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白人以外は動物!差別して当たり前!ナーロッパのヒューマンについて語る記事

異世界アニメをこよなく愛するわけでもないワイですが、

毎クール必ず現れると言ってもいいポンコツなろう作品

そこで異世界に転生する世界はほとんど中世ヨーロッパをもちーふにしており、この世界観を「ナーロッパ」と呼びます。

アニメオタクである限り毎クールみる異世界ものを比較対象するためにもリアルの「中世ヨーロッパ」の世界観から目を逸らすわけにはいかず、この世界観を知らなければなりません。

前回は文化・世界観そのものをやったんですけど、今回は、「思想」の違いをやります。

というのもパリオリンピックにも表れるようにフランス人の「差別思想」が露骨に現れて酷かったものでしょう。

何故この「差別意識」が強いのか、そこには日本人が想像できない人間中心主義が隠れていますので、そこも深掘りしていきます。

キリスト教の人間中心主義

ヨーロッパ人の肉食っぷりは、家畜の頭・顔・胃・脳髄・心臓・肝臓・腎臓・骨髄・その他、食用になるものは何であろうと平気で口に入れます。

元の形のはっきりわかるものがそのまま食卓に上っても気にしません。

肉市場に行けば、豚の頭やこうしの面皮が家庭で簡単に調理できるように、あらかじめおぜん立てが出来ています。

しかし、古い時代になればそうはいかずとくに農業が主要な産業であった時代には、肉食とは、自分たちの飼っている牛・馬・羊・豚などを自分たちの手で殺して食べることでした。

生前からよく知っている家畜の頭や胴体をフォークでつつきながら舌つづみするのですね。

動物愛護と言うと、日本人は動物を人間と同じように扱い、動物を絶対に殺さないことだと考えやすいですが、欧米諸国の動物愛護運動はそうではなく、動物を殺すことは決して残酷ではなく、残酷なのは不必要に苦痛を与えることを指します。

事実、ヨーロッパ人なら、飼い犬などの面倒を見きれなくなるとあっさり殺します。

しかし、日本人は殺すのは残酷だと考え、誰かが拾ってくれるのを当てにして、生かしたまま捨てます。

その結果野犬が増加するのですが、ヨーロッパ人にはこれが理解できません。

彼らにとって飼い犬を野犬にするぐらい残酷なことはないわけです。

欧米諸国の動物愛護団体は、動物を安楽死さすための獣医を抱えているのがふつうになります。

食用家畜の時もこの事情は変わらず、どうせ殺して喰うのだからといって、家畜を手荒に扱ったのでは充分な成育は期待できません。

大切に育てた上で、食用にするのです。

そこでは動物愛護と動物ト殺がみごとに同居しているのです。

このヨーロッパ特有の条件からうまれた思想が、

人間と動物の間にはっきりと一線をひき、人間をあらゆるものの上位に置くことでした。

そうすれば、いっさいの矛盾は解消し、動物と畜に対する抵抗感もなくなります。

パリのお嬢さんが「牛や豚は人間に食べられるために神様が作ってくださった」といっているのはその例証です。

キリスト教ヘブライ人の民族宗教たるユダヤ教から発展したものです。

しかし、ヘブライ人もまた牧畜民族であり、人間と動物の間に一線をひくことはどうしてもさけられませんでした。

旧約聖書には次のような記事があります

神は自分の形に人を創造された。すなわち神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

神はいわれた「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなた方の支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食べ物となるであろう」

人間は「神の似姿」で、他の動物を殺して食べる権利のあることが、ここではっきりとあらわれています。

旧約聖書には、動物が身近な存在でもあるにもかかわらず、人間と動物が対話する場面はほとんどでてきません。

唯一の例外ともいうべき、エデンの園で蛇がイヴを誘惑する箇所は、人間が動物と喋れば、堕落の始まりでしかないということを示すだけです。

したがって、キリスト教には、人間が現世で悪業を重ねれば来世は牛や馬などに生まれ変わるかもしれないという「輪廻」思想はありません。

「日本史」などにみると、キリスト教宣教師において「牛や馬を食べることに対する非難」する日本人に対しては、さかんに、人間と獣類との根本的差別を強調しています。

人間だけが「神の似姿」として「物の理を知り、是非を論ずる」とできるとすれば、死後、生前の行為の善悪によって、神の厳しい審判を受けるのは当然となります。

人間は神から「意志の自由」を与えられた代わりに、自己の行動に最後まで責任を持たなけれなりません。人間と動物の断絶は、結局、人間中心主義にまでつきすすみます。

このような意味では、キリスト教は極めて人間中心的な宗教です。

地動説や進化論などもカトリック教会としては進化論の立場に立つことが正式に信者の義務違反でなくなったのは、1950年ころのことです。

地球が動こうと動くまいと、人間が猿の子孫であろうとなかろうと現実の日常生活には別にさしさわりはないはずですが、ヨーロッパでは、学問の素人までが、抵抗していました。

地動説に対するのは天動説で、これは人間の住む地球を全宇宙の中心と考え、地球は動かないという前提柄すべてを説明しようとする立場です。

進化論を拒否するのは人間中心主義の出発点である、人間と動物の断絶を強調する立場にあります。

そこには、神の創造物のなかで人間があらゆるものに優先するとの思想が一貫しています。

キリスト教の結婚観

日本のように動物の性交渉がそう目につかないところなら、性を「秘め事」にし、なるべくさわらないようにすることも可能です。事実日本人の愛情の表現が控え目なのは、長い間そのようにしてきた結果でもあります。

しかし、ヨーロッパでは、このようなくさいものに蓋をする態度は取れません。

子どもの時から、性交渉の見本は家畜が提供してくれるわけです。。

おかげで愛情の表現は割と大っぴらになりますが、反面、人間の男女の営みが結局は動物のそれとは、同じであることを常日頃から、嫌と言うほど思い知らされます。

人間と動物を断絶する立場から言えば、最も理想的なのは、性生活を動物的本能にもとづくものとして拒否し、だれもが異性に触れることなく一生を終えることです。

実はこれがキリスト教会の理想でした。

今に至るまで続いているカトリック教会の聖職者独身性はこうして生まれたものです。

しかし、これはあくまで理想であって、実際問題としてすべての人に強制できることではありません。

理想論ばかり唱えていたのでは、現実の性生活はとんでもない乱脈状態に陥りかねないでしょう。

このようにして次善の策として提案されたのが、男女の結婚をむしろキリスト教秘蹟(ひせき)として積極的に公認し、そこから性生活をコントロールしようとする立場です。

男女の結びつきを「結婚」という型の中に押し込め、そのことによって人間の性生活は、そこらの家畜とは本質的に違うものであることを明確化しようとしたのです。

教会で挙式をするのが結婚の絶対条件になったのは、実は、1563年のトリエント公会議の決定以来で、この公会議は、宗教改革運動によって動揺したカトリック教会を立て直すためのものでした。

そのような危機の時代まで、教会での挙式を義務付けられなかったのは、おそらく、結婚の秘蹟をほかの秘蹟よりは一段下に置く意識があったのではないかと思われます。

教会の一貫した立場は、夫婦の性交渉を二義的なものと考え、精神的な結合を重視したことです。結婚に当たって必要なのは当事者の結婚しようとする意志だけでした。二人が合意に達した時に結婚は成立します。

したがって、いったん結婚が成立すれば、二人がいつ性交渉を始めようと構いません。

そのかわり、一度結婚の意思を固めれば、それは当事者の一生を支配します。

二人が一度も性交渉を持たなかった場合か、一方が死亡した場合かをのぞいて、結婚を取り消すことは出来ません。

こうして、一夫一妻制および離婚禁止が強く打ち出されることとなります。

協会がただ一度の結婚意志に重きを起き、その解消を頑固に拒否せざるを得なかったのは、おそらくは、家畜との関係を顧慮してでありましょう。

家畜といってもヨーロッパの場合は、何十頭、何百頭もの大群が放牧状態におかれているのがふつうで、そういうところでの発情期の混乱は大変です。

ただ本能のままに気狂いじみた乱交が繰り返されます。

しかも、それが身近に見聞できる現象であってみれば、人間に特定の発情期がないからと言って、それらの現象を平気でみすごすことはできません。

当然、人間が家畜と一緒にされてはたまらない、という乱交あるいは乱婚に対する嫌悪感が、知らず知らずのうちに蓄積されることとなります。

キリスト教の結婚の秘蹟化は大成功でした。

仏教が現在の日本で低迷状態にあるのは、要するに、死んだ人間だけが支配の対象だからです。

そこへいくと、キリスト教が人間の男女の必ず通る結婚を秘蹟としてそのなかにとりこみ、人間の一生のすべてを支配する態勢をかためました。

キリスト教がこのように男女の結合の問題に真正面から対決しなければならなかったのは、もとはといえば、動物に対する人間の尊厳を維持するには、これしか方法がなかったからです。

それは、人間と動物の断絶を絶えず意識せざるを得ない、ヨーロッパ的条件の産物でした。

また仏教からきた日本語の「畜生道」という言葉からもわかるように、近親相姦もしくは血族相姦は、もともと動物の専売特許でした。

だいたい母子関係のような特殊な場合を除けば、放牧家畜のあいだに血のつながりの意識があろうはずもありません。

それだけに、動物の狂ったような性交渉をいつも身近にみることのできるヨーロッパでは、反動的に、近親相姦や血族相姦に対する強い嫌悪感が醸成された説があります。

キリスト教会が人間の結婚に厳しい親等制限を課したのは、要するに、こうした嫌悪感の反映のように思われます。

あの手この手で離婚・再婚を事実上認めてもらおうと苦心する政治権力者もまた一夫一妻に取りつかれていました。

一夫多妻にしてしまえば、そんなややこしい苦労は無用なのですが、いずれにせよ、離婚をめぐる教会と政治権力の対立そのものが、ヨーロッパでなくては起こりえない現象でした。

ヨーロッパの階層意識

ヨーロッパの高い肉食率を維持するには、どうしても動物愛護と動物と畜を矛盾なく同居させる必要があり、そこから、人間と動物の断絶を極端までに強調する人間中心主義の立場の出てくるところをみました。

この人間中心主義は、生き抜くために肉食に頼らざるを得ない、ヨーロッパのギリギリの歴史的環境が生み出したものでした。

そして、あらゆるものの中心になる人間は、もともと、キリスト教徒たるヨーロッパ人に限られる。

したがって、かれら以外は、たとえ二本の手と二本の足をもっていても、人間の範囲から除外される可能性が十分に存在する。

おそらく人間と動物を区別する断絶論理が、同じような厳しさで、ヨーロッパ人とそうでないものを分け隔てます。

このような意味で象徴的なのは、1537年、ローマ法王パウロ三世が、インド人や黒人や新大陸のアメリカ土着民も、「ホンモノの人間」であるとおごそかに宣言したことにあります。

わざわざ宣言してもらわなくても、かれらが本物の人間であることは昔からわかりきっています。

ヨーロッパ人の非ヨーロッパ人に対するこのような優越意識は、新航路発見時代にかぎりません。

古くは、11世紀末から13世紀後半まで7回あまりも繰り返された十字軍が良い例です。

このうち、聖地回復という最初の目的を達成したのは第一回十字軍だけですが、このときの遠征軍将兵の残虐さはには眼にあまるものがあります。

勝利が確定したのちも、平和協定を破って、無抵抗の非戦闘員に殺戮、略奪、暴行の限りを尽くしています。

しかも、このことを伝えるヨーロッパ側の記録には、良心の呵責のかけらもありません。

もし、異教徒を自分たちと同等の人間と見なす意識が少しでもあれば、このような残虐さはおこりえないはずです。

何世紀にもわたる欧米諸国の植民地支配の歴史は、殺されていった多くの非ヨーロッパ人の血に彩られています。

パリオリンピックの時もそうですが、こうした精神構造だけを問題にすれば事情は変わっておりません。

ヨーロッパ人は世界のどこへ行っても自分たちの言語や生活習慣で押し通そうとします。

現地人の方でかれらにあわすのが当たり前だと思っています。

以上のような非ヨーロッパ人を疎外するヨーロッパの人間中心主義は、ヨーロッパ内部においては、キリスト教徒とそうでないものとの差別に機能します。

「ほんとうの人間」であるためには、単にヨーロッパ人であるだけでは十分ではありません。

キリスト教徒であることが必要でした。

こうして、ユダヤ人をも劣等人間とみなす立場が幅を利かせることになります。

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ヨーロッパ人が非ヨーロッパ人と恒常的に接触するようになったのは、近世以降です。

ところが、ユダヤ人ははやくからヨーロッパ社会のあちこちに根を降ろし、それだけに、キリスト教徒と接触する機会も多かったです。

そのような状態の中で、ユダヤ人は迫害にさらされてきました。

中世においてユダヤ人は特別な場合を除き、たいていは無権利状態でした。

ユダヤ人の居住地は主として年でしたが、各地で、種々の特別税、職業制限、特別区への居住強制、ユダヤ人であることを示すバッチや帽子の着用強制などがあいつぎました。

これは、進撃の巨人ファイナルシーズンに似ていますね。

時にはかれらを全面的に追放する都市もありました。

なにかちょっとしたきっかけがあれば、たちまち暴行の対象となり、虐殺されることさえありました。

ユダヤ人が憎悪されたのは、彼らがしばしば金貸しであったからとよく言われますが、これは必ずしも正しくはなく、貧しいユダヤ人も同様に迫害されてきました。

近代に入ると、どこの国でも、ユダヤ人はキリスト教徒と同じ法的保護を受け、同じ権利を持つようになった。

政治家、実業家、学者、芸術家として名を成した人物も多いです。

しかし、眼には見えない差別待遇はなかなかなくならず、依然として冷たい一線によって隔たれています。

19世紀末、フランス陸軍大尉ドレフェスは、ユダヤ人であるというだけの理由でドイツのスパイに仕立てられ、無実の罪で5年間も獄につながれました。

このようないわれない反感を国家規模にまで拡大したのが、ナチスの場合でもあります。

以上のように、ヨーロッパ人の人間中心主義が伝統的に非ヨーロッパ人やユダヤ人を除外するもので、現在でもその痕跡がなくならないとすれば、その前提となる人間と動物の断絶を強調する立場は両刃の剣であります。

それは一方で人間的なものを追求する原動力になると同時に、他方では、人間を完全人と劣等人間に分ける、とぎすまされた断絶論理を産み出すのでした。

フランスの支配階級は総人口の比率0.5~0.6%ほどで、日本の武士は5~6%と比較するとかなり少ないです。

日本の武士の場合は、下級武士が手内職をしないとやっていけなかったりして事情は少し違いますが、フランスの支配階級は明確に違います。

フランスの支配階級はその壮大豪華な宮殿や公邸、庭園、寺院など

支配階級に格付される人員が少ないからこそ、人民の恨みが爆発するほどの贅沢も出来たのです。

このことは、日光の東照宮ヴェルサイユ宮殿をくらべても、はっきりわかります。

ヨーロッパの多数の人々には、何故日本ではキリスト教徒の領主達が司祭達の生計を支え得ないかという疑念が必ず生ずることであろう。それゆえ、理由を説明する必要があろうと思う。

第一、日本人は皆貧困であり、時には領主や貴人でさえ、はなはだ貧しいことである。

屋形はその国を国守の領地として分配し、国守はまた自分の土地を他の殿、すなわち小領主に分配する。彼らは更にその領地を自らの支配下にある親族、兵士、使用人、農夫に分配し、かくて各人はその有する土地に応じ、戦時にも平時にも、自らの負担において主君に奉仕する義務を負う。このことから、諸領主は大候であっても、はなはだ貧困であるという結果が生じる。異常はキリスト教徒が司祭を支援できないダイイチの、主たる原因である。『日本巡察記』

もちろん、日本のキリスト教領主の教会を維持できない主な理由が、この通りかは疑問ですが、すくなくとも、16世紀当時のヨーロッパにくらべれば、日本の領主ははるかに貧困であること、原因の大半が家臣団の多すぎる点にあることは、おおよそ認めてはよいでしょう。

こうなると、日本とヨーロッパの支配階級のあり方がちがうのは、根源的には、強烈な断絶論理があるかないかです。

断絶論理のない日本では、支配・被支配関係はあまりはっきりしていません。

支配者とも被支配者ともつかない者が大量に存在し、そのような連中までが支配階級に格付けされます。

いいかえれば、支配階級と被支配階級は、なだらかな曲線によって相互に移行するのです。

これに対して、動物、非ヨーロッパ人、ユダヤ人を順次疎外していくヨーロッパの強烈な断絶論理が、さいごに「ほんとうの人間」として残すのは、ごく少数の支配階級だけです。

支配者と被支配者ははっきりとした一線によってわけられ、どちらともつかないあいまいな存在はありません。

支配階級はあくまで孤高の特権階級で、必要もないのに、他の連中をよせつけたりはしません。

過去の日本で名君とたたえられた人物は、ほとんど例外なしに質素な生活の実践者でした。倹約であることを支配者の資格に掲げる政治論も多いです。

実際にはぜいたくのかぎりをつくした支配者も大勢いますが、そのような人物は決して理想化されたりはしませんでした。

ヨーロッパでは、このようなことはまったくといってよいくらい見当たりません。

それどころか、騎士物語などを読むと、些細なことにこせこせしないで、どんどん浪費することが、むしろ、支配者たるものの美徳のように扱われています。

たとえば、名君の誉れ高いフランス王ルイ9世のときは、あるとき、側近のジョアンヴィル卿につぎのような忠告をしたと伝えられています

君はもっとよい衣服を身につけなければならない。そうすれば、君の奥さんは君をもっと愛し、君の召使いは君をもっと尊敬するようになるだろう。

このような忠告の背後にあるのは、質素であることは逆に支配階級の体面をけがす、との立場です。

ヨーロッパの強烈な断絶論理が、支配者の実生活まで規制しています。

これでは支配階級が少数者にとどまるのはあたりまえでしょう。

支配階級は、あらゆる面で、そうでないものから完全に断絶していなければならなかったのです。

支配階級と被支配階級のきびしい断絶があるとすれば、そこにうまれる身分意識もまた、日本よりはるかに強力なことが当然予想されます。

近代以前の段階に何かの形での身分性が支配的であったことは、日本もヨーロッパも同じです

どちらの場合も、社会が職能の基線に応じて上下の身分い別れるのは当たり前で、それぞれの身分が事故に与えられた職分を忠実に果たすことが、社会全体にとって必要であると説かれています。

ヨーロッパの身分制が、僧侶を第一身分にランクしたのも、一口に僧侶といっても、大司教、司教クラスと村の司祭クラスとの間には大きな断絶があります。

農民出身者は村の司祭止まりで、中々それ以上は昇進できません。

また修道院に入ることも難しいでしょう。

一方、上級僧侶はほとんど貴族出身者の独占です。

かれらが第一身分を支配したのです。

本来同等であるべきものが、二つの身分に分裂したにすぎません。

日本と違い、観念的な観食の身分の差が働く余地はありませんでした。

したがって、身分制はヨーロッパではあくまで現実社会の反映です。

僧侶、貴族、市民、農民の別はあきらかですし、その序列もはっきりしています。

社会はほぼ完全なよこわり状態にありわけです。

日本のように、士農工商といいながら、実際は農工商が一塊に扱われ、一応身分的差別も士と農工商のあいだにしかないのとは、大分違います。

身分制の現実社会の変動に対する適応力も、ヨーロッパの方が勝っています。

15,16世紀以降、一部の上層市民は、貴族所領や官職の購入によって、さかんに貴族身分に潜り込みました。

身分性が現実に機能し続けるためには、市民勢力躍進という事態を前にして、どうしても、新貴族あるいは法服貴族を第二身分に囲まなければなりませんでした。

なので、日本で同じ現象があまりみられなかったのは、かならずしも身分制の厳しさが原因ではありません。

むしろ身分性が観念の産物だったことに問題があります。

観念と現実は別物で、町人勢力がいかにかたまろうと、身分制は現実の変化から超然としていればよいわけです。必要とあれば、現実に機能しない身分制を陰で無視することは、一向に差し支えありませんでした。

身分制秩序のもとで、農民が恵まれた地位になかったのは、日本もヨーロッパも同じです。

どちらの場合も、人間扱いされていません。

しかし、問題は支配者がかれらをどうみているかです。

日本では「百姓とぬれ手拭は絞るほど出るもの」とか「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほどでるもの」とかいわれるように、農民は単なる物体に例えられるのがふつうです。

ところがヨーロッパでは、農民を騾馬にたとえ、重荷になれているから、休息させる必要なないとします。

騾馬というのは、おすのろばとめす馬がかけあわせた雑種で、からだはウマより小さいが、耐久力が強いので重宝される、農民はそういう動物ようなものだとするものです

農民の取って、物体に例えられるのと動物に例えられるのでは、どちらがましかはさておき、重要なのはそうした例え方の背後にある精神構造です。

農民を「ぬれ手拭」や「胡麻の油」ではたとえばなしにしてもかけはなれすぎていますが、農民を「騾馬」になるとそうはいきません。

動物が身近な存在であるヨーロッパのことですから、泥まみれで腰をかがめて働く農民を騾馬に例える時、農民を実際面でも家畜に近いものとみなす心理が、どこかに働いているでしょう。

いずれにせよ、人間と動物の断絶が、なまのままの形で身分制のなかに投影されていることになります。

故に貴族という身分だけでも魅力的なものになります。

今日でも存続しているイギリスの貴族階級を支えるのも、この津生んで貴族と言っても、昔のような身分的特権はないし、せいぜい世襲的に上院議員になれるくらいのことです。

フランスは貴族階級は完全に消滅したはずですが、貴族の家柄は依然として、公、候、伯、子、男の称号を保持しています。

こういうのがいまでも300家ほどあります。

そのうえ、新貴族の創設がないので、親戚関係の偽造によって貴族を名乗りたがる連中があとをたえません。このような偽貴族は15000家もあります。

いぎりすのような僅かの特権さえなくても、この始末となります。

これは単なる虚栄心の問題かもしれませんが、その底にあるものを探れば、社会はいくつもの階層に横割りされるものだという意識が頑固に巣くっています。

ただ、他方で個人の自由・平等が叫ばれるので、その階層が昔ほどに固定していないだけです。貴族問題は別にしても、階層意識自体はあいかわず健在なのです。

義務教育のあり方もまるで違います。

日本で義務教育と言えば、明治時代から、かならず貧しい家の子と机を並べることを強制されました。

ヨーロッパでは、上級学校(大学)にすすむ上層階級の子弟とそうでないものとは、はじめから別扱いでした。

 

日本の高等学校に当たるパブリックスクール(イギリス)、リセ(フランス)、ギムナジウム(ドイツ)などが小学校課程をもち、上層階級の子弟はそこに収容されました。

なので、ヨーロッパの義務教育では、もともと、これらの連中は勘定に非会っていませんでした。

義務教育とは、本来、ほおっておけば字が読めないまま一生を終わりかねない下層階級のために、無償の初等教育機関をつくってやり、そこに就学を強制することでした。

したがって、高等教育とはごくさいきんまで上層階級の独占物でしたので、

もし、日本にヨーロッパのような強い階級意識があれば、「入学試験地獄」といったことは起こりえません。

下層階級の子弟がはじめから高等教育を受けるのを断念してくれれば、大学の門が広くj

かんじるのはあたりまえです。

いずれにせよ、ヨーロッパでは、貧しい子弟のが、苦学しながら帝国大学を卒業して、下層から上層へのしあがる、というような立身出世は、日本に比べるとはるかに困難でした。

また、そうした無理をあえて強硬しようとするムードもありませんでした。

労働組合も全く形式が異なり

欧米型の横断組合は単一組織で、組合員が職場や会社を変わっても、それだけで組合との関係が絶ち切られることはありません。

労働者にとって、ひと時の職場に過ぎない企業や会社より、組合の方がはるかに大事であり、何かあった時に面倒を見てくれるのは組合でした。

そのためストライキがなぜ起きるのかというと、ヨーロッパの伝統的な階層意識が、形を変えて、組合意識を支えているからです。

労働組合運動の出発点は、もともと、個人的上昇の道を閉ざされた下層階級がお互いに団結して、自己の階層の生活を守ろうとした点ですが、産業分化の進んだ時代だけに、実勢は、その階層的団結がいくつもの職種単位に行われていることにすぎません。

そしてまた、労働組合運動がこのようなものであったからこそ、逆に、ヨーロッパでは、下層階級の子弟が無理して大学に進むことはなく、個人的な解決を求めて余計な苦労をするより、自己の階層に安住したままで、生活の向上を図る方がよいわけです。

インドのカースト制度

横割り的な階層社会と言えば、世界中で最もひどいのはおそらくインドのカースト制度でしょう。

公式には廃止されていますが、実際は、社会のあちこちで根強い力を発揮し、都会はまだマシだとしても、一歩農村に踏み込めばカースト制度はほとんどもとのままです。

カーストが違えば、結婚どころか、食事を共にすることさえありません。

折角インドで芽生えた仏教がヒンズー教に勝てなかったのは、伝統的なカースト制度を否定しようとしたからだ、とよく言われます。

ヒンズー教は「多神教」でキリスト教とは全く違うのですが、ヨーロッパの階層意識とインドのカースト制度はいったい、どのような点に違うのでしょうか

社会を横割りする前提条件として、インドもヨーロッパも似て言います。

どちらも、人口一人当たりの農用地面積は大きく(インドは43.8アール、うち耕地は71%)役畜にたよらなければ耕作できません。

したがって、人口一人当たりの家畜頭数にかんするかぎり、インドは完全に欧米諸国並みです。

日本を人ケタ上回っています。

ヨーロッパと同じように、家畜は身近な存在でそこには家畜に対する態度がただちに思想形成の根本にかかわることになります。

インド人はあまり肉食しないなどといわれますが、絶対に肉を口にしないのは最高カーストのブラーマンだけです。

かれらは牛乳を除けば完全な菜食で、卵すら食べません。

これに対して、ほかのカーストの場合は、それほど厳重ではありません。

わずかながら肉食することもあります。

ただ、肉食といっても、なにを食べてもよいわけではなく、対象となる肉は、羊、鶏、豚、牛といった序列があります。

外国人がインド式のホテルに泊まったときでも、せいぜいお眼にかかるのは、羊肉か鶏肉入りのカレーライスくらいです。

インド人の場合は、比較的上層のカーストは羊だけしか口にしません。

下のカーストになるほど自由になっていきます。

最下層の不可触民には、肉食制限はほとんどありません。

肉食を穢れたものとする点だけをとりあげれば、このようなインドの食生活のあり方は、およそヨーロッパと対照的です。

と畜をしたり、皮革をあつかったりするのが低いカーストの仕事とみなされる点も、そうです。

古代インドの四種姓、バラモン(僧侶)、クシャトリア(王侯、武士)、バイシャ(農民、商工業者)、スードラ(奴隷)がカースト制度の起源ですが、実際に運用されるカースト制度は千年以上も長い歴史の中で大きな変化を遂げ、カースト分裂がさかんにおこなわれたせいか、いまでは全インドで2000~3000もの多数のカーストが存在します。

ヨーロッパの身分制に比べて特徴的なのは、雑婚その他の理由による特定カーストからの追放は、下層カーストの格下げにならないという事実です。

そうした、連中は既存のどのカーストにも所属しないことになります。

ただこのように分裂すると、カースト制度の場合は、もっぱら差別意識だけが先走り、たいした意味もなしに、階層は細分化する一方で、

ヨーロッパでは想像もつかない、同じ村落が30ものカーストに細分されるような現象がおこります。

肉食を公然とは認めない断絶論理のあやふやさが、そのまま表現された感じです。

なので、動物が身近な環境では、断絶論理と裏腹の関係にある人間中心主義の立場もまた、インドの場合、はなはだ頼りないものであることがよそうされます。

インドの正統信仰であるヒンズー教は、キリスト教と同じように、結婚を秘蹟化し、結婚当事者に厳しい投信制限を加えました。

同じカーストの内部で結婚しなければならないのに、近親者が除外されるのであるから大変でした。

結婚の相手をとんでもない当方で探すという不便なことが要求されます。

そのかぎりでは、動物的ない、人間的な男女の結びつきに対する関心がかなり強かったことは否定できません。

性生活を直ちに開始するわけにはいかない「幼児婚」が普及したのも、こうした関心の一つの表れでしょう。

ところが、ヒンズー教の場合、いちど結婚すればそのきずなは永遠に解消されません。

たとえ当事者の一方が死んでもそうです。

キリスト教が相手の死後は再婚を認めた野とは違い、この世での結婚関係は来世にまで持ち越されることになります。

こうして生まれたのが有名なサティーの悪臭です。妻が夫に殉死するのが美風であるとして、亡き夫の下層に当たって、妻を生きたまま焼き殺します。

1829年、イギリスのインド総督がこの悪習を厳禁したときも、ヒンズー教徒の間では、信仰の自由を侵すものとして猛反対がおこりました。

人間的な男女の結びつきの追及から始まったはずのものが、いつのまにか、逆に非人間的な行動を推奨する結果となりました。

このような悲劇の根本的な原因である、死後の結婚関係も断ち切れないとの立場もまた、肉食を公然とは肯定できなかったインド的条件の産物でしょう。

そこでは、生と死の断絶に真正面から対決する必要はありません。

人間の死と動物の死のちがい、人間のみがもつ死後の世界と言った、キリスト教の取り組んだん門代は、すべてすどおりされてしまいます。

それどころか、生と死、人間と動物の区別を全く無視した「輪廻思想」がもっぱらまかりとおります。

せっかく芽生えた人間的なものの追及も、輪廻思想のオブラートに包み込まれて、マヒすることになります。

輪廻の流転の中で死はほんのちょっとした区切りでしかない以上、当事者の死をもって結婚関係を終了させなければならない理由はどこにもありません。

したがって、インドで人間中心主義を最後まで貫けなかったのも、カースト制の背後にある断絶論理があやふやなのも、要するに、家畜を食用にと畜することに大きな抵抗があったからです。

飼育下畜数の点では欧米諸国並みなのに、なぜそうなったのでしょうか。

一口に言えば、インドは、ヨーロッパとちがって牧畜適地ではなく、むしろ、穀物栽培の適地だったからです。

カルタッタは東京やパリと比べるとどちらかといえば東京型で、気温の山と湿度の山はだいたい東京と一致し、日本の夏と同じように高温多湿で植物の生育には最適でした。

とりわけ水稲栽培には申し分ありません。

インドは全体的に欧米諸国に比べて穀物生産力は遜色ありません。

にもかかわず、インド民衆の大半がカロリー不足状態にあり、平均寿命も男45歳、女40歳でしかないのは、食生活パターンが日本と同じで、穀物に頼り切っているからです。

穀物が主食でない所なら、穀物生産力は立派な数値ですが、穀物を主食にするとしたらたりません。

それにしても、インドの場合、現実には、欧米諸国並みの家畜もかかえているのですが、家畜が全く身近な存在ではない日本とはまた違います。

いくら、穀物栽培の適地であるとしても、どうして、ヨーロッパ風の食生活パターンが育たなかったのか。それは要するに、家畜飼育の条件がヨーロッパと違うからでした。

ヨーロッパなら、もともと、人間の食用にならない、自然に生える草類を家畜のえさに利用すればよかったのですが、インドの高温多湿の地域では日本と同じように雑草が徒長しすぎて、家畜の歯にあわなくなります。

反対に、乾期当たる冬には、草類はすがたを消してしまいます。

家畜を飼うには、結局、人間が栽培した作物を与えるよりほかにありませんでした。

こういうところでは、人間と動物の一体感を強調する輪廻思想も生まれやすいわけです。

それは、家畜をと畜して食用にするのは贅沢で、栽培作物を直接人間の口に入れて、なんとか必要カロリーを満たす方がてっとりばやくなります。

とはいっても、島国の日本とは違い、魚介類に入手が困難な音で、最低限の動物タンパクを確保するには、どうしてもあるていど畜産物にたよらざるをえません。

インド人の牛乳消費が、現在でも日本人の3倍以上あるのは、そのためです。

栽培作物の一部をさいてでも、相当数の家畜を飼育しなければならない理由の一つでした。

いずれにせよ、インドは間ら寿司も牧草適地ではありません。

ヨーロッパが穀物栽培の適地出なかったのと丁度逆でした。

ヨーロッパと同じように、身近な家畜に対する態度決定から出発した人間中心主義や断絶論理が、結局はぐらぐらしてしまったのは、その身近な家畜が牧草適地でない所の産物だったからでしょう。

とすれば、穀物栽培の適地ではないヨーロッパやアメリカにおける穀物栽培はいったい、思想形成にどう働きかけたのでしょうか。

パン食によるヨーロッパの社会意識

ヨーロッパにおける穀物摂取を考えると何故、穀物生産力の低いところでパン食の形をとったのでしょうか。

上層階級をのぞけば、一般民衆はなかなかパンのような固形物を口に出来ない時代だったでしょう。

事実、8,9世紀のフランク時代には、農民の常食は麦類の粗紛を牛乳や山羊乳に煮込んだ流動食であったといいます。

しかし、11,12世紀ごろから、品質の点を別にすればパン食は一気に普及しました。

日本でなら、籾をすりおとして米飯を炊けばよい所を、麦類をいったん粉にした上で、さらにぱんにするための二次加工を加えるものであり、当時の技術水準を考えれば大変なことです。

この理由として、パンは30~45%のぐらいの水分しかないのがあげられます。

実は米と麦類ではもともと消化吸収の条件が違います。

だいたい、米の場合であれば、粒食たる米飯でも、粉飾の一形態とみられる餅でも、消化吸収率はほとんど変わりません。しかし、麦類になると、粒食である麦飯と粉食であるパンやうどんでは粉食の方がはるかに消化吸収がよいのです。

ヨーロッパ人がいちはやくパン食にふみきったのは、穀物生産力のそう高くない条件下で、こうした消化吸収率の違いを本能的に感じ取った結果なのではないかとかんがえられます。

さらに麦飯はカサカサしてなかなか喉を通りにくく、味の点でも粉食にしたほうがましです。

パンにした方が、食用にあまり向かない雑穀その他を混入してもなんとか口に入れることができます。

日本の戦中・戦後の食糧難時代に「どんぐりぱん」「とうもろこしパン」が食べられていたことを考えると、穀物生産力の低い状態だとこのうえない穀物摂取方法だったのでしょう。

しかし、いくらヨーロッパではパン食が好ましいとしても個々の農家がもみすり・製粉・製パンのすべての過程を独力でやることは保tん度不可能であり、このような意味で注目されるのは、中世の資料に盛んに出てくる、封建領主の水車・パン焼きかまどの使用税の徴収権です。

農民は領主指定の水車やパン焼きかまどの使用を強制され、領主は、農民がこれらのものを勝手に設置したり、指定外のものを利用したりすることを厳重に禁止にしました。

日本人の常識からは、なんとも奇妙な領主特権です。

そこでは古語の農家の独立性は日本よりはるかに弱いことになり、もっとひろい範囲の協力関係がなければ、とても生きてはいけません。

封建領主は要するに、そうした事情をうまく捕まえて、自己の権力を強化しようとしたにすぎません。

したがって食品工業の比率が日本よりはるかに大きくなり、製パン業人口だけで農林漁業人口の27.4%閉めます。

パン食のもとでは、いかに家庭や家族の役割が小さく、社会一般との結びつきの方が重要なのかが分かります。

いずれにしても、一貫して、社会の存在を否応なしに強く意識しなければならないのがヨーロッパとなります。

こうした社会意識こそ、実は肉食を補完する穀物摂取が、高い肉食率の産物である人間中心主義や断絶論理に影響する原動力である可能性があります。

ヨーロッパにしかない村

ヨーロッパの麦作では、日本の米作と違って、もともと耕地の安定性が乏しかったです。

あるとしには麦畑であったところも、次の年には休耕地になって家畜がうろつきます。

耕地と家畜放牧地はしょっちゅう交代しました。

それがなんとか穀物栽培を続ける唯一の方法でした。

しかし、こうした耕地の移動が割と容易におこなわれるのは、土地のあり余っている穀倉式階段のような時代だけです。

土地が不足し出すとどうにもなりません。

古語の農家は、たちまち、他の農家との複雑な関係に巻き込まれることとなります。

耕地と放牧地の交代が規則的になった三圃制農法は個々の農家がバラバラにやったのではあまり効果がありません。

家畜の放牧はかなりまとまった面積を要するので、各農家がお互いに協定して、ある一定区内の畑には同じ作物を栽培し、休耕期には一斉に家畜を共同放牧する方が能率的でした。

こうして、ヨーロッパでは、11、12世紀以降になって三圃制農法が普及するにつれ、それまで比較的ルーズなまとまりだった農村共同体がアチコチで団結を強化しました。

個々の農家の住居と耕地は完全二きり離され、村中の住居はすべて一か所に集中して、軒をならべるようにあんりました。

村域内の土地は一括して、3つの耕圃にわけられ、個々の農家がそれぞれの耕圃に持ち分を持つように編成されました。

かれらは、この持ち分を経営するのに、村落共同体の決めた作物の種類、播種、および収穫に期日を守ることを義務付けらえました。

休耕、放牧地にきまった耕圃では、もとだれの持分耕地だったかに関係なく、そこら辺を村中の家畜がうろうろすることになります。

住居の移転や耕地の交換・再編成をともなうこうした発展は、ちょっと考えると大きな抵抗にぶつかりそうです。

しかし、実際はたいした騒ぎはありませんでした。

もともと耕地の安定していなかったところで個々の農家が自分の耕地にそれほど執着するはずがありません。

また、掘っ立て小屋のような住居の移転は、造作もないことでした。

それに当時のヨーロッパ農民にとって、村落共同体の規制は、かならずしもうるさい干渉ではありませんでした。

その規制のおかげで三圃制が能率的に運営され、土地の回転率がたかまるとなれば、村落共同体はむしろ慢性栄養不良状態から脱するための命の恩人でもありました。

穀物栽培の適地ではないヨーロッパで、低いながらもある程度の生産力水準を維持するためには、村の仲間との協力関係がどうしても欠かせません。

日本にも、ヨーロッパの村落共同体に似たようなものはありましたが、個々の独立性ははるかに高いです。

水田の場合は、地力を落とさないために、休耕どころか、逆に毎年連作する方が望ましく、そうしないと、雑草が生い茂って水田はたちまち荒廃します。

だから、水田の安定性は高く、はやくから個別占取の対象でした。

比較的高い穀物生産力が維持できたのは、むかしから耕作をかかさずにきた「ご先祖様」の努力のお陰でもあります。

村落共同体は、いわば第二次的関係において、個別的な農民経営に介入するにすぎませんでした。

日本で家族意識や祖先崇拝が根強く温存されたのは、一つにはそのせいでしょう。

これに対して、もともと耕地の不安定なヨーロッパでは、日本と違って「これこそ先祖伝来の田畑」といった観念はなかなか出てきません。

毎年穀物生産のつづけられることを誰かに感謝しなければならないとすれば、過去の祖先ではなく、現在すぐ近くに居住し、たえず接触している村の仲間でした。

だから、ヨーロッパ人はなかなか日本人の「祖先との一体感」や「祖先崇拝」を理解できません。

ヨーロッパの村落共同体はオールマイティで個別占取の対象を強いて探すなら住居しかありません。

生産手段は、すべて、村落共同体の意のままに動かされます。

したがって、ヨーロッパの村落では、日本のような家格を媒介にした階層構造は、あまり発達しませんでした。

全部の能祖運河平等だというのではありませんが、有力者といえども、村落共同体に頼らなければ生きてはいけません。

かれらはせいぜい多くの持分耕地をかかえこみ、普通の村民よりたくさんの家畜を共同放牧に出すくらいで、なかなかそれ以上の存在になることは難しいのです。

このような意味では、ヨーロッパの村落はインドの村落がカーストに横割りされているのにくらべるとおよそ対照的です。

もちろん、ヨーロッパでも、古い時代には、農民が種々雑多な身分に分かれていなかったわけではありません。

しかし、村落共同体の団結が強化される頃になると、そうした身分さは次第に消失し、農民身分の統一化がすすみました。

あとは農民の間に、経済的な階層差がのこるだけでした。

カーストがとめどもなく分裂していくのと、これはちょうど逆の関係にあります。

村民がお互いに協力しなければやっていけない穀物栽培の条件が、インドのような大した内容のない差別感の先走りをはじめから阻止してしまったのです。

以上のような村落単位の社会意識も、パン食から出てくる社会意識も、根は同じです。

穀物栽培の適地出ないヨーロッパで、なんとか穀物を口にできるように努力してきた結果です。

社会意識がこのように肉食を補完する穀物摂取からきた根源的なものであるとすれば、それがヨーロッパの思想的伝統の中で果たす機能は大きいでしょう。

都市の自由と市民意識

年が何かの形で農村より優遇された例は日本にも多く、大抵の場合は、政治権力者は自己の偉大さを誇示したり、住民を惹きつけるために、都市に対しては比較的あいまいな態度を取りました。職業ごと、あるいは町内ごとに、限られた範囲の自治を許したことも少なくありません。しかし、ヨーロッパの中世都市の自治権は、そういう部分的なものではありません。

対象になるのは都市全体です。

都市住民はすべて市民として都市の自由を享受するのが原則でした。

都市壁の中に逃げ込んだものも、一定期間(多くは満1年)が経過すれば、前身のいかんにかかわりなく、市民として認められました。

こうした事情を象徴的に示すのが、「都市の空気は自由にする」の古い諺です。

自由な中世都市とは、要するに、都市壁内の全住民をうって一丸とする、市民の共同体のことでした。

ヨーロッパ都市に限って、なぜ、このように強力な発展をとげたのでしょうか。

中世都市の成立には、大きく分けて2つの段階があります。

第一の段階は、ちょうど村落共同体の団結が強化される頃のことでうs。

村落地帯で住居と耕地の分離、住居の移動、村域の三耕圃への編成がえなどのおこなわれる過程で、一部の人口は故郷を遠く離れて未来の都市へ向かいました。

かれらは交通の要点にある封建領主の居城近くに集まり、商工業を営みました。

かれらはいわばアウトサイダーとしての行動の自由をもちました。

そのかわり、だれもかれらをまともにあつかってくれませんでした。

治安状態のよくない時代のことです。

かれらはどうしてもお互いに協力するほかありませんでした。

こうして、各地でかれらの定住地毎に一種の自衛組織が誕生しました。

出身地や前身のちがいを無視して、すべての人々がかたく団結しました。

商取引からおこる紛争なども、組織内で自主的に処理されました。

こうしたあたらしい商工業の定住地は、たいてい、封建領主の居城の外でした。かれらは交通の便を求めて、むしろ、河川に近い城外の低地に陣取りました。

遠方の商工業者と取引する上で、封建領主の干渉から逃れやすい利点もあったからです。

結果的には、山手と下町のあいだに城壁がわりこんだような形になります。

これが第一段階の都市です。

それにしても、域外の定住地は、いくら自衛組織があるにしても、そう安全ではありません。だから、商工業者たちは、次第に実力を蓄えると、やがて、かれらの定住地をも城壁で囲むことを望むようになります。

ところが、城壁築造権は名目的には国王に、事実上は封建領主の手中にあります。

それに、城外が繁栄しだすと、封建領主も、むかしのように手をこまねいてはいません。

積極的に介入して、自己の財産収入の増加を量ろうとします。

こうした緊張関係の中で、都市成立の第二段階がはじまります。

ここで商工業者たちのとった方策は、城壁内の住民(領主の下級役人や隷属手工業者)との連合戦線の結成でした。

城壁の内外をとわず、すべての住民が一つの共同体にまとまろうというのです。

このような試みが実を結んで、封建領主を譲歩させるのに成功した時、本来の中世都市が成立することになります。

山手と下町をへだてる古い城壁はこわされ、全体が共通の都市壁にかこまれる。

都市壁内の住民は、封建領主及びその家臣団をのぞき、ひとしく市民と観念されます。

こうして、12,13世紀には、自由な都市の存在が一般的になりました。

以上のような都市成立の2つの段階に一貫するのは、すさまじまでの建設へのエネルギーです。

自衛組織も都市壁もみられない日本の都市と違い、ヨーロッパの都市はひとりでに生まれたのではなく、あくまdめお人工の産物なのです。

そこでは、穀物栽培の条件とも関係する「過去」よりも「現在」を重んじる人間中心主義が一挙に噴出したような感じです。

ただ、都市の自由は共同体の自由であり、個々の市民が勝手気ままに行動することはできません。

同職組織の生産規制を別にしても、市民生活にはいろいろな束縛がありました。

市民は防衛召集に応じたり、納税する義務があり、また公共のための土地収用には、いっさい補償はありませんでした。

ときには都市壁の内外に耕地を持つのは、収穫物を都市の管理に任すことを命令されたりしました。

このように、そこではたえず、共同体優先の立場が強調されたのです。

一つに当時の都市が概して小規模だったからでもあります。

大都市でも人口はせいぜい数万程度です。

たいていの都市はそこまで行かず、数百から数千ぐらいの人口しかありません。

都市壁内に森林、牧草地の残っていることも稀ではなく、しばしば、街路を豚などがうろうろしていました。

市民が共同体員の意識を失って、群衆の中に解消する前提はありませんでした。

したがって、都市の市民意識も村落意識も本質は同じでどちらの場合も、オールマイティなのは共同体だけでした。

個人も家族も共同体のまえでは、どこかにとんでしまいます。

しかし、身分的統合力は都市の方がはるかに強く村落における農民身分統一化は、なんといってもかぎられた範囲の現象です。

自然的発生要素もないではありません。

ところが、都市の市民にまとめ上げられたのは、どこのウマの骨かわからない雑多な連中です。

出身地もバラバラで、とんでもない遠方からきたものもいます。

そういう連中を無理にでも一つにしなければ、都市はたっていられませんでしあt。

したがって、都市建設への凄まじいエネルギーは、結局、こうした市民意識に還元されます。

市民意識が村落意識の拡大再生産されたものであるにしても、二つの社会意識の間には段階的な差があります。

だからこそ、都市の共同体は村落とちがって、封建領主支配をあるていど骨抜きに出来たのではないでしょうか。

いずれにせよ、閉鎖的な家族意識とは対照的に、ヨーロッパ的条件からきた社会意識は、つぎつぎと視界を広げていくのでした。

日本に見られない身分制国家

村落段階や都市段階における社会意識の身分的統合は、もともと、個々の村落や都市を単位にすすめられました。

共同体の団結を高めるために、内部の分裂・対立を排除するのが狙いです。

どこか特定の村落あるいは都市に所属することが重要で、本来なら、他の村落や都市のことはどうでもよかったのでした。

しかし、すくなくとも都市ではこうした状態は長続きしませんでした。

だいたい、都市成立期の封建領主に対する暴動が起こります。

それは連鎖反応的にたちまち各地に広がります。

時がたつにつれ、個々の都市をこえたこのような市民の連帯意識がますます強化され、後進地域の都市は、しばしば、他都市からやってきた商人に嘲笑されたという理由で、封建領主に先進地域並みの自治権を要求しました。

それに、都市壁内の住民が全て市民と見なされると言っても、観念の門だしです。

現実には都市が繁栄すればするほど、上下の格差はますます大きくなります。

上層市民は、同じ年の下層市民よりも、むしろ、他都市の上層市民と色々な形で心筋関係を持つようになります。

こうして、市民意識は、個々の都市を単位とすることをやめて、もっとひろいものになりはじめました。

市民意識と村落意識の段階的差異が最も明らかになるのは、この点においてでしょう。

市民意識がこのように外延的な拡大を始めると市民以外の物もじっとしていられません。

とくに影響を受けたのは封建領主で、かれらのあいだでも、次第に連帯意識が強化されることになります。

もともと、ヨーロッパの封建領主層を取り巻く条件は日本とかなり違っており、ヨーロッパではどの国をとっても首都が定まっておりません。

フランス王がパリに滞在することが多くなったのは、ルイ6世からです。ドイツ(神聖ローマ帝国)にいたっては、近代になるまで首都らしきものは存在しないままです。

これは、一つには、ヨーロッパでは穀物生産力が低く、古い時代には、権力者と言えども、一か所に腰を据えていたのでは、なかなか思う通りの収奪ができなかったからです。

かれらは、直接現地に赴き、自己の威容をみせつけたうえで、かろうじて目的を達成していました。

戦時以外も、巡遊生活を続けるのが普通で、各地をいわば食いつぶしに歩いたようなものでした。

国王だけでなく、ちょっとでも広い所領をもつ領主もはじめはみんなそうでした。

三圃制が普及してある程度生産力があり、一か所に長いこと落ち着けるようになってからもこうした伝統は完全に消失はしません。

ヨーロッパの政治権力者はことあるたびに、家臣を引き連れてアチコチをさかんに移動しました。

そのうえ、ヨーロッパの主従関係は、日本のようにすっきりしていません。

同時に複数の上級領主をもつ封建領主がいくつもあります。こうした状態の下では、いきおい、主君を異にする封建領主がお互いに知り合う機会も多く、かれらは主従関係の系列とは別に、貴族身分としての横の連帯感を高めていきます。

国王や大諸侯がやがて上層市民と結んで権力強化を図りだすと、一般封建領主はますます、このような貴族意識にしがみつくこととなります。

したがって、12,13世紀以降、次第に地方単位若しくは全国単位で開催されるようになったヨーロッパの身分制議会は、かならずしも、断絶論理からきた階層意識の産物とは言えません。

僧侶、貴族、市民といった身分の統一は、むしろ、社会意識の拡大によって進められたものです。

身分制議会の成立する前提は、ほんとうは、階層意識と社会意識の絡み合いの中にあります。

日本で身分制議会に類するものが全く見られなかったのは、階層意識が弱かっただけではなく、こうした社会意識との絡み合いがなかったからでしょう。

この点で興味があるのは、フランス革命直前にひらかれた身分制議会(三部会)における、第三部の市民代表の行動です。

革命の直接のきっかけは、第一部(僧侶)、第二部(貴族)と第三分の対立です。

当時の議員数は、第一、第二部がそれぞれ約300人、第3部が約600人でしたが、第3部が分を超えた一般的な多数決方式の採用を主張したのが争いの始まりです。

結局、この要求は拒否され、第3部は身分制議会から脱退して自分たちだけの集会を持ち、国民議会と称しました。

そして、憲法を制定するまで解散しないことを誓いました。

これが1789年6月21日の有名な「テニスコートの誓い」です。

もちろん、これは身分制としては末期症状です。

それにしても、ヨーロッパでは村落意識から出発した社会意識が、都市、地域、国家へと同心円的に拡大したのでないことは、たしかです。

社会意識は、国家意識ないし国民意識まで行きつく前に、階層意識と絡み合って、身分別の統一意識を完成します。

全国規模での貴族意識あるいは市民意識が、近代の国家意識や国民意識よりも先行します。

もともと階層意識と社会意識のからみあいのなかった日本では、このような発展はみられません。

日本の場合はなにもかもが家族意識にむすぶつけられています。

太平洋戦争まで幅を利かした「家族国家論」はその典型です。

ヨーロッパ人には理解できない奇妙な現象ですが、血縁的な家族意識を漠然と拡大すればよいのですから、大した苦労はいりません。

すべてはなしくずし的で、いつのまにか、国家意識や国民意識らしきものに到達します。

ヨーロッパではこうはいきません。国家意識や国民意識は、なんとはなしに生まれたのではなく、あくまで、身分制を叩き潰して、すくなくとも階層意識の近代化をはかった人間の努力の所産です。

フランス革命のような市民革命がおこらなければならなかったのは、そのためです。

いずれにせよ、ヨーロッパの社旗式には、たえず、階層意識がまとわりつきました。

食生活のパターンのうえで、パン食と肉食が主食、副食の別なしに結びついた時と全く同じです。

社会意識と階層意識は、いずれが主でいずれが副ということもなく、お互いに固く手を握っているのです。

他宗を大いに排除

ヨーロッパの社会意識が結びついたのは、別に身分制的な階層意識に限りません。

断絶論理全体が対象となります。

キリスト教徒たるヨーロッパ人とそうでないものとのあいだには一線がする立場もまた、断絶論理からきた優越意識だけの産物ではありません。

そこには、社会意識の強い影響が認められます。

このことがはっきりするのは、疎外の相手が、はじめからキリスト教徒でないことのあきらかな、非ヨーロッパ人やユダヤ人にとどまらず、キリスト教徒自体のなかに求められた場合です。

いわゆる「異端狩り」がそうです。

異端は異教徒ではありません。

かれら自身の意識では、正真正銘のキリスト教です。

ただ、教会の正当なキリスト教解釈を受け付けないだけです。

にもかかわらず、キリスト教会は一貫してかれらを迫害の槍玉にあげてきました。

迫害のやり方も、異教徒に対する場合とあまり変わりません。

よい例が前後3回1181年、1209~14年、1226~29年のアルビジョア十字軍です。

これはトゥールーズを中心に南フランス一帯の勢力のあった、アルビジョア派異端を絶滅するためでした。

本来聖地イェルサレムからイスラム教徒を追い払うはずの十字軍が、ヨーロッパ内部の異端討伐に向かっています。

こういうことが起こったのは、一つには、ローマ・カトリック教会の背後に異分子の存在を許容できない、ヨーロッパ独特の強力な社会意識が控えていたからです。

異端や異教徒は、単に劣等人間であっただけでなく、同時に社会の異分子でもありました。

憎しみの点では、どうにもならないことのわかっている異教徒の場合よりも、異端に対する時の方が激しかったかもしれません。

もちろん、「異端狩り」がいつも、アルビジョア十字軍のように、大群の動員を伴ったわけではありません。

特にこの騒ぎに懲りたローマ法王庁は世俗権力と協力して、つぎつぎに異端審問制を整備していきました。

法王直属の異端審問官の設置、裁判の非公開、密告の奨励、拷問による自白の強要、改心しないものに対する死刑などが規定されました。

異端の芽をできるだけはやいうちに摘み取ろうというのです。

ガリレオのような科学者も、こうして異端審問の対象となりました。

このような個別的な異端審問が「異端狩り」の点で、かなり効果を上げたのは確かです。

しかし、密告制や拷問の採用からもわかるように、その審問は必ずしも公正ではありません。

一度異端の疑いがかけられれば、それをはらすことがまず不可能です。

身に覚えのない場合でも、密告者が誰とわからないままに拷問されるのですから、どうしようもありません。

せいぜい、罪をみとめて改心を誓い、なんとか生命だけは助けてもらうぐらいのことしかできません。

異端審問のこうしたいきすぎは「魔女」を対象とする時、絶頂に達しました。

魔女とは、今日の常識からいえば、要するに、さまざまな幻覚ー悪魔の酒盛りをしたとか、人を呪い殺したとかーになやまされる精神異常者のことです。

あるフランスの学者によれば、魔女1万人にたいして「魔男」一人のわりになるというから、おそらく、魔女の大部分は強度のヒステリー患者でしょう。

拘禁されれば、別に拷問されなくても、なにをしゃべるかわかりません。

そういう女性が、つぎつぎと火刑台へ送られていきました。

16世紀はこうした魔女狩りの最盛期でした。

日本では考えられない現象です。

それにしても、抹殺の対象が少数者であるあいだは、まだよかったのですが、多数者から脱落しないよう小心翼々としていれば、運悪く密告でもされないかぎり、なんとか安穏に暮らしていける「奴隷の平和」はありました。

しかし、精神異常者は別として、本来少数者であるはずの異端勢力が、増大しだすとそうはいきません。

はげしい殺し合いがおこなわれ、だれもその渦中から逃れることは出来ません。

宗教改革およびそれにひきつづく宗教戦争の時代がまさにそうでした。

この時代の対立は信仰の自由とは無関係です。

異端の系譜を引くプロテスタント諸派は、ときには、カトリック側に対して、信仰の自由を要求するジェスチャーを示したかもしれません。

しかし、これは、かれらが劣等な場合の戦術論に過ぎません。

異分子の抹殺熱の点では、プロテスタントカトリックも同じです。

ルター、メランヒトン、カルヴィンなど、いずれも、原則的には、異端審問の必要性を認めています。

カルヴィンのごときは、ジュネーブ神政政治時代に、血液循環論の祖といわれる医師セルベーを、かれの「キリスト教綱要」に反対したとの理由で火刑にしました。

要するに、どの陣営を取ってみても、その背後には、かつてカトリック教会の独占物であったのと同じ社会意識が存在します。

それぞれの陣営が、そうした社会意識の命ずるままに、お互いに異分子の改宗もしくは抹殺に躍起になったのです。

一つの陣営が異分子と目するものも、別陣営ではそうでないのであるから、大変な騒動になるのは当たり前です。

権力の座にあるものでも、なかなかこのような騒動に乗り切ることはできません。

なので、ザヴェエルも、日本に来てみて、仏教諸派がお互いに協調的なのに驚いています。

これは日本人の間では、ヨーロッパとちがって、異分子を無理やりに改宗させたり、それがだめなら抹殺したりするような、強烈な社会意識がなかったからです。

家族を超えた社会に対する関心が、そう根深くなかったことの反映です。

信仰の自由というより、むしろ、他人の信仰に対する「無関心」が支えになっています。

その証拠にせっかくの宗派協調も、キリスト教が入ってくるダメにな五rます。

戦国期のキリスト教宣教師が、日本人の信者から仏教書を取り上げて焼却した例が報告されています。

こうした「他宗を大いに排除する」態度は、日本人の間に、いたずらに反キリスト教的なムードを盛り立てるだけでした。

日本におけるキリスト教伝道が失敗した究極の原因は、このような日本の精神的風土との違和感にあるでしょう。

これに比べればヨーロッパの場合は、あくまで異質的です。

同じキリスト教の内部で、はげしい殺し合いがおこなわれております。

少しでも、キリスト教に対する解釈の違うものは、お互いに、同格の人間でもなければ、同じ社会の成員でもありませんでした。

断絶論理とむすびついた社会意識は、おそるべき威力を発揮します。

ヨーロッパの食生活パターンは、ここまで影響するのです。

以上のようなヨーロッパの社会意識の強烈さは、一口に言えば、他人が自分と同じでないことに我慢できない、一種の「おせっかい」精神となります。

自己や自己の家族以外のものに関心がありすぎるのです。

このような伝統は、階層意識の場合と同じく、近代になって、個人の自由やプライバシーの尊重が叫ばれたとしても、なかなかなくなりません。

それは形を変えて、欧米諸国のアチコチで生き続けています。

いまでは、どこでも、「信仰の自由」はいちおう確立はしていますが、どんな宗教、どんな宗派を信じていても、むかしのように焼き殺されることがなくなっただけで「信仰の自由」の実態はとても日本人の考えるようなものではありません。

たとえば、イギリスやイタリアでは、国家的にも、それぞれ、アングリカンおよびカトリックが優遇されています。

西ドイツでは、地方税の台帳に従って教会税が徴収され、カトリックおよびプロテスタント諸派に配分されます。

無宗教を表明すれば免税になりますが、そのようなことをすれば、眼にみえない不利益のあるのを覚悟しなければなりません。

こういう調子であるから、一般的にみて、個人商店辺りになると、店主と宗派がちがうとやとってもらえなかったりします。

公務員や大企業の場合はそのようなことはありませんが、それでも、個々の小心に宗教関係の影響が絶対にないと断言できるかどうか疑問です。

他人が何を信じているかが気になって仕方がない点は、むかしどおりです。

歴史の新しいアメリカでも、事情は同じです。

だからこそ、カトリック信者だったアメリカの前大統領ケネディは、1960年、民主党の大統領候補たることを受諾した時の有名なニュー・フロンティア演説で、つぎのように呼びかけなければなりませんでした。

私はアメリカ国民がすべてーアメリカ国民が一人残らずー国家の当面している真に重大な諸問題を考え、決して私の宗教関係で、私に指示投票をし、あるいは私に反対投票することによって、貴重な選挙権を無意味なものとし、放棄することのないように切望する。

同じような発言が、日本の国会議員の選挙演説で考えられるでしょうか。

こうした他人に対するおせっかいな気病みは、べつに宗教に限りません。

なかでも興味があるのは、日本にはみられない、婚姻公告制の存在です。

これは結婚しようと思う男女が、あらかじめそのことを公告し、一定期間のうちに結婚を無効にするような反対の名かった場合にかぎり、はじめて正式の手続きを進める制度です。

歴史的には、重婚を防止するために、中世カトリック教会が推奨したのがはじまりで、いまでは、カトリック信者同志の結婚は、原則として、この方式によることになっています。

未来の夫婦は、あらかじめ、教区司祭に日曜説教の後で三回公告してもらうことを要求されます。

日曜が三回経たないと、正式に結婚できない仕組みです。

ところが、この制度は、キリスト教に関係のない現在の民事婚のなかに、そっくりはいりこんでいます。

イギリス、フランス、西ドイツ、イタリアなど、国によって期間の違いはありますが、いずれも、8日ないし21日間にわたって、あらかじめ市町村役場に結婚公告を掲示することを法律で規定しています。

それは信仰に関わりのない法律上の義務です。

カトリックと違うのは、この公告に異議申し立てができるものが一定範囲の親族に限定されている点ぐらいです。

もっとも、アメリカでは、このような形式の要求をされない州もあります。

しかし、その場合でも、数日間の待期制をとり、すぐには結婚手続きが完了しないようにしてあります。

これも一種の婚姻公告制の変形であることにはかわりありません。

婚姻広告が現在でも重婚防止のために本当に必要なら、日本民法にもとりいれられてよいはずですが、実際そうではありません。

こうなると、欧米諸国における婚姻公告制に対する執着は、他人が誰と結婚するかが気になって仕方のない、おせっかい精神の表れと解しようがありません。

よく、日本人は他人の事情に対する「のぞき趣味」がありすぎて困ると言われていますが、欧米諸国では、それどころではありません。

制度的にも、他人の結婚を、当事者やその家族に任せておけないのです。

まるで攻守ところを変えたような感じです。

といって、欧米諸国の場合、他人のことが気になるのは、単なる物好きだからだけではありません。

もともとは、社会の存在を否応なしに強く意識しなければ生きていけない、パン食からきた歴史的伝統のせいでもあります。

したがって、個人や家族の私生活に対する干渉は、本来なら、社会公共のためにおこなわれるべきのものでした。

事実、他人に対する干渉癖がそのような積極的意味を持つ場合は、現在でも存在します。

たとえば、行列の割り込み、いやがらせなどの小暴力に対して、黙っておれないのがそれです。

また、都市計画などの推進にあたって「ごね得」があまり出ないのもそうです。

都市の場合は、それどころか個々の建造物の外観や色彩についてまで、全体の調和を乱さないよう、いろいろ註文のつけられることもあります。

しかし、一部の日本人によくみられるように、これらの表面的な現象だけをとりあげて、ヨーロッパ人やアメリカ人の正義感や公衆道徳をべたぼめするのは、とんでもない見当違いとなります。

「正義感」や「公衆道徳」も「他人のことに対する気病み」も、根は同じです。

伝統的な社会意識が、いわば両刃の剣として機能し続けているのが、欧米諸国の実情であります。

ヨーロッパ近代化の背景

ヨーロッパの近代化に伴って、食生活のパターンは同じであっても、それを支える条件が大きく変わりました。

例えば都市人口の増大です。

12~15世紀までの都市人口はだいたい総人口の10%内外でした。都市壁の内部に耕地、牧場、森林などのふくまれることが多く、都市民といえども、しばしば半農状態を脱するのは困難でした。

これに対して19世紀半ばの都市人口は、イングランドおよびウェールズで40%、フランスで20%にも達し、世紀末には、それぞれ、70%および40%を越す激増っぷりです。

個々の都市の人口規模も、中世に比べれば、いちじるしく膨大しました。

その結果、都市民の農業からの分離も一段と完全なものに近づきます。

このような変化の及ぼす影響は大きい。

自ら家畜を飼ってと畜したり、泥にまみれて畑仕事したりしないでもよい人たちが増えたのです。

もちろん、かれらとて農村と無関係ではなかったかもしれません。

こういう連中の集まっている都市では、どうしても、伝統思想の規制力は次第に弱まらざるおえません。

都市の共同体的性格もむかしほどでなくなるので、なおさらそうです。

しかも、思想形成の上で主役を演じるのは、なんといっても都市です。

都市における伝統思想の後退は、必然的に、あたらしい思想方向への道を切り開くことになります。

農村も休耕地にカブやクローバーの類が栽培されると、状勢は一変します。

カブやクローバーの類は、家畜飼料であるだけでなく、地力増進にも役立つので、家畜の舎飼いが可能になると同時に、耕地と放牧地の交代も不必要になります。

こうなると、それぞれの農業経営の独立性がたかまり、農村共同体はもはやオールマイティの存在ではなくなります。

それに、むかしとちがって、他の農家との協力関係をあまり気にしなくてもよくなります。

農村においてもまた、伝統思想の地盤はゆらぎはじめたのです。

したがって、思想史からみた場合のヨーロッパの近代化とは、要するに、伝統思想を支えるヨーロッパ特有の諸条件の持つ比重が、大幅に低下したことです。

もちろん、食生活パターンが変わらない以上、伝統思想は完全に消え去ったりはしません。

しかし、かならずしもヨーロッパ特有とは言えない条件が次第に醸成されだすと、伝統思想とならんで、もっと普遍性のある別の思想の発展する機運が強くなるのは当然です。

輸出可能な近代思想はこうしてできたのでしょう。

伝統への反逆と強い人権意識

それにしても、伝統思想の後退だけでは問題は片付きません。

そのあとをうけて進出する思想がなぜ「自由と平等」を基調にしなければならなかったのでしょうか。

現在に立るまで合法的なものみとめられてきた人権の内容でも、日本とはだいぶ様子が違います。

なかでも、異色なのは個人の自衛武装権の存在です。

1936年のケネディ暗殺事件で、わたくしたちは、いまさらのように、アメリカの武器取り締まりが意外にゆるいのに驚かされましたが、その根源は憲法にあります。

1791年に確定した合衆国憲法修正第二条は、「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保蔵または武装する権利は、これを損なうことができない」と規定しています。

日本で大統領暗殺のようなことが起これば、たちまちこうした条項は非難の的になりそうですが、アメリカではそうはいきません。

ヨーロッパ諸国の憲法には、これほどはっきり個人の武装権を肯定した者はありません。

しかし、実情は同じでいずれも「集会の自由」の規定でわざわざ「武器をもたないで」と断ってあります。

「武器を持って集会する」可能性のあることを予想して、それを禁止しています。

あきらかにここでは、武装権そのものは否定しておりません。

もっと詳細な武器取り締まり法規をしらべてみても、欧米諸国で全面的な禁止の対象になるのは、武器を持ってであることだけです。

自宅での武器保有については、せいぜい、武器の内容に制限があるくらいです。

たとえば、フランスの場合では、けん銃には特別の許可が必要ですが、刀剣類の保有はまったくの自由です。

個人を守るのはあくまでも個人の武力であるとの発想が、一貫しています。

強盗に対する無抵抗主義がひたすら強調される日本とは、およそ対照的な風土です。

こんな調子であるから、ヨーロッパやアメリカでは、かなり広い範囲で「自力救済権」の認められるのが普通です。

自力救済権というのは、日本の刑法にある「正当防衛権」とは違います。

自力救済権は、もっと積極的な実力行使に訴えてでも、自己の正当な権利を主張しようとする立場です。

「教育をうけない権利」「予防接種を拒否する権利」「強盗を殺す権利」など、どれをとっても個人意識はすさまじいものがあります。

このような個人意識の背後にある空くことない自己主張がそのまま暴走すれば、なにもかもおしまいでたちまち無政府状態におちいりそうですが、結局のところ実際にはそうなりませんでした。

伝統思想の壁は厚く、階層意識や社会意識は、近代化されただけで、決して完全に消失することはありませんでした。

近代史は、個人意識、階層意識、社会意識のが三つ巴になって、お互いの行き過ぎをチェックする過程だともいえいます。

信仰の自由は、近代思想の中でも最も重篤ですが、どこの国でも法的にはちゃんと保証されているたてまえがあるにしても、せいぜいよくてキリスト教宗派を選ぶ自由があるくらいで、他の宗教を信じたり、無宗教を公言すると、無形の圧迫が加えられます。

それでも信仰の自由という大義名分は社会意識の行き過ぎを阻止する歯止めとしては、充分に役立っています。

アメリカ独立宣言やフランスの人権宣言にでてくる、近代思想の核心ともいうべき「自由と平等」もまた、同じように大義名分にすぎません。

多数決原理の話

このことは、民主主義運営の中心である多数決原理の発展から見ればわかります。

多数決は、現在では、議員の選挙であれ、国会その他の場所における何かで議決であれ、至極当たり前のルールとされますが、結局、票数さえ多ければよいのわけです。

だいたい、ヨーロッパ中世では、代表選出も、いかなる決議も、もともとは、すべて、全員一致で行われるのが原則でした。

都市や村落、あるいは身分制議会の決議など、ローマ法王神聖ローマ皇帝の選挙も同じです。

ただ、全員一致というと聞こえはいいですが、要するに反対の自由がないということです。

あくまで反対を唱えることは、当該組織体からの追放を意味します。

いいかえれば、少数派は常に賛成を強制させることになり、意見の違う異分子の存在は許容できないおせっかいな社会意識がそこにはどっしり腰を据えているわけです。

しかし、法皇や皇帝の選挙になると、選挙母体を構成するのが聖俗領主であるから、そうおとなしくはきひさがりません。

多数派が全一致を強制しようとすれば、少数派は分派行動で対抗します。

中世ヨーロッパで対立法王や対立皇帝がさかんにあらわれるのは、そのためです。

多数派全員の一致と少数派の全員一致とがあったからです。

これにこりて、法王は1179年以後、皇帝は1356年以降と2つの選挙は比較的早くから多数決の原理に切り替わりました。

しかし、全員一致への郷愁はなかなか捨てきれておりません。

その証拠にどちらの場合も、選挙人たる枢機卿や選帝侯を一宝にとじこめて下相談させ、一定期間たっても意見のまとまらない時は、食事の質を落としていく定めでした。

さいごには、パンと水程度のものにまで切り下げられます。

兵糧攻めにして疲労困憊するのを待ってまで、なんとか全員一致の形に持っていこうというのです。

こうした伝統のある所に、中世以来都市や村落などでもあまり重要でない事項についてぼつぼつおこなわれてきた多数決が、近代になって、一般原理として定着したわけです。

したがって、多数決の歴史的本質は、多数なら何でもできるという者ではありません。

多数決原理にとって重要なのは、少数派にも「いちおう」反対する「自由」を与えたことです。

もちろん、結果的には、少数派は多数派の意思に従わなければなりませんがそれでもヨーロッパの伝統からすれば大きな出来事でした。

個人意識と社会意識がぶつかり合ってできた、一種の妥協の産物なのです。

それに上院はもともと、貴族か、国王若しくは政府に何かの形で指名されたものでした

多数代表の片りんさえ見られない上院のあり方は、直接には身分制の系譜を引く階層意識の反映です。

その後の歴史の中で、こうした特権的上院は、イギリスを覗いては消滅し、今日では二院制の残っている国でも、どちらも公選による国が多いです。

しかし何かの形で少数良識派の活動を保証しようとする伝統はあいかわらずのこっています。

多数決原理によって運営される民主主義は、個人意識、社会意識、階層意識の微妙なバランスの上にあります。

それぞれがあくことない要求を引っ込め、お互いに妥協することが肝要となります。

日本はこの大義名分をそのままの状態にとどめておく前提がなかったので「自由と平等」とく「平等」がいつのまにか歌詞崩し的に実体化の方向を取り始めました。

もちろん、「現人神」とされた天皇は別格ですが、天皇のもとにある日本人を全て平等の立場におこうという形に明治時代はくぁっていきました。

日本の初等教育に関しても金持ちの子も貧乏の子も平等に扱いいました。

軍隊では才能と努力次第で、水平が将校に昇進できます。

欧米諸国では長い間、将校は上層階級に独占され、下層階級は兵隊どまりと相場が決まっていました。

明治以来、日本が急速に発展した活力の一つにこのような「平等」の実態かがあったのではないかという仮説があります。

ただし、この多数決を信仰し始めた結果、少数良識派の存在理由がなくなり、日本全体が、その場限りのムード的な多数意志にひきずられることにもなります。

少数良識派の存在を許容する思想的条件のない所では定見のある指導者が生まれにくくもなります。

また、歴史的にいえば、前回やった官僚の能力主義採用によって日本が腐敗したことにより、「平等」に機会をあたえ、能力があるものを採用したからと言って日本そのものが発展するかは疑問が残るところです。

終わりに

はい、というわけでした。

ヨーロッパ人、白人キリスト教というのは、

元々、こういう人種なんでね。

日本に来る外国人はともかく、ヨーロッパいったら、黄色人差別というのが、まぁ、あると思いますので、そこは気をつけて頂きたいな思います。

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