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【ナーロッパ】なろう系アニメを考察するために、中世ヨーロッパを徹底解説 ~あの世界、なんで教会の権力がめっちゃ強いの?~

こんにちは~。最近、やりたいことがだいたい満たされてきた、さっちゃ~んでございます

ところで、最近、異世界もののアニメみすぎて、頭の中が異世界に転生しているのですが、いっそのこと、異世界のことを徹底的に調べちゃおうかということで作成しました。

異世界用図鑑」

この記事は、異世界の勉強だけでなく世界史の中世ヨーロッパの部分も大分噛んでおりますので、読むだけで世界史の成績向上につながると思います。

一から読むのではなく、気になった部分だけその日の気分で読むという形をとっていただければ幸いです。

異世界アニメ世界観の歴史

日本最古の異世界作品「古事記」:

イザナギ、黄泉比良坂を通り異界へおもむき、ヤンデルイザナミを前に逃げ帰る

長編ファンタジーの元祖指輪物語(1954年第一巻出版)英:J・R・R・トールキン 

異世界を救うために召喚されて冒険する小説としては『ナルニア国物語』(1850年台)が最初期

異世界召喚ファンタジーといえば、高千穂遙さんが1979年に書いた『異世界の勇士』が有名です。高校生の主人公リュージが異世界へ招かれて災厄を救う物語です

指輪物語」がなろう系異世界の舞台の一番の起源だと言われています

指輪物語は創造した歴史上におけるアトランティス崩壊後にあたる遠い昔「地球」を舞台にしていますが、ホビットエルフ人間ドワーフ魔法使い、ゴブリン(トールキンはほとんどの場合オークと呼ぶ)、トロルなどはおそらく「指輪物語」発ではないかなと思います

指輪物語』はトールキン自身の言語学おとぎ話北欧神話ケルト神話に対する興味から始まった。トールキンは驚くほど自らの世界を詳細に形成し、中つ国とその世界のために、登場人物の系図言語ルーン文字、暦、歴史を含む完全な神話体系を創造した。

・R・R・トールキンは以前 『指輪物語』は「基本的には宗教的でカトリック的作品」であると記述した(The Letters of J. R. R. Tolkien英語版, #142)。そこではゴクリへのビルボおよびフロドによって示される慈悲および哀れみという大きな美徳が勝利をおさめる。フロドが一つの指輪の力と戦ったとき、トールキンの心には主の祈りの言葉「我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ」が常にあった

このように、カトリック的な作品である「指輪物語」であり、舞台も過去の地球なわけです。異世界を学ぶ上で、過去の人類を勉強することが必須となります。

1970年代にロールプレイングゲームを広めた『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(以下、D&D)は、安田均小谷真理によれば『指輪物語』の影響を受けている[22][23]。D&Dは中つ国にみられる種族、とりわけハーフリング(ホビットの言い換え)、エルフ(当作品と同様、ダークエルフと区別される)、ドワーフ、ハーフエルフ、オーク、ドラゴンを扱っている。

指輪物語RPGゲーム(ドラクエ等)→なろう系の系譜を歩んできたわけです。

元々、カトリック系+昔の話+多種族といったキーワードが現在の「なろう系異世界」を形成しているといってもいいでしょう。

努力を信じる現代日本人の価値観

異世界の住人の価値観を探る前に現代人の価値観をおさらいしてみましょう

世界中で、平均寿命が伸びているのにアメリカの白人労働者階級だけは平均寿命が縮んでいるという奇妙な現象を発見した経済学者のアンガスディーストンとアンケースは、その原因は「ドラック(過剰摂取)」「アルコール(過剰摂取)」「自殺」と指摘し、2015年に「絶望死」と名付けた論文を発表しました。

知識社会:求められる知識が高度化されて、スキルのハードルが物凄く高くなってくると、昔の大企業だったら、大卒の新卒をばーっと採用しても、ある程度はできたんだけれども、今の企業は、ものすごく有能だったらなんとかこなせるけど、普通の人間は頑張って残業しないと会社が要求する普通の水準に追い付けない社会

リベラルな社会とは、種族、性別、国籍、性的指向などの属性で個人を評価してはならないとされているが、給料を上げる際に何らかの評価が必要となった時に「能力主義(学歴、資格、経歴)」は教育や努力で向上できる社会

階級社会や身分社会が残っているヨーロッパや日本よりもアメリカは努力至上主義となっています。

日本に関しては、冷戦が終了してから、アメリカの新自由主義の影響を受けていますね。

自分がどんな自分であるか、自分自身で考えて決める、他人任せにしないというのが、現在のあたりまえの考え方です。

自分で決めると言っても、その時で好き勝手やるというのではありません。

自分はどうあるべきか、自分にとってなれそうな立派な自分とはどんな自分かを考え、それを目標に頑張るということです。

こういう「あるべき自分をちゃんと思い描いて頑張っている人」のことを「自我が確立している人」と呼びます。

「人間は社会に貢献しなければいけない」という自分の考えと自分の能力を考えて、サラリーマンを選んだり医者になったり警察官になったりするべきだ、という考え方です。

これはもちろん職業だけでなく、あるべき夫や妻の姿であったり、あるべき父親母親像であったり、あるべき国民の姿であったりします。

特にこういう、「神様が決めた通りに生きる」という枷がなくなったぶん、一人一人が自発的に立派であってもらう以外に社会秩序を保つ方法は一つもないので、「自我の確立」が何よりも大切となります。

しかし、それはまた、とんでもなく、難しく、面倒くさいことだったのです。

その結果、現代のわれわれは社会ストレスや、精神病、神経衰弱と言った「近代人の勲章」を手に入れることとなりました。

だって、自分が貧乏な理由、物事がうまくいかない理由、人から尊敬されない理由は、全部自分のせいなのですから。

みんなが豊かさを目指せる社会、とはもう一つの意味を含んでいます。豊かでない自分は負け犬である、ということです。

能力主義社会によって日本の年間自殺者数も安定しております。

ところで、アメリカの白人労働者階級の77%は「世の中、努力が全てである」と考えているのですが、この白人労働者階級の平均寿命は、世界で唯一縮んでいます。

対して、ヨーロッパ、フランスなんかは「世の中は、生まれた場所、時代、階級で決まり努力なんて関係ない」と考えているのが人口の3/4、勤勉なドイツ人ですら、人口の半分は「努力は関係ない」と回答しています。

この証拠というのは「社会保障制度」に現れていて、よくヨーロッパ諸国は社会保障制度が充実していると言われているのは、努力ではどうにもならないという元々の思考があるわけですね。

「科学」から生まれた近代社会ヨーロッパ 何故、中世ヨーロッパは崩壊したのか

中世ヨーロッパに入る前に、近代社会ヨーロッパの体系をみてみます。

現代社会から近代、中世とは何なのか、その違いは何なのか。

それを大きく変えていったキーワードは「キリスト教」「科学」です。

「科学」はどこから生まれたのか

18世紀、社会は大きく変化します。

物欲を憎みモノを軽んじる中世の人々が、あらゆる努力で世の中をますますモノ不足に追い込んでいましたが、15世紀の新大陸発見による「有限感・閉鎖感の払拭」「世界航路発見による、新たな通商開拓」そして「産業革命」がやってきました。

これにより、「モノ余り・時間不足」という古代と同様の状況がよりバージョンアップして帰ってまいりました。

一時的に飽和状態に見えた工業化は新大陸の展開によって、また一気に花開き、大量の石油資源の発見とその応用技術の発達により、行動経済成長が歴史上みられなかったほどのハイスピードで成し遂げていきます。

なんでこんなに発展できたのかというと原因は「キリスト教」でした。

「神様がこの世界をお造りになったのだから、この世界は素晴らしい秩序で満ちているに違いない。

その秩序を見つけて、神様の御わざを讃えよう」という考え方の少数派が出てきました。

「そんな秩序を見つけなくても、神様がすごいのは分かっている。そんなことをする暇があったら真面目に祈ってろ」という主流派のいじめにあいながらも、この少数派は熱心に研究をつづけました。

これらの研究の成果が「メンデルの法則」「万有引力の法則」「ケプラーの法則」だったりします。

これらの発見は、神様を信じ、神の御わざをみようという敬虔な信者によってなされたわけです。

しかし、このような科学の成果によって人々の暮らしが徐々に変わっていき「科学や発明の力で人々は幸せになれる」とみんな、そう思い始めました。

その結果、キリスト教は昔のように絶対の権威を保てなくなってしまったわけです。

◆ここにがポイント!◆
キリスト教から生まれた「科学」が、キリスト教を否定した

産業革命の始まりとなった蒸気機関の原型「メコン機関」も、敬虔なキリスト教牧師たちの手で、神の御名をたたえるために発明されたそうです。

しかし、人々はもう、そこに神の偉大さはみておりません。

蒸気機関車、自動織機、無線機、蒸気船、エレベーター、ガラス、鉄、次々と科学の生み出す成果とその可能性に人々は酔いしれました。

もう神様に頼って死んでから天国に行く、なんて当てにならないことにかける必要はありません。

科学がこの世を天国にしてくれるのですから、

中世の「身分制度」も崩壊していきます。

自分も才能があれば大発明をしたり、事業を成功させたりしておお金持ちになれるのです。

そんなときに農奴らしくしていても仕方がない。

人々は祈る時間を削って働くようになり教会の力が弱まっていきました。

施しのお金を削って次の事業に使ったり、新しい電化製品を買うようになってしまったのです。

今までは悲しいこともうれしいことも生まれや育ちもすべて「神の思し召し」だった、世の中のことに疑問を感じたり、質問したりするのは良くないことだったのが、「なぜ」という科学的合理的思考法に変わったわけです。

ナーロッパはなんで「教会」の権力が強いのか!?中世ヨーロッパとはこんな世界だ!

「科学」が誕生するきっかけを理解できました。

では、もっと時代をさかのぼってみましょう

ローマ帝国の東西分裂後、大航海時代ルネサンスが始まるまでの約1000年間を中世といいます。

「モノ不足」の時代であり、必要以上働くことは「罪」とされていた中世。

もちろん収穫量には上限があり、ある程度以上は人口は増えず、バランスのいいところで安定しいました。

悪天候による飢饉や急な伝染病で人口が激減することも周期的ンは有りましたが、順調な時また、人口は戻りました。

隣国同士、多少の衝突はありましたが、強力な王が表れてヨーロッパを統一するといったこともなく、おおむね平和でした。

そんな時代ですから、いくら封建制度といっても王様はパッとしません。

もともと蛮族や、隣国の侵略から自分たちを守ってくれるための王様ですから、平和になって役目を追えれば、ありがたみも減るというものです。

「今日食べるもの」の心配も、蛮族から食料が奪われる心配も、あまり気にしなくてよくなかった人々にとって、最も大きな関心事は病気で死ぬことです。

なぜ病気になるのか、なぜ死なねばならないのか、死んだらどうなるのか、死ぬのは怖い、病気怖い、ケガ怖い。

当時はほとんどまともな医者もおらず、医療知識もなく、家族や自分が病気になってもけがをしても、なすすべがありません。

そんな人々にとって、病気やけがで死ぬことほど不安で恐ろしいことはなかったでしょう。

近代の産業革命に入る前の世界の元々の原因とは、熱心なキリスト教信者の一部が神の理を研究(科学)を始めたのが原因です。

この近代の流れを止めて中世の「王政」に戻ろうとする政策がフランスでは何回も起きましたが、やはり止めることはできません。

だって、科学が発展すれば病気の原因がわかったり、怪我が治ったりするんです

近代と中世の時代に人々の価値観、つまり、科学の発展する前、後の時代の価値観とはどう違うのか、今回、異世界アニメを解析する上で最も有効な情報になることでしょう。

科学に酔いしれる前、科学なんて存在すらしなかった時代

中世ヨーロッパの人々は、比較的平和な時代で、病気で死ぬことが最も大きな関心事であるため、王様よりもどこが人々から評されるかというと「教会」です。

神父様は「大丈夫、死んだら天国へ行ける」「神様に召されるのだから怖くない」と励ましてくれます。

立派な教会で、立派な神父様が分厚い聖書を手に、おごそかな声で話してくれるありがたいお話を聞いているとホッとします。

この前死んでしまったおじいさんも、天国で自分を待っていてくれるだろうか、と考えたりもします。

少々つらいことがあっても、感謝の気持ちを持って頑張ろうと思ったりもします。

神父様は立派な人です。

家のない者を泊めたり、スープを飲ませたりもしてくれます。

なんでも遠い町まで行って、神様の勉強をしてきたそうです。

病気の時には、家へ来て見守ってくれます。

だれかが臨終のときには必ず来て懺悔をさせ、天国に召されるようにしてくれます。

丘の上の教会の塔をみながら「ちゃんとした教会のある村に生まれて、本当に良かった。これも神様の思し召しだ」と感謝で胸がいっぱいになります。

大きな町には立派な教会が立てられ、どんな小さい村にも教会が建てられ、日曜日に教会に行かないのは、よほどの変わり者か、教会もないほどのド田舎に住んでいる人だけでした。

みんな暇さえあれば祈りました。

というより、無理やり時間を作ってでも祈ったわけです。

また、少しでも経済的に余裕があれば教会へ寄付したり、自分より貧しい人々に施しをしました。余裕がない家も、少し食べるものを我慢してでも施しをしました。

施しをしたために貧しくなるのは、立派なことだったのです。

ヨーロッパから環境問題が浮上した理由!?中世ヨーロッパは働いたら「罪」

中世の人たちにとって、「勤勉」とは、泥棒と同義の犯罪です

というのは、一人がたくさん働けば、結果的に他の人の土地や資源を奪うことになるからです。

中世の人々は、いくら働いても貧乏かわいそうな人々ではなく、「貪欲は悪」という価値観に生きていたのです。

そのため、中世の一般市民は冬はほとんど働かず、夏でも日曜のほかにたくさんの休み・祭日を持っていました

ローマ帝国の最末期ですら、平均週休4日だったのです。

これが、本格的中世になると、本当に人々は働きませんでした。

たとえば、フランスの農民は、冬の三か月は全く働かず、夏季もいろんな理由をつけて休日だらけでした。

おまけに村単位、職能ギルド単位で労働時間を厳格に決め、駆け抜けの働きは厳しく罰せられました。

中世においては、「働くべき時に働かない」よりも、「働くべきではないときに働く」方が、ずっと重い罪だったのです。

また、王侯貴族や当時急増した聖職者など、ほとんど働かない人々が大勢いました。

働かずに済むと言えば楽しそうに聞こえるかもしれませんが、余った時間で別に遊んでいるわけではありません。

遊ぶ、というのは食べたり飲んだり、着飾ったり旅行したり、とにかく消費を伴うからです。

そんな余裕は中世にはありません。と

いうわけで、中世は極端な「モノ不足・時間あまり」の時代だったのです。

「不足するモノを節約し、有り余る時間をいっぱい使う」生き方として中世の人々が尊敬し、あこがれたのは「清貧な思索家」です。

ヨーロッパでも「貧乏ピエール」など、物欲に縛られない態度が尊敬されました。

十字軍に遠征した夫の無事を祈り、下着を何年も脱がせなかったセピア夫人の話は有名です。

そして、有り余った時間をいっぱい使って宗教的研究に没頭しました

これは、科学や実験といった、現実と関連するものではなく、魔女の研究や、デフォルメされたマリア像など、現実的なものとは無関係の抽象的心象的なものです。

中国でも、晋朝以降の貴族は、詩と酒に酔い、政務を顧みず、ほとんど働きませんでした。中には田舎に引っ越してしまい、世捨て人になって詩を呼んで暮らす聖人もいて、これがまた「竹林の七賢」と呼ばれて、みんなに尊敬を集めたりしていました。

身分や報酬も、こういった尊敬や血筋によってきめられてました。

いかによく働いたか、いかに生産性を上げたかといったことはマイナスに評価にこそなれ、プラスに評価されることはありませんでした。

たとえ頑張って生産性を上げても、それは神様の思し召しとしか考えてもらえないのです。

また、古代社会では常識だった、経済の等価交換の原則もこの時代で一旦崩れます。

同じ商品も相手の身分や売り手の機嫌、かけひきによって、全く値段が変わってしまうのです。

貧乏人にはタダにしてやったり、尊敬する人には安くしたり、気に入らない人には高くしたり。

せっかく古代人が作り上げた統一経済や、自由競争市場も失われてしまいました。

それを惜しむ人は、誰一人いなかったからです。

なんで、このような社会であるかというと、中世前の古代社会にあります。

食料問題を解決した古代社会と中世ヨーロッパに移り変わった理由

狩猟民族の悩みは「食料」で、生活のほとんどは狩猟に明け暮れていましたが、

時代が進むにつれて「農業」という革命が徐々におきて、人々は「農業」に酔いしれることとなります。

明日、食べるものが保証されなかった人々は、いきなり、何十、何百日分の食料を一度に手に入れることができるようになった。

彼らは夢中になって種をまき、育てました。

それまで、海沿いや川沿いにぽつりぽつり住んでいた人たちは、耕しやすい平地に移り住み畑をどんどん広げていきました。

農地は何よりも大切なものとなり、食べ物を求めて移り住むことは少なくなりました。

人々は土地に縛られた代償として、飢える心配がなくなり人口は爆発的に増えました。

しかし、農業を耕すものと、未だ狩猟民族が混濁する世の中、狩猟民族にとっては、食料とは戦って勝ち取るのが当然であるのですが、農耕民族にとっては、憎むべき犯罪である。

そこで、食料の新しい秩序を守るために、管理社会と身分制度が生まれました。

◆ここにがポイント!◆
農業社会の成立によって、管理社会身分制度は必然的に誕生した

土地をめぐる身分制度は、農業革命が拡がるにつれて複雑化し、「畑を持つ人々」と「畑を持たず、働くだけの濃奴」の二つに分かれます。

農奴は、働いても豊かになれない身分だと言えます。

奴隷も誕生しました。

農業によって、食料が貯蓄することができ、人類で「食料余剰」の状態が起きると今度は「商業」が発達しました。

最初は、輸送手段をウマやロバに頼っていたため、細々としていました。やがて商人にも「商人としての権利」が生まれてきました

農業社会

  • ・収穫の基礎である土地をめぐる権利
  • 世襲で受け継ぐことが普通

それに対して、狩猟時代

  • ・食料を見つける才能に優れたもの
  • ・戦いで勝ったのものが族長として部族をまとめる

農業によって身分に確立し、封建制度が誕生したわけです。

身分が固定されたおかげで、農具を作る専門家なども生まれて、生活は比べられない程安定しました。

「王様が統括するもの」「農民が農耕するのもの」とみんながみんなそうするもんだとみんな考えておりました。

しかし、古代社会はやがて飽和状態を迎えます。

帝国の外側には不毛の砂漠、極寒の原始林、住むに堪えない熱帯雨林しか残りませんでした。

農耕が不可能な土地を領土として獲得しても、防衛のための費用がかさむばかりです。

土地の有限性が証明されれば、そこから生産される食料も、それによって維持できる自由市民や奴隷の数もおのずと限られてきます。

また、当時唯一エネルギー資源だった森林資源が枯渇し始めました。そのため皇居事業も、農機材の生産、船や建物の建造も一挙に衰退します。

古代社会は「管理社会・身分制度

中世社会は「宗教・教会」

ナーロッパの歴史

ナーロッパ文化の源流・古代「ローマ帝国

では、具体的に「古代」と「中世」のヨーロッパの違いとは何なのか、歴史を振り返ってみますと、先ほどの古代・中世・近代の価値観の変化に合わせた歴史の転換を理解できるかと思います。

ローマ帝国は、西ヨーロッパから地中海全域に及ぶ大帝国だったため、道路や建築、言語など、ヨーロッパに「統一性」をもたらした1つの重要な要素になります。

ローマ帝国の前半期は、一応、共和政でしたが、国の指導権を持つ会議だった元老院や、最高感触であった2名のコンスル(執行官)も、貴族が独占していました。

で、ローマは侵略戦争によって領土を拡大していきましたが、これは、古代ギリシアと同様に、平民は「俺たちは命がけで戦っているのに参政権がないのはおかしい!」と、帰属に対して身分闘争を挑みます。

こうして、ローマもギリシアと同じく、段階を踏んで平民の参政権が向上していくことになります。

まず、平民の権利を守る護民官という制度、平民会という平民の会議、十二表法という文章で記された法律(成分法)が制定され、貴族による法の独占を防ぎました。

そして、リキニウス=セクスティウス法が制定されて、定員2名のコンスルのうち一人は平民から出すようになり、ホルテンシウス法で「平民会の決議が元老院の承認なしに国の法律となる」ようになり、平民の権利がグッと拡大します。

実は、古代ローマの方が中世ローマよりも人権意識が高いんですね

これは、意外でした

ところが「平等」と「仲がいい」は違います。

平民は平民会で自分たちに有利な法を作れるようになりましたが、国の指導権は依然、貴族たちの元老院が握っていました。

当然、貴族はその法を元老院に置いて自分たちに有利になるように運用し始めます。

「法を作る」平民と「法を運用する」貴族が対等の立場になったことで、両者の対立がますます深まることになりました。

ギリシアアテネは「身分が解消されて民主政になった」のに対し、ローマは「平等になったことで、平民と貴族がかえって対立を深める」ことになってしまいました。

ローマは戦争で勝ちまくって領土を拡げますが、長期の戦争に駆り出された農民が久しぶりに自分の農地に戻ると、そこにはすでに荒れ果てており、使い物にならなくなっているわけです。

更に、ローマの拡大に合わせ、戦争によって獲得した奴隷たちがローマ国内に続々と流入してきます。

お金持ちは、こうした奴隷たちをたくさん買っては、大規模な農園で働かせていました。

手持ちの農地が荒廃した上、お金持ちが大規模な農園で安い作物を大量生産するようになってしまうと、農民に勝ち目はありません。

そこで、失業した農民たちは生活の糧を求めて年に向かいましたが、落ちぶれた大量の失業者は、反乱勢力に豹変します。

自体を危惧したローマの政治家や皇帝たちは、大量の失業者に「パンとサーカス」、すなわち、食事と闘技場での剣闘などの娯楽を与えて彼らの不満を必死にそらそうとしますが、戦争に勝てば勝つほどローマ国内は停滞ムードになっていきました。

当時は「内乱の1世紀」と呼ばれ、平民派と閥族派、剣闘士の反乱、同盟士(イタリア半島)戦争と主に3つの内乱が起きました。

混乱に直面したローマの人々は、激しい内乱を収拾できる強いリーダーシップを求めるようになります。

すると、王のいない「共和制」のローマから三頭政治という「寡頭制(少人数で国を治める仕組み)」が成立し、「共和制」から「帝政」に移行しました。

「ブルータスお前もか?」等のひと悶着がありましたが、ローマ帝国の後半「帝政ローマ」は、統治している人が5人連続優秀だったためか200年間ローマの黄金期となり空前の繁栄を迎えました。

国家の規模が大きくなればなるほど権力が集中するのは歴史の一つのパターンです。

平等が対立を生んで、独裁が安定を生んでるわけですね。

日本も平等の皮を被った身分制度ですけど、権力を一つに集中した方が安定するんですね。

ナーロッパ世界の最高権力「教会」

先程も中世ヨーロッパの教会の権威を説明しましたが、その歴史も古代帝政ローマまでさかのぼります。

そこで、教会のモデルとなっているキリスト教の歴史を辿っていきます。

ローマ帝政アウグストゥスの時代、世界史で最も大きな影響を与えた人物がローマ市は以下のパレスチナ(現在のイスラエル)に誕生します。

それがイエスです。

当時、パレスチナの地で主に進行されていたのはユダヤ教でした。パレスチナは豊かな土地ではないため、困窮する民衆が多いうえに、ローマ帝国ユダヤ教徒に強圧的な政治を行っていたため、多くのユダヤ教徒が上に苦しんでいました。

人々に救いを与えるはずのユダヤ教の祭司たちはというと、戒律を守ることと、戒律を破ることによる神の罰ばかりを解き、ユダヤ教徒たちの苦しみに全く寄りそおうとしませんでした。

「もともと貧しい上に、ローマ帝国の厳しい政治があり、さらにユダヤ教の祭司たちは厳しいことばかりを言う」という八方ふさがりの状況がパレスチナユダヤ民にはあったわけです。

日本人はオウム真理教のせいで宗教=悪となっていますが、たしかに、新興宗教にはロクなものはありませんが、「宗教」とは「宗=神に教えをこう」ことで、自分自身が成長していくものです。

それなのに、ユダヤ教の教えに従っても人々は救われません。

こうした中で登場したイエスは、「神は罰ではなく、愛を与えるのだ」という神の愛と隣人愛を説きます。

「愛」という今までのユダヤ教にない考え方が、八方ふさがりで苦しむユダヤの民に救いを与えました。

そのため、民衆はイエスに従い、イエスを救世主と呼ぶようになるのです。

現代のニートに例えると、働けど給料は増えずに過労と精神疾患、更に、ニートになると世間の肩身が狭いし生活手段も厳しい。

そんな中ひろゆきが「生活保護取ったらいいじゃないですか?」といって、ひろゆきによって救われ、ひろゆきの言うことに心酔するのとおんなじようなものです。

さて一方、「お客を取られた」格好になったユダヤ教の祭司たちは、イエスを危険視し、ローマへの反逆者として訴えます。

そして、イエスは十字架にかけられて処刑されてしまうのです。

この「イエスを♰にかけた民」という事実が、のちのユダヤ教徒迫害の原因の一つになっています。

エスはあくまで「ひとりのユダヤ教徒」として、ユダヤ教の在り方に疑問を抱いていたので、自ら新しい宗教を打ち立てようという意思は持っていませんでした。

しかし、イエスの弟子たちはイエスの教えや行動を元に「キリスト教」を始めたため、ユダヤ教は分離してキリスト教が成立したのです。

エスの教えは、ペテロやパウロなどの「使徒」といわれる人々の布教活動によって、ローマ帝国内に徐々に広まっていきます。

エヴァンゲリオンの「使徒」ってここが元ネタだったんですか

当時、ローマは多神教の国でした。ローマ皇帝も、「神のひとり」として崇拝されていたのです。

そのため、唯一絶対芯の神を信じるキリスト教徒は、多神教を信じる一般的なローマ民衆などから激しく迫害され、公然とはキリスト教を信仰できない状況でした。

しかし、水面下では、キリスト教がじわじわと民衆の間に広がっており、「禁じてしまったらローマ帝国はバラバラになってしまう」という段階まで達すると、一転してコンスタンティヌス帝は、ミラノ勅令でキリスト教を公認して、キリスト教の保護に回ります。

そして、キリスト教が爆発的に広まることになるのです。

最終的には、テオドシウス帝により、ローマ帝国の人々は「キリスト教以外の信仰は許されない」という段階に至ります。

こうして、現在のヨーロッパのほぼ全域にわたってキリスト教が信仰され、ヨーロッパに宗教的な「統一性」がもたらされる下地が完成しました。

キリスト教は、当時の人々の救いにもなりましたし、今でも、人々が救いというか、幸福に生きるための教えとなっているので、熱狂的に布教されていったんだと思いますね。

でも、宗教ってあんまりしっくりこないですね

日本の場合は、神道と仏教です

キリスト教と国王の世界である「中世」

小国が多く誕生したルーツ

ローマ帝国の末期は、飽和状態を迎えます。

帝国の外側には不毛の砂漠、極寒の原始林、住むに堪えない熱帯雨林しか残りませんでした。

農耕が不可能な土地を領土として獲得しても、防衛のための費用がかさむばかりです。

土地の有限性が証明されれば、そこから生産される食料も、それによって維持できる自由市民や奴隷の数もおのずと限られてきます。

また、当時唯一エネルギー資源だった森林資源が枯渇し始めました。

そのため皇居事業も、農機材の生産、船や建物の建造も一挙に衰退します。

ローマ帝国が衰退してくれば、統一性がなくなっていきます。

ローマ帝国の末期、アルプス山脈の北ではゲルマン人と呼ばれる人々が狩猟は牧畜を行っていました。

ローマの国境に近い所に暮らしていたゲルマン人は、時にローマに略奪を働く侵入者として、時に傭兵や小作人としてローマ社会にゆっくりと移住してきました。

そんな衰退したローマ帝国に対して、4世紀後半、アジア系のフン族が東から突如ゲルマン世界を圧迫していきました。

ゲルマン人は、それまで北星ヨーロッパに住んでいたケルト人や、ローマ帝国内のラテン人(ローマ人)を圧迫しながら新たな移住先を探し、移動先に次々と国を建てていきました。

たとえば、「フランス」の語源となったフランク族、アングロ=サクソン諸民族などが移動し、建国しました。

この移動の混乱の中で、ローマ帝国の流れをくんでいた「西ローマ帝国」が滅亡します。

「中世ヨーロッパ」はローマ帝国のように統一した世界ではなく小規模国家が分立していきます。

大移動を行ったゲルマン人の諸民族の中でも、フランク人が建国したフランク王国が最も力を持ちました。

何故なら、西ヨーロッパ髄一の穀倉地帯である、現在のフランスに建国したからです。

その豊かさを背景に、ゲルマン人の諸国の中で最も安定した国家になりました(その他のゲルマン諸国の多くは短命に終わります)。

ゲルマン人の多くは異端とされるアリウス派でしたが、5世紀には、メロヴィング家のクローヴィズがメロウィング朝と王朝を建て、周囲の民族を従えると、キリスト教の正統派であるカトリックに改宗します。

ゲルマン人の多くは異端とされるアリウス派でしたが、クローヴィズがいち早くローマ帝国で正統派とされていたカトリックに改宗したことで、今までローマ帝国の貴族や市民だった人々も「ゲルマン人の支配であっても受け入れてやろうかな」という気持ちにさせられ、フランク王国が西ヨーロッパ中心勢力となる基盤を固めていきました。

共和制→帝政→王国と。一旦、共和制はあったけれども、独裁の方が統一しやすかったんですね

そして、支配するにしても、この当時からキリスト教カトリックの勢力は強かったみたいです

メロヴィング王家の相続方法は、子どもに人数分の領地を分け与えるという分割相続だったため、王の領地は次第に小さくなっておトロイ定期、代わりに宮宰という最高の行政職が権力を握るようになります。

宮宰の中でもっとも有名なカール=●テルは、メロヴィング朝の実験に握り、イベリア半島からフランク王国に迫っていたイスラーム勢力をトゥール・ポワティエ間の闘いで破ります。

カール=マルテルは、メロヴィング朝を倒す実力を持っていたものの、宮宰の地位にとどまっていました。

その子ピピンの時代になり、メロヴィング超の王から権力を奪い、カロリング朝をひらきます。

このままでは単なるクーデターであり、王位を奪ったという汚名だけが残ることになりますが、ピピンは宗教勢力を活用します。

スポンサーを求めていたキリスト教会の長、ローマ教皇に土地を寄進してクーデタを承認してもらい、キリスト教世界後任の王としてフランク王国の継承を認めてもらいました。

やはり、キリスト教会を味方に付けることが中世ではかなり重要となっていますね。

ピピンの子であるカール大帝フランク王国を巨大化させ、現在のドイツ、フランス、北イタリアにまたがる広大な領土を手にします。

ローマ教皇ピピンに続き、その子カール大帝にも接近し、関係を深めてズブズブになります。

ローマ教皇レオ3世は、カールに300年以上も前に滅びた西ローマ帝国の冠を授け(カールの戴冠)、フランク王国を新しい西ローマ帝国と見立てその復活を宣言し、キリスト教勢力の拡大に図りました。

カールが獲得した広大な領地は、カールの子の代までは維持しますが、孫の代になると、孫同士で領地を奪い合うようになります。カールの孫たちは、フランク王国東フランク王国西フランク王国、イタリアの3つに分けました。

これが、現在のドイツ・フランス・イタリアの「ルーツ」になります。

ドイツは、歴史的に東フランク王国神聖ローマ帝国と名前が変わっていき、ややこしいです。

ゲルマン人の大移動と、それに続くフランク王国の分裂は、ヨーロッパの「多様性」をつくる1つ目の動きでした。

2つ目の動きである新たな民族移動は北ヨーロッパから起きて、ノルマン人(海賊や商業交易で知られるヴァイキング)の移動がありました。

ノルマン人は、北欧諸国やフランス北西部(ノルマンディー公国)、南イタリア両シチリア王国)、イギリス(ノルマン朝)、ロシア(ノヴゴロド国)など次々と建国していきます。中でも、イギリスの「ノルマン朝」はフランスの「ノルマンディー公」だった創始者の「征服王」ウィリアム1世がイギリスを征服して建てました。

以降、イギリス王は、現在の王に至るまで全員が元をたどればウィリアム1世にさかのぼれるという、イギリス王家の源流になります。

西ヨーロッパの民族移動の中心はゲルマン人やノルマン人でしたが、東ヨーロッパの民族移動の方が、スラヴ人が中心になりました。

ゲルマン人の異動が落ち着き、フン族の帝国が崩壊すると、その空白地帯に拡がるようにスラヴ人が移動をはじめ、各地に国を建設します。

スラヴ人と言われた人々は、いわゆる「ロシア人」となり、先に出来ていたノルマン系のノヴゴロド国の人々と同化していきました。

ロシアはギリシア正教を受容し「ロシア正教」といわれるようになります。

西に拡がった人々はポーランド人やチェック人(現在のチェコのルーツ)と呼ばれ、中でも、ポーランドは東ヨーロッパの一大強国に成長しました。

南のセルビア人やクロアティア人などは、のちにオスマン帝国(トルコ)の支配下に置かれてしまいました。

これらのスラヴ系の国々は「ギリシア正教を受容したロシア人やセルビア人」と「カトリックを受容したポーランド人やクロアティア人」と「オスマン帝国に支配されたセルビア人」というように宗教や国家による分断が進み、東ヨーロッパに多くの国が密集する要因となりました。

こうして、ゲルマン人、ノルマン人、スラヴ人などの動きは、様々な国の「ルーツ」を作りました。

たとえば「フランス」は「ラテン人ベースにゲルマン人が入り込み、ノルマン人が北西に乗っかった」ような国ですし、ドイツは「ほぼゲルマン人の国」というように、中世前半の民族移動が、現在の国の民族構成や言語・文化に大きな影響を与えています。

指輪物語の種族の違いのルーツもこういった民族の違いをモチーフにしているような気がしますね

ヨーロッパ諸国は、ローマ帝国の後から、小国が多く連なったままですけど、この辺は中国と違ってヨーロッパが広大な平野がフランスが最大で存在せず、アルプス山脈のように山、川、森が国境になっていますよね。中国のように巨大な平野で出来ている大陸だと、統一しやすくなってますよね

どのように「中世」で、教会は権力を最大にしてきたのか。

ローマ帝国末期、それまでキリスト教を弾圧していたローマ帝国は、一転、キリスト教の保護に回りました。

そして、帝国内のご本山といわれた5か所の教会がキリスト教の中心として成長します。

中でも「ローマ教会」と「コンスタンティノープル教会」の2つは、それぞれローマ帝国の新旧の都の教会にあたり、キリスト教の主導権を競い合う関係にあります。

そんな中、ローマ帝国が東西に分裂してしまったため、ローマ教会は西ローマ帝国コンスタンティノープル教会は東ローマ帝国ビザンツ帝国、現ギリシアらへん)のそれぞれ保護下に着いたのです。

なぜ、教会は国の保護を受けなければならなかったかというと、教会はあくまで「精神世界の権威者」のため、実際に教会を建てたり、布教をしたりするときには「現実世界の権威者」というスポンサーが必要だったからです。

わかりやすく例えるなら創価学会公明党統一協会自民党をスポンサーとしている感じです。

宗教団体の組織票は強力なので、権威者もその宗教を利用する価値があります。

ところが、「ローマ教会」を保護していた西ローマ帝国は、ゲルマン人の移動のあおりで滅亡します。

スポンサーを失ったローマ教会は、異民族のゲルマン人国家に周囲を囲まれることになってしまったのです。

ゲルマン人の信者をすぐに位置から獲得しなければならない状況に陥り、なりふりかまっていられなくなったローマ教会は、キリスト教では本来「禁じ手」だった「聖像」を使った布教を行います。

ローマ教会が聖像に手を出した理由は、言語も習慣も違う「異民族」のゲルマン人たちに布教するには、十字架の上で傷ついたキリスト像や慈悲深い表情を浮かべたマリア像をみせた方が話が早かったからでした。

ライバルのローマ教会が「禁じ手」を使っていることを知ったコンスタンティノープル教会は「主導権を握るチャンス!」とばかりに、ローマ教会を一斉に非難します。

そして、ビザンツ皇帝のレオン3世が聖像禁止令を出してローマ教会の聖像布教に「待った!」をかけると、ローマ教会とコンスタンティノープル教会の対立は頂点に達し、両社の分裂は決定的となります。

いつしか、ローマ教会はカトリック(普遍=みんなのキリスト教)、コンスタンティノープル教会はギリシア正教(正しいキリスト教)と名乗るようになり、別々の宗派として存在することになります。

宗派の分裂後、ギリシア正教は依然としてビザンツ皇帝の保護下にありましたが、カトリック教会は自分で西ローマ帝国に変わるスポンサーを探さねければなりませんでした。

そんな矢先に、ゲルマン国家の中で急成長してメロヴィング朝を始めたフランク王国のクローヴィズが自らカトリックに改宗します。

これは、カトリック教会にとって、まさに渡りに船の出来事でした。

カトリック教会はフランク王国に接近しはじめ、ピピン教皇領をもらい受けます。

そして、カール大帝は東フランク王のオットー1世に西ローマ皇帝の冠を授け、フランク王国神聖ローマ帝国を「西ローマ帝国」に見立て、スポンサーになってもらって保護を受けようとしたのです。

しかしながら、せっかく冠を授けたフランク王国は分裂してしまい、神聖ローマ帝国も今一つ国内が不統一でした。

他の国の王権も軟弱だったため、後ろ盾を求めたカトリック教会が、結果的に西ヨーロッパで最高の権威者になっていきました。

そして、国王たちの誰もがローマ教皇にひれ伏す状況になるのです。

カトリック教会は、西ヨーロッパ世界全体の農民から十分の一税という税を取り立てて経済力をつけると、教会の高位の聖職者が諸侯と並ぶ大領主になり、精神世界のmならず、実世界の支配者にのしあがりました。

ところが、絶大な権威を持ったカトリック教会は、次第に金と権力にまみれるようになっていまいます。

「司教」や「大司教」といわれる高位の聖職者になれば、そこらの王様よりも良い暮らしができたため、賄賂を贈って聖職者になろうとする者が後を絶たず、教会の腐敗が進んでいってしまったのです。

なろうで欲出てくる意地悪い「教会」が出てきました

腐敗と堕落が進むカトリック教会を引き締めようと、ローマ教皇のグレゴリウス7世は聖職売買を禁じて、聖職者を任命できるのは教会のみであるとしました。

しかし、神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世は、不安定な国内を聖職者の任命を肯定が行うことで聖職者たちに「恩」を売り、手名付けることによって国内の安定を図っていたため、任命禁止に反発しましたが。

グレゴリウス7世はハインリヒ4世を波紋にしました。

当時、キリスト教会からの波紋は「社会からの追放」に等しく、諸侯から「波紋にされた人間に従うつもりはない!」と廃位の決議をされてしまう程です。

追い詰められたハインリヒ4世は、教皇に波紋を解いてもらおうと、雪の中、裸足で3日感もグレゴリウス7世のいるカノッサ上の門の前に立ち尽くして謝罪し、やっとのことで許しを得ます(カノッサの屈辱)。

この事件によって人々はローマ教皇の権威の絶大さを再認識することとなり、ローマ教皇自身も、その後、自分に逆らおうとする王が現れるたびに、自らの権威を誇示するかのように「波紋戦術」を用いるようになります。

キリスト教徒じゃない人間だと、社会全体を敵に回すことになるわけですね。

それは、教会は強力ですわ

巨大なフランク王国が分裂して、相対的に教会の力が一番になったのも中世のポイントですね。中世は小国がたくさんあること、教会の権力が強いことはナーロッパの基本セットでした

ナーロッパの「封建社会カトリック教会の成長ともう一つの中世ヨーロッパ社会の要素「封建社会」の成立は、ヨーロッパに「多様性」を生み出します。

封建社会」とは、「土地を与えることによって主従関係を結ぶ」というような意味です。

王は諸侯に、諸侯は岸に、というように土地を与えて主従関係を結んでいます。

土地を貰った過信はそのお返しに、軍役、つまり、主君の要求に応じて戦いに参加をする義務を果たします。

また、ちょっと不思議な部分がありまして、ヨーロッパの封建社会が双務的な契約関係で出来ていたため、主君が家臣に土地を与えることも、家臣が軍役を果たすこともお互いの合意の上の「契約関係」であり、契約を別々に結べば、複数の主君を持つ事も可能ですし、契約さえ成立すれば、起始階級でも王と直接主従関係になることも可能でした。

また、「契約関係」なので、家臣から契約を解消することもできます。

まれに、ある国の王が他の国の家臣になっていることもありました。

家臣が複数の主君を持つ場合、その主君同士が戦ったら、片方の主君からもらった土地を返上し、味方に付きたい方へ軍役を果たすことになります。

したがって、この頃の「国」は、国境が明確な現在のような国と違い、「この辺まではおおむねこの王の影響が強い」という「契約関係の及ぶエリア」が「国」とされており、国境はかなり曖昧だったのです。

封建社会の成立の結果、ヨーロッパは「この人の領土」「あの人の領土」「ここはこの王の影響が強いが、ここから先はあの王の影響が強い」と様々な領土がモザイク状に存在することになり、現在のヨーロッパの「多様性」が生み出される要因になります。

封建社会において、主君から土地を与えられた家臣は、領主としてその土地を運営することになります。

農民たちは農奴と言われ、領主の厳しい支配の元で様々な税負担を課せられ、搾取されていました。

異世界に出てくる農民は、諸侯か騎士に与えられた土地に住んでいる形となるわけですね

しかし、この体系が1000年続いていて国家間同士の戦争等も近代と比較したらかなり緩かったそうです

教会の失墜する原因 異世界でもよく「教会」は悪とされますが現実世界はどうだったかというと、「中世」において、その中間点に位置した事件「十字軍の派遣」があります。

ヨーロッパの民族移動が落ち着き、ヨーロッパの元が出来上がりつつあった頃、東の方でイスラーム教国家のセルジューク朝が強大化し、ビザンツ帝国(現ギリシア辺り)を圧迫してきたのです。

そればかりか、キリスト教イスラーム教共通の聖地だったイェルサレムを占領し、イスラーム教徒が独占してしまいます。

圧迫を受けていたビザンツ帝国は西ヨーロッパ世界にSOSを発信し、救援要請を受けたローマ教皇ウルバヌス2世は、クレルモン宗教会議を開催してイスラーム勢力打倒とイェルサレムの奪回を図り、十字軍の派遣を決定します。

7回実行され、結果は「1勝3敗1分2回ノーカン」でほぼ失敗。

「神が味方に付いているから絶対勝てるぞ!」といって意気揚々と送り出した十字軍が敗北を続けたため、十字軍の言い出しっぺのローマ教皇の説得力がなくなってしまいました。

そんなローマ教皇の権威が低下したことの象徴がアナーニ事件という出来事です。

十字軍後に登場したフランス王フィリップ4世が国内の聖職者への課税を行った際、教皇ボニファティウス8世は「キリスト教会に課税をするとはなにごとだ!」とローマ教皇にとっては「いつもの」破門戦術で、フィリップ4世を破門に処したのです。

ところが、フィリップ4世は謝罪しないばかりか、逆に家臣を派遣してボニファティウス8世を襲撃します。ボニファティウス8世をぶん殴って、フランスに連行して監禁しました。

ボニファティウス8世は、かろうじてローマに脱出しましたが、あまりの屈辱により、その後「憤死」したと伝えられています。プライドの塊みたいですね。

十字軍前の「カノッサの屈辱」では、国王が教皇に謝罪しましたが、十字軍後は、国王が教皇を屈服させるという逆転現象が起きたわけです。更に、フランス王フィリップ4世は、ローマ教皇にゆさぶりをかけます。

ローマ教皇に自分のおひざ元のフランス人が選出されたのを機に、教皇庁をフランスのアヴィニョンという街に移し、カトリック教会そのものを自分の監督下に置こうとしたのです。

以降、約70年にわたってローマ教皇はフランスに移住することになり、教皇を奪われた格好になったイタリア人(特にローマ市民)は大いに憤ります。

のちにローマ側も教皇を独自に縦、フランスの教皇ローマ教皇が並び立ち、正統性をめぐって争うこととなります。

フランスが後の百年戦争と言う争いで弱体化し、教皇庁を手放すまで続いたこの教皇のバビロン捕囚と教会大分裂というゴタゴタ騒ぎは、教会の権威の低下を示す事件となりました。

こうした教会の権威の低下に対し、教会を立て直して権威の回復を図ろうという運動が起きるものの、プライドが高いため、教会はこうした立て直し運動をむしろ「教会への批判」ととらへ、異端尋問や魔女裁判を強化して弾圧を加えました。

そして、聖職売買(金で聖職者になれる)などの腐敗が信仰するカトリック教会に対して正論を述べて立て直そうとする者には弾圧をしました。

そのため、教会への批判が日に日に高まっていき、のちの宗教改革へとつながっていきます。

中世ヨーロッパの経済事情

貨幣経済までの過程

中世ヨーロッパの経済のお話の前に、経済の歴史の起源から説明すると、中世ヨーロッパはどの程度の文明経済だったのかわかりやすくなります。

農耕や牧畜が始まるまで、人類は食料を求めて移動し、狩猟や最終で食べ物を集める「獲得経済」でした。

やがて、「生産経済」により、生み出された穀物や家畜は、肉や果実などよりも長期の保存がきくため、人々は貯蔵地の近くで暮らし、定住がはじめしました。

この時、身分制度・管理社会ができたと述べましたが、蓄積が可能になったことで、余った生産物は分配や交換、交易の大将になり、それを「貸し」たり「借り」たりするという一連の「経済」が本格的に始まりました(「物品経済」)。

古代中東メソポタミアでは、乾燥地帯なので、川から一定距離以上離れると農耕はできなくなります。

これらの周辺地域では乾燥に強い羊やラクダを飼う遊牧民が生活していて、遊牧民が、穀物を手に入れるためには、大河周辺の人々と羊や岩塩などの交換するほかありません。

当初、この好感にはヒツジや穀物、岩塩などの「物品貨幣」を用いていましたが、次第に「銀」の重さを量って、袋に入れ、交換に使うようになりました。

穀物や家畜は保存がきくといっても数年が限度ですが、銀はさらに保存がきき、何年も蓄積すれば「貯金」ができます。

貴金属として程よい価値と光沢を持ち、半永久的な価値を持つ銀は、誰もが勝ちを認める「通貨」として地位を得ました。

経済市場に大きなインパクトを与えたのは、小アジア半島の国家、リディア王国における「コイン(硬貨)」の誕生です。砂金が豊富に取れたリディアでは砂金を袋に入れ、使うたびに重さを量って通貨としていたのですが、リディアの王クロイソスが筋の重量をあらかじめ量って小分けにし、溶かして円盤状に固め、刻印をつけて「硬貨」の形に刺せたのです。

次第に、「リディアが刻印した硬貨は、どれを量っても同じ重さだ」という共通理解が生まれると、リディアが発行した硬貨の重さを誰も疑うことなく決算に使うようになります。お金に金属以上の価値、「信用」が加わった瞬間です。

人々は「金属」そのものよりも「コイン」での取引の方が便利だとわかると、コインを盛んに使うようになりました。

取引の時間が短縮され、商業の規模が拡大します。

いつしか、リディアの硬貨は金そのものよりも「信用」という価値のあるモノと認められるようになります。

十字軍の派遣を後押しした「商業ルネサンス

長居ヨーロッパの転換点となったのが、十字軍と言われるキリスト教諸国が行ったイスラーム勢力に対する遠征です。

結果的に十字軍はイェルサレム奪還に失敗し、教会の権力が失墜するわけですが、それと同時に経済的な影響をヨーロッパに及ぼしています。

十字軍は大規模な軍事行動なので、たくさんの兵士が動員されますし、莫大な物資も必要になります。

ひと、ものの動きが多くなると、当然そのルートとなる街道や海路が整備されますし、軍需物資の買い付けに貨幣も使われたのでしょう。

現在のイギリスやドイツから、遠征先のシリア、パレスチナまでの広い範囲の産物が行き来するようになります。

十字軍によるヒトやモノの活発な交流、交通の整備、貨幣経済の復活、遠隔地貿易の発達などが「中世都市」といわれる多くの都市を生みました。

主要な経済圏としては、リューベックハンブルクなどで知られる北ドイツのハンザ同盟、フランスのシャンパーニュ地方、アウクスブルクなどの南ドイツの諸都市、ミラノ、フィレンツェヴェネツィアなどの北イタリアのロンバルディア同盟などがあります。

農村の貨幣経済

農村では比較的な温和な気候の元、土地を「春に種をまく農地」「秋に種をまく農地」「土地を休ませて生産力を回復する農地」の3つに回して運用するという三圃制といわれる農法や、重量のあるアレを牛にひかせる農法などにより農業生産力が向上していきました。

そこに、都市の発展に伴う「貨幣経済の発達」という要素が加わります。

都市には、温かい毛織物の服や、銀で飾られた鎧、おいしそうな食べ物、食べ物を更に美味しくする香辛料、宝石など、各地から運ばれてきた産物があります。

領主は、そうしたぜいたく品を手に入れるため、「貨幣を得たい」という欲が増大していきます。

そのため、農奴を支配している領主は、生産物を納めさせるよりも、貨幣の形で収入をほしがるようになります。

そこで、税の納め方を生産物から貨幣に切り替える領主が続出しました。

農奴農奴で、生産物を商人に売って貨幣に換え、税を払うわけですが、手元に残った、自分たちの取り分の生産物もお金に変えるようになります。

農業生産力は向上していくので、農奴が手にするお金の額も次第に多くなります。

また、貨幣は農作物と手がって腐らず「価値の保存」が可能なので、子孫にも受け継がせていくことができます。

こうして、立場の弱い農奴も、コツコツと貨幣を貯めることによって経済力を高めることで、領主に対して税を支払うことと引き換えに「見返り」を要求するなど「少し強く出る」ことができるようになったのです。

より多くの税を払う代わりに、農奴は領主から自らの土地の所有や、土地の売買を認めてもらうことを要求し、それまでの領主が農奴を強く支配するという「荘園制」が緩み始めていく時代の過程があります。

これは、日本の平安時代中期の班田収授法の流れと全く同じです。

貯金をする、または、資産をもつと人は強く出られる。

今の日本は格差が広がってみんな生活保護を受けるレベルまで困窮し続けて、周りの政治のことなんて考えられないから、何が起きているのかわからずスマホ維持ってバカになり続ける。逆のスパイラルを突っ走っている感じがますね。

ナーロッパの住民たち

領主

領土は、中世ヨーロッパの貴族たちの収入の基盤となる支配領域になります。彼らは、ここで得られる税収によって食べ、着飾り、戦った。

領土は王や個人的な財産ではない限り、主観からの中世の代償として下賜されたものです。

領土とその他の土地の区分はあいまいであり、所持者が死亡後も世襲で継承されることが多いです。 教会への習慣とサクラメント サクラメントとは神と人とを繋ぐ儀式です。

人生で決まった節目に行われるサクラメント

洗礼(誕生、キリスト教入信):身体を水に浸す

堅振(7歳):頭に手を置き祝福する按手と塗油を受ける

婚姻(結婚の際):教会が男女を取り持つ

終油:人生の罪を告白。司祭に塗油される 衛星概念 外出前に洗顔、手洗い。木の葉や歯磨き粉で歯磨き、行水程度のことは頻繁に行います。

しかし、都市部でのゴミや便は道路に廃棄するか放し飼いの豚に食べさせていました。

農村部のトイレとゴミは肥料として大半はリサイクルしていました。

疫病 14世紀にペストによって、最盛期では2500万人死亡しました。

十字軍の派遣によってもたらされた天然痘もはやりましたし、インフルエンザは中世時代多くの人命を奪う病でした。

法制度・刑罰 10世紀~15世紀は画一的な法が消滅して、各地で判決発見人が過去の判例を元にして法令集を作ることになりました。

裁判官は主に皇帝や王、領主や役人でした。 反逆、放火、魔女などの異端者、殺人、誘拐、姦通、重窃盗、強盗→死刑 結婚制度 一夫一妻制であるものの、一夫多妻制も多くあり、離婚は許されず、子作りのための制度で、色欲を防ぐために教会が作った制度です。

貴族や騎士などの貴族階級の婚姻は、個人同士の意思は介在せず、双方の財産や領土、あるいは決闘的価値、外交関係こそが問題となりました。

基本的に女性軽視社会でした。

交通

中世ヨーロッパは、広大な森林の中に都市や村落が点在するという環境で、農村はその深い緑の海に隔絶された島にすぎませんでした。

ヨーロッパの薄暗い森は、一度迷い込めば二度と出られないと思われるほどに入り組んでいて、そこを通って周囲を把握することはたとえ軍隊でも困難で、1356年のポワチエの戦いでは、追撃側のフランス軍がいつの間にかイギリス軍に追いかけられていたという珍事も起きています。

また、そこに住む猛獣たち、中でも狼は人間にとって大きな脅威として恐れられていました。

よって、森は異教的な迷信が生きる世界で、人々は森の中は悪霊や養成の世界と考え、夜には戸口まで森が拡がってくるのだと信じていました。

その一方で、森は恵みをもたらす存在でもあり、森を構成するオークやブナは豊かな腐葉土やどんぐり、木材を人間に提供していました。人々を森を切り開き焼き払うことで豊かな農地を手に入れ、豚を解き放ち、どんぐりを食べさせて肥育し、冬に備えました。

木材は建築資材となるだけでなく、家事仕事やレンガ焼きの材料にもなりました。

11世紀後半に入ると、鉄器の普及により開墾事業は爆発的な発展をとげて、許可なく着の皮をはげば厳罰でしたが、そのかいもなく、緑の海は耕地や荒野へと変わっていきました。

実は交通網に関しては結構発展していました。

王の道、街道と呼ばれる道は、軍事や商業活動のための大規模な道で、刀法への異動に利用されていました。

それらは、ローマ帝国が用いた街道を元にしたものが多いが、当時の塗装は失われ、砂利と石灰を撒いただけの道で凸凹して歩きずらいようになっています。

村落の道は単に道や小道などと呼ばれ、農耕地と行き来する農道や協会などの施設へと移動するために用いられていました。

接地や維持は村落によって行われ、勝手に道を作ったり耕作をすることは厳重に禁止されていました。

道を移動するための手段は徒歩が主流で、長い時間と危険を伴います。

森に囲まれ、荒野を通る道や野盗やオオカミに襲われることも珍しくなく、そのため、旅人は普通集団になるか、護衛をつけた大将などと同行するなどして自衛していました。

道路の状態が悪いため馬車での移動は不快であり、重量物か貴婦人などにしか用いません。

軽い荷物を運ぶ場合は、馬やロバの背に積んで歩いていました。

水上移動は、陸路より迅速で快適な移動が可能になります。

カイロは地域によって船が異なり、北方ではノルマン人が河川でも運用可能なヴァイキング戦を都市流星後はハンザ同盟が、対波性と操作性の良いこぐ、あるいは寡占で使える古くを用いていました。

情報伝達・郵便 したがって、情報伝達は人力に頼らざる得ません。

軍事的な緊急事態は、伝書鳩などを通信手段として使うことも出来ましたが、それらの情報量は決して多いとは言えず、詳しい情報や文章は人が自ら伝えなければなりませんでした。

王や領主、司祭などの権力者は専門の伝令を雇い、聖職者がラテン語で高価な羊皮紙に書き記した手紙を持たせてし使者としました。

伝令は聖別された特別な使者としてみなされ、無用な手出しは禁止されていたが、それが守られていないこともしばしばでした。

一般の情報伝達は、旅芸人や楽師、遍歴職人や巡礼といった旅人が担っていました。

肉屋も新鮮な家畜を地方に買い付けに訪れていたので、農民たちの郵便屋として長い活躍することにもなりました。

旅人たちは主に自分の記憶と口で依頼者の伝言を伝えていましたが、14世紀に入ると製紙産業が盛んになったことから、一般人でも手紙で情報のやり取りができるようになりました。

事件や事故の情報はうわさや伝聞で伝わったが、中世人たちは用心深く、カッコたる証拠がない場合は信用しませんでした。

都市の商人たちは、自衛のために槍や石弓で武装を許されており、専門の衣服を身につけ、手紙を入れる壺を携帯していました。

伝道師が説法の中で伝えられう事件や事故も貴重な情報伝達の手段でした。

農民(自由民)

自らの土地を所有し、自由権を持つ人々。伝承されていることは少なく、多岐にわたるそうです。

農奴

自分の土地を所有せず、他者の土地を耕作する人々で基本的には、労働力以外は何も保持していませんが、領主としても、反乱や逃亡による労働力の減少は防ぎたいため、耕作する土地は慣習的に世襲で引き継がれ、豊かなものは大きな家屋敷で暮らすことも出来ました。ある程度の権利や自由は保証されていたと言われています。

主な栽培

  • 麦(オート麦、ライ麦、スペルト麦、小麦)
  • 豆類(エンドウ豆)
  • 衣類(麻、亜麻)
  • 野菜類(キャベツ、レタス、玉ねぎ、人参、カブ、ニンニクなど)
  • パセリ、ショウガ、からし、オリーブ、葡萄

基本的に農民は、朝食・昼食にかちかちの黒パンとビール 夕食にそれ+まめと野菜のスープでした。

ヨーロッパの水は細菌だらけで飲めないためビールにしていたそうです。 葡萄があればワイン、エールも酒類として存在しました。

主な農村の施設

  • 教会・墓地
  • 井戸・水場・水車小屋
  • 共用かまど
  • マナーハウス(領主の館。裁判所や倉庫、避難所などにも使用)
  • 広場・村長の家・居酒屋

水車小屋は、穀物脱穀。占領、鉱石の粉砕、すりつぶし、羊毛のフェルト加工に使用します。 設置費用が莫大なため、有料。

「粉挽き」という人がいて、水車小屋は一種の異界と見立てられていました。

水車小屋の周りには締首台が接地されています。

共用かまどは領主の物で非常に効果。ここにも専門の「パン職人」が存在します。

家畜

家畜は貴重な労働力で、生きた食料貯蔵庫になっていました。

運搬用の家畜→ロバ、ラバ

肉と乳を得るための家畜→山羊、食用豚

肉と卵を得るための家畜→ニワトリ、カモ、ガチョウ、鳩

乳を得るための家畜→メス牛 毛と肉を得るための家畜→羊

12月に養えない家畜を選別しト殺して肉にします。

肉は領主にもっていかれるし、保存をするために、豚の血で出来たソーセージなどが食べられていました。

牧人

羊飼い、豚飼い、牛飼いなど様々な種類の牧人がいます。

玄頼、農村出身者でしたが、民間治療は呪いに通じた異教的存在とみなされて、共同体の一員として移住は望まれていませんでした。

家畜による他人の田畑への被害、家畜の病気や怪我は牧人の損害扱いのため民間伝承的医療技術に通じている。

春先に行われる復活祭で一斉に放牧をして一番最初に牧草地にたどり着いた動物や、しんがりの動物が祝福を与えられるなどの盛大な祭りがおこなわれます。

その後、牧人たちは長く孤独な放浪生活へを入っていきます。

放浪生活の中で、最も恐ろしいのは狼で、多数の家畜を管理する牧人一人で狼を退けることは難しく、また自身が犠牲になる危険すらありました。

冬に入ると牧人は村に帰り、客人として歓待と報酬を受け取るなどをして生計を立てていたそうですね。

御料林長官 王の財産である御料林を守る役員。中世ヨーロッパは基本的に森林に覆われていることから、御料林長官をトップに、御料林官、樹木管理官(樹木管理)、森番(狩猟場)、家畜飼育人(放牧料徴収) 森の職人 森林で得られる木材を、木炭に加工する人々。

製鉄、製塩、陶磁器の製造、硝子の製造など多岐にわたります。

8月~10月にかけて働き、それ以外の期間は、周辺の村に出て労働者としても働きます。

木炭と鉄鉱石を共に焼いて金属を得ますが、こうした精錬法は小規模で効率の悪い物にすぎませんでした。

鍛冶屋

農村の鍛冶屋は元々領主に使える職人で、龍種から、村の農民が使う農具を製造する独占権を得ています。

そのため、農民が農具を手に入れるには、鍛冶屋の相応の手数料や素材を持ち込まなければなりませんでした。

鍛冶屋では、鎌、鉈、斧、ナイフ、刃物、鍋、やかん、コップ、のこぎり、はさみ、釘、蹄鉄等、水車の修繕もやっていました。

燃料はもっぱら木炭でした。 都市の金属加工業者は何でも手掛ける農村の鍛冶屋と違い、金銀細工職人や貨幣鋳造業者を頂点に、武具職人、刃物職人など多くの専門的な分野に分かれていました。

また、鍛冶屋は騒音問題や防災上の見地から、都市周縁部への居住を余儀なくされていました。

また、鍛冶屋自身も水車の施設を利用しやすい地域に居住する必要がありました。

ギルド

さて、異世界といったら「ギルド」です。

自分たちの生活保護や作業の安定化のために相互協力を行うための組織です。

都市の中では、商工業の様々な組合である「ギルド」が作られます。

「商人ギルド」は大聖人を中心とする組合で、中世都市の行政権を持っていました。

一方、「同職ギルド」という手工業者の組合もありました。

ギルドに入会するためには定額の加入金に加え、その年の市民権の取得、賤民でないことの証明、親方就任披露の宴会を開く費用、そして、職人であれば、親方になるための技量を選定する作品の提出が求められました。

同業者組合に必要なのは、1つの金庫、1つの印、1つの標識です。

ギルドは終業時間、扱う商品の売却数、商品の品質の維持、販売価格を取り決め、互いに不利益が起こらないように定めます。

勝手に商品の値段を吊り上げたり商品の供給を怠らないように、常に市当局の監視を受けていました。

雇用可能な職人の数や雇用方法についての取り決めもなされており、職人の引き抜きも厳しく禁じられていました。

職人は技術者であることから賃金は保証されていましたが、親方から独身の強要をされたり、雇用期間も週雇い日雇いなど不安定でした。

また、熟練工は親方への昇進試験を受けることになりましたが、親方の増加を嫌うギルドにより、職人遍歴を強要されることもありました。

女性の権利意識が低いとみられがちな中世ですが、女性の職人もいました。

彼女らの賃金は男性よりは低かったですが、その分雇用機会がありました。

特に、金糸職人、防止職人や絹織物職人など被服関連には女性職人が多く、親方の妻も仕事を手伝っていました。

作業時間は、通常夜明けから日没までで夜は照明代がかかるため終了。

また、長時間の労働は商品の過剰供給や質の低下を招くため、ギルドは労働時間を厳格に管理していました。

休日は通常、土曜の正午から半日と日曜日1日で、その他にも祝祭日やギルドのミサの日も休業でした。

建築業ギルド、馬具職人ギルド、皮革加工ギルド、画家、看板描きギルド、肉屋ギルド、床屋ギルド、医者ギルド

商人は「販売者」、手工業者は「生産者」なので、商人は手工業社からできるだけ安く生産物を買いたたこうとし、一方の手工業社は自分の商品を高く売ろうとするので、お互いの利害はしばしば対立しました。

のちに同職ギルドも都市の行政に参加する権利を得て、市政に加わるようになっていきました。

ギルドは都市の市場を独占し、自分たちの「既得権益」を守るために、自由な競争を禁止し、組合に加盟していない商工業者やよその街からやってきた商工業者の活動を禁止し、締めだしました。

ギルドには厳しい上下関係があり、商人ギルドの商人は使用人を、同職ギルドの親方は職人や弟子を指導して労働させていました。

また、ギルドの親方株は定員制なので親方を目指す職人を減らしたり、外部から来た若い職人たちを使い潰したいために親方を目指す職人が新たな技術を学び、人格を磨くために諸国を遍歴する制度「遍歴職人制度」が14世紀頃に始まり、後に義務化されました。これは、会社のポストと同じですね。

実際、ギルドに入会できない人もいるため、零細な職人や市民、女性は会員として請けいられることはなかったため、彼らが社会的地位の向上のために兄弟団と呼ばれる組織を利用した。

兄弟団

兄弟団は本来宗教的な団体で、死後の平穏を得るために滞りなく埋葬されるべく、入会者たちが金銭的、人的に助け合うことを目的としていた。兄弟団の入会者は、団が定めた聖人を崇拝し、契約した修道院の祈祷のためのろうそく収めミサや奉仕活動を行いました。

中世後期に入ると、兄弟団は労働組合的な色彩が強くなっていき、老小津条件の向上のためのストライキなどを盛んにおこなうようになりましたし、会合を開くためのスペースを得るため二や度と契約を結び職人宿や酒房としました。

部外者に対して悪用されないように、兄弟団は秘密のあいさつや特殊なステップを作り、入会者を判別していたそうです。

この閉鎖性と遊び心は、やがて古代密議宗教のそれと結びつき、最終的には知的な遊戯の場である秘密結社の誕生へと繋がっていきました。

成長した都市の大聖人の中には、南ドイツ、アウクスブルクの大富豪であるフッガー家や、イタリア中部、フィレンツェの大富豪であるメディチ家など、「貴族」と見まがうほどの大金持ちも現れます。

当初、フッガー家は農業の片割れで織物を織る職人の家計でしたが、ヴィネツィアから織物の材料を購入しているうちにほかの産物の売買もおこなうようになり、更新料取引で財をなすと、のちに銀山や銅山の経営を行って「ヨーロッパの鉱山王」となり、金融業まで行うようになります。

一方、メディチ家も金融業で躍進します。フッガー家メディチ家とともに、資金面でローマ教皇をバックアップしたことで、権威がさらに高まりました。

異世界では「冒険者ギルド」という組合が結成されているので、「商業ギルド・同職ギルド」の一つで、システムも類似するものと考えてよいでしょう。

冒険者になるために、冒険者ギルドに登録しなければならないのは、よそ者の活動を禁止するためなんですね。

騎士

中世ヨーロッパにおける源流はゲルマン社会、特にノルマン人やフランク王国の従士たちで、主に臣従と忠誠を誓うことで特別な庇護を与えられていました。

この忠誠、奉仕のの思想は封建社会の確率後も継承され、忠誠を示した戦士に封土や徴税特権を与え、代償として義務を果たさせるレーエン制へと発展しました。

起始は一種の貴族的階級を形成するようになるが、武功や財力のある農民や商人が騎士に任じられることも、王や大領主が騎士を名乗ることもありました。

騎士は、市民に対して略奪、徴税し放題で市民から嫌われていましたが、やがて、それを防止するためのあってか、十字軍運動で教会が主導したキリスト教に使える騎士という概念は主君への忠誠、キリスト教への忠誠、女性への奉仕という理想を生み出し、この理想は、叙事詩で繰り返し語られ、騎士道と言う独自の気風を生みました。

騎士の子供は7歳くらいになると、行儀見習いとなり、14歳くらいになると従卒として戦士としての技術を学び、騎士叙任式でミサと祝福が行われ、新しい武具と拍手を授けられます。その際、彼の主君は掌か剣で新たな騎士の頬や肩を強く打ち、その後、新たな騎士は、その身分に相応しい技量を乗馬や的当てなどで示して、騎士となっていきます。

尚、叙任式は多額な費用が掛かるため、まずさから騎士に叙任されないものもいました。

傭兵

中世末期、戦士階級だった騎士たちは、貨幣経済の発展やペストの流行によって所領からの収入が減少したことで、戦うための資金や気概を失っていました。

また、振興の都市でも市民を犠牲に竹刀戦力が求められていました。そうしたニーズに応えて台頭したのが傭兵です。

12世紀ごろの傭兵は食い詰めた騎士や従卒、食のない農民や職人の個人的な仕事にすぎませんでした。

しかし、14世紀以降、より組織化された傭兵団が誕生ししました、傭兵組織は、まちまちで、有名なのは長槍兵として知られるスイス傭兵、石弓が得意なジェノバ傭兵、勇猛さを誇るドイツのランツクネヒトなどがありました。

傭兵団は雇用主に決まった期間雇用され、その際に契約金を得ます。また、戦場で捉えられた人質の身代金、戦場での略奪の権利も与えられました。

略奪には一定のルールがあり、略奪対象は武器や防具、馬が中心とされていて、貧民からの食料や家財の略奪、暴力は軽蔑される行為であったが、実際にはお構いなしで略奪することが多々ありました。

吟遊詩人・道化師

主に権力者に仕えて詩作をし、宮廷音楽として歌いあげることを仕事としていました。

彼らは、見習い騎士の従士と同格とみなされ、実際、高貴な出身の人も珍しくありませんでした。

楽士は、吟遊詩人に仕え、彼らが作詞、作曲した歌を歌い、奏でる役目を持っています。

その出身は、領民や市民であり、詩人に仕えず旅芸人として生きる人も多くいました。

ただし、楽士は法的な立場は守られておらず、他の芸人たちと同じく不名誉な存在とみなされていました。

しかし、情報の伝達者でもある詩人や楽士は、王や領主を公然と非難できる古代の詩人たちの系譜であり、支配された存在である領民たちには考えも及ばない自由を持っていました。

道化師は現代でいうお笑い芸人で、愚か者という建前で、王相手でも無礼な発言や批判を許されていますが、度が過ぎれば罰を受けていました。また、教会は、職業道化師を悪徳の存在としていました。

旅芸人は諸国を放浪して芸を見せる人々で、定住しないことから猜疑の目で見られていました。

一言で芸人と言っても様々な種類があり、楽士や道化師のほか軽業師、手品師、ダンサー、熊使いや羊使いなどがいました。

同じように旅暮らしであるジプシーも旅芸人として知られ、特にヴァイオリンなどの楽器演奏や動物芸に定評がありました。

ルネサンスとは??

大航海時代までの中世ヨーロッパは、文化の中心はキリスト教でした。

中世の人々は、「神に祈って守ってもらうこと」が何よりも重視されました。

そのため、学問も絵画も建築も、すべてが「神」中心の、「画一化」されたものになっています。

ところが、中世の混乱が落ち着き、都市が発展するようになると、先程も述べた通り「科学」がキリスト教からじわりじわり解明されて生き、都市が発展するようになっていくと、お金持ちが増えて、彼らの趣味を繁栄した個性的な芸術が数多く制作されるようになります。

そして、「神」は相変わらずモチーフの中心だったものの、「神」だけではない「人」を中心とした多様な視点が芸術に加わるようになってきました。

ルネサンス」は、ヨーロッパが、キリスト教文化に染まる前のギリシア・ローマ文化の復活という意味です。

ルネサンスの動きは十字軍の物資の通過点となった北イタリアから繁栄し、ヨーロッパ各地に広がっていきました。

フランドル地方エラスムスによる教会批判や「農民の生活」を描いたブリューゲルの絵画、「人物の性格を描写」するイギリスのシェイクスピアの戯曲、ドイツのホルバインによる「人物肖像画」など、それまでの「神中心」の世の中では決して存在しえなかった多様な文化が花開くことになります。

ルネサンス文化の例

活版印刷術なんかは『本好きの下剋上』に丁度、異世界の時代設定が合わさっています。中世の時代に、新しく時代が大きく転換するのに丁度、活版印刷術がルネサンスと重なっていますよね

宗教改革魔女狩りとは??

ルター派

カトリック教会は中世において絶大な信仰を集めていましたが、その半面、富や権力が集中して聖職売買や聖職者の堕落などの腐敗も進行していました。

こうした腐敗を批判し、新しいキリスト教を生み出そうという動きが宗教改革です。

やはり十字軍派遣によってカトリック教会の権威が落ちてきたことから、宗教改革によって生まれた新しいキリスト教の宗派を立ち上げることができ、旧来のキリスト教に抗議(プロテスト)として「プロテスタント」と呼ばれるものが生まれます。

宗教改革の波はドイツから始まります。メディチ家出身のローマ教皇レオ10世は、ローマにサン=ピエトロ大聖堂を建立する資金を集めるため、「これを買えば罪を犯した人物でも魂が救済される」という贖宥状(免罪符)を販売しました。

贖宥状の販売に特に力を入れたのが、ドイツ(神聖ローマ帝国)です。

ドイツは政治的に不統一だったため、ローマ教皇の言うことを素直に聞く諸侯も多く、カトリック教会の贖宥状の「重点販売地域」になったのです。

やりたい放題のカトリック教会にノーをつきつけたのがドイツのヴィッテンベルクという地にいたルターという人物です。

『九十五カ条の議題』という文章を教会の扉に張り出し、贖宥状への疑問とカトリック教会の腐敗と堕落に対して批判を展開します。

この文章の中に「贖宥状を売るものは永遠の罪を受けるだろう」とかなり厳しい言葉も並んでいました。

批判されたカトリック教会のローマ教皇レオ10世と、教会批判を行う「危険人物」を国内に抱えた神聖ローマ皇帝カール5世は、ルターに対してキリスト教会かからの破門宣告と神聖ローマ帝国からの追放を相次いで決定し、ルターを暗殺しようと追手を差し向けます。

追手の迫るルターに、ザクセン選帝侯フリードリヒという人物が、助け船を出します。

突然、ルターを「人さらいに会ったことにして」自らの居城にかくまったのです。

フリードリヒ自体、神聖ローマ帝国の諸侯の一員だったので、ルターをかくまうことは彼にとっても大変危険な行為でした。

そして、ルターはフリードリヒの元で身を隠しながら新約聖書のドイツ語訳に取り組みます。

それまでラテン語で書かれていたために、一般の人は読むことができなかった聖書を誰でも読めるようにドイツ語にしたのです。

こうした活動によって、神聖ローマ帝国の諸侯の中にも、カトリックや帝国のやり方に批判的なルター派の諸侯が増えてきます。

帝国から分離したり、帝国に反乱したりする者が出始めると、ついに神聖ローマ皇帝カール5世は、帝国の分裂を避けるため、ルター派に妥協し、アウクスブルクの和議において諸侯の信仰の自由を認めざる負えなくなりました。

カルヴァン派

次はスイスです。スイスの宗教改革は、カルヴァンによってなされました。

カルヴァンも、ルターと同じようにカトリックを批判しました。

また、魂が救われるかどうかはあらかじめ神によって決定されているという「予定説」を唱えます。

「予定説」はどれだけこの世で良いこと、もしっくは悪いことをしたとしても、天国に行けるかどうかはあらかじめ決まっており、運命を変えることは出来ないという内容でした。

「では、自分は天国へ行ける人間なのか?」と疑問に思った民衆に対して、カルヴァンは「仕事をまじめにやっていれば、その結果、『まじめに働いたご褒美ポイント』としてお金がたまっていくことが『救済される証』なんだよ」と主張します。

つまり、真面目に働く限りは、「お金を貯めてもいい」と説いたのです。

お金を貯めることは「私利私欲」の行為とされていたため、世間からあまり良い印象が持たれていなかった商工業者は「お金を貯めてもよい」と説いたカルヴァンの考え方を支持し、商工業が盛んなイギリスやフランスの西部地域を中心に、カルヴァン派が急速に広がりました。

イギリス国教会

イギリスの宗教改革はイギリス国王の完全な「私情」で、イギリス国王のヘンリ8世は、男の子を望んでいましたが、妻のキャサリンは男の子を生めませんでした。そのため、ヘンリ8世は、次第にキャサリンから遠ざかり、愛人のアン=ブーリンという女性を妻にしたいと思うようになります。

カトリック教会に離婚を訴えますが、教皇は離婚を認めません。

そこで、自分が離婚したいがために、カトリック」教会から離脱し、イギリス国教会という新しい宗派を成立させ、自らその頂点に立つことを決めました。

こうして定められた法律が「首長法」です。 「国王至上法」という別名もあるこの法によって、イギリス国王を首長とする新しいキリスト教が誕生し、ヘンリ8世は晴れて離婚しました。

ところが、ヘンリ8世と結婚したアン=ブーリンも男子を産めなかったため、ヘンリ8世はまたもや離婚し、しかもアン=ブーリンを処刑します。

結果、ヘンリ8世は妻を6人も変え、そのうち2人を処刑しています。

このような経緯で成立したイギリス国教会ですが、そもそもヘンリ8世が離婚するために作った宗派だったので、礼拝や儀式の作法などの多くがあやふやな状態でした。

そのため、ヘンリ8世の死後、その子供たちのエドワード6世やエリザベス1世によって後追いで協議が定められました。

特に、エリザベス1世が定めた「統一法」によって礼拝や儀式がきちんと定められ、イギリス国教会が確立したのですね。イギリスは島国なので、他国に干渉されにくいため独自に発展していきますよね。

カトリックの反撃

ルターやカルヴァンによって腐敗や堕落を批判され、攻撃を受けたカトリック教会ですが、カトリック側も黙って攻撃されるばかりでなく、反撃を試みます。

これを対抗宗教改革といいます。宗教改革の「弾圧」のために開かれた宗教会議(トリエント公会議)の結果、カトリック教会は宗教裁判を強化して「魔女狩り」を盛んに行い、教義に反するものを次々と処刑していきました(諸説あり)。

こうした弾圧にプロテスタント諸宗派は猛反発し、ヨーロッパ各地で宗教戦争が多発するようになります。

ただ、弾圧の一方で「カトリックはいいこともしているんだよ」というPR活動も行いました。

それが、アジアなど、世界にキリスト教をひろまたイエズス会の活動です。ザビエルの来日も、その一環だったわけです。

魔女狩り

ヨーロッパ中世末の15世紀には、悪魔と契約してキリスト教社会の破壊を企む背教者という新種の「魔女」の概念が生まれるとともに、最初の大規模な魔女裁判が興った。そして初期近代の16世紀後半から17世紀にかけて魔女熱狂とも大迫害時代とも呼ばれる魔女裁判の最盛期が到来しました。

かつて魔女狩りといえば、「12世紀以降キリスト教会の主導によって行われ、数百万人が犠牲になった」と言われていたが、現代では「近世の魔女迫害の主たる原動力は教会や世俗権力ではなく民衆の側にあり、15世紀から18世紀までに全ヨーロッパで推定4万人から6万人が処刑された」と考えられています。

全体として言えることは、魔女狩りが起きた地域はカトリックプロテスタントといった宗派を問わないということであり、強力な統治者が安定した統治を行う大規模な領邦では激化せず、小領邦ほど激しい魔女狩りが行われていたということです。

その理由としては、小領邦の支配者ほど社会不安に対する心理的耐性が弱く、魔女狩りを求める民衆の声に動かされてしまったことが考えられます。

時期を見ると16世紀後半から17世紀、さらに限定すると中央ヨーロッパでは1590年代、1630年頃、1660年代などが魔女狩りのピークであり、それ以外の時期にはそれほどひどい魔女狩りは見られませんでした。

教会に権力が完全に集中しているのか、それともところどころ反発する派閥があるのかで、中世ヨーロッパのどの時期に異世界転生したのかもわかるかもしれません

王政を打倒するストーリーの最もベースとなるテンプレート「フランス革命

フランス革命」のごたごたは、王政を打倒したあとの世界を知ることができる最も基本的な歴史的データ資料の一つです。これを読めば、内乱の流れが大まかにこんな感じなのかというのをざっくり理解できます。

フランス革命」とは、フランスのルイ16世の王政が民衆によって妥当され、王のいない共和制に移行する一連の事件のこと。

先程の説明の通り、科学が発明され、宗教に懐疑的になり人々が「神」を信仰するのを辞め始めたんですよね。

イギリスの産業革命から始まり、フランス革命が起きます。

しかし、フランスという国はイギリスと違い、国境を隣り合う国なので、すんなり産業を発展させる体制は整いにくかったわけです。 最初の立法議会では、「王の存在を認めつつ、法を王の上に置き統治しよう(イギリス、スペイン)」という考え方と「王の存在自体を亡くして、剣法によって国を統治しよう(現フランス)」という共和制を主張するジロンド派に意見がありました。

第一共和制(1~5) また、ルイ16世は、国外逃亡に失敗しギロチン処刑。

これにより各国では「自分の国でも民衆の蜂起が起きて、王である自分が公開処刑されるかもしれない」とびびったので、イギリス首相ビットの提唱で第一回対仏大同盟が結ばれ、フランスは全ヨーロッパを敵に回すことになります。

こうした危機を乗り切るために、フランス国内では強力なリーダーシップを持つ人物に権力を集中させようとする動きが起こり、ロベスピエールを中心とした、最も急進的なジャコバン派(農民や仮想市民を支持基盤とする)がジロンド派を追放し、政権を握りました。

強力な権限を持つ政府の元、農奴を解放し、パリの貧しい市民のために最高価格令を定めて食料の価格高騰をおさえました。さらに、それらの政策とひきかえに徴兵制を実施するなどの改革を実施します。徴兵制のおかげで対仏大同盟の危機は少しずつ去っていきます。

しかし、ロベスピエールは独裁を強め、反対派だけではなく、革命の同志も次々と処刑していき、「恐怖政治」を名のもとにします。

最高価格令によって自由な経済活動が出来なくなったパリ市民や農民たちの間で、次第にこの独裁への不満が高まっていき、ロベスピエールは逮捕され、処刑されます。

独裁はもうこりごり、次に成立した総裁政府は、5人の総裁の合議により運営される政府でしたが、独裁はないものの、権力の分散が重点に置かれたため、リーダーシップにかけ、政権は弱体化します。

「自分の国でも民衆の蜂起が起きて、王である自分が公開処刑されるかもしれない」と相変わらず、びびっているので、この混乱を見て周辺諸国も、第二回対仏大同盟を結成し、フランス革命潰しを図ります。

国境が隣同士になっている陸続きの国というのは、イギリスと違いこのような危機があるわけです。

次は、総裁5人のうち1人ジェイエスが、イタリア遠征エジプト遠征で名声をあげていたナポレオンに軍事クーデターを勧めて、それに乗じて自ら権力をふるまう意思があったものの、ナポレオンに先手を打たれて、自ら第一統領を名乗り統領政府を樹立。第二回対物大同盟を打ち破ると、民法典としてナポレオン法典を発布し、国民の人気も獲得して、皇帝に就任。

次は、「国民が選んだ独裁者」体制となります。

「国民が選んだ独裁者」は国民の「総意」で選んだ権力者である以上、国民の全てがその支配に従うのも「総意」であるため、ある意味、王よりもずっと強力な独裁者になりえるわけです。

そしたら、ナポレオンは最強なので、イギリス以外のヨーロッパを支配。イギリスは島国なので、侵攻は難しいわけですね。

イギリスというのは、フランス革命の邪魔をし、ナポレオンも過去に海戦で敗北していた「最強の敵国」です。

ナポレオンは、イギリスを苦しめるために、支配完了した大陸のヨーロッパ諸国にイギリスとの貿易を禁止し、イギリスを「兵糧攻め」にしようとしました(大陸封鎖例)。

しかし、表面上では命令に従っていたが、裏でロシアがイギリスに穀物を輸出するという「大陸封鎖令破り」を行い、ナポレオンは制裁のためにモスクワ遠征に行くわけですが、ロシアの「広さと寒さ」を十二分に活用した戦略にやられ、ナポレオン軍は、戦死と凍死により61万人の兵が5000人に減るまでの大敗北を喫しました。

こうなったら、ナポレオンはオワコンで、ナポレオンは島流しで国外追放となりました。

当時、ナポレオンはかなり恐れられていて、1回フランスに自力で帰ってくるとかひと悶着ありながらも、結局、セントヘレナ島という孤島へ流されて、のちに死去しました。

ブルボン復古王政 ナポレオンが死んで、ヨーロッパ支配が一旦リセット。ヨーロッパ諸国がどのように領土分配するか話し合うためウィーン会議が開かれ、正統主義(王たちが支配するヨーロッパに戻そう)という流れになりました。

フランスではかつてのブルボン朝が復活し、ルイ18世が王位につきます。

しかし、フランス革命を経験した民衆にとって今更「王様の世の中に戻す」なんてまっぴらごめん。

国民が自由に政治に参加できて、かつリーダーも自分たちで選べ、農奴制もない平等な世の中を目指そうというフランス革命の理念が、ヨーロッパ中の民衆にすでに広がっていました。

この当時、「神」よりも「人間」が社会を動かそうというパラダイムシフトが起きているわけです。

ウィーン体制が成立して王様たちの世の中に戻りましたが、すぐに反乱が始まってことで、王の支配に不満を持った民衆や他国に支配されている国々は「我々も反乱を起こせば王政打倒や独立のチャンスがあるかもしれない!」と考えるようになり、ヨーロッパではすさまじい数の反乱がおきます。

フランスでは、七月革命によって王位についたルイ=フィリップの王政は七月王政と呼ばれ、もとから人々の自由や権利に理解があり「国民王」といわれたルイ=フィリップなら、善良な政治をしてくれるという国民の期待がありましたが、ふたを開けてみれば金持ち優遇政策で、選挙権もお金持ちにしか与えず、普通選挙の要求も退けるルイ=フィリップに「株屋の王」というあだ名がつけられ、「やっぱ王様はダメだ、共和制にしよう」と、結局また反乱がおきました。

ルイ=フィリップはイギリスに亡命し、共和制が成立(二月革命)。

この革命によって成立した共和制は第二共和政と呼ばれます。

ところが、共和政になると自分たちのトラブルは自分たちで解決しなければなりません。

この時にフランスには、狭いながらも自分の土地を持っている「農民」と自ら土地や工場を持たない「労働者」で対立が発生しました。

両社はともに貧しい階層でありますが、最も貧しい「労働者」は土地や工場を国の所有にして、生産物を国中の人々が「平等」に受け取れる「社会主義」を求めますが、農民は狭くとも自分の土地を持っているので、土地の国有化に強く反発するわけです。

王政だったら、王が自分勝手に裁くことができたので、対立尾を引くことはなかったのですが、共和政になると解決できず、社会不安が増大していく一方でした。

そこで、ルイ=ナポレオンというナポレオンの甥っ子が登場。

「ナポレオンの名を持つ彼ならば、農民と労働者の対立を解決してくれるに違いない!」と期待が高まり、ナポレオン3世の第二帝政が誕生。しかし、ナポレオン3世がそんな対立なんぞ解決することができず、国民の目を社会不安からそらすために、対外戦争を積極的に行ったり、パリの都市環境を整備したり、万国博覧会を実施したりする人気取りで社会の対立を棚に上げようとしました。

ナポレオン3世は戦争に勝ちまくったので、国民の人気が急上昇していましたが、メキシコ出兵で大敗して、そのまま捕虜になるという大失態(プロイセン=フランス戦争)で、第二帝政は終了します。

半ばプロイセン幸福同然となったフランス国内では、しばらく混乱が続き、社会の最下層が政府を樹立した史上初の労働者政権(パリ=コミューン)ができますが、すぐに武力鎮圧されます。その後、ようやく第三共和政が成立して落ち着きを取り戻します。

プロイセンドイツ帝国になって、フランス国民の不満はドイツに向けられるようになったため、国内が安定しはじめたのでした。

しかし、のちの第一次世界大戦の勃発の要因となるのですが。

他国からの侵略リスクのないイギリスは比較的安定

イギリスは、島国ということが大きく、他国からの圧力などがないこともあるのか、もともと王権に対して議会が強かったためか、順調に産業革命で国が発展していくわけで、国民が死に物狂いの武力蜂起による「革命」は起きず、基本的に「改革」を求めることで、平和の裡に自分たちの自由や権利を拡大していきました。

たとえば、民衆が「商業の自由をよこせ!」と議会に改革を要求すれば、東インド会社の商業活動が全面禁止され、アジア貿易に自由に参加できたり「イギリス国教会以外のキリスト教徒にも宗教の自由をよこせ!」と改革を要求すると、政治面での宗教差別が撤廃されたりしました。

労働環境を改善する工場法という法律も制定されており、まさに「改革」によって、人々の自由や権利が少しずつ拡大していきました。

国内の政治では、工業労働者から農民、鉱山労働者へと少しずつ選挙権が拡大し、保守党のディズレーリ主相と自由党グラッドストン種層が交互に政権を担当する安定した二大政党制が誕生しました。

地形から考えるナーロッパ

先程までは、中世ヨーロッパの時代の特徴を述べましたが、次からは「地形」によるヨーロッパの特徴を考察していきます。

これによって、自分が転移・転生された場所によって地形的に安全か安全じゃないか等読み取れる手伝いとなります。

4つで決まる大陸間の差

人間社会の展開に影響を与える環境上の要因は大陸によって大きく異なっているし、そのちがいを数えるときりがないのだが、もっとも重要な違いを4つあげてみる

  • 1.栽培化や家畜化の候補となりうる動植物の分布状況
  • 2.伝播や拡散の速度
  • 3.異なる大陸間での伝播
  • 4.大陸の大きさ、総人口の違い

1について

食糧生産の実戦が余剰作物の蓄積を可能にしたからであり、余剰作物の蓄積が非生産者階級の専門職を養うゆとりを生み出したからであり、人口の密集しただき母集団の形成を可能にしたからである。

人口の密集した大規模集団の形成が、技術面や政治面での有利につながる前に、軍事面での有利にも繋がった。

だから、国を形成する上で食料を生産して余暇を作ることが結果的に国を強くするということになる。

というわけで、栽培化、家畜化をおこなうには、適性の野生種が存在しなければならない。

しかし、野生の動植物種のうち適性のあるものは少なく、食糧生産に用いられるようになった動植物の種類は比較的わずかであった。

適性とは、性格的にも温厚な性格で肉がつまっている動物種のことで、牛、ブタ、トリ、羊となる。

また軍事的、運搬用として、馬、ラクダ。古代だったらアフリカ象もいた。

ライオン、カバ、サイとかは、気性が荒くて家畜にできなかったのでここでアフリカ大陸の不利が伺える

2・3について

作物や家畜の育成は気候によって大きく影響されるため、北南では伝わりづらく、東西で伝播しやすかった。

東西方向に延びる大陸で技術がもっとも伝播しやすいことにより、例えば、ヨーロッパで文明は始まっていなくても伝播しやすかったので後々作物や家畜のノウハウが伝わっていったといえる。

また、北南アメリカ大陸、アフリカ大陸は北南に拡がる大陸であり伝播としてはユーラシア大陸と比べると最悪である。

4について

単純に人口の多い大陸の方が、何かを発明する人間の数が相対的に多く、競合する社会の数も相対的に多い。

利用可能な技術、技術の受け入れを促す社会的圧力もそれだけ高い。新しい技術を取り入れなければ競合する他国に負けてしまう。

アフリカ大陸のピグミー族をはじめとする多くの狩猟採集民は、新しい技術を取り入れず、自分たちの土地に入り込んできた農耕民にとってかわられてしまった。

グリーンランドにやってきた古代ノルウェー人も、はるかに優れていた狩猟採集民であるイヌイットの生活手段や技術を拒絶し、結局とってかわれてしまった。

これもユーラシア大陸が一番大きく、オーストラリア大陸が小さい。

南北アメリカ大陸は面積は大きいけれども、小国が南北に位置していたため伝播されずらく、競合することがなかった。

「地の利」の特徴

  • ・川があると独立して都市が発展する。川が合流すると単一国家になりやすい
  • ・陸続きすぎると他国は侵略できない
  • ・大きな平野は農業に適していて、人口が爆発する
  • ・山地、山脈があると他国からの侵攻の城壁となる
  • ・沿岸部が断崖絶壁だと海からの輸出入がなくなる
  • ・寒いと住めないけど、病原菌も死滅する

陸続きだと軍隊が侵攻する時に「補給」が足りなくなります。

おにぎり3個持っていったら、1日分しか持たないとか、そんな感じです。

アメリカがその点で非常に最強であり、ロシアも他国がモスクワを侵攻するには「補給」が足りません。

海、陸続き、山地、山脈、気候 これらが主な城壁となっているということですね。

また、沿岸部が断崖絶壁だと交易不可能なんで、「伝播」に影響します。

病原菌は、人類史ナンバー1の殺人兵器なので、病原菌がやってこないのは、結構影響があります。

ヨーロッパの特徴:アメリカと中国の違い

  • ・多数ある川が合流しないから川が土地の境界線となり、それぞれ他に依存しない経済圏が出来る
  • ・山、谷も多く存在するので、それが国境となり小国が大きくできた

ヨーロッパは、川、山、谷が入り組んでいて単純な平野なっていないことから、小国が多くある。

対して、アメリカと中国には、大きな川と平野が存在することから単一の大きな国家が形成されるようになった。

基本的に地理的な障壁がないと国は、一回戦争を起こして統一作業を測ることになる

ヨーロッパの歴史を踏まえた上で異世界の種族をみてみよう

J・R・R・トールキンの『指輪物語』では、賢明で半神的な種族である「エルフ」が活躍した。この作品が成功して以降、トールキン風のエルフは現代のファンタジー作品における定番となっています。

エルフ

ゲルマン神話に起源を持つ、北ヨーロッパの民間伝承に登場する種族。北欧神話における彼らは本来、自然と豊かさを司る小神族。

エルフはしばしば、とても美しく若々しい外見を持ち、森や泉、井戸や地下などに住むとされています。

また彼らは不死あるいは長命であり、魔法の力を持っています。

トールキンファンタジー小説において、「エルフ」は妖精の総称ではなく、半神的な特徴を持つひとつの種族の名称。

指輪物語』に登場するエルフは身体能力が高く、知識に富み、魔法を使います。人間ほどの背丈で、長く尖った耳をしています。

トールキンは、ホビットの耳はエルフのように尖らせてほしいなどと手紙に書き、その意を汲んだイラストレーターらがエルフの耳を尖っているように描写しました。

エルフは一般に、不死もしくは非常に長い寿命を持ち、事故に遭ったり殺害されたりしない限り、数百年から数千年生きるとされていますが、徐々に活力がなくなるなど、「枯れていく定め」にあることは確かなようです。

ハーフエルフ

エルフを扱ったファンタジー作品の中には、人間との混血であるハーフエルフが登場するものもあります。多くの場合、ハーフエルフは人間とエルフ双方の特徴を受け継いでおり、人間とエルフの双方から差別的な扱いを受けることがしばしばあります。

エルフと人間との異類婚姻譚はいくつかの神話にも描かれるモチーフですが、今日のハーフエルフの原型は『指輪物語』での設定に多くを負っていいます。

同作の半エルフは種族として固定されたものではなく、彼らはエルフと人間のいずれの運命を選ぶかの選択を行い、エルフの運命を選んだものは不死性を得たという設定

ドワーフ

ドワーフ英語dwarf [dwˈɔɚf]ドイツ語Zwerg古ノルド語dvergr)は、ゲルマン語派において、「とても背の低い人間」「小さきもの」を表す。人間よりも少し背丈の小さい伝説上の種族民話神話童話ファンタジー作品などに登場することが多い。

高度な鍛冶や工芸技能をもつとされており、外観は男女共に背丈が低いものの力強く屈強で、特に男性はその多くで長いをたくわえているとされています。

女性も含め全員がひげを生やしています。

他種族に対して植物や動物を含めてあまり親密とは言えず、植物を愛でることや乗馬などを苦手とし、ホビットに対してはまだ友好的な場合が多いが、エルフに対しては昔から不信感を抱いています。

典型的なドワーフ鍛冶石工を職業としており、かれらが作り出す作品の中にはエルフの作品よりも優れたものもあります。

トールキンによるドワーフの描写は後世の創作に大きな影響を与え、矮躯でありながら屈強、豊かな髭を生やしているといったイメージが共有されるようになりました。

髭が生えるのは男性だけとするものと女性にも生えるとするものに設定が分かれます。

大酒飲みで意地汚いが、手先が器用であり、鉱夫あるいは細工師や鍛冶屋などの職人であると同時に戦士のイメージが強いです。

ゴブリン

ゴブリン(goblin)は、ヨーロッパ民間伝承に登場する伝説の生物

アト・ド=ヴリースによればゴブリンは、洞穴、木立に住み、幼い子を食べる、概して邪悪なもので、万聖節を象徴するものです。

ハロウィンには「死者とともに現れ、人間へ妖精の食物を食べるよう誘惑する」と説明するアンナ・フランクリンによれば、この呼称で

  1. 醜く不愉快な妖精
  2. 悪戯好きな家付きの妖精
  3. 教会墓地の地下や岩の裂け目、古い木の根元に住む妖精

を指し、彼らはピレネー山脈の割れ目から発生し、ヨーロッパ全土へ広まったといいます。

J・R・R・トールキンのゴブリンは、性格が邪悪で狡賢く、坑道に住み、記号のような表記を使い、穴を掘る技術が、ドワーフに次いで長け、美しい物を作れない代わり、人を痛める道具や「いちどきにたくさんの人を皆殺しにする」(瀬田貞二訳)道具の研鑽に余念がなく、火薬など殺人の道具の発明の影にいる、と設定。

オークであれゴブリンであれ、トールキンが確立した「ホブゴブリンより小さいゴブリン」「種により特徴のある個体が出る」等のイメージは後世の娯楽作品におけるゴブリン像に強い影響を与えました。

オーク(ゴブリンの一種)

ベーオウルフ(ll: 112)ではゾンビに似たグレンデルの種族について「オーク=ナス」(Orc-néas)という記述が見られます。

オーク=ナスは「オルクスの死人」を意味しているようである。ローマ神話に登場するオルクスOrcus)は死者の国の神であるプルートーハーデース、ディース・パテルの別名です。

ハーデースと同様、オルクスは死者の国そのものを指す言葉ととることもできるかもしれません。

いずれにせよ、トールキンはベーオウルフのこの記述から「オーク」の名前をとりました。

エルフ族がモルゴスによって捕らえられ、拷問や日の当たらない牢に閉じ込められるなどして堕落してしまった姿であると言われています。

そのため、苦痛、憎悪が影響し、美しかった白肌は不気味な灰色になり、鉤爪が生え、醜い姿となりました。

また長い間、苦痛にさらされていたせいか背丈が低くなっていて、日光を嫌います。

総じて知能も高く愚かではないが、鈍感で下劣な生物として描写されます。

かれらは言語をくずして使い、手先が器用で、歯車や機械に興味を持ち、やっとこつるはしや斧などの他「大量の人間を一度に抹殺する機械(山本史郎訳)」以外は何も生み出さず、破壊するだけの存在である。ただ繁殖力が非常に高く、『ホビットの冒険』終盤の五軍の戦いで一度絶滅しかけたものの立ち直っていいます。

ちなみに、作中で女性のオーク(ゴブリン)は登場していませんが、子供は『ホビットの冒険』のナレーションで、ビルボがゴクリと出会う4~5時間前にゴブリンの子供がゴクリに捕まって食われた説明がされています。

なお、トールキンの書簡によれば、「女オークは存在する」とのことです。

知識や進歩に関しても、本来はエルフや人間などと同等だが憎悪や嫉妬、絶望に苛まれるがゆえに建設的な連携を取りにくいだけで、『ホビットの冒険』でのゴブリンは「人を痛める道具」について、「進歩(と呼ばれていますが)」させていると描かれています。

ホビット(ハーフリング)

ホビット(Hobbit)は、完全にJ・R・R・トールキンの創作した架空世界中つ国の種族で、身長2 - 4フィート(60 - 121cm)であるためか、低予算のなろうアニメにはあまり出てこないイメージです。

わずかに尖った耳をもつ。足裏の皮が厚く、毛に覆われているので、靴をはくことはない。

かれらは、冒険的でない牧歌的な暮らし、すなわち農耕・食事・社会生活を好む。ホビットは人間より若干長い寿命を持ち、しばしば120歳まで生きた(平均寿命100歳)。

33歳で成人し、50歳で中年となる。

ホビットたちは、トールキンのインスピレーションである英国の田舎の人々と同様、酒場でエールを飲むことを好みます。

中つ国のなかでもホビットらが住む地域の名としてトールキンが選んだ"the Shire"(ホビット庄)という名前からは、イングランドの「州(Shire)」をはっきり連想することができる。(イングランドの州も参照)

平和と食事を何よりも愛し、たいてい太っています。

贈り物をするのもされるのも喜び、食べ物を例えに出すことを好みます。

しかしいざとなると驚くべき芯の強さを見せる。

目が良いので石投げと弓矢の扱いが上手い。髭を生やしているものは一部の氏族を除いて殆どいません。

リザードマン

リザードマンは、人魚(もしくは魚人)や狼男などのように古くからの伝承や文献もなく、架空の存在であって明確な由来は特にありません。

そのため、作品によって大まかな共通項はあるものの、細かな性質や設定の相違が見られます。

主に共通するイメージは、二足歩行するトカゲというものだが、作品によってはトカゲ以外にもワニ型やカメレオン恐竜ドラゴンのように描かれる場合もあります。

前足(手)は道具を使える。そのため、剣や盾などで武装した姿がよく見られます。

知性はそこそこあります(独自の言語を持ったり、人間と会話できるものもいる)が、特筆するほど思慮深くもありません。

人間よりも腕力があり、戦闘能力も優れている。

戦士として有能なため、単独でも強敵となるが、集団となったリザードマンはさらなる恐るべき存在となります。

見た目とは違って邪悪な存在ではなく、生命を脅かしたり、生息地を侵したりしなければ、敵対することは少ないです。

ただし、攻撃的な性格のため、戦いを避けられない場合もあります。

水辺に棲み、魚などを獲って食料としているとする作品もあれば、逆に砂漠などの乾燥地域に棲むとする作品もあります。

いずれにしても爬虫類のイメージゆえ、高温の気候を好む傾向にある。

獣人

獣人(じゅうじん、けものびと[1])は、伝承フィクションに登場する、人型と他の動物の外見を合わせ持つ人物を指します。

古くは民間伝承に現れ、神話学人類学で論じられています。

さらに現在では、これらに加えて小説映画ゲーム漫画アニメ作品に登場し、サブカルチャーにおいて特殊な地位を得ています。

民間伝承、神話学、人類学において獣人とは人間と他の動物の特徴を合わせ持つ人物を指す。その最もよく知られているのが人狼(lycanthropy; ギリシャ語:lycos狼、人・狼変身の専門用語)です。

正確な意味でのlycanthropyは人狼のみを指すにもかかわらず、他の動物へ姿が変わる事例にもしばしば使われます。

人々が動物の姿に変わったり(獣化(じゅうか・theriomorphosis))、超自然的に他の動物の特徴を所有することを信じる人々はよく人狼症(ライカンスロウピィ)と呼ばれます。

この分類は精神病の一つの形だが、多くの文化人類学者がこれはシャーマン文化の強い信仰の例であると指摘しています。

キリスト教圏でも、初期には土俗信仰とキリスト教が共存してその様な偶像が崇拝されていた地域がありましたが、中世以降魔女狩りと同様に獣人は反キリスト・悪魔のとる姿と位置づけられるようになり、人狼狩りや人狼裁判なるものが度々行なわれました。

実際には人狼であるとされた人々は麦角菌に感染したライ麦を食べて幻覚や精神錯乱を起こしたものであると考えられています。

また、キリスト教圏以外の地域でも動物などの精霊が憑依して獣化する獣憑き(けものつき)の伝承が世界各地に存在しており、インドや中国では虎憑き中南米ではジャガー人間、また、日本における狐憑きなどそのバリエーションは世界中に分布します。

竜人ドラゴニュート

二足歩行で、もしくはドラゴンの姿をしている獣人。

創作世界においては、人や竜(ドラゴン)への変身の有無、皮膚及び蛇腹)の色、の有無、飛行の可能不可、武器の有無(あるいは前肢)によるその所持の可能不可)など、作品によって様々な違いがあります。 

ファンタジーロールプレイングゲーム等においては、人間の姿を基本に、竜もしくはドラゴンの身体の一部(翼や尻尾)が生えていたりする姿で描かれる事が多いが、『ファイアーエムブレム』シリーズに登場するマムクートや『ブレス オブ ファイア』シリーズの竜を始め、完全に人間の姿の者も多く観られます(この場合は、必要に応じて竜へと変身する)。 

ドラゴニュート (Dragonewt) という言葉は、この創作世界で多用される言葉です。

卵胎生なのかどうかといった様な生物学的な設定も、作品等によって異なり一定しておりません。

 ゴーレム

ゴーレム(ヘブライ語גולם英語golem)は、ユダヤ教の伝承に登場する自分で動く泥人形。「ゴーレム」とはヘブライ語で「胎児」を意味します。

作った主人の命令だけを忠実に実行する召し使いかロボットのような存在。

運用上の厳格な制約が数多くあり、それを守らないと狂暴化します。

ラビ(律法学者)が断食や祈祷などの神聖な儀式を行った後、土をこねて人形を作ります。

呪文を唱え、「אמת」(emeth、真理、真実、英語ではtruthと翻訳される)という文字を書いた羊皮紙を人形の額に貼り付けることで完成。

ゴーレムを壊す時には、「אמת」(emeth)の「א」( e )の一文字を消し、「מת」(meth、死んだ、死、英語ではdeathと翻訳される)にすれば良いとされています。

ゲームなどでモンスターとして扱われるゴーレムは、大きな人型で力が強く、感情や意思を持たないか乏しい。

邪悪な存在というよりは、財宝や重要アイテムなど守る、いわば障害物や強力な人型兵器(兵士)のような扱いをされることが多いです。

また、作られた素材により、弱点や強さが異なる場合もあります

ダンピール

ダンピール (Dhampir) は、東欧ロシア伝説に登場する、ヒト吸血鬼混血。ダムピールとも言います。

外見は普通の人間と変わらないが、不死である吸血鬼を殺す力を持つ。また、吸血鬼を探知する能力も備えます。

大抵は生まれてもすぐに死んでしまうが、成長した者は前述の能力を活かし、吸血鬼ハンターを生業とすることもあります。

吸血鬼になった者は、人間だったころの家族の下に戻ってくることがありますが、

その際、血液ではなく性行為を要求する吸血鬼もいます。

特に、ジプシーロマ)の伝承では男性の吸血鬼にその傾向が強いです。

ジプシーの間では、そうして生まれてきたダンピールを男の子であれば「ヴァムピール」、女の子であれば「ヴァムピーラ」と呼びます。

ダンピールによる吸血鬼退治は、儀式のような形式を取ります。

笛を吹いたり、走り回ったり、目に見えない敵と戦った後、勝利を宣言します

人魚(マーメイド)

人魚(にんぎょ)は、人間と魚類の特徴を兼ねそなえ、水中に生息するとされる伝説の生物。西洋のマーメイド(英語mermaid、「海の乙女」の意)も人魚とされており、北欧民話の人魚(デンマーク語/ノルウェー文語havfrue、「海の女性」の意)等も含まれます。

伝承されてきた土地によりその形状や性質は大きく異なります。

ヨーロッパの人魚は、上半身がヒトで下半身が魚類のことが多い。

裸のことが多く、服を着ている人魚は稀である。伝説や物語に登場する人魚の多くは、マーメイド(若い女性の人魚)です。

今日よく知られている人魚すなわちマーメイドの外観イメージは、16-17世紀頃のイングランド民話を起源とするものであり、それより古いケルトの伝承では、人間と人魚の間に肉体的な外見上の違いはなかったとされている日本でも人魚の存在が早くから語られています。

最古の記録は619年とされており、『日本書紀』に記述があります。

天使(キリスト教)とは??

キリスト教における天使angelは、使者、伝令を意味するヘブライ語マルクから生まれた言葉で、ユダヤ教では元々、天使は、紙の医師や言葉を伝え、人間と神を中立するものでした。

天使は神に変わって地上の人間に警告を与えることがあり、『民族記』では、背後から剣を振り下ろす天使の絵があります。

他にも、天使とは人々を救う存在であるけれども、場合によっては、神に代わって人々を懲らしめる役割も担っております。

また「守護天使」というものいて、一人一人に寄りそい、危険から守り、道を誤らせない天使で、カトリック教では特定のものを守護する観念として「守護聖人」が発達した。

他にも神を讃え歌声を響かせる天使、イエスの様々な苦難の場面に悲しむ天使(憐れみの天使)などが存在する。

天上の世界は9段階からなるピラミッド型社会であり上から、神、上級天使:セラフィム(セラフ)、ケルビム(カラブ)、ソロウンズまたはオニファム、中間天使:ドミニオンズ、ヴァーチューズ、パワーズ、下級天使:プリンシパリティーズ、アークエンジェルズ、エンジェルズと構成されます。

これらは、真・女神転生をプレイしているとレベル毎の召喚される悪魔と類似します。

堕天使とは、天使の堕落した姿です。一説には、神が天使に堕落する自由さえも与えたという、神学的な理解があります。

主に、人間の女への欲情か神からの離反により、神への愛よりも事故への愛を優先し、自己愛は驕りや嫉妬を生み、アダム、イエス、神自身をも敵とみなすようになります。

悪魔

宗教観によって様々な悪魔が存在します。

あらゆる宗教観の中でも二元論的宗教(善と悪)、神の恐ろしい側面として基本的に構成されています。

とはいえ、善神に刃向かう存在や、この世の約才・害悪の様々な責任を負わせることのできる便利な存在を悪魔だと考えることもできます。

なので、神の恐ろしい顔という側面と、神と対立する悪鬼・悪霊の類と2つの流れがある。

日本のようにアニミズム(生物やそうでないものを含め、全ての物の中に霊魂が宿るという説)に近いような多神教的な宗教観を持つ世界では、神と悪魔の境ははっきりとしていません。

旧約聖書ではまず普通名詞としてサタン(元々は、敵、妨害者を刺す言葉)が登場し、現代では悪魔の総称であり、悪魔の首領の名前になっています。

原始キリスト教では、悪魔の起源は、堕天使であるということに落ち着いていきました。

天井の宮廷の一部を占めていた天使の1人さ胆は、そこから放り出され、悪魔の軍隊を組織して、人間に憑りつくなどして苦しめ、神の威光に抵抗しているが、キリストの到来によってその力は弱められた、と考えられています。

悪魔の攻撃は、修行の放棄と日常への復帰を迫るところから始まります。

それがガッコたる信仰の前に破れると、次は、女に変身するなどして性欲に訴え、成人がそれにも打ち勝つと、悪魔は獣や蛇の姿になって襲ったりもしました。

耐え続けると、点が開いて光が落ち、悪霊どもは姿を消します。

所詮、悪魔は源英しか生み出せず、キリスト教徒に手をかけることができないのだそうです。

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まとめ

はい、ということで、色々綴ってみましたが、なろう作品を作ったり、なろう作品を考察する上でのヒントになりましたでしょうか。

無職転生」「本好きの下剋上」「狼と香辛料」「オーバーロード」「この素晴らしい世界に祝福を」「ゴブリンスレイヤー」「灰と幻想のグリムガル」等を視聴すると、なんとなく異世界が可視化されるのではないかな~とは思っております。

あとフランス革命の流れもざっと書きましたので「シュヴァリエ」もみやすくなると思います。

引用:

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