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【アニメレビュー】『平家物語』みて、君も教養マウントを取ろう! 本当は〇〇なアニメ

こんにちは、さっちゃ~んです。

アニメ「平家物語」が放送されて、ツイッターでも著名人でも何でもいいんですけど「平家物語」は素晴らしく、教養のない奴にこの作品の素晴らしさはわからないといった風潮を感じながらも、

そろそろ、重たい腰をあげて、「ガチでみるか」とこの記事を立ち上げました。

知識武装してもう一回視聴して面白かったら「ごめんなさい、素晴らしい作品です」といいますし、1回目みたときと変わらなかったら、「やっぱり、教養マウントアニメだな」と思うことにします。

果たして、新しい世界を堪能することができるのでしょうか

平家物語を視聴するための下準備

中世ヨーロッパと平安時代の日本

まずは、平安時代のインフラを整えるために、平安時代よりも更に過去の歴史を、インフラ中心にカンバックしていき、

特に、パラダイムシフト=その時代に当然と考えられていた物の見方や考え方劇的に変化するほどの出来事をいうのを掘り下げていけたらと思います。

あと、「天皇」「仏教」というキーワードは抑えていきたいと思います

中世ヨーロッパのパラダイム

ローマ帝国の東西分裂後、大航海時代ルネサンスが始まるまでの約1000年間を中世といいます。

「モノ不足」の時代であり、必要以上働くことは「罪」とされていた中世。

もちろん収穫量には上限があり、ある程度以上は人口は増えず、バランスのいいところで安定しいました。

悪天候による飢饉や急な伝染病で人口が激減することも周期的ンは有りましたが、順調な時また、人口は戻りました。

隣国同士、多少の衝突はありましたが、強力な王が表れてヨーロッパを統一するといったこともなく、おおむね平和でした。

そんな時代ですから、いくら封建制度といっても王様はパッとしません。

もともと蛮族や、隣国の侵略から自分たちを守ってくれるための王様ですから、平和になって役目を追えれば、ありがたみも減るというものです。

「今日食べるもの」の心配も、蛮族から食料が奪われる心配も、あまり気にしなくてよくなかった人々にとって、最も大きな関心事は病気で死ぬことです。

なぜ病気になるのか、なぜ死なねばならないのか、死んだらどうなるのか、死ぬのは怖い、病気怖い、ケガ怖い。

当時はほとんどまともな医者もおらず、医療知識もなく、家族や自分が病気になってもけがをしても、なすすべがありません。

そんな人々にとって、病気やけがで死ぬことほど不安で恐ろしいことはなかったでしょう。

科学に酔いしれる前、科学なんて存在すらしなかった時代

中世ヨーロッパの人々は、比較的平和な時代で、病気で死ぬことが最も大きな関心事であるため、王様よりもどこが人々から評されるかというと「教会」です。

神父様は「大丈夫、死んだら天国へ行ける」「神様に召されるのだから怖くない」と励ましてくれます。

立派な教会で、立派な神父様が分厚い聖書を手に、おごそかな声で話してくれるありがたいお話を聞いているとホッとします。

この前死んでしまったおじいさんも、天国で自分を待っていてくれるだろうか、と考えたりもします。

少々つらいことがあっても、感謝の気持ちを持って頑張ろうと思ったりもします。

神父様は立派な人です。

家のない者を泊めたり、スープを飲ませたりもしてくれます。

なんでも遠い町まで行って、神様の勉強をしてきたそうです。

病気の時には、家へ来て見守ってくれます。

だれかが臨終のときには必ず来て懺悔をさせ、天国に召されるようにしてくれます。

丘の上の教会の塔をみながら「ちゃんとした教会のある村に生まれて、本当に良かった。これも神様の思し召しだ」と感謝で胸がいっぱいになります。

大きな町には立派な教会が立てられ、どんな小さい村にも教会が建てられ、日曜日に教会に行かないのは、よほどの変わり者か、教会もないほどのド田舎に住んでいる人だけでした。

みんな暇さえあれば祈りました。

というより、無理やり時間を作ってでも祈ったわけです。

また、少しでも経済的に余裕があれば教会へ寄付したり、自分より貧しい人々に施しをしました。余裕がない家も、少し食べるものを我慢してでも施しをしました。

施しをしたために貧しくなるのは、立派なことだったのです。

平安時代、日本でも宗教が普及された

平安前期、空海が唐から帰国し、本格的な密教を持って帰って「真言宗」を開きます。

密教」とは、秘密の呪文を唱え、お祈りすることで現世利益を追求しようという仏教です。

「現世利益」とは、「長生きしたい」とか「病気を治したい」「不自由な暮らしがしたい」というような「この世での災いを避けたい」という意味です。

「秘密の呪文とお祈り」は「お経を習い、読む」という仏教の一般的なイメージと一見離れたことのように見えますが、仏教の立場では「仏教の真理はコトバでは表せない深い部分にあり、文字に書かれた『お経』だけでは、どうしてもその心理に迫れない」と考えているのです。

その真理にアクセスするには、師が弟子に修行を課し、秘密の呪文やお祈りの方法を「秘伝」に伝える必要がある、という立場の仏教なのです。

こうした「秘伝」や「現世利益」というよそにより、密教は、これまでの飛鳥時代奈良時代の「国家仏教」よりも政治に関与する傾向が薄い性格があります。

平安中期になると、私財を蓄えようとする国司(後で説明)たちは、厳しい税を課すようになっており、そのせいで、都市部では盗賊が群れを成して乱暴を働くようになっていました。

武士同士の紛争が絶えず、さらに疫病などの流行も加わり、社会に不安が満ちていました。

更にもう一つ、仏教を始めたお釈迦様がなくなって2000年間の後に「末法」といわれる世の中がやってきて、釈迦の教えは正しく行われなくなり、世の中は乱れると信じられていました。

この「末法」元年が藤原頼通の時代にやってくるとされていました。

こうした思想を背景に民衆に拡がった仏教が「浄土教」です。

この世の中が乱れ、どうせ「末法」の世の中になるのならば、せめて「あの世」で「極楽浄土」に行くことを願おうという仏教です。

極楽浄土に人々を導く阿弥陀仏が信仰の対象となり「南無阿弥陀仏」という阿弥陀仏にすがるための念仏を唱えることが民衆に広まりました。

中世ヨーロッパのキリスト教カトリックの布教と同じで、科学がない時代。

世の中の「理」がよくわかっていない時代、民衆は、宗教によって心が救われたわけです。

「宗教に頼る人間は弱い」とか現代人が考えるとするならば、「失敗は自己責任だ!」と更に自分や他者を追い詰めて「精神疾患大国・自殺大国」であるのと仏教徒が多いのと、どっちがいいかって話だと思いますよ。

科学革命:科学が発達する前と科学が発達した後の人々の根本的な考え方(パラダイム)が違います。

平家物語に登場する「出家」というものの理解を深めるための土台パートでした。

「貨幣」が「藤原氏・源氏・平氏」を作り上げた

フランク王国(中世ヨーロッパ初期)成立

フランク王国が成立すると、ようやく貨幣経済も復活する者の、民衆レベルでは自給自足の「モノ」経済が中止となり、貨幣経済以前の世界に「戻った」ようになります。

交易が頻繁に行われたものの、ローマ帝国の時代に存在した広域な交易ネットワークはスケールダウンし、近場での交易が中心となりました。

ローマ帝国の末期の土地の仕組みであった「コロナートゥス」をもとに、中世では「荘園制」が形成されて生きました。

主君からと土地を貰った過信が、その土地を「荘園」として経営したわけです。

荘園を耕作したのは「農奴」といわれる農民でした。

農奴は生まれてから死ぬまで、様々な税負担がをさせられました。

領主の持っている土地で濃度がタダ働きをした分を「賦役」といい、生産物は全て領主におさめなければなりませんし、喉に割り当てられた自分たちの土地からも「貢納」という税を払わなければなりません。

結婚や死亡時には結婚税や死亡税また、パン焼き窯の使用量と、農奴には多種多様な税負担が課されました。

また、教会にも収穫物の10%として納めなければならず、この税は「10分の1税」といわれていました。

中国の唐

ヨーロッパはピザンツ帝国~中東は、アッバース朝~中国は唐が交易が盛んにおこなわれていため、この時代の制度も実は似たり寄ったりです。

唐の税制は「祖・調・庸制度」、土地を割り当てた民衆毎に、一定額の穀物や労働を課したのですが、財政難に陥った後半は、国が予算をはじめに立て、その予算を「累進課税」のように、支払い能力に応じて各家庭に割り振り、徴収する「両税制」という制度を取りました。

軍事費は増大する一途だったので、予算が増えていき、民衆に割り当てられた税も増えて負担が増大しました。

さらに、その税の徴収法も、貨幣で徴収するという原則になりました。

農民たちは生産した穀物を商人に売り、換金して税を納めるのですが、商人たちは当然、安く穀物を買いたたくようになります。

農民たちは税の増大に苦しみ、商人たちは利益を得ていきます。

この換金の流れを通して、貨幣経済が民衆の隅々まで行き渡っていきました。

唐は財政難を解決するために塩の専売を行いますが、塩の相場の10倍の利益を乗せたため、塩の密売が横行しました、取り締まる側の党政府に対して反乱を起こす密売業者も登場し、唐末期の経済は混乱しました。

日本は???

日本では、和同開珎が本格的に発行されましたが。

流通したとしても、流通はなかなか進まず、朝廷は「蓄銭叙位令」という、お金を貯めると官位が与えられるという仕組みを作りました。

しかし、人々の気持ちが「使用」よりも「貯蓄」に向かい、かえって和同開珎の流通にはつながりませんでした。

大宝律令によって整った税制も、米を納める「租」や布や特産物を納める「庸」や「調」など、モノで納める制度であったため、貨幣経済は進みませんでした。

結局、奈良時代初期の「和同開珎」から平安時代中期の「乾元大宝」まで発行まで、約250年間に12種類の貨幣が発行されましたが、近畿地方での流通にとどまりました。

原材料の銅も不足し、これらの貨幣の中でも最後の方は大きさも小さく、品質も悪い粗悪な貨幣しか作れないようになりました。

奈良時代から平安時代初期にかけて遣隋使、遣唐使が行われましたが、平安時代の中期になると、唐の衰退により遣唐使が中止され、代わりに民間レベルの貿易が盛んになりました彼らの中には唐の貨幣を日本で使い始めるものが増え、以後の日本の貨幣として輸入船が使われるきっかけとなりました。

平安時代中期から貨幣の流通するとはどういうことなのか?藤原家が強大な理由

貨幣経済の発達」、いろんなものがお金で手にすることができる。

日本でも各地の特産品が都市で売られれば、領主はぜいたく品を手に入れるために、生産物を納めるよりも、貨幣の形の収入を欲しがるようになっていきます。

そこで、税の納め方を生産物から貨幣に切り替える領主が増えていきます。

農民も農民で、生産物を商人に売って貨幣に換えて、税金を払うわけですが、手元に残った、自分たちの取り分の生産物もお金に変えるようになります。

納涼生産力は向上していくので、農奴が手にするお金の額も次第に多くなります。

貨幣は農作物と違って腐らず、「価値の保存」が可能なので、子孫にも受け継がせていくことができます。

ここで、領主と農民の立場で微妙な変化がもたらされます。

立場の弱い農民も、コツコツと貨幣を貯めることによって経済力を高めることで領主に対して税を支払うことと引き換えに「見返り」を要求するなど「少し強く出る」ことができるようになりました。

より多くの税を払う代わりに、農民は領主から自らの土地の所有や、土地の売買を認めてもらうことを要求し、それまでの領主が農民を強く支配するという「班田収授法」が緩み始めました。

平安時代から班田収授や戸籍と言う律令の仕組みが崩壊し、朝廷は満足に税を集められる状況じゃなくなってしまったわけです。

戸籍に「人」を登録して土地を割り当て、税を徴収するのが、それまでの律令性に基づく班田収授でした。

しかし、「人」は逃げてしまったり、性別や年齢をごまかしたりできます。

そこで、平安時代中期ごろから「土地」に税をかけて、そこを耕している人と契約を結んで納税を負わせ、税を徴収するようになりました。

もし、その「人」が逃げたとしても「土地」は逃げないので、土地を管理しておき、次のその土地を耕しに来た人と契約を結べば税の「とりっぱぐれ」がおきません。

こうした工作を請け負った農民を「田堵(たと)」といいます。

勢が欠けられる土地は「名」または「名田」といわれます。

この体制は「負名体勢」と呼ばれました。

この体制では、納税することを条件に、たくさんの土地の工作を請け負ってもよくなったので、もし「2倍の税を納めるので、2倍の土地を耕したい」ということであればそれでOKです。

こうして農民の間で格差が生まれ、広い土地の耕作を請け負った有力農民は「大名田堵」、土地を開発した優良く農民は「開発領主」といわれました。

民衆にとっての土地の在り方が変わったように、国司の在り方も変化します。

それまでの国司は朝廷から派遣された、いわば「公務員」として国の「管理」をしていたのですが、税収が滞るようになると、朝廷も方針を転換します。

税を確実に取れるように国司の権限を強化し、「認知の国から一定額の税を集めれば、あとはお任せ、何をしてもよい」ということにしたのです。

実質その地の支配者のようにふるまってもよいということになり、税を多めに徴収して、残りを懐に入れることもありですし、民衆を労働に使うのもアリです。

こうしたことから、国司たちはその立場を利用して私財を蓄えようとします。

任国へ赴任する国司は受領と呼ばれ「欲張り国司」となり、任期中に搾り取れるだけ搾り取ろうとしました。

そうなると、「大名田堵」や「開発領主」たちはブチ切れて「欲張り国司」と対立します。

「大名田堵」「開発領主」はどうしたかというと、上級貴族や大寺社に土地を寄進し、その名義の荘園にしてもらい、収穫の一部を差し出す代わりに保護してもらうのです。

受領たちは自分たちよりも上級の貴族や大寺社の名義になっていると土地から税の徴収ができなくなり、受領たちの使者も立ち入りができなくなります。

これを「寄進地系荘園」といいます。

藤原氏、とりわけ娘を天皇に嫁がせて親戚になることで、摂政や関白に就任した「摂関家」の人々は絶大な権力を持っていたために寄進地系荘園が集中。

こうした荘園から得られた財力が藤原氏の栄華を支えていたわけです。

また、このように、「大名田堵」「開発領主」が出現し、経済力と同時に武器を持って「武士」が台頭していきました

その中で武士の主役となったのが源氏です。

源氏の地位がなんだかんだで向上しまくったのですが、源義親という人物が乱暴者で、九州で略奪を働くなどもさることながら、出雲国で大きな反乱を起こしました。

これを鎮圧する命令を受けたのが、伊勢平氏の棟梁、平正盛平清盛の父)です。

それまで地位を高めてきた源氏が反逆者となり、平氏が鎮圧する側に回ったことで、武士の主役の座が源氏が平氏に「交代」しました。

平家物語は、立場が逆転していますので、源氏の復讐劇もあるといえます。

まとめ 平家物語舞台の発端

◆ここにがポイント!◆
平安時代中期:貨幣の導入で貯金=経済力を貯める農民が力をつけ、天皇一強のパワーバランスが崩れていった

経済力を貯めることができなかったから、天皇一強の世界がずっと続いていたのですが徐々にこの体制が崩れていく。

とまぁ、こんな感じの流れの中で、平氏、源氏、藤原氏等が天皇を利用しながらのし上がっていこうという工程で、

藤原氏(平安中期)→源氏(平安中期)→平氏(平安後期)→源氏(鎌倉)

この太字の部分を取り扱っているのが「平家物語」ということですね。

なんでもそうなんですけど、

歴史というのは、モノの事柄を知るための重要なサンプルなんですけど、

現代社会がこうなっている要因を歴史的に探ると、古代→中世→近代→現代における時代の転換部分というのが物凄く重要で、そこを勉強すれば、社会の多様性を理解できるわけですよ。

んで、平家物語というのは、中世を「飛鳥時代~江戸時代末期」と考えると、中世で起きた日本の一部の事件程度です。

※中世をローマ帝国が滅んでからルネサンスまでの1000年間のヨーロッパであるという厳密なことは、置いといて。

天皇発祥

元は皇帝天子[34]・君主の敬称であり、古代中国最高神神格化された北極星(天皇大帝)を指す語[35]である。

日本の第40代天武天皇は、日本で初めて天皇と称された人物。ただし在位中のいつから天皇と称したのかは明らかでなく諸説がある(遅くとも天武6年(677年)12月には天皇号が使用されていた)。その孫の文武天皇の時、大宝律令天皇の号が法制化され、天武天皇以降、およびその系譜を遡って天皇諡号が贈られた。

国史大辞典』は「天皇」の称号に相当する人数が、学問上確定できないとしている。『古事記』『日本書紀』が天皇号を用いて記載している人名中、最初から数人ないし十数人は、実在を認められないか強く疑われる名が多いためである。現在、皇統譜神武天皇を第一代とし弘文天皇を加えているのは、「学問とは無関係の公的決定にすぎない」とされている。

天皇がいつどのように成立したかは、現在の学界では学説が多様に分かれている。ただし、天皇の前身をなす大王が遅くとも5世紀の初めには、のちの畿内の地の政権の王として存在したことは中国の史書からも認められる。古墳時代から勢力圏を拡大し、はじめは毛野吉備出雲筑紫その他の各地の有力豪族と並立する一地方政権であったのが、やがて7世紀末から8世紀初頭にかけ律令体制を整えるまでのある時期に、他の諸政権との連合体から広い範囲にわたる統一政権に成長した、といったことは推認されている

引用:wikipedia

5世紀初めから現在の近畿地方で政権の王をやってそこから平安時代までずっと王をやっているわけですから、日本において「天皇」は、王様だと考えればOKですね。

天皇」に関しては、日本人は「小室圭」とかでお馴染みですので大丈夫でしょう

平清盛一強の理由:保元の乱平治の乱

保元の乱

平家物語の主要人物である平清盛がこの内乱に2つとも勝利したことで、圧倒的な権力と財力を獲得するわけです。

保元の乱:発端は当時の、鳥羽上皇崇徳上皇のもう一人の弟である後白河天皇皇位を与えると、崇徳天皇鳥羽上皇後白河天皇との関係を悪化させます。で、鳥羽上皇が亡くなると、兄弟で対立するわけですね。

後白河天皇(弟) 藤原忠通平清盛源義朝源頼朝の父)

VS崇徳上皇(兄) 藤原頼長平忠正源為義源為朝

崇徳天皇の召集に、源氏の中では父の源為義と弟の源為朝が応じましたが、兄の源義朝は妻の父のいとこが鳥羽上皇の乳母だったため、崇徳天皇のもとに行かず、後白河天皇のほうにつきました。

平氏の中では鳥羽上皇に重く用いられていた平清盛後白河天皇につき、藤原頼長との警護に勤めたことがあった清盛の叔父の平忠正は、崇徳上皇につきました。

戦いは先手を打った後白河天皇の方が勝利。

崇徳上皇方は源為朝を中心に良く戦いましたが敗北、源為義は子の源義朝の手で処刑され、平忠正は甥の平清盛によって処刑されて終了

平治の乱

保元の乱に勝利した後白河天皇は、位を子の二条天皇に譲り、院政を開始します。

ここで政治の主導権を握ったのが、「信西」という僧としての名前で知られる藤原通憲という人物です。

藤原氏の中であまり高い地位ではなかった信西は、出世を諦めて一旦出家するのですが、信西の妻が後白河天皇の乳母をしていたことがきっかけで、後白河天皇の「参謀」のようになっていきます。

この信西に接近したのが平清盛です。

武力で信西を支援しつつ、瀬戸内海交易の拠点である播磨の国の国司や、中国との貿易の玄関口である大宰府の時間に任命され、官職と共に財力を高めていきます。

これに不満を持ったのが、藤原信頼源義朝です。

高い家柄であった藤原信頼は、自分より低い家柄の信西が重く用いられることにより不満を持っていましたし、源義朝も、保元の乱でともに勝ったのに平清盛の出世ばかりが目立ち、自分は十分に報われていないと思っていました。

ここに「反信西・反清盛」で一致した藤原信頼源義朝が結びついて挙兵し、信西を捉えて自殺に追い込み、平治の乱が起こりました。

平清盛は反撃の兵を上げると、藤原信頼源義朝を破り、藤原信頼を斬首、源義朝を殺害し、源義朝の子、源頼朝を伊津の国に流しました。

平家物語の一連の流れ

一強となった平清盛は、貴族的性格を強め、昇進を重ねて朝廷の最高位である太政大臣に上り詰めます。

そうして、娘の徳子を高倉天皇に嫁がせ、その子安徳天皇を即位させて、自らはその祖父として権力を握るという、摂関政治のような婚姻政策をとりました。

武家の棟梁としても西日本を中心に各国の武士を地頭に任命し、土地の管理と治安維持を行わせるとともに、平氏一門を国司として全国に配置し、東日本にも勢力を伸ばします。

平氏政権の経済力を支えたのが日宋貿易による収入です。

現在の神戸港に当たる大和田泊という港を修築して停泊船の安全を確保し、宋の商人を盛んに招き、貿易を推進します。

しかし、平氏に反感を持つものは多く、特に後白河天皇と近臣たちは、信任をしていたはずの平清盛が逆に自分たちをないがしろにしているという不満がありました。

平氏打倒計画も練られましたが、察知した平清盛に逆に後白河上皇は屋敷に閉じ込められ、多数の貴族が処分されました。

平氏政権に対する不満は日に日に高まっていきます。

後白河天皇の子、以仁王と源氏の一族の源頼政が寺院勢力と結んで挙兵しますが、すぐに鎮圧されてしまいます。

以仁王の挙兵は失敗に終わりますが、その命令文である「以仁王の令旨」は全国の武士に行き渡り、これを読んだ武士たちが次々と平氏打倒の兵をあげることになります。

中でも、平治の乱によって滅亡寸前までに追いやられ、再起を図っていた源氏が挙兵の中心になっていきました。

こうしていわゆる「源平の合戦」といわれる「治承・寿永の乱」が始まるわけです。

伊豆に流されていた頼朝も、以仁王の令旨を受け取った一人です。

挙兵した源頼朝は、緒戦に勝ったものの、続く石橋山の戦いでは平氏方の軍に大敗し、命からがら戦場から脱出します。

しかし、平氏に不満を持つ関東の武士たちが続々と源頼朝の元に集まり、源頼朝は態勢を立て直すことができました。

根拠地の鎌倉で体勢を立て直す源頼朝に対して平清盛は軍を差し向けますが、富士川の戦いに置いて平氏は敗北します。

平氏軍は水鳥の羽音を敵の襲撃だと思い、戦わずに敗北した」と伝えられており、「平氏が『貴族化』して軟弱になった」というエピソードとして語られています。この敗北後、平清盛源頼朝への憎悪を口にしながら病死します。

源頼朝の挙兵の1か月後、信濃国では源頼朝のいとこだった源義仲が挙兵しています。

戦上手の源義仲倶利伽羅峠戦いで平氏軍を破り、勢いに乗って京都を奪い、平氏を京都から追い出します。

しかし、京都での源義仲軍の兵は統率がとれておらず、京都で乱暴や略奪を働きます。

源義仲が都で乱暴を働き、「厄介者」となったため、後白河天皇源頼朝源義仲を討つように命令します。源頼朝は戦上手の源義仲を討つために、さらに戦上手という評判のある弟、源義経を対象都市、もう一人の弟(源義経の兄)の源範頼とともに源義仲を討たせました。

源義仲が戦死したのち、後白河天皇源頼朝平氏打倒の命令を与えます。

「官軍」になった源氏は源義経の指揮の元、一の谷の戦い、屋島の戦いと次々と勝利し、壇の浦の戦いで平氏を滅ぼしました。

源氏が平氏を滅ぼすと、今度は、後白河上皇は源氏の勢力拡大を警戒し始めました。

源氏を割こうとして源義経を重く用い、源頼朝と地赤穂させようとしますが、武士達は源義経につかず、源義経は孤立します。

源義経奥州藤原氏に身を寄せますが、身を寄せた藤原泰衡に殺害されいます。

そして、その奥州藤原氏自体も源頼朝に滅ぼされて戦乱は終結しました。

ワイ個人としては、平家物語よりもドリフターズでの源義経が、廃棄物側についているのと、那須与一との関係性に興味を持ってしまいますね。

 

各話レビュー

点数説明

アニメガタリズの影響で、2021年から採用しているワイの査定方法「絶対評価

  • 各話を10点満点で採点。ただし、0.5分割。各話合計÷話数×10
  • 92.5点以上で「A」 Aは累計120作品程度(約1000作品中)
  • アニメのクオリティは関係なく、ワイの満足度で査定

アニメガタリズと違ってワイのブログの歴代MAXは98点です。

今回は、各話点数非公表で、総合点数だけ公表

【1995年~2022年】歴代年度別ベストアニメランキングトップ20!【ワイの保存版】 - 働いたら負け

登場人物

びわ:主人公。平家一門と仲良くする

平重盛後白河上皇の不満をなだめる抑止力担当

平徳子平清盛の娘で高倉天皇に嫁がされ、その子安徳天皇を即位させて、平清盛はその祖父として権力を握るという、摂関政治のような婚姻政策に利用される。

平清盛:一番権力持ってる人。

後白河法皇:当時の天皇の上の「上皇」なのでかなり権力ある。平治の乱で「参謀」が自殺に追いやられた際、その仇を取ってくれた平清盛。その信任をしていたはずの平清盛が逆に自分たちをないがしろにしているという不満を募らせていく

高倉天皇後白河法皇の息子。徳子と結婚する。飾りだけの天皇

源頼朝鎌倉幕府開いた人

源義経:頼朝の弟。戦闘力かなり高め

以仁王(もちひとおう):後白河上皇の子供。5話で一瞬、登場して平家を潰そうとするが失敗する。

木曽(源)義仲:源頼朝のいとこ。第八話登場に登場し暴れたと思ったら、9話で首に弓やが刺さって死亡

平清経:9話で入水

平敦盛:清盛の甥。6話でさわやかに登場し、9話の最後に戦死

平知盛:壇ノ浦で入水

平宗盛平清盛死んだ後、棟梁になりエンジョイ。壇ノ浦で

第一話「平家にあらざれば人にあらず」

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。

【現代語訳】
祇園精舎の鐘の音は、「諸行無常」、つまりこの世のすべては絶えず変化していくものだという響きが含まれている。沙羅双樹の花の色は、どんなに勢い盛んな者も必ず衰えるという道理を示している。世に栄えて得意になっている者がいても、その栄華は長く続くものではなく、まるで覚めやすい春の夜の夢のようだ。勢いが盛んな者も結局は滅亡してしまうような、風の前の塵と同じである。

武家の棟梁としても西日本を中心に各国の武士を地頭に任命し、土地の管理と治安維持を行わせるとともに、平氏一門を国司として全国に配置し、東日本にも勢力を伸ばします。

冒頭のびわのパッパが斬り殺されるシーンがピーク

話として考えるならば、未来のみえるびわと過去がみえる平重盛との出会いによってびわの人生が180度ひっくり返る始まりなので、視ている側としては、平重盛と、滅びゆく平家を防いでいこうとするシュタゲ・リゼロ展開なのかな?というリードの仕方をしているんですよね。

もう一つは平徳子が壇の浦の戦いで水に飛び込む未来がみえたというのは最終回までの繋ぎで、これは、構成上いいのかなと思います。

平清盛が、後白河上皇をないがしろにしているのに失望気味

導入はいいけど、しかしだ、今後の話の展開としては、びわが特に活躍するわけでもなく、重盛も途中に死ぬので、どの視点でこのアニメをみたらいいのか、大変になって、視聴ストレスかかります。

第二話「娑婆の栄華は夢のゆめ」

資盛が天皇の摂政に無礼を働いて制裁を受け、それに清盛が報復したことで、平家に対する批判が噴出する。重盛は資盛を伊勢に謹慎させ、自身も職を辞することで少しでも批判を治めようとするが、それがおもしろくない清盛。そんな中、徳子が後白河法皇の息子・高倉天皇に入内することが決まる。

FODのあらすじに全て書いてある

平治の乱保元の乱で、共闘したこともあって、後白河法皇平重盛に任せれば、自分も得があるだろうと思ったけど、思ったより平清盛が自分をないがしろにして調子に乗ってるからから、こいつ潰したくなってきたなという流れがわからないときついっす。

1話ではボーイミーツガールで始まったのに、2話で急に違うキャラクターが中心のエピソードになり、出家してたけど。

後白河上皇平清盛を中心にバチバチやってる描き方の方がわかりやすかったかなと

第三話「鹿ケ谷の陰謀」

後白河上皇の側近たちが鹿ケ谷の山荘で平家打倒の計画の密談が行われたことが事件平時打倒計画も練られまして平清盛激怒

高倉天皇は、後白河法皇のいいなりですね。

前半は、徳子のNTRの悲しみを共感する回

後半は、後白河法皇と院側近による、平家転覆の謀略が発覚。

”鹿ケ谷の陰謀”が起こるまでの出来事

  1. 平清盛後白河上皇の不仲
  2. 清盛の義妹・平滋子が後白河上皇の妻で、仲介役に
  3. 滋子死没、仲介役皆無に
  4. 後白河上皇派の藤原師経が白山寺を延焼
  5. 天台宗座主・明雲が師経の処罰を強制
  6. 後白河上皇重臣で藤原師経の父である西光が不服を申し出る
  7. 後白河上皇は態度一変、明雲を処罰・伊豆へ流罪
  8. 延暦寺側が納得せず、明雲を強奪
  9. この事柄を清盛に制してほしいと後白河上皇が依頼
  10. しかし、清盛は寺院と敵対する事を良しとせずに依頼を断る

要するに、依頼を断ったので、後白河上皇は、平清盛にブチ切れて、「平家ぶっつぶそうぜ」となるわけですね

第四話「無文の沙汰」

首を斬られた西光以外では、俊寛は流刑となり、成親は流刑の果てに食事を与えられずに命を落としました。

平清盛、絶賛暴走中。

息子の平重盛、死亡。

2・3話と比べると、後半は情報量が少なめでキャラクター同士の会話が優先されていたので、みやすかった。

あと、重盛の目をもらうという主人公の変化が明確だったので、これからびわがどのように活躍するのかという繋ぎには、なっている回

第五話「橋合戦」

重盛に代わり弟の平宗盛が平家の頭領になるが、後白河法皇は平家の勢力を削ごうと動き始める

平重盛が死亡したので自身に反対する者もいないので、平清盛は、平家を潰そうとする後白河法皇は屋敷に閉じ込め、多数の貴族が処分、三種の神器とともに幼い安徳天皇(徳子が産んだ子)の即位を急ぐのであった。

後半は、後白河天皇の子「以仁王(もちひとおう)」と源氏の一族の源頼政が寺院勢力と結んで挙兵しますが、鎮圧成功。

以仁王源頼政は作中では登場はワンカット程度

感想は特になし。

第六話「都遷り」

平家への風当たりが強まるなか、京からの遷都が決まり、慌ただしく引っ越しの準備をする平資盛平清経びわ
たどり着いた福原の海岸で、兄弟たちはいとこ違いの平敦盛と出会う。
月を見ながら笛を吹き、束の間の交流を楽しむびわたちだったが、清盛の邸では物の怪による変事が相次いでいた。

平家物語は、軍記物としてだけではなく、妖怪談などのフィクションも織り交ざっているらしいです

登場キャラ多い上に、似たような顔が多くてきついっす

第七話「清盛、死す」

後白河上皇の息子で徳子の旦那の高倉天皇は危篤

以仁王の挙兵は失敗に終わりますが、その命令文である「以仁王の令旨」は全国の武士に行き渡り、これを読んだ武士たちが次々と平氏打倒の兵をあげることになります。

源頼朝が、遂に後白河法皇院宣を受けて挙兵。

挙兵した源頼朝は、緒戦に勝ったものの、続く石橋山の戦いでは平氏方の軍に大敗し、命からがら戦場から脱出します。

しかし、平氏に不満を持つ関東の武士たちが続々と源頼朝の元に集まり、源頼朝は態勢を立て直すことができました。

根拠地の鎌倉で体勢を立て直す源頼朝に対して平清盛は軍を差し向けますが、富士川の戦いに置いて平氏は敗北します。

半年とおかず福原から京に戻ってきた平家一門は南都の僧たちからも朝廷からも警戒され、ますます孤立していく。

平氏軍は水鳥の羽音を敵の襲撃だと思い、戦わずに敗北した」と伝えられており、「平氏が『貴族化』して軟弱になった」というエピソードとして語られています。

この敗北後、平清盛源頼朝への憎悪を口にしながら病死します。

第八話「都落ち

清盛の死を受けて動揺する一門を離れ、母探しの旅に出たびわは、各地で平家と源氏の戦の状況を耳にする。

奮闘する平知盛平重衡らを尻目に、頭領の平宗盛は京で宴三昧の日々を送っていた。

源頼朝の挙兵の1か月後、信濃国では源頼朝のいとこだった源義仲が挙兵しています。

戦上手の源義仲倶利伽羅峠戦いで平維盛率いる平氏軍を破り、勢いに乗って京都を奪い、平氏を京都から追い出します。

しかし、京都での源義仲軍の兵は統率がとれておらず、京都で乱暴や略奪を働きますが、この回の最後のシーンはそれを表現したものでしょう

第九話「平家流るる」

京を捨てて西に逃れる平家一門。入れ替わりで源氏の白旗がはためく京に戻ってきたびわは、静御前らとともに丹後をめざす。
後白河法皇後鳥羽天皇を擁し、かつて重盛に仕えていた者たちも次々と源氏側に寝返っていく。
福原を落ち、大宰府からも拒否され、疲弊しながら歩き続ける一門は、とうとう海まで追いやられる。

平清経が入水死亡するけれども、特に感情移入はなく。

一応、びわが主人公なので、平家を追い出されて母親に会いに行く平家の行く末を見届けるという流れがある。

源義仲が都で乱暴を働き、「厄介者」となったため、後白河天皇源頼朝源義仲を討つように命令します。

源頼朝は戦上手の源義仲を討つために、さらに戦上手という評判のある弟、源義経を対象都市、もう一人の弟(源義経の兄)の源範頼とともに源義仲を討たせました。(義仲が首に弓や刺さって死亡カット)

源義仲が戦死したのち、後白河天皇源頼朝平氏打倒の命令を与えます。

ラストシーンは、平敦盛一ノ谷の戦いで戦死

第十話「壇の浦」

旅のすえに母と再会したびわは、改めて自分も平家の行く末を見守り、祈り続けることを決意し一門に戻る。
捕らえられた平重衡は人質で「三種の神器」を遠回しに要求

平重衡は、鎌倉に送られ、平維盛は出家して後に入水

平家物語は、ダイジェスト感が拭えなかったが

十話と十一話は、進行ペースが1話分

第十一話「諸行無常

年が明けて季節は冬から春へ。決戦は屋島の戦いから壇ノ浦へと向かう。追ってきたのは源氏の若き総大将・義経
激しいうず潮に源平の舟が入り乱れるなか、イルカの大群が押し寄せ、遂に風向きが変わる。
平氏の敗北と滅亡が垣間見えるなか、みなを勇気づけ闘う平宗盛平知盛三種の神器とともに帝の手を取る時子。
びわはそのすべてを目に焼き付けようとしていた。

平宗盛は、壇ノ浦で入水せず、捕まった後、死罪が決まり卑屈な態度に終始して助命を乞い、集まった者から非難・嘲笑されたという。

徳子を助けるためにびわが死ぬくらいはやっても良かったかなとは思いますが、まぁ、無難に良かったと思います。

「入水(自決)」による極楽浄土

仏教を始めたお釈迦様がなくなって2000年間の後に「末法」といわれる世の中がやってきて、釈迦の教えは正しく行われなくなり、世の中は乱れると信じられていました。この「末法」元年が藤原頼通の時代にやってくるとされていました。

こうした思想を背景に民衆に拡がった仏教が「浄土教」です。この世の中が乱れ、どうせ「末法」の世の中になるのならば、せめて「あの世」で「極楽浄土」に行くことをお願おうという仏教です。極楽浄土に人々を導く阿弥陀仏が信仰の対象となり「南無阿弥陀仏」という阿弥陀仏にすがるための念仏を唱えることが民衆に広まりました。

総合点数82.28 評価 E

結論を述べると、面白くなかったです。

1回目観た時と、感想変わりませんでした。

量産型なろうアニメよりは、こういうアニメが、たま~に、あってもいいかな。

主なポイント

・アニメ版の平家物語の意図としては、平清盛の死後の平家一門は滅亡するため、前半でびわ平重盛の息子たちと仲良くなっていく様子をみせて後半に仲良くしてくれた人がみんな死んでいくという流れに「悲しいわぁ」って気持ちで、キャラクターに感情移入できるように作っていると思います。

しかし、その意図が、伝わりにくいし、エピソード詰めすぎて、共感する間もなく終わってしまった。

・登場人物が多いし、どのキャラクター視点でみればいいのか、わからない

びわが主人公だとしても、びわ本人が死にかけるといった危機感もないので、みてて緊張しない。

・どうしても、平家物語を理解する上で、平清盛後白河法皇、源氏の経緯というのもアニメを観る前に、抑えておかないとすんなり世界観に入りずらい。

このように難点がありますので、面白いというよりは、視聴するのにエネルギーを多く使って、しんどいです

また、以上のポイントから、

制作側の狙い通りにみせることができたら、「平家物語」は「鬱アニメ」の類です

だって、びわの友達が、徳子以外みんな死んで、それわかってるけど止められない。

みてて、悲惨じゃん。

他のアニメユーチューバー含めて、アニメ感想欄をみるんですけど、「よくわからん」って言っている人が一番素直。

「鬱アニメだ」「平家物語って、こんなんだったんか。。。」「やっぱ、つれぇよ」という感想を持っている人は、平家物語を楽しめた人で、

「悲劇!」「諸行無常!」「素晴らしい!勉強になる!」

とか言っている人は、おそらく教養マウントです。

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