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人間を「農奴」にした植物たちの話。植物で世界が分かる【異世界に備える】

人類は植物の奴隷である

昨今、「異世界のんびり農家」「農民関連のスキルばっか上げてたら何故か強くなった。」など農業を侮辱するなろう系作品だったり、「解雇された暗黒兵士(30代)のスローなセカンドライフ」など、

追放されても異世界の田舎村ならスローライフが遅れると間違った認識をした作品があったり、

Dr.STONE」でも農業を開拓していく描写がみられて、異世界に転生したらやはり農業に携わることは必要不可欠だなと感じます。

我々オタクニート異世界転生に備えて魔術の練習もありますが、農業も知っておかなければなりません。

そこで今回、ワイが立ち上がりましてこの記事を作成しました。

「農業」なくして「人類」はここまで進化しておりません。

蓋を開けてみると、この記事は必須レベルの教養になると思いますし

こういうことを知らないと勿体ないまであります。

歴史が一つの線につながっていきますので学生の皆さんは、この記事を読むだけで、世界史も日本史の成績も劇的に変わります。

それは、別に教養を強要しているわけではないのですが、

歴史の見方や面白さが変わっていきますし、時間軸でも地形軸でも見識が広くなりますので、是非、暇だったらたらたらと読んでいただきたいと思います。

植物の進化が人類を変えていった

植物には、木と草があります。

古代の地球は、気候は温暖で二酸化炭素の濃度は高く、植物が光合成をするに適した環境でした。

そのため、どんどん大きくなれば大きくなるほど、他の植物よりも光合成をすることができます。

そして、大きな体を支えるためには、しっかりとした木を作ることが必要でした。

草食性の恐竜たちも、その高い植物を食べるために長い首へと進化を遂げていきました。

ところが、恐竜時代の終わりの白亜紀になると、状況が変わります。

今まで、一続きの巨大な大陸が分裂して移動を始めました。

大地が引き裂かれたところは、浅い内海や湿地帯となり、大地と大地とがぶつかったところは隆起してヤマを作り上げました。

こうした地殻変動により、複雑な地形が作り上げると同時に、地形によって気候も大きく変動するようになりました。

このように気候が変動して先が読めない時代となりましたので、植物はゆっくりと大きな体を作っていく余裕がなくなりました。

そのために小さな体の「草」へと進化したのです。

このように草へと発達したのが「単子葉植物」です。

植物にとって、木から草への変化はあまりにも劇的で、魚が上陸して両生類になったり、サルが進化して人類となったほどの劇的な変化になります。

学校の理科の授業では双子葉植物単子葉植物の特徴の違いを暗記させられますが、単子葉植物はスピードに対応した植物なのです。

単子葉植物双子葉植物と比較して子葉が1枚で導管と師菅といった形成層もありません。

このように単子葉植物の方が単純ですが、じつは、単子葉植物の方が進化形となります。

単子葉植物は、葉脈が平行であることや、根がひげ根であることで特徴づけられます。

双子葉植物は、大きく成長しても大丈夫なように、しっかりとした枝分かれ構造を築いていますが、大きく成長しない草本単子葉植物は、スピードを重視して直線構造にしています。

この単子葉植物の中で、最も進化したグループの一つと言われているのが「イネ科植物」です。

イネ科植物は、乾燥した草原で発達を遂げた植物です。

木々が生い茂る深い森であれば、大量の植物が食べつくされるということはありません。

しかし、植物が少ない草原では、動物たちは生き残りをかけて、限られた植物を奪い合って食べ荒らします。

荒れ地に生きる動物も大変ですが、そんな脅威にさらされている中で身を守ろうとするのは本当に大変でした。

草原の植物たちは、どのように身を守ればよいか? 毒で守るというのも一つの方法ですが、毒を作るためには、毒成分の材料とするための栄養分を必要とします。

やせた草原で毒成分を生産するのは簡単なことではありません。

また、せっかく毒で身を守っても、動物はそれの対抗手段を発達させることでしょう。

そこでイネ科の植物は、ガラスの原料にもなるようなケイ素という固い物質を蓄えて身を守っています。

ケイ素は土の中にはたくさんありますが、植物は栄養分としては利用しない物質だから非常に合理的でした。

さらに、イネ科植物は葉の繊維質が多く消化しにくくなっています。

こうして、葉を食べられにくくしています。

このイネ科の真価によって、エサを食べることの出来なくなった草食動物の多くが絶滅したと考えられています。

更に、普通の植物は、茎の先端に成長点があり、上へ上へと伸びていきますが、イネ科の植物は成長店を地面スレスレに低くして茎を伸ばさずに株もとに成長点を保ちながら、そこから葉を上へ上へ押し上げます。

これならば、いくら食べられても葉っぱの先端を食べられるだけで、成長点が傷つくことはありません。

ただこれだと後から葉の数を増やすことはできないので、成長店の数を次々とふやして、地面の際から葉がたくさん出たような株を作り上げていきます。

人類が食用にしているのは植物の種子の部分です。

イネ科植物は葉が固く、調理してもほとんど栄養がありません。

イネ科植物は、食べられないようにするために、葉の栄養分をなくしています。

イネ科は栄養分を茎に避難させて蓄積させます。

ウシ、ヤギ、ヒツジ、シカ、キリン等は草食動物もイネ科植物をエサにするために進化をしています。

草食動物は、微生物が働いて、草を分解し栄養分を作り出す発酵する作用があります

人類は、草原で誕生したといわれていますが、葉が固く、栄養価の低いイネ科植物を草食動物のように食べることはできませんでした。

イネ科植物の葉は固くて、煮ても焼いても食べることができません。

それならば種子を食糧と考えますが、野生の植物は種子が熟すとバラバラと種子をばらまきます。

植物の種子は小さいので、そんな小さな種子を一粒ずつ拾い集めるのは簡単なことではありません。

しかし、あるとき、人類は、種子が落ちない突然変異を起こした株の発見をしました。

種子が熟しても落ちないと、自然界では植物は子孫を残すことができないことになります。

植物にとっては致命的な欠陥なのですが人類にとっては希望でした。

植物の中でごくわずかな確率で種子の落ちない「非脱粒性」という性質を持つ突然変異が起こることがあります。

人類は、このごくわざうかな珍しい株を発見しました。

種子が落ちない性質を持つ株から種子を取って育てれば、もしかすると、種子の落ちない性質の麦を増やしていくことができるかもしれない。

そうすれば、食料を安定的に確保することができる...。

これこそが農業の始まりでした。

農業誕生

農業というのは重労働です。

農業をしなくても暮らせるのであれば、その方がいいわけです。

そのため、自然が豊かな場所では農業が発展しずらくなります。

しかし、自然が貧しい所では、食べ物が得られるのであれば労働は苦ではない。

費用対効果は、自然の貧しい所では劇的に増加します。

農耕が始まったメソポタミアは、現在では中東地域で、砂漠地帯です。

全くの砂漠では農業などはできませんから、一般に「肥沃な三日月地帯」と言われますが、そこは豊かな森ではなく、砂漠の中の肥沃地帯です。

砂漠に食料はないので、砂漠に水路を引き、種子をまいて育てれば、革命的に食料を得ることができます。

農業なしには食べていくことができない。

しかし、重労働と引き換えとはいえ、農業をすれば食べていくことができる。

農業は貧しい地域で止むにやまれず始まったものでした。

人類の進化は謎に包まれていますが、草地で進化したと推測されていて、起源はアフリカ東部と考えられています。

地殻変動によってアフリカ大陸が東西に分裂し、大地溝帯と呼ばれる巨大な谷ができると、湿った赤道西風が、大地溝帯によって遮られるようになりました。

そして、赤道西風が届かなくなった大地溝帯の東側では、乾燥が進み、豊かな森林が草原へと変化してしまったのです。

こうした草原で、森の類人猿であった私たちの祖先は人類へと進化していったと考えられます。

二万年前から一万年前頃になると、地球の気候が変化し、乾燥化や寒冷化が進むと、各地に分散していた人々は生活環境の良い場所を求めて川の周辺に集まってきました。

こうした厳しい環境の中で、多くの人々が生き抜くための術を身につけたのが「農業」です。

農業の発祥の地であるメソポタミアで最初に発達したのは、家畜を飼養とする牧畜でした。

狩りの対象であったウシやヤギなどの草食動物を飼うことができれば、いつでも肉を手に入れることができます。

また、生かして乳を搾れば、動物を殺して失うことなく栄養摂ることができます。

現在でも、西洋では家畜を飼う畜産が盛んです。

人間は、イネ科植物の茎や葉を食料にすることができないので、草食動物にイネ科植物を食べさせて、その動物を食糧にするしかありませんでした。

しかし、種子の落ちない性質を持つ「非脱粒性」のヒトツブコムギの発見が、人類に農業の道を開きました。

イネ科の植物が炭水化物を大量に持つのは、もともと種子が発芽するためのエネルギーを生み出す栄養分です。

種子の多くは、炭水化物以外にもタンパク質は脂質を栄養源として持ちますが、イネ科の植物の場合は、厳しい草原で生きてきたため、光合成で得ることができる炭水化物をそのまま種子に蓄え、芽生えは炭水化物をそのままエネルギー源として成長するというシンプルなライフスタイルを作っていきました。

草原は大きくなっても、動物のエサになるだけなので、エネルギー量の大きい脂質を蓄える必要はなかったわけです。

イネ科植物のもつ炭水化物は、租借すれば唾液の中で酵素の働きで糖となります。

糖は、人間にとっては魅惑の甘味であり、甘味は人に陶酔感と幸福感をもたらします。

こうして、人類は穀物の虜となり、言い換えればコムギの奴隷となりました。

農業は安定して食料を得る手段ですが、人類は安定した食料を手に入れた代わりに重労働をしなければなりませんでした。

そして、種子は保存することができます。

植物の種子はすぐには腐りませんので、人間にとって都合がよく、この保存が「富」という概念を作りました。

狩猟生活ならば、一人で大きな獲物を手に入れたとしても、とても食べきれるものではありませんし、欲張って独り占めしようとしても腐らせてしまうだけでした。

それならば、たくさん取れた時には人に分け与え、他人がたくさん獲ったときは分けて貰った方がいい。

冷蔵庫のない大昔は、食料を保存しておくことができないのだから、みんなで分かち合った方がいいし、その方が安定的に食べていくことできます。

農業は過酷な労働を必要としますが、一度農業を知ってしまった人類に、農業をやめてのんびり暮らすという選択肢はありません。

こうして農業によって人類は人口を増やし、村を作りだし、村を集めて強大な国を作るようになりました。

「富」を持つ者と持たない者には格差が生まれ、富を求めて、人々は争うようになりました。

パンは主食ではなかった

日本の西洋料理とヨーロッパの本場との違いはビフテキやポーク・カツのような切り身ではなく、もとの形のはっきりわかるものが、さかんに家庭の食卓に上ることにあります。

おそらく価格が安いのが主な理由でしょうが、そういうものを専門のコックではなく、ふつうの家庭婦人が料理をします。

「豚の頭」「こうしの面皮」などが出たり、血だらけの豚の頭が出たりしたらたいていの日本人はぎょっとするに違いないでしょう。

ヨーロッパと日本との食生活のパターンは想像以上に違います。

だいたい、日本では米は文字通り主食で、米を食べながら、魚・肉・野菜などの服飾をとるのが食生活の基本的なパターンでしょう。

しかし、肉食率の高いヨーロッパでは、主食的なものがどれかはあまりはっきりしていません。

パンを食べるのはポタージュ(スープ)が終わってから、肉・魚・チキン料理が出ている間だけです。

サラダを食べ始めたら残っているパンは持ってかれてしまいます。

あとで日本の漬物のかわりにちーずをつまむことになりますが、このときにもパンはありません。

全体から見れば、パンはおそえものにすぎません。

トーストやサンドイッチと言うと、日本でしばしばお目にかかる貧弱なものから判断して、以下にもパンが主体のように思われやすいですが、実はそうではなく、バター・肉・野菜を美味しく食べるために、パンが利用されているにすぎません。

この場合も、どれが主食でどれが副食であるかは、すこしもあきらかではありません。

高い肉食率を維持するには一人当たり農用地の面積の広いことがなによりの絶対条件です。

日本の一人当たりの農用地面積は、欧米諸国からみれば、3分の1以下でそれはほとんど問題にはなりませんが、そのかわり農用地面積の中で耕地面積の占める割合が群を抜いています。

日本では農用地を介区のための牧場・牧草地に向ける余裕がありませんでした。しかも、日本より一人当たりの用地面積が大きく、それ以上の割合で牧場・牧草地に向けているイギリス、イタリア、西ドイツでさえ、肉類の自給はできていません。

肉食が如何に土地を食うものであるか、このことからもよくわかります。

こうなると日本でさえ肉食どころではなく、主食と副食を区別し、熱量の大部分を主食としての穀類・いも類に依存する日本の食生活パターンはギリギリの線からできたものであるとわかります。

もっとも、肉食が贅沢だと言い出せば、欧米諸国でも事情は同じであるように見えますが、

いくら一人当たりの農用地面積が広くても、土地からの第一次生産物を直接人間の口に入れる方が、はるかに安上がりなことには変わりはありません。

にもかかわらず、ヨーロッパ人のあいだでは、栄養問題が大してやましくもない古い時代から、なぜ、不経済な肉食が高い比率を占めてきたのか。

実は、畜産物を食べるのが贅沢だというのは、食用作物の十分にとれる耕地をわざわざ割いて、飼料作物を人工的に栽培した場合のことになります。

もし、家畜が、そこらに勝手に生える、食用にならない草のようなもので育つ分には、肉食は少しも不経済ではないのです。

ヨーロッパ人の家畜飼育は、もともと、そういうところからでてきており、日本とはだいぶ事情が違います。

ヨーロッパには、日本の雑草のような、徒長して家畜の歯に合わない程茎の固くなる、何の役にも立たない葉は存在しないのです。

なので、ひとりでに生える草すら、充分に牧草として利用できます。

あまり手を加えないでもたいていの土地が牧場となるのです。

東京都パリの月平均気温を比較すると、パリの夏は文句なしに涼しく、せいぜい東京の5月か10月程度の気温です。しかも、夏の間の湿度は東京より低く、気温が高くない上に、むしむしもしないのです。夏と言っても、合服で快適に過ごせます。

したがって、パリのバカンスというのは、夏のパリは外国人や田舎者にまかせて、パリっ子が南フランスやイタリアのようなパリより暑い地域となります。

むしろ暑さが魅力なのです。

南フランスやイタリアの夏は、パリより暑く、東京ほどでないとしても月平均温度は20度を越します。しかし、その湿度は、東京どころかパリよりもずっと低く、いくら暑くても、しのぎやすさの点では問題になりません。

ところで、蒸し暑い夏のないことは、ある意味では、植物の生育には不適な条件となります。

植物が十分に繁殖するには、一般的に言って、暑熱と湿潤が何よりも必要でどちらかが欠けることも好ましくありません。

ヨーロッパで日本のような雑草がみられないのは、実はこうした暑熱と湿潤のむすびつく時期が、1年を通じて全然ないからでもあります。

森林についても違いがあります。

日本で森林というと、足の踏み入れようもないほど下草の生い茂ったものが想像されますが、ヨーロッパではそのようなことはありません。

手入れをしないで自然にままにほおっておいても下草はそれほど成長しないのです。

人間だけでなく、家畜も自由に森林内をうろつき、どんぐりの実などを食べて大きくなります。

したがって、ヨーロッパで家畜を飼うのは、日本と違って、少しも面倒なことではないのです。

こうしたヨーロッパの条件は大雑把にみれば、アメリカにもそのままあてはまります。

西部劇のカウボーイの生活ぶりからもわかるように、アメリカにおいてもまた、家畜は元々そこらに放牧しておけば大きくなるものでした。

日本は何故「コメ」なのか??

「コムギ」でよくない? ここで一つ疑問が生じることでしょう。

日本は何故、米が「主食」なのでしょうか。

今度は、日本の歴史を遡ってみます。

日本に稲作が伝来する以前に、日本人が重要な食料としていたのはサトイモです。

サトイモはタロと呼ばれて中国大陸から、東南アジア、ミクロネシアポリネシアオセアニアの太平洋地域一帯で現代でも広く主食として用いられます。

納豆、持ち、とろろ、なめこなど、外国人が苦手とするネバネバした食感を日本人が好むのは、サトイモの遠い記憶があるからだとさえ言われています。

ところが、日本にサトイモに代わる優れたデンプン源「うるち」がやってきました。

中国には北方に四大文明の一つである黄河文明があり、何方には四大文明に匹敵する規模といわれる長江文明が発達していました。

黄河文明は大豆を生み出した文明であり、大豆や麦作などの畑作文化です。

一方、長江文明は稲作文化を発達させました。紀元前5世紀、気候は寒冷化し、北方にすんでいた黄河文明の人々は農業に適した暖かな地域を目指して南進しました。

そして、北方の黄河文明の人々と、もともと南方に住んでいた長江文明の人々は、より良い場所を求めて移住するようになり、限られた土地をめぐって争うようになるのです。

これが中国の春秋戦国時代から呉越の戦いへと繋がっていきます。

この争いに敗れた越の国の人々は、山岳地帯へと落ちのびました。

そして、険しい山の中に棚田を拓いたわけです。

一方、海を渡った難民たちは日本列島に漂着しました。

当時の日本はすでにイネは伝わっていたと考えられていますが、越の人々が伝えた稲作技術は、日本に稲作が拡がる要因の一つになったと考えられています。

これによって日本の縄文時代が終焉し、稲作の弥生時代へと突入していくことになります。

当時の農業は、狩猟採集を木祖として、サトイモなどを植えて、放置しておく半裁培が行われるくらいでした。

やがて、縄文時代の中期になると焼き畑農業が行われ、稲作が伝来しました。

大陸から九州北部に伝えられた稲作は、急速に広まり、わずか半世紀の間に東海地方の西部にまで伝わったとされています。

しかし、そこから東側には、中々広まりませんでした。

ムギの先述の通り、農業は安定した食料と引き換えに重労働なので恵まれない土地で発達します。

縄文時代の東日本は稲作をしなくても良いほど土地が豊かだったからです。

縄文時代中期の100キロ平方メートル当たりの人口密度は、西日本でわずか10人未満であったのに対して、東日本では、その数十倍の100~300人であったと推計されています。

豊かな落葉樹林が拡がる東日本では、大勢の人口を養うのに十分な食料がありました。

しかし、何故、東日本も結局稲作を受け入れたのか。 それは「富」です。

農業によって得られる穀物は、食べきれなくても貯蔵することができ「富」となります。

富を持つ人は権力を持ち、人々を集め、国力を高めていきます。

また、農業を行うためには、水を引く灌漑(かんがい)の技術や、農耕のための道具が必要で、さまざまな技術も発展しました。

これらの技術は戦うために砦を作り、武器を作る技術にもなります。

お腹を満たす食料とは異なり「富」は蓄積することも出来れば、奪い合うこともできる。

責め立ては富を得ることもできるし、攻められれば富を奪われることもあります。

こうして、農業を行う人々は競い合って技術を発展させ、強い国づくりを行ったわけです。

イネは、他の穀類と比べても収量が多く、それだけコメが蓄えられ、富が蓄積されます。

そして、稲作はコメだけではなく青銅器や鉄器といった最先端の技術をもたらし、鉄器は戦いになれば軍事力となりました。

さらに、メソポタミア文明でもあったように、約4千年前の縄文時代後期は次第に気温が下がり始めたことで、東日本の豊かな自然は大きく変化するようになったことが農業の始まりに影響を与えていることも指摘されています。

東日本は豊かな食料に支えられて人口密度が高かったから、食料の不足は切実な問題となりました。

イネはもとをたどれば東南アジアを原産とする外来の植物です。

イネはムギなどのほかの作物に比べて極めて生産性の高い作物です。

イネは一粒の種もみから700~1000粒のコメが取れます。

これは他の作物と比べて驚異的な生産力となります。

15世紀のヨーロッパでは、コムギの種子をまいた量に対して、収穫できた量はわずか3~5倍でした。

これに対して17世紀の江戸時代の日本では、種子の量に対して20~30倍もの収量があり、イネは極めて生産効率が良い作物でした。

現在でもイネは110~140倍もの収量があるのに対して、コムギは20倍前後の収量しかありません。

さらに、コメは栄養価に優れていて、炭水化物だけでなく、良質のたんぱく質を多く含みます。

更に、ミネラルやビタミンも豊富で栄養バランスも優れていて、とにかくコメさえ食べていれば良く、唯一足りない栄養素はアミノ酸のリジンですが、リジンを豊富に含んでいる大豆と一緒に取れば問題ありません。

ご飯とみそ汁という組み合わせは栄養学的にも理にかなっていました。

一方、パンやパスタの原料となるコムギは、それだけで栄養バランスを満たすことはできません。

コムギだけではタンパク質が不足するので、どうしても肉類などを食べる必要があるためです。

そのため、コムギは主食ではなく、多くの食材の一つとして位置づけられることになります。

日本列島はイネの栽培を行うのに恵まれた条件がそろっています。

イネを栽培するには大量の水を必要としますが、日本は雨が多いです。

日本の降水量は年平均で1700ミリですが、これは世界の平均降水量の二倍以上です。

日本にも水不足がないわけではないですが、世界には乾燥地帯や砂漠地帯が多い中で水資源に恵まれた国です。

日本は、モンスーンアジアという気候帯に位置しています。

モンスーンというのは季節風のことでアジアの南のインドから東南アジア、中国南部から日本にかけては、モンスーンの影響を受けて雨が多く振り、この地域をモンスーンアジアと呼んでいるのです。

五月ごろにアジア大陸が温められて低気圧が発生すると、インド洋上空の高気圧から大陸に向かって風が吹きつけます。

これがモンスーンです。

モンスーンは大陸にヒマラヤ山脈にぶつかると東に進路をかえていきます。

この湿ったモンスーンが雨を降らせて行きます。

アジア各地はこの時期に雨季となり、日本列島では梅雨になります。

こうしてつくられた高温多湿な夏の気候は、イネの栽培に適しています。

更に、冬になれば大陸から北西の風が吹きつける。

大陸から吹いてきた風は日本列島の山脈にぶつかって雲となり、日本海側に大量の雪を降らせます。

大雪は、植物の生育に適しているとは言えませんが、春になれば雪解け水が川となり、潤沢な水で大地を潤します。

こうして、日本は世界でも稀な水の豊かな国土を有しているわけです。

イネを栽培するためにはムギと違って田んぼが必要ですが、これが大変なわけですね。

日本の地形は山が急峻(きゅうしゅん)であることが特徴ですが、山に降った雨は一気に平野へ流れ込み、増水してあちらこちらで水害を起こします。

そのため、日本の平野部は人の住めないような湿地帯が拡がっていたわけです。

そうかといって、高台に住めば、雨水は一気に流れ去ってしまいますので、田んぼに使う水を確保できません。

雨が多くても、実際に田んぼを拓き、イネを栽培することは簡単では、ありませんでした。

田んぼを作るには、山から流れる川の水を引き込んで、田んぼの隅々にまで行き渡らせることが必要です。

こうして、大きな川から小さな川を引いて、小さな川から田んぼに水を行き渡らせて、田んぼに水をためることによって、山に降った雨は一気に海に流れ込むことなく、地面を潤しながらゆっくりと流れるようになりました。

途方もない労力と時間をかけて、人々は川の氾濫源を田んぼに変えていきました。

日本の国土にとって、田んぼを作る歴史は、激しい水の流れをコントロールすることに他ならなかったわけです。

「田んぼはダムの役割がある」と言われますが、それは単に水をためているからではなく、急な河川の流れをなだらかにして、ゆっくりと流れながら大地を潤し、地下水を涵養することから、そう言われてします。

日本人にとって田んぼという風景は当たり前すぎて、田んぼしかない所は「何もない」と表現されてしまい、田んぼが埋め立てられてコンビニでもできれば「何もなかったところに店ができた」と言われてしまいます。

しかし、そこに田んぼがあるということは、血のにじむような先人たちの努力があったということになります。

日本の歴史をみると、もともと田んぼは谷筋や山のふもとに開かれることが多かったです。

それらの地形では山からの伏流水が流れ出てきます。

やがてその水を引いて、やまのふもとの扇状地や盆地に田んぼが拓かれて生きます。

それでも田んぼは、限られた恵まれた地形でしか作ることができませんでした。

田んぼの面積が増加してくるのは戦国時代からでした。

多くの地域ではイネを作ることができず、ムギ類やソバを作り、ヒエやアワなどの雑穀を作るしかありませんでした。

そして、限られた穀倉地帯をめぐって、戦国武将たちは戦いを繰り広げていきました。

石高を競う戦国武将は、戦いによって隣国を奪って領地を広げれば、石高を上げることはできます。

しかし、戦国時代も終盤になり、国境が定まってくると、領地を増やすこともままなりません。

ただ、石高は領地の面積ではなく、コメの生産量です。

領地は増えなくても、田んぼが増え、コメの生産量が増えれば、自らの力を強めることができます。

そこで戦国武将たちは、各地で新たな水田を開拓していきました。

戦国時代には各地に山城が作られました。

堀を作り、土塁を築き、石垣を組んで、城を作る。

こうした土木技術の発達によって、これまで田んぼを作ることができなかった山間地にも水田を拓くことが可能になりました。

こうして作られたのが「棚田」です。

戦国時代から江戸時代の初めにかけては、全国で棚田が築かれています。

堀を作る技術によって水路を拓くことができるようになり、また、土塁を築く技術で畔を作り、傾斜地に水をためることができるようになりました。

そして、石垣を組むことで強固な田んぼを作ることができるようになりました。

中には白の石垣の武者返しのように、上に行くほど垂直になるように組まれているものさえあります。

武者返しをすることで、少しでも石垣の上の田んぼの面積を広くしようとしています。

また、河川に土手を作り、洪水を防ぎ、かつての洪水地帯を水田に変えて、水の供給のために人工河川を作りました。

戦国時代は「コメ」は単なる食糧ではなく「貨幣」そのものでした。

田んぼを拓き米を作ることは、お金を生み出すことと同じで、領内に田んぼを持つことは経済力であり、兵力に直結しました。

日本は古くは金の価値を基本とする金本位制ではありましたが、経済活動が盛んになってくると、価値が高く希少な金では不都合が生じていました。

実際に戦後の混乱期には、戦時中に発行された札が、ただの紙切れとなり、食糧不足でコメの方が、貨幣や高価な着物よりもずっと価値が高かったわけです。

戦国時代は貨幣が統一されておらず、地域によってさまざまな金銭が流通していましたが、価値が安定しておらず、混ざりものや偽物かもしれない小判よりも、コメの方がずっと信用できます。

やがて、天下統一を進めていた織田信長豊臣秀吉はコメ本位制を整備していきました。

そして、徳川幕府の時代にはコメ本位制が完成します。

江戸時代の新田開発

江戸時代になって平和な世が訪れると、大名たちは死んで位開発に乗り出しました。

これまでは戦い続きで田んぼを開発する余裕がありませんでしたが、戦の心配をする必要がないから金銭的にも労力的にもじっくりと新田開発に力を注ぐことができます。

そのため、各地で大規模な土木工事が行われ、新田開発されるようになっていき川の下流部に拡がる広大な「平野」が誕生しました。

これまでは河川が縦横に流れ、ヨシが生い茂る湿地が広がるばかり、泥の深い湿地はとてもイネを栽培できるような場所ではありません。

しかし、土手を作り、河川の流れを制限して、その代わりに水路を整備していくことによって、何の価値もなかった広大な湿地は、田んぼに生まれ変わります。

そして、江戸幕府もまた関東平野の台地を拓き、沼を干拓して、大規模な水田を拓きました。

江戸時代になると、耕地面積は約2倍にまで増加しました。

大名の収入はコメで納められる年貢です。

つまり、田んぼで取れるコメは「貨幣」であり、田んぼの面積を広げ、米の収量を上げることは、まさにビッグマネーを生み出すビジネスでした。

こうして、城を作り、城下町を整備していき、地域の中心は、山に囲まれた山間部から、広々とした平野部へと移っていきました。

現代人が住む平野の多くは、江戸時代に田んぼとして開発されたものなわけです。

江戸時代のコメ本位制

コメは日本人の主食ではありますが、他に食べ物はいくらでもありますから、コメがなければ死んでしまうというほどのものではないのですが、長期間の保存がきき長距離の運搬が可能なため、江戸時代は米が貨幣として機能する経済が確立しました。

経済が発展したといっても自然災害や飢饉のある江戸時代、もし、あまりに貨幣や金に重きを置いてしまうと、お金はあっても人々が飢えてしまうということも起こりうります。

一方、コメが経済の中心であれば、諸藩は経済を活性化させるために、食糧増産に取り組むことになります。

こうして安定的な経済基盤と安定した食料供給を築こうとしました。

しかし、次々に田んぼを作っていくことは、無制限に貨幣を印刷しているのと同じことで、諸藩が新田開発を行ってコメを大量に生産されることにより、やがて経済は不安定になっていきます。

年貢高は、検地よってさだめられていましたが、新田の開発や農業技術の発達によってコメの収量が増えると、実質的に年貢として納める割合は減少していく異なります。

こうして農民にも余裕、つまりは余暇が生じて、「文化」である「元禄文化」の繁栄がもたらされていきます。

しかし、バブルがはじけます。

コメの生産量が増加して、コメが余り始めると米の価値が減少し、コメの価格は下がる

一方で、コメ以外の物は物価が高くなる。

つまり、インフレが起こってしまいました。

そこで、コメ将軍と呼ばれた徳川吉宗はコメの価格を上げるために享保の改革を行い、経済の立て直しを迫られたわけです。

何故、日本は人口密度が高いのか

江戸の町は、人口100万人の世界最大の都市に発展します。

当時、ロンドンやパリは40万人都市だったので、江戸は飛びぬけて巨大な都市であったことがわかります。

現在でも東京は都市圏の人口は3500万人を超える世界最大の年です。

しかし、人口が多いということは、それだけ過密な都市だったということです。

東京だけなく、ヨーロッパと比べると日本は過密だというイメージがあります。

ヨーロッパを旅すると広々とした田園風景を楽しむことができますが日本はどこへ行っても所狭しと家がたっていて、ごちゃごちゃしている感じがします。

ヨーロッパので田園風景をみると、広々とした畑が一面に広がっていて、村ははるか遠くにしか見えません。

しかし、考えてみると、村民が暮らしていくのにこれだけの畑が必要だったということなのです。

一方日本は、江戸時代の村をみても、隣村までの距離は短いです。

日本では少ない農地で多くの人が食べていくことができたということです。

16世紀の戦国時代の日本では、同じ島国のイギリスと比べて、すでに6倍もの人口を擁していたとされています。

それだけ人口を支えたのが「田んぼ」というシステムと「イネ」という作物なのです。

ヨーロッパでは三圃式農業と呼ばれ、ジャガイモや豆類など夏作物を作る畑と、コムギを栽培する畑と、作物を作らずに畑を休ませるところの3つに分けて、ローテーションをして土地を利用していました。

こうして、3年に1度は休ませないと、毎年、同じ土地で同じ作物を栽培し続けると、土地の栄養が偏ってしまったり、害虫が増えたりして、地力を維持することができなかったのです。

コムギは3年に1度しか作ることができませんでした。

これに対して日本の田んぼはほぼ毎年、イネを育てることができます。

一般には作物は連作ことはできません。

イネのように、毎年、栽培することができるというのは実はすごいことです。

しかも、昔はイネを収穫した後に、コムギを栽培する二毛作を行いました。

ヨーロッパでは3年に1度しかコムギが栽培できないのに、日本では1年間にイネとコムギと両方収穫することができたわけです。

イネは作物の中でも際立って収量の多い作物です。

収量をたくさん取ることのできないヨーロッパでは、広い面積で農業を行うしかなったですが、日本の田んぼは、手を掛ければ掛けるほど収量が多くなる。

そのため、やみくもに面積を広げるよりも、手を掛けて稲作が行われていました。

ちなみに、現在のヨーロッパの農業は、三圃式農業に牧畜が追加されたスタイルが混合農業が現代に引き継がれています。

輪作することで地力の消耗を抑えるだけでなく、家畜の糞を肥料として活用し地力が改善されます。

イネはもともと東南アジア産の作物であり、イネを栽培する地域は多いです。

しかし、温暖な地域は食べ物も多く、イネはたくさんある食べ物の一つにしかすぎません。

これに対して、日本はイネの栽培の北限地域です。

日本人にとってイネは優れた作物であり、重要な食糧でした。

日本人が古くから他の食べ物よりも「コメ」を大切にし、稲作中心文化を築いてきたのはそのためでもあります。

そして、日本人は手を掛けてイネを栽培してきました。

この手を掛ける稲作の技術が、協調性に富む一方で内向的だと言われる日本人の民族性を形成したとも言われています。

何故コショウは高級品だったのか?

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ヨーロッパでは家畜の肉が貴重な食料でした。

冷涼で乾燥した気候ではイネ科の植物の草原が広がります。

しかし、イネ科植物の茎や葉は人間の食料とはなりません。

そこで、牧草として草食動物に食べさせて、動物の肉を食糧とします。

家畜は英語で「リリブストック(生きた在庫)」という意味です。

しかし、冬になると家畜に食べさせるエサがなくなってしまいます。

現代では草を乳酸発酵させたサイレージや保存のきく穀物がエサとして用いられていますが、草を刈って保存しておくことしかできない当時は、十分なエサを確保することができませんでした。

そのため、冬になる前に家畜を殺して肉にしました。

しかし、肉は腐りやすいので、保存しておくことができません。

それでも、冬の間は、その肉で食いつなぐしかありません。

そこで、乾燥させたり、塩漬けにしたりする他なかったわけです。

しかし、香辛料があれば肉を良質な状態で美味しく保存することができます。

香辛料は「いつでも美味しい肉を食べる」という贅沢な食生活を実現してくれる魔法の薬だったわけです。

ところが、ヨーロッパの人々にとってコショウは手に入りにくい高級品でした。

コショウは南インド原産の熱帯植物なので、中東アラブ地域やヨーロッパでは栽培することができません。

そのため、インドから陸路はるばる運ぶしか手に入れる方法がなかったのです。

そのため、多額の輸送費が掛かりますし、無事に運べるとは限らないから、どうしても効果になります。

アラブ商人やベネチア商人をけいゆうしなければならなかったですし、通行税も科せられたら価格は跳ね上がります。

ヨーロッパの十字軍の遠征で、騎士たちはイスラム圏の食べ物を味わいました、そこでコショウなどの香辛料が使われていたことを母国に伝えると中世のヨーロッパの人々は羨望するようになりました。

陸路を通ることなく海路で直接ヨーロッパに持ち込むことができれば莫大な利益が得られます。

中世ヨーロッパの船乗りたちにとって、海とは主に地中海であり、地中海の外側にあるポルトガルやスペインにとっては、地中海での貿易は難しいため、地中海の外側に船を繰り出していきました それでも、アフリカ大陸の沿岸を航行するのが精いっぱいだったとか。

アフリカの北西部にボジャドール岬という小さな岬があり、船乗りたちは、この小さな岬を越えることさえできなかったそうです。

しかし、勇猛果敢なエンリケ航海王子と呼ばれる男が、園岬を進むと、そこには象牙や砂金などの価値のある交易品がありました。

アフリカにはコショウに似た味のするマラゲッタペッパーと呼ばれる植物もありました。

マラゲッタペッパーはショウガ科の植物で、コショウ科とは別物ですが香辛料としては充分に使えるものでした。

後にこのマラゲッタペッパーの取引が行われた場所は「胡椒海岸」と呼ばれています。

そして、エンリケ航海王子は強靭な肉体を持つ黒人も奴隷として連れ帰りました。

これが「大航海時代」の始まりであり、暗黒お歴史である奴隷貿易のはじまりでもあります。

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コショウの価格が高かったのは、アジアからヨーロッパに運ぶのが大変だったからでコショウが安定的にヨーロッパにもたらされるようになると、コショウの価格は次第に低下していきます。

特に産業革命が起こり、蒸気船が作られると大量のコショウがヨーロッパに運ばれました。

丁子、シナモン、ナツメグ、ジンジャーなど、ヨーロッパの人々がインドに求めが香辛料はコショウだけではありません。

香辛料が持つ辛み成分は、もともとは植物が病原菌や害虫から身を守るために蓄えているものなので、冷涼なヨーロッパでは害虫が少ないわけです。

一方、気温の高い熱帯地域や湿度が高いモンスーンアジアでは病原菌や害虫が多いため、植物も辛み成分などを備えているわけです。

コロンブスがトウガラシをコショウと言い張る

トウガラシは英語で「ホットペッパー」といいますが、実際コショウとトウガラシは全く別の植物でトウガラシは、ナスやトマトと同じナス科になります。

インドを目指してスペインを出発し、大西洋を後悔したイタリア生まれの探検家コロンブスは1492年にアメリカ大陸を発見しましたが、彼は自分がたどり着いた場所をインドだと勘違いしたと言われています。

そのため、アメリカ大陸にいた先住民は、インド時という意味でインディアンと呼ばれています。

また、カリブ海に浮かぶ島々は西インド諸島と名付けられています。

コロンブスの開港の目的はインドからスペインへ、コショウを直接運ぶ航路を見つけることでした。

コショウは熱帯産の植物だから、コショウという植物を知らなかったのは無理もありませんが、一説には意図的に間違えていたともいえます。

本格的な探索には莫大な資金を必要としますが、コロンブスはスペインのイザベラ女王を「大西洋を西へ進めばインドにたどり着ける」と説得して、多額の資金援助を約束させています。

そのため、インドにたどり着けなかったとはいうわけにはいかず、コロンブスはトウガラシを「ペッパー」と言い張ったのかもしれません。

こうしてコロンブスによってトウガラシはヨーロッパにもたらされましたが、トウガラシはあまりに辛みが強く、コショウとは風味が異なるため、コショウの代わりとは認めれませんでした。

トウガラシが何故辛いのか ヨーロッパ人に受け入れられなかったトウガラシではありますが、ビタミンCを多く含んでいるため、当時の船乗りを悩ませていた壊血病は、ビタミンC不足が原因でしたが、当時は原因不明であるけれども、なんとなくトウガラシを食っていれば病気にならずに済みました。

やがて、ポルトガルの交易ルートによって、トウガラシはアフリカやアジアへと伝えられましたが、アフリカやアジアでは急速に食卓に取り入れられました。

辛みのあるトウガラシは、害虫の繁殖などを防ぎ、食材や料理の保存にも便利でした。

しかも暑さの厳しいアフリカやアジアの国々では、熱さで減退する食欲を増進させるために様々な香辛料が用いられました。

そのため、トウガラシは数ある香辛料の一つとして、無理なく受け入れられたのです。

インドのカレーはもともとコショウなどの香辛料を使っていましたが今では唐辛子はカレーになくてはならないスパイスになっています。

タイ料理のグリーンカレーやトム・ヤン・クン、四川料理、中華料理にもカラ味のものが多いです。

このように栄養価が高く、発汗を促すトウガラシは、特に暑い地域での体力維持に適していました。

植物の中にはマリファナの原料となる大麻や、モルヒネやヘロインの原料になるケシのように中毒性のある成分を持つ者があります。

麻薬だけでなく煙草の原料となるナス科のタバコは、ニコチンというアルカロイドを持っています。

コーヒーや紅茶、ココアは世界の三大飲料と呼ばれていて、世界中の人から愛されていますが、コーヒーはアカネ科のコーヒーノキの種子、紅茶はツバキ科のチャの葉、ココアはアオギリ科のカカオの種子から作られます。

この三大飲料にはカフェインが共通して含まれています。

カフェインはアルカロイドという毒性物質の一種で、もともとは植物が昆虫や動物の食害を防ぐための危機物質であると考えられています。

このカフェインの科学構造は、ニコチンやモルヒネとよく似ていて、神経を興奮させる作用があります。

トウガラシには、カプサイシンという辛み成分が入っており、もともとは動物の食害を防ぐものです。

ところが、人間が唐辛子を食べるとカプサイシンが内臓の神経に働きかけ、アドレナリンの分泌を促して血行が良くなるという効果があります。

人間の味覚は、生きていく上で、苦みを毒を識別し、酸味は腐ったものを識別し、甘味は果実の熟度を識別する者ですが、舌には辛みを感じる部分がありません。

辛みとは「痛み」であり、私たちの身体は痛みのもととなる唐辛子を早く消化・分解しようと胃腸を活性化させ食欲が増進するようになっています。

そして、カプサイシンを無毒化して排出しようと身体の中の様々な機能が活性化し、血液の流れが速まり発汗もします。

そして、カプサイシンによって身体に異常をきしたと感じた脳がついにはエンドルフィンまで分泌します。

エンドルフィンは脳内モルヒネと呼ばれ、麻薬のモルヒネと同じような鎮痛作用があり、疲労や痛みを和らげる役割を果たしています。

つまり、カプサイシンによる痛覚の刺激を受けた脳波、身体が苦痛を感じて正常な状態にないと判断し、痛みを和らげるためにエンドルフィンを分泌します。

それが、結果的に陶酔感を覚え忘れられないかんかんになります。

トウガラシは不思議な果実で、植物の果実が赤くなるのは、鳥を呼び寄せて、果実を食べさせ、鳥に種子を運んでもらうためです。

そのため、未熟な果実は緑色で苦い味がするのに対して、熟した果実は赤くなります。

しかし、トウガラシは赤い色をしているのに甘くない。

トウガラシも食べて欲しいというサインを出しているのですが、食べてもらう相手を選り好みしているようです。

サルのような哺乳動物は、赤い唐辛子を食べることができませんが、鳥はトウガラシの辛み成分であるカプサイシンを感じる受容体がないため、辛さを感じないようです。

鳥にとっては、トウガラシもトマトやイチゴと同じように甘い果実のようです。

トウガラシは動物に対して忌避反応を起こさせ、鶏には全く感じないという絶妙な防御物質をみつけているのでした。

トウガラシの辛さはヨーロッパの人々の舌には合わないようで、トウガラシの中でも辛みの少ない品種であるピーマン、パプリカが育成されてヨーロッパに広まっていったようです。

ジャガイモでヨーロッパの肉食文化が広まった

ジャガイモの原産地は、南米アンデス山地です。

アメリカ大陸発見以降、ヨーロッパの人々が南米を訪れるようになり、16世紀にヨーロッパに持ち込まれました。

現代のヨーロッパでは、今でもドイツ料理に代表されるように、ジャガイモ料理が欠かせません。

土地がやせていて麦類しか作れなかったヨーロッパにとって、やせた土地でも育つジャガイモは救世主でした。

芋は雨期と乾期が明確な熱帯に多く見られるものです。

雨期に葉を茂らせながら貯蔵物質を地面の下の芋に蓄えて、その芋で換気を乗り越えようとしていました。

アンデス地域は標高が高く、冷涼な気候ですが、気候区分は熱帯で、雨期と乾期があります。

また、サツマイモもアメリカ大陸の熱帯性気候の中央アメリカが原産地です。

日本人にもなじみの深いサトイモやコンニャクイモは東南アジアの原産ですし、山芋は中国南部の原産です。

タピオカの原料としても有名なキャッサバも熱帯性気候の中南米の原産です。

一方、ヨーロッパの農耕地帯の地中海接気候では、冬に雨が降り、夏に乾燥します。

そのため、植物は雨の降る冬の間に育成する者が多くなります。

地中海沿岸地域の主要な作物であるコムギも、秋に種子をまく冬作物です。

そして、ダイコンやカブにみられるように、茎を伸ばさず地面の近くに葉だけを広げて、光合成をおこない、地面の下に貯蔵物質を蓄える根菜類が広まっていきました。

そのため、ヨーロッパの人々は大根のような根菜類は知っていましたがジャガイモのような芋類はみたことがありませんでした。

ジャガイモの芽や緑色に変色した部分はソラニンという毒を含む有毒植物で、致死量はわずか400ミリグラムです。

ジャガイモはナス科の植物ですが、ナス科の植物には、ヒヨス、ベラドンナマンドレイクなど有毒なものが多く、日本では厳格で鬼を見ることから鬼見草の別名を持つハシリドコロもナス科です。

チョウセンアサガオホオズキも有毒植物です。

ジャガイモはそのごつごつとした醜い姿から食べるとハンセン病になるというデマや「聖書に書かれていない植物」として「悪魔の植物」のレッテルを張られました。

ところが、大凶作に苦しんだ時代にイギリスのエリザベス一斉このジャガイモを普及させるための挑戦が始まりました。

この時、ジャガイモを知らないシェフたちが、ジャガイモの葉や茎を遣って料理を作ったため、エリザベス1世はソラニン中毒になってしまいました。

そんなこんなで、ドイツでも飢饉を乗り越えることは大きな課題でプロイセン王国のフリードリッヒ二世は、ジャガイモの普及に取り込み、結局半強制的にジャガイモの栽培をやらせて、反抗する者には鼻と耳をそぎ落とす刑罰を与えたそうです。

結果としてドイツには早い時期からジャガイモが普及するようになりました。

ジャガイモは単に人間の食料となるだけはありません。

ジャガイモは保存がきき、冬の間も食糧とすることができます。

そして、豊富に取れたジャガイモを家畜のえさにすることも出来ました。

残念ながら牛はジャガイモを食べることができませんが、豚がジャガイモを食べることができ、こうして、豚のベーコンやハム、ソーセージもまた、ジャガイモとともにドイツの食卓を彩ることになりました。

ヨーロッパは牧畜文化圏ではありますが、安易に肉食を行うような余裕はなく、冬の間のエサがなければたくさんの豚を飼うことはできないため、わずからな豚の塩漬けにするくらいしか肉を食べる方法がありませんでした。

ジャガイモの普及によりたくさんの豚を一年中飼育可能になり、ライムギ、コムギを牛のエサに回すことが可能になりました。

そして、ジャガイモは、それまで穀物を食べていたヨーロッパに肉食を広めていく要因になっていったわけです。

ジャガイモは小麦が育たないような冷寒な気候や、やせた土地でも、たくさん芋を取ることができますし、畑が戦場となってコムギが全滅することがあっても、土の中のジャガイモはいくらかの収量を得ることができます。

人々は飢えから救われ、食糧供給が安定したヨーロッパの国々では人口が増加していきました。

ジャガイモの不作でアメリカ合衆国が覇権国に上り詰める 1940年代に、アイルランドでは突如としてジャガイモの疫病外流行として不作になりました。

この頃には、アイルランドの食料はジャガイモに完全に依存していたため、100万人にも及ぶ人々が餓死する大飢饉となったこともあります。

ジャガイモは栄養繁殖系の作物なので、芋をどんどん増やすことができるので、アイルランドではつい一つの品種のみで栽培していました。

ところが一つの品種しかないということは、その品種がある病気に弱ければ国中のジャガイモがその病気に弱いということになります。

当時、すでに農薬は開発されていましたが、それはワイン用のブドウのために開発されており、新しい作物であるジャガイモの疫病には、それらの農薬は全く効果がありませんでした。

この時、イギリスに救援を求めましたが、当時のイギリスはアイルランドを属国のようにみなしていたので、イギリスのアイルランドの対応を目の当たりにした人々は、イギリスに対して不信感を抱くようになり、アイルランド独立運動へと繋がっていきました。

さらに、大飢饉によって食糧を失った人々は、故郷を捨てて、新天地のアメリカを目指さざるえませんでした。

その数は400万人にも及ぶとされています。

19世紀中ごろ~後半のアメリカは西部開拓が終わり、いよいよ本格的な工業化が始まろうとしている時期でした。

そして、このとき移住した大勢のアイルランド人たちが大量の労働者として、アメリカ合衆国の工業化や近代化を支えアメリカ合衆国はイギリスを追い越して世界一の工業国へと発展を遂げていきました。

このアメリカに移住したアイルランド人の成功者の中には、JFケネディ大統領の曽祖父に当たるパトリック・ケネディがいました。

ジャガイモの不作により歴史が動いたといっても過言ではないでしょう。

トマト

トマトも、ジャガイモと同じく、アンデス山脈周辺を原産地とする作物です。

さらに、トマトとジャガイモはどちらもナス科の植物で、トウガラシ、タバコなどナス科の植物はアメリカ大陸を原産地とするものが多いです。

トマトは長い時代嫌われ者で18世紀になってから200年の時代を経て食料となりました。

ヨーロッパではそれまでトマトは毒のある植物と考えられました。

先述した通り、ナス科の植物は有毒植物が多いからですね。実際の所とも智毒があるのは茎や葉だけで、赤い実に毒はありません。

しかし、トマト特有の青臭さのようなものは残りますので、その青臭さも嫌われる原因でした。

トマトは、リコピンによる色素で、ほど異常に「真っ赤」な植物でありますが、ヨーロッパの人々は、それまで真っ赤な果実をみたことがなかったため、鮮やかすぎる赤色を「毒々しい」と感じたようです。

トマトを食用としたのはイタリアのナポリ王国です。

スペインがアメリカ大陸から珍しい植物であるトマトを持ち帰った時、イタリアという国は成立しておらず、ナポリ王国はスペイン領でした。

一説によると飢饉が起こり、背に腹は代えられずにトマトを食べたのが始まりだとされています。

ナポリでトマトソースが用いられるようになったとき、トマトは高級な食材ではなかったでしょう。

ナポリのスパゲティがいつ頃から食べられていたのかは明らかではないですが、17世紀末には既に存在していたといわれています。

ナポリはピザの発祥の地としても知られています。

ピザももともとは貧しい人々が小麦粉で作らせた生地にトマトをのせて食べていたことに由来します。

18世紀頃、ピザもまた、屋台で売られるような食べ物でした。

トマトソースはナポリでしか食べることができなかったため、トマトソースを使った料理はナポレターナと呼ばれていました。

ヨーロッパで食用になりつつ、アジアでケチャップの味を覚えたヨーロッパ人たちは、やがてさまざまな魚介類やキノコ類果物を使ってケチャップの味を再現した結果トマトケチャップが誕生しました。

ケチャップとは元をたどれば古代中国で作られたケツイアプという魚醤だったといわれています。

これが東南アジアに伝えられてケチャップと呼ばれるようになりました。

トマトは、主食であるトウモロコシ、コムギ、イネ、ジャガイモ、ダイズに次いで世界で栽培されている作物では6位です。

トマトは主食ではないので現在では大量に栽培されている作物でした。

トマトはうまみ成分があり、加熱しても旨味を失わないため、さまざまな料理に味付けの調味料として用いられています。

トマトの多くはデザートにして食べるというよりも、料理の食材として加熱調理されるのが主です。

ちなみにトマトが野菜か果物かは現在でも国によりことなり、日本語の「果物」は「木の物」という言葉に由来します。

つまり、果物は気になる実です。

トマトはリンゴやカキのようにきになることはないので、果物ではありません。

日本の農林水産省では、木本世性の植物を果物とし、草本性の植物を野菜と言いますのでトマトは野菜に分類されます。

トマトだけではなく、フルーツとして食べられるイチゴやメロンも木になる果実ではないので日本では野菜となります。

人類最初の衣服も植物「ワタ」

現代、私たちの衣服の原料となる化学繊維は、地下資源の石油から作られています。

もし、石油がなかったとしたら、私たちはやはり植物を頼ることになります。

昔は、ありとあらゆる衣服を植物から作り出し日本ではそれらの植物は「麻」と呼んでいました。

アサ科の大麻アオイ科のぼう麻や黄麻、イラクサ科の苧麻(ちょま)、アマ科の亜麻などさまざまな植物が戦意を取る原料となりました。

更に、雨合羽は稲わらやススキを編んで作っていましたし、雨傘はカサスゲという管の葉を編んで作っていました。

畳表はイグサという植物から作っていました。

高級なものでは絹があります。

絹は、昆虫のカイコがまゆを作るために吐き出す意図です。

しかし、カイコを飼うためにはエサとなるクワを育てなければなりません。

そのため、昔はクワ畑が各地で広がっていました。

そして、ワタも繊維の原料です。

他の繊維植物は、茎を直立するために固くなった植物繊維が原料となっていますがワタは実から採取されます。

ワタの実は種子を守るために、柔らかな繊維で趣旨をくるんでいます。

このやわらかな繊維が「ワタ」となります。

植物が豊富にない寒冷な草原地帯では、植物ではなく動物から衣服を作っていました。

原始人たちは動物の毛皮をまとい、やがて、軽くて保温性に優れた動物の毛や、鳥の羽毛を利用するようになりました。

中でも優れた衣類を提供してくれたのが、ヒツジでした。

ヒツジやヤギは、人類が農耕を始めるはるか以前から家畜化されていたと考えられています。

ヤギは肉や乳、川を得るために重要な家畜でした。

しかし、羊にはヤギにはない者があります。それが羊毛です。

野生のヒツジは、季節の変わり目に大量に毛が抜けます。

もともと、この毛が利用されていたと考えられています。

そして、ヒツジは貴重な羊毛を得るための家畜として飼育されました。

やがて時代は下って中世ヨーロッパの人々は、世にも不思議で珍しい植物に出会うことになります。

それが「ワタ」です。

ワタは植物学的には大きく4つの種類に分けられますが、そのうちの2種がインドの原産です。

古代インダス文明以降、ワタの綿織物業は、インドの主要な産業でした。

中世ヨーロッパに綿織物が紹介されると、肌触りがよく、ふかふかして暖かい、軽くて着心地が良い、それが植物から取れるとなるとすぐに魅了されました。

現代の工業化社会は、18世紀のイギリスでの産業革命に始まると言われています。

この産業革命のきっかけとなった植物の一つが「ワタ」です。

ヨーロッパに紹介されたワタは、やがて17世紀になって、イギリス東インド会社がインド貿易を始めると、品質の良いインドの綿布がイギリスで大流行するようになります。

そして、イギリスの毛織物産業は打撃を受けてしまいます。

そこで、イギリス政府は、インドからの綿布の輸入を禁止することにしました。

しかし、綿布の人気は高まる一方でした。

そこで、イギリスは材料のワタの実をインドから輸入し、綿布の国内生産に勤めるようになりました。

そして、工場制手工業によってワタ織物が作られるようになったわけです。

しかし、綿布の人気は収まらず作っても作っても足りない状況でした。

そこで「飛び杼(とびひ)」というシンプルな道具の発明が事の始まりとなります。

布を織るためには緯糸(よこいと)をとおさなければなりません。

布が大きくなれば、緯糸を通すことが難しくなるし、助手が必要になる作業です。

ところが、飛び杼は、車輪のようなローラーがついていて、素早く緯糸を通すことができます。

こうして、布を織る作業が劇的に効率化しました。

しかし、布を織る作業が効率化すると、今度は糸をつむぐ作業が間に合わない。やがて糸をつむぐ紡績機が発明され作業が効率化しました。

そして、生産工場は大規模化し作業は分業化され、向上はどんどん大きくなっていきました。

18世紀後半になると、安価な綿織物を求める社会に隠せ員的な出来事が起こります。

石炭を利用した蒸気機関の出現により、作業が機械化され、大工場での大量生産が可能になったのです。

これが「産業革命」です。

産業革命によって安価な綿織物が清算されるようになると、伝統的なインドの織物業が壊滅的な打撃を受けるようになりました。

産業革命で大量の綿布の清算が可能になると、材料となる大量の綿花が必要となります。

とはいえ、暖かい地方が原産のワタは、寒冷なヨーロッパでは生産することはできません。

19世紀には、もはやインドだけでは足りなくなり、イギリスは新たな綿の供給地を必要とするのでした。

そして、新たな綿の生産地となったのがアメリカです。

アメリカでは煙草の栽培がおこなわれていましたが、嗜好品であるタバコは価格が安定しません。

それに比べると、イギリスのワタの需要はアメリカにとっても魅力的なものでした。

新天地のアメリカでは、需要にこたえる綿を栽培するのに必要な広大な土地がありました。

しかし、当時のワタの収穫は手作業で行われていたため、手間がかかります。

種子を屋若菜繊維で包み込んでいますが、実はトゲがあり、ワタの収穫はかなり重労働でした。

新天地であるアメリカには当然、十分な労働力はありません。

そこで、アフリカから多くの黒人奴隷が、アメリカに連れていかれたのです。

ワタのお陰でアメリカは経済的に豊かになりました。

そして、ワタのために多くの黒人奴隷たちが犠牲になりました。

こうして、アメリカから大量の綿花がイギリスに運ばれ、イギリスからは機会で作られた綿製品や工業製品がアフリカに運ばれました。

そして、アフリカから大量の黒人奴隷たちがアメリカに連れていかれました。

このようにして常に船に荷物を一杯にするための貿易は、三角型のルートで船が動くことから三角貿易と呼ばれました。

ワタの輸出によって、ワタの産地であったアメリカの南部は急速に経済的に発展を遂げていきました。

一方、工業が主産業であったアメリカ北部の人々はイギリスから輸入される工業製品に高い関税を掛ける保護貿易を行いたかったのですが、イギリスにワタを輸出している南部の人々は、保護貿易は困る。自由貿易を推進していく必要がありました。

こうして北部と南部の利害が対立し、ついには南北戦争起こりました。

アメリカで南北戦争が勃発すると、アメリカからのワタの輸出量が急激に減少し、北軍アメリカ南部の経済的よりどころを抑えようと湊からの輸出を封鎖しました。

しかし、意外にも南軍もまたワタの輸出制限するようになります。

ワタが輸出されなければ、イギリスが困ります。

そうしてイギリスに援助してもらうと画策したわけです。そこでそれを阻止したかったリンカーン大統領は「奴隷解放宣言」を出します。

こうして戦争の目的が奴隷解放であることを内外にアピールすることで、イギリスがアメリカ南部の支援することを難しくさせていきました。

こうした戦略が功を奏して、南北戦争北軍の勝利で終わりを告げました。

アメリカの南北戦争によるワタの不足で困ったのはイギリスだけではありません。

ロシアのような寒冷地では、ワタのようなあたたかな繊維は必需品です。

そのため、ワタの不足に困ったロシアでは、国内でのワタの栽培を行うようになります。

そして、中央アジアトルキスタン地域がワタ産地となっていきます。

現在でもトルキスタン地域に位置していたウズベキスタンは世界有数の綿花生産国です。

綿花栽培が拡大し、栽培技術が近代化されて生産量が向上すると、不足するものがありました。

ワタを栽培するための水です。

そのため、アラル海という湖から水が引かれ、広大な綿畑に水を供給するための灌漑施設が整備されました。

アラル海は世界4位の面積を誇る広大な湖です。

その面積は日本の都北地方の面積に匹敵します。

その豊富な水は、次々に乾燥地を豊かな綿畑に変えていきました。しかし、資源は無限ではありません。

アラル海の水は減少し、ついに水位が低下して、巨大だったアラル海は、20世紀の初めには大アラル海と小アラル海とに分断されていきました。

そして、その後もアラル海の水は減少をし続け、現在ではアラル海はついに消滅の危機にあるとされています。

もちろん、周囲の生態系は破壊され、多くの生物が絶滅していきました。

海での漁業に依存していた地域の人々の生活も被害を受けて、多くの地域で廃村が相次ぎました。

水が少なくなることで海の水の塩分濃度は高まり、わずかに残った海も死の海となっています。

そんな人類の生態そのものを変えるワタですが、

日本にワタが伝来したのは平安時代の初め頃だと言われています。

言い伝えによれば、日本の漂着したインド人がワタの種を伝えたとされています。

この場所が、愛知県の三河地域です。

三河地域は台地が広がり、灌漑が不順分で水が不足する地域です。

そのため、田んぼで稲作をすることができない地域でした。

そこで、古くから乾燥に強いワタの栽培がおこなわれました。

こうして作られたのが「三河木綿」です。

浜名湖西岸の静岡県遠州地域から矢作川東岸の愛知県の三河地域は、古くからワタの産地でした。

そして、ワタの栽培と共に綿織物が盛んに作られました。

豊田佐吉は母親が休む暇もなく機を織っている姿を見て、木製人力織機を発明しました。

これを元に豊田佐吉豊田自動織機を創立、これが、後に世界的な自動車メーカーとなるトヨタ自動車の始祖となります。

ワタは荒れ地でも育つ作物で、換金性が高く商品になります。

そのため、戦国時代から江戸時代になって、各地を大名が納めるようになると、各大名はこぞってワタの栽培を奨励しました。

日本にワタが伝来したのは千年以上も前ですが、実際には綿の栽培は広まらず、日本ではワタの多くを中国や朝鮮からの輸入に頼っていました。

綿織物は高級品だったわけです。

ところが、江戸時代になってワタの栽培が広まると、綿織物は庶民でも手の届くものとなります。

享保の改革を行った八代将軍、徳川吉宗は質素倹約に努め、木綿の着物を着ていたといいます。

つまり、江戸時代になると、それまで高級品だった綿織物は、質素な衣類と見なされるくらいにワタが普及していました。

江戸時代には各地でワタが栽培されましたが、特に瀬戸内海沿岸や九州の干拓地では盛んに行われました。

江戸時代には浅い海を干拓して、耕作地を拡大していきましたが、干拓地は海水による円買いが問題となります。

しかし、ワタは塩害に強い植物でした。

また、海に近い干拓地は、海運に都合がよく、綿の輸送にも便利でした。

こうして広大な土地が干拓地となり、ワタの栽培によって綿紡績が行われるようになりました。

機械産業と海運が、後に瀬戸内海地域や北九州工業地帯の礎となります。

現在でもこの地域は繊維業が発達しています。

有名な今治タオルの愛媛県今治市や、ジーンズや学生服で有名な岡山県倉敷市は、いずれも瀬戸内海地域に発達した紡績で栄えた街です。

神秘の飲み物「お茶」

秦の始皇帝が「不老不死」の効果があると信じて飲んでいた薬があります。

これは中国最古の薬とされていて、古代中国の農業の神「神農」は、身近な草木の薬効を自らの身体を生赤といいました。

そして、毒が当たるたびにこの薬草の力で何度もよみがえったといいます。

なんとすごい薬草なのかと思いきやそれが「チャ」です。

お茶は中国南部が原産の植物で、その昔固形で固められた「餅茶」と呼ばれるるものが作られました。

この塊を削って煎じて飲んでいました。

薬として飲むのであれば、煎じて飲むよりも粉末にして飲む方が良い。

これが「抹茶」でした。

日本からは中国の寺院に留学僧たちが学びに来てそして日本に持ち帰ったとされています。

しかし、明の初代皇帝、洪武帝は、貴族や富裕層の飲み物であった茶を庶民に広めるために、手間をかけて固形に固めることを禁止し、葉茶で簡単に飲むことができる「散茶」を広めました。

これによって中国では抹茶が廃れ、日本に渡って生きながらえる形となり、日本のわび・さびと結びついて「茶道」という独特の進化を遂げていきました。

緑茶と紅茶は同じチャという植物から作れます。

収穫した葉を寝かせておくと、酸化酵素の働きで酸化します。

リンゴを切ると、切り口が変色するのと同じです。

こうして赤黒く色づいた葉から作られるのが「紅茶」です。

一方、収穫した葉をすぐに加熱して、酸化酵素の働きを抑えると、変色することなく緑に保たれます。

こうして加熱した葉から作られるのが「緑茶」です。

中国では今でも緑茶が多く飲まれていますが、ヨーロッパまでの海路を運ぶために、傷みにくい紅茶が出荷されるようになったということです。

中国から運ばれてくる薬効のあるチャは、非常に高価な飲み物で、これを飲むようになったのがイギリスの貴族たちでした。

チャが広まる以前には、イギリスではアラビア半島から持ち込まれたコーヒーが飲まれていて、コーヒーハウスは男性たちの社交の場でもありました。

そのため、ティーパーティーは、コーヒーハウスに行くことのできない女性たちの間で広まったとされています。やがて、コーヒーハウスの代わりに、女性たちのためのティーガーデンが作られ、男女の出会い場となりコーヒーハウスが廃れていったそうです。 またイギリスの産業革命をワタと一緒に支えたのがチャでした。

イギリスでは、赤痢菌など水が媒介する病気の心配がありました。

そのため、農業労働者たちは、水の代わりにビールなどのアルコール類を飲んでいましたが、休みなく働く機会と共に工場で働く労働者たちは、ほろ酔いで働くわけにはいかなくなりました。

チャは抗菌成分を含むので、充分に沸騰していない水に入れても病気の蔓延を防ぐことができます。

しかも、眠気を覚まし、頭をスッキリさせてくれます。

そのため、労働効率を上げるのに最適な飲み物でした。

アヘン戦争による時代の変動

イギリスでは紅茶が普及し庶民が盛んに飲む世になっていましたが、イギリスにとってはチャは東洋から運ばれてくる神秘の飲み物でした。

大量のチャを清国(中国)から購入しなければならないですが、清国側はイギリスから銀くらいしか買うものがなくイギリスの貿易赤字は拡大する一方でしたし、金づるだったアメリカも独立してイギリスはお金に困りました。

そこで、企てたのが三角貿易です。

イギリスの産業革命によって大量に工場生産された安価な綿織物は、国内では消費しきれずに、植民地であったインドに輸出されました。

そして、ついにはインドの伝統的な織物業を壊滅させてしまいます。イギリスは主産業が壊滅したインドで麻薬の原料となるケシを栽培し、ケシから作り出した麻薬のアヘンを清国商人に売りました。

こうしてイギリスは、インドで生産したアヘンを清国に売り、自国で生産した綿製品をインドに売ることで、チャを購入することで流出した銀を回収するという三角貿易を完成させました。

もちろん、清国はこの交易に反発し、摩擦が強くなっていくと1840年、ついにイギリスと清国との間でアヘン戦争が勃発しました。

この戦争で眠れる獅子と恐れられた清国は、イギリス軍の前にあっけなく敗北。

国力を失った清国は、不平等条約の元で反植民地状態となりました。

アヘン戦争によって大国であるはずの清国が敗れると、西洋諸国のアジアの植民地化の動きが活発化し、東アジアは激動の時代に突入します。

西洋列強の軍事力を見せつけられた日本は危機感を募らせ、志士たちがついに江戸幕府を倒し、明治の文明開化から、西欧列強に王居つこうとする近代化へとつながるようになります。

現在、紅茶というダージリンやアッサムなどインド産が有名ですが、これはアヘン戦争の後、イギリスは中国に依存しすぎたチャの入手を見直す必要性を感じはじめ、植民地としていたインドでの茶の栽培を試みることにしました。

ところが、インドでは中国のチャを栽培するのには暑すぎました。

1823年、インドのアッサム地方で別の種類のチャが発見されてこれは「アッサム種」と呼ばれています。

アッサム珠はインドのような暑い気候に適応して、葉が大きいです。

熱帯のように光合成に有利な場所では小さな葉を作るよりも、大きな葉を作った方が、生産効率が高い。

また、熱帯では葉を食べる害虫も多いため、大きい葉を作らなければ食べつくされてしまう事も指摘されています。

アッサム珠は、熱帯では病害虫が多いので、抗菌作用のあるカフェインの含有量が多いです。

緑茶はアミノ酸の旨味を楽しむ飲み物ですが、紅茶はカフェインの苦みを楽しむものです。

そのため、アッサム種は、紅茶に向いていました。

こうして、イギリスは中国に頼らず紅茶を自給することに成功し、インドは世界一の紅茶の生産地となっていきました。

奴隷の歴史

サトウキビ 人類が最初に手にした甘味は蜂蜜であったと言われ紀元前2500年前には、すでに蜂蜜が食されていたと言われています。

農業が始まると穀物のデンプンが甘味の原料となります。

麦の種子から目を出した麦芽は、デンプンを分解するジアスターゼを多く含んでいます。

そのため、この麦芽をデンプンに加えるとデンプンが分解されて「糖」が作られます。

これが麦芽糖です。

昔は、この麦芽糖を調味料として利用していました。

現在、砂糖の原料として用いられている植物はサトウキビです。

サトウキビはイネ科の植物ですが、ムギと違い3メートルもの高さに成長します。

そして、熱帯の強い光の下で豊富な光合成をおこない、光合成で作った糖を茎に蓄えます。

サトウキビは、もともと東南アジア原産の熱帯性の植物でこの植物から砂糖を生成することを可能にしたのは、インド人でした。

しかし、サトウキビから作られる蔗糖(しょとう)は熱帯地域以外では極めて希少なもので、一部の王族や貴族だけが口にすることができる贅沢品でした。

農業は奴隷を必要としていませんでしたが、3メートルを超える巨大な植物であるサトウキビの収穫は牛や馬を使うことができず更に重労働でした。

しかも、サトウキビは収穫した植物から砂糖を生成するという作業も必要となります。

サトウキビは収穫した後、茎の中の砂糖を加えた部分が次第に固くなっていきます。

当時は、この茎が固くなる前の新鮮なうちにに出さなければならないと考えられていました。

そのため、収穫したサトウキビを積んで保管しておくことをしませんでした。

サトウキビはのんびりと栽培することができません。一気に収穫して一気に精製する、そのため、サトウキビを生産すると同時に精製する工場も作られました。

大量の労働力を必要とするため、次第に奴隷を必要とするようになっていきます。

しかし、サトウキビ栽培はコショウに代わる富を生み出す嗜好品です、栽培をやめるわけがありません。

南の島で自然豊かなところでは農業をしなくてもくらせるので、農業が発展しにくいのですが、スペインがアメリカ大陸でのサトウキビ栽培に成功すると、ヨーロッパ諸国もこぞってアメリカ大陸の植民地でサトウキビ栽培を行うようになります。

そして、サトウキビは中米島々で栽培されるようになりました。

ヨーロッパの人々は当初、アメリカ大陸の先住民を労働力として利用していましたが侵略や先頭によって現地の人口は減少していたり、ヨーロッパから持ち込まれた疫病によって激減していました。

サトウキビ栽培のために、そこで、アフリカの人々を必要な労働力として利用することにしたわけです。

ヨーロッパ諸国は、アメリカ大陸で栽培したサトウキビを輸入すると、その船で工業製品を植民地化していたアフリカに運びました。

そして、アフリカからアメリカ大陸に向かう船に、サトウキビ栽培のために奴隷を積んだわけです。

サトウキビの栽培は非常に過酷です。

奴隷たちはこき使われて、次々に命を落としていきました。

しかし、奴隷は消耗品なので次々とアフリカから補充の奴隷たちが運ばれてきます。

この奴隷貿易は、サトウキビ栽培だけでなく、綿花栽培など工業原料となる作物生産にも応用されて生きました。

こうして1451年から奴隷制が廃止される1865年までの間に、940万人にものぼるアフリカの人々が奴隷としてアメリカ大陸に運び込まれたわけです。

ハワイという多民族多文化社会

アメリカが占有することになったハワイでのサトウキビ栽培も労働力を必要としていましたが、当時のアメリカは南北戦争の最中でアフリカから奴隷を連れてくることができませんし奴隷制度も終わりを告げていようとした頃でした。

そこで、1850年代には中国から大量の労働者がハワイに連れてこられました。

彼らは奴隷ではなく労働者でした。

やがて賃上げと労働環境の改善を要求しました。

また、中には町を出て商売を始める者もいましたので、中国人に代わる人材として、1860年代には日本人男性を連れてきました。

日本人が賃上げを要求すると、今度はフィリピン人、当選時を連れてきたり、ポルトガル人やスペイン人などもつれてきたりしました。

やがて奴隷解放が行われたアメリカ本土から、アフリカ系のアメリカ人も仕事を求めてやってきました。

奴隷を使うことができなかったハワイでは、こうした様々な民族が移入され、競争原理を導入して賃金を安くする努力が払われました。

そして、世界でも稀にみる多民族・多文化が共生する社会が作られました。

コメの最強のパートナー「ダイズ」

ダイズは中国原産の作物で日本には縄文時代以前に伝えられたと考えられており古くから食べられてきました。

奈良時代以降に醤油や味噌などの大豆の加工技術が中国から伝えられると、日本の食事を成す基本的な作物の一つとなっていきました。

このようにダイズはアジアを中心にし栽培されてきた作物です。

ダイズの栽培は現在世界第5位です。

中国では、北部の黄河流域にはダイズやアワを中心とした畑作が発達し、南部の長江流域にはイネを中心とした水田作が発達しました。

農耕を行い、農作物を収穫すると、作物が吸収した土の中の養分は外へ持ち出されることになるため、作物を栽培し続けると土地はやせていってしまいます。

また、特定の作物を連続して栽培すると、ミネラルのバランスが崩れて、植物が出す有害物質によって植物が育ちにくい土壌環境になります。

こうして早くから農耕が始まった地域では土地が砂漠化して、文明もまた滅びゆく運命にあります。

しかし、中国の農耕を支えたイネとダイズは、自然破壊の少ない作物でした。

イネは水田で栽培すれば、山の上流から流れてきた水によって、栄養分が補給されます。

また、余分なミネラルや有害な物質は水によって洗い流されます。

そのため、連鎖障害を起こすことなく、同じ田んぼで毎年稲作を行うことができるわけです。

また、ダイズはマメ科の植物ですが、マメ科の植物はバクテリアとの共生によって、空気中の窒素を取り込むことができる特殊な能力を有しています。

そのため、窒素分のない痩せた土地でも栽培することができ、他の作物を栽培した後の畑で栽培すれば、地力を回復させ、痩せた土地を豊かにすることも可能になります。

ダイズは「畑の肉」といわれるほどタンパク質や脂質を豊富に含んでいます。

そのため、コメとダイズを組み合わせると三大栄養素である炭水化物とタンパク質と脂質がバランスよく揃います。

ダイズなどのマメ科の植物は、窒素固定という特殊な能力によって、空気中の窒素を取り込むことができます。

そのため、窒素分の少ない土地でも育つことができますが種子から芽を出すときは、まだ窒素固定することができませんそのため、窒素固定するまでの間のために、種子の中にあらかじめ窒素分であるタンパク質を蓄えているわけです。

更にダイズはコメに唯一足りてないアミノ酸のリジンを法風にすくんでいて、コメに豊富に含んでいるアミノ酸メチオニンが少ないためお互いの栄養素を補うことができます。

私たち日本人が昔から親しんできた料理はコメとダイズの組み合わせが基本ですが中々優秀な組み合わせであります。

保存がきくレトルト食品やフリーズドライ食品などはもともとは軍事目的で開発された技術を基礎としていますが歴史をさかのぼれば日本の戦国時代にも画期的な戦陣食がつくられました。

それが「味噌」です。

味噌は、もともと飛鳥時代に中国から日本に製法が伝えられましたが、戦国時代に飛躍的に発展を遂げました。発酵食品である味噌は保存が利く食品で、しかも、干したり焼いたりして味噌玉、にすれば簡単に携帯することができます。

そして、お湯に溶けば簡単に味噌汁にできますし、野菜を積んで具にすれば栄養を補給することができました。

中には味噌玉と一緒に干し葉を入れて干し固めて、現在のインスタントみそ汁のようなものもあったといいます。

さらに、ダイズから作られる味噌は、ストレス軽減に働き「幸せホルモン」と呼ばれている神経物質セロトニンのもととなるトリプトファンを豊富に含んでいるので気持ちが前向きになり士気が高まります。

さらに、味噌には、脳の機能を活性化させるレシチンが含まれており、迅速で冷静な判断ができる。

また、疲労回復や免疫機能強化に効果のあるアルギニンなども含まれており、丈夫な体を維持します。

現在でも名古屋と言えば、味噌カツ味噌煮込みうどんなど、味噌文化で知られています。

豆味噌はもともと愛知県西部の尾張の国ではなく、家康の故郷である愛知県東部の三河の国の特産品です。

もともと味噌は大豆の実を原料として作られました。

ところが、その後、技術が発達すると、発行を早めて味噌づくりの期間を短縮するために、コメや麦の麹が味噌に加えられるようになりました。

また、あじをまろやかにするために、豆を蒸して作る赤みそから、豆を茹でて作る白みそが創り出されました。

ところが、三河地域では昔ながらの豆味噌が作られていました。

三河地域は水の便が悪い台地状の地形が多く、水田を拓くことができませんでした。

さらに、土地がやせているため、作物の栽培が困難な地域が多かった。

そのため、痩せた土地でも育つことができるダイズが盛んに栽培されたわけです。

そして、このダイズを利用して豆の実を使った豆味噌が作られ続けました。

他にも武田信玄の信州味噌、伊達政宗の仙台味噌も軍事用として作られています。

やがてペリー艦隊がダイズを持ち帰った記録もありますが、ダイズを食べるためには、豆腐や納豆、味噌など発酵食品を作らなければならなかったので当時は普及しませんでしたが、世界恐慌によって油の受容は低下し、トウモロコシの油は供給過剰によって価格が暴落。

その一方、安価なダイズの油は少しずつ需要が拡大していきました。

トウモロコシの供給過剰を抑えるために生産調整が行われる中で、トウモロコシの畑の中には、規制のないダイズが植えられていきました。

その後1930年代には干ばつが続き、トウモロコシは大打撃を受けましたが、やせた土地で育つダイズはその影響がありませんでした。

こうして、東アジアの作物であったダイズは、アメリカ全土で植えられていったわけです。

今やアメリカは世界最大の大豆生産国となりました。

ただし、アメリカではダイズは食用にせず、ほとんどが家畜の餌として利用されています。

ところで現代の日本はアメリカの農業政策によって日本国内のダイズ生産が縮小されていったせいで、ほとんど輸入に頼っていました。

自給率がほぼゼロでしたが、ダイズの自給率は10%に回復したそうです。

タマネギ

紀元前のエジプト王朝時代に描かれたレリーフには、ピラミッドを作る労働者たちが、腰にタマネギをぶら下げいる様子が描かれているくらい歴史が古いです。

タマネギは疲労回復や病気を防ぐという薬効があります。

古代エジプトで重要な作物であったタマネギですが、タマネギの原産地は中央アジアです。

玉ねぎは紀元前5000年ころから栽培されていて、エジプトで栽培されるほど世界に広まっていました。

タマネギが古くから各地に広まっていた理由としては保存しやすいという特徴があります。

また、玉ねぎは乾燥に強く遠くまで運ぶことができます。

さらに、タマネギの食べる部分は球根です。

そのため、タマネギを植え付ければそのまま栽培してタマネギを増やすことができます。

玉ねぎは収穫した後、軒先などにつるして保存できます。

タマネギは乾燥に強く湿気に弱いので乾燥させておいた方が長持ちがします。

乾燥地帯に起源を持つタマネギは、害虫や病原菌から身を守るために、様々な物質をみにつけた植物です。

タマネギを盾に反切りすると、一番下の基部の所にわずかに芯があります。

これがタマネギの茎でこの茎から重なり合っているのが葉です。

タマネギは乾燥地帯で生き抜くために、この葉の部分を太らせていよう分を蓄えています。

タマネギと同じ仲間の作物にはネギやニンニクなどがあります。

これらもタマネギと同じ抗菌物質を持っているので、昔から魔除けに用いられてきました。

日本では江戸時代、オランダ船から長崎へ伝えられましたが、防腐効果があり、保存が利くタマネギは、長い航海の食料として適していましたが、日本ではネギ類が豊富に栽培されていたため食用としては普及せず、花の観賞用として栽培されていました。

明治時代になってさまざまな西洋野菜が導入されてからタマネギは日本で食用になりました

脅威の作物:トウモロコシ

トウモロコシには明確な祖先種である野生植物がなく、謎に満ちています。

米原産の作物でイネ科の植物とは言われていますがずいぶんと変わっています。

一般的な植物は、一つの花の中に雄しべと雌しべがある両性花ですがトウモロコシは茎の先端に雄花が咲き、茎の中ほどに雌花ができます。

雌花も、絹糸という長い糸を大量に伸ばします。この絹糸で花粉をキャッチしようとします。

この雌花の部分が私達が食べるトウモロコシになる部分で皮をむくと中から黄色いトウモロコシの粒が現れます。

これが種子です。

トウモロコシは散布しなければならない種子を皮につつんでいます。

皮に包まれていては種子を落とすことはできません。

さらに、黄色い粒をむき出しにしても落ちることはありません。種子を落とすことができなければ、植物を残すことができません。

トウモロコシは人間の助けなしでは育つことができない家畜のような植物なのです。

始めから作物として食べられるために作られたかのようにできているトウモロコシは、植物学者たちの間で「怪物」と呼ばれています。

「トウモロコシは珍しい植物だ。穀粒が、花のついた場所とは全く違う所に出来る珍しい植物だ。これは自然の法則に反する」と評しています。

トウモロコシの起源地とされている中米に存在したのが、アステカ文明マヤ文明です。

マヤの伝説では。神々がトウモロコシを練って人間を想像したと言われています。

人間がトウモロコシを創り出したのではなく、人間の方が後なのです。

アメリカ大陸の先住民の食料として広く栽培されていたトウモロコシは、コロンブスの最初の航海によってヨーロッパの人々に持ち込まれたとされていますが、ヨーロッパに紹介された後も、トウモロコシがヨーロッパの人々に受け入れられることはありませんでした。

神が世界を想像したと信じるヨーロッパの人々にとって、自然の摂理に反するものは信じがたく、トウモロコシは珍しい植物として観賞用に栽培されるだけで、食糧となることはありませんでした。

日本にもイネがあったから、トウモロコシの栽培は大々的には行われませんでしたが、水田を拓くことができない山間地では、トウモロコシは食料として広まっていきました。

現在でも、山間地では、もちもちした食感のトウモロコシを栽培していることがあります。

またトウモロコシは「唐もろこし」という意味で中国から来た「もろこし」という意味があります。

世界で最も作られているトウモロコシ

トウモロコシと言えば、焼きトウモロコシやサラダ、スープなどが思いつくでしょう。世界で、トウモロコシがコムギやイネ以上に食べられているようにはイメージがつきにくいでしょう。

日本人にとっては、トウモロコシというと、野菜として食べられるスイートコーンがなじみ深いが、スイートコーンは糖分がデンプンに変化しない突然変異が起こった特殊なもので、世界のトウモロコシの中では珍しい種類になります。

正常であれば糖分がデンプンに変化するため、一般には野菜としてよりも穀物として扱われています。

アメリカの先住民や移民の間で重要な食料であったトウモロコシは、やがて硬い土を耕す「鋤け(すけ)」の発明や蒸気機関の登場による機械化によって、大規模生産が行われるようになりました。

しかし、穀物として人間に食べられるトウモロコシも、実は少数派です。

今やトウモロコシは単なる食糧ではありません。

トウモロコシは栄養価が高いので、世界のトウモロコシの多くは、家畜の餌として用いられます。

ほかにも加工食品として用いられるコーン油、コーンスターチもトウモロコシを原料としています。

かまぶこやビールにもトウモロコシが入っています。

更にトウモロコシのデンプンから「果糖ブドウ糖液糖」という甘味料が作られます。

そのため、チューインガム、スナック菓子、栄養ドリンク、コーラなど、さまざまな食品に入っていて、知らず知らずのうちにトウモロコシを食べていることになります。

ダイエットのために、お菓子やドリンク類を控えているという人は、もしかすると糖類を抑えた特定保健用食品や脂肪の吸収を抑える飲み物を利用している人もいるかもしれません。

これらの商品には「難消化性デキストリン」という成分が入っていてこれもトウモロコシに由来して作られたものです。

私たちの身体は一説によると、人間の身体のおよそ半分はトウモロコシから作られているのではないかとまで言われています。

食品だけはなく、現在では工業用アルコールもトウモロコシから作られており、段ボールなどさまざまな資材もトウモロコシから作られています。

最近では、限りある化石資源である石油に代替するものとして、トウモロコシから燃料であるバイオエタノールも作られています。

21世紀の現代、私たちの科学文明は、トウモロコシ無しには成立しません。

もしかすると、どんなに科学技術を誇っても、私たちの文明もマヤの文明と本質的にあまり変わっていないのかもしれません。

人間はトウモロコシを栽培し、利用していると思っているかもしれませんが、トウモロコシからしてみれば、今や人間の手によって世界中で栽培されているわけです。

終わりに

気候とその土地で生産できる食べ物はいかに世界に影響を与えるか、非常に興味深い内容かなと思います。

一応これ二本立てにして、

次回は「異世界なろう」の「ナーロッパ」を本格的に攻略するために「ヨーロッパ人の思想」というのをやりたいと思ってます。

 

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