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神はいるし、霊もいる、魂もある。生命の仕組みと人間の役割とは? オカルトを無視してきた「エゴ」現代社会は歴史上最底辺の文明である

こんにちは、さっちゃ~んです。

「生命エネルギー」には重さがあるという研究結果が出ているにもかかわらず、全く表に出てくることはありません。

科学とは聞こえはいいですが、権力者の都合によって表沙汰にするか、無視したりして、結局、皆様が一般的に知っている科学は、だいたい偽科学だったり都合のいい科学だったりひどく限定的な範囲で行われているマニアの世界であることがほとんどです。

今回は、

科学に興味ない奴ほど「オカルト」だとあざ笑うであろう

神の分野「生命」について突っ込んでいきます。

【ワイの臨死体験】死んだらどうなるのか、実は明らかになっているという話 ~死後の世界の真実~ - 働いたら負け

過去に、死後の世界についてと湯川博士の理論を紹介しましたが、

今回はもっと色んな書籍を読んで集めてきました。

科学は使えないとはいうものの、似非科学信者の読者の皆様はある程度「理屈」を説明しないと納得いかないかと思われますので、もってきました。

この記事で大分、宗教的に言うと生きるということが「ラク」になるのではないかなと思います。

それでは、いきます。

日本では、魂にも重さがあることを調べ、生体(肉体)と魂(生命)の関係を調べていた科学者がいました。

生命科学者の川田薫理学博士です。

川田博士は、まず鉱物などから人工的に「生体」を創り、そして「生命」の観察をしました。

おそらく人間で初めて「生命体」(生きている存在)を創った人で、神の分野に踏み込むことに成功した人です。

川田博士の研究結果をみてみましょう。

川田生命論

生命はどのように地球に誕生したのか

「自分とは何か」これを突き詰めればつまり、生命とは何かということになります。

これを考えるにあたってまず地球上に生命が生まれる条件とは、いったいどういうものなのでしょうか。

生命体というのはこの地球上で発生したのだといわれています。

するとそれ以前の、地球ができた初期には、生命体といわれるものは一切ない無機物だけということになります。

つまり、地球にはもともと大陸があって、海があって、同時に大気があって、太陽の光がさんさんと照っていた。その大陸、海、大気、光という4つの系の相互作用で、生命が発生したと考えられるわけです。

これが実験の大前提となった仮説になります。

岩石を観察してみた

では、それらがどうやって相互作用したのでしょうか。

まず大陸と海の相互作用です。

しかし、一口に大陸や海といっても、その構成要素はどれも非常に複雑です。

大陸というのは基本的に岩石でできています。

岩石にはいろいろな種類の石があります。

この石の組成を調べると非常に複雑です。

それから、海は水でできていますが、この海水というのもいろいろなものが溶けているのでまた複雑です。

このように大陸と海は複雑なもの同士ですがその相互作用を何とか実証できないかと川田博士は考えました。

岩石というのは様々な鉱物の集合体です。

なので、まず岩石を持ってきて、岩石を構成している鉱物を抽出してみました。

この岩石というのものには、場所によっていろいろな種類があります。

まず大地の表層にあって大陸をつくっている代表的な岩石は御影石、つまり花崗岩です。

世界中どこでも、地球上の大陸を構成しているのは基本的に花崗岩です。

次に大陸の下の層について、大陸の横には海があります。

海の底にある層を海底層といい、子の海底層は大陸の下までずっと潜り込んでいます。

では海底層をつくっている代表的な岩石はというと、玄武岩です。

富士山に代表されるような石で、さらにこの海底層の下にあるのは、マントルというところです。

このマントルを創っている主な岩石はかいらん岩といい、その中に含まれる鉱物をオリビンといいます。

まとめますと、上から花崗岩玄武岩→かいらん岩、この3つが代表的な岩石ということになります。

これらはそれぞれどういう性質があるのでしょうか、実験してみます。

はじめに各岩石を酸で溶かして溶液にし、それを水の中に入れて分散させます。

そしてできた溶液にはどのような性質があるかを調べてみると以下のことが分かりました。

大陸の花崗岩から抽出した溶液には「生理活性」がありました。

生理活性というのは、植物や動物に飲ませたり与えたりすると、非常に元気になるという性質のことです。

海底岩にある玄武岩から抽出した溶液には、界面活性の性質がありました。

水は通常、油のようなものを溶かし込みませんがこの玄武岩の溶液と一緒にしますと、ある種の油は簡単に水に溶けてしまいました。

海底層の下のマントルを作っているかいらん岩から抽出した溶液には、玄武岩とは全く逆で、溶けているものを分祀します。つまり、水をきれいにする、浄化する働きを持っていました。

実験の結果、3つの岩石にはそれぞれ異なる性質があることが分かりました。

続いて、この3つが異なる性質になる原因を調べました。

構成する元素についても調べましたが3つの岩石の元素の構成にはほとんど差はありませんでした。

つまり、元素をみても、なぜ花崗岩が生理活性になったり、玄武岩があり種の界面活性になったり、マントルの物質が水を浄化するのか、それがわかりませんでした。

川田博士は次に、鉱物に着目しました。

鉱物が小さくなった超微粒子がいったどのくらいの大きさなのかを電子顕微鏡で調べます。

3つの岩石を溶かした溶液をそれぞれ瞬間的に凍らせて固体化し、その瞬間像を電子顕微鏡で覗きました。

それで覗いてみると、平均粒径が2ナノメートル(20オングストローム)でした。

それからこの岩石から抽出した溶液を凍らせて、氷にしたものを電子顕微鏡でよく覗いてみると、その中にミネラル、つまり鉱物が結晶として、塊で存在しているものがみえます。

その塊のサイズは大体20~30ナノメートルぐらい、一番大きいものは100ナノメートルありました。

水の中にこういうミネラル(ここでいうミネラルとは鉱物)をさっと溶かすと、水の中に綺麗に分散します。

それがパカッと割れて、分散したものが、平均2ナノメートルの粒子になったというわけです。

では、鉱物とはどういう形になっているのでしょうか。それを元素レベルまでたどってみます。

鉱物の形は、正四面体が中心になってできています。

この正四面体の中心はケイ素があります。

それから角は4つあります。この4つの角の頂点には酸素があります。これがSiO4という形です。

ここで複数ある正四面体同士が、頂点にある酸素を幾つ共有しているかで、どこにどんな元素が来るか一義的に決まります。

つまり、共有している酸素の違いが鉱物の違いになるわけです。

たとえば、輝石は、正四面体の4つある頂点の内、2個を別の正四面体と共有していることになります。2個を共有しながらつながっているんです。

雲母は3つ、石英は4つになります。

石英御影石の中にあります。

御影石には白黒やネズミ色の部分の中に、透明に見えるところがあります。その石が石英です。

ピンク色にみえる長石も4つです。

石英や長石のように4つの酸素を全部共有すると、不純物が全然ない状態になります。

もう一度言いますと、正四面体の中心には全部ケイ素「Si」がきて、四隅には全部酸素がきます。これを「SiO4」といいます。

この正四面体が骨格となって、種々の元素を身にまといながら、二次元、三次元に、つまり平面に立体にとつながっていきます。

ではこの正四面体の骨格のものが、先ほどの平均粒径2ナノメートルのミネラルの粒子の中に、どれくらい入っているのかと考えてみますと、なんと240個から250個も入っています。

たった平均粒径2ナノメートルの中に、正四面体の骨格をした原子がびっしり詰まっているんです。しかも、元素の数にして71種類もの元素が含まれています。

そして、その原子の中の約8割が表面についています。

内側にはたった2割しかありません。

中にはほんのわずかしか入っていないわけです。どういうことかといいますと、このミネラル(鉱物)のサイズは2ナノメートルと非常に小さいんですけど、表面に8割が出るから非常に活性が高くなります。

すごく活性化しますから、触媒機能が出てきます。

このことは今までほとんど知られていません。この実験で初めてわかったわけです。

別の物で話をすると、たとえば普通のアルミニウムがあります。

過程で使っているようなアルミ箔をもっともっと薄くしていくと、アルミニウムの原始が表面にどんどん出てきます。

そうなった状態では、非常に強い触媒機能ができています。

つまり、岩石から抽出したミネラルと同じで、アルミのようなものをうんと薄くして2ナノメートルにしても同じ性質を持つようになるわけです。

水は四面体が離合集散していた

次は海水について調べてみます。

ふつうの水にはいろいろなものが溶けていますので、まず水に溶けているものを全部排除して超純水にしました。

その超純水も同じように、瞬間的にぱっと凍らせて氷にし、この氷の構造をみました。

そうすると、これもミネラルと同じで平均粒径2ナノメートルになりました。

水の場合は正四面体ではなくてちょっと歪みます。

歪んだ正四面体です。

ミズノ分子式は「H2O」です。

ミネラルでは角に酸素があったのですが、水の場合は中心にきます。

つまり中心に酸素Oがあり、角のうちの二か所に水素(H2)となります。

すると残った2つの角には何が来るかというと、酸素の電子がくるのです。

水素はプラスです。一方酸素の電子はマイナスです。

それで四面体全体としては中性になります。

この四面体構造のものが240個~250個集まって、ミネラルと同じ2ナノメートルになっています。

この2ナノメートルの塊は、実はそれ単体で安定しているわけではありません。

これがすぐに合体して、平均粒径20から30ナノメートルの大きさの塊ができます。

するとそれがさらに合体して、平均粒径が100ナノメートルの塊になります。

つまり、水は、平均粒径100ナノメートルの中に20~30ナノメートルの二次粒子があって、その中にさらに2ナノメートルの粒子がつまっている、という構造になっています。

しかも、この塊ができて、大きくなったかと思うと、今度はパッとバラバラになります。

そしてそれがさらにバラバラになります。

このように水は絶えず離合集散しています。これが水の実態なのです。

たとえば、300ミリリットルのペットボトルがあるとします。

この容器いっぱいに水をどんどん詰め込んで、その中に「H2O」の粒がどれくらいつまっているのかを計算すると、実は平均12~13%、いくら詰め込んでも15%にしかなりません。

つまり、あとの85~87%というのは、何もありません。空間だということになります。私たちの芽にはちゃんと見えている水という液体が、「H2O」の粒でみるとほんの数十パーセントで、あとは空間でしかない。

不思議なことに、ほとんど隙間だらけなわけです。

私たちが水だと思っているものは、その87%ぐらいの空間の中を絶えず12~13%しかないH2Oが離合集散している状態の物だというわけです。

つまり四面体の構造をしたものが集まって2ナノメートルになり、それから20~30ナノメートルになってと空間の中を動いているわけです。

しかも、もっとすごいのは、この2~3ナノメートルという本当に小さなサイズのものが、実は人間の石とコミュニケーションするのです。

このことは水だけではなく、ものを1なナノメートルとか2ナノメートルに薄くしたときも同じです。

そうすると人間の意識とコミュニケーションが始まります。

ですから、人間が思った通の変化が出てくるのです。

水や鉱物は人の意思がわかる

生命が地球に発生する条件というのは、大陸、海、空気、太陽の光の四元素の相互作用に違いない、というお話をしました。

このうちの大陸と海の相互作用とは何かを考えるために大陸や水のことを調べました。

水といっても、海水にはミネラルが溶け込んでいます。

ですから、今度は水とミネラルの相互作用が始まると、どういうことが起こるのかを調べます。

普通の水をみると、大体100ナノメートルの大きな玉が入道雲のようにもやっとしている状態が見えます。

そのもやっとしているものが、次の瞬間には、バラバラになって粒子になって、また別のもやっとしたものを構成します。

では、そこにミネラルをポトっと落とすとどうなるでしょうか。

すると、この100ナノメートルのもやっとしていたものが、非常にシャープに固まっていきます。

固まって、凝縮してちょっと小さくなるんですけれども、平均粒径はやっぱり100ナノメートルになります。

水に対して100万分の1くらいの、非常に少ない量のミネラルをぽとっと落とすと、ランダムに不規則に動いていた水が、ぱっと二次元・三次元にきれいに並びます。

つまり平面だけじゃなくて立体方向にも並びます。

これはちゃんと電子顕微鏡で撮った写真があります。

100万分の1というのがほんのわずか、あるかないかの超微量な世界です。

ところが、そうやって水にごく微量のミネラルを入れる時には入れる人がどう思っているかによって、ある人が入れた場合はぱっと白濁してしまいますし、別な人が入れるとものすごく美味しい水に豹変してしまいます。

これはどういうことかというと、超微量の世界になると、これがまた人間の意思とコミュニケーションするということです。

コミュニケーションするから変わります。

どんなに口でいいことを言っても考えていることが悪かったりすると白濁しちゃうわけです。

こういうことが起こるから自然界っていうのは恐ろしいです。

水だけでも人間とのコミュニケーションがあるけれども、そこに超微量のミネラルを入れると、これはもうはっきりと人間の意思とコミュニケーションしているのが目に見えるわけです。

こういうことは科学の世界では全く扱われてこなかったことです。

それでこれを発表すると「そんなバカな!」というんですけど、学者はバカだっていわれてしまうから言わないだけで、じっとデータを貯めている人がけっこういます。

川田博士の場合は「100万分の1だけじゃなくて、1億分の1ミネラルを入れても、水は変わるんですよ」とはっきりと言ったんです。

そして「これがそうですよ」と言って、電子顕微鏡の写真を何枚も見せると

「いやぁ、実は、私もそういう実験をしたことがあるんですよ」という方が何人もいらっしゃったそうです。

「えっ、どういう実験ですか?」と聞いたら「100万分の1よりもうちょっと濃かったと思いますが、溶液、液体の性質が全然違うものにがらっと変わったんです。でも10万分の1ぐらいまで、かなり希釈したので、何かの間違いだろう、そんなことはありえないと思って、データは捨ててしまいました」と言います。

超微量の世界というのは恐ろしいんだ、私たちの心のコミュニケーションが始まるんだ、とういことに気が付きます。

地球にあった4つの系の相互作用をみる

ミネラルと水のことはわかりました。そこで次に、生命が誕生するにはどうすればいいか考えたら「そこに空気が溶ければいいのでは」と川口博士は、考えました。

溶けるとはいっても、生命が誕生した時の空気ですから、その組成は今と違っていたはずです。

それがどんな空気だったかは自分の頭を使ってアイデアを出すしかありませんでした。

地球ができたころ、太陽系の宇宙空間というのがほとんどが炭酸ガスと水素で充満している状態だったといわれています。

なので、地球の空気もこの炭酸ガスと水素でできていただろう、と推測します。

そこでこの2つを仮に1対1にしてみることにしました。

まず水の中にミネラルに溶かし込み、透明な液にしておきます。

そこに炭酸ガスと水素ボンベを持ってきます。

そして炭酸ガスと水素の量を1対1にし、水の中に溶け込ませます。

こうしてバブリングさせていると、溶けきれない炭酸ガスと水素が泡となって表面に出てきます。

次にここに紫外線を当てます。

これは太陽の光に当たるものです。

太陽の光化学反応を促進するためです。紫外線というのは光としてのエネルギーが非常に強いです。

水の中にミネラルが溶け込んでいる。そこに空気が溶け込む。そして、光化学反応を起こす。それぞれが相互作用するわけです。

ここで光化学反応を触媒するのが、実はミネラルです。

先ほど言いましたように、ミネラルというのは平均粒径2ナノメートルですから、触媒作用が抜群です。

大きさは小さいですが、どれだけの数の元素が光化学反応に寄与するかをみると、かなりの数になります。

さらに光化学反応で、水自身の「H2O」が水素「H」と酸素「O」に分かれます。

この水から分かれた水素以外にも、水素ボンベのガスとして水素「H」が入っています。

さらに、ここには炭酸ガスも入っています。

炭酸は「CO2」ですから、炭素「C」と酸素「O」に分かれます。

つまりこれで「C」と「H」と「O」があることになります。

理論的には「C」と「H」と「O」があったら有機物ができるわけです。

そこで実際に「C」と「H」と「O」とを光化学反応させると、ミネラルが光触媒として働いて、本当に有機物ができてしまいました。

ただし、ここでできた有機物は目に見えるものではありません。ただ水の中に溶けているだけです。

そこでこれを化学分析して「有機物がたくさんできますよ」という証明をします。

たとえば、花崗岩から抽出した溶液でこういう実験をすると、どんな有機物が発生するかといえば、アルコール類ができます。

それから輝石の仲間にカルシウムの非常に多い、特別な鉱物があります。

この鉱物から抽出した液で同じような実験をしますと、今度はにおいのある炭化水素ができます。

これは何かといえば石油の元です。

ですから「あぁ、やっぱり石油っていうのは、こうやってできるんだ」ということがよくわかります。

このようなものができてくると「じゃあ、私たちの体を作っている有機物はどうだろう?」と思いますので、それを考えていきます。

まず、地球の初期は火山活動が非常に活発だったので、火山の噴火活動で表面に出てきたのは、ほとんどが玄武岩だっただろうと予想されます。

ちなみに地球上には「玄武岩大地」という真っ平なところがよくありますが、これは火山活動の影響だと考えられています。

そういったことから、川田博士は、玄武岩という石がおそらく地球の初期に生命が誕生するときに重要な役割を果たしていたのではないかと思いました。

そこで玄武岩を粉にして、ミネラルの状態で水の中に分散させて、光化学反応させてみました。

すると、予想通り、私たちの体をつくっている重要な有機物がどんどん出てきました。

川田博士は、島津製作所というところで分析してもらいました。

その結果、できていた有機物の中に、アミノ酸もありました。

アミノ酸ができたということは、もう少し待てばこれがたんぱく質になるということです。

たんぱく質ができれば、これは生命の誕生ということになります。

アミノ酸からタンパク質になるためには何が必要か。

そのために必要だと思ったのが何億年も前の古い水素ですが、ないので、なるべく古い酸素リゾチームというものを使いました。

非常に古いですし、簡単に手に入ります。

たとえば、卵の卵白はほとんどがリゾチームでできています。

このリゾチームとミネラルを反応させると、ミネラルの作用でアミノ酸に戻ってしまいました。

ほかの有機物もできるにはできましたが、ほとんどがアミノ酸でした。

そこで川田博士は、もう一度、このアミノ酸ができた溶液にさらにリゾチームを入れて、反応させてみました。

同じようなことを何回も何回も繰り返しました。

そしてシャーレの中を顕微鏡で覗いたら、何かぽそっと小さいものが発生しました。

1ミクロンぐらいの小さいものが透明な溶液の中に発生したのです。

通常は1ミクロンくらいのものが発生すると、ブラウン運動といって激しく動くのですが、これは動きません。

しかし、二日、三日経つと緩慢に動き出します。

ほんのわずかですが、確かに動いています。

しかもさらに時間がたつと、1時間、2時間後にはまたぱっと繰り返しで実験してた隣のサンプルにも同じようなものが発生します。

そしてこれがやっぱり時間がたつと動き出すわけです。

この発生したものは、静止した状態から動き始めました。

生命体というのは、生体という体が先にできて、生命というエネルギーを後から獲得します。

必ず体が先にできて、あとからエネルギーが入って、そして生命体になる。

この実験により川口博士は確信します。

こうして、30数億年前に発生したらしい生命は、実は環境が整えば、今でも、誰でも、発生させることができるということが分かりました。

多くの科学者どう思っているかといえば「30数億年前に何らかの変化があって、生命が発生して、それが次々と進化発展して、今日の状態になっている」ということです。

つまり、進化、進化の一方通行なんです。

だけど全然そうではなかったわけです。

しかし、これを論文でまとめて発表すると、ほとんどの大学の先生方はすぐに「ブラウン運動ですよね」とおっしゃります。

「そうですか。じゃあブラウン運動って、どういう動きですか?」と聞くと「激しく動きますよね」というので、「じゃあ体と比べてどのくらい動くと思いますか?」と聞くと「いやそれは、自分では覗いてみたことがないので、わかりません」というわけです。

ですから「ブラウン運動っていうのは、たかだか自分の体の10倍ぐらいしか動けないんですよ」というんです。自分で覗いているからわかるんですね。

人間の生命の謎を解く

人間は両親がいたから生まれた、これは誰でも一緒ですよね。

人間はどうして生まれてきたんだろう?と考えたら、どう答えるでしょうか。

この生命体の研究結果を人間に置き換えてみます。

人間が誕生するには、まず両親の計らいで受胎します。

そして細胞分裂をする。この細胞分裂が続くと、今度は器官ができはじめます。

ある時期に来たら、細胞が分裂するだけはなく、ぱっと変わって分裂しながら塊を形成しはじめます。

人間の場合、たぶんこの細胞分裂から器官の形成という新しい段階に切り替わる瞬間に、エネルギーを獲得しているのだろうと、川田博士は、考えました。

このエネルギーが魂といわれるものです。

魂というエネルギーが体の中に入って、体と一体化するわけです。

そして、私たちはこの世に生まれてきます。

人間が生まれるとき、お母さんの体には母体の魂とは性質の違う、新しい魂が入ってくることになります。

おそらくこの宿った新しい魂が、母体の性質と違う時に、つわりという現象がおきます。

そして、新しい魂はお母さんの中で成長して、36週くらい経つとこの世に初めて顔を出すわけですが、この生まれてくるときに、おそらく過去のすべての記憶を消すのだろうと考えられます。

実はこのエネルギー体というのは、意思と意識を持っていると考えあっれます。

これがすごいことなんですね。

それを証明することはなかなかできませんが、川田博士いわくこれまでの実体験から言ってほぼ間違いないと考えています。

つまり、記憶があると「この人は何も知らない人だな」とか、「何でもわかってる人だよ」とか、無意識のうちにお互いを比べてしまいます。

そういうことを一切しないために、過去の記憶を全部消す、そうしないと生まれてくることができないんだろうと思います。

もしかすると、その記憶を消している段階が陣痛かもしれません。

エネルギーは生まれる前に、どの両親のところに生まれるかを自分で選んでいるはずです。

「この両親は、どういう考え方をしていて、どういう生き様で」というのが、全部わかって選択するわけです。

そうやって親を選んで生まれて、そこで人間として色々な経験をします。

魂というエネルギーは自分の性格が全てわかっています。

どういう欠点があるかもよく知っています。だから、そのくせをどう修正するかと考えます。

これを修正するために、エネルギーは肉体を求めるのだろうと思います。

なぜかというと、魂だけで肉体がないと、スタディーが非常にやりにくいからです。

私たちは「感覚」というセンサーを持っています。

この感覚というセンサーは非常に荒く、その荒いセンサーで自分の魂の欠点を修正しているわけです。

それから、私たちは生まれる前に「エネルギーを何年で修正して帰ります」ということを設定してきていると思います。

それが寿命です。

寿命というのは人が決めるのではなく、医者が決める者でもなく、自分で決めてきます。

それに、日本に生まれるのか、アメリカに生まれるのか、それとも中国に生まれるのか、自分がどこに生まれればどうなるかもわかっているわけです。

「日本人で、この両親から生まれたらこうなって」ということを、わかって選ぶわけです。

魂のエネルギーから考えていくと、子供は親を選べるけれど、親は子供を選べない、ということがわかります。

だから、親は子供が自分のところに来てくれたことに感謝する、これが親子関係の一番はじめのスタートです。それはとても大切なことですね。

では、帰っていったらどうなるのか?

帰っていくとは、つまり死です。幽体離脱といって、生きているのに魂が離れる人がいます。

「お前は生きている最中に何でそんなところまで飛ぶんだ」と思われたりしますが、実は自分を知る一つの手段としてこの経験をする人がいます。

生まれてくるというのが体に魂が入ったということなら、その入った魂が体から離れることもできるわけです。

完全に離れると、これは死です。

だから、死というのは、エネルギーからすれば終わりではなく、連続しているので、実はどうってことはありません

また、死を迎えて肉体がなくなったエネルギー体は、生きている時に魂を修正できたら、過去に生まれてきたときのエネルギーレベルに帰るのではなく、そのワンランク上のレベルにいけるわけです。こうしてレベルを上げることを「進化」といいます。

「進歩」ではありません。「進歩」というのは同じエネルギーレベルの中でトントンと階段を上がっていくことですが、エネルギーレベルはドカン、と上がりますから「進化」です。

肉体を持って進化すること、それこそが人間が生まれてくる最大の理由でしょう。

こうして生まれた目的がわかると、だれもがこの世で、同じことをしているんだということが実感できます。

隣の人も、みんな同じことをしている。だったら決して差別はできないわけです。

死の実験 エネルギーは量れる

され、そんなエネルギー実態は確信しましたが、科学にするなら、それを実際に証明するところまでやらないといけません。

川田博士は自分自身で実験することにしてみました。

私たち人間は多細胞生物ですから、細胞があって、その細胞が集まっていろんな器官ができています。

この細胞と器官が集まって、人間という個体ができるわけです。

ということは、命というエネルギーにも階層構造があると考えられます。

つまり、細胞に宿る命があり、心臓、肺、腎臓、脳など各器官に宿る命もあります。

それから細胞と器官があって人間という個体ができるのですから、個体にも宿る命がある、という具合です。

だから細胞に宿った命が量れれば一番いいのですが、細胞は非常に小さいです。

今の技術では、細胞に宿っているエネルギーを量ることは不可能でしょう。

器官も厳しいので、個体でやるしかありません。

そこでラットを使って毎日実験をしている研究所を訪ねて、5週齢のラットを5匹借りてきました。生まれてから5週間が経ったラットです。

その5匹を1匹ずつ持ってきて、致死量の麻酔を打ち、特別な密封容器に入れて、超精密天秤の上に乗せました。すると最初のラットではまず呼吸が止まり、心停止しました。

心停止と呼吸停止というのは、人間的な感覚では完全な死です。

しかし、その後、重さを量る天秤の目盛りがものすごく激しく動いて、しばらくの間は体重が減らなかったんです。

そのときの川田博士の予想は「個体に宿った命のエネルギーがあるとするなら、死んでこのエネルギーが外れれば、その分の重さがポンと軽くなるはずだ。体重を量って目盛りがストンと落ちたら、それと生きているときとの差が、命のエネルギーの重さだろう」というものでした。

そう思って実験したのに、心停止と呼吸停止という、現代の科学では完全に死といわれる状態でも、目盛りはストンと落ちないで、激しく動いていたわけです。

それから30分から40分ほど経って、やっとすーっと質量が落ちてきました。

つまり、エネルギーが外れるのは、私たちの感覚でいう死の状態から、ものすごく時間が経ってからだったんですね。

次のラットも同じでした。

心臓の動きが停止し、呼吸停止した後、天秤の重さが揺れています。

そしてその後で、最初のラットよりも早かったですが、やはり同じように体重が落ちていきました。

少し経ってすーっと重さが減ったわけです。

他の3匹は、重すぎて容器に入れると量れなかったので、容器を外してそのまま量ったのですが、この時には体重が急速に減衰して、エネルギの微小な変化は捕えられませんでした。

これは容器に入れられなかったために、体温や水分等が急速に変化したためではないかと考えられます。

川田博士はこの結果をもう少しよく確認したいと思い、さらに後日、3匹を借りてきて同じ実験をしました。

今度の実験ではまた密封容器に入れました。

すると1匹目は震動せず、一度すーっと重さが減りました。

ところが、それからまた元の重さに戻っていったんです。

「あれ?これはどうしてだろう?」と思って観察していたら、戻った体重がまたすーっと落ちました。

つまりサインカーブを描いたわけです。

二匹目も同じように、一度すーっと体重が減って、それからまた元の体重に戻り、少ししてまた減りました。

グラフで見たらやっぱりサインカーブです。

あと一匹は前回の実験と同じような減り方をしました。

それでこの実験から、命のエネルギーは量れると川田博士は確信しました。

その後、学会で1回目の実験データをみせたら、そこにいた方々が「超精密天秤の揺れだろう」というので、サインカーブの方をみせました。

これが決定的でした。

どう考えても揺れはありませんの。これがラットの死だったんですね。

これを人間に置き換えてみます。

私たちの役割が終わって、あの世へ帰っていく時に、心停止したり、呼吸停止をします。

そこで医者は「ご臨終」と言って合掌します。

家族の人はそれをみて「あぁ、死んでしまった」と思うのですが、実はこの瞬間が死ではなくまだエネルギーは離れていません。

死んですぐの状態では、体も温かいですよね。それが冷たくなっていく、それでもエネルギーのレベルで見れば、まだ生きているわけです。

お坊さんなんて、最近はすぐにいなくなります。

昔のお坊さんは、枕経といって、亡くなったらずっとそこでお経をあげて、ちゃんとあちらに帰ったか、どこへ行ったか見届けていました。今のお坊さんにはそれができなくなってしまいました。

こんなふうに、心停止、呼吸停止後でもまだまだ死んでいないというのに、今は脳死なんていうものまであります。

心停止して、体が冷たくなっていっても、それでも魂は外れていません。

しばらくたって、やっと外れていきます。それが死というものです。

こういうことが医者がきちんと知っていれば、脳死で臓器移植なんてできるのでしょうか。

臓器移植された人は非常に苦しいといいます。

免疫不全が一切起きないように、一升ストレスに耐えて生きていかなければならないからです。

それは自分と違う人の肉体が入ってくると考えれば当たり前のことです。

亡くなった人のエネルギーとともに生活していた肉体の器官は肺であれ心臓であれ、腎臓であれ、その器官、肉体で亡くなった人と一緒にスタディーをしていたんですから。

脳が死んだからといって、器官を取ってほかの体に入れたとしても、その器官はちゃんと前の体のエネルギーの記憶を持っています。

だったら、うまくいかなくて当然でしょう。

この体は借り物です。

エネルギーが外れたらこの世に返すものなんです。

ですから肉体というのは死んだら置いていかなければなりません。

それを自分の物だと思って、いい格好をして人にあげたりしたら、自分があちらの世界に帰った時に関らず「そうじゃなかった」と、自分自身に問わなくてはいけないと思います。

実験からわかった魂エネルギーの実態とは

川田博士はこの実験の時、何者かが「お前とラットの命、何が違う?」「自分で手を下さないならやってもいいのか?」なんていう何かしらの声がきこえることをそれまで想像したことすらありませんでした。

ところが、そんな体験をどんどんしていくと「自分も周りも同じことをやっているんだ。生きていくってそういうことなんだ」「同じことをやっているのに、人を軽蔑するなんて絶対いけない。困っている姿を見たら、手を差し伸べる。それが人間なんだ」といったことが、誰かに何か言われなくても、自動的にわかってきます。

すると自分の生きざま、人間性が一気に変わってきます。

今までの多くの人たちが「魂と人間の関係は」とか「生命体とはどういうものか」「生命体と非生命体の違い」と聞かれても、生命の発生した瞬間や、亡くなった瞬間を知らないのですからモゴモゴとしか言えなかったのは当然です。

しかし、女の人はおなかに生命が発生した瞬間が分かったりします。

「お腹が暖かくなった」とか「お腹が重い」なんて感じたりするわけです。

中にはお母さんを選んできて、しばらくお腹の中で生活していて、「どうもこれは自分が思ったのと違うみたいだ。ごめんなさい」ということで、ぱっと帰る命があるようです。

これが流産というものになるでしょうね。

だから、流産した人たちは必ずと言っていいほど「お腹が冷たくなっちゃった。寂しい」といいます。

それは生まれようとした魂が、間違ったと思って帰ってしまったからだと思います。

このように人間は、両親の計らいで体を得て、自分の意思で魂といわれるエネルギーを体に入れ、生まれてきて、いろいろなスタディーをして、帰っていきます。

魂は、完全球でありたいと思うけれども、なかなか完全球にはなれないということで、歪みがあります。

だからこの歪みを修正して、完全球に近づけます。

しかし一度の人生で一気に完全球にはなれません。ちょっとずつしか修正できません。

だから何度も何度も生まれてこなければダメなんでしょう。

これを仏教では輪廻といいます。

お釈迦様は「他の動物や植物に生まれ変わっちゃうよ」という言い方をしたんですけど、それは多くの人たちを導くために、分かりやすいようにわざといったんでしょう。

本当は人間は人間にしか生まれません。

なぜかというと、ほかの動物や植物と人間とでは、エネルギーレベルが全く違うからです。

お釈迦さまも本当は知っていたはずです。

じゃあ、私たち人間は、どうやって歪みを修正するのか、といいますと、歪みの修正はエネルギーだけではなかなかできません。

だから、肉体があった方がいいのです。

それで何度も生まれます。

幽体離脱した人はわかるんですが、体と一体になっていた魂が外れても、最初はこの体の形をしています。そこで球になろうとしますが、一気にはなれません。

そして戻ってくるときはちゃんと足から入って、次に体が入って、最後に頭が最後にストンと入ります。

入った瞬間に重いことが分かります。

「体ってこんなに重いんだ」と感じます。

生命論

普遍的な思いほど重い

これは1200年前に空海の『即身成仏義』という代表的な書物の中に「六大」という概念が出てきます。

すべての宇宙の成り立ちは、地・水・火・風・空という五大から成っていて、そこに「識大」が入って六大になるというのがあります。

識大とは、すなわち人間の思いや宇宙の重い、自然の思いのことです。

それは強い思いではなくて普遍的なもの、ピュアな思いほど重いです。

普遍的な思いとは、たとえば、こういうものができると本当に多くの人に喜んでもらえる、といったピュアな思いです。

普通の物質ではもうやってあるのですが、一番いいのはたぶん時計だろうと思います。

時計には、何十万円もするもの、数万円のもの、数千円のものがあります。

作り手の思いは全然違うと思いますので、これを量るのがいいかと思います。

私たちは生まれ変わりを繰り返している。過去世の対話、エネルギーを修正するクリーニングが必要

人間の本体がひずんでいてだんだん丸くなっていきます。

政木和三先生によると、本質生命体は丸ければ丸いほどよくて、その本質生命体に、第一生命体、第二生命体、などとほかの生命体がくっついています。

斜めのものなどがくっついていたらあまりよくない、というのは、結局ひずんでいたらよくない、ということと同じです。

ひずみは輪廻を繰り返しながら修正していってだんだん丸くなります。

人間には、誰でも必ず本体がちゃんといますが、多くの人は本体を分かっていません。

人間の心というのは絶えず揺れ動いていて、静止していません。

何か1つのものを与えられたら、それで満足できなくて、もっともっとという形で揺れ動きます。

神様は人間にいろいろな欲を与えたりします。

今、たまたま地球人として生まれているだけであって、その時はたんぱく質をベースにした体が必要でした。

そこにエネルギーが入って、スタートしています。そういう存在です。

そこが分かると、輪廻した自分とはなんだ、輪廻する本体は何だとなります。

輪廻を繰り返すたびにいろいろな体験をして、それが全部みぞおちの部分にストックされます。「蔵識」ですね。

それぞれの人は、金星や天王星など、地球だけなく様々な惑星生まれ変わりを繰り返してきました。

輪廻転生をする中で、どのように生きれば、今世は地上生を終わらせられるかというと、平和、調和、長い辛抱、兄弟愛、忍耐、という聖霊の賜物に生きるだけです。

そして、霊的成長を引き留めているものとは、「自我」だけなのだそうです。

これは潜在意識ともいって、表に出ませんから普段はわかりません。

この世で何かをやろうとするときに、じつは過去世でも失敗していることもあります。

そんなときは、蔵識から「そんなことをやっては駄目だよ」というシグナルが必ず出ます。

しかし、顕在意識はそれに気づかず結局失敗してあとで「ごめんなさい」となるのですが、それでは遅いのです。

そういうマイナスなことをやらないようにたえず修正する訓練が必要になります。

欲があるから、人を差別したり、ぐちゃぐちゃといろいろな経験をします。

そうやって魂を修正するようになっています。

欲も千差万別でいろいろなものがあります。

それは必要があって与えられているわけで、それぞれ意味があります。

誰もが神様と同じようにきれいな魂でありたいんですけど、なかなかそれはできません。

だったらいろいろな欲を制御してやっていきなさい、ということです。

人間は普通、顕在意識で物事を考えていますから、その欲についても振り回されています。

しかし、そのままいったんじゃダメなんです。

「自分がこうなりたいと思うことは、周りも同じように、そうなりたいと思っているに違いない」ということに、ある時ははっと気づかなきゃいけないわけです。

そのことに思いが行くと「自分だけが良ければいいとか、自分の欲だけ満たせばいいというのではダメだな」というのがわかります。

そのことを気づかせるために欲があります。

それから、人間には他人に言えないようなひどい感情もあります。

それらも全部与えられています。

それを全部綺麗に浄化しないといけません。

ですから、それを浄化する術を見つけます。

ふっと、「こうやったら魂がきれいになる」というものに気づく瞬間があります。

自分の一生を現在から10年ごとに振り返ってやっていきます。

どうやってやるかといったら、まず一日が終わって自分が寝るときに、今日は一日どうだったかな?と考えます。

それが一日どれくらいあるか数えてみると平均すると大体10個くらいあります。

こうして1日振り返って、反省して魂を修正していきます。

これを過去に遡って10年ごとにやります。

全部やるには何か月もかかりますが、これを少なくとも学生時代のころまで遡ってやると、自分の中でわーっと何かが物凄く喜びます。

この喜びがあまりに大きくて「いったいこれは何だろう?」と思うわけです

実はこれは潜在意識、蔵識の喜びです。

私たちがこの魂を得てから、現在まで、何億年経っているかわかりません。

エネルギーレベルでみれば、ほとんどの人が何億歳です。

その過去の何億歳分の記憶を全部この蔵識が覚えているわけです。

ところが覚えているということすら、私たちは気づいていないし、潜在意識や蔵識とよばれるものがあることすら知りません。「そんなこと言っちゃダメよ」なんていうメッセージがいっぱい出てきています。

でも、意識の表面には出てこないから、それに気づきません。

朝起きたときに、何かに躓いたり、手をどこかにぶつけたり、切ったりと、いろいろなことが起きたりします。

それは全部メッセージなんです。

しかし、そんなことは忙しくしているうちに忘れて、また繰り返したりします。

そうすると気が付くまでの間、もっとひどいことが与えられたりします。

誰もがいろいろなメッセージを与えられています。

だからそのたびに気づいて、修正しなきゃいけません。

でもそれがなかなかできません。

だから自分の魂をどう修正するかといったら、先ほど言ったように過去に遡ります。

遡って反省します。

「すべてに感謝し、すべてを愛し、謙虚で、すべての責任を取り、そしてすべてを楽しめる人間になること」「過去に執着せず心をゼロにすること」「自分に来る問題に恋をすること」

強く思うだけでいいです。

本人は気づいていないかもしれませんが、相手の魂はちゃんと知っています。

だから、そういうことに対してもちゃんと修正します。

そうすると、心が動きすごく喜びます。

私たちの蔵識というのは過去のすべての情報を持っていますから、せめてこの世で肉体を持った今、この世の経験だけでもいいですからそうやって修正するのです。

人との関係で、自分が揺らいで、傷ついて、怒るということがあった場合、結果が出る前にもうすでに潜在意識からシグナルが出ていて、それをやってはだめだよというのが分かっているのですが、分からないための結果として、ネガティブなことが起こります。

なので、その人に対してではなくて、起きる前に自分の中から出たはずの情報に対して

「気づかなくてごめんなさい。いつもいろいろなことを教えてくれてありがとう」とせめてその2つはちゃんと言わなければいけません。

そのように心の曇りを取ることが大切です。

人間は放っておくと、どんな人でも9割はネガティブなことを考えます。

そういうことに気づいて申し訳ないと反省し、修正する。

徹底的に修正した時に、ついに輪廻している本体が心臓の奥から、顔を出します。

すると、まだ全貌は出てこないのですが「いる」ということが分かって、すごく感動します。

そうすると次は自分の役割が何で、向こうの世界はどんな階層構造になっていて、何次元まであって、自分はどの次元の階層からここにきて、この肉体でスタートしているかが分かります。

この世に生まれて肉体を持てたというのは、ものすごくラッキーな人です。

前世でいろいろなことがあったでしょうけれども、この世でもう一回ちゃんとスタートしなおさなければいけないわけです。

ところが、差別しっぱなしで、自分のことをちゃんとやらなければ、もといたエネルギーからもっと下がったところに自分で判断してそこへ行かざる得ないのです。

エネルギーの世界の厳しさはそこにあり、自分で判定してしまうのです。

おもしろいのは、人間の今のこの社会で、人の上に立っている人のほとんどは魂レベルが落ちてしまいます。

なぜなら、魂にはマイナスなことしかやっていなからです。

今のところ多くの政治家と科学者は、真っ逆さまの無冠地獄です

魂、心のクリーニングをどんどん進めていきますと、上とか下ではなく、えらいから色々な小野を学ぶという姿勢になり、差別はしなくなります。

差別をしなくなるには、私たちはいろいろなものの境界があるから差が分かるので、教会を外してしまえばいいのです。

境界がなかったとしたら、あるけれども、存在が分からないでしょう。これを「空(くう)」といいます。

湯川博士が提唱した「素領域理論」とは

当ブログでは、過去やった「素領域理論」がありますので、これも紹介して比較しながら参照にしましょう。

まず湯川秀樹博士の紹介です。

 原子核内部において、陽子中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的に予言し、それが証明されノーベル賞を受賞します。

ただ、湯川博士は、もう一つ。

いままでの物理学を根本から否定する理論である「素領域理論」というものを展開していました。

素領域理論とは、目に見える現実世界におけるすべての物理現象だけでなく、目に見えない世界での「空間」、「愛」や「情」、「霊魂」「奇跡」「超能力」「合気」の流れが、いかにして目に見える世界の物理現象に影響を及ぼすかについて明確にメカニズムを論じることができる理論です。

つまり、物理学の理論的な枠組みの中で初めて「空間」という実在を定義することができるだけでなく「愛」や「霊魂」といった形而上学的な概念を定義することができるのが素領域理論となります。

空間や時間の微細構造としての「素領域」と仮定します。

そうすることで、素粒子の運動がニュートン以来の古典物理学ではなく、量子物理学によって記述されるという実験事実を理論的に導き出すことを可能にしました。

素領域理論において、物質の最小構成要素である電子や光子などの「素粒子」は、空間の構成要素としての素領域の内部に存在できるエネルギーと捉え、素粒子の生成消滅反応や運動をそのエネルギーが素領域から別の素領域へと遷移していく道程だとします。

素粒子ってなに? – HiggsTan

例えば、自分の向かえに誰かが立っているとして、互いの間には何もない、つまり空間しかないと考えます。

しかし、目には見えなくても空間は空気という物質や光で満たされ、実際には酸素分子や窒素分子などを構成する電子やクォーク、さらには光子など無数の素粒子が存在しています。

そのように物質の最小構成要素である素粒子が存在する空間は「連続している」というのが我々の自然な感覚であり、物理学においても長い間盲目的にそのように信じられていました。

そんな妄信に終止符を打ちました。

従来の科学の原子や分子の話はいったん忘れてください。

湯川秀樹博士の「素領域理論」によれば、実は空間は不連続で飛び飛びに「素領域」と呼ばれる構造があり、素領域と素領域の間には何もないというのが「空間」の真の姿です。

そして、素粒子は全ての素領域から素領域へと飛び移ることで「空間」の中を運動していくエネルギーとなります。

素領域が飛び飛びに分布するということは、連続しているように見える素粒子の運動も、実は不連続なっていることを意味します。

物理学者がやさしく解説!スピと科学の素敵な関係vol.5

素粒子は立ち止まることない終わりなき旅を続ける「旅人」みたいなものです。。

素粒子同士の間に働く作用は物理的な「力」と呼ばれ、現在のところ「重力」「電磁力(電気力と磁力)」「(原子核の)弱い力」「(原子核の)強い力」の4種類が実験的に見出されています。

しかし、これらは、あくまで素領域の間を遷移して飛び交うエネルギーである素粒子の間でのみ直接に作用するものであり、素領域構造そのものに働きかけるものではありません。

通常の物理学理論の基礎を与えるという目的のためにはこれで充分です。

さらに「愛」「情」「霊魂」「神」などの形而上学的概念までもを記述するためには、素領域構造自体に何らかの相互作用が存在する形に理論を拡張する必要があります。

それによれば、空間そのものが持つ超微細構造素片である「素領域」が霊の要素であり、「霊素」や「霊子」と呼ばれるべきものです。

すなわち、素領域の集まりが霊であり、素領域の全体集合が「神」となる。

それが「空間」であり、そこには宇宙森羅万象を生成消滅させる「場」でもある。

湯川秀樹博士の素領域理論によれば、物質の構成要素である素粒子は、すべていずれかの素領域の中にしか存在できません。

この意味で、身体を含めすべての物質は「霊の中にのみ存在している」といえます。

つまり、霊があるからこそ物質で出来た肉体が存在するのであり、「肉体が霊を宿す」のではなく「霊が肉体を宿す」のです。

物理学者の中では基本的には「そんな非科学的ことあるか!」と言われる中で湯川博士は熱心に取り組んでいたことが衝撃です。

「奇跡」が起きる構造

おさらいをすると、実は空間は不連続で飛び飛びに「素領域」と呼ばれる構造があり、素領域と素領域の間には何もないというのが「空間」の真の姿で、空間そのものが持つ超微細構造素片である「素領域」が霊の要素であり、「霊素」や「霊子」と呼ばれるべきものです。

すなわち、素領域の集まりが霊であり、素領域の全体集合が「神」となります。

それが「空間」であり、そこには宇宙森羅万象を生成消滅させる「場」です。

霊があるからこそ物質で出来た肉体が存在するのであり、「肉体が霊を宿す」のではなく「霊が肉体を宿す」のです。

肉体を宿した霊を「魂」と呼びます。

そこでは、素領域同士の間にのみ働く作用ないしは関連性の総称が「神意」と呼ばれます。。

素領域の集まりが霊魂であることからして、この意味で神意は霊魂の間の働きです。

神意としての「愛」や「情」が、自分以外の他の人間の動きに作用するのは、肉体を宿す例である魂に働きかけることで素領域間の配向分布が変化し、その結果として素領域から素領域へと遷移していくエネルギーである素粒子の動きが変わります。

つまり、それらの素粒子から造られるからだが、その変化に見合うように動かされるということです。

というわけで、普通にはありえないような奇跡の力を手に入れるにはどうしたらいいのかというと、

素流域の集まりとしての「空間」=「神」を友として生きることです。

空間を友達にすることができさえすれば、空間に守られながら素晴らしい幸運に恵まれるようになります。

もしも地球上のすべての人たちが「空間を友とする」生き方を始めてくれるならば、この地球環境を取り巻く空間が人類の真の友としてこの世界を究極の調和と絶対平和へと導いてくれるに違いありません。

肉体を宿した霊を「魂」と呼ぶ。

生命の誕生「霊魂に肉体が宿る」 受精卵が生まれて分割していくのは、すでに素領域に素粒子というエネルギーが入ってからの出来事です。

人間が生まれる時は、まず何もない所に、すでに空っぽの素流域だけで、「さっちゃ~ん」なら「さっちゃ~ん」の霊魂が形作られます。

霊魂は宇宙の完全調和の一部です。

たまたまどこかからエネルギーが割って、他の素流域からエネルギーが回ってきてぱっと入ります。

すると「さっちゃ~ん」の霊魂に肉体が与えられます。

受精ではなく「受肉」です。

素粒子をどんどんどんどん入れていくことで初めて卵になり、それが分割していって、「さっちゃ~ん」という人間の小さいのが発生します。

霊魂は設計図みたいなもんです。

死亡する時は「完全調和」に戻る 人が死亡した時、魂そのものはそもそも「完全調和」の一部でそれには「個別性」がありません。

「完全調和」に徐々に戻っていきます。

全体の魂の海に融合していきます。

「自分という一つの統合されたもの」という認識は、脳だけの働きでは持つことができない。

それは「統合問題」と呼ばれて物理学最大の謎と呼ばれています。

ともあれ、死ぬとその統合が解かれてバラバラになる、

全体の魂の海とは、「完全調和」です。

「生まれ変わり」は「嘘」で、全体に統合された「完全調和」から記憶を別の人に与えたイレギュラーと考えます。

霊魂の構造

最初に雛型としてあるのがエーテル体(幽体)、これは生命の大元、

その外側の皮の部分がアストラル体(感情体)、さらにその外側にメンタル体(精神体)、コーザル体(魂体)です。

素粒子を分布していけば、さっちゃ~んの身体の基礎が出来上がります。

でも、そのまわりにまだ空っぽの素流域、つまり、エネルギーはないけれども存在する素流域があります。

そこにも順次、素粒子を分布していって、層毎に出来上がっていきます。

素粒子は全部同じで光の素粒子であるので、みえません。

7歳~12歳に人間の感性・感情が形成されるときにエーテル体まで埋まっていた光子という素粒子アストラル体まで入ってきます。

更に13~18歳くらいまでの思春期の間にメンタル体まで入って、最後に「我」ができるころに、いちばん外側のコーザル体で光が入ると。

さらにその外に、できる人には「自我体」というのができます。

本質であるコーザル体が、宇宙そのものとほぼ同じでコーザル体までは開いているんですが、人間の脳が色々活性化してエネルギーを与えると、光の膜を作ってしまうんですね。

この「自我体」というものを作ってしまうと、所謂、成仏できません。

だから、我々はなるべく「自我体」を作らないようにしたいわけです。

例えば、自我体のない状態20歳にならずに死亡すると、もとの完全調和の世界にすぐに融合します。

だから、お墓を作ってはいけません。

3歳までは神に帰るんですから。

20歳までは免罪符です。

もし「自我体」を作って死亡すると、現世を漂い続けます。

これが幽霊というわけですね。

幽霊とは「個性にしがみつかれている魂」と同じ意味で、普通の人はみられませんが、霧が深いところなど水分が空気中にいっぱいあると、水分子の中の電子やクォークが、たまたま自我体として漂っている素領域の中にハマったら、きりのなかにおぼろげに体がみえることがあります。

ちなみに、最近は自我体が多いらしいです

というわけで、ちゃんと「あの世」にいけるようにする必要がある

自我体を作ってしまうと自分で外すのは困難です。

現代人が怠りそうな枕経(死んでいく人が不安にならないように、案内として枕もとで死をみとりながら唱えるお経)や葬式の時に挙げるお経など色々ありますけど、あらゆる宗教において死の前後に行うそのような働きかけというのは「自我体」を外してあげる作業として機能します。

死ぬ時の自分で「自我体」を外す考え方:

「俺はもう、やり残したことはない!これでもう自由に死ねる!」→×

「俺は悪いことをいっぱいした。恥ずべきだ」→×

神父様の教えでは子供のおころ、外で夕方まで遊んで、日が暮れるころに、家にだーっと走って帰って、勝手口を開けて「お母ちゃん、ただいま!おなかすいた!」→〇 とにかく、余計なことは考えず「ただいまー!」っと帰る。

練習方法: 夜寝る時に「さぁ寝るぞ~」というとき、今日のことをくよくよ考えたり、明日のことを考えたりせず「ただいまー!」っと寝る

帰る場所は完全調和、天国、神様のふところです。

この自我を取るという作業は「愛すること」になります。

相手を愛すると、相手は攻撃力が奪われ、力が抜けてた也すぐ跳ね上げてしまう。

愛は無我であり、無我の境地。

自我体という境界を外すことにより、素領域と素領域の間の相互作用が発生する。

その域まで達成すると、死んだとき「あの世」にいけるだけでなく、「愛の力」を活用することができるわけですね。

まぁ、現代人のほとんどの人は死んだときに「自我体」が取り除かれるとは思いますが。

「愛=無我」というのは空間を味方にする最強の境地といってもいいでしょう

運気急上昇!!素領域理論に準ずる生き方

結論:「修行」や「義務」は不要。

日々、好きなことをして退屈しないで過ごす

死後は、輪廻転生もなく、魂の海の中に溶け込んで自分がなくなっていきます。

神様というのは存在するだけ、「ある」だけ。

あらゆる宗教のあらゆる修行がありますが、実際のところは無意味です。

目指す境地は「無我=愛」です。

修行が進まず、いつまでたっても悟れないお坊さんが、掃き掃除をしていたら、医師が飛んで行って竹に当たってカンとなった。

その瞬間にふと神様から情報を貰えた、悟れたそうです。

あれこれ努力しても無理、

その時に「悟り」を教えてくれたらしいのですが「悟り」とは「差取り」→ディファレンス(差)と取り払う。

人との差を取り神との差を取る

→全体に一致する。

働くことでストレスを抱えているのも同じです。

「俺はもう、やり残したことはない!これでもう自由に死ねる!」

「俺は悪いことをいっぱいした。恥ずべきだ」

「俺は働かなければならない!」

「立派な人間になって社会に貢献しなければならない」

「家庭を作らなければならない!」

「俺は最低な人間だ!いえーい!」

→これは、全て「高慢(自分の才能・容貌 (ようぼう) などが人よりすぐれていると思い上がって、人を見下すこと)」につながってしまい、「自我体」ができあがっております。

無理して働かずに好きなことをして、ダラダラ過ごす。

毎日楽しく生きる、「無我=愛」の境地を目指す。

ストレス社会で生み出されてしまった「自我体」を取り外していきませんか?

そうすることによって、神様が味方してくれるわけです。

くよくよ考えることじゃないと気づくということです。

そのためにはウトウトと寝ること。

誰もが日々好きなことをして、退屈しないで過ごす。

気楽に生きている方が神様も願ったりかなったりなんですね。

1.機会あるごとに「ありがとう」を言うこと

道を譲られた時、席を替わってもらった時、笑顔を向けてもらった時、買い物で品物やお釣りを受け取る時、郵便物や宅配を受け取る時、自分の言動が誤解されたことでののしられた時、更には殴られそうになった時、そんなチャンスがあれば、心からの気持ちを込めて「ありがとう」と発声し、さらには周囲の状況が許せば全身全霊を込めて頭を下げます。

もちろん、「ありがとう」と言う相手や頭を下げる相手というのは、そのときお世話になった相手の型ではあるのはもちろんなのだが、それだけでは不十分。

相手の方に加えて、相手と自分自身の間に「在る」はずの「空間」と、相手の周囲を包み込んでいる「空間」に対しても「ありがとう」と言って頭を下げるべきなのです。

そもそも日本語の「ありがとう」は「在り難い」、つまり「在る」こと自体が難しい奇跡的な幸運を授かった時に天や神を讃えるために発せられる言葉であり、外国語の「サンクス」「メルシー」「ダンケ」「グラッチェ」「シエシエ」など、単に「感謝」を意味する言葉とは本質的に異なっています。

その意味でも、何か自分が助けられた時に「ありがとう」を発する時には、助けてくれた相手の人だけではなく、その人がこちらを助けてくれるような秩序ある流れを生んでくれた「空間」、即ち相手の人の周囲や相手とこちらの間に存在する「素領域」に対しても気持ちを向けておくのがよいでしょう。

そうすることで「空間」が味方になり友達になってくれるのは、人間の友達相手にも「ありがとう」という気持ちの交換が友情を育む大きな要因となることと同じです。

「アロハ」は「こんにちは」や「ありがとう」の意味で使われるので本当は「愛」を讃えるために神にささげる神聖な言葉という事実と呼応しています。

その昔、太平洋に没したレムリア文明の流れを共にくむハワイ原住民と日本人が、レムリア文明において最大限に高められていた感性の頂点に位置付けられていた「愛」を、それぞれ「ありがとう」と「アロハ」によって讃美する伝統だけを守り通してきたと考えれば大いに納得できることらしい。

そして、「愛」こそは、我々人間が「素領域」に働きかけることができる唯一の手段となるものだから、「空間を味方にする」ためや「空間を友とする」ためには「愛」が必要不可欠となり、「ありがとう」という言葉がここにきて最大限に重要な役割を担うことになる。

心して、実践してもらいたい。

言葉に寄らないで空間を讃美することで、やはり「空間を友とする」こともできるが、それは僕が二番目にお勧めする「空間を味方にする」ための具体的な方策であり、多くの人たちにとってもそれほど違和感のないものです。

単なる観光見物は当てはまらないが、いわゆる神社仏閣とそれにまつわる岩座や水源などがある神秘的な場所に行き、その場を包み込んでいる空間の広がりを感じ取ってから「手を合わせる」というのがそれなのです。

むろん、霊峰とか霊山とされる神聖な山に向かい、その背後に広がる空間に向かって手を合わせるのもよいし、外国に行ったときなどはその土地で古くから信仰されているキリスト教イスラム教の教会や寺院、さらにはアメリカインディアンやオーストラリア原住民の聖地とされる場所の上空に広がる空間に向かって手を合わせるのも良いです。

この「手を合わせる」という所作もまた、その根底には「愛」を讃美するという神意が隠されているのですが、世界中の様々な宗教や土俗信仰を見ても手を合わせることのない者は皆無dしょう。

それほどまでに、「手を合わせる」ことは我々人間にとって根源的な動作となっており、それがそのままで「愛」つまり「神を無条件に讃える」ことになります。

2.「空間を味方にする」:つまりはこんなことをすれば「空間に見放される」といことをしないこと。

悪口、は本人が全く気にしない内容であっても、いったん口にしてしまったら最後「空間が許さない」状況が生み出され、すべての歯車が狂い運に見放された状況になります。

もちろん、これは「悪口を言う」ということ自体が、「愛を讃美する」ことから最も遠い行いであるためなのですが、

同様に愛から最も遠い行いとしては「人を嫉妬する」「人を騙す」「人を蔑む」「人を呪う」といったものがああります。

「自我体」がガチガチに出来上がっております。

3.「ネットの仮想空間に気持ちを向けない」:スマートフォンや携帯電話、パソコン、テレビの画面をみないこと

画面の中にあると「思わされている世界」が「仮想空間」であり、インターネットやゲームの部隊になっているのだが、そんなありもしない空間の中に自分が置かれているかのような錯覚を持続させればさせるほど、自分が本当は無数の素領域からなる空間に抱かれているという事実から遠ざかっていきます。

そうなると、自分の気持ちがこの現実の空間に向き合うというチャンスを自らの手で摘み取ってしまい、「空間を味方にする」ことや「空間を友とする」ことは絶対にかないません。

つまりは、奇跡的な幸運に恵まれることが決してない、ツキに完全に見放された人生を送らなければならなくなります。

だからこそ、テレビ、パソコン、スマートフォンの画面をできるだけ眺めないようにして、ネット上の仮想空間に興味を向けないように努力する必要なのです。

これは、厳しいですね。

臨死体験している木内鶴彦

木内鶴彦の臨死体験

2024年12月に亡くなられた木内鶴彦さんの臨死体験のエピソードを紹介します。

木内鶴彦は、もともと航空自衛隊にいて、天文少年だったそうです。

臨死体験したときは30分以上なくなっていて、お医者さんもちゃんと死亡診断書を出しています。

木内さんが起き上がってふと見たら、そばに何かがある、

「えっ、これは自分の身体か?」という感じで自分の体から離れていきます。

周りの人は自分の身体の方しかみていないので、自分がそこにいるのに全く気付いてもらえません。

木内さんはそのうちお迎えが来るだろうと思っていたのですが、なかなか来ないので、これからお迎えが来て死んでいくのであれば、あの友達に最後にあっておけばよかったと「気がかり」「心残り」だなと思った瞬間、何とその友達がいる当たりに自分の視野があって、友達は元気そうにやっている。

声をかけても、相手は全然わからなかったのですが、ともかく、安心して、これでお迎えが来そうだ、来たときは身体のすぐそばにいないと、天国に連れて行ってもらえないのではないかと心配になって、木内さんはまた病室に戻ります。

それはやってみると簡単だったそうです。

そして、会っておけばよかったと思う友達のところだけはなく、ほかのいろいろなところにも行こうと思い、そして、実際にぴゅっぴゅと行くことができたそうです。

木内さんは、科学者魂に火が付いたのか、エジプトのピラミッドにいったそうです。

木内さんはあれをどうやって作ったのかがずっと疑問で、いつか本当のことを知りたいと思っていました。

すると、何とピラミッドの建築現場にきました。

ピラミッドは地面に大きな穴が掘られていて、そこに水が入っています。

水の中に何か粉のような薬剤をいれると、それが水と反応して大きな石のようになったそうです。

石のようだといっても、それは軽石より軽く、今でいう発泡スチロール程度の軽さで、数人でひょいと持ち上げています。

そして、テケテケテケと簡単に運んで載せていきます。

しばらくすると、ずうたいだけはでっかい軽いものが、空気中の水分か何かと結合してだんだん重い石になっていきます。

そうだったのか、こうやってピラミッドはつくられたのかと長年の疑問が晴れた木内さんは、そろそろお迎えが来るだろうと帰ろうと思って、東京かどこか、自分が亡くなられた病院の一室を思い描きました。

ところが、一発で帰れず、何故か江戸時代に到着しました。

木内さんがいる場所は、そこかお寺を建立している工事現場のようで、大工さんが昔のキセルでタバコを吸いながら一服していました。

その辺には木材がいっぱい並んでいます。

木内さんはせめて俺がいたという証拠を残そうと思って、置いてあった木材に「木内」とか何かアルファベット的なサインを書きました。

そして、もう一回病室を思い描いたら、ツーステップですが今度はちゃんと病室に戻れました。

しかし、病室で待っていてもまだお迎えが来ません。

どうしようと思った木内さんは、過去にも行けたのだから、未来にも行けるのではないかと思って、最後に未来に行くことを試しました。

すると行けたのですが、未来は二重映しのようになっていました。

片方は生き物が全くいない荒涼とした悲惨な世界。

生き物はミジンコすらいない荒れ果てた地表でした。

もう片方は、緑の土地で子供たちがキャッキャ楽しそうに遊んでいます。

その2つの場面が二重写しになって「えーっ、何で?」といぶかしんでいると、木内さんは病室に戻され、ああ、お迎えが来たのか、もう観念しなきゃいけないと思ったとたん、何と横たわっている自分の身体に戻ってしまいました。

木内さんは「フンギャー!」と起きたら、周りの人はみんな「えっ!」と驚きました。

30分以上も死んでいたはずの身体が動くのですからそうでしょう。

その死亡体験からしばらくしてあるお寺の前にとおりかかりました。

木内さんは「あれ?ここは来たことがある」と思いました。

高知に来たのはその時が初めてだったので、何か気になって、一度は通り過ぎたお寺に戻ってみました。

戻って、お寺の本堂の形をみると、死亡体験でたまたま江戸時代に行き、大工さんが作っていたのを見たあのお寺ではないかと思われました。

では、どこかに自分のサインした板があるはずだということで、木内さんはそこのご住職に「ここのお寺のどこかの板に梵語のようなグニュグニュした、何か変な文字が残っていませんか」と尋ねました。

それを聞いて、ご住職は「え!?なんであんた、それを知ってるの」と驚いたそうです。

そういうものは実際にあって、それはそこの家の方々でも、昔からその家の方々しか知らない事実だそうです。

その場に連れていかれて、木内さんご本人がそれをみると、果たしてあの死亡体験の時、自分がサインしてきたものだったそうです。

しかも、ご住職は「実は、このお寺が建立されたときに不思議なことが起きたという話が巻物で伝えらえている」といいます。

その言い伝えは、職人が一服して休憩していたら、置いてあった木材になぜか勝手にばーっと梵語が出てきたというものでした。

当時はアルファベットが分からない時代ですから、当然、当時の人は木内さんのサインを梵語だと思います。

これは、お釈迦様の力に違いないということになって、その話を最初の住職が巻物にして残していました。

そうすると、木内さんが一番気になったのは未来でした。

あの体験が事実ならば、未来は2つの大きな可能性があるということなのか。

木内さんはご自分の体験をみんなに伝えていくことに専念しようと考えました。

不思議なもので、生死をさまよって死という体験をした瞬間に身体から離れるのですが、離れても、今、皆さんが目で私の姿を見ている状態と全く同じです。

自分が身体から離れているなんて思っておらず、自分の肉体と意識は一緒に動いていると思っています。

周りは「あっ、死んじゃった」と大騒ぎしています。

でも、意識ははっきりしているので、「死んじゃった」と言われてもわかりません。

このような状態で、意識と肉体が離れて皆さんはどちらを自分と信じるか、当然意識の方になります。

ということは、肉体は今までお借りしていたものです。

木内さんは生死をさまよう体験をする際、一般的なら、自分がいつの時代かわかりづらくなります。

よく臨時体験者が「俺は何年前にいってきた」というのですが。木内さんからすれば「ちょっと待って。何年前という根拠はどこにあるのですか」ということです。

そこで木内鶴彦さんは元々天体を研究している彗星研究家なのではkkりしています。

おおぐま座のひしゃくの格好の北斗七星は、太陽系に近い七つの恒星の並びで、それぞれに固有運動がみられるため、例えば50年すると少し形がずれているということが起こります。

木内さんは、中学の頃夏休みの緊急として、未来はこんな格好にあるとか、年表を作成したことがあったそうで、そういうことばっかりやっていたので、内容が頭の中に入っておりました。

そのため、自分が今いつごろの時代にいるか、わかりやすかったのです。

木内鶴彦の宇宙論・生命論

生命をさまよう体験をして、木内氏は、生命の誕生とはいったい何だろう、生命体とはいったい何なのか、について興味を持ちました。

宇宙というのは、ビッグバンではなく、いわゆる5次元という意識の素材にひずみが生じ、ひずみが解消されるところでエネルギーが流れ、回転運動が発生します。

その回転運動で水素原子が一斉に拡がり、それがお互いに引きつけ合っていくうちに、それぞれの塊になってきて、洗濯をしている時の泡のような状態で広がっていきます。

これが銀河系で、そういう素材に変化していったなかに太陽系があって、地球という星があって、地球に私たちが存在しています。

誕生したばかりの地球は放射性物質の集まりで、生命体の基となるものはありませんdね↓。

太陽系の外に水や色々なものが出来て、それが氷の塊になって地球に落ちてきました。

その氷の塊がコメット、彗星です。

彗星がもたらした水によって地球に海が出来ました。

水以外にも例えば塩分などが宇宙から地球の海に降り注ぎ、それによって電解液が発生します。

そこに太陽から来た放射線が当たり、地球そのものが持っている放射性物質による放射線もありその条件の中で生命が誕生していきます。

生命誕生の起源をよく調べると、アミノ酸とか他の成分を含めてタンパク質を作り出すわけですが、そのとき必要なのが電気反応です。

電気反応、電磁反応を起こさないと、生命が完成していきません。

その電気反応を起こすためにいちばん最初につかわれたのが実は放射能でした。

放射能を抱え込み、放射線の状態に変えないで、電気エネルギーとして反応を促進させる。

そうすると細胞が出てくるのです。

原始的な段階から変化していって、やがて生き物はものを食べます。

ものを食べると、食べたものが身体の中に吸収され、それぞれの細胞にとって必要なものだけが細胞膜を通って細胞名に入ります。

皆さんの細胞の中に栄養が入るわけですが、栄養は電気エネルギーのもととなるものです。

細胞は、中に取り込んだ栄養、それから酸素とかそういうものを使って弱い化学反応を起こします。

その結果、電気エネルギーが生じます。

要するに、栄養素をとって反応を促進する目的で作られた細胞の集合体、これが歴史の中の皆さんの身体となります。

では、意識はどこにあるのかというと、ミトコンドリアにあります。

細胞の中にまず最初に、細胞の簡単な形を作るためのDNAができます。

そのDNAは電気を通す、通さないという二進法のような形の帯です。

同じ電気が流れると、同じものができてきます。

これを木内氏は生死をさまよっている時に意識としてみました。

自分で意識として一個の細胞の中に入っていっているから、教わったことではないのですが、こんなふうになっているんだとわかったようです。

そうやって作り上げていくうちに、それをコントロールするコントローラーが必要になります。それがミトコンドリアです。

ミトコンドリアも細胞の中にあって、ミトコンドリアDNAができています。

そこに意識がアクセスると、意識的にミトコンドリアで電気のやり取りがコントロールできるようになります。

その集合体が私たちの身体です。

集合体の情報は脳細胞が演算します。

脳細胞はある意味CPUです。

記憶媒体は一個一個の細胞のミトコンドリアからスタートして、その集合体は脳となります。

皆さんは、脳が記憶媒体だと思っていますが、違います。

私たちは、それぞれの働きをしている細胞一個一個の集合体なのです。

そして、本来は全ての生体と意思が繋がっていなければならず、動物、植物、すべてのものと通じて、それを情報として持っていかなければならないのですが、人間はどこかの時点で、ほかの生き物から心を読まれることを嫌って、それを閉じてしまう作業をしました。

どうやら大洪水の災害を体験して遺構、食べるものを奪ったり、奪われたりといことを繰り返していくうちに、意思の疎通を閉じる作業が活性化してしまったようです。

結果として、人間は第六感を閉じました。それは意図的に閉じているわけです。

人間同士でもお互いの意思の疎通ができないと、自分が孤立してしまいます。

そうすると、自分という中で自我が目覚めます。

それで本来の役割は何か、いっさいわからなくなってくるわけです。

自分たちに都合のいい姿の社会構造を作っていき、私たちが地球で生きる本当の目的とは全然違うことになっていってしまったわけです。

これは地球のがん細胞のようなものです。

これを正常に戻していったら、人間という生き物の役割は、地球の生態系のバランスをとる一貫を担っていくことだとだと気が付きます。

なぜ病気になるのか

まず遺伝子異常を起こしてしまうのは、放射能、例えばγ線などによって遺伝子のリボンが切られてしまうと、スイッチが変になって増幅するというのですが、増幅するためには過電流を流さなければいけません。

過電流が流れるにはいくつかの種類があります。

例えば、ストレスによる食べ過ぎは栄養過多になって発電量が多くなり、その分、細胞が異常繁殖してしまいます。

あるいは、放射能が身体に入ると、放射能そのものに害があるわけではないのですが、放射能から出る放射能に害があって、今言ったように放射能が遺伝子を切る場合もありますし、放射能が身体の中に閉じ込められることによって、放射能ではなくて電気エネルギーとして放電され、過電圧になって細胞がぼこぼことできてしまう可能性があります。

これががん細胞かもしれません。

となると、電気になるものをうまい具合にアースさせていく、外に放電させる作業をしたら、泡みたいになっていったものが壊れていくのではないか。

そう考えると、昔の人はこういう技術を使っていたなということが出てくるわけです。

人間の体の作用は電気反応によって成り立っています。

過電圧を放電させれば、がんなどの病気を治せるかもしれません。

だとすれば、私たちの身体をどこかにアースしておかなくちゃいけないのですが、私たちはほかの動物とは違って絶縁状態にあります。

他の動物ははだしで歩いていますから、しっかりアースされますが、私たちは靴を履いていてアースされないから電気が溜まるのです。

電気が溜まるコンデンサーに当たるところが経路です。なので、経路に針を刺して放電させたらどうでしょう。

それから細胞を活性化させるためには、栄養を与えて振動を強くしてやればいいでしょう。

素の場合、それと同じ波長なら、同じ振動で同じ作用を得られるとすれば、音によ治療法もでてきます。

波長というのは波の谷から谷までで、その振幅が真っすぐな場合は死んじゃったということですよね。

振幅が大きいのは健康な状態で、だんだん穏やかになってくるのは、どこか病気になっているということです。

例えば、肝臓が病気になっていたとしたら、健康なときの波長と同じ波長の音または肝臓に近づけたらふわーっと同調するのではないか。

それで細胞波を振動させてやることによって病気を治せるのではないでしょうか。

生体反応の中で、片方に健康な人、もう片方に体の具合が悪い人がいて、健康な人が具合の悪い人に手を近づけると患部が熱くなったりしますが、これも、細胞波が同調しているのではないでしょうか。

太陽が振動して重力波が生じ、それによって地球も振動します。

太陽は11年周期で活動が活発になりますが、それに合わせるように地球の火山活動や地震活動も11年周期で活発化します。

これは必ずリンクしています。

このように、目に見えない者であっても、お互いに震動しあっているのが3次元であるということがだんだんわかってきました。

私たちは太陽系の大きなエネルギーの流れの中に存在しています。

それは全て回転運動であって、回転というのは時間という概念であり、それを我々は4次元と言っています。

縦(1次元)・横(2次元)、高さ(3次元)、そして回転運動(4次元)です。

さらにそれを作り出しているもとになるものがあります。

物質でもエーテルでもなく、空間そのものが意識であるような状態、それを5次元という言い方もできます。

皆さんにこれから間違いなく保証されていることは死ぬことです。

保証されていることはあえて考える必要はありません。

そんなことは考えずに、身体の特性、能力を引き出すのは、第三者ではなくて、あなたの意識です。

自分が身体を借りているのですから、自分が引き出さなかったら誰にもわかりません。

身体の特性、能力を引き出すには自分をほめることです。

人は褒めてくれないので、自分で「すごい」と決めればいいのです。

自分のことを褒めてくいくと、自分の褒められた部分がどんどん活性化されます。

そこから、病気になってこの細胞がおかしいとなったときは、正常に戻っていくことを想像すると、正常に戻ります。

それは私たちが意識によって作られているからです。

病気になったら、例えばがんでどうのこうのということになったら、お医者さんに委ねるのはやめた方がいいです。

それは自分の身体を放棄したことになります。

放棄した中では絶対に治りません。

こういうことをよく覚えておいて、自分の身体をしっかりコントロールしましょう。

そして、私たちには、この空間、3次元のこの地球の中で役割があるので、それを果たすために、意識として、しっかり身体を使ってください。

私たちの神様は藻である

この肉体には、ミトコンドリアが発生して、いちばん最初にできた生物は「藻」だそうです。

つまり、私たちの神様は「藻」です。

藻以外の色々な生き物が存在しているのは、藻を殺さないためです。

藻を殺さないように、殺さないようにやって来た中で最後に人間が出てきました。

私たち人間は新参者です。

人間以外の生き物は私たちの先輩です。

人間にいろいろな能力が与えられているのは、新参者として下働きをしなければいけないからです。

偉い人たち、つまり、藻は働きません。

藻のような単細胞を生かすために、動物性の単細胞のアメーバのようなものをつくって、それからまた分裂して、分裂してとやってきて、そのうち個々の細胞の働きを合体させた集合体、個体ができてきます。

その集合体の最も足るものが人間であり、それゆえ人間は身体の中にすべての生き物の歴史を持っています。

赤ちゃんが生まれるときは、単細胞から始まって、動物という方向の中のすべての生命の形をクリアして、最終的に人間になります。

人間は最初、女性形で、最後の最後に男になります。

この世で一番の新参者は男です。

だから、女性には頭が上がらないのでしょうか。

そういうことを生死をさまよっている間にしっかりと木内氏はのぞきました。

皆さんはわざわざ臨死体験をする必要はありません。

なぜなら、木内氏自身、こういう話をさせられているのは、木内氏の話から、地球で生きているということのヒントを皆様につかんでもらうためだと思っているからです。

苦労というか、いろいろな耐えがたいものを乗り越える、そういう変化が生きている証です。

その中に目的があるとすれば、地球を再生して、再生した地球を長く維持することができる産業構造や経済を作り上げていくことであり、その作り上げていくシステムの中に、自分たちの存在する場所があるわけです。

そのときに、人間は一人ひとり違った役割分担を持っています。

同じ作業、同じ能力の人はあまりいません。

だから、固有の役割分担を持っている人に勝手に死なれちゃ困るわけです。

自分を見詰めると、自分がやれる能力を持っているものをやるのはストレスになりませんん。

例えば、お米を作ることが好きな人は、米づくりをすることがストレス解消になる。その人は米づくりが役割です。

女性の中でパッチワークが好きな人がいます。

あれをやっているとストレス解消になるという人は、それが役割です。

役割は違っていて当たり前です。

皆さんも、自然界のシステムの中で、これをやっていたらストレス解消になるというものを見つけてください。

それがあなたの持っている肉体の世の中に対する役割です。

それ以上は求められていません。

例えば、人間が考えた今の会社の中で、流れ作業のような仕事をさせようとしたときに、多種多様な人が集まった中で向いていない人がいます。

向いていない人には流れ作業はストレスになります。

働いて給料をもらわなきゃいけないからというこおで、そうやって長いこと会社に勤めていたら、この人は仕事がなくなった瞬間に、自分は何のために存在しているか分からなくなってしまいます。

定年退職でボケるとか多く、だいたい奥さんに捨てられるらしく、奥さんたちは自立していきます。

女性は自立していて、どんな逆境にあっても乗り越えます。

男は偉そうなことを言っている割に乗り越えられない。

なぜかというと新参者だからです。

正史時代の幸福な世界

私たちは何のために生きるのか。

何だか知らないけれども、お金をもうけなければいけない、お金を儲けるのは食べるため。

でしたら、農業をやって安心安全なものを作って生活するのが一番いいでしょう。

未来がその方向に向いていくと、いずれお金はいらなくなります。

例えばお米を作ることが好きな人は、それがその人の役割だとしたら、お米を作って人に食べさせます。

皆に食べさせることで「あの人の作ったコメは最高だよ」と言われたい、その喜びを得たい。だから、毎年頑張ります。

そのように、俺は芋を作らせたら誰にも負けない、ダイコンを作らせたら誰にも負けない、木を育てることができる、あるいは家をつくることができる、そういろいろな役割分担を一品持ち寄りといいます。

人間にはそれぞれの能力があり、それは一品の能力でOKです。

その能力を持ち寄ってみんなに提供して、それぞれが自慢します。

提供に対する見返りを求める必要はありません。

そうすると、お金入りません。

つい最近まではそうだったのです。

ペルーのクスコのインカの人たちもそうでした。

みんなで自分の好きなものをつくって、お互いに市場に持ち寄っていました。

売って儲けるためではなく、自分の好きなものをつくると、あまり重なりません。

みんなが重ならないものを持ち寄って、それぞれが自分の家にないものをもらって帰ります。

そこにはお金が全然介在しません。

それが本来のバザールだったそうです。

そして、そういう一品持ち寄りの村は未来に存在します。

木内氏はそれをみてきました。

みんなが食べるものをお互いに共有しあっている村では、お金は一切介在しません。

しかし、昔は収穫したものを高床式の穀物子に入れておいて、10日に1回わざとお祀りをしました。

そのときに能とかいろいろやって、収穫したものを払い下げていました。

一軒の家に持たせると腐らせたりするので、そうやって管理していました。

その名残が今の神社のお社です。

その向こうにある山が神様です。

私たちは神様と契約しています。

例えばスギの木や何かを植えたときに、そこがやぶにならないように、いい風が吹くような、ちょうどいいあんばいの状態を作ります。

そのちょうどいい塩梅の状態のときに一番よく育つ植物がサカキです。

混んでいるところでサカキをつくると、日が当たらないから弱弱しくなっちゃいます。

拡がりすぎると焼けたサカキになります。

ちょうどいいあんばいだと、張りのあるサカキになります。

私たちは、張りのあるサカキがとれるような森を作ることを神様と契約しているのです。

そういうことをやっていた時代があって、それを学んできて、今の宮司さんたちにサカキのことを聞いてみたら、「死後の世界と現在との境の木である。だからサカキだ」と。

えっと思って、サカキをどうししているのかと聞くと、中国から入れているとか、最近は造花のようなものもあるようです。

それじゃ罰当たりです。

人間が生きていく中で戦後ものすごく発展したけれども、これは「人間が暴走するとこうなるよ」といういい経験だったのかもしれません。

そうならないような社会構造を考えなければならないということに、もうそろそろ気が付いた方がいいと思います。

お金に振り回される社会ではなくて、食べる処方箋をみんなで健全に作れるような村づくりも必要かもしれません。

そういう村は木内氏が見てきたんのですが、当然、一人ではできません。

いろいろな人たちとやらなきゃいけないと思っています。

おまけ:M・ドーリル博士「あの世」とは

あの世:天のルールの世界

自分のことは二の次・名前など芙蓉・まとめて考える・区別差別なし・秘密が無い・例外こそ大事・比較しない・感性と良心に従う・本音と建前が一緒・競争は悪、しないほうがよい・自由・だれにとってもたのしい

「あの世」はゆったりとして自由な雰囲気であるのに対し「この世」はエゴにとらわれてギスギスした状態といえます。

この地球上のしきたりに縛られている限りは、人は、前世でつくってしまったカルマなどを解消するために生きていかざるおえません。

ここでカルマを解消しておかないと、死んでから、再びまた「この世」に送り返されてきていしまうという仕組みになっているため、見方をかえれば「この世」は「地獄」ともいえます。

しかし、前世での反省点をふまえ、今生は正しい道を歩むことを目的としているのだということが理解できれば「この世」はとても優れた修業の場であるということにもなります。

「あの世」と「この世」を行き来でき、数々の前世記憶を持つ超人の一人に、Mドーリル博士がいます。

M・ドーリル博士は1901年にアメリカで生まれ、1963年に亡くなられていますが、多くの人が認める人生の指導者でした。

M・ドーリル博士が特に唱えたのは

1:常に謙虚に生きよ。人にはそれぞれの道がある

2:人生は思念、欲求、霊性によってつくられると知れ

3:ネガティブな言語と思念を除いて、自己の内外の世界を調和させると心身によい変化が起こる

です。

この世での借り物の肉体は置いていかなければいけない。ただ向こうに帰った時に、この世に執着があり支配欲が強い場合は、死んだ後も本来の世界に帰れず徘徊せざる得ません。

地下の中まで潜り込み(無間地獄)苦しむ人が物凄く増えています。

そういうネガティブな存在が今の私たちにいろいろな形で働きかけてきます。

ですから、ものすごくきつい状況です。

現代人はかなりそういう影響を受けています。

まとめ

いかがでしょうか

今回は、主に3つ紹介しましたが、

どれも共通している中で印象に残るのは

・意識というものにエネルギーがあること

・エゴとは正反対であること

でしょうかね。

川田生命論によって魂の証明が出来たと思いますので、

その後に続く、湯川秀樹博士の素領域理論と木内鶴彦の臨死体験による伝承が頭に中にすっと入ってくるのではないでしょうか。

そういう構成にしました。

人間のエゴが強烈な現代社会はこの視点から見ると著しく程度の低い社会・世の中に私たちはいきていることになりますので、

自力でどうにかする、

もっと、具体的にどうしたらいいんだろうと悩むかと思われます。

そのヒントとして、個人的には、日本というか世界最古の宗教「神道」というものがありますので、これを学ぶというがよろしいかな、と思っております。

引用:

いのちの木

素領域理論

あの世飛行士

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