦氏の正体は、原始キリスト教徒の末裔

広隆寺の境内(現在は境内の外にある)には、「イサライ」の名を持つ井戸があり、平安時代に書かれた「源氏物語・松風の巻」にもその名が登場します。

佐伯博士は、イサライイスラエルが変じたものという見方をしています。

「大酒神社」といえば、京都三大奇祭である「牛祭」が行われた所として知られ、明治以降は広隆寺が10月10日にそれを行います。

奇抜な面をつけたマタラ神が牛に乗り、赤鬼と青鬼を先導して広隆寺西門から出て業説をします。

マタラ神のいでたちは、白衣装束に紙をたらした冠をかぶり、頭巾にはなぜか北斗七星を乗せています。

この日本に馴染みのない神は、山門の前を通って東門より境内に戻りますが、その後、薬師堂の前に置かれた祭壇を牛に乗って3周半します。

これが日本に伝わる「三行半(みくだりはん)」とされ、祭壇に登って、左右に2引きの鬼を伴い妙な発音の言葉で祭文を読み始めます。

その間、祭りの世話役や大勢の見物人から、罵詈雑言が浴びせられ、最後は祭壇から薬師堂に向かって一目散に駆け込んで終わりとなります。

研究者の間では、祭文はヘブライ語で、行事全体の意味はユダヤ人が犠牲を神に供えた名残と考えらています。

人類史上、犠牲でもっとも有名なのはイエス・キリスト磔刑です。

「犠」を漢字分解すると「牛・我・羊」で「牲」の「牛・生」と一緒にすると、ユダヤの神殿で使われた生きた牛の代わりに我は羊なりを磔刑にした意味になります。

旧約聖書』は、イエス・キリストをメシアとし、人類救済のために自らを犠牲にささげた仲保者と記し、今も世界の約3分の1の人々がそれを信じています。

そうすると、「牛祭り」には確かに思わぬ一面が見えてきます。

イエス・キリスト磔刑の現場がそのまま再現されているからです。

氏子を含む一同から罵声を浴びせられるマタラ神は、ユダヤの人々から罵声を浴びせられたイエス・キリストそのもので、伴う2匹の鬼はゴルゴダの丘で一緒に十字架にかけられた二人の罪人となります。

折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った」マタイによる福音書 第27章38~41節

さらに言えば、北斗七星は北極星を意味し、「伊勢神宮」では太一とされて不動の星を示しています。

そこでも稚児が乗る船は竿の周囲を3回り半します。

船の導き星でもある北極星は「唯一」の絶対神である天照大神の正体もイエス・キリストとなります。

なぜなら、大僻神社ではイエス・キリストをマタラ神として表し、大僻神社は秦河勝と共に天照大神を祭っているからです。

同じ太秦秦氏が創建した「蛍の杜(木嶋坐天照大御魂神社)」が京都にあります。

ここには珍しい三本足の鳥居「三柱鳥居」が池の中に立っています。

木嶋坐天照御魂神社】日本唯一の三柱鳥居がある木嶋神社(蚕の社 ...

その池を「元糺すの池」といい、意味は「悔い改めの池」です。

悔い改めとはバプテスマ(洗礼)のことです。

エスが、ガリラヤからヨルダン川ヨハネのところへ来られた。彼からバプテスマを受けるためである。 マタイによる福音書 第3章13節

「柱」は古代イスラエル人の神を象徴で、神道も神を柱で象徴する。

だから「人柱」などの言葉が使われますが、三本柱だと、イエス・キリストが天界の謎を解き明かしました、天の父、御子、聖霊を示すことになります。

つまり秦氏キリスト教徒だったことになるのです。

ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をべテル(神の家)と名付けた 創世記第28章18節

彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい マタイによる福音書 第28章19節

ならば、秦氏は佐伯博士が最初のころに述べたように、6世紀の中国まで伝道に来ていたネストリス派のクリスチャンかというと、時代的な計算が合いません。

秦氏については、魏が邪馬台国を記した『魏志倭人伝』が入っている「東夷伝」の「韓伝(魏志韓伝)」に「秦人」の名で登場し、朝鮮半島に移住してきた「柵外の者」の意味で記しています。

これが記された3世紀前半には、ネストリウス派は中国になく、東方に伝道するきっかけとなる「カルケドン公会議(451年)」すら始まっていません。

このことから、秦氏イエス・キリストから話を聞いた「原始キリスト教徒」の末裔だった可能性が出てきます。

佐伯博士も晩年「秦氏ネストリウス派」を撤回し、「秦氏=原始キリスト教徒」に変更しています。

終わりに

日本の歴史の「建国記」

私たちが学ばなければならない日本の根幹部分、GHQ洗脳教育によりごっそり学ぶ機会を失った私たちの洗脳を一つとくための記事にもなります。

GHQ歴史教育の範囲ですと、頑張って勉強しても視野が2000年分。つまり、「ユダヤ」「国際銀行家」という世界を動かしている重要なワードが欠けているので何がどうなったのかよくわからない歴史しか知らないわけですが、

この記事を読めば、

日本の歴史の視野が四次元的に4000年分広くなったことでしょう。

特に現代日本人は「科学信者」だったり「貨幣奴隷」だったりしますが、

このような小さい枠組みの思想から脱し、より大きく視野を拡がっていくきっかけになればと思います。

もっというと縄文人の起源を辿っていくととんでもない視野を手に入れ、もはや覚醒状態になるかもしれませんが、これはまた別の記事でやれればなと思います。

引用:

ユダヤ民VSヤハウェの民NIPPON

ユダヤと皇族家の極秘情報と闇の権力

ユダヤ教の誕生

日本人として学んでおきたい世界の宗教

日本とユダヤの古代史&世界史

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