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チームの作り方!ニートよ、群れよ【帝王学】

会社の上司や部下の関係は貨幣奴隷にしがみついているのかわかりませんが、何故か部下の前でいびったりする人間が存在します。しかし、私たちは勿論、貨幣奴隷ではありませんので不服従ですが、これからのZ世代も優秀ですぐに会社を辞めるという正しい判断を行います。

貨幣奴隷社会に参加するつもりはまんざらありません。

ところで、貨幣奴隷社会に対して個々で対抗しても当然勝てませんが、「貨幣」という縛りがなくなった時に人が集まって来ないのも事実でしょう。

今回は、貨幣奴隷社会になる前の先人たちがどのように組織を統括していたのか、そのリーダーの心得を学んでいきます。

リーダー論の必要性

会社を経営するなら、採用募集した時会社の「ブランド・賃金・待遇」をみて募集してい来るでしょう。

ある程度「金」が絡みます。

氷河期世代なら、会社にしがみついてくれますが、Z世代はあっさり会社を辞める非常に優秀な世代です江。

それは「会社にしがみつかなければならない」時代ではなくなっているため、

ビジネスにしても人を動かすために会社の上司が変わらなければならないのですが、過去の価値観を拭い去れない無能ばかり働いていることでしょう。

ところで、そんなリーダー論、このブログでやる必要あるのか?という話なのですが、

意外にも使う場面があります。

例えば、人数を集めて社会人サークルか何かを結成したい場合です。

ジモティーやディスコードのサーバーで募集をかける場合、

Twitterのフォロワーもそうですし、このブログもそうです。

賃金が絡んでない場合、相手のメリットのある要因を引き出さなければ募集をかけても参加してくれません。

特に創業時というのは至難の業です。

なので、基本的には、何かしらを立ち上げるというのは「面倒くさい」わけです。

ところが、チームで行うスポーツ、競技にはどうしても「人」が必要だったりします。

そういう時に、自分がリーダーとして立ち上がって自分が「一番偉い」と思ってやったらどうでしょう。

見事に誰もついてきません。

ここでは主に「貞観政要」から引用しながら、最適なグループ立ち上げ戦術を考えていきます。

リーダーとは、機能である

リーダーというと、色んな人の先導をみると「組織の中で一番偉い人」と捉える人が一般ですが、リーダーとは決して一番偉いわけではなく、組織を運営するための一つの機能に過ぎません。

あるチームで仕事を回すために割り当てられた役割がたまたまリーダーであっただけで、その意味では、リーダーとフォロワー、あるいは上司と部下は、チームにおいて単に違う機能を担っているだけという関係にあります。

別に、リーダーが一番偉いわけではないのでその他を「フォロワー」と表現した方がいいでしょう。

この機能の違いを充分に認識した上で、リーダーがフォロワーの仕事を奪わない、必要以上に干渉しないということも非常に重要です。

リーダーが一番偉いという認識により、部下に口を出し、権限を飛び込えようとして部下に干渉するのが問題となります。

そもそも、リーダーが一人で出来るならチームを組まずに一人でやればよいのです。

一人の人間の出来ることには限りがあります、自分一人で仕事・政治を取りしきるなんてとても無理なのです。

どんなに絶対的な権力があっても決してオールマイティではありません。

農業のことは農民に任せ、商業のことは商人に任せ、軍事のことは軍人に任せる。本当に大事なことだけを自分が決めて、それ以外のことは専門家に任せ、択し、委ねた方が得策なわけですね。

一定の規模になると一人ではタスクを行うことは不可能となります。

リーダーは自分が得意なこと、好きなことをやってはいけません。

では、理想のリーダーとはどんなものでしょうか。

いきなり身も蓋もないことをいうと、時代も場所を超えた普遍的な「理想のリーダー像」というものは存在しません。

創業の時に必要な能力と、守成の時代に必要な能力が全く違うからです。

これは、社会がどんどん成長しているときに必要なリーダーと、成長が落ち着いた時代に必要なリーダーは違うことを物語っています。

例えば、戦後の高度成長期には、やることを決めたらあとは「黙って俺についてこい」というタイプのリーダーでよかったのです。何故なら、アイデアは必要なく多くを生産すれば売れる時代だからです。

しかし、普通にモノを売っても売れない現代に必要なのは、部下を自由にさせてアイデアを出させる、放し飼い型のリーダーとなります。

自分のそれまでの経験や価値観を絶対視して「これが理想のリーダーだ」などと思っているようでは話になりません。

人の上に立つには、まず「器」を空っぽにして、いろんな人の意見を聞き、その上で、例えば「今は上り調子だ」と確信できれば、その状況にあった組織を編成してその方向に進めばいいわけです。

3つの行い

1.歴史に学ぶこと。

過去のケースをみた時の失敗を参考にすること。

2.優秀な人たちを登用して一緒に仕事を刷ること

臣下を用いる時には、好き嫌いではなく能力を重視すること

【能力主義と生活保護】生活保護を叩いて得する奴らは誰か?? ~優秀な人間が日本をダメにする自分中心の能力主義~ - 働いたら負け

過去にこういう記事作っていて

能力のある人間を採用しても日本が豊かにならなかった実例があるのですが、

これ視点を変えると、日本のトップ(中央銀行)は、日本を衰退させるための売国奴の部下を登用していると考えると、能力主義自体は否定しきれなくなっているのかな?というのが最近のワイの考え方ですね。

3.取るに足らない噂や忠告を聞かないこと

進化の中にはゴマすりがいて「あの人は陰であなたの悪口を言っていましたよ」などと告げ口をしてきます。

そんなことをいちいち聞いていては、君主は不安になるだけです。

これによりフラットでオープンな組織を作ることになります。

「一人の主君に命を懸けて忠義を尽くす」は都合よくでっち上げられた。

日本では、一生一人の主君に尽くす忠臣こそ立派だという考え方があります。

しかし、実際の武士のあり方は、戦国時代末期に活躍した藤堂高虎という武将は「武士は6,7回、主君を変えるくらいでないといけない」と言っています。

要するに、どんどん転職していい主君に仕え、自分の能力を発揮するのが武士だということです。

なぜ忠臣こそ武士の道だというイメージが広がったかといえば、新渡戸稲造の『武士道』の影響が大きいでしょう。

キリスト教のクエーカー(フレンド派)の高い倫理観に感銘を受けた新渡戸は、日本にもこういう高い倫理観があったはずだ、ひょっとしたらそれは武士道ではないかという思いに至り、自身の願望を込めて『武士道』を書きました。

その内容が、国民を天皇の忠臣に位置付けたい明治政府にとって都合が良かったため、人口に膾炙したわけです。

しかし、武士道の基本は、主君やお国のために死ぬことではありません。

いい主君をみつけて仕え、しかも一族が生き残ることです。

典型が真田家です。

関ケ原の戦いで、長男信之は東軍に、次男信繁は西軍につき、どちらが勝っても一族が生き残るようにしました。

これは忠義の代表のように言われる諸葛亮孔明も同じです。

蜀の劉備に迎えられた諸葛孔明ですが、彼の兄弟やいとこは魏にも呉にも仕えています。

つまり、三国のうちどこが勝っても諸葛氏は生き残れるようにしているわけです。

一人の主君に命を懸けて忠義を尽くす。裏を返せば、能力はさておき決して自分を裏切らない部下のみを大事にする。そのような考え方は、まったく現実的ではないと考えた方がいいでしょう。

帝王学第一の柱:原理原則をもつ

帝王学第一の柱:「原理原則を教えてもらう師をもつこと」

昔は通用したが今は通用しないというのでは原理原則の価値はなく、いついかなる時代にも、いかなる場所においても通用する原理原則ののもです。

この原理原則とは「偉大なる常識」と言い換えられ、帝王学の根本原理は意外かもしれませんがリーダーの「人間性」なのです。

君主が心にとどめておくべき十の思慮と積むべき九つの徳行を「十思九徳」と言われるものがあります。

十思:

1欲しい物を見たときは、足るを知ることによって自らを戒めることを思い、

2(宮殿などを)営造しようとするときには、止めるを知って民を安んずることを思い、

3高く危ういことを思うときには、謙遜して自己をむなしくすることによって自ら処することを思い、

4満ち溢れることを思うときには、江や海があらゆる川よりも低い所におることを思い、

5(狩猟などをして)遊び楽しみたいときには、三駆を限度とすることを思い、

6怠りなまける心配のあるときは、始(はじめ)を慎み終を敬することを思い、

7(君主の耳目を)おおいふさぐもののあることを心配するときは、虚心に臣下の言を納れることを思い、

8邪悪な臣があるのを恐れるときは、身を正しくして悪を退けることを思い、

9恩恵を加えようとするときには、喜びによって賞を誤ることがないようにと思い

10罰を加えようとするときには、怒りによって、むやみに刑を加えることがないようにと思う

いずれも謙虚であること、自制心を保つことを解いています。

5の「三駆」とは、天子が狩猟をする際は、四方を囲まず前面は開けておいて、過度の殺戮を避けるという礼法を指します。つまり、楽しみも節度を持って行うべしというわけです。

続いて「九徳」をみてみましょう

1寛にして栗(寛大な心を持ちながら、不正を許さない厳しさを併せ持つ)

2柔にして立(柔和な姿勢を持って、むやみに人と争わない。しかし自分のなすべきことに対しては必ずやり遂げる力を持つ)

3愿にして恭(真面目だが、尊大なところがなくて丁寧である)

4乱にして敬(事態を収束させる能力がありながら、慎み深く謙虚。相手を決して見下さない)

5じょうにして毅(威張ったりせず、普段はおとなしいが、毅然とした態度や強い芯を持つ)

6直にして温(正直で率直にものを言うが、冷淡ではなく、温かい心を持つ)

7簡にして廉(物事の細かい点には拘泥しない。おおまかであるが、清廉潔白である)

8剛にして塞(剛健だが、心が充実している)

9彊にして義(いかなる困難でも正しいことをやり遂げる強さを持つ)

老子の「無為自然」という思想の中に、理想の君主のあり方を見出したのかもしれ暗線。無為自然とは、作為的に何かをしたり、干渉したりせず、自然体でいることの大切さを説く教えです。

「君主が何もしていないのに、気が付いたら、人々の生活が穏やかになっている」という状態が理想であり、策を弄せずとも、物事が自ずと良い方向に導かれるような政治です。

そのカギが、十思九徳をわきまえることでした。

毛沢東が人民に叩き込んだ「三大規律」と「注意八項」があります。

三大規律

1一切の行動は指揮に従う

2大衆から釘一本、糸一筋もとらない

3鹵獲品(ろかくひん)はすべて公のものとする

中位八項

1話は穏やかに

2買い物の支払いは公正に

3物を借りたら返す

4物を壊したら弁償する

5人を殴ったり、どなったりしない

6農作物を荒らさない

7婦人をからかわない

8捕虜をいじめない

すべては常識的なことですが、この程度のことですら、戦場で殺気立っている兵士たちには守ることが難しいです。

毛沢東に対する人物評はともかく、いかに「愛される人民軍」をつくるために苦労したかが、よくわかります。

松下幸之助の語録では 政治家たると経営者たる問わず、上に立つものが、必ず身につけなければならぬ資格が4つあります。

1「使命感」:仕事を金儲けの手段ぐらいに考えているのは本気になって仕事に打ち込んでいないからである。仕事をするということは生きるということだ。

2「無私」会社を利用してポケットマネーをかせぐような社長は奇妙に没落している。トップの醜態を部下は本能的に見破る。社員を千人かかえる社長は、2つの目で千人をみるが、部下の方は二千の目で一人の社長を凝視するのだから、三日もすればその正体を見極めるのである。

3「詩心」人間の器量は余裕から生まれる。つまり、器量が大きければ大きいほど、小理屈や変な打算がぬけてくる。

そして、東洋では、その余裕を養うのに「風流」の道をもってした。 風流とは文字通り「風」であり「流」である。人間が単なる功利にのみ走らず「造化の妙」に従って、精神的な境地を切り開いてゆこことである。

4「現実処理能力」それに行動力が伴うこと 原理原則とは、偉大なる常識であり、『論語』の著者である孔子はこの常識を当然のこととしてやってのけた点にあります。

孔子は近親の喪に服しているものの傍で、いつも控え目に食事をとったし、他家へ弔問に赴いた日には、帰ってからも歌を歌わなかった。

そうでない時は、ときどき「唱歌の会」を催したが、気に入った歌があると、もう一度、その人に歌わせて、メロディーをよく呑み込んだうえで自分も歌った。

釣りは好きだったが、川の水をせきとめて、根こそぎ、魚をとってしまうようなことはしなかった。鳥を射る時も塒にいるのを避けた。

盲目の楽師が会いに来た時には、階段までくると「階段」、畳へくると「畳だ」と教え、いよいよ、席に着くと「そこにいるのは誰」「ここにいるのは某」といちいち教えた。

孔家の厩(うまや)に火事があったが、退庁してから、人間のけがを尋ねただけで、馬の損害については尋ねなかった。

家老のきこうしから「よく効くから」といって薬を贈られると、その行為に感謝の意は表したけれども、のまなかった。

「この新薬についての知識がないから」というのが理由だった。

このように生活の原理原則を確立して、それを忠実に実践したのが孔子でした。

喜怒哀楽の原理原則: 世には道徳というと、一切、喜怒哀楽を表面に出さない、感情などには動かされないとかたくなに考える向きが多いが、それはとんでもない誤解で、人生とは、いかに喜び、いかに怒り、いかに悲しみ、いかに楽しむか、ということであり、換言すれば「いかに生きるか」ということに正しい自律、つまり原理原則を立てることであります。

それだけに逆にその人物の出来栄えがわかるというものです。

色道三則と浮気の五原則: この道にも厳然として「原理原則」があります

色道三則:

1色の道に連れは禁物。イロコイはもともと秘め事です。それを集団でやるなどは全くナンセンスだしこの道の大家であるポート・レオトーも「行きすぎの恋など、僕の趣味ではない。

僕は女郎屋に行ったこともない。恋を金で買うのは卑しさの象徴である」ときめつけています。

2男は自分を愛しんだ女のことを他人に喋るべからず。自分の愛した女のことをペラペラしゃべる奴は男としても信用できません。まして、結婚した女性を「昔は俺の女だったのに」などと未練たらしくやるのは男の屑です。

3自分の下半身の始末に他人の知恵を借りるのはその道の恥となります。男子たるもの自らまいた種は自ら刈らねばなりません。

「色道三道」に対して「浮気の五原則」もあります

1一回限りであること

2金銭のやりとりなしであること

3人目をしのぶ仲であること

4お互いに恋愛感情があること

5両方とも新品でないこと

義賊といわれた鼠小僧次郎吉は、3つの掟を厳重に守りました

1、金をとられても困らぬ中流以上の家をおそうこと、

2放火はしないこと、

3女を犯さぬこと

その義賊も命運尽きてついに捉えられ、首切り浅右衛門に首をはねられることになりました。

浅右衛門は後ろへ周り刀を振り上げましたが、どういうわけか、斬り下ろせません。

二度刀を取り直しましたが二度とも失敗。三度目に刀を構え直し、自分を叱りつけ身体を切りつけてやっとの思いで首を落としました。

泥棒とはいえ、掟を厳重に守った男にはこれくらいの迫力があるそうです。

人間と動物の根本的相違は「尊敬する気持」と「恥を知る心」とを人間が持っていることです。

裏を返していえば、この2つのうち一つでもなくしたら、人間失格です。

人生の修羅場に直面した時

日本信販の傍系で山田光成が社長を兼務しているジェット・エア・サービスの斡旋したトルコ航空機が墜落して日本人乗客40名が死亡した事故がありました。

しかも、トルコ航空のエージェントが日本になっていたため、子を失った親の悲しみや憤りはすべてジェット・エア・サービスへ向けられました。

トルコ大使館など、当然、その処置を講じてしかるべきなのに、被災者に対してはけんもほろろの冷たい態度でした。

それだけに一層の怒りがすべて山田光成に集中されました。

きわめて筋の通らないはなしですが、いかなる罵詈雑言もいかなる無理難題も、子どもを墜落事故で失った親たちの前では黙って受ける以外手はありませんでした。

山田は一切弁解せず、黙々と後始末をやりました。

アンチの原則:

1何か思い切った新しい仕事をやる時に、きまって誰かの怨を買います。 しかし、そうした怨をいちいち気にしていたんでは新規事業はやりとげられません。 その怨を受け、中傷の火の粉を恐れるなという教えです。

また敵の攻撃を一身でささえている人間を周囲の連中が放っても逃げてはいけません。いったん、志をともにした以上は、一心同体となって、その怨を受ける気概がなくてはなりません。

2命のとことんのところで、自分の姿を見つめるような機械にはとことんのところで最後の取引をしてみることを要求されています。

また、禅の悟りも平気で死ぬことばかりでなく、どんなに苦しい時でも平然として生きていることも死生の大事とされています。

男にとって生きるのが苦しいのは名誉を捨て去る時です。 よそ目には、恥も外聞もなく生きていると思われるとき、です。

第二の柱:側近登用の原則

首相や社長のトップの座につくと、深刻な孤独感に襲われます。

大衆の前に立つ時は身構えた「自分」がものをいうけれども、ひとりになった時にはひどい寂寥を感じるものらしいです。

ナポレオンは、腹に出来たタムシがかゆくて、ひとりになると、子どものように泣きべそをかいていました。

徒卒が「これが英雄か?」としばしば怪しむほどの狂態を示すこともあったといいます。

そこから「召使いの前に英雄はいない」という言葉まで産まれました。

スルガ銀行の岡野喜一郎が頭取になったとき「ルーズベルトだったか、アメリカの大統領になってホワイトハウスの前に立ち、『ここより中は孤独の部屋だ』といった有名な話があるけど、いよいよ、これから、頭取として厳しい孤独にさらされるわけだね」といったら「トップが孤独だということは、はじめからわかっていることなんで、もし、孤独を恐れるなら、トップの座につかねばいいのだ」と見事に言い切ったとおいいます。

明末の碩学(せきがく)にすぐれた政治家だった呂新吾がその著のなかで、大臣(側近)をのランクを六等分しています。

第一等の人物:全く、私心がなく、作為というものがない。

あたかも、人間が日光に浴し、空気を吸い、水を飲みながら、これを意識しないと同じように、何とはなしに人々を幸福にし、禍はいまだ凝らざるうちに消してしまう。といって、「頭がすごく切れる」とか「勇気がある人だ」とか言う評判とか「大変な手柄を立てた」というようなこともなく、知らず知らずのうちに人民がそのお蔭を受ける。

とにかく、いるかいないのか、分からぬような存在でも、人民は無事大変を楽しんでおられる。

第二等の人物:いかにもしっかりしていて、てきぱきと問題に取り組んでいく。剛直、直言、まっすぐに堂々と本当のことを議論できる。したがって、やや叡智や気概が露出して、時には物議をかもしたり反発抵抗を招く。しかし、いかなる障害があろうとも、毅然として主張すべきは主張し、やるべきことはビシビシとやってのける

第三等の人物:ひたすら、事なかれ主義である。悪いことは勿論やらぬが、さりとて善も進んでやらない、安全第一主義の人間。面白味は全然ないが、安全なことはたしかである。

第四の等人物:特に私利私欲をほしいままにして悪いことをするというのではないが、とにかく、自分の地位、身分、俸禄を守ること第一な人物。

口では天下田の、人民だの言うけれども、実際は自分のことしか頭にない。しかし、進んで悪いことはしないのが唯一の取柄である。

第五等の人物:権勢に乗じて、野望を逞しくし、自分に与する人間だけを用い、そうでない人間を排斥する。我欲、私心の塊で、公儀を無視し、国政を乱してはばからない。

孔子が二の足を踏む門弟たちを「人には許せる欠点と許せない欠点とがある。これをもっていると国そのものが危うくなるのだ」と叱咤し、その五悪を列挙した。

1万事に手抜かりがなく、何食わぬ顔して、陰険で恐ろしい手を打ってくる

2やることが公正ではなく、僻していながら、表面的にはうまく公正をとりつくろい、いかにもしっかりしている

嘘八百を並べ立てているのに、いかにも弁が立って、真実らしく聞こえる

4悪党の癖に、いや悪党だからというべきかもしれない、ものごとをよく記憶していて、おまけに博識である。

5あくどいことをやる反面、多くの人に恩恵を施している。

第六等の人物:野望をほしいままにし、天下に動乱を起こす破壊的人物。これが最下等の大臣となります。

総理になると3つのものがみえなくなるそうです。

二二六事件の時の総理岡田啓介がこういいます

1:職権で思う存分に金が使えるから、金の価値が分からなくなる。

2:しらずしらずのうちにとりまきがふえ、総理に気に入った情報しか入らなくなる。その結果、真実が陰に身をかくしてしまう

3:国民が一体、どちらを向いているのか、皆目わからなくなる。

そして、この3つがわからなくなった時、総理大臣は野垂れ死にすると断定しています。

したがって、人間は上に立てばたつほど、「直言してくれる側近」が必要になってきますが

池田勇人は「そのために3人の心友をもて」と口癖のように言っていました。

「3人の心友とは、1人はすぐれたジャーナリスト、1人は立派な宗教家、1人は名医」です。

ここではジャーナリストと宗教家に着目しましょう。

総理たるもの、耳に快いフォーマルな情報網だけでは不十分で、時には砂をかむような思いも耐えねばならぬインフォーマルな情報網を持っていないと判断を誤るからです。

ジャーナリストは「時代と社会」に密着しているので、彼らと接触することによって、世間の実情がよくわかるのと、いかなる場合にも客観性を失わぬ基礎的訓練を経てきているから、たとえ、心底から好きな総理といえども、醒めた目で突き放して眺め直言します。

このジャーナリストをどう使うか、トップの器量ですが、もちろん、ジャーナリストの限界も心ていないといけません。

ジャーナリストは「行為せざる者」ですので、火の粉をかぶって「行為する者」の痛みは絶対わかりません。足を踏みつけている者に、踏まれている人間の痛みが分からないのと同じです。

実際の話が、ジャーナリストから事業会社へ入って、大経営者になった例は一つもありません。

「立派な宗教家」がなぜ、心友として必要なのか

世の中には往々、何故に必要であるかなどと尋ねる人がいます。

しかし、この問いは何ゆえに生きる必要があるか、と問うのと同一で、宗教は己の生命を離れて存在するのではありません。

その要求は、生命そのものの要求です。

このような問いをするのは、事故の生涯の真面目ならざるを示すものです。

真摯に考え、真摯に生きようとするものは必ず熱烈な宗教的欲求を感ぜずにはいられません。

人格の力というのは不思議なもので、世の中には知恵で行かず、腕でも行かず、手のつけようもないことがあるけれども、そう言う場合には、救うのはただ人格の力以外にないことがあるのです。

しかし、宗教家には偽物が幅を利かせています。

だいたい自分が禅の僧であることを意識して、豪語してふるまうのはだいたいインチキになります。

一見豪放にみえて裏の方では小心翼々として俗世間のことばかり気にしているつまらない坊主です。

神についても、もっともらしいことや、わかったようなことをいう人間は最も神から遠い存在です。

あたかも人生や恋愛について得々と語るのは、本人の体験の浅薄さを物語っているようなものです。

しかも、それらは実は自分のことをしゃべっているにすぎません。

それと同様に、神について饒舌すぎる連中は神にことによって自分を語っているだけです。

つまり、神を自分の溜めに利用する人間は「神の前に、神と共に」生きてはいないのです。

直言する側近の見出し方

直言する側近をもつためには、何よりもトップ自身がその気にならないとどうしようもありません。

権力主義の権化みたいにいわれるマキャベリでさえも「へつらい者を避けるためには賢い側近を選び、その者たちだけに直言させよ」と説き「君主は民衆の支持を得ていると錯覚してはならない。彼らが『わが君のためには死をも辞さぬ』というのは、死を必要としない時だけである」と戒めています。

部下がだらしないのはリーダーのせい

ある大会社の社長が、最近入社した新人と食事に行ったところ、みんなが口を揃えて「海外支店には行きたくない」と言うのだと嘆いていました。

その社長いわく「こんなに根性のない若者ばかりでは、この先の日本が心配だ」と嘆いていました。

その会社の役員人事を調べていると、新しい役員は3人いたのですが、前の肩書は企画部長、人事部長、経理部長。そんな人事をやっていたら、この会社は本社にいて役員にごまをすった人が偉くなるのだなということが新人にもすぐにわかります。

この社長が、もし本当に若者に海外で修業をして欲しいと思ったのなら、「私が社長でいるあいだは、海外に三か所、計十年以上行かないと役員にはしない」と言えばいいわけです。

そういうことをせずに、ただ「うちの若い奴は根性がない」などとこぼしているのは、まさに天に唾をする行為です。

若者がだらしないとしたら、それは大人がだらしないからです。

部下にして欲しいことは、まずリーダーが自らやらなければいけないのです。

直言の条件:

取引先から無礼な手紙に社長が激怒しました。

「もう、これっきりだ。勝手にしろ」「返事をかけ!」と横にいる秘書に命じます。

秘書が一番いいのは不愉快な手紙の返事はすぐには出さず、しばらく待つのが定石です。

いきなり反射神経で書きなぐったかのような手紙は必ず悪い結果をもたらします。

なかなか難しいですがいかに癇に障った手紙でも、このへんじを投函した後で、自分は常に穏やかに、しかも、冷静に行動したという一種の満足感みたいなものを残しておけば最上です。

なので、しばらく時間を稼ぐといいです。

また、その場での忠告は火に油をそそぐようなものです。

下から上への直言、忠告は普通のコミュニケーションではならず、相手の心を十分に読み取った上で、こちらの意見を相手に当てはめるのが難しいです。

プロのもつ秘書要綱

辞典をひくと「秘書」というのは「要職のある人に直属してこれを助け、また、機密の文章や用務をつかさどる職」とあります。

英語では「セクレタリー」つまり「秘密を扱う人」の意味です。

「国家の機密を司る人」のことは「内務大臣」であり、「国務大臣」となります。

機密にタッチする以上、秘書は現職中はもちろん、引退して、かなり時間がたってからでもその思い出を書くことはご法度となります。

一流といわれる秘書は、必ず、こういう秘書心得箇条を自戒をしていめています。

1人当たりがいいこと

2世話好き

3ほどほどの闘魂

4集団の中に生きている一つの義務感

5イエスとノーをはっきりいうこと

6しかも、相手に不快感を与えず「ノー」といえること

7犠牲的精神

8口が堅いこと

9ムード作りがうまいこと

10笑いを忘れるな。

11人情の機微がわかること

12ボスに真実をしらせること

13下意上達をスムーズにやれ

二八の法則が想像つく少数精鋭の原理

部下を信用すれば実績が出ます。

信用すれば信じてもらえるし、疑えば誰も信用してくれません。

部下を信用しない上司は、部下からも信用されません。

上司を信用できないと感じた部下が、上司に対して誠実にふるまうことはありません。

信用するから信用されるわけです。

作用・反作用です。

「実績を上げるまでは信用しない」などと言っている上司は愚の骨頂です。

上司は権力を持っているのですから、まずは上司から部下を信頼するのが当たり前の順番です。

「お前のことを信頼しているぞ。頼むな」と言われれば、部下は自分の力を出し切ろうと努めるものです。

また「少数精鋭」、部下の数よりも質を優先すること、組織を少数精鋭にすることの必要性が述べられています。

少数精鋭というのは優秀な人を少数集めることではありません。

「少数だからこそ精鋭になる」という意味です。

放課後に友達とソフトボールをやるとしましょう。

いつも9人×2チームなどという人数は集まりませんから、4,5人のチーム同士でやるわけです。

するとみんな上達します。打順はすぐ回ってくるし、守備ではショートとセカンドを一人で守ったりしなければなりません。

これを30人でやったらどうなるか。打順は回ってこないですし、ボールも飛んできません。

少数だから、精鋭になるわけです。企業活動も同じです。

与えられた人数の中で、それぞれの役割にふさわしい人を見極め、その役に任命するチーム作りの核心はここに尽きるわけです。

そして、重要なのが、適材適所で人を配置した後は、リーダーは全体をじっと見守ることです。

余計なことはしない、一度仕事を任せたら、どっしり構えて待つ。リーダーはそれくらいの度量をみせるべきなのです。

仕事を任せたはずなのに、ついリーダーの方が何かをやってしまう。

あるいは、やたらと口出しをしてきて困る。これらは、職場、学校、家庭などで良く見られる光景です。

仕事の場面でリーダーが部下の仕事に口出しをしてしまうのは2つのパターンがあります。

1つは、リーダーの得意な仕事である場合、もう一つは最初の人員配置の時にリーダーが良く館得ずに役を割り振っている場合です。

Aさんに任せておきながら、途中で「あいつ大丈夫かな」と不安になり、あとからBさんにも「Aをフォローしてやってくれ」と頼んだりする。

これでは、AさんもBさんも上司が信用できなくなります。

与えられたメンバーの能力をよく見て、誰がどの役割に充てれば全体としてのパフォーマンスが最高になるかを考え抜くことです。

適材適所の考え方です。

こう考えていくと、会社が決める転勤や人事異動が、いかに理不尽なことかがよくわかります。

「あいつは分析に優れているけど、人間の幅を広げさせるために営業をやらせてみよう」などと考えるのでしょうか。この発想の背景には日本の終身雇用制度があるわけですが、ある意味人間の本質を観ない傲慢が生み出した考えともいえるかもしれません。

いいチームとは、いいリーダーと言いフォロワーによって生まれます。

リーダーは部下たちの能力をよく見て、適材適所で役割を与えます。

そして、一度任せたら、あとはどっしり構えて見守る。部下が自分を信用してくれているかどうかにかかわらず、まず自分から部下を信用する。

そうすれば、部下はリーダーから信頼されていると感じ、自分の能力が発揮できる役割に最後まで一生懸命に取り組みます。

そして、信頼されているという安心感があるからこそ、リーダーがおかしいと思った時には怯えることなく率直に意見を述べることができるわけです。

組織の維持

創業に必要な能力と組織の「守成」をする能力は違います。

組織の滅亡は君主と人民の心が離れてしまった時に起こると考えられています。

離れてしまう理由は、おべっかい使いの部下が君主の目と耳を塞いでしまい、民衆の不満や困窮を君主に知らせようとしないからです。

結果、民衆の怒りが高まって君主に反旗を翻すようになります。

いくら実績のあるリーダーだと言っても、フォロワーがみんなで反乱を起こしたらリーダーで居続けることはできません。

リーダーは寄生階級です。

人民が安定すれば、君主も栄え、人民が乱れれば君主も危うくなります。

君主は船で人民が水というたとえがあります。

社会のニーズにこたえていない時、その組織は存続することができません。

企業でもNPOでも趣味の集まりでも、世の中から「あったほうがいいな」と思い続けてもらえた方が組織は永続するわけです。

組織の力はどんな時に弱まるか。それは、メンバーたちが思ったことを率直に言えなくなった時です。

相手の意見が明らかに間違っているのに、それを指摘すると相手が起こって意固地になったり、相手の面目を潰してしまったりするため、指摘せずに黙ってしまう。こんな状態が続くと、ついには国が滅亡するとまで言われています。

強大な国だった隋が、38年という短期間で滅んだ一因は、リーダーを恐れてフォロワーたちが言うべきことを言わなくなっていったからです。

これを言ったら嫌われる。

これを言ったら上司は起こるに違いない。反対に、これを言っておけば上司の機嫌を損ねることはないだろう。

このように感情をベースにしていると、物事の正しい判断は出来ません。

フォロワーの側は、数字・ファクト・ロジックで正しいと思うのであれば、嫌われようが怒られようが、きちんと意見を主張すべきです。

またリーダーの側は、フォロワーたちが意見を言いにくいと感じることのないよう、自分はみんなを信頼していると普段から伝え、率直な意見交換が奨励される環境を作ることが何よりも大切になります。

怒られたくない、地位を失いたくないという自己保身は自分が所属する組織の持続可能性を失う行為になるのです。

後継者選びという難問

歴史が物語るように、人間にとって一番難しいのは後継者選びです。

君主が最後に望むのは、次世代のリーダーを選び、自分が作った組織を確実に受け継がせることでしょう。

太宗が有終の美を飾れなくなる10個の理由を紹介します

1駿馬や珍奇な宝物を買い集め、異民衆から軽蔑されている

2「人民がきままな行動をするのは仕事がないから」という理由で、軽々しく人民を肉体労働で酷使している

3大宮殿を作りたがっている

4器量の小さい人や人徳のない人とばかり勾留して、徳行を備わって人を遠ざけている

5商工業のみに力を入れて、農業をおろそかにしている

6自分の好き嫌いで人材を登用している

7節操なく、狩猟などの娯楽に興じている

8臣下への礼節をなくし、臣下に接するときの態度がいい加減になっている

9威張ったり、傲慢になっている。自分の欲望を自制できなくなっている

10天才・謀反への備えが疎かになっている

国史上最大の名君と呼ばれた太宗でさえ、気が緩み、倹約の気持ちを失ってしまうのですから、凡庸な人間であればなおさらのことでしょう。

このように『貞観政要』はトップの謙虚さと部下の言葉の必要性が永遠と繰り返されています。

第三の柱:よい幕賓を持つこと

幕賓とは、その帝王を心から好いてはいるが、官に仕えても裃(かみしも)をきる窮屈さを嫌い、野にあって帝王に色々と直言してくれる人物のことをいいます。

俗な言葉で言えば「顧問」「社外重役」などピンからキリまであります。

位置ちゅうの幕賓の資格には第一に「胆識」をもつことです。

見識に裏付けられた現実処理の能力のことをいいます。

いかに見識を持っていても、現実に事を処理し、すすめてゆくこととなるとかなり容易なことではありません。

さまざまな利害や矛盾、また、そこから発生する議論の中にあって、それらを抑え込んで実践しなければならない決断力が必要です。

つまり、見識にこの決断力が伴ったのが胆識です。

見識のある人物は好くあなくないですが、胆識をもった人物となると非常に少なくなります。

幕賓の第二の資格は「浪人的風懐」です。

「仁」という最も広い住まいに暮らし、「礼」という最も正しい位に立ち、「義」という最も大きな道を堂々と歩く、いかなる富貴や快楽をもってしても、その精神をとろかして堕落させることができず、いかに困窮で圧迫しても、その志を変えることはない。いかなる権力、武力で脅しても、屈しないことを指します。

「事務」作業は、ある程度の基礎さえあれば、機械的にやっておけば済みますが、

「時務」となると、「時」の文字が示す通り、その時その問題に対して、その人間がいかになすべきかという生きた問題となりますので、どうしても、根本t系に、その人物の教養、信念、胆識、器量がなくてはなりません。

浪人というのは、地位も肩書も名誉も何もない、いわば裸の人間のことw差します。

したがって浪人中の交友は「裸のつきあい」であって、アリストテレスの「友人は第二の事故である」という言葉が最も正確に適用されれます。

浪人中に低俗なつまらぬ連中とばかりつきあっていたら、その人間自身がお粗末と判断して間違いないし、逆に立派な人物がその周囲に寄り集まっているようだったら、まず一級の人物とみなしていいでしょう。

私たちは、いくら、人から好かれようと努力しても、全ての人から好かれるわけにはいきません。

それは、あらゆる人々を分け隔てなく愛そうとしても、絶対にそうはいかぬのと同じです。

人間である限り、特に好きな人や、どうしても好きになれない奴が出てくるのは当然です。

しかし、大切なのは、自分の好きな人がすぐれた人間であり、立派な人物であることです。

亡国の3つの兆し

清朝の末期やはり世が乱れる前兆として3つを挙げています。

1何事によらず、白黒がわからなくなること 人間の原理的教養の欠落は、精神の不振となってあらわれ、善悪の区別がはっきりしなくなり悪に対して弱くなります。 その結果、逃避的、迎合的になります。

2善良な人々が、ますます遠慮がちになり、下らぬ奴がいよいよでたらめをやります。 裁判官は山積みする事件のために全くへとへとになり、警察官は犯罪の鎮圧のために参ってしまいます。そして、牢獄は充満、こんな戦慄すべき状況下において、何らかの大反動をみるのはやむをえないことです。

3問題が深刻になると、あれももっとも、これも無理からぬと、何でも容認してしまい、どっちつかずの痛からず、かゆからず、というような、訳の分からぬことをしてしまいます。

終わりに

ワイは日ハムファンなので、

この帝王学に触れて思ったのは、栗山監督はもろ帝王学に触れている監督だろうなって思いましたよね。

是非、帝王学で一流の人間、一流のニートリーダーが誰か立ち上がることを願います。

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