こんにちは、さっちゃ~んです。
今回は、「生き方」
哲学と言ってもいいでしょうか。
私たちは人生をどのように生きていき考えたらよいのかについてやっていきますが、
そもそもそういう教えの指針となっているのが「宗教」であり
日本人に一番なじみのある考え方は「仏教」なので、
「仏教」の教えを学ばない手はないでしょう。
今回はそのための「仏教」をやっていきます。
モノ不足の現代社会:現代人を苦しめる義務教育洗脳を理解せよ
自分がどんな自分であるか、自分自身で考えて決める、他人任せにしないというのが、現在のあたりまえの考え方です。
自分で決めると言っても、その時で好き勝手やるというのではありません。
自分はどうあるべきか、自分にとってなれそうな立派な自分とはどんな自分かを考え、それを目標に頑張るということです。
こういう「あるべき自分をちゃんと思い描いて頑張っている人」のことを「自我が確立している人」と呼びます。
「人間は社会に貢献しなければいけない」という自分の考えと自分の能力を考えて、サラリーマンを選んだり医者になったり警察官になったりするべきだ、という考え方です。
これはもちろん職業だけでなく、あるべき夫や妻の姿であったり、あるべき父親母親像であったり、あるべき国民の姿であったりします。
宗教いう枷、つまり、「神様が決めた通りに生きる」という枷がなくなったぶん、一人一人が自発的に立派であってもらう以外に社会秩序を保つ方法は一つもないので、「自我の確立」が何よりも大切となります。
しかし、それはまた、とんでもなく、難しく、面倒くさいことだったのです。
その結果、現代のわれわれは社会ストレスや、精神病、神経衰弱と言った「近代人の勲章」を手に入れることとなりました。
だって、自分が貧乏な理由、物事がうまくいかない理由、人から尊敬されない理由は、全部自分のせいなのですから。
みんなが豊かさを目指せる社会、とはもう一つの意味を含んでいます。
豊かでない自分は負け犬である、ということです
中世において、「私」とは神の思し召しで生まれてきた存在でした。
農奴に生まれてきたとしても、それを神様の思し召しとしてありがたく受け入れるか、シレンとして頑張るか、しかありません。
しかし、現代の若者は、自分のことを「唯一無二の自分」と捉えます。
「自分にとってのみ、自分が何者にも代えがたい存在」なのであり「他人にとっては大勢の中の一人」でしかないことも知っています。
だからこそ「自分らしさ」を大切にすることと「自分の気持ちを大切にすること」が何にもまして重要だと考えます。
「近代的自我の呪い」というプレッシャーを背負ってみんな生きている「近代人はつらいよ」ってなる。
この自分に対する考え方が「モノ不足」にきて、成立しなくなり、精神世界へと移行され、そのプレッシャーから解放される方向へ向かいました。
つまり、逃げたとも言えます。
決して「あきらめた」「逃げた」を否定的な側面のみで捉えないように。
だいたい、もともと「近代的自我」に無理があったんですから
人間、身体や心を悪くしてまで守らなければならない理念なんて、長続きするわけありません。簡単に、うつ病&自殺です
「義務教育制度」は近代から導入されたのですから中世とは明らかに異なる点となります。
しかし、工業化社会の「教育」は大人になってから参加する経済競争の前哨戦という位置づけでとらえられていましたが、それが「モノ不足」の現代、大きく変質しており、これによって様々な齟齬が生まれております。
「ちゃんと学校を卒業すれば、いい会社に就職出来て、豊かな生活ができる」なんて誰がいえるのでしょうか。
ちゃんと学校へ行っても、何もいいことがないことをみんな知っております。
ところが、この「産業社会用カリキュラム」は無視して純粋に「勉強」したい若者も存在します。
彼らは「面白そう」「楽しそう」という自分の気持ちを大切に、勉強する分野を選びます。
彼らの目的は「自分の人生を豊かにするため」です。
中世では、「勉強」という機会は存在しておらず、「祈り」続けていましたが、内面世界に重きを置いているという点では共通しております。
日本人は、GHQ洗脳教育により、過去の日本文化が破壊され民主主義(笑)に毒されました。
日本の場合は、神道+仏教です。
今回は、GHQ洗脳教育で育った現代人に今一度仏教の教えを普及して生きることの「苦しみ」への解放を目指していきます。
仏教とは???
六世紀に伝来していら、日本の文化に影響をもたらし、わたしたちの習慣、行事、考え方に、今でも深く根をおろしています。
普段私たちが意識せずに使っている言葉が実は仏教用語からきていることも少なくリマ千。
例えば、蒲団、玄関、掃除、「果報は寝て待て」などです。
釈迦は「人生は苦である。煩悩を捨てよ」と説きました。
その教えから導き出された言葉の数々は、日本語の喜怒哀楽表現に欠かせないものとなっています。
例えば、「安心」仏教では「あんじん」と読み、もともとは心の安らぎを得て、惑わされない、さとりの境地を意味しています。
また、酷く苦労することを意味する「四苦八苦」は、そもそも仏教の「この世の苦」のことです。
四苦:生まれてきたことそのものが「生苦」、「老苦」、「病苦」、「死苦」
それに四つの苦
・愛別離苦:愛するものと別れる苦
・怨憎会苦:いやなものに会わねばならない苦
・求不得苦:求めるものを得られない苦
・五取うん苦:さまざまな執着から生まれる苦
を加えたものが八苦です。
これらの「苦」をもたらす根本原因が「煩悩」です。
煩悩が生じるのは、わたしたちに正しい知恵がないことに寄ります。
知恵を持たず、欲にまみれた状態を「無明」といいます。
この世の一切は「苦」である
仏教では、この世の一切を「苦」であるとし、ここから教えをスタートさせていきます。
美味しいものを食べる、好きな人とデートするなど、人生には多くの「快」がありますが、所詮は一時的なもの。
舌が肥えれば、普通の食事では満足できなくなり、苦が生じます。
恋人と一緒の時間が楽しければ、かえって別れがつらくなり、快は苦に転じます。
快を享受することは、既に苦の始まりでもあるわけです。
成り行きに身を任せた行為は、苦を招きます。
「苦」の根源は「無明」です。
わたしたちに正しい知恵がない状態を言います。
「一切皆苦」「諸行無常」「諸法無我」を正しく知らない状態では、次々に「煩悩」が生まれ、苦に陥ります。
煩悩は、心身を煩わせ、悩ませ、惑わせます。
最古の仏典の一つ『ダンマパダ』で、釈迦は
「強い根を断たねば、樹を切っても再び成長するように、欲望の根源を滅ぼさねば、苦は消えることがない」と述べています。
煩悩の中で、大きな3つを「三毒」といいます。
「貪欲(尽きることのない欲望)」「瞋恚(自己中心的な怒り)」「愚痴(愚かで無知な心」の3つです。
やっかいなことに三毒そのものが煩悩であるだけでなく、三毒からさらにさまざまな煩悩が生み出されます。
三毒に「慢(他人と比べて思いあがること)」「疑(真理を信じずに疑うこと)」「悪見(対象の見方を誤ること)」を加えて「六大煩悩」とすることもあります。
「慢」は他人と比べて思いあがること、「疑」は真理を疑うこと、「悪見」は対象の見方を誤ることです。
煩悩の数は百八とされますが、さまざまな分類があり、84000とする説もあります。
釈迦は、苦には必ず原因があるとして、この原因を解消しない限り苦は続くと説きました。
仏教の生まれた古代インドでは、人間は永遠に「輪廻の世界」をさまよい続けると考えられていました。
人は「苦」に満ちた人生を送った時、せめて次に生まれ変わったら幸福になりたいと、来世に期待します。
しかし、仮によい境遇に生まれかわったとしても、そこにはまた別の苦が存在するのです。
何故人間には「苦」が生じるかというと、現実世界が思い通りに行かないからです。
「思い」とは欲望のことです。
人間には欲望があります。
しかも、それは無限に膨らむ性質を持っています。
釈迦はこれを「渇愛(トリシュナー)」と表現しました。
のどがカラカラに乾いた状態です。
満たされれば満たされるほど膨張する欲。
海を漂流する人間が海水を飲んだことにより、さらに渇きを覚える様子に例えられます。
人間は満たされない「渇愛の海」を漂い続けているというのです。
人間は6つの世界(六道)を輪廻転生するとされます。
死ぬたびに、六道のどこかに生まれかわります。ここを「此岸(しがん)」といいます。
わたしたちの今生きている世界は、六道の一つ「人道」です。
さらに良い世界「天道」に生まれかわったとしても、渇愛がある限り「苦」は常につきまといます。
古代インドでは、生あるものは、永遠に生死を繰り返すと考えられました。
それは車輪が回転し続けることに例えられ「輪廻」と呼ばれます。
動物に生まれるかは人間に生まれるかは、自分で決められません。
「六道」のどこかに生まれかわるかが決められます。
輪廻は迷いの世界です。
この迷いの世界から抜け出すには、どうしたらいいか。
迷いの世界には「三界」があるとされ、
瞑想によって「欲界」から「色界」を経て「無色界」へ上る修行が考えられました。
しかし、欲望も物質的条件も超越した「無色界」に達したとしても、そこが輪廻の世界であることには変わりません。
次に生まれかわる世界は、原初的な欲望の渦巻く「欲界」かもしれないのです。
そんな輪廻から解脱し、さとりを開いたのが釈迦です。
「苦」から逃れるにはは、「彼岸」にわたることです。
彼岸とは、釈迦が解脱して到達した世界「涅槃」のことです。
涅槃とは、サンスクリットの「吹き消す」を表す「ニルヴァーナ」を写した言葉です。
つまり「煩悩」の炎が消えた時を解脱といい、その心の状態が、生きながらに達することのできる「さとりの境地」なのです。
此岸を離れ、彼岸に渡ることが、唯一「苦」から逃れる道と仏教では言います。
「業」はカルマといい、「のちに影響を与える善悪を伴った行為」を意味します。
その業が下人となり、結果として招くものが「果報」
善い行いを積むと、良い結果が得られ、悪事を働けば、後にその報いを受けるという考えです。
積極的に善行を実施することで、後の安楽を得られるとしたのです。
これは輪廻の思想にも現れています。
善行を積めば、天道や人道に転生し、罪を犯せば畜生道や地獄道へ落ちるとされています。
同様に、解脱もこの子の理論によるとされます。
釈迦が解脱できたのは、前世の修行の成果であるといわれ、『ジャータカ物語』という前世物語が書かれました。
「努力すればよい結果が得られる」釈迦はそのように教えています。
釈迦は安らかな生き物として「諸法無我」を教えます。
すべてのものに実体がないという考え方です。
万物は変わり続けています。常に不確かです。それは人間にも当てはまり、仏教に自我は存在しません。
「わたし」という実態はなく、五蘊(ごうん)という5つの要素が集まり働き合って、そのときどきの自己を作っているのです。
こう考えると「わたしのもの」というこだわりがなくなります。
自分と他人との間に線引きをしなければ、優劣や勝ち負けに執着することもなくなります。
「我はない」とさとった者から「苦」は消え去るのです。
さとりへの道筋
さとりを得た釈迦が、最初の説法で教えた真理が「四諦」です。
四諦は「苦」の原因と、それを乗り越えるための真理を説いたもので、釈迦自身が「もっともすぐれた真理」と述べています。
人間は生老病死(四苦)など、逃れることのできない苦を負っています。
人生は思い通りにはいきません。
釈迦は、その事実と、苦の原因を明らかにすることで、人々に、安らぎを手に入れるための道程を示しました。
それが四諦です。
諦は「あきらめる」でななく「あきらかにする」の意味です。
四諦は「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」です。
苦諦とは、「この世は苦である」という心理で、仏教の大前提となります。
これを理解することで、正しい道を求める心が生まれます。
集諦とは、苦の原因が「煩悩」にあるという真理。
実態のない「私」や「私のもの」にこだわる(執着)ため煩悩が生じ、苦を生むのです。
ということは、執着から離れ、煩悩を滅すれば、安らぎを得られることも、また真理。
この真理が目ッていです。
滅諦に至るにはどうすればいいか、それは「八正道」で達せられると言います。
この真理が道諦です。
釈迦は、快楽も苦行も、解脱に至る道ではないといいます。
釈迦は出家前後の時期に、真理を探るため、享楽的な生活を送ったり徹底した苦行をおこなったりしました。
しかしいずれも失敗しました。
その体験から述べています。
釈迦はさらに、魂が永遠に輪廻するという「常見」の思想も極端としました。
生あるのはこの世限りとする「断見」思想も否定。
両極端から離れた正しい方法を、中道としたのです。
誤った考えはもちろん、一つの方法に執着しない「非苦非楽」「不偏中正」の道が、解脱への修行理念であると釈迦は説きました。
四諦の「道諦」で示された「八正道」は、修行者が解脱するための理念です。
「中道」に則った心のもち方を示した、修行のための大まかな枠組みといえるでしょう。
八正道は、後に仏教が発展し、修行方法が体系づけられる際の基本の骨格となりました。
八正道とは「正見」「正思」「正語」「正業」「正命」「正精進」「正念」「正定」の八つです。
正しい見解を持ち、正しく考え、正しく語り、正しい行いを持って正しい生活を送ること、そして釈迦の教えを守り、努力を怠らず正しく瞑想することを説いています。
大乗仏教の教え
釈迦入滅後約4~500年間は、さとりを開いた釈迦のみが崇拝され、釈迦と同様に解脱できるのは、修行を積んだ僧侶だけとされていました。
しかし釈迦の目的は大きな乗り物で全ての人を救済することにあったはずだとみなされるようになり「大乗仏教」が誕生しました。
大乗仏教とは、誰に対しても深い愛と喜びを与える「慈」と悩める人から苦をとりのぞく「悲」を意味する「慈悲」を基本に説く教えです。
大乗仏教の修行理論は「六波羅蜜」で示され、そのなかで、自らを捨てても他者を救済しようとする「利他行」が重視されます。
「菩薩」とは元来、修行中の釈迦を示す言葉でした。
しかし、大乗仏教成立後は、修行者のシンボルとなりました。
菩薩はさとりを得る力をもちながらも、あえて解脱せず、慈悲の心から衆生と共に修行している存在とされたのです。
菩薩と衆生とがさとりを得るための、主な徳目が6つあります。
これを「六波羅蜜」といいます。
そのなかの「布施波羅蜜」の利他行には、金品を分け与える布施があります。
しかしそれができない貧しい人々もいます。
そんなとき、優しい笑顔や親切も布施になるとされています。
これを「無罪の七施」といいます。
『平家物語』でおなじみの諸行無常とは、仏教の根幹をなす教えの一つでこの世のすべての事物は変化して止まないという意味です。
この変化をもたらすものを「縁起」としたのが、釈迦の考えです。
因縁の「因」は直接的原因、「縁」は間接的原因。因縁が常に変化するため、結果も常に変化し、無常を作り出すというのです。
人間が、知恵を持たない「無明」の状態から苦を経て死に至るまで、すべてが原因と結果に基づくとして、釈迦はこれを「十二縁起」にまとめました。
世の中の現象を、神ではなく因果関係によってとらえる考え方は、仏教が他の宗教と大きく異なる点です。
仏教におけるこの世の真理「四諦」も縁起に基づきます。
「苦諦」という結果は、「集諦」という原因によって起こり、煩悩から脱した「滅諦」という結果は、修行した「道諦」という原因から生じるのです。
わたしたちは、すべては移ろうという無常を認識すると、不偏の何かを求める心が自然と生じます。
無常の世界から解脱したいという考え(菩薩心)をもつに至るのは自然の流れだと、釈迦は説きました。
輪廻を抜け解脱すると到達できる「涅槃」
仏教には様々な宗派があり、教えや修行法もまちまちです。
しかし、最終到達地点は共通しています。
それは開祖の釈迦自身が到達した「涅槃寂静」を目指すことです。
「涅槃」とは煩悩の炎を吹き消し、「知恵」が完成すること。
「寂静」とは静かで安らかな境地です。
苦の原因を断ち切り、静けさに満ちた精神状態になることをあらわしています。
諸行無常、諸法無我、四諦を正しく理解し、八正道と六波羅蜜に基づいて修行することで、生きながら到達が可能な地点です。
釈迦は、涅槃寂静こそ最高の安楽の地と説きます。
この境地に立てば、もう二度と輪廻の世界に転生することはありません。
「苦」から解脱したのです。
涅槃はこの世ではなかなか到達できませんが、浄土と呼ばれる理想郷なら修行がどんどん進みます。
もっとも有名な浄土は阿弥陀如来が経営する極楽浄土。
死んだら往生して阿弥陀如来のもとで頑張りたいと願うのが浄土信仰です。
さとりを開いてブッダになることを「成仏」「成道」といいますが、いずれも涅槃寂静に立つことと同義です。
全ての人の救済を目的とした「大乗仏教」では根本に「空」の思想があります。
「空」とは、からっぽ、空虚の意味。この世の神羅万象が「空」とわかれば、執着から解放されて、さとりが開けるというわけです。
大乗仏教は、「空」を他者との関係にも必要とします。
衆生救済をおこなう菩薩は、奉仕活動を勧めます。
そのとき他者に対して「空」の考えを欠くと、先入観をもったり、迷いや対立が生じたりするというのです。
自分だけでなく他社にも、清らかな「空」の心で接すること、これが大乗仏教では求められます。
大乗仏教を支える理論「空」の神髄を教えている経典があります。
『般若心経』です。
わずか162字の短い経典ですが、内容は意味深長。
観音菩薩が、釈迦の弟子・舎利子に「空」とは何かを説いたものです。
『般若心経』には、有名な「色即是空」という一節があります。
この世のすべてのものは「空」である(一切皆空)という意味で、大乗仏教の基本理念です。
一切が「空」であるということは、理屈ではわかったつもりでも、体得するのは簡単ではありません。
だから、わたしたちは修行しなければならないのです。
釈迦の教えの三本柱「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」は、三法印と呼ばれます。
この世に生み出されたすべてのもの(諸行)は変化し続けます(無常)。
仕事がうまくいって、大金が稼げたとしても、その景気がいつまで続くかわかりません。
幸せは儚いものです。
そしてすべてのもの(諸法)は独自で存在せず(無我)、必ずほかとかかわりあっています(縁起)。
「わたし」や「わたしのもの」には実体なく、こだわっても生じるのは不幸だけです。
現世をこのように正しく理解し、修行に励むことで、輪廻の苦を抜け出た境地(涅槃)に立ち、心の平静を得る(寂静)ことができるという教えです。
このよのすべては思い通りにならず、苦に満ちているという人生の真実相をあらわしています。
事物はいつも必ず「無常」であり、それ自体で存在しない「無我」です。
しかしわたしたちは、事物がずっと同じ状態であり続けると錯覚し、執着します。
これによって「苦」を招くことになります。
この迷いから抜け出すことが人生の目標だと釈迦は教えています。
日本の仏教の歴史
日本神道と仏教が融合して独自の神仏習合
日本には古来、自然の霊的な力を信仰する「神道」が存在していました。
崇拝対象は、自然物を神格化していた「八百万の神」です。
丁寧に祀ると恩恵を与えてまらえますが、ないがしろにすると祟りを被るとされていました。
538年に仏教伝来。
当初は色々ともめましたが、ほどなく仏教は神道と融合しました。
日本古来の神は、仏法を守護する役割を担い、神仏は一緒に祀られるようになりました。
これを「神仏習合」といい、日本独自の文明です。
大仏建立
仏教を厚くしていた聖武天皇は、国ごとに国分寺と国分尼寺を置き、総国分寺として東大寺に、大仏を建立しました。
大仏建立は、建国以来の大事業で、莫大な費用と11年の歳月を要しました。
開眼供養の導師には、インド僧・菩提センナを迎え国際的な祝祭を催しました。
仏教が発展する一方で、日本には授戒(仏教の戒律を授け正式に僧にする)制度がないことが懸案事項でした。
そこで、唐から、律宗層・鑑真を招き、日本初の正式な戒壇を東大寺に設置し、日本仏教の土台が完成しました。
奈良時代には、仏教が政治と結びついたため、僧の権力が強まりました。
道鏡にいたっては、皇位を狙うまでの権勢をふるっていたため、そういう僧の政治介入を防ぐ意味もあって遷都されたのが平安京になります。
二人とも、遣唐使の一員として一緒に唐にわたり、それぞれ天台教学と密学を学んで帰国しました。
最澄の開いた比叡山延暦寺は多くの宗派を生み、日本仏教を語る上で欠かせない存在となりました。
平安時代末期、天皇を退いた条項が政治を行う院政が始まり、各上皇は出家して仏教を保護、力を得た大寺院は荘園領主となって、世俗権力化と仏教興隆が同時進行し、武装化して私的要求を押し通す寺社もありました。
これは、釈迦入滅二千年後に、さとりの得られない時代が来るという悲観的な考えです。
そうした世相に応えようと誕生したのが「鎌倉新仏教」とよばれる新宗派です。
新宗派は、釈迦信仰と浄土教系の阿弥陀信仰に大別され、釈迦信仰は禅宗と日蓮宗がその担い手でした。
新仏教に対抗して、旧来の教団の復興運動も高まり、真言律宗が誕生します。
釈迦に対する信仰を再興し、女性の授戒を認め、慈善事業に多大な貢献を果たしました。
当時はまた、中国の明との交易も仕切って、学問や文化を輸入し、文学、絵画、作庭、茶道が大いに発展し「禅文化」が開花しましたが、武士層が中心で、庶民との関連は気薄でした。
戦国・江戸・明治・戦後
浄土真宗は、蓮如が本願寺の門主に就いてから、急速に成長しました。
ときは応仁の乱から戦国時代へ突入し、秩序の失われた村落では、一向宗(浄土真宗)信者が自治政治を行い、武装化した信者は一揆をおこしました。
同様に日蓮宗も京都や堺で町衆と結びついて勢力を拡大し、比叡山も戦国大名と連合して勢力を維持しましたが、
いずれも織田信長に敗れ、政治的勢力を失いました。
江戸幕府では、仏教勢力が政治に結びつくことを避け、全国の寺院から武力を取り上げました。
そして、寺社奉行を頂点とする、寺社支配の体制を固めます。
一方、島原の乱にみられたようなキリスト教徒の強い結束を警戒し、国民全員が仏教宗派のいずれかに属す仕組みを作りました。
これを寺請制度といいます。
その結果、寺院は檀家の葬祭をおこない、檀家は寺院への布施を行う関係ができあがりました。
こうして、仏教行事は民衆の生活とは切り離せないものとなり、仏教は事実上日本の国教となります。
幕末になると、幕府批判と相まって仏教への批判が高まり、復古神道が高まりました。
この結果寺院や仏像が焼かれて多くの文化財が失われましたが、庶民から反乱にあって一転、仏教を認めました。
天皇が国家の中心で、神道は宗教ではなく国民の精神と位置づけられます。
宗教は国家神道の下位に置かれ、仏教もその一つとして公認される形となります。
昭和時代では「皇道仏教」が強制され、天皇を釈迦の上に位置づけ、各宗派の教えは、戦争推進に都合よく解釈するものに改められました。
しかし1945年、GHQが日本を侵略し、日本の宗教そのものを破壊し、日本国憲法で宗教の自由を強要されることになり、
日本の宗教観が伝統仏教があれど、なくなってきたといえます。
仏教の世界観
浄土(仏国土)とは、さとりを開いた仏が建立し統治する理想の世界で、穢れが全くないことからこういいます。
一般的に浄土といえば、阿弥陀仏の作り上げた「極楽浄土」が有名です。
「阿弥陀教」によれば、極楽浄土は、すべてが金銀宝石でできた夢のような世界です。
行けには大輪の蓮(はす)の花が咲き、芳香を放っています。
住人はあらゆる装身具で飾り立て、不安も苦しみもありません。
そして仏の教えに常に耳を傾けて仏道修行に励んでいます。
つまり、極楽浄土は何ものにも妨げられず、仏道修行ができるように整えられた、最高の環境といえます。
そんな阿弥陀仏の「極楽浄土」が悠目ですが、浄土は仏の数だけあります。「東宝浄瑠璃世界」「蓮華世界」などです。
「往生」とは、浄土教の念仏修行により、極楽浄土に生まれかわる「極楽往生」のことを指しています。
わたしたちは、生前の行いによって、死後、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道のどこかに振り分けられ輪廻を繰り返します。
仏教のようなインド生まれの宗教では、あらゆる生命体は、さとりを開かない限り、永遠に生き続けるとされました。
しかもその生は苦しみに満ちたものというのですから、たまりません。
天界や人間界ならまだしも、餓鬼や地獄に生まれかわったら、と思うだけで絶望します。
しかし、この恐怖が人々をあつい仏教信仰に向かわせたことも疑えません。
死んでから転生するまで
日本仏教の伝統ではおおむね死者は死出の山から、旅をしながら7日間ごとに七回裁判を受けます。
この期間49日が冥土の旅です。
死者は生前の行いで裁かれ、六道のどこにいくか決まります。
いわゆる「因果応報」です。
裁判は、まず仏教の教えを守ったか否かを審査されます。
第二の裁判では殺生、第三で邪淫、第四で言動について裁かれます。
第五で閻魔王が嘘について裁き、第六で総合的に吟味され、第七で泰山王が裁定します。
6つの鳥居のうち、死者は1つを選びますが、裁判の判決で既に行先は決定しています。
仏教宇宙
曼荼羅とは、サンスクリットで「丸くて完璧なもの」を意味する「マンダラ」を音写したものです。
具体的には真言宗の世界観(宇宙観)を図示したもので、その中心にあるのは大日如来です。
大日如来は真言宗の本尊で、宇宙森羅万象の心理・法則を仏の姿としてあらわした法身仏です。
大日如来を根源とするこの世は六大(地・水・火・風・空・識)から構成され、その様相を図示したのが4つの曼荼羅(四曼)です。
すべての神仏は、大日如来が生きとし生けるものすべてを救うために、ときと場合によって、異なる姿であらわれたものと考えます。
実践仏教
「禅」
もともと仏教において、「禅」とは心を安定・統一することで、さとりの境地を目指す修行法のことです。
その精神統一法が中国・日本で磨き上げられ、現在では「禅の思想」として、仏教に限らず、政治から芸術まで日常の様々な影響を与えています。
特に「座禅」はもともとは仏教の修行ですが、著名人からサラリーマンまで「無になるため」「自分に向き合うため」にと仏教とは関係なく、定期的に座禅会が開かれるほど人気を集めています。
禅宗はインドの僧侶、達磨(だるま)によって、中国で開かれました。
禅宗の特徴は、学問によって釈迦の心を追うのではなく、ひたすら座禅と問答によって、さとりを開くことを目指します。
「壁が何ものを寄せつけぬように、本来清浄な自性に目覚め、ずばり成仏せよ」という壁観が達磨の宗旨の特徴です。
教義は
・不立文字:さとりを得るには文字や言葉ではなく座禅などの実践が必要
・教外別伝:師が禅寺での修行生活で弟子を指導し、直接体験を伝えていくことを目指す
・直指人心:車自体を打っても牛車が動かないように、自己を見つめ、自らの仏性に気づくことがさとりであること
・見性成仏:自らに備わる仏の心を見出すこと。そして、自らの仏性を自覚することがさとりをひらくこと
座禅の作法
座禅とは姿勢を正して座り、心を統一させる修行法です。
釈迦も座禅によってさとりを開いたといわれ、インドの宗教界では仏教以前から実践されていました。
座禅では、心を静め、心を無にすることを目指します。
「行住坐臥」という言葉があるように、座禅は歩きながらでも、寝ながらでもできるものですが、ここでは座る座禅を紹介します。
まず、足の組み方は結跏趺坐(けっかふざ)が優れた座り方とされており、
足の甲を交差させ、反対の足の太ももにのせる座り方ですが、無理な場合は半跏趺坐(片方の足だけのせる)でも大丈夫です。
ちなみに仏像のほとんどが結跏趺坐で座っています。
手の組み方は、右の掌の上に左の掌を重ねた法界定印を結びます。
慣れないうちは、左手で右手を握る組み方でも構いません。
そして、禅定に入ります。
禅定は心の乱れを鎮めて、安定した精神状態に入ること。
心を解き放ち、妄想を追わず、人間本来の無垢な心に戻っていくのです。
座る時間は初心者は15分、慣れてきたら線香1本が燃え尽きる40~50分を目安に行います。
精進料理
八正道の「精進道」、六波羅蜜の「精進」として、仏教では戒律を守り、正しく修行に努めることが示されています。
その精神修養の一つに、おいしい肉食料理は避けて、粗食(菜食)に甘んじるという行があります。
この実践が精進料理です。
日常の営みをすべて修行とする禅宗では、毎日精進料理を食べています。
日本の精進料理の原型は、曹洞宗の始祖、道元が作りだしたといわれています。
道元は宋で二人の典座(炊事係)に出会って禅の修行の本質を知り、典座の心得の書(典座教訓)を記し、食を修行の一つと定めました。
同書では、調理の心得として、喜心(心から喜んで調理をすること)、老心(自己を忘れて他人に尽くすこと)、大心(偏りのない心で冷静に調理すること)と説いています。
この3つの心得と、五味、五法、五色の調理の基本にのっとって、料理を作ることが典座の修行であり、その食事を食べることも禅僧の修行になるのです。
精進料理は限られた食材を生かし、栄養のバランスも偏らないように工夫されています。
禅由来の食べ物は、豆腐、納豆、がんもどき、味噌、醤油、こんにゃく、湯葉、麩などがあげられます。
どれも中国から渡来したものや禅僧の工夫を活かした食べ物です。
禅寺の食事は米飯を中心とした一汁一菜を基本とします。
肉、魚、卵などは使わず、豆、穀物、野菜をしようします。
夕食は「薬石」と呼び、本来戒律で晩に食事をとれず、空腹をしのぐため腹部に温めた石を抱きました。これを「懐石」ともいい、現在の懐石料理の語源でもあります。
禅の精神から「わび・さび」という美意識が生まれ
書院造の建物、造園、漢詩文、水墨画、書芸、音曲、能楽、茶の湯など、次々と個性的な文化が生まれました。
- 「侘び」は、質素で簡素な暮らしを旨とし、その中に心の充足と美を求める思想です。
- 「寂び」は、時間の経過によって表れる美しさを指します。自然のパティナが持つ経年変化による美しさを意味し、物寂しい様にも美しさが備わった状態を指します。
お経
お経とは、簡単にいえば、お釈迦様の説法集です。
ほとんどのお経の冒頭に「如是我聞」つまり「わたしはこのように聞いた」との文言が置かれる理由は、
もともとお経とは、読むものではなく、聞くものだった事実に由来します。
ちなみにお釈迦さまは、古代マガタ語で説法したと推測されています。
ところが最初に文字化された時、その言葉は古代マガタ語とは言語系統が異なるパーリ語でした。
いまでもスリランカやミャンマーなどに伝わる上座仏教ではこのパーリ語のお経を使っています。
それに対して、大乗仏教の場合、お経はサンスクリットで表記されました。
ですから、日本仏教では、サンスクリット→中国語(漢訳)という過程を経たお経を読んでいるということになります。
お経は、お釈迦様の説法をしたためた「経」、出家僧が守るべき規律をまとめた「律」、お経をもとに、仏教を哲学的に考察する「論」でこれらを三蔵といいます。
またお経の数は膨大で、ほとんどの人は後世の人が書いたものです。
大乗仏教のお経は、いちばん早く成立したお経でも、お釈迦様が入滅されてから400年近く後に出来上がったものですから、ことごとく後世の産物といわざるおえません。
日本で昔から抜群に人気のあるお経といえば『般若心経』と『法華経』が双璧です。
「御法楽」といって、この2つのお経を唱えると、神々がたいそう喜ぶとみなされてきたのです。
お経を書き記す写経は、最初から功徳があるからという理由で始まったわけではなく、広報活動の一環として始まったようです。
古代や中世社会では、お経にはそれ自体に呪術的な力があり、所有するだけでも、邪悪なものを駆逐したり、願望を成就したりできると信じられていましたので、せっせと写経する人々が出てきました。
現代は、短くて覚えやすいという点で『般若心経』がほぼ一本化しているそうです。
お寺のお墓参り
お釈迦様時代、お寺はあくまで修行の場でした。
その後も、お寺=修行の場という原則はずっと保たれています。
その一方で、厳しい戒律を守り過酷な修行に精進するお坊さんには特別な力があるので、お寺に行き、お会いして説法を聞いたり、お布施したりすると、来世でよい境遇に生まれかわれるとか、現世でも病気が治るとか、いろいろな福徳が得られるという発想は、仏教のごく初期からありました。
重要なのは、日本など東アジアを除く仏教国では、原則として、お寺にお墓はないという事実です。
なぜなら、どこでも輪廻転生が前提になっているので、死後遅くとも49日以内には六道のどこかで、何かに生まれかわっているはずだからです。
したがってお墓は必要ありません。
その反対に、日本人がお寺に行く理由の大半はお墓参りです。
その背景には先祖供養があります。
飛鳥時代に仏教が伝来して以来、日本人の多くは、生命の連鎖を、輪廻転生ではなく、先祖様との血のつながり、心のつながらいという次元でとらえてきたためです。
災害に見舞われた時、お墓や位牌を失うことが何よりつらかったという方が、今なおたくさん出るのも、このあたりの事情と無縁ではありません。
また、願望成就をお願いできる場として、お寺に期待する方も少なくありません。
実際に、ほとんどの宗派では「御祈祷(神仏に祈る宗教的行為)」がおこなわれています。
いわゆる現世利益です。
現世利益というと、仏教の本筋から外れると批判する人もいますが、現世利益の意義は『法華経』でも認められています。
現に東日本大震災の時も、心身を病んだ方々をいやすにあたって、公的な機関が推奨した「ケア」よりも、お寺で営まれた「御祈祷」の方がはるかに効いたという報告があるくらいです。
「合掌」とは
崇めている対象の前で、両手を合わせることを、仏教では合掌といいます。
しかし、合唱は仏教に特有の行為ではありません。
キリスト教なで、世界中の宗教でおこなわれています。
合掌の起源は古代インドの礼法です。
礼法の基本は、相手に害意のないことを伝えるすべです。
この点は軍隊や警察の敬礼も同じで、掌をみせて、武器を持っていないことを示すために、あのような仕草をするのです。
そして時代が進むにつれて、合掌にはいろいろな解釈や意味が付け加えらていきます。
左右別々の手を合わせることで、心を一つにする象徴とみなすという、わりあい簡単な解釈からはじまって、指の反らし方や合わせ方うんぬんかんぬんで、全部で12種類の形とその解釈があると説く仏典すら登場しました。
仏像でも合掌している例はありますが、如来にお仕えする立場にある菩薩や明王や天部がほとんどです。
如来は崇められる存在なので、如来自身が合掌するはずがありません。
ところが例外があります。
阿弥陀如来がまだ悟りを開く前の言い換えれば修行時代の姿を造形化した五劫思惟阿弥陀像は、合掌印を結んでいます。
厳密にいうと、五劫思惟阿弥陀像とは、如来になる前の法蔵比丘というお坊さんが人々を救うにはどうしたらいいだろうか、という思案している姿を現しているので、合掌していても不思議はありません。
本当に如来像が合掌している例は、法華経信仰のお寺で、多宝如来という如来とペアになる形で祀られている釈迦如来像のなかに、少数ですが見出せます。
ただし、書家如来があえて合掌する根拠となると、『法華経』にそう説かれているわけではないので、よくわかっていません。
仏教が与える「功徳」
仏教では、なんらかの善い行為をした時に、その報いとして得られる恵みを、功徳といいます。
果報、福徳、利益などともいいます。
恵の内容は、なにも宗教的な領域に限らず、世俗的な領域にも及びます。
世俗的な領域の恵みを別の言葉で表現すると、現世利益です。
具体的にいうと、病気平癒を初めに、恋愛成就や入学祈願など、個人的な願望はもとより、鎌倉時代に元が攻めてきたときのように、仏教の力で国を救うことも、現世利益に含まれます。
加持祈祷はおおむね、この現世利益と密接な関係にあります。
現世利益というと、とかく次元が低いとけなされがちですが、仏教が人々の間に広まるうえで、絶大な力となりました。
もし仏教が現世利益を否定したとすれば、間違いなく歴史の彼方に消え去っていたことでしょう。
現世利益を認め、時と場合によって積極的に利用することで、歴史の荒波を乗り越えてきました。
その一方で、宗教的な領域では、さとりにかかわる功徳が強調されます。
お寺やお坊さんにお布施することで、そのお坊さんが高い境地に達した時、その余徳にあずかれるというのも功徳の一つです。
この場合、お寺を田んぼ、お坊さんは稲、信者のお布施は肥料とみなされ、田んぼに肥料を施すことで、稲がよく実れば、肥料を施した信者にも分け前があたえられるというわけで「福田」とよびます。
わたしたちとってもっとも身近な功徳といえば、「南無妙法蓮華経」というお題目や「南無阿弥陀仏」というお念仏称えることでしょう。
あるいは、お墓参りをして、ご先祖様を供養すれば、ご先祖様のご加護にあずかれるというのも、きわめて現実的な功徳です。
お寺
七堂伽藍の「伽藍」は、古代インドの公式言語だったサンスクリット(梵語)でお寺の建物を意味するサンガ・アーラーマを略語にして、さらに漢字で表記したものです。
そもそも仏教にとっていちばん大切な建物は、お釈迦様の遺骨を祀る塔でした。
また本尊を安置する本堂(金堂)も欠かせませんでした。
そのほか、お坊さんたちが居住する僧房も欠かせませんし、日常生活を営む上で、台所や食堂、トイレも必須でした。
お経を読むと、修行の疲れをいやすために、きれいな花壇や水浴び用の池も大切と書かれています。
日本の場合、当初は塔やお堂の配置をめぐって試行錯誤の連続だったようです。
法隆寺のように塔と金堂を当座に配置するお寺もあれば、飛鳥寺のように塔の東西北の三方に金堂を配置するお寺もありました。
また、山岳地帯に建てられたお寺は、地形の制約から変則的な配置にならざるを得ませんでした。
後世になると、お寺には7つの建物が必要とされるようになります。
これが七堂伽藍です。
ただし、七堂の内容は、宗派や時代によって異なり、早い話が、七堂伽藍はあるべき堂塔がすべてそろった大寺院という意味にほかなりません。
仏教の塔は、お釈迦様が「自分が死んだら火葬にして、遺骨を、道が十字に交わるところに建てた塔に納めて、崇めなさい」と遺言された事実に由来します。
インド仏教では、舎利はこの世でいちばん聖なるものとみなされ、舎利を拝むことは生きているお釈迦様を拝むことと同じ意味があると考えられていました。
日本のお寺でも、境内に塔が建つ例が多いのはそのためです。
お寺のスタイルも建築材料も、地域や時代によって大きく異なります。
たとえば、インドでは石材やレンガが多く、石の山や崖に穴をうがってつくる石窟寺院もたくさんありました。
中国では木材を使った例が多くなりましたが、石窟寺院もかなりありました。
日本では木材が圧倒的です。
ヒノキを初めに、きわめて良質の木材に恵まれたおかげです。
もう一つ、日本の仏教建築には、ほかには見られない特徴があります。
それは雨対策が講じられている点です。
日本のお寺は軒が深く、雨が直接、壁面に当たらないように作られているのです。
結果的にこの軒の深さは、日本のお寺にほかの地域では見られない優美さを与えました。
僧侶
お釈迦様が生きておられたこと、お坊さんはお釈迦様の弟子として、お釈迦様の指導のもと、もっぱらさとりを求め、修行に明け暮れていました。
求められれば、初心者や在家の人々を指導することもありましたし、ときには御祈祷のような行為もしていたようですが、それはいわば副次的で、何よりも自分自身のさとりを追求することが中心だったのです。
お釈迦様が入滅されて300~400年経つと、自分自身のさとりよりも、他人の救いを重視するタイプの仏教が登場しました。
「自利利他」といって、まず他人を救うことで、自分自身のさとりが得られるという考え方の仏教が出現したのです。
それが大乗仏教です。
ここで重要な点を指摘しておかなければなりません。
インド仏教の戒律では、初期型の仏教であろうと、大乗仏教であろうと、お坊さんは労働に携わってはならないと厳しく規定されていたのです。
したがって、経済的に支えてくれる人々が不可欠でした。
この関係が、お坊さんの社会的な役割に影響を与えました。
一般の人々は経済的にお坊さんを支え、お坊さんは一般の人々を精神的に導くという、持ちつ持たれつの構造ができあがったのです。
この構造は、お坊さんの労働に関してインドの仏教界ほど厳格ではなかった東アジアの仏教界で長らく貫かれてきました。
日本でも、昔、お坊さんはお布施で生活する一方で、修行に励んで立派な人格を育み、さらにいろいろな知識を身に着けて「智識さん」とも呼ばれ、地域の精神的指導者として、たいそう尊敬されていたものです。
近年、お寺も世襲制が続いてきた結果、本来なら聖職であるはずのお坊さんが家業/稼業になってしまい、俗人よりも俗っぽいお坊さんも多くなりました。
お地蔵さん
民間信仰が仏教っぽく装って行われてきた事例のうち、最大のものは地蔵信仰です。
「石の地蔵さん」というくらいで、お地蔵さんはたいがい石で作られ、しかも、まん丸い顔をしています。
なぜでしょうか。
その答えは、日本における地蔵信仰が「賽の神」と深いつながりをもつからです。
「賽」は境界を意味します。
つまり「賽の神」は境界を司る神なのです。
問題は境界の意味です。
村と村の境界を意味するとともに、この世とあの世、いいかえると生と死の境界も意味していたのです。
そして、古来、「賽の神」は大きな丸石という形でお祀りされていきました。
この「賽の神」信仰が、室町時代ころに地蔵信仰に転換されたと専門家は考えています。
そもそもお地蔵さんはインド生まれで、大地の神でした。
表情も険しく、頭髪もほかの菩薩と同様、ロングヘアでした。
現在目にする丸顔で、どちらかといえば子供っぽい容姿からは想像できません。
お地蔵さんは「賽の神」から、さまざまな境界を越えていけるという特徴を受け継いでいます。
地獄と享楽の境界も楽勝で越えられます。
だから、たとえ地獄に落ちてしまった人でも、わざわざ地獄まで降りて行って救ってくださるというので、非常に人気がありました。
お彼岸は日本オリジナル
お彼岸は、ご存知の通り春の彼岸と秋の彼岸があります。
それぞれ春分の日と秋分の日を中日として、その後の3日間ずつを加えた一週間のあいだに、お寺では彼岸会という法会を開き、信者は寺に詣でて、お坊さんの話を聞いたり墓参りをします。
このお彼岸の最大の特徴は、日本にしかない宗教行事という事実です。
彼岸という言葉はさとりの世界とあの世という意味で、此岸=この世とペアになる仏教用語ですが、仏教の生まれ故郷だったインドには、日本のお彼岸に当たる宗教行事はなかったのです。
彼岸は「日願」ではないかという説もあります。
春分の日と秋分の日は、太陽が真東からのぼり真西に沈む特別な日なので、太陽に対する信仰とかかわりがあったのかもしれません。
また、春分の日は農耕開始時期に、秋分の日は収穫の時期に、それぞれ当たるとともに、普段は山や海のかなたにいるご先祖様の霊魂が子孫を訪れる日とも信じられていました。
こういう習俗が仏教に取り込まれて、ご先祖様の霊魂がいるところが「さとりの世界/あの世」という意味の彼岸と同一視され、さらに現実のお寺とお墓というかたちに具体化されたわけです。
お盆
お盆は正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といいます。
起源にはいろいろな説がありますが、近年では盂蘭盆は古代イラン系の言葉で「死者の霊魂」を意味したウルバンを、感じの発音で写したのではないか、と考えられています。
イラン系の民族といわれるソグド人が、古代中国に死者の霊魂を祀るお祭りを持ち込み、インドから輸入されていた仏教と結びついて、盂蘭盆会の原型が成立したという説が有力です。
日本では推古天皇の14年(606年)に、初めて盂蘭盆会が催されました。
平安時代になると、空海たち留学僧が中国からもたらした仏教の施餓鬼の供養と融合し、重要な年中行事の一つとして定着しました。
日本列島には、何千年も昔の縄文時代の頃から、祖先の霊魂をていねいに祀る儀式があったことがわかっています。
そのなかに、祖先の霊魂が特定の時期に子孫のもとを訪れるという考え方もありました。
これが中国からはいってきた盂蘭盆会や施餓鬼と結び付けられ、今に続くお盆が形作られたようです。
かくしてお寺やお盆にお墓参りをすれば、その功徳がご先祖様の霊魂に廻向され、ご先祖様の霊魂が幸せになれるという考え方生まれたのです。
除夜
除夜の鐘の「除夜」は、大みそかの夜を意味しています。
「除」という漢字に旧来のものを押しのけて新たなものを迎え入れるという意味があり、古い年を押しのけて新しい年を迎え入れるため、「除夜」というのです。
また日本古来の発想では、一日の始まりは朝ではなく、午前零時とみなされていましたから、除夜はすでに新年に属しています。
新たに来臨する年神をお祀りする聖なる夜が除夜だったのです。
除夜の鐘は、108回つかれます。
お経を読むと、鐘の音のみならず、きれいな鈴の音やほら貝の音には、邪悪なものを退け、聞く人の心を浄化する働きがあると描かれています。
お釈迦様を初めに、偉いお坊さんの声にも同じ効果があると説かれています。
除夜の鐘をきくことで得られた安定した気分で、自分の「汚れた心/苦しむ心」をかえりみたり、来し方行く末について考えてみることは、大きな意義があります。
主な仏教行事
1月修正会:旧年を悪を正して、新年の天下泰平、五穀豊穣を祈願します。元日から7日間行われます
2月節分:立春の前日におこなわれる厄払いの法会。夜には悪鬼を追放する「追儺」の行事が行われます。
2月涅槃会:2月15日に入滅したお釈迦様を偲ぶ法会。涅槃図を掲げて「遺教経」などを読みます。
3月お彼岸:期日は春分の日を中日とした7日間。彼岸を思い、祖先を供養する法会です。一般人もお墓参りをします。
4月灌仏会:4月8日のお釈迦様の誕生日を祝い、誕生仏に甘茶をかけます。「花祭り」ともよばれます。甘露を産湯にしたという故事から、甘茶を注ぐことが始まったとか。
7・8月お盆:先祖の霊を供養する法会。「旧盆」は7月13~16日。「月遅れ盆」は8月13~16日。
7・8月施餓鬼会:餓鬼道で苦しむ霊を供養する法会。「盂蘭盆会」と一緒に行われる行事です。
9月お彼岸:期日は秋分の日を中日とした7日間。彼岸を思い祖先を供養する法会です。
一般人もお墓参りを行います。
10月達磨忌:10月5日に入滅した中国禅の始祖、達磨禅師を偲び、禅宗各派では法要を否みます。
12月成道会:12月8日、お釈迦様がさとりを開いた日を祝う法会です。
12月除夜:除夜とは「旧年を除く夜」の意味で、12月31日に1年を反省し新年の幸福を祈願します。
聖地巡り
巡礼、つまり聖地巡りは、仏教に限らず、世界中の宗教で大きな意義があるとみなされていました。
「百聞は一見に如かず」といわれるとおり、何事も自分の目で見て、あるいは実際に体験して、初めて理解できるからです。
とくに巡礼の場合は、聖地そのものがもっている特別な力に直接触れられますし、敬愛する聖人たちの足跡を追体験することになりますから格別の意義があります。
巡礼の特徴の一つは、ある程度のお金と時間は必要ですが、誰でもできるという点です。
ごく普通の体力気力さえあれば、充分に可能です。
もう一つの特徴は、楽しいという点です。
たとえば、江戸時代には伊勢参りが大流行しましたが、その理由は敬虔な信仰心だけではありませんでした。
じつはに内宮と外宮を結ぶ道の両側には歓楽街があって、神宮にお参りした後は、そこでどんちゃん騒ぎをしていたのです。
おまけに伊勢神宮を訪ねてから、今度は奈良から京都へと脚を運び、充分に物見遊山して、楽しんでいたのです。ようするに、信仰と観光を兼ねていたわけですね。
葬式・お墓について
仏教は、ヒンドゥー教のようなライバルの宗教から、「死者をあがめる不気味な宗教」という批判をよく受けていました。
この事実も、仏教とお葬式の深いかかわりをあらわします。
日本仏教の場合も、最初から死者供養がとても重要なテーマでした。
さとりとか解脱とかいう、仏教本来の目的よりも、死者供養の方がずっと大切だったのです。
古代や中世の人々にとって、死者の霊はいとしいというよりも恐ろしい存在でした。
そのため丁寧に供養しないと、怨霊と化して、生きている人に祟ると考えたのです。
室町時代の後半になって、お寺の数がそれまでの何倍にも増えましたが、その理由はこの時期以降、お寺でお葬式を営むようになったからでした。
その背景には、お坊さんにお葬式をゆだねれば、死者の霊が確実に成仏して、もはや祟ることはないという認識があったのです。
さらに江戸時代になると、特定の家系と特定のお寺が結び付けられ、先祖代々の霊を供養する菩堤寺のシステムが一般までに広まり、いわゆる葬式仏教が完全に定着したのです。
人が死ぬと、お寺では概ね、
臨終→通夜→葬儀/告別式→火葬→各種の法要→納骨という順序で、亡くなった方を弔います。
人が亡くなったとき、お坊さんはまず最初に引導を渡します。
亡くなった方に「あなたは死んだのです」と教えてあげるのです。
なぜ、こんなことをするのかというと、死んでしまったのに、まだ自分は生きていると信じ込んでいる死者が少なからずいるからのようです。
日本仏教でもチベット仏教でも、お葬式関係の書物に、この点が強調されているところをみると、トラブルがけっこうあったようです。
通夜は本来、導師のお坊さんと親族だけで営まれるべきものでした。しかし、最近ではさまざまな事情で葬儀に出席できない人が、いわば葬儀の代わりに参列する例も多々あります。
葬儀が済むと、初七日から始まって、いろいろな法事が営まれます。
現在では初7日~49日をまとめておこなうことも多いようです。
これらの法事は、時間もお金もかかるので、面倒くさいと思う方もたくさんいます。
でも、こうした葬儀を一つ一つ重ねていく方が、じつは残された方々の心身が早く元に戻るという研究報告もあります。
仏教ではお坊さんや尼さんが中心となって営まれる儀式を法要と呼びます。
ただし、多くの場合、死者の追善供養という意味で使われてきました。
追善供養は初七日から始まって49日までと、それ以降に分けられます。
49日までは古代インドの死者儀礼が原型です。
それにたいし、百か日、一周忌、三周忌などは、儒教に基づいて、中国で新たに設けられた儀式で、全部で十あるところから十仏事といいます。
さらに日本で、七回忌、13回忌、33回忌をくわえて十三仏事となりました。
その後も仏事の数は増え、地方にもよりますが、百回忌、二百五十回忌まで営むところがあります。
日本人の伝統的な死生観や霊魂観にもとづいて、まだ不安定な死者の霊魂を、安定した祖霊に進化させるためでした。
そこには法要をきちんと営むことで得られる功徳を、死者の霊魂に廻向すれば、死者の霊魂を浄化し、ついには成仏させることができるという仏教の考え方がありました。
逆にいうと、法要をきちんと営み、その功徳を死者の霊魂に廻向しないと、成仏できません。
葬儀の道具
焼香に関しては、古代インド以来の伝統的な行為で、もともとはお香で消毒していたことに由来します。
今日では心身ともに清めるという意味があります。
また死者の霊魂は死後、最長49日で生まれかわるとされますが、その間は香りだけを食べて生きているとも言われます。
お布施は死者の霊魂を無事、あの世に送り出すためにお経を読んで頂いたお坊さんに対する、感謝の気落ちとして出される金品です。
お香典は死者の霊前に供えて、香や花の代わりとする金品。
御霊前は葬儀屋通夜に葬家に対して、お悔やみの気持ちとして出される金品。
御仏前は法事で呼ばれた際、個人に対する供養の気持ちとして、仏前にお供えする金品です。
お香典と御霊前の使い分けはこれがかなり厄介です。
浄土真宗以外の宗派では、原則として、49日の法事までは御霊前で、以降は御仏前になります。
浄土真宗は生前に念仏をいただいた次点ですでに往生が決定しているという教義なので、はじめから御仏前です。
清めの塩についても、宗派によって対応が異なります。
そもそも仏教には清めの塩という考え方はなく、神道から入った習俗とみなされています。
神道では、死は汚れとみなされています。
日本の伝統仏教は、神仏習合といって、日本の神々とインドの仏・菩薩は同じものという考え方が広まっていました。
そこで、多くの宗派に、清めの塩の習俗が導入されたようです。
この点、浄土真宗は原理原則を守り抜く傾向が強く、清め塩も否定しています。
死後の戒名
仏教界で最もトラブルの多い領域が戒名です。正確にいえば、戒名のお値段です。
そもそも戒名の「戒」は、お坊さんとして守るべき規範を指しています。
仏教では、出家してお坊さんになるにあたり、まずこの戒を受けるという定めがあります。
ですから、戒名とは、そのひとがおぼうさんになったことを意味します。
こういう定めがあるので、戒名は本来なら生前に、自分の意思に基づいて授かるのが正しい手順です。
ところが、室町時代あたりから、亡くなった人に戒名をつける方式が生まれ、江戸時代にかなり普及して、現代ではこの方式が普通になっています。
「没後作僧」といい、死者にお経を読んで仏のさとりを得させ、現在では真似だけですが、僧侶にする印として剃髪し、戒名をさずけ、引導を渡して成仏させるのです。
簡単にいえば、死者を僧侶として、仏の世界へ送り出すこと、つまり死者を仏にすることを意味しています。
こうして、戒名は死者が無事に成仏した証と解釈されるようになったのです。
現代日本の仏教界では、戒名をつけるのが原則なので、戒名がないと、ほとんどの場合、菩提寺の墓地には埋葬してくれません。
日本のお寺にお墓がある理由
日本のお寺にはほとんどの場合、墓地があります。
一般の方々がお寺を訪ねる目的はお墓参りが圧倒的です。
しかし、お寺にお墓があるのは、実は日本独特です。
仏教生まれ故郷のインドでは、ブッダの遺骨を祀る塔はあっても、一般人のお墓はありませんでした。
そもそも仏教は輪廻転生、つまり人はさとりを開いて解脱しない限り、永遠に生まれ変わり死に変わりを繰り返すという考え方を前提にしています。
そして、最長で49日以内に何かに転生しているはずなので、お墓をつくる意味がないのです。
スリランカやミャンマーやタイなどの上座仏教の国々でも、チベットやブータンなどの大乗仏教の国々でも原則としてお墓は存在しません。
例外は、高僧たちの遺骨は塔を建てて祀りますし、お金持ちの中には立派なお墓をつくる人もいないわけではありません。
日本のお寺でお墓をつくるようになったのは、中国仏教の影響と考えられています。
中国人の発想では、人は死ぬと、その霊魂が2つに分かれます。
一つは「魂」といって、体状になり天に昇ります。
もう一つは「はく」といって、骨として地上に残ります。
このうち、魂は位牌を作ってまつり、はくはお墓をつくって祀ったのです。
仏教は日本に伝えられるにあたって、経由地の中国で少なからず「中国化」しまいsた。
その中国化の典型例がお墓と位牌です。
日本人にとってもお墓は意義深い存在でした。
日本仏教は先祖供養と強く結びついてきたからです。
したがって、お墓という定点を決めてご先祖様を供養するのはとても分かりやすく、効果的でした。
一方、さまざまな法事法要の際に立てる「卒塔婆」は、インドの言葉のストゥーバを感じで音写したもので、塔という意味です。
ですから、卒塔婆を建てることは仏塔を建立することほかなりません。
【幸せになる方法教えます】人生とは反応しないことである - 働いたら負け