今回は、久々に経済学というか、誰がどのように日本を操作して、
今に至るのか。
それには、やはり起源となる「歴史」を知らなければなりません。
では、戦後の1945年のGHQへタイムスリップと、いいたいところですが、
実は、日本の経営システムの革命期は1930年で大東亜戦争基準に言うと「戦前」ともいえますが、「戦中」です。
んで、この記事読むと、中学時代にならった「現代社会」の単語だったり、皆様になじみのある単語がチラホラ出てくるんですよ。
よくSFとかで狂っている社会に抗う主人公の物語形式がありますけど、それに非常に近い日本の多数派常識の民族性が伺えると内容となっております。
自由市場経済で日本は経済復興を果たしたという「嘘」
近代日本の歴史の中で、経済・社会・政治システムに根本的な変化が起こったのは2度と言われています。
19世紀末の明治時代と20世紀太平洋戦争の時代です。どちらも危機が変化の引き金となりました。
戦後の奇跡的な高度成長の場合は量的な変化で会って、それ以前に確立されていた経済的、政治的機構には変化がありません。
1920年代
信じられないかもしれませんが、当時の日本経済は、激しい競争、情け容赦ない首切り、大企業同士の買収合戦、なきに等しい官僚統制、高い配当を求める強力な株主、銀行ではなく市場からの資本調達と、何から何まで実はアメリカ経済そっくりでした。
日本型資本主義は、そもそも戦前には存在すらしていませんでした。
歴史は、どこの国でも危機がなければ根底から変化したりはしないと教えてくれます。
1929年のニューヨーク証券取引所の株価暴落の余波は国境を超えて波及しました。
世界恐慌です。
全世界で、追い詰められた銀行が融資を引き揚げ、企業部門の大半が破産し、需要が冷え込み、デフレと莫大な失業者をもたらしました。
国民所得が縮小し全世界に貧困が拡がりました。この貧窮の度合いは、いまとなっては想像しにくいですが、飢餓が蔓延し、子供を売春婦として売り飛ばすという自体がアメリカ、ドイツ、日本で起こりました。
この時、自由市場を放置したら経済に飛んでもない厄災が起こる可能性があるのは明らかでした。
日本は戦後に生まれ変わったのではない
1930年代はじめに日本の軍部がおこなった全国調査では、栄養不良や病気、厄災による障害などで軍務に適さない青年の割合が大きくなっていきました。一方、資本家はぬくぬくと暮らし、共産主義革命に対する不安を募らせていました。
日本のエリートはなんとか手を打たなければ軍事力にも労働力にも深刻な支障が出ると感じました。
大恐慌の原因を充分に理解したとは言えなくても、どうも現行の資本主義システムそのものに欠陥があると当時は判断した為政者が多かったそうです。
日本経済はエネルギー、とくに石炭と石油の輸入に決定的に依存しておりましたがアメリカは保護主義の色合いを強め、日本の輸出品を締め出そうとし、そのうえ、日本がアジアにも靖植民地的野心への批判を強めていきました。
日本の指導者は、第一次世界大戦中に貿易封鎖で原材料と食糧の輸入を阻まれて困窮したドイツの状況を綿密に研究しました。
その結果、白人からの輸入に頼っている限り、日本は自由に離れないと考えました。
それには、強迫に屈しない力と自由を身につけなければならない、強力な自給自足経済を求めました。
戦時経済の指導者は大企業の創出を促しました。
彼らは大企業の利害関係者(経営者、株主、従業員)のうち、高度成長を目指す為政者の目標に真っ向からぶつかるのが株主であることに気が付きました。
株主は配当引き上げだけを目的に企業を絞り上げることが多く、資金が流出すれば企業には再投資する資本がなくなります。そのため、経営者は長期的利益と企業存続を目的とした行動がとれなくなり、一方大株主は乱暴な投機に走り、株価を釣りあげて売却してキャピタル・ゲイン(差引額)を得たりするから株式市場はインチキ賭博場も同然になってしまいます。
企業は利潤を貯蓄に回して再投資するか、株式に配当として支払うか決断しなければなりませんが、配当が少ないほど再投資額は増えるし、企業の成長は早まります。
そこで株主は排除され、経営者の地位が引き上げられ、企業組合や年功賃金、終身雇用を通じて従業員の動機づけがおこなわれました。
強い力を得るためには日本経済の成長、成長を促進するためには西洋率を可能な限り高め、全ての資源を動員して失業という無駄をなくす必要がりました。
アダムスミスのいう「見えざる手」は待ってられません。
1937年、中国での紛争が激化して全面戦争に突入したとき、軍部は非常事態法を隠れ蓑に大規模な変革を押し通し、革新官僚には政府の強力な介入を許す「準戦時経済体制」を確立する権限が与えられました。
こうして改造された新しい制度的仕組みは、経営者と従業員が手を携え、短期的利益ではなく産出高増大を目指して働くよう誘導することを目的にしました。
そして、可能な限りの高度成長という目標に向かって誰もが邁進するようにインセンティブを与える制度的枠組みを作りました。
投資が増えれば増えるほど経済成長率は高まるし、国民所得は増大します。
1943年頃、十月に会社法が改正、新しい軍需会社法が成立、これによって企業経営に対する株主の影響力は消滅し、各企業の生産責任者としての権限を持つ経営者一名が任命されることとなりました。
この経営者は、質量両面の目標達成のために必要と思う方法で企業を運営する権限を与えられました。
株主はこの経営責任者を罷免できませんし、経営責任者は株主の許可を取る必要がなくなりました。
1944年三月、年間配当は5%まで落ち込み、利益の配分や資金調達、経営者任命について残っていた株主の影響力は完全に消えました。
株主は配当による固定収入はあれど、力のない株主になり下がりました。
経営者は大きな権限を与えられましたが、経営者自身があまりに多額の賞与を獲得するのも避けなければならず、そこで経営者と従業員は勤続年数に応じた報酬を受け取ることになりました。
会社が急激に発展していれば、あまり能力がない経営者も昇進できます。
そのかわり、従業員も経営者も企業に忠誠を誓わなければなりません。
彼らは事実上、離職することはできないようになりました。
経営者と従業員のための画期的な福祉制度も導入されました。
1938年、国民健康保険法と翌年の職員健康保険法によって、事実上、被雇用者の健康保険制度が整いました。
1942年、44年改正の労働者年金保険法成立で、はじめて老齢、障害、遺族に対する年金の支払いが義務付けられました。
株式のもちあいによって、配当を優先させたがる株主の圧力から解き放たれた経営者は、利益を株主に支払わずに再投資しました。おかげで企業は大きくなり市場シェアが拡大しました。
当時は戦時中でもあり、購買力の多くがますます軍事産業の製造業者に与えれていて、限られた資源がそこに集中するにつれて、個人が消費する商品もサービスも減少していきました。
消費者が1920年代と同じようにお金を使おうと思えば、軍事産業と競うことになり、物価が上昇してしまいます。インフレにより、国民の不満が高まり、戦時体制に動員ができなくなる恐れがありました。
その解決策として、貯蓄が奨励され、国民の購買力を抑えることにしました。
1937年あたりから全国貯蓄奨励運動が始まり、マスコミが動員され、消費は悪で貯蓄は善というメッセージがばらまかれました。
貯蓄奨励委員会や貯蓄組合が全国の役所や民間企業、一般労働者や隣組などに次々生まれ、国民貯蓄奨励委員会は日本銀行内に作られました。
株式市場を基盤とする金融システムでは、預金者に株式や債券を買わせなければなりませんが、貯蓄手段としてはリスクを伴いますし慎重な研究が必要となりますので、戦時中の国民が多額の貯蓄を債権や株式に投じることは出来ません。
そこで、銀行を基盤とする経済システムなら、当局は貯蓄を補償すればよく、銀行が倒産するようなことがあっても、中央銀行が貯蓄を肩代わりすることができます。
預金者は低い見返りで我慢する形となりますが安全度は高くなります。
こうして、貯蓄のほとんどは国債や郵便貯金や銀行預金の形をとりました。
民間部門の貯蓄は20年代には国民総生産の9.1%でしかなかったのが、41年から45年の間に45.8%に跳ね上がりました
こうして消費が抑制され、家計部門の富は企業部門へと移されていきました。
1937年から1945年までの変革で、企業の機能は様変わりしました。
「滅私奉公」というスローガンのもと、新経済体制は、企業を利益追求の民間事業から、利益ではなく成長を目標とする半官の事業に見事に変容させました。
すごいぞ、カミカゼ企業戦士!日本の戦後経済体制は、戦時経済体制そのもの
1945年に日本が降伏する頃には、戦後経済構造に不可欠な要素の全てがすでに確立されており、日本は20年代の自由市場資本主義から、統制された戦後の「日本型」資本主義へと移行したのでした。
このシステムは驚くほど一貫していて論理的に整合性があり極めて効率的でした。
全体がまとまって実行されたからこそ、諸外国の自由市場システムを徹底的に打ち負かし、戦時中の急成長だけでなく、戦後日本の「奇跡の経済成長」まで実現することができたのでした。
こうした戦時日本経済の改革が高度成長へ向かわせる誘因となっていなったわけです。
GHQは、財閥解体、農地改革、労働の民主化という大改革をし、この戦時経済システムは崩壊し、一見、アメリカ占領軍は公式目標を達成したかに見えますが、
戦争直後、アメリカは占領によって日本を改革したことを世界に示そうと躍起でしたが、実際には冷戦の始まりと共にアメリカは日本の戦時体制を維持し、戦争中のエリートに権力を握らせようと決めていました。
冷戦の激化により、アメリカは日本経済を強化せよと主張する流れができ、ニューヨークとワシントンの関係者は結局、1930年代の戦時経済体制の立案者と同じ結論に達しました。政府の「見える手」を使って成長を加速させるべきだ、というのであります。
公式声明こそありませんでしたが、GHQは積極的に戦時の総動員体制の継続、強化を図っていったのです。
ドイツの戦時経済担当相アルベルト・シュペーアは戦争犯罪人としてシュパンダウ刑務所で朽ち果てましたが、戦時下の日本で同じ地位にあった者は首相になり、弟とともに12年も重要な時期の二本を支配してきました。
つまり1950年代~1970年代はじめにかけては、戦時中のエリート官僚たちが依然として日本を支配し、資源の迅速な動員のために作られた戦時「総力戦経済体制」を完成に導きました。
日本の強化が得策だと考えていたアメリカはこれを許しています。
利益ではなく成長を目標とするように企業構造が作られていれば、経営者は市場シェアを巡って争います
どの業種でも、生産の合理化と規模の経済教授のために大幅に集中が進みましたが、経営者が勝利に安住しないよう、つねに競争がなくならない程度の数の企業が残るように立案者たちは配慮していました。
日本には真の労働組合(産業別労働組合)は少ないので、他企業の同じ労働者仲間と共有する運命よりも社内の結びつきの方が大切にされます。
したがって、鋼鉄労働者は団結せずに互いに争い、経営者も争います。ランクの高い企業に属していれば幅も利くし、所得や年金、それに社宅や健康保険、レクリエーションなどの物質的な面でも恵まれます。
経営者同士のランキング争いと同じで、戦時システムが働く結果、企業は利益だではなくランキングをめぐって争うようになります。そして、企業のランキングはシェアによって決まります。
市場シェアが目標であれば、企業は競争で価格を引き下げ、どの企業も利益をあげられなくなるまで血みどろの戦いとダンピング競争を繰り広げます。
アメリカ流の資本主義なら目標は利益にあり、市場シェアは高い利益という究極目標の手段にすぎません。
企業同士の争いでも利益が動機なら競争には限度があります。
競争者同士の利益率がゼロに近づけば、企業は価格引き下げを中止するでしょう。
その段階の利益で満足し、共存します。
しかし、日本のカミカゼ企業戦士はそうではありません。
全社的な構造が利益の最大化を目的としてませんので、利益が下がるどころか損失を出しても容赦のない闘いは終わりません。
国内の市場シェアをめぐる熾烈な競争は、カルテル結成によって抑え込む必要がありました。だからといって、競争がなくなったわけではなく、企業は国内ではカルテル内部のランキングを争い続けました。
戦後日本の世界市場制覇にあたって、先兵となったのは、戦時下の総動員経済体制だったわけです。
会社での朝礼、新入社員用の新兵訓練所、軍隊のような規律と上司への服従といった形で、日常は厳しく管理され続けました。
「撃ちして止まむ」という兵士の究極目標も、戦後の企業戦士に受け継がれました。
日本特有の「社畜」の完成です。
「過労死」という言葉がこの時出来上がりました。
消費者も家計も消費を差し控えて貯蓄にまわすことが奨励され、企業は優先部門に投資する資金を与えらえました。
しかし、企業は製品を売らねばなりません。
国民の貯蓄率の高さを考えれば、市場は海外に求めなければなりませんでした。
そこで、軍需工場にかわって輸出向け製造業者が優先産業となりました。
経営者は指揮官、労働者とサラリーマンは企業の戦士で、大蔵省、通産省、そして日銀の官僚は参謀です。全員が一丸となって、世界を相手の経済戦争に突入しました。
輸出は射撃であり、世界市場に命中して、しばしば失業増大という深い傷を海外に残しました。
輸入は味方の損害ですので、最小限に抑えなければなりません。
輸入には 品目ごとに許可が必要で、輸入許可が出るのは輸出業者のような優先産業の製造業者だけでした。
このシステムは自動車の輸入に極端な、実質的には全面的輸入禁止いえるやり方で適用され、そのあいだに揺籃期にある国内自動車メーカーが力をつけていきました。
弾丸が多いほど、被弾が少ないほど、日本は経済戦争に勝つことができ、貿易黒字は勝利を意味しました。
海外での競争を制限するカルテルはなかったため、世界的な開放政策と自由市場は、日本経済成長指向マシンが暴れまわることを意味していました。
アメリカが「西欧」諸国に日本の輸出を歓迎するように働きかけ、日本の戦争経済の走力は世界に向かって解き放たれました。
利潤を無視して市場シェアを追求する日本の輸出は、1950年代、60年代に鋼鉄市場と造船市場を席巻しました。
こうして、1960年代~1970年代、アメリカの有数な産業が次々に駆逐されました。1970年代、80年代には、アメリカの消費者用電気製品産業が軍隊のような日本の輸出企業に壊滅させられました。
ヨーロッパは管理貿易になれていて、アメリカほど自由貿易というドグマにとらわれていなかったので、単純に日本の参入を制限し、日本は従いました。
そのため、ヨーロッパとのあいだでは貿易摩擦が問題にはなりませんでしたが、アメリカでもヨーロッパでも失業者が増加しました。
主な経済理論によれば自由市場のみが成功につながる。
ところが、日本は自由市場の利点を生かした経済体制ではなく、企業の成長・市場シェアのためなら命をためらわないカミカゼ資本主義により、先進国の仲間入りをしてから数十年で世界第二位の経済力を達成したのです。
日本経済を支配してきたのは結局、産業界、政治家、官僚ではなく、大蔵省、通産省、日本銀行という小さなトライアングルでした。特に日銀は処世が巧みでその存在が目立ちませんでした。
このように戦時の指導者にとって、経済成長を最大にすることが何よりも優先される目標でした。
成長には投資がなければなりません。
投資をするために、企業はお金を必要とします。
外部からの資金調達は、銀行からの借り入れ、あるいは債権やエクイティの発酵、つまり証券市場からの借り入れという形をとります。
1920年代から1930年代初期はには、日本企業は主として株式市場から資金を調達していましたね。
1934年から1936年までの日本では、銀行からの借り入れは平均して企業債務の18%です。
しかし、それが10年しないうちに、企業は資金源を銀行融資へと大転換します。
1940年から1950年までをみると、平均して企業債務の60%が銀行からの借り入れで、エクイティ・ファイナンスは40%にすぎません。
銀行融資の圧倒的優位は、1980年代末まで続きました。
1965年には企業債務の89%が銀行からの」借り入れで、1970年には85%、1980年には87%となっています。
これが何を意味するかというと
経済に流通する大半の通貨を創造する銀行が、誰にその通貨が渡るかという重要な決定も、彼らが行えるようになったことを指しています。
銀行かの行動は社会の公平と平等に根本的な影響を与えるわけです。
この銀行の決定的な役割を考えれば革新官僚と戦時の立案者が銀行に強い興味を持ったのは不思議ではありません。
「日本銀行」という最大権力の誕生
↑世界が国際銀行家によって支配されている歴史は別記事↑
※この銀行の歴史の項目は、日本銀行が日本の国家権力の中で最大の力を持っているということを理解している前提で、その歴史を紐解いていきます。
1920年代に、ドイツの中央銀行ラインヒスバンクは、信用創造の伸び全体を好ましい水準に抑制しつつ、新たに想像された通貨をこれも好ましい生産的な分野に振り向けるという貴重な実績を上げていました。
ライヒスバンクはヒャルマール・シャハト総裁の下で、銀行の融資額に厳しい「指導」を行っていました。
公定歩合はあいかわらず発表されていましたが、どちらかといえば貸出「指導」という真の支配手段から目をそらせるためのPRの道具となっていました。
手続きは簡単で、各銀行は中央銀行に次期の「貸出枠」を申請します。それから、その貸出枠を借り手に分配します。貸出枠いっぱいの融資が行われてしまえば、中央銀行は園銀行の手形割引を拒否し、それ以上の信用創造に制裁を加えます。この信用統制には法的根拠がありませんので、ライヒスバンクは「道徳的説得」に頼りました。
要するに、言うことを聞かないと銀行は高いコストを支払わされるぞという罰をちらつかせる非公式の行政圧力でした。
1924年に書かれたあるライヒスバンク関係者のメモには、中央銀行が「圧力をかける効果的な手段」を握っており、「それを使うことをためらわない」とはっきりと知るさrています。
ドイツで実施された信用統制システムは、中央銀行に膨大な権限を与えました。1924年のハイパーインフレ以来、ライヒスバンクは政府から独立していましたから、思い通りに行動していました。そこから、部門別、地域別と業種別の貸出割り当ての量まで細かく銀行に指示を出す所まではほんの一歩でした。
実際、ライヒスバンクは事実上のドイツ政府になっていて、脆弱で短命なワイマール政権を簡単に凌駕していました。
政府は次々と倒れますが、シャハトの地位は1924年から引退する1930年まで微動だにしていません。
日本では、戦時の官僚がライヒスバンクの方式を研究し、銀行システムに対する中央銀行の信用統制には非常に大きな可能性が存在することに気が付きました。
彼らはベルリンの日本大使館やライヒスバンクに直接、人員を派遣しました。
その一人は後に総裁となる一万田尚登(いちまあひさと)です。
1920年アメリカの株式市場の方か後まもなく、アメリカの銀行は突然世界各地から資金を引き上げだし、日本で新しい信用統制体制を実行する時期が到来しました。
1937年、臨時資金調整法を制定して、中国との間で戦火が開かれると同時に権力を握った革新官僚は、中央銀行と大蔵省の厳しい統制下に置かれることとなりました。
株式市場を通じた資金調達はわずかとなり、資源配分は銀行システムを頼りに行われるようになりました。
1942年、戦時の指導者はヒトラーの1939年新ライヒスバンク法を翻訳して(ヒトラーは1933年にシャハトを再任命し、4年後にまた追い出して、中央銀行への支配を強めています)新しい日本銀行法を成立させ、中央銀行を直接、政府と大蔵省の支配下に入れました。資本の流れと外貨を規制する法律と合わせて、金融支配システムがここで完成されたわけです。
日銀は、あとは、銀行貸出について細かいガイドラインを示し、銀行に従わせるだけでOKです。
戦後は輸出用製造業の生産高の最大化が目標となり、コントロール・システムは非常に効率的で、戦後も完璧に引き継がれました。
日銀VS大蔵省
信用創造をコントロールするためには、中央銀行を味方に引き入れなければなりません。
経済に流通している通貨の供給量は、銀行と中央銀行が創造する信用の総和です。
そして、中央銀行は、ご存じの通り、資産の売買によって流通する通貨を簡単に減らしたり増やしたりすることができます。
しかし、銀行家に任せておいたのでは、共同体全体の福祉向上のための資金が配分されるかどうか分かりませんので、銀行の活動を注意深く監視する必要があると考えました。
戦時の経済官僚は、民主主義国の中央銀行が民間銀行かに所有されているのがそもそもおかしいと考えました。
日本銀行を民間が所有する株式会社にしてどうして公共の利益に奉仕すると期待できるか。
政府が中央銀行をコントロールして、中央銀行が銀行をコントロールして、国益にかなうように貨幣と創造量を分配を規制しなければなりません。
戦争直後、大蔵省は信用配分を行う日銀の権力を放っておくつもりはありませんでした。
戦時中の1942年の日銀法改正で、それまでは民間株式会社だった日銀は大蔵省に属する政府機関に変わりました。
日本銀行は経済企画庁や通産省は出し抜くことはできても大蔵省は手ごわかったそうです。
戦時中、大蔵省は軍部と企画院への報告義務を負っており、さらに強力な内務省によって、大蔵省の力は制約されていました。
しかし、戦後、軍は消滅し、内務省は解体され、企画院は経済企画庁という下位官庁になりました。大蔵省は権力の空白にたちまち割り込み、徴税、関税、国際金融、金融機関の監督、財政政策、金融政策を司り、政府機関の中でも最高の切り札となっていました。
そして、戦争直後には信用配分にも関心を抱き続けていました。
1947年、信用配分臨時措置法によって、起債会が中央銀行に移され、債券発行業務を行うことになりました。しかし、1947年、戦時の融資区分システムの見直しで主導権を握ったのは大蔵省でした。
1949年に大蔵省は、金融緊急措置令によって民間部門の債券発行監督業務を取り戻し、証券局の許認可の対象とすることに成功します。
また1947年、大蔵省は均衡予算と長期国債禁止の原則を盛り込んだ厳しい財政法を成立させました。
均衡予算を維持すれば、大蔵省は民間部門の資金を枯渇させることは避けられます。
国債は発行されず、株式市場は添え物にすぎませんから、金融システムは事実上、日銀と銀行の信用創造のみで出来あがっていました。
日銀としては別個の独立したオペレーションという隠れ蓑がなく、衆人環境のもとで行動しなければならなくなりました。
金融政策は日本銀行が実施しますが、大蔵省は法律によって監督権限を与えられました。
公定歩合の引き下げや引き上げを決定するにあたっては、大蔵省との密な教義を行わなければなりません。
日本の中央銀行の責務と権限を定めた日本銀行法では、日本銀行の業務の大半にわたって大蔵省が指示を行えるとされました。
戦後、大蔵省は直接、金利政策や外為介入に直接影響力行使して、経済を牛耳っているのは大蔵省であるという認識が一般的になりました。
しかし、
この記事で説明した通り、通貨供給量を調整する最強の手段である「窓口指導」というカードは日銀が握っています。
極端な話、公定歩合・外為介入・金利政策など引き上げようと引き下げようと、通貨供給量が調整次第でそんなもん関係ありません。
日銀はじっくりと大蔵省の首を狩る時期を狙っていました。
歴史でみても古いシステムに対して変革が起こるのは先述の通り「危機」が必須条件となります。
1980年代は「バブル」になりましたが、1990年代の「平成不況」で長期の不況を強いられました。
大蔵省は平成不況の責任を問われ、1998年日銀法が改正され、2001年大蔵省解体→財務省となります。
この流れで得をしているのは「日本銀行」であり、信じられないかもしれませんが「窓口指導」によって日銀は、景気をコントロールしていたということです。
その証拠でもないですが、バブルの時期は通貨の供給をしまくって、平成不況の際、日銀は通貨の供給を1998年まで止めています。
信じられないかもしれませんが、日銀はライヒスバンクのノウハウを持っているわけですから、「窓口指導」が最強であることを理解し、それを国民に公表しないように秘密裏に回っていたわけです。
その実証に関しては、ここで説明すると非常にくどくなってしまいますが日銀は度重ねて「窓口指導は廃止しました」「1980年代に窓口指導はなかった」「現在、窓口指導はしていない」などと言っています。何故、何度も「廃止した」と連呼する必要があったのでしょうか。
それもそうでしょう「窓口指導」こそが日銀の根幹であり国を牛耳るための手段なのですから。
1998年、日本経済は不況真っただ中にあり、失業率は戦後最高に跳ね上がり、日経平均株価はバブル崩壊後の最低記録を更新して13000円を割り込み、円安はさらに進むと予測されました。
しかし、エコノミストの予想に反して1999年には実質国内総生産は1.4%上昇、株価も大幅に上昇。
大方の予想に反して日本経済は1999年に回復しました。
予測のためには、通貨の価格ではなく量に、正確にいえば信用創造の量に着目しなければなりません。
銀行がマヒしている場合、経済予測に必要なのは、中央銀行がどれだけのお金を創造したかをみることになります。
1998年3月31日、日本銀行は劇的な政策転換を実施し、とつぜん、すべての印刷機のスイッチが入り、この四半世紀で最高のスピードで通貨を創造し始めたのです。
翌年4月1日に新日銀法が施行され、日本銀行は1942年以来はじめて独立を果たしました。
この時、中央銀行は自分たちが何をしているのかは吹聴しません。
バレたら、自分たちが権力を持っていることがばれてしまいます。
彼らは大量の金融データを発表しますが、信用創造の総量に関するデータを強調したりしません。
投資家もアナリストも大抵は、数字は毎日細かく追うことができる短期金融調節に注目します。
他にも銀行への貸出、金融市場操作、長期債券市場操作、外為市場介入、オペの不胎化などその取引の全て足し合わせても、日銀は1980年代末に相当に刺激的な金融政策に比べると足りません。
バブル経済→平成不況と経て、どの機関が得をしているかという焦点でみると、日銀が一人勝ちしているのは明らかです。
日銀がこれを意図的に操作したという証拠があるわけではないですが、通貨供給量を1998年に急激に増やしたことは事実です。
また、1986年4月「前川リポート」という構造改革のガイドラインがあり、日銀はこの詩ポートに沿って動いていたとも言えます。
日銀一強時代。失われた30年
2000年代初頭から日本経済が本格的にデフレに突入しました。
未曾有の不況にあえぐ中、借金返済を強いられる企業は、当然合理的な行動として人件費を削減します。
企業にかかる経費をみると、「広告費・材料費」などは不可変資本に対して、「人件費」は可変資本、つまり、金額を操作できるからです。
経済界・政府も連携して国民の賃金を下げられるように「派遣法」を改正していき、低賃金でも効率よく働かせられるように改革していきました。
平成元年(1989年)から平成30年(2018年)の30年間に正規雇用者は3452万人から3423万人と29万人減少、一方、非正規雇用者は817万人から2117万人へと1300万人増加しました。
そうした中で2008年8月からリーマン・ブラザーズの倒産から始まる世界経済のショックがありました。
製造業での派遣切りは22万人を上回ったとされ、日比谷公園に開設された年越し派遣村を覚えている方もいるでしょう。
バブル崩壊以後実質賃金は上がっていません。
賃金が上がらなければ「節制」どころか「生活防衛」ために消費を抑えるようになり、そして、企業の商品が売れなくなり、経済停滞の長期化が鮮明になっていきます。
そんな中、2014年安倍内閣が消費税を8%、2019年10月に消費税10%。
家計の最終消費支出はあらゆる経済活動の起点であり、日本のGDPの約6割に当たります。その家計の消費姿勢の根幹には雇用の安定性があります。
こうして、先進国で唯一日本だけが過去30年にわたって経済成長ゼロでした。
1930~40年に改革された「日本の戦時経済体制」の文化は、現在でもしっかり残っています。
国民健康保険もさることながら、「利益よりも企業の成長」「過労死」「破綻している年金制度」「カミカゼ軍隊企業」「終身雇用」など、従業員のインセンティブである「年金制度」と「終身雇用」だけ破綻して、日本の奴隷国民たちは今もなお、せっせと働いて、経済成長率は30年間ゼロということです。
これは1998年日銀法が改正され、大蔵省が解体してからずっとこの状況が続いています。
この30年間で証明していると思いますが、日本の底辺労働の皆様は出世もなし、好きアップもなし、給与アップもなし、国のの成長もなし
その上、医療・年金の負担額は労働者に押し寄せるため働くと得するばかりか高齢者の養分となります。
まとめ
皆さん、いい加減、現実から目を背けずに働くのを今すぐやめて、自分の人生のために本当に今後どう備えるかというのを考えて頂きたいです。
ただし、これは岡田斗司夫曰く、経済は終わりますけど、日本人の民度や治安を考えると、日本は私たちが生きている間は住みやすい国ではあるらしいので、
ぱっぱと就労なんか辞めて、ナマポで、最小限の生活費のみの生活の準備をするのが最もよろしいでしょう。
お金持ちになりたい!ということに関しては海外でチャレンジする、外資系を相手にするならまだしも、国内で活動する分には諦めてもらって、
お金のかからない領域で、ぬくぬく好きなことにいそしむ考え方に切り替えて頂ければなと改めて思います。
引用:
「円の支配者」 リチャード・A・ヴェルナー
「公共貨幣入門」 山口薫・山口陽恵