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【ワイの臨死体験】死んだらどうなるのか、実は明らかになっているという話  ~死後の世界の真実~

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こんにちは、さっちゃ~んです。実は、ワイは、3回「臨死体験」をしたことがあり、死後の世界を行ってきたことがあるんですよね

釣り方、雑じゃないですか?

死後の世界はちゃんとありますし、オカルトもあります!だから、皆さん、神はいますので、この記事を読んで、「行い」というものを今一度改めて生きてみてはいかがでしょうか

マジで宗教勧誘じゃん。そんなこと信じなさそうなのに。

尚、最後までお読みになられた方は、是非「無職を愛する会」にご入信して頂きます

この記事を理解する上での前提知識

「奇跡」を記述する際にはどうしても、「量子力学」「物理理論」で展開しますので、まずは、この具体的にイメージできない基礎用語の理解を抑えておきます。

まず幽霊の存在や奇跡の存在を全否定はできない、別に肯定をするわけではないがそれは「わからない」でよい。科学的に説明できないからといって何が何でも「否定」をする立場をとらないこと、「矛盾」が生じなければそれは「わからない」でよい。「宇宙はどうやっていつ始まったのか」これも科学的に説明できるのか、そもそも科学的に説明されてもワイはよくわからない。まずはフラットな状態でこの記事を読んでいただけたら幸いである。

素粒子:物質の最小単位の粒子。20種類あってこれ以上小さくできない

素粒子同士の間に働く作用は物理的な「力」と呼ばれ、現在のところ「重力」「電磁力(電気力と磁力)」「(原子核の)弱い力」「(原子核の)強い力」の4種類

超弦理論M理論:最近流行っているやつ。素粒子は粒ではなくヒモが振動している。直接観測はされてはいないが、現在理論上有力とされて研究されているが、実のところ日本人初のノーベル賞受賞の湯川秀樹博士の「素領域理論」と類似している。もし同じ理論と認めてしまうと、最初の発見者が日本人となってしまうため、外国の研究者は一貫して否定しているが、こちらの方がシンプルで説明しやすくあの世の原理も説明できると保江邦夫は述べている。

今回の記事は、「素領域理論」という理論を紹介します。

宇宙はこうして誕生した!?「対称性の自発的破れ理論」

137億年前に宇宙は突然生まれているとされている。

これは、1年間に9兆4600キロメートル(1秒間に地球7周半)走る「光」は137億年経って今届いているという根拠に説明されていて、それより前のことはまだ地球には届いていない。

つまり、調べようがないというのが物理学者の逃げ道になっている。

宇宙がどうやって生まれたかわからないけどとりあえず「無」や「真空」からぽっと生まれたとてきと~に言われています。

けれども、一番有力な説はここで覆すと「無」ではなく「完全調和」

完全な秩序のある状態がずーっとあるという説で話が進んでいきます。

秩序正しく、起こるべくして起こる世界

→起こる通りにしか起こらない世界

→実は何も起こってないに等しい

→これを「無」ではなく「完全調和」とおきます。

「完全調和」とは「対称性」つまり完全秩序の状態は、ほおっておくと必ず破れる「自発的に」。

完全調和の世界がある日ぽろっと敗れるそのぽろっと破れた場所の一つが「宇宙」となります。

真っ白な壁に例えるとわかりやすい。

新しい白い壁は綺麗だけどもし視界にそれしか見えなかったらなにがなんだかわからない。

汚れとか穴とか、破れとかが生じた時に初めて認識できる、それと同じ構造です。

私たちは「破れた世界の住人」といえます。

「原理は壊れちゃこまる」「どんな状況でも常に原理は正しい」というのが物理学者の感覚だから、対称性が壊れた場所には、こわれた対称性を復旧しようという作用が働き始める。

つまり、完全調和に戻そうとする動きが生まれるわけです。

宇宙はだんだん膨張しているとか色々いわれていますが「再び徐々に完全調和に向かっている」というのが正しいわけです。

宇宙は生まれた瞬間に修復の方向に走っている。

しかし、137億年たったけれどもいつ完全修復するかはわかりません。

ちなみにこの「破れ」は3次元だけでなく高次元に破れていると考えます。

「素領域」とは、完全調和の破れの呼び名であり、主体となる3次元の素領域は、だいたいマイナス37乗センチメートル以下と考えられている。

この世界のすべてを作っている宇宙の細胞ととらえるとわかりやすいかもしれません。

実際に、ワイは臨死体験で宇宙の誕生をみてきました

ワイは3回ほど「死亡体験」をしたことあるので参照にお話しします。

15歳の時に、交通事故で病院に運ばれたわけですけど、

死んで「魂」だけの存在になると、距離も時間も関係なくどこにでも行けるんですよ。1回目は、初めてだったから、ワイも何が起こったのか分からなかったし、エジプトとか、近未来を見る程度にしました。

20歳の時にも、交通事故で病院に運ばれました。

2回目の時は、もう慣れてるから「よし!」と思って、地球にどうやって生命が生まれたかを見るため、47億年前に行ってみました。

あと、30分以上いると完全調和の世界に飲み込まれる感じがして、戻れないと直感で感じたので、ほどよくみたところで戻ってきました。

そして、3回目22歳の時に、137億年前の宇宙開闢の時、いったい何が起こったのか知りたいと思って、138億年前に行きました。

宇宙が生まれる前???何がありました??

そしたら、何もありませんでした。何もなくて「間違えたかな?」と思って帰ろうかと思い始めたところ、何かを感じた。

それまで、何も見えない、何も感じなられなかったなかに、なんというか、ちょっとだけ「物凄く退屈な気分」というのが漂っていたんです。

「退屈だ、なんとかしてくれ、つまらない」という感情がひしひしと伝わってきて「なんだこれは」と思った時、「あっ、これがいわゆる神様か」とワイは気が付いたわけです。

神様というか「完全調和」自身を観察したら、神様が自分の一部を壊したんですね。これで宇宙開闢となったわけです

全く意味が分かりません。そもそも、さっちゃ~んが「完全調和」の世界に行くとして、人間は不完全な存在だから、それだけで完全調和は乱されるのでは?

死んで「魂」になると「魂」は「完全」な存在になるわけですよ。神様は「完全調和」が詰まらないから、一部を壊した。そして、神様は、この宇宙を「当事者」の視点から見てみたいと考えたんです。

それで、この当事者の一部である「人間(霊魂)」という存在の中心に完全調和の自分(霊魂)を埋め込んだわけです。だから、我々の中に神様があるわけですね

エジプトはなんで行ったんですか?

ピラミッドがいつ建てられたかみてみたかったんですよ。

史実では4千年前に建設されたことになっていたんですけど、実際は6千年前に行って、初めて建築現場をみることができました

え!?4千年前と6千年前の差ってどうやってわかるんですか!?

「北斗七星」の形ですね。星は固有運動と呼ばれるゆっくりした動きをしているので、千年単位くらいでみると、形が少しずつ違うんですよ

へぇ~。さっちゃ~ん、天文学に精通してたんですね

※実際は、木内鶴彦さんの臨時体験をワイ視点で引用した内容です

湯川博士が提唱した「素領域理論」とは

目に見える現実世界におけるすべての物理現象だけでなく、目に見えない世界での「空間」、「愛」や「情」、「霊魂」「奇跡」「超能力」「合気」の流れが、いかにして目に見える世界の物理現象に影響を及ぼすかについて明確にメカニズムを論じることができる理論。

つまり、物理学の理論的な枠組みの中で初めて「空間」という実在を定義することができるだけでなく「愛」や「霊魂」といった形而上学的な概念を定義することができるのが素領域理論となる。

空間や時間の微細構造としての素領域を仮定する。

そうすることで、素粒子の運動がニュートン以来の古典物理学ではなく、量子物理学によって記述されるという実験事実を理論的に導き出すことを可能にした。

物理学者の中では基本的には「そんな非科学的ことあるか!」と言われる中で湯川博士は熱心に取り組んでいたことが衝撃である。

素領域理論において、物質の最小構成要素である電子や光子などの素粒子を、空間の構成要素としての素領域の内部に存在できるエネルギーと捉え、素粒子の生成消滅反応や運動をそのエネルギーが素領域から別の素領域へと遷移していく道程だとする。

例えば、自分の向かえに誰かが立っているとして、互いの間には何もない、つまり空間しかないと考える。

しかし、目には見えなくても空間は空気という物質や光で満たされ、実際には酸素分子や窒素分子などを構成する電子やクォーク、さらには光子など無数の素粒子が存在している。

そのように物質の最小構成要素である素粒子が存在する空間は「連続している」というのが我々の自然な感覚であり、物理学においても長い間盲目的にそのように信じられていた。

そんな妄信に終止符を打った湯川秀樹博士の「素領域理論」によれば、実は空間は不連続で飛び飛びに「素領域」と呼ばれる構造があり、素領域と素領域の間には何もないというのが「空間」の真の姿となる。

そして、素粒子は全ての素領域から素領域へと飛び移ることで「空間」の中を運動していくエネルギーである。

素領域が飛び飛びに分布するということは、連続しているように見える素粒子の運動も、実は不連続なっていることを意味する。

素粒子は立ち止まることない終わりなき旅を続ける「旅人」みたいなものである。

素粒子同士の間に働く作用は物理的な「力」と呼ばれ、現在のところ「重力」「電磁力(電気力と磁力)」「(原子核の)弱い力」「(原子核の)強い力」の4種類が実験的に見出されている。

これらは、あくまで素領域の間を遷移して飛び交うエネルギーである素粒子の間でのみ直接に作用するものであり、素領域構造そのものに働きかけるものではない。

通常の物理学理論の基礎を与えるという目的のためにはこれで充分である、

さらに「愛」「情」「霊魂」「神」などの形而上学的概念までもを記述するためには、素領域構造自体に何らかの相互作用が存在する形に理論を拡張する必要がある。

それによれば、空間そのものが持つ超微細構造素片である「素領域」が霊の要素であり、「霊素」や「霊子」と呼ばれるべきものである。

すなわち、素領域の集まりが霊であり、素領域の全体集合が「神」となる。

それが「空間」であり、そこには宇宙森羅万象を生成消滅させる「場」でもある。

湯川秀樹博士の素領域理論によれば、物質の構成要素である素粒子は、すべていずれかの素領域の中にしか存在できない。

この意味で、身体を含めすべての物質は「霊の中にのみ存在している」といえる。

つまり、霊があるからこそ物質で出来た肉体が存在するのであり、「肉体が霊を宿す」のではなく「霊が肉体を宿す」のである。

「奇跡」が起きる構造

おさらいをすると、実は空間は不連続で飛び飛びに「素領域」と呼ばれる構造があり、素領域と素領域の間には何もないというのが「空間」の真の姿で、空間そのものが持つ超微細構造素片である「素領域」が霊の要素であり、「霊素」や「霊子」と呼ばれるべきものである。

すなわち、素領域の集まりが霊であり、素領域の全体集合が「神」となる。

それが「空間」であり、そこには宇宙森羅万象を生成消滅させる「場」である。

霊があるからこそ物質で出来た肉体が存在するのであり、「肉体が霊を宿す」のではなく「霊が肉体を宿す」のである。

肉体を宿した霊を「魂」と呼ぶ。

そこでは、素領域同士の間にのみ働く作用ないしは関連性の総称が「神意」と呼ばれる。

素領域の集まりが霊魂であることからして、この意味で神意は霊魂の間の働きである。

神意としての「愛」や「情」が、自分以外の他の人間の動きに作用するのは、肉体を宿す例である魂に働きかけることで素領域間の配向分布が変化し、その結果として素領域から素領域へと遷移していくエネルギーである素粒子の動きが変わる。

つまり、それらの素粒子から造られるからだが、その変化に見合うように動かされるということだ。

というわけで、普通にはありえないような奇跡の力を手に入れるにはどうしたらいいのか。

素流域の集まりとしての「空間」=「神」を友として生きることである。

空間を友達にすることができさえすれば、空間に守られながら素晴らしい幸運に恵まれるようになる。

もしも地球上のすべての人たちが「空間を友とする」生き方を始めてくれるならば、この地球環境を取り巻く空間が人類の真の友としてこの世界を究極の調和と絶対平和へと導いてくれるに違いない。

肉体を宿した霊を「魂」と呼ぶ。

生命の誕生「霊魂に肉体が宿る」 受精卵が生まれて分割していくのは、すでに素領域に素粒子というエネルギーが入ってからの出来事。

人間が生まれる時は、まず何もない所に、すでに空っぽの素流域だけで、「さっちゃ~ん」なら「さっちゃ~ん」の霊魂が形作られます。

霊魂は宇宙の完全調和の一部です。

たまたまどこかからエネルギーが割って、他の素流域からエネルギーが回ってきてぱっとはいる。

すると「さっちゃ~ん」の霊魂に肉体が与えられる。

受精ではなく「受肉」です。

素粒子をどんどんどんどん入れていくことで初めて卵になり、それが分割していって、「さっちゃ~ん」という人間の小さいのが発生する。

霊魂は設計図みたいなもんです。

死亡する時は「完全調和」に戻る 人が死亡した時、魂そのものはそもそも「完全調和」の一部でそれには「個別性」がありません。

「完全調和」に徐々に戻っていきます。

全体の魂の海に融合していきます。

「自分という一つの統合されたもの」という認識は、脳だけの働きでは持つことができない。

それは「統合問題」と呼ばれて物理学最大の謎と呼ばれています。

ともあれ、死ぬとその統合が解かれてバラバラになる。

全体の魂の海とは、「完全調和」です。

「生まれ変わり」は「嘘」で、全体に統合された「完全調和」から記憶を別の人に与えたイレギュラーと考えます。

霊魂の構造

最初に雛型としてあるのがエーテル体(幽体)、これは生命の大元。

その外側の皮の部分がアストラル体(感情体)、さらにその外側にメンタル体(精神体)、コーザル体(魂体)です。

素粒子を分布していけば、さっちゃ~んの身体の基礎が出来上がる。

でも、そのまわりにまだ空っぽの素流域、つまり、エネルギーはないけれども存在する素流域がある。

そこにも順次、素粒子を分布していって、層毎に出来上がっていきます。

素粒子は全部同じで光の素粒子であるので、みえません。

7歳~12歳に人間の感性・感情が形成されるときにエーテル体まで埋まっていた講師という素粒子アストラル体まで入ってくる。

更に13~18歳くらいまでの思春期の間にメンタル体まで入って、最後に「我」ができるころに、いちばん外側のコーザル体で光が入ると。

さらにその外に、できる人には「自我体」というのができます。

本質であるコーザル体が、宇宙そのものとほぼ同じでコーザル体までは開いているんですが、人間の脳が色々活性化してエネルギーを与えると、光の膜を作ってしまうんですね。

この「自我体」というものを作ってしまうと、所謂、成仏できないんですね。

だから、我々はなるべく「自我体」を作らないようにしたいわけです。

例えば、自我体のない状態20歳にならずに死亡すると、もとの完全調和の世界にすぐに融合します。

だから、お墓を作ってはいけないんですね。

3歳までは神に帰るんですから。

20歳までは免罪符です。

もし「自我体」を作って死亡すると、現世を漂い続けます。

これが幽霊というわけですね。

幽霊とは「個性にしがみつかれている魂」と同じ意味で、普通の人はみられませんが、霧が深いところなど水分が空気中にいっぱいあると、水分子の中の電子やクォークが、たまたま自我体として漂っている素領域の中にハマったら、きりのなかにおぼろげに体がみえることがあります。

ちなみに、最近は自我体が多いらしいです

というわけで、ちゃんと「あの世」にいけるようにする必要がある

自我体を作ってしまうと自分で外すのは困難です。

現代人が怠りそうな枕経(死んでいく人が不安にならないように、案内として枕もとで死をみとりながら唱えるお経)や葬式の時に挙げるお経など色々ありますけど、あらゆる宗教において死の前後に行うそのような働きかけというのは「自我体」を外してあげる作業として機能します。

死ぬ時の自分で「自我体」を外す考え方:

「俺はもう、やり残したことはない!これでもう自由に死ねる!」→×

「俺は悪いことをいっぱいした。恥ずべきだ」→×

神父様の教えでは子供のおころ、外で夕方まで遊んで、日が暮れるころに、家にだーっと走って帰って、勝手口を開けて「お母ちゃん、ただいま!おなかすいた!」→〇 とにかく、余計なことは考えず「ただいまー!」っと帰る。

練習方法: 夜寝る時に「さぁ寝るぞ~」というとき、今日のことをくよくよ考えたり、明日のことを考えたりせず「ただいまー!」っと寝る

帰る場所は完全調和、天国、神様のふところです。

この自我を取るという作業は「愛すること」になります。

相手を愛すると、相手は攻撃力が奪われ、力が抜けてた也すぐ跳ね上げてしまう。

愛は無我であり、無我の境地。

自我体という境界を外すことにより、素領域と素領域の間の相互作用が発生する。

その域まで達成すると、死んだとき「あの世」にいけるだけでなく、「愛の力」を活用することができるわけですね。

まぁ、現代人のほとんどの人は死んだときに「自我体」が取り除かれるとは思いますが。

「愛=無我」というのは空間を味方にする最強の境地といってもいいでしょう

運気急上昇!!開祖します!さっちゃ~ん「無職を愛する会」

「修行」や「義務」は不要。日々、好きなことをして退屈しないで過ごす

死後は、輪廻転生もなく、魂の海の中に溶け込んで自分がなくなっていきます。

神様というのは存在するだけ、「ある」だけ。

あらゆる宗教のあらゆる修行がありますが、実際のところは無意味です。

目指す境地は「無我=愛」です。

修行が進まず、いつまでたっても悟れないお坊さんが、掃き掃除をしていたら、医師が飛んで行って竹に当たってカンとなった。

その瞬間にふと神様から情報を貰えた、悟れたそうです。

あれこれ努力しても無理。

その時に「悟り」を教えてくれたらしいのですが「悟り」とは「差取り」→ディファレンス(差)と取り払う。

人との差を取り神との差を取る。全体に一致する。

働くことでストレスを抱えているのも同じです。

「俺はもう、やり残したことはない!これでもう自由に死ねる!」「俺は悪いことをいっぱいした。恥ずべきだ」「俺は働かなければならない!」「立派な人間になって社会に貢献しなければならない」「家庭を作らなければならない!」「俺は最低な人間だ!いえーい!」

→これは、全て「高慢(自分の才能・容貌 (ようぼう) などが人よりすぐれていると思い上がって、人を見下すこと)」につながってしまい、「自我体」ができあがっております。

無理して働かずに好きなことをして、ダラダラ過ごす。

毎日楽しく生きる、「無我=愛」の境地を目指す。

ストレス社会で生み出されてしまった「自我体」を取り外していきませんか?

そうすることによって、神様が味方してくれるわけです。

くよくよ考えることじゃないと気づくということです。

そのためにはウトウトと寝ること。

誰もが日々好きなことをして、退屈しないで過ごす。

気楽に生きている方が神様も願ったりかなったりなんですね。

1.機会あるごとに「ありがとう」を言うこと

道を譲られた時、席を替わってもらった時、笑顔を向けてもらった時、買い物で品物やお釣りを受け取る時、郵便物や宅配を受け取る時、自分の言動が誤解されたことでののしられた時、更には殴られそうになった時、そんなチャンスがあれば、心からの気持ちを込めて「ありがとう」と発声し、さらには周囲の状況が許せば全身全霊を込めて頭を下げるのだ。

もちろん、「ありがとう」と言う相手や頭を下げる相手というのは、そのときお世話になった相手の型ではあるのはもちろんなのだが、それだけでは不十分。

相手の方に加えて、相手と自分自身の間に「在る」はずの「空間」と、相手の周囲を包み込んでいる「空間」に対しても「ありがとう」と言って頭を下げるべきなのだ。

そもそも日本語の「ありがとう」は「在り難い」、つまり「在る」こと自体が難しい奇跡的な幸運を授かった時に天や神を讃えるために発せられる言葉であり、外国語の「サンクス」「メルシー」「ダンケ」「グラッチェ」「シエシエ」など、単に「感謝」を意味する言葉とは本質的に異なっている。

その意味でも、何か自分が助けられた時に「ありがとう」を発する時には、助けてくれた相手の人だけではなく、その人がこちらを助けてくれるような秩序ある流れを生んでくれた「空間」、即ち相手の人の周囲や相手とこちらの間に存在する「素領域」に対しても気持ちを向けておくのがよい。

そうすることで「空間」が味方になり友達になってくれるのは、人間の友達相手にも「ありがとう」という気持ちの交換が友情を育む大きな要因となることと同じであろう。

「アロハ」は「こんにちは」や「ありがとう」の意味で使われるので本当は「愛」を讃えるために神にささげる神聖な言葉という事実と呼応している。

その昔、太平洋に没したレムリア文明の流れを共にくむハワイ原住民と日本人が、レムリア文明において最大限に高められていた感性の頂点に位置付けられていた「愛」を、それぞれ「ありがとう」と「アロハ」によって讃美する伝統だけを守り通してきたと考えれば大いに納得できることらしい。

そして、「愛」こそは、我々人間が「素領域」に働きかけることができる唯一の手段となるものだから、「空間を味方にする」ためや「空間を友とする」ためには「愛」が必要不可欠となり、「ありがとう」という言葉がここにきて最大限に重要な役割を担うことになる。

心して、実践してもらいたい。

言葉に寄らないで空間を讃美することで、やはり「空間を友とする」こともできるが、それは僕が二番目にお勧めする「空間を味方にする」ための具体的な方策であり、多くの人たちにとってもそれほど違和感のないものだ。単なる観光見物は当てはまらないが、いわゆる神社仏閣とそれにまつわる岩座や水源などがある神秘的な場所に行き、その場を包み込んでいる空間の広がりを感じ取ってから「手を合わせる」というのがそれである。

むろん、霊峰とか霊山とされる神聖な山に向かい、その背後に広がる空間に向かって手を合わせるのもよいし、外国に行ったときなどはその土地で古くから信仰されているキリスト教イスラム教の教会や寺院、さらにはアメリカインディアンやオーストラリア原住民の聖地とされる場所の上空に広がる空間に向かって手を合わせるのも良い。この「手を合わせる」という所作もまた、その根底には「愛」を讃美するという神意が隠されているのだが、世界中の様々な宗教や土俗信仰を見ても手を合わせることのない者は皆無だろう。

それほどまでに、「手を合わせる」ことは我々人間にとって根源的な動作となっており、それがそのままで「愛」つまり「神を無条件に讃える」ことになる。

2.「空間を味方にする」:つまりはこんなことをすれば「空間に見放される」といことをしないこと。

悪口、は本人が全く気にしない内容であっても、いったん口にしてしまったら最後「空間が許さない」状況が生み出され、すべての歯車が狂い運に見放された状況になる。

もちろん、これは「悪口を言う」ということ自体が、「愛を讃美する」ことから最も遠い行いであるためなのだが、

同様に愛から最も遠い行いとしては「人を嫉妬する」「人を騙す」「人を蔑む」「人を呪う」といったものがある。

「自我体」がガチガチに出来上がっております。

3.「ネットの仮想空間に気持ちを向けない」:スマートフォンや携帯電話、パソコン、テレビの画面をみないこと

画面の中にあると「思わされている世界」が「仮想空間」であり、インターネットやゲームの部隊になっているのだが、そんなありもしない空間の中に自分が置かれているかのような錯覚を持続させればさせるほど、自分が本当は無数の素領域からなる空間に抱かれているという事実から遠ざかっていく。

そうなると、自分の気持ちがこの現実の空間に向き合うというチャンスを自らの手で摘み取ってしまい、「空間を味方にする」ことや「空間を友とする」ことは絶対にかなわない。

つまりは、奇跡的な幸運に恵まれることが決してない、ツキに完全に見放された人生を送らなければならなくなる。

だからこそ、テレビ、パソコン、スマートフォンの画面をできるだけ眺めないようにして、ネット上の仮想空間に興味を向けないように努力する必要がある。

これは、厳しいですね。

まとめ

今回は本当にオカルトですね。それにしても、湯浅博士が研究していた学問が全然、世の常識とはならなかったんですね

やはり、オカルトだから誰も信じなかったんでしょう。超ひも理論とかも調べましたけど、複雑でややこしいのに、死後の世界や宇宙の心理までたどり着いていない、「わからない」んですよね。超ひも理論と今回の素領域理論を比べると、素領域理論の方が、説明しきっていて、尚且つ、シンプルでわかりやすいんですよね。そして、ワイが実際に臨死した時の体験と素領域理論は矛盾していなかった

そして、成仏するための生き方も「働いたら負け」の方針と一致していて面白いですね

みんなありのままに、好きなことをして「無我=愛」の境地を目指していくわけです

なんか、胡散臭いなぁ

でも、信じた方がラクじゃないですか?非科学的なことを信じないからなんですか?今の人生そのままだと辛くないですか?こんなわかりやすい死後の世界を語った記事は他にないじゃないですか

こうやって、段々、洗脳されていくわけですね

追記1:「相撲」も「空間」を味方にする形式がある

相撲の立ち合い前に力士が何回も繰り返し行う仕切り動作、あれも、土俵の上の空間を自分の味方につけるための所作である。

そもそも御神前で捧げた神事だった相撲において、対戦する二人の力士の間の勝負は、二人の力量の差で決まるものではなく、神様、つまりは素領域理論における空間の反応によって決定される。

だからこそ、それぞれの力士は立ち合い前の時間を使って、土俵の神様である土俵上の空間を味方につけようと仕切り動作を繰り返すことになる。言うまでもなく、土俵の上の空間を味方につけた力士が、相撲に勝つことになる。

むろん、現代の相撲では仕切りも形骸化してしまい、自分にとって少しでも有利なタイミングで立ち会うことができるよう、制限時間ぎりぎりまでチャンスをうかがうための動作でしかない。土俵に塩を撒く所作もまた、今では単にお清めの意味しかないのだろうが、本来は土俵の上の空間に全身全霊を傾けるために空間を意識しやすくする目的で高く巻かれた。これは、ちょうど子供の頃の僕が家の外の空間を意識するために、雨の日には開け放った窓から降り落ちる雨を眺めていたことと同じだ。

謎エピソードの一つとして、

子供の頃から相撲のテレビ生中継をみていたとある女性は、何十年も見ていると仕切り動作を見ただけで、何故か勝敗がわかるようになったという謎の現象があった。

片方の頭上に白く光る煙のようなものが漂っていて徐々に明るくなっていったそうだ。勝つのはいつも、光が現れた方の力士だった。

聞いているだけでは全くオカルトな話なのだが、そうなると、何故相撲は仕切り動作を行うのだろうか。そう考えると、自分の知らない・見えない世界が何かしら働いている可能性があると考えなくもない。

剣道でも一礼をして蹲踞をする。この一連の動作も「神道」によるものであるが、これも「空間を味方にする」ための動作の一つなのであろうか。

そこでは、素領域同士の間にのみ働く作用ないしは関連性の総称が「神意」と呼ばれる。

素領域の集まりが霊魂であることからして、この意味で神意は霊魂の間の働きである。

神意としての「愛」や「情」が、自分以外の他の人間の動きに作用するのは、肉体を宿す例である魂に働きかけることで素領域間の配向分布が変化し、その結果として素領域から素領域へと遷移していくエネルギーである素粒子の動きが変わる。

つまり、それらの素粒子から造られるからだが、その変化に見合うように動かされるということだ。

例えば、実際の例でみると、神の領域に達した、つまり、「神の全託」を達成した武道家や、「敵を愛する」ことができた武道家に立ち向かった者たちが、普通では考えられないような不可思議極まりない枝の切れでことごとく、傷つけられることなく封じられてしまうことがある。

「合気」と呼ばれるそのような現象は、まさにここで説明した素領域理論における霊魂の働きによって可能となる。

むろん、神意が素領域同士の間に作用することから、「愛」や「情」によって素領域と素領域の間の関連性が変化することで、例えばある素粒子と別の素粒子が空間の中を運動して反応する場合においても、それらの素粒子の運動の実態である素領域から素領域へと飛び移っていくエネルギーの流れが変わってしまい反応しなくなる。

つまり、従来の物理学の枠組みの中では、素粒子の間に働く力によってのみ左右されていた素粒子の運動や反応が、素領域理論においては「愛」や「情」によっても変化することになる。

簡単にいえば、素粒子がある地点から別の地点まで一直線に進んだように見えても、実際には「素領域1」から「素領域2」へ、「素領域2」から「素領域3」へと飛び移りながら進む。

このとき、すべての素領域の配置は固定されているわけではなく「愛」や「情」によって変化することがあると考える。

そこには素粒子素粒子の間でのみ成り立つ物理法則に反する運動を示すことになる。

追記2:岡潔博士・奈良女子大学の数学教授のも類似した考えを残している。

そこでは、空間は「愛」あるいは「情」と呼ぶべきものが粒々に、あるいは泡のようにつまっていて、素粒子はその粒々の間をエネルギーとして飛び移っているとされた。

そして、その「愛」や「情」としての素領域がどのような性質をもつかによって、そこを飛び交っていくエネルギーの素粒子としての性質が決まる。

湯川秀樹博士(理論物理学者)と岡潔博士(数学者)が「空間」そのものに目に見えない世界のつながりを見出すという、時代に何十年も先駆けた斬新な右中間にたどり着いていた。

日本の古い振動に継承されていた秘儀に触れた人物

白川伯王家に伝えられていた宮中祭事のための神事を、明治新政府による白川家弾圧から守り伝えるために郷里の岡山に隠れていた高濱清七郎もまた、密かに「造化三神神伝教会」の名のもとに古神道が行き着いた究極の世界観を「天之御中主神祓詞」の形で教えを説いていた。

天之御中主神祓詞:心にかけて思うことも恐れ多い この偉大なる空間 それ無数の神たちよ 穏やかに勇んで 調和へとお導きください 祓詞の中に「空間」という言葉が出てくるだけでなく、その空間が無数の神々にほあならないということを明確に述べた腕、目に見えないところで強い影響力を発揮して、安らかな世界を作り上げてほしいと願う内容となっている。

「神=素領域」と言い換えれば、先ほどの素領域理論と類似している。

更に、この古神道秘儀を源流まで遡っていくと、古代エジプト王朝時代に既に存在したギザの大ピラミッドの中で執り行われていた「ハトホルの秘儀」にまでたどり着く。

素領域は単に三次元の広がりを示すミクロな風船の内部のような空間領域だと考えるのではなく、本来三次元以上の広がりを示す高次元の存在であると考えればよい。

たとえば異なる二地点AとBにある素領域が、この三次元空間の中では地点Aの素領域aと異なる地点Bの素領域bというように、ふたつに区別されていたとしても、高次元空間の中では素領域aと素領域bは、同じ一つの高次元素領域となるのだ。

その高次元素領域を異なる三次元断面でみた三次元領域が、それぞれ素領域aと素領域bとして、この三次元空間に異なる素領域として表れているに過ぎない。

素領域のコントロール 「素領域」が「悪口」あるいは「後悔」という暗い「情念」に反応した結果として、僕の周囲の空間としての素領域の分布が乱雑に変化することにより、すべての物質現象がそれまでの調和に満ちた流れからずれていってしまったのだ。

言い換えれば、たとえ悪口を言われた本人が許しても「空間が許さない」ということになる。

逆もまた真なりで「素領域」が「愛」や「慈悲」などの清明な「情念」に反応した結果として、僕の周囲の空間としての素領域の分布がより秩序だったものに変化することで、すべての物質現象がさらに調和に満ちた流れとなることもある。

これを言い換えるならば、さしずめ愛することで「空間が味方になる」、あるいは「空間を味方にする」ためには愛すればよい、ということになるだろうか。

「空間を友達にする」か「空間が味方してくれる」としてもよいかもしれない。

要するに、これもまた物理学の基本法則のひとつである「因果律」なのだが、素領域の集まりとしての空間に対して、我々人間がどのように向き合うかということで、その空間が我々に対していかに振る舞うのかが決まってくるのだ。

素領域の集まりとしての空間は、それ自体で「神」として、我々人間や自然界に対峙しているのかもしれない。だからこそ、我々は「空間」の存在を絶えず意識し、それに向かって「愛」で臨みながら生きていく必要があるのではないか。

引用:

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