世の中お金でしょうか?
貨幣奴隷制社会に頬りだされた庶民階級という名の奴隷に属する皆様、こんにちは。
人生観が、何が価値があるのか、それは自分で決めて、
誰からも依存せず自立をしたつもりで、ただ会社の利潤追求のための奴隷としてしがみついている痛快な人生が待っていることでしょう。
果たして、それがあなたの人生なのでしょうか。
貨幣奴隷制度の導入、GHQによる宗教破壊により、日本人は人生観を失いました。
そんな息苦しい世の中を生き抜く考え方として前回は「仏教」をやりましたが、
今回は「キリスト教」をやっていきます。
「キリスト教」「イスラム教」は聖書によってルールが明確にあるため、この人生観を学び、実行しやすい宗教です。
また、キリスト教というか「旧約聖書」とな何かすら知らないと「古代史」がさっぱりわからなかったり、仮説も立てられません。
旧約聖書には、単なる予言書ではなくて、事実の記録書の一面もなるので、特に日本人にも関連する歴史があり(これは別記事でやりますが)
その人類の過去、辿って来た重要な出来事を知らずに、人生終わってしまったりしますので、基礎教養としてもかなり重要なものかと思います。
また女神転生など、アニメやゲームの世界観の理解の幅が広がって面白くなりますので、エンタメとして学ぶのもおすすめです。
総じていうと、キリスト教・旧約聖書は思わぬ分野で実は関連があったことがこと日本では多いですから、学んでいくとよいでしょう。
それではやっていきます。
概要
キリスト教の分類
カトリック(旧教):ローマ帝国の国教となったキリスト教を管理、運営してきた歴史を持つ教団です。
イエスの死後、大ローマ帝国全土に速やかに広がったキリスト教団は5つの「大教区」に分けられ、それぞれに大司祭を置いて運営されました。
そのうちローマ大教区の大司教を「法皇」として「イエスの代理人」という特別な権限を持たせて教団を運営しようとする案に同意した4つの大教区によって構成された教団です。
ギリシア正教:ローマ大司教を法王にする案に最後まで反対した東方のコンスタンティノープル大教区が作った教団です。
1054年に正式に独立し、自らを「ギリシア正教会」と称しました。
現在では、ロシアなど東方の国家に普及しています。
プロテスタント(新教):マルティン・ルター、ジョン・カルヴァンらの宗教改革運動(1517年より開始)を契機にできていった教団です。
カトリックの旧教に対して、「新教」とも呼ばれています。
カトリックが法王に最高権威を認めるのに対し、聖書に最終権威を置いています。
聖書のどの箇所に重点を置くかによって、数多くの教派が生まれています。
聖書の背景にある存在感
「世界はそれを造った存在と、造られた存在と2つから成っている」
聖書はこの大前提の上に立って作られています。
世界にはまず「創造主」だけがいて、それがすべてを造っていった。
自分も含めて、われわれの目に映るすべての存在は被造物であるという思想です。
同時に、これはつまり、創造主は何人もいるわけではなく、「唯一者」ということにもなります。
私たちは日本人なので八百万の神々やブッタなどの価値観の方がなじみやすく、この時点で毛嫌いしそうですが、キリスト教を学ぶ上では想像上、そういう両者が併存しているという気持ちを持ちながら、聖書を書いた人の「世界に対する」感覚を追体験していきましょう。
日本人の考える「神」と「ゴッド」は意味合いが違う
よく誤解されがちですが、日本では、「宗教では、常に何か人間の力を超えた、肉眼では見えない超自然的な存在」を「神」と呼び、聖書のゴッドの訳にも「神」を使っています。
しかし、バイブルのゴッドはそういう漠然としたものではなく「この世のすべての存在を造った創造主」と意味が限定されています。
意味が限定されているにもかかわらず、ゴッドを「神」と呼んでしまうと、バイブルでいうゴッドも、日本人の感覚で認識してしまいます。
つまり、バイブルのゴッドも「漠然とした目に見えない何か」としてイメージしがちです。
これでは聖書を読むとき「神」という言葉を目にするたびに、正確なイメージをぶち壊しにしながら理解しようとすることになってしまいます。
それを避けるためには聖書のゴッドは「創主」と呼ぶのが適正ではないかと思います。
聖書とは??
キリスト教の教典のことを「聖書」といいます。
旧約聖書
創造主からのメッセージを「預言者(言葉を預かる者)が霊感で受信して、言葉に書き留めた文書を1冊にまとめたものです。
「旧約」とは「(万物の創造主が与えた)古い契約」という意味です。
片方から一方的に与えられるという点で、双方の合意を条件とする人間社会の契約とは異なりますが、いったん与えたら「与えた側も決して変更しない約束」という点では同じなので、あえて契約と呼ばれます。
創造主が与えた法(律法)を守って生きれば幸福(物質的)を与えるという約束です。
もともとユダヤ教の経典でしたが、あとからキリスト教団が「イエスについて預言したもの」とみなし、「旧約聖書」と名付けて収録しています。
旧約聖書は「万物の創造主が、被造物たる人間に与えたメッセージを集めたもの」ということになっていきます。
「聖書はすべて、創主からの霊感によって書かれたもので、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益です」(テモテへの手紙、3章16節)
聖書全体が「創造したもの」と「創造されたもの」が併存しているという、複眼的な存在感を土台として書かれています。
創主からのメッセージは霊感として与えられ「啓示」と呼ばれます。
感知できるのは「預言者」といわれる霊感豊かな人だけです。
旧約聖書は39巻の文書から構成されています。
その第一節は「モーゼ五書」と呼ばれるグループになります
「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」の五文書のことで、その著者が預言者モーセです。
また、これは「律法の書」ともいわれます。
律法とは「創主の命令」のことで、創主の命令がこの五書の中にはたくさん書かれています。
「十戒」は律法の代表格です。
第二のグループは「歴史書」です。
「ヨシュア記」「士師記」「ルツ記」「サムエル記」「列王記」「歴代誌」「エズラ記」「ネヘミア記」「エステル記」がそれに含まれます。
旧約聖書は39巻もあるので、こうやって何らかの特徴を捕まえて分類し置いた方が都合のいいことが多く、第二グループは歴史が多いので「歴史書」と呼ばれています。
第三グループは「詩と知恵文学」と呼ばれるもので
「ヨブ記」「詩編」「箴言」「伝道者の書」「雅歌」の5冊が含まれます。
これらは全体が市の形態で書かれていて、人間にはさまざまな知恵を与えようという性格を持っています。「箴言」などはその代表です。
箴言は「生きていくうえで戒めになる格言」という意味です。
「創主を恐れることは知識の初めである」(1編)
「貧しくとも、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる。熱心だけで知識のないのは良くない。急ぎ足の者はつまづく」(19編)
「争いを避けることは人の誉れ、愚か者はみな争いを引き起こす」(20編)
これは、聖書の思想が基本的に平和(調和)志向であることを示します。
「おこりっぽい者と交わるな。激しさやすい者といっしょに行くな」(22編)
「争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい」(25編)
第四は「預言書」といわれるグループで「イザヤ書」「エレミヤ書」「エゼキエル書」「ダニエル書」の四冊が代表です。
これらは長いので「大預言書」と呼ばれることもあります。
「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」イザヤの書53章
これはイエスのことを言っています。
最初の「創世記」から始まる5冊を書いたモーセは紀元前13世紀の人、そして、旧約の最後の「マラキ書」を書いたマラキは前450年頃の人だと推定されます。
なので、旧約の著者は1000年余りにわたって世代が分散しています。
新約聖書
新約聖書の著者は、イエスの使途や彼らに伝導された信仰者で、1世紀頃に発祥しています。
特にユダヤ人には「かつては独立した王国を持っていた」というれきしがあり
「新約」とは、「新しい契約」の意味です。創造主の子イエスの言葉を受け入れれば、幸福(霊的、物質的)を与えるという約束です。
イエスの伝記や、その教えを伝導する際に書かれた手紙などが収められています。
イエスが30年頃に十字架にかけられて死んだあと、弟子たちによって書かれました。
旧約聖書は、本来、ユダヤ人の信じるユダヤ教の経典として用いられますが、キリスト教における聖書の前半部としてもそのまま収められています。
イエスは「旧約聖書は自分について預言したものだ」と述べています。
「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究しています。だが、聖書は私について証言するものなのです」ヨハネによる福音書、5章39節
旧約は「新約聖書における教えを、いっそう確かなものとして保証する本」としてみなすことになりました。
もちろん、その前から旧約聖書を使っていたユダヤ教徒の方ではそんなことは認めていないので、彼らにとって聖書と言えば、旧約聖書だけを意味します。
新約聖書はイエス・キリストが出現してからのことを記したもので、27巻からなっています。
これも4つのグループに分けられます。
「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」「ヨハネによる福音書」です。
第二はイエスの弟子たちが伝道し、教会を造っていた記録で「使徒行伝」という一巻だけです。「ルカによる福音書」を書いたルカがその著者です。
第三のグループは、使徒たちが伝道活動をする過程で書き送った「手紙」です。
これは、イエスの教えをよく説明しているというので収録されました。
「~への手紙」というのは、パウロという使途が書き送った手紙で「~の手紙」というのは、「~」の部分が著者となります。
第四のグループは「啓示」です。「ヨハネの黙示録」だけがその中身で「ヨハネによる福音書」の著者ヨハネが神から延々と見せつけられた幻を記したもの、となっています。
幻といっても主に「これから起きること」に関するものです。
もちろん「ダニエル書」や福音書の中にもその種の預言は含まれていますが、将来起きることを示す最大の書はこの黙示録です。いわゆる「最後の審判」が終わった後の天国の有様が示されています。
「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地とは過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、創主のみもとを出て、天から下ってくるのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこういうのを聞いた。『見よ。創主の幕屋が人とともにある。創主は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また創主ご自身がともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。』」黙示録、21章1-4節
黙示録は「創主から与えられた幻を、とにかくそのまま記そう」という特殊なものです。
福音書をよく読むと、使徒ヨハネは弟子たち中でも、群を抜いてイエスをよく理解していたようです。なので、彼は「イエスが最も愛した弟子」で、自分の死後における聖母マリアの生活を託した弟子でもありました(ヨハネによる福音書、19章26-27節)
このような幻を与え、かつそれを間違いなく、作文することなくそのまま記述させるに足る人は、使徒ヨハネ以外に福音の歴史は存在しないようです。
キリスト教発祥
イスラエル民族の国は、前10世紀初めダビデ王によって造られた園子ソロモン王の時には一大神殿が建設されて最盛期を迎えていましたが、前6世紀にバビロニアによって滅ぼされます。
以後、ペルシャ、ギリシャ、ローマによって入れ替わり支配される状況が続き、イエスの時代にはすでに600年余りにもわたっていました。
イエスが活躍した当時のイスラエルは前63年以来、ローマ帝国の属州となっていました。
占領下の民族政府は、占領軍の方針に従わないとなりません。
イスラエル民族にとってダビデ時代のような独立王国を実現するというのは民族の悲願でした。
ユダヤの民族政府は「政教一致体制」をとっているため、当時の国教であるユダヤ教の神事を司る者が政治に大きく関与していました。そのため、宗教面の不満はそのまま政治への不満となり、反対に政治への不満は宗教的な不満にもつながりました。
こうした中で、イエスの信教団は急成長し、国家宗教に対する宗教改革も誘発しかねない程強烈でした。
イエスの人気はものすごく、この偉大なる奇跡を起こすイエスを王にして独立王国を実現したいという、群衆の熱い願望がありました。
しかし、その後、一番身近な12弟子「イスカリオテのユダ」が裏切りを行います。
ユダヤ教団はこれを利用し、未民衆が彼のまわりを取り巻いていない状態でイエスが出現する場所の情報を掴みイエスを逮捕します。
そして、イエスをローマ軍に手渡し、十字架刑にかけて殺しました。
「ゴルゴダの丘」というところがその処刑場です。
ユダヤ教の高僧たちには、直接的には、ユダヤ人民政府を維持する目的で殺したことになります。
イエスの死後はキリスト教が消滅するどころかさらに拡大していきます。
イエスは、自らの教えを「地の果てまで伝えよ」と命じていきました。
「創主に選ばれた民」と自認するユダヤ人だけでなく「全人類に伝えよ」といいます。
ユダヤ人以外の民族を聖書では「異邦人」といいます。
この異邦人にも伝えよというイエスの趣旨を弟子たちが積極的に実践し拡大していきました。
聖書の内容・キリストの信仰とは
大前提:「霊」という存在
現代日本人にとって、人間というのは肉体だけから成っていると思っているでしょう。
聖書では「肉体に並んで霊というものがある」というのが大前提で、両者の内では「霊の方が本質的」だと考えられています。
肉体は百年もすれば死んでなくなりますが、霊の方は身体を抜け出して永続するという思想が大前提にあります。
また聖書では「人間の『意識の本体』も霊の方にある」と考えます。
この考えだと肉体が滅んでも「当人の意識も永続する」という道理になります。
つまり、「死んでもわれわれの意識は無くならない」ということです。
そのため、聖書のいうように死んでも意識が存在するとしたら、自殺も簡単にできなくなります。
死んだら楽になると思っても、もっと苦しいことになるかもしれません。
また人間が生きている間の意識のあり方も、基本的に霊をベースにしています。
「人の顕在意識は、潜在意識のあり方によって規定されている」という、フロイトに始まった考え方がありますが、霊の意識は、その潜在意識に相当します。
これをあらかじめ抑えておかないと、イエスの教えを「現世的な処世訓」道徳論のほうに自然と解釈していくことにないります。
日本のキリスト教信仰者でもこういう信仰者が多いので、あらかじめ人間観も、よく感覚になじませなければならないそうです。
霊というのは、肉体を構成する原子や素粒子の何万倍も微小な超微粒子で構成されていると考えたらいいでしょう。
一方に肉体は原子、分子レベルの要素で構成されていています。
そして、肉体と霊との関係は、森林とひとまとまりの霧のようなものだとイメージします。
霧は森や林の木々の間に流れ込んでいったり、出たりできますが、聖書では霊もそんなふうに肉体に入ったり、出たりすることもできるということになっています。
それから霊の形ですが、人の霊の場合は、まずその姿形も大きさも肉体と同じと想像しておいていいでしょう。ただ霧だから、柔らかくて伸縮自在なわけです。
聖書には「肉体は、霊が入っていることによって生かされている」という思想があります。
霊という霧がないと、肉体の森は循環運動が出来なくなりますので、霊が肉体を離れても戻らないとなると、その体は死んでいくという理屈になります。
たとえば、イエスがいわゆる十字架上の死を遂げるシーンでは次のような記述があります
「イエスは酸いぶどう酒を受けられると『完了した。』と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった」(ヨハネによる福音書、19章30節)
では、霊が身体に戻れば生き返ることになるのか。
「人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑っていた。しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。『子どもよ。起きなさい。』すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった」(ルカによる福音書、8章53-55節)
「いのち」とは何か
「霊」にはエネルギーを与えてあげることが必要になります。それが「いのち」です。
肉体は食べ物と水が与えられないと、活力を失っていきます。
同じように、霊にもいのちを与えないと、活力が減退していってしまいます。
そのエネルギーは創主から全空間にあまねく放射されています。
問題なのは、被造物の霊がこれを吸収するかどうかです。
吸収してたくわえれば生き生きとした「活霊」になりますし、欠乏すれば力ない「死霊」になってしまいます。
いってみれば、人間をはじめとして、被造物の霊は「充電式乾電池」のようなイメージです。
霊の電位は、常に充電していないと下がっていきます。
霊が意識活動をすれば、エネルギーは消費されるし、自然放電もあります。
「活霊」であるためには、いつも充電が十分にされていなければなりません。それを怠って充電不全になれば「死霊」に向かって進んでしまうことになります。
では、どうしたら充電されるようになるか。
それは「その霊の意識状態が、創主の意識と協和しているとき」という思想です。
ここで「霊は意識の本体」ということが関わってきます。
つまり、創主もまた例だから、相応の意識を持っています。同時に、そこから無限の命エネルギーが放射されています。
それを自らの霊に浸透させるには、放射体と協和する意識を保っていることが必要、という図式になります。
物理的にイメージすると、最近では、人間が意識活動をすると、その状態によってα波やβ波といったさまざまな波形を持った脳波が出るということが明らかになっています。
人の霊からも、その意識状態に応じて様々種類の波動が出ると考えたらよいでしょう。
他方、創主からもまた、その意識状態に応じた波動が出ています。
そして、創主から放射されているいのちエネルギーもまた、波形を持っていると考えてください。
すると、人間の霊の意識波動と創主の意識波動の形が類似なものとなって協和することがあります。
そのときに初めて、いのちエネルギーはその人の霊の中に浸透していくというイメージです。
キリスト教の「罪」
「原罪」
いのちが欠乏していれば、霊の内部で「死」の領域が増えていくことになります。
意識(霊)がそういう状態になっていることを、聖書では「罪」といいます。
「罪から来る報酬は死です」(ローマ人への手紙、6章23節)
「罪」というと、日本人は、法律的道徳的なことをまず考えます。
もちろん、法律的な罪や道徳的な罪も、聖書の罪と全く関係ないわけではありません
しかし、あくまでも周辺的な罪です。
聖書の「罪」の考え方は、三重構造になっています。
中心部に位置するのが「原罪」です。
「原罪」とは、創主から意識をそらすことによって、いのちが吸収されなくなっていることをいいます。この状態が発生すると、人間の霊にはいのちエネルギーの「充電不全部分」が形成されることになります。
そして、聖書では、今の人類にはみな充電不全部分があるという思想です。
しかし、初めからそうだったわけではありません。
創主は、人類の祖先であるアダムとイブをもともとは「充電完全状態」に造ってエデン楽園に住まわせました。
その際、園の真ん中に「いのちの木」と「善悪の知識の木」をはえさせておいて次のように命じます。
「『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ』」(創世記、2勝16-17節)
この命令が、聖書の一大キーワードである「罪」に関わってきます。
これを食べるというのは「自分はそれで『善悪の知識』を持てる」と思うことです。
本来、二人はそう思っていなかったから、善悪の判断はすべて創主に伺っていました。
こうして常に意識を創主に向け、創主の意識と協和させ、啓示を受けていたという道理です。
なぜかというと、善悪の判断というのは、人が何かしようとする時に、いつも意識の中で行う最終段階の作業だからです。
私たちは何かしようとする前に、その行為や、行為の結果の善し悪しに想いをはせます。
結果が好ましいものならば実行しようとしますし、そうでなければやめようとするでしょう。
人間はこんな風に日常、頻繁に善悪判断をしているわけですから、それをそのつど創主の啓示を受けるということは、いつも「創主を思いの内に入れている」ということになります。
反対にいうと「もう知恵が出来たから、自分で判断できる」と思うことは、創主を意識から締め出すことにつながってしまいます。
アダムとイブはそれをやってしまいます。
悪魔がイブを誘惑して、やらせてしまいます。
「女は蛇に言った。『私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、創主は⦅あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ⦆と仰せになりました』そこで蛇は女に言った。『あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べる時、あなたがたの芽が明け、あなたがたが創主のようになり、善悪を知るようになることを創主は知っているのです』(創世記、3章2-5節)
「女」はイブ、ここでの蛇は悪魔がそれを通して働く存在です。
蛇は、木の実を食べれば「創主のようになり、善悪を知るようになる」と言います。
これは「偽り」で食べても創主のように善悪を知る知恵はできません。
聖書ではだましは悪魔の「主要武器」ということになっています。
ところが、イブはのせられて食べてしまいます。
悪を知らない二人だから、アダムも妻に続きます。
「そこで女がみると、その木は、まことに食べるのによく、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた」(創世記、3章6節)
以後二人の内には、従来の創主の位置に自分を置いてイメージするような意識状態が出来上がります。
そして、できもしないのに自己流に善悪判断をしていくことになります。
これが「原罪」人間が初めて犯したオリジナルの罪です。
この罪によって二人は楽園から追い出され、苦難に満ちた荒れ野に出ていきます。
これが聖書の最初に出てくる物語です。
善悪の判断を自分でするようになれば、実質上、日常的に創主に意識を向け続けるのをやめることになります。そうすれば、意識波動は創主の意識波動に会わなくなっていきます。
その結果、創主から放射されている「いのち」というエネルギー波動と彼らの意識波動は共鳴しなくなり、吸収されなくなります。人の霊は、この波動の充電式乾電池のようなものですから、エネルギーが充電できなくなれば、充電不全の部分、すなわち「罪」が出来上がるわけです。
「思いの罪」
原罪は「よからぬ思い」を果実のように派生させるというのが、聖書の次の道理です。
これが第二層の「思いの罪」にあたります。
原罪があると、人のうちに「殺してやりたい」「死ねばいいのに」となどという思いや、「盗りたい」といった盗みの思いが生まれてしまいます。
原罪がよからぬ思いを派生させるという理屈の裏には、「いのち」は創主から出る「聖なる」エネルギーだという思想があります。なので「いのちエネルギーに満ちた霊は、聖なる意識を作り出す」という考え方です。
そして、いのちエネルギーの欠けた「死」の部分からは、それと反対に「汚れた」意識が形成されることになります。
聖書では「いのちの欠如=死=汚れ」です。
こちらのイメージとしてはこの世のギラギラした欲望に満ちたような意識とでもなるでしょうか。
このように原罪が「死」をつくり、それが「よからぬ思い」を派生させることになります。
その意味でも、神学でいう原罪は「源の罪」ともいえるかもしれません。
「行いの罪」
そして最後に「思いの罪」から、一番外側の層「行いの罪」が派生します。
これは、「盗りたい」という思いがあるから、あるとき、「盗み」という行動に繋がっていくわけです。
旧約聖書における「罪」は、基本的にこの類の罪に対応しています。
それを規定しているものを「律法」といいます。
律法は、広い意味では旧約聖書の初めから5つの書に示される命令のすべてを意味します。
狭い意味では、シナイ山でモーセに創主から与えられた「十戒」を意味しています。
モーセの十戒については、当時の「出エジプト記」を踏まえながらその内容を説明していきます。
1あなたはわたしのほかに、何ものをも神としてはならない
「わたし」とはもとよりヤーウェ(創主)であり、「あなた」とはイスラエルの民です。
そしてこの神はこの民をエジプトから導き出した神であり、創主とイスラエルは救済史的意味において不可分に結び付けられているわけです。
「わたしのほか」とはわたしと並んでとも解されますが、創主のほかこの神と並んで別の神を信仰し礼拝することは、創主への反逆であるという意味が含まれます。
イスラエルにとって神とすべきものはただ一人ヤーウェのみ、他の神々は彼らにとって真の神にたりえないものです。ここにイスラエルの神の独一性・唯一性ということが強調されます。
それはイスラエルにとってという意味で会って、全世界全人類にとってという意味ではありません。
十戒における神の唯一性の主張は宗教学者の言う拝一神教であって、唯一神教ではありません。
したがって、創主は他民族・多種族にはそれぞれの神とするものが存在すること自体は認めています。
しかし、やがて拝一信教は唯一信教に発展していきます。
そのため旧約時代の後期、ユダヤ教・キリスト教、またイスラム教における唯一神教の信仰と思想とはモーセの十戒における神の唯一性の主張に始まるということができます。
2あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはいけない
創主は人間の目には見えない神ですので、それをいかなる形によっても拝してはならないというわけです。
さらに「上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、どんな形を造ってはならない。またそれにひれ伏し、仕えてはならない」と禁じられています。
この禁令は、古代エジプトにおいて種々の動物が神として拝せられていたことを連想されます。
「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから」と附則に記されています。
「妬む神」の原語には嫉妬の意味と共に熱心の意味があります。
その動詞形は「嫉み深い」「熱烈に燃える」の両方を意味し、十戒の場合創主のイスラエルに対する熱烈な愛を表す語です。
神の命令に服する限りはどこまでも之を助ける。しかし、これに背く場合は厳しく罰し、それは当人のみならず三代四代に及ぶとされ、戒めを守る者に対しては主の恵は千代にまで及ぶとされます。
「あなたは自分のために」という添え書きがなされているのは、神をかみ以外のいかなる形においても礼拝することは、一言で言えば偶像礼拝でそれは想像者を拝せず被造物を拝することになります。
このような礼拝は「あなたは自分のために」と警告されているように、結局人間の利益、地上的幸福、名誉のための神礼拝であって、神のための礼拝ではないという意味があります。
創主がイスラエルをエジプトから解放したことも彼らの自由と幸福のためですが、根本的には神の栄光・名誉のためであり、人間はこの神に奉仕すべく造られたもので、イスラエルは創主に使えるべく救い出されたわけです。
彼らは今まではエジプトの奴隷でしたがいまや創主の僕となります。
人間は根本的には神に仕える者であって、神以外の者、人間その他に仕えるべき存在ではない、ここに聖書の説く人間の自主事由の根本的な意義が存在します。
偶像礼拝の禁止は、それがただある形をもって神を礼拝するというのにとどまらず、それによって神を人間の僕とみなすからで、神をもってあくまで神とするためには、偶像はあくまで禁止されなければなりません。
「彼らは銀と金とをもって、自分達の滅びのために偶像を造った」と罵倒しているのもそのためです。
3あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない
「みだりに」とは邪悪・虚偽・空虚等の意味があります。
そこで「みだりに」とは、やたらにとか無暗にとか、また軽々しくと解せられ「主よ、主よという者がみな天国に入るのではない」といったイエスの戒めを、わたしたちはただちに思い起こしますが、呪術や魔術のために神名を唱えてはならぬと解すべきです。
つまり、それは人間の利益のために神の名を乱用するものであって、これはまさに虚偽であり、邪悪でさえあるわけです。
神の名が人の用に供せられる。このような神名の唱え方は古代東方の諸宗教においては極めて普通のことですが、モーセはそれを厳しく禁じたので、その根本精神において第二戒と通づるものがあるといえます。
4安息日を覚えて、これを聖とせよ
安息日については、出エジプト記では神は六日にして天地・草木・鳥獣・人間を創造し、七日目は休息されたということをもって理由としてますが、申命記の方では、イスラエルはエジプトにあって奴隷として酷使され、休息日などは思いもよらぬことであった、しかるに神はそこから彼らを救い出されたのであるから、一家の主人のみならず、家族全体・家畜・他国の人をも休ませるべきである、と記されています。
「安息」という原語には「休む」「止める」の2つの意味があり、元来安息日はバビロニアなどでは、不吉な人して平日の仕事を休むために定められていました。
7・14・19・21・28日がそれであり、それは月の運行に関係があったといいます。つまり、その日には何をしてもうまく運ばない、そのため仕事を止めて休むという習慣でした。
十戒においてはこの日が積極化されて、神の日として聖別されます。
その意味では平日とは異なった神の日として守らなければならぬという厳しい命令です。
5あなたの父と母を敬え
「敬え」とは原則通り「重んぜよ」です。
イスラエルも古代社会のことですから、社会的には男性の方が女性よりも優位を占めたことは当然で、ことにこの民は原則として父系家族から形成され、母系家族の集団はありませんでした。しかし、旧約において父母双方を恐れ尊ぶべきことを命じ「その母とその父をおそれよ」と順位において母が父より先になっている場合さえあります。
それゆえへブル人の家庭においては、根本的には父母は同格であったとみなければなりません。
神は人間の創造に当たり、男を「神の像」に造るとともに、女も神の像に造った、つまり人間が神の像に造られたという点において、男女全く同格です。
それゆえパウロも男は女の栄光であるとともに女も男の光栄であるといっていますが、この場合原語は全く同じです。
この命令において最も注目すべきは、十戒の第二部である人間対人間のかんけいを定める掟の冒頭であることです。
父母はその子供たちに対して神の栄光を代表する者であり、それを伝える責任を負うているといえます。
もちろん、イスラエルも古代社会のことですから、大家族制度で会ったことは創世記の物語においてみるところですが、その中心をなすものは夫婦の関係、ことに親子の関係であったことは言うまでもありません。
そのため十戒の第二部の冒頭に、まず父母に対する子のとるべき態度が明記されていることは注目すべきです。
それは出エジプトのへブル人が創主の賜る約束の地において長く命を保ち、その子孫がさいわいを得るためと付言されていることによっても察せられます。
反対に「父または母をのろう者は必ず殺さねばならぬ」とはなはな厳しく定められています。
「のろう」とは「軽んずる」で「敬え」の全く反対の意を表しています。
6あなたは殺してはならない
この「殺すな」はある者が隣人に立ち向かってそれを殺すと言う場合に用いられています。
つまり反共同体的な殺人を意味するといわれています。
そもそも旧約聖書は戦争を否定していないし、むしろそれを命令しています。
また犯罪を罰するために死刑も認められていたわけです。
しかるに十戒に殺すなかれと禁じられているのは、その殺人がイスラエルの共同体に反する行為である場合を指します。
生命の尊重ということが強調されるのは、新約聖書、キリスト教ではじめて主張されることで、人類全体を一つの共同体とみる人類愛とか世界平和とかが確立されることを前提とします。
しかし、原初的な表現ではありますが、第六戒はやがてはその方向を指さしているとは思いますが。
7あなたは姦淫してはならない
古代イスラエルにおいて、一夫多妻制を禁止しているものではありません。
モーセ自身が正妻チッポラのほかにクシの女をめとっています。
ただ妻は夫に対し、許嫁はやがて夫たるべき男子に対して、誠実であることが求められているにすぎません。
しかし、この禁令を延長し、徹底させ、一夫一婦の家庭生活を確立することは、これまた新約の信仰、キリスト教からになります。
旧約において「姦淫」という原語には種々ありますが、それは男女の不潔な関係を意味するとともに、より大きく創主以外の神々と道ならぬ関係を結ぶことを指しているのも注目すべき点です。
8あなたは盗んではならない
説明なし
9あなたは隣人について、偽証(偽って証明、証言)してはならない
この戒めが「偽証」の文字を示しているように、もっぱら法廷の証言に関係するものであることは注目すべきです。
しかし、それはただ法廷に限らず、一般に偽りの証言をすることが罪悪であったということです。
後世の預言者も十戒に触れ、のりい・人殺し・盗み・姦淫とともに偽りの罪に触れています。
ことに、神に誓って偽りの証言をなくすことは極めて冒涜的な罪でした。
同じ共同体に属する者同士に、それが法廷では勿論、それ以外の場所においても互いの真実を裏切るような言葉のみならず、行為があってはその共同体は崩壊するほかはないでしょう。
そのため、この戒めは後世の予言者ことにエレミヤなどに大きな影響を与えたと思われます。
詩篇の詩人が神の幕屋にやどる資格ある者として「直く歩み、義を行い、心から真実を語る者」をあげていることは、わたしたちのよく知るところです。
10あなたは隣人の家をむさぼってはならない。
「盗む」が主として行為にかかわるとすれば、「むさぼる」は意欲を意味します。
十戒の道徳律は、人間の外面のみならず内面にも関わっているほどに厳しいものであることを注意しなければなりません。
「むさぼる」の原語は何かを好もしく思うとともに、それを自己の所有に帰したいとひたすら願う意味も含みます。
パウロはこの第十戒に触れて、人間の内心の罪悪に触れています。
むさぼる対象に出エジプト記には「隣人の家、妻、家畜またすべての隣人の所有」となっていますが申命記ではまず隣人の妻があげられ、次に家その他が記され、言えと妻との順序が出エジプト記とは逆になっています。
以上、十戒は要するに、イスラエルは奴隷の国エジプトを脱出し、シナイの広野を放浪しつつあるわけですが、やがてヨルダン川を渡ってカナンに侵入し、ここに定住して十二の部族が団結し、一つの新しい国民となり、またやがて国家さえも建設するにいたるために、その団結の基本となるべきものが、神の戒めまたは命令として、モーセを通して明らかにされたわけです。
当時このような厳命がイスラエルの民に与えられたのは、ヤーウェが奴隷の国エジプトで思い苦役に悩んでいたイスラエルを救い出し、彼らの自由の天地を与えたからですが、その自由は、十戒に記されているような思いに責任によって裏付けられます。
自由の与えられるところ必ず責任を伴い、逆にいえば、責任を負う所にはじめて自由を自己のものとすることができるという、両者いわば緊張の関係を明らかにする重要な言葉でした。
旧約聖書時代のユダヤ教の僧侶や信仰者たちは、これに反しないようにひたすら心がけていました。
そして、自らを「罪なき者」と思っていたわけです。
そこへイエスが現れて、行いだけではなく「その思い」も罪になると教えました。
たとえば、有名な「女を見て姦淫の情を抱けば、姦淫の罪を為したことになる」という教え(マタイ福音書、5章27-28節)などがそれです。
こうして、新約聖書では「思いの罪」が追加されます。
人間が未熟な間には、まず「行い」を規定する律法が示されます。
しかし、それは本来「思い」をもカバーするものなのです。
これがイエスの宣言の主旨です。
「私はこの世に律法を.....完全化しに来たのだ」(マタイによる福音書、5章17節)
しかし、その「思い」の源には、実はもう一つの罪である原罪があります。
イエスがあえてそれを言わないのは、」これはもう聖書思想の「当然の前提」だからです。
聖書ではダムとイブから子孫が増え、今日の我々に至っているとなっています。
子孫の霊は、アダムという幹から枝に分かれるように、次々に分離していくというのが聖書の思想です。
すると、全ての人間は、生まれる前から充電不全の霊を受け継いでくることになります。
聖書で「人はみな罪人」というのは、そうした筋道の下にいわれています。
決して「人間はみな生きているうちに悪いことをするものだ」というようなものではないです。
現代人は天国へ入れない
原罪はすべての罪の源であり、この罪が人間の永遠の幸福、不幸にかかわってきます。
聖書では、この宇宙はいずれ火で焼かれて消滅することになっています。
「しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです」(ペテロの第二の手紙、3章7節)
宇宙が焼かれた後に残るのは、「火の池」(地獄)と天国だけです。どちらも永遠に続きます。
そうなると、人間の霊はそのどちらにいかれるか、ここしばらくの話ではなく「永遠にどうなるか」という問題です。
火の池に入れば、熱い苦しみの世界で、天国に入ればすがすがしく心地よく、喜びの毎日です。
では、どうしたら天国へ入れるか、自分の霊に原罪がない状態でなければなりません。
言い換えれば、霊の「いのち充電度」が100%でなければなりません。
「言語区は、完全なものだけが住めるところ」
これは「アダムとイブが原罪を犯して、エデンの園から追放される」という物語に示されています。
エデンの園は天国のひな型で、比喩でもあります。
エデンの園に「不完全な者」が住めないように天国にも不完全なものは住めないのです。
このように、旧約聖書というのは「本物をひな型で示すもの」になっていてそのホンモノをイエスが明かしてしまうというのが聖書全体の構造になっています。
では人間は、先ほどのアダムとイブの物語から木の幹から枝に派生して出てきた人間はそのことに気づき、再び意識を創主と完全に調和させることは可能かというと、それはできません。
「人の意識はその霊がもたらす」ものだからです。
創主と完全に協和する意識、そういう「聖なる意識」は、充電度が完全でないと生じません。
充電度の低下した霊は、創主についてよりも、この世のことに関心がある「死霊」の部分を持っています。
それが、創主の意識と不協和な「世の意識」をもたらします。
なのでもはや自力では、意識を100%創主と協和的にすることはできません
そういう意識がある限り、決して充電は完全なものになりません。
その充電不完全な霊が作りだす意識は、決して100%聖なるものにはなりませんからまた充電は不完全なものになり、いくらがんばっても、この繰り返しをするしかなくなります。
このままでは誰も天国に入れません。
イエスは「救い主」
そこでかんでくるのが、聖書の主人公イエスの十字架死です。
彼は、聖霊が処女マリアに懐妊させて生まれた「創主の子」ということになっています。
だから、アダムの子孫ではありません。
となると、彼の内にある霊はアダムの霊から枝分かれしたの者ではない、創主の霊、すなわち、聖霊です。
そのイエスが十字架をかけられて死ぬ。そして、それが火の池行きから人類を救うものとなります。
聖書では、現在を犯す前のアダムとイブの肉体は死なないことになっています。
聖書には「肉体は霊の状況を反映するもの」という思想が常にあり、当初、アダムとイブの霊にはいのちが100%に満ちていて、死は0%でした。
すると、その肉体には死がないことになります。
彼らの肉体の死は意識が創主と不協和なものに変わってからやってきます。
「あなたは土にかえる。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない」(創世記、3章19節)
アダムの霊に「いのち」が欠けた状態になってから、彼に投げかけられた創主の言葉です。
この法則からいくと、イエスの肉体は死ぬ必要がありません。
そもそも、彼の肉体は私たち人間のものとは違うことになってきます。
万物の創造主から出た言葉を「ロゴス」といいます。
人間の口から出る言葉と区別するために「言」と訳されることが多いです。
このロゴスが肉体になったものが、イエスの身体ということになっています。
「はじめに言があった。言は創主と共にあった。言は創主であった.....。....そして、言は肉体となり私たちのうちに宿った。私たちはその栄光を見た。それは父なる創主のひとり子としての栄光であって、めぐみとまことに満ちていた」(ヨハネによる福音書、1章1-14節)
これはその思想を示しています。
イエスの内にある霊は「創主の霊」です。創主の霊となれば、それは「いのちエネルギー」の無限に湧き出る源泉です。
なので、その充電度たるや100%どころか、無限大といったところでしょう。
もちろん、その肉体が死ぬ必要はまったくありません。
これを悪魔(に殺意を与えられたユダヤ人)が殺すというのが、イエスの十字架刑死の位置づけです。
その結果、肉体を生かすという役割から解放された「いのちエネルギー」が、イエスから無限に出現することになります。
イエスは、これを人間の霊の充電不足分をカバーするために使えといいます。
イエスが手にしたのは、原点より沈んでしまっている人間に、自分が作った浮きを使ってエネルギーを補充するように言いました。これが十字架による救いの理論です。
「資格」は受諾して効力を発揮する
しかし、イエスの十字架死によってもらえる充電補充のためのエネルギーは残念なことに、本当だと認めた人だけに効力を発揮します。
「救い」というのは法的な性格を持っていて、一種の身分というか、資格を与えることにあるわけです。
ともあれ、「ただ認めるだけで、その人の霊は最後の審判のとき、天国に入る資格を得る」という知らせは、もし本当ならば、こんな結構なことはありません。
「教団の溜めに身を粉にして働け」「とか多額の献金をしろ」とかそういう条件は一切ありません。
この聖書の考えそのものを受け入れることが「資格」であり「救い」になるわけです。
この情報は「いい知らせ」であって聖書はそういう「いい知らせ」を伝えるものです。
日本ではこれを「福音」と訳し、ちょっと凝って「ふくいん」と読ませるようにしました。
だから、福音書というのは「いい知らせが書いてある文書」という意味です。
聖書の世界観
創造以前の歴史
最初の段階は、創主だけが存在している状態です。
創主は、時間、空間的に無限の霊的存在です。
永遠の過去から永遠の未来にわたって、かつ無限の空間にわたって存在します。
ほかのすべてのものは、創主によって存在せしめられていきます。
創主はほかの何ものによっても存在させられていない。その意味で自ら存ずるものです。
「わたしは、有りて在るもの」(出エジプト記、3章14節)
無限者たる創主は、まず有限の空間である「天国」を造ります。天国というのは作られた空間、すなわち被造空間です。
天は私たち地球上の人間から見れば、とてつもなく広大な空間です。
それからすれば地球など、チリ以下の存在でその天も被造物であるがゆえにやはり有限な空間です。
次に、創主は天国の一角に自らの「名」を設置します
「天にまします我らの父よ、御名があがめられますように....」(マタイによる福音書、6章9節)の聖句は、一見天に創主がおられることを示しているようですが、天国というのは有限な被造空間です。
父なる創主は無限者ですので、有限な空間には入れません。
そこで、あとから造られる天使たちがあがめるために、創主は自らの「名」を置くことにします。
続いて、創主は天国を聖霊で満たします。
聖霊とは、父なる創造霊から分離するようにして出たもので、本質は無限者と同じ霊です。
創主の霊と違う点の一つは、有限なまとまりを持っているということです。
また、聖霊はどれもみなまったく同一なもので、働きも同一です。
なので、聖霊は究極的にはそういう意味での「一者」ということになります。
聖霊は、後に人間の住む地上にきて、さまざまな働きをすることになります。
続いて、多数の「天使」が造られます。
天使は、人間の目には見えない霊的な存在です。
天使の最も基本的な仕事は、天に置かれた創主の名をほめたたえることです。
つまり、天とは「天使たちが四六時中、創主の名を賛美している空間」ということになります。
有名な「主の祈り」の中に「御名があがめられますように...」という一説がありますが、これは「天国で、天子が創主の御名をあがめますよう....」という意味です。
その意味でも「天とは創主の天国」すなわち天国になります。
また、天子はこの世にやってきて、さまざまな奇跡を起こす「力のある存在」でもあります。
人の姿を取って、人間の前に現れることもできます。火や風になったりすることも可能です。
「御使いについては『創主は、御使いたちを風とし、使える者たちを炎とされる』と言われました」(へブル人の手紙、1章7節)
天使には奇跡を起こす「権能」が与えられています。権能は物理的な力で、それに対して、創主はそうした力を表すことを命ずる「権威」を持っています。
権威とは「他者を服従させる法的な力」です。
聖書の思想では、創主の権威は誰かから与えられたものではない意味を持ちます。
創主自らが権威の源というわけです。その意味で、究極の権威者です。
天使は、この権威ある命令を受けて働くことになっています。
新約聖書にはたくさんの奇跡が記されていますが、その多くは天使の道理です。
この宇宙に多数の天使が出張してきています。
初めに創主という存在が、目に見える物質(被造物)と併存している様子を創造してもらいましたが、地球上の全人口を上回る数の天使も併存しているというイメージを造っておく必要があります。
その際、まるまると太った赤ん坊の背中に羽根がついているような、ああいういものを思い描いてはいけません。あれはキューピットというローマ神話に出てくる恋愛の神であって、天使とは全く別物です。
いろいろと変身はしますが、原型は人間と同じと考えていいです。
天使は創主の命令に絶対服従しなくてはなりません。
いわば「奴隷的立場」として造られた存在でもあります。
軍隊上の組織を構成していて、上位者の命令には絶対服従すべき存在です。
もちろんん、独立の意思を持つ存在として造られてはいますが、その意思も命令に服従する用に用いるべきものとしてのみ、与えられます。いろいろと自分の自由にやってみるように使うことは許されてはおりません。
サタンの出現
あるとき「創主の名」を賛美する役割を持った天使軍団の長が「自分も賛美される立場になりたい。そういうことをさせられっる自分の国がほしい」と思うようになります。
そして、自分の王国を造ろうと動き出して、結果的に全天使の三分の一を配下に置きます。
部下たちは命じられるままに、創主の定めた職分に従わない行動をとり始めました。
天使は被造霊です。被造霊が本来の姿で生き続けるためには、創主に意識を向けて「いのちエネルギー」を充電し続けなければなりません。もしも創主から意識を逸らし、波動を不協和にしてしまえばエネルギーは吸収されなくなり、充電不足に陥ります。
しかも、この天使は意識をそらしただけではなく、それを超えて創主に「対抗」するところまでいってしまいました。
物理的なイメージとしてはいのちエネルギーが充電ゼロを超えてマイナスにまで進むことになります
「いのち」のマイナス値はすなわち「死」です。
こうして、この天使はまったく変質してしまって「サタン」となり、「死のエネルギー」をプラスの値として持つことになるわけです。
聖書でサタンを「死の権をもつもの」といっているのは、そういう意味です。
サタンの本来の姿に関する描写はないのですが「古い蛇」という記述は「黙示録」(12章9節)にあります。
イエスの登場
彼は、天使が創主に対抗したその時、創主のふところに出現します。
このときは、まだ肉体を持った「人の子」とはなっておらず、霊としてのイエスです。
彼は、父なる創主の全権を一手にゆだねられて、無限界から天国に入ってきます。
そして、この空間の中で、以後のあらゆる創造の業を代行していくことになります。
イエスはまず、天国の一角にサタンとその部下たちを閉じ込める暗黒空間を作ります。
これが「宇宙」です。
そして、創主に従う天使たちに命じて、反抗した天使たちをこの宇宙の中に追い落とし、閉じ込めます。
「主は、自分達の立場を守ろうとはせず、その居るべきところを捨て去った御使いたちを大いなる日の裁きのために、永遠に縛り付けたまま、暗闇の中に閉じ込めておかれた」(ユダの手紙、第6節)
ここで「大いなる日の裁き」とは「この宇宙が火で焼かれ、被造物がすべて最後の審判にかけられる日の裁き」をいっています。
そして、ここでの「暗闇」は「創成前の宇宙」のことです。
この段階では、地球は「まだ影も形もない」ものです。
異常が聖書を正確に理解するために非常に大切なポイントとなります。
聖書では、宇宙は悪霊たちを閉じ込める牢屋のようなものとして、造られます。
悪霊たちは基本的には牢の中の囚人、サタンは牢名主というような立場になります。
サタンのこの状態が悪魔です。
聖書の中で悪魔が「この世(宇宙)の君(君主)」と記されているのは、そういう意味によるものです。
天地創造
天地創造というのは、サタンを閉じ込めた牢(宇宙)の中に、創主の子イエスが地球を造り、人間を造っていくくだりということになります。
「初めに、創主が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、創主の霊は水の上を動いていた。そのとき、創主が『光よ、あれ。』と仰せられた。すると光ができた」(創世記、1章1-3節)
創主イエスは「水と水との間に区別があるように」ということばを発して宇宙を膨張させます。
これがいわゆるビッグバンに対応しており、以後、彼は地球を造り、海を造り、植物を造り、人間を造っていきます。
人類の始祖アダムはその中で造られます。
彼は、天使と違って肉体を持つものとして造られ、創主と交信できる霊が入れられます。イブも同様です。
彼らはまた自由意思を持つものとされます。つまり、自らの意思で創主にその意識を全面的に向け、その言葉に従って生きる存在としてスタートします。
悪魔という「牢名主」が支配する宇宙の中にそういった存在が造られます。
アダムとイブは善良で全く悪を知りません。創主はエデンという地に特別な園を造り、彼らをそこに住まわせます。これがエデンの楽園です。
ところが、楽園とは言っても、所詮は「牢屋」の中です。
まもなく悪魔がアダムとイヴに忍び寄り、あまりにも善良な彼らはだまされて「自分も創主のように賢くなれる」と思いこみ、もう創主の言葉に従わなくなってしまいます。
そのために、彼らの意識は創主と不協和なものになり、充電不完全な霊となってしまいます。
創主は二人をエデンの楽園から追放します。
エデンの楽園は、「天国の模型・ひな型」なので、アダムとイヴが追放されるという事件は「本物の天国には完全な者しか入れない」という原則を示します。
楽園を追い出されたアダムとイヴには子供が生まれ、その子孫は繁殖を開始します。
しかし、創主はその後、人類の堕落を見て、一つの家族を残して皆滅ぼしてしまいます。
残されたのは信心深いノアの家族です。
彼だけが創主の心にかなっていたいました。
「すべての肉なるものの終わりが、私の前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている」(創世記、6章13節)
創主は信仰の確かなノアに大きな船を造らせ、そこに彼の家族と、すべての種類の動植物を一つがいずつ入れさせます。
そして、大洪水を起こして他を滅ぼします。
これが「ノアの箱船」の物語です。
このように、人類は再びノアの家族から増殖を始めたことになっています。
その何代かあとに、アブラハムという信仰深い子孫が出てきます。
イエスが地上に生まれる2000年前、現在のわたしたちからは4000年前、創主は、彼の子孫が形成する民族を受け皿にして、人類にメッセージを与え始めます。
彼らはメッセージを律義に保存していきます。
それを編集したものが旧約聖書です。
そして、メッセージには、創主から人間への命令(律法)がたくさん含まれます。
彼らはそれに従って暮らします。
この「教理を共有する」ということが、血統以上に同じ民族仲間であることの証になっています。
なので、別の教理に従おうという者は、血族であっても、家族、民族から追放されます。
つまり、ユダヤ民族にとって「他民族」とは、異邦人というよりも「異教人」となります。
預言者から士師、王が統率する時代へ
創主は以後もイスラエルの民の中から特定の人物を選び、言葉を預けていきます。
こうして、数多くの預言者が出てきます。
有名なモーセはそのひとりです。
「十戒」も、彼を通して人々に与えられます。
イスラエル人は最初、これら預言者によって統率され、民族としてのまとまりを保っていましたが、後に、士師(さばきつかさ)という政治的・軍事的指導者がその役割を担当するようになります。
更にその後、政治体制は王政に変わります。
彼らに敵対する民族からの圧迫がどんどん強くなる中で、民族がまとまりをもつためには、王を選んでそれに従うしかないと考えました。
最初の王はサウル王。30歳で王となりました。
イスラエルには12の部族がありますが、その長老たちがサムエルという最も優れた預言者のところに行って王の選択を頼み、サムエルが霊感を受けてサウルという青年を選びます。
イスラエルの全部族を統治し始めたサウルは、異邦人の軍隊を次々に打ち破ります。
こうして彼のもとに権限がますます集中していきます。
二番目はダビデ。ユダヤ人の王国を確立し王であると同時に預言者でした。
ダビデが受けた多くの霊感は旧約聖書の「詩編」に収録されています。
さらに創主はこの「ダビデの家系から後に救い主を出す」という啓示を与えます。
そして、イエスはその家系に生まれてきます。
三番目はソロモン王、ダビデの子の一人です。
治世40年の間に壮大な神殿を立てました。
聖書に収められた「箴言」の多くは、ソロモン王によるものです。
ソロモン時代に最盛期を迎え、イスラエルの国勢は衰退していきます。
イエスが誕生する700年前にイザヤという預言者が預言を残しています
「彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎めのために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」(イザヤ書、53章5-6節)
当時、この予言が何を言っているのかは、イエスが現れる前にはわかりませんでした。
旧約聖書は、これから現れる本物のひな型である聖書でした。これを「旧約は真理の影」ともいいます。
そして、紀元前750~700年あたりから、イスラエル民族はアッシリアやバビロニアといった他民族にとらわれたり、ペルシャ、ローマなどの支配下で生活することになります。
そして、そのローマ支配下のイスラエルに聖書の主人公イエスが生まれ、新薬時代に入っていきます。
イエスの時代
イエスの教えは新約聖書に収録されているので、これ以降の時代を「新約時代」と呼び、現代も新約時代となります。
イエスが人の姿をって人間社会に出現し、自ら人間の言葉で真理を明るみに出していきます。
さらに十字架にかけられ、殺されることによって、人類の「いのちエネルギー」不足分をカバーする無限の補足分を作り出します。
そして、このエネルギーの存在を認めさえすれば、自分にもその効力が及ぶという道が人類に与えられます。
イエスは死後3日目に復活し、人々の前に現れ、この「よき知らせ」を全人類に述べ伝えよ、と言って天国に帰ります。
だから、私たちの時代は「このイエスの言葉を受け入れた人達が、それを述べ伝える時代」ということになります。
聖書の未来予告
あるとき七年間の大艱難が起きます。「あるとき」がいつなのかは「父なる創主のみぞ知る」、イエスも知らないといいます。
「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます」(マタイによる福音書、24章36節)
世界終末論の「元祖」である聖書では断言しています。
なので日にちによる指定された終末論、ノストラダムスや新宗教教祖の預言は聖書通りではありません。
しかも、大艱難(だいかんなん)も「イスラエルの民とその周辺に起きる」という規模レベルです。
もちろん、そのとき、アジアや日本列島でも苦難が起きることになるかもしれません。
しかしそのあたりは聖書には書かれていません。
大艱難が起きると「空にイエス・キリストが現れる」と聖書は述べています
「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです」(マタイによる福音書、24章30節)
このとき、新しい出来事が起こります。
これまでイエスの教えのために殉教した聖徒が復活し、次に、地上にいる人間のうち、イエスの言葉を受け入れて、その霊の内に聖霊が入った人々は肉体が変容し、空中に昇り、イエスとともに空中にとどまります。
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それから、キリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らと一緒に雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです」(テサロニケ人の第一の手紙、4章16-17節)
この出来事は「掲挙」と称されています。
地上では大艱難が7年間続きます。その後、天使が、サタンを「底知れぬところ」に閉じ込めます。
「また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下ってくるの見た。彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした」(黙示録、20章1-3節)
こうなったところで、イエスが天に上げられた聖徒たちを従えて地上に降りてきて、地上に楽園を造ります。
これは1000年続くということで一般に1000年王国と呼ばれています。
1000年王国では、復活した聖徒たちがイエスとともに王として統治することになります。
「また私は、イエスのあかしと創主のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストともに、千年の間王となった」(黙示録20章、4節)
また、イエスの再臨のとき空中に掲挙された信仰者たちも、裁きの権威を与えられて当地に参加することになりました。
さて、サタンが底知れぬ所に閉じ込められてしまえば、悪霊軍団は働けなくなってしまう道理となります。
彼らはサタンの命令によってのみ動く存在だからです。
そして、人の思いは、根本的には霊がもたらすというのが聖書の理論です。
人の霊に悪い思いをもたらすのが悪霊です、それが活動しなくなってしまうというのですから、人間はもう悪い思いを抱く誘惑を与えられなくなります。
そうしれば、人の霊も「いのちエネルギー」の吸収率や充電度が断然よくなります。
その結果、肉体も活力を増して、病はほとんどなくなってしまいます。
地上がそういう楽園になるわけです。
これが1000年間続くといいます。
さて、1000年が過ぎると今度は天使が「底知れぬところ」に閉じ込めたサタンを解放します。
すると、サタン帝国の命令系統が復元し、悪霊軍団が再び活動できるようになります。
そして、四方に散って、世界諸国の人民に反キリストの意識を持つような意識波動をおよぼします。
影響された人間は軍勢をなして、千年王国の都を取り囲みます。
「しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放たれ、地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出ていき、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海辺の砂のようである。彼らは、地上の広い平地に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ」(黙示録、20章、7-8節)
しかし、この瞬間に天から火が降ってきて、彼らは焼かれてしまいます
「すると、天から火が降ってきて、彼らを焼き尽くした」(黙示録、20章9節)
こうして、宇宙も火で焼かれて消滅します。
最後の審判
宇宙消滅のとき、地上に生活していた人間は、肉体が焼かれて霊だけになっています。
それ以前にすでに死んだ人々も、もちろん霊だけになっています。
この全員が復活の身体を着てよみがえってきて、裁きの場に出されていきます。
もちろん、イエスの空中再臨の時に復活した人は、すでに復活の身体を着ています。
この審判の状況を想像して絵にしたのが、有名なミケランジェロの「最後の審判」です。
まず、この裁きを受けないでバイパスできる者がいます。
第一は、イエス再臨のときにすでに復活していた人たち、
先ほどの「イエスの証しと創主のことばとのゆえに首をはねられた人たち」と「獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たち」(黙示録、20章4節)です。
この人たちに起きた、イエス再臨の時の復活を「第一の復活」と言い、後にほかの死者たちが復活することを「第二の復活」と言います。
「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、何の力も持っていない」(黙示録、20章6節)
この「第二の死」とは、最後の審判で「火の池に投げ込まれる」(黙示録、20章14節)のことです。
「第一の死」は「肉体の死」です。
そして、この「第二の死が首をはねられた人たちにはなんの力を及ぼさない」というのだから、彼らを火の池に入れる力は存在しないということになります。
つまり、彼らは文句なしの天国行きで、あらためて裁きを受ける必要はありません。
第二は悪魔、
「天から火が降ってきて、彼らを焼き尽くした。そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいるところで、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける」(黙示録、20章9-10節)
悪魔は宇宙が消滅したら、すぐに火の池に投げ込まれます。
第三は獣とにせ預言は、1000年王国が始まる前に投げ込まれています(黙示録19章20節)。
第四は、イエスの教えを真理と認めた人達です。
「御子を信じる者は裁かれない」(ヨハネによる福音書、3章18節)
聖書で「信じる者は天国へ行く」というのは、このときのことをいっています。
創主の天国に入るのは、一般に考えられているよりもずっと後のことになります。
五番目はイエスに直接伝導されながら、教えを受け入れなかった人たちです。
「信じない者は創主の一人子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのはこうである。光が世に来ているのに、人々は光よりも闇を愛した。その行いが悪かったからである」(ヨハネによる福音書、3章18-19節)
ここで「光」はイエスのことなので、対象は「イエスに直接、福音を語られた者」に限定されます。
それ以外の人間は、みんな裁きの場に出されることとなります。
「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書き記されているところに従って、自分の行いに応じて裁かれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスもその中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の中に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名の記されていない者はみな、この火の池に投げ込まれた」(黙示録、20章12-15節)
「いのちの書に名の記されていない者は火の池行になる」とは書いてあります。
この書の名前は、聖書の他の箇所にも何度か出てきますが、名前を記されるためには「具体的にどうでなければならないのか」ということはどこにも書かれていません。
また、書物は「いのちの書」のほかにも数多くあり、それらに従って裁かれるというのだが、こうした書物が「どんあものなのか」も示されていません。
そして「行いに応じて」裁かれるというのが「どんな行いをしたら、どんな裁きを受けるか」という行いの中身については書かれていません。
結局、残りの人の裁きがどういうものになるか、解読できません。
「それから終わりがきます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、御国を父なる創主にお渡しになります。キリストの支配は、全ての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。万物が御子うに従う時、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方がに従われます。これは、創主が、すべてにおいてすべてとなられるためです」(コリント人への第一の手紙、15章24-28節)
イエスは「使命を終えて、天国を父なる創主に返す」というのだから、「無限者たる父の懐に帰る」ということです。
キリストは磔刑を逃れ日本へ亡命した
キリストの生い立ち
日本ではキリスト教はあまりなじみがない人が多いですが、キリストも実は日本と関連しているので当ブログでは、ここからは歴史的真相を追っていきます。
時はローマ帝国の圧政下、イスラエルのナザレに住む一組の夫婦が国勢調査の手続きのためにベツヘレムを訪ねました。
大工のヨセフと妻のマリアです。
宿はどこも満室だったのですが、臨月を迎えていつ生まれてもおかしくない妻を案じた宿の主人が「馬屋でもよければ」と好意で提供してくれたのでした。
そして、その夜、ひとりの男の子が生まれます。男の子の名前は「イサヤ」
後にイエス・キリストと呼ばれる子供です。
しかし、為政者がもっとも恐れたのは救世主の出現です、「ベツヘレムに救世主が生まれた」と知るやいなや、ただちにベツヘレムにいる新生児を皆殺しにする御触れが出されました。
ヨセフとマリアは夫婦と言えども、ヨセフはイサヤの実父ではなく、マリアは神の子を宿していました。いわゆる「処女懐胎」でした。
身の危険を直感したヨセフの来てんで、2人はイサヤをすぐさまナザレへと連れて帰ります。
イサヤがキリストとして伝道活動を始めたのは30歳頃からとされ、磔刑後に復活したと言っても、そのまま天に昇っていった、つまり昇天したのが33歳でわずか3年くらいしか伝道活動をしていないことになっています。
キリストについては幼少期の記録はほとんどなく、その誕生から磔刑、復活までの33年の生涯を記したといわれる新約聖書でも、13歳から29歳までの16年間がまったくの空白期間となっているのはあまり知られていません。
この16年間については諸説ありますが、13歳の時にインドに行って仏教を学んでいるという共通点はあります。
キリスト生誕のとき、東方から3人の賢者がひときわ大きく輝く星に導かれて救世主降誕の祝いの品を携えてベツレヘムへやってきています。
インドやヒマラヤでは星回りや予言などから仏陀やラマの生まれ変わりの子供を探し出し、その子供が大きくなったときに両親の元から離して教育を授ける習わしがあることからその可能性が高いですが、それが事実だとしても、16年間をずっとそこに滞在して言わけではありません。
実は、イサヤは20代の頃に日本を訪れていました。
その頃、祖国を失ったユダヤの民12部族は新天地を求めてすでに日本へ大移動をし、定住していました。
その昔ユダヤ民族をエジプトでの奴隷生活から解放し、神との契約「十戒」を記した最初の救世主であるモーゼが日本に来ていて、ユダヤ民族にとっては、日本こそが「陽出東の島」そして「約束の地 カナン」でした。
こうして各国でさまざまな学を得て母国に戻ったイサヤは、いよいよエジプトを訪ねてピラミッドの王の間で「ハトホルの秘技=祝の神事」を授かります。
『マグダラのマリアによる福音書』に書かれているとおり、このとき、イサヤは覚醒して本当の意味で救世主たる能力が開花します。
そこからキリストは積極的に伝道活動を開始し、奇跡を起こしながら不遇の民を癒し希望を与えていきます。
水をワインに変える、海の上を歩く、たった5つのパンと2匹の魚で5000人の上を満たす。盲目の人の目をみえるようにしたり、息子の死を嘆き悲しむ母の目の前で息子を生き返らせたりし、キリストの人気は破竹の勢いで拡大していきます。
これがユダヤ教の保守派やローマ総督にとっては面白くありません。
そして、ユダはキリストの居場所を銀貨30枚で売ります。
それによって神の子を名乗った神への冒涜と民衆扇動の罪で、キリストはとらえられ磔刑に処せられてしまった、ということになっています。
ユダヤの決断とイスキリの磔刑
ユダといえば、裏切り者の代名詞として現在まで語り継がれています。
ユダはキリストの金庫番を任されていたほど信頼できる出市なのですが、横領が発覚しそうになりキリストを売った、ということになっています
ローマの祭司長にキリストの居場所を教え、キリストの顔を知らない祭司長のためにユダやキリストに口づけをするという事前の取り決め通りに事は進みました。
よって、ユダの裏切りにより、キリストはとらえられて十字架にかけられたことになっています。
ところが、真実は、最終局面で、ユダはキリストではなく、キリストの双子の弟であるイスキリに口づけをしました。
何も知らない司政官はイスキリをキリストだと思いこみ彼を処刑にしました。
十字架に磔になったのは、キリストではなく、弟のイスキリです。
つまり、ユダは裏切り者どころか、悪者役になって大芝居を打つことでキリストの命を助け、預言を成就させたのでした。
キリストの予言と復活の噂はたちまち広まり、そのままでは遅かれ早かれまた捕らえられることになるので、キリストは東へ東へ逃げるのでした。
マグダラのマリアと母のマリアとは別行動でしたが目的地は日本でした。
まずはインドに東方教会の基礎を作り、そこを拠点にバラナシなどの古くからの聖地で教えを説き、バラモン僧たちの反感を買います。
磐にキリストの顔が描かれているような寺院もあるくらいあdから、かなりの影響力があったことでしょう。
しかも、岩に刻まれたキリストの顔は、イメージと離れた顔たちです。
キリストといえば、おそらく大多数の人が、褐色の髪と青眼をもった端正な顔立ちの白人だと思われていますが、それはバチカンのイメージ戦略で後世に描かれた宗教画によってイメージを刷り込まれているからです。
しかし、そもそもユダヤ人は中東系アジア人なので、欧米化した現代のユダヤ人アシケナージュとは異なります。
インドのマドラス大学の調査によると、キリストがインドからネパール、ヒマラヤを経由して中国、朝鮮半島まで来ていたことは学術的な証拠が出ています。
キリストは、妻のマグダラのマリアと母マリアに聖杯と秘技を記した巻物を託して別れた後、約束の地・カナンである極東である日本を目指して東へと旅立っていきました。
マグダラのマリアは当時お腹にキリストの子を宿しており、2人は西へ西へと向かいました。
途中南フランスのマルセイユ郊外の洞くつで女の子を出産し、地乳飲み子を抱えたまま旅に出てポルトガル、リスボンの北ナザレという港町にで3人は数年間ここで暮らします。
黒いマリア像はキリストに授乳中の聖母マリアだと思いこんでいる人が多いようですが、これはサラに乳を与えているマグダラのマリアです。
その像はノッサセニョーラ・ダ・ナザレ教会に安置されています。
マグダラのマリアはここでキリストの娘サラが歩けるまで成長を待ちいよいよキリストと再会を約束した地、日本へ旅立ったのでした。
ついに諫早へ
キリストは船で長崎の諫早から日本へ上陸します。
諫早はイサヤの音に漢字をあてて地名としています。
近くの島原には、イサヤが利用したと伝えられる温泉が現在もひっそりと尊座しています。
最終目的地は徳島県の最高峰である剣山です。
九州から四国へ渡るつもりのキリストは間違えて本州側に入ってしまったことを岡山付近で気が付き、そこから四国へ渡る方法をしばらく模索しているうちに、後を追ってきたマグダラのマリアや母のマリア、娘のサラも上陸したと知らせを受け取ります。
やっと再会できたのが、岡山に聖母マリアの墓があることから、ひょっとすると母のマリアはここで息絶えたのかもしれません。
紀元前700年頃、イスラエル王国の滅亡後、祖国をなくしたユダヤの民、「消えたイスラエルの10部族」は淡路島に辿り着いてしばらく定住した後に、最終的に四国の剣山に移動して、そこに新たなコロニーを形成しました。
キリストは剣山を目指していましたが、残念なことに剣山の麓で亡くなってしまい、キリストはコリトリに埋葬されました。これが歴史の真相です。
キリスト活人術
活人術とは人を活かす術です。
人を活かし、自分も活かします。
私たちがいきいきと生きていくための術であり、周りの人もあなたがいるだけでいきいきと生きていけるようになる技です。
その活人術には十の教えがあります
1:損なくじを引く
スーパーに行っても賞味期限ぎりぎりを買うなど、ふつうならバカな選択をしないということをあえて選択します。
電車に乗るときは一番最後に乗り、バスから降りるときも一番最後におります。
バスなどは、元気なときは座らずに立ちます。
運よく座れても、誰かが席を探していたら譲ってあげます。
これが活人術の初歩でもっとも大事にな部分です。
それを続けているうちに何かが変わっていきます。
何が変わるか、それは人それぞれ違います。
そしてあるとき、必ずあなたはきづきます
「ああ、なんとなくこんなふうによく回ってるんだ」
なぜかというと、神様が助けて下さるようになるからです。
神様はどういう順番で人間を助けて下さるかというと、弱い者順です。
強い人を神様は絶対に助けません。
弱い人、もっとも弱い人、もっとも損なくじを引いた人、そういう人しか神様は助けてくれません。
だからこそ、常日頃、最悪の、もっとも悪いくじを引く人生を選ぶのです。
強いあなたは、神様に助けてもらわなくてもいいとおっしゃるかもしれませんが、神様の働きとはどんなものであるのか知っている人は少ないはずです。
それを知る良いチャンスでもあります
2:しもべになる
しもべとは「僕」と書きます。
「僕」というのはへりくだった私の意味です。
しもべというのは、無条件でどなたかへお仕えする人です。
お手伝いさんではありません。お手伝いさんは無条件では使えていません。
しもべというのはご主人様の命令はたとえ無理難題だろうと絶対服従です。
これがしもべの定義です。
自分の考えを捨て去り、他人である自分の主人、あるいは自分の尊敬する人の言葉に無条件に従う、ここがポイントです。
現代社会でなぜ無条件に従うことが必要なのか。
地球上にはたくさんの人がいますが、そのなかでもっとも、ある意味一番下にいる「ある方」がおられます。
人間に順番はつけられませんが「ある方」は、自分は全人類の一番最後だという自覚をもって毎日生きています。
日本人にはなじみが薄いかもしれませんが、ローマ法王です。
ローマ法王という地位にある方は代々、自分は全人類の最後の存在であると考えています。
実際、いろいろな書類にサインをする際、名前を書くのではなく「しもべの中のしもべ」と書きます。
そして、そういうふうにお考えになって生活されています。
法王とはそういう存在なのです。
いちばんいいのは、考えないで淡々とその意見に無条件に従うことです。それがしもべとしての態度です。
しもべになるぽいんてゃ言われたことに対して、自分の判断基準や感情を一切持たないことです。
実際、カトリックの修道院の修道僧たちはそうした生活をしています。
たとえばトイレの汚物をきれいにしなさいと言われたら、掃除道具を取りに行くのではなく、その場で素手できれいにします。
自分の感情や考えが入るとできないこともあります。
そうして行動した時には悪いことは決して起きません。
あなたが自分だと思っているもの、それはじつは自分の考え、思考です。
生まれてからずっと見聞きして造り上げてきたものが自分だと思っているのです。
じつは、こうした思考の様式に頼っていると、身体本来の自助能力は薄まります。
カトリックの修道院では「しもべであること」に気づかせるため、みんなで修道生活を送っているといっても過言ではありません。
修道院では、主としもべを絶対的に色分けします。
主は修道院長であり、それ以外の修道士は全員しもべです。
しもべとして自分の思考によらない動きをみにつける場が修道院といってもいいでyそう。
例えば「食器をテーブルの上に必要な数だけ並べなさい」と言われたら、
「どうすればいいでしょうか?」と聞くのが正解です。
自分で考え、最善の努力を払ったのですが、そんなことはしてはいけないのです。
あなたの目には修道院長が鬼のようにうつったのですが、それはあなたの思考が勝手にそういう風に映していただけです。
やりなさいと言われたら、どうすればいいのでしょうかと聞けばいいわけです。
修道院長の言うことに絶対服従する、自分の考えをさしはさまないで、右と言われたら右を向く、そういう身体の動かし方、使い方を学ぶ場所なのです。
少なくともカトリックにおいてはそうです。
そうすることによって初めて神父やシスターとして神にお仕えする、神のしもべになることができます。
そうした行動ができなければ、いくら自分なりに神様を崇め、神様に祈っても、それは信仰とはなりません。
修道生活をしてまでも学ばなければならないのは、清貧の生活ではなく、自分の主が言うことに自分の考えをさしはさまずに動くことです。
あなたもしもべになろうと思い、活人術を身に着けようと思うなら、あなたの主がたとえバカ殿様であっても、まずは無条件で従うことです。
トップに立つ人がとんでもない人だったらどうするのかと思うかもしれませんがそれは人間的な考えです。
そうでなければ修道院生活が二千年も続いているはずがありません。
修道院長は毎年順番で変わります。たとえ若いシスターが修道院長になっても、年配のシスターたちは彼女に従います。
どんな人が上に来ても、その一年はその修道院長に無条件に従うのです。
長年同じ修道院長が続くのには弊害もありますから、これもカトリックの知恵です。
電車の中で苦しそうにしている見ず知らずの人がいたら、何も考えずに「どうしましたか」とか「大丈夫ですか」と声を掛けます。
ほかの人の視線を気にしたり、いろいろ考えると声をかけられません。
現代人はそれを無視します。
その無視が一番よくありません。
無関心を装って第三者になりきろうとすることだけはやめてください。
苦しそうにしている人を見たその時点から、自分の主だと思うことです。
そうすればすぐその場で「大丈夫ですか、ご主人様」という行動がとれるはずです。
しもべになることを、そんなふうにも活用してみましょう。
自分の考えを捨て、ありのようにしもべになる。
そういうふうに動けるようになると、何かが変わってきます。
人間はどんなに能力の高い人であってもたかが知れています。
一人だけで一生懸命になっても大したことはできません。
人間は考える葦だといわれ、考えることが美徳だとされていますが、じつは考えない方がいいのです。
なぜ考えない方がいいのか。
それは一見、努力を捨てているように見えますし、ふつうは自分で考えて道を開く方が正しいと考えます。
それを自力本願といいます。
これに対して、一切考えるのを止め、ただ流れに任せて言われたとおりにやる。
これは他力本願です。
他力本願は今の社会ではあまりよいとらえ方をされませんが、じつは活人術の要です。
キリスト教の非常に奥深い所にあるものです。
キリスト教は実は他力本願です。
すべてを神様にお任せしていますから、自分でコツコツ努力する必要はありません。
悪人でも改心する必要はありません。
日本の仏教にも他力本願の考え方があります。
法然の「念仏をただ唱えれば浄土に行ける」とか親鸞の悪人正機説の考え方です。
他力本願、つまり自分の考えを捨てるというのは重要なポイントです。
人間はどうしても自分で工夫をしたくなります。
あれこれ考えて、あっという誰も思いつかなかったアイデアに辿り着くこともあります。
とはいえ、コツコツ考えた末に生まれた考えというのは、さほどのものではないことが多いのです。
それよりもあるときふっと湧いて出てきた、さながら神様から頂いたかのようなもののほうが、すばらしいアイデアだったりします。そこが不思議なところです。
他力本願というのは、努力しなくてもいいというのではありません。
努力しないよりはした方がいいですが、その努力だけでは道が切り開けるのではありません。
努力する中で、さらに自分の力の及ばないところで何かが動き、そこで初めて自分の願っていたことが成就する。
それが本来の他力本画だという言い方もできます。
もし自分で考えるということが何かをするという意味であれば、むしろ何もしない方がいいです。
つまり、考えることを止めた方がいいのです。
自分の考え、思考、感情、そういうもので動かない事。
自分の考えを一切捨てて、ただ主に言われた通り、しもべのように動く。
それが活人術の他力本願です。
神様が助けて下さるのは、しもべの中のしもべ、もっとも損なくじを引いた人です。
3:自分の気持ちの中に何もとどめておかない
天国に行くにはキリスト教の信者である必要はありません。
仏教徒であっても、無宗教であっても、死んだら天国に行きたいと思っている人は少なくありません。
「しもべになっても何も考えない」のもっとも大事な場面は死ぬ瞬間です。
人は良い行い、または悪い行いをやろうと
死ぬ瞬間に「思い残すことはないと思う」あるいは「悔い改める」のは、どちらも考えていると、天国には行けないのです。
思い残すことがないという思いが邪魔をして、天国ではなく、死んでからもこの世にとどまることになります。
では、どうすればいいのか。
あなたの子供の頃を思い出してください。
日が暮れるまで外で遊びまわり、遊び疲れて家に帰ってきて、
「ただいま、母ちゃん、お腹すいた」
それと同じことをするのです。
死ぬときに無心にいうのです
「ただいま」
これだけで誰でも天国に行けます。
これは秘伝中の秘伝です。
ところが、いつの間にかそのことを忘れてしまいます。
そこで毎晩、眠りに入るときに練習しましょう。
眠りに入って朝、目覚める、これはちょうど死ぬときのリハーサルのようなものです。
私たちはいつか死ぬように、いつか眠ります。
その眠りに落ちる直前、無心に「ただいま」と言って寝て下さい。
4:朝、目が覚めたら手を合わせる
祈る必要はありません。ただ手を合わせればいいのです。
何かを祈ったりすることはかえって邪魔になります。
日本人はよく祈りと称して自分の願いを思い描きますが、それは願いであって、祈りではありません。
祈りは叶いますが、願いは決してかないません。
祈りは何かというと、感謝に近いものです。
手を合わせるのは朝とは限るものではありません。
自分という存在は身体を与えられている存在です。
祈るのはそれを忘れないためにする、その身体を活かした作法であり、常日頃それを確かめるための行いです。
身体を活かすということは、どういうことかといいますと、
身体を一番ふさわしい形で使うことです。
祈るのに本来は手を合わせる必要もありません。
祈りは感謝ですからどんな格好で祈ってもいいのですが、手を合わせるというかたちが、そのときいちばんふさわしい体の活かし方なのです。
5:物を活かす
私たちの周りにあるのはほとんどが物です。
目に見えるものだけではなく、身に見えない者もあります。
自分の家で飼っている犬や猫の気持ちがわからないで今日初めてあった人の気持ちをあなたは理解することができるでしょうか。
脳は絶えず何かをしようとして常に働いていますが、そればっかりやっていると見失うものがたくさんあります。
物を活かそうとする心はもったいないという気持ちに従って動けば自然にそうなります。
ものに心を込めて使うことで不思議とものから守られます。
物を活かす自信がないときは、まだそれを手に入れる時期ではありません。
日頃、そうやって物を活かしていれば、いつの間にか人を活かすことにつながっていきます
6:人を見たら神様と思う
あらゆる人を神様だと思ってください。
神様だと思って接するのです。
神様だと思えばどんな人であれ大事に扱います。
目の前の人を神様だと思えば自然と大事にします。
その人に接する時にも神様に触れるように低調に扱います。
そういう気持ちを続けていくと、いいことが生まれます。
神様はどこにいるのか、人の間と書いて人間と言います。
神様はじつは人と人の間にいるのです。
そうすると神様を通して人をみれるようになります。
だから、どの人を見る時もその間に神様がいますから、どの人も神様であり、いい人なのです。
あるときある人が天使のようにみえたり、神様のように見え、あるときには悪魔のように見えます。
それはその人の間にいる神様がとりはからっているからです。
人を神様だと思い、主だと思い、大切に思うことによって、悪いことは決して起きません。
むしろ、素晴らしい結果が生まれます
7:人に寄りそう
そして、人に寄りそってください。
そっと寄りそうこと、つまり相手に関心をいだくことです。
私たちはふだん人を見ているつもりでも、じつはよく見ていません。
目も脳も身体です、全身全霊で力いっぱい相手を観ます。
「明日のことを思い煩うな」とキリストは行っていますが、今この時に集中して相手を観ます。
脳は悩むために使うのではなく、ここ一番という時に使うのです。
関心をいだくというのは、全身全霊をもって注目する、着目するということです。
全身全霊で関心を寄せないと、関心を向けたことにはなりません。
全身全霊を傾けてみるということは一期一会、今生の別れだと思って相手をみるほどのことです。
すると、相手は変わり、自分も代わります。
私たちは人だけではなく、じつは自分のことをあまり見ていませんので、自分を観るときもそうやってみると新たな発見があります。
上級の活人術は「汝、隣人を愛せよ」「汝、敵を愛せよ」
です。
感謝し、懺悔も終わった段階で、相手に強い関心を持つことが日常的にできるようになると、愛が使えるようになります。
関心を寄せるというこおてゃ愛の一つの形態です。
関心を寄せれば愛になります。
愛になる前に、まず全身全霊で相手に関心を持ちましょう。
愛することがいかに大変なのか、それを理解することができます
8:愛する・愛されると思いこむ・在るがまま
活人術の上級は愛することです。
関心を持つということであり、寄りそうことです。
では、どうすれば愛することができるでしょうか。
西洋の男性は結婚相手に毎日「愛している」と言います。
言葉を口に出すこと自体が行動です。身体を使っています。
でも「愛している」という代わりに、相手に強い関心を寄せれば、それもまた愛していることになります。
みつめる、穴のあくほどみるということも行動です。
そんなふうに広い意味で愛すればいいのです。そうした愛を前面に掲げたのがイエスです。
そこから発生したのがキリスト教です。
イエスの愛がなければ、キリスト教自体はユダヤ教にすぎません。
イエスはその愛を最も基本的なものとしました。
ほんとうに愛し、愛されるのは、それがいつのまにか「在るがまま」になったときです
「在るがまま」とは何か、読んで字のごとく、在るがままです。
愛する、あるいは愛されていると思いこむことなどすべての技を併せるより大切なことは、ただ在る、ということです。
それが最上の愛です。
在るということ自体が愛です。
そこにキリストがいる、男たちの列の中に座っている、それだけで愛なのです。
キリストは人を愛そうなどとはみじんも思っておらず、その人たちとただ一緒にいるだけです。
キリストは、ただそこにいて、みんなと時空を共有しているだけで、そこにいるzネ人がキリストから愛されていました。
ただ在る。
ただただ在るのが愛です。
在ること自体が愛なのです。
なぜ自殺がいけないのか、なぜ人を殺してはいけないのか。それは「在る」ということに反するからです。
この地球上で生きていることが愛だからです。
その愛を止めるということは、愛を消してしまうことになります。
愛は消してはいけないのです。
愛を消すのはなぜいけないのか、それがすべてだからです。
在るがままというのは、存在していることが間ということです。在るがままというのは根源的なことです。
この「愛し、愛され、在るがまま」を知ったら、ただ在るがままに生きていきましょう。
活人術のすべては忘れても構いませんが「愛し、愛され、在るがまま」というトリプルAだけは心の隅において下しさい。
そうすることであなたは人と人の間にいる神様に段々目がいき、いつの間にか人自体が神様だと気づくでしょう。
気づくまでもなく、そんな気がすると思えたら、しめたものです。
そうなると、人の間の神様の存在感の方がだんだん強くなり、そのうち人だと思っていた人がみんな神様だという事実に気づくようになります。
活人術を知ったら、いったん忘れてくだしあ。
そのことであなたの動きは活人術にかなった動きになっているはずです。
頭で考えなくても、自然に手を合わせたり、声をかけたり、そうしているはずです。
人だけでなく、物や動物や自然に寄りそっていると、いつのまにか在るがままでいる自分に気づきます。
そのときも人間も、木も、犬も、山も同じ存在です。
魂が解放され、自分を意識している至高の存在から魂の存在に戻っています。
それが活人術であり、人を活かす術です。
終わりに
キリスト教も、時代によって、人間の解釈が勝手に行われ現代風にアレンジしているキリスト教と聖書通りに忠実に教えを乞う古典派のキリスト教が存在します。
基本的に、前者が主流派となり、カルト化し、私たちのイメージの悪い「宗教」として定着していきます。
今一度、生き方を失ったあなたへ「聖書」の教えはいかがでしょうか。
ワイは全くクリスチャンではありません。
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