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【労働の歴史】不景気大国日本「モノ不足」の令和を突っ走れ! ~働くことは罪である~

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この記事は非常におすすめで、読むだけで価値観が大分変わるのではないかと思います。

今回はえらくお勧めしますね

自分の「考え方」というのでさえ、それは、「自我そのもの」じゃなくて、結局、時代によって起きるというのがよくわかると思います。

内容としては、岡田斗司夫著作「ぼくたちの洗脳社会」をまんま引用しており、時代においての人々の考え方を理由を兼ねて説明するのですが、特に中世の人々と近代人の考え方が真逆で面白いです。異世界アニメを作る上でも価値観が真逆なので、なろう小説を作る上でも絶対読んだ方がいい記事にはなります

ほうほう

「自分はこういう考え方を持っている」という考え自体が、世の中に存在するのか疑問に思えるほど、時代や場所によって人々の思考って違うんだなと痛感します。では、いってみましょう

パラダイム」とは「認識のしかた」や「考え方」、「常識」、「支配的な解釈」、「旧態依然とした考え方」などの意味合いで使われている。

人類で大きな「パラダイムシフト」に解説していきます

1狩猟民族

人々は部族ごとに分かれ住み 魚を取り、獣をとり、貝や海藻を取ったり、木の実をとり。

部族ごとの縄張りのようなものはありません。

しかし、食べ物がなくなれば部族ごと移動することが普通で、土地に縛られることなく生活していました。

◆ここにがポイント!◆
「今日、食べるもの」が人々の関心事だった

彼らは、それぞれ、太陽や月、鳥や猛獣など、自然のあらゆるものを「カミ」だとあがめて、呪ったり、祈ったり、まつったりしていました。

よそ者が迷い込んだ日に、大きな魚が取れれば、よそ者を歓迎し、よそ者が来た後、病気が流行ると、よそ者を殺してカミにささげたりもしました。

モノが不足し、常に我慢を強いられる始代人たち

ひもいじいながら有り余る時間を「思索」という、きりのない作業に当て、モノに執着する心を蔑み、モノを使わないようにする、という考え方が生まれた。

「食い物」はないけど「時間」がある世界なんですね

これに次は農業が加わるとどうなるのかみていきます

2農業革命・「モノ余り・時間不足」の古代社会

明日、食べるものが保証されなかった人々は、いきなり、何十、何百日分の食料を一度に手に入れることができるようになった。

彼らは夢中になって種をまき、育てました。

それまで、海沿いや川沿いにぽつりぽつり住んでいた人たちは、耕しやすい平地に移り住み畑をどんどん広げていきました。

農地は何よりも大切なものとなり、食べ物を求めて移り住むことは少なくなりました。

人々は土地に縛られた代償として、飢える心配がなくなり人口は爆発的に増えました。

しかし、農業を耕すものと、未だ狩猟民族が混濁する世の中、狩猟民族にとっては、食料とは戦って勝ち取るのが当然であるのですが、農耕民族にとっては、憎むべき犯罪である。

そこで、食料の新しい秩序を守るために、管理社会と身分制度が生まれました。

◆ここにがポイント!◆
農業社会の成立によって、管理社会身分制度は必然的に誕生した

土地をめぐる身分制度は、農業革命が拡がるにつれて複雑化し、「畑を持つ人々」と「畑を持たず、働くだけの濃奴」の二つに分かれます。

農奴は、働いても豊かになれない身分だと言えます。

奴隷も誕生しました。

農業によって、食料が貯蓄することができ、人類で「食料余剰」の状態が起きると今度は「商業」が発達しました。

最初は、輸送手段をウマやロバに頼っていたため、細々としていました。やがて商人にも「商人としての権利」が生まれてきました

農業社会

  • ・収穫の基礎である土地をめぐる権利
  • 世襲で受け継ぐことが普通

それに対して、狩猟時代

  • ・食料を見つける才能に優れたもの
  • ・戦いで勝ったのものが族長として部族をまとめる

農業によって身分に確立し、封建制度が誕生したわけです。

いままで、歴史ってただ、年表を覚えるだけでしたが、このような流れを知ると面白いですね

「農業」というシステムが誕生しただけ人類の価値観=パラダイムが変わったわけですね。これが「パラダイムシフト」です

3古代の終焉

身分が固定されたおかげで、農具を作る専門家なども生まれて、生活は比べられない程安定しました。

「王様が統括するもの」「農民が農耕するのもの」とみんながみんなそうするもんだとみんな考えておりました。

しかし、古代社会はやがて飽和状態を迎えます。

帝国の外側には不毛の砂漠、極寒の原始林、住むに堪えない熱帯雨林しか残りませんでした。

農耕が不可能な土地を領土として獲得しても、防衛のための費用がかさむばかりです。

土地の有限性が証明されれば、そこから生産される食料も、それによって維持できる自由市民や奴隷の数もおのずと限られてきます。

また、当時唯一エネルギー資源だった森林資源が枯渇し始めました。そのため皇居事業も、農機材の生産、船や建物の建造も一挙に衰退します。

古代社会って、現代人からすると身分差別が露骨ですけど、その分、社会が安定して結構、豊かだったんですね

身分制度は社会を安定させ、どんどん産業が拡大していきましたが、中世に突入します

古代は意外にも「モノ余り、時間不足」の時代です

はぁ~意外でした。それで生産し続けて、資源が枯渇した。割と現代社会っぽい

4「モノ不足・時間余り」の中世

さて、「異世界」アニメのモデルとなる中世に突入しますが、

意外にも古代は「資源豊富」で中世は「モノ不足」の世界です。

また、宗教支配力も絶大でしたが、宗教は、古代文明からはずれた、遅れた土地で生まれ、文明の地に輸入されます。

へぇ~、つまり、古代人は自分たちで宗教を選び取ったということですね

先程の通り、フロンティアを失い、エネルギー危機を感じ取った古代人が「モノの豊かさではなく心の豊かさ」を求めるようになったからだともいえます

人の弱みに「宗教」って感じですね

中世の人たちにとって、「勤勉」とは、泥棒と同義の犯罪です

というのは、一人がたくさん働けば、結果的に他の人の土地や資源を奪うことになるからです。

中世の人々は、いくら働いても貧乏かわいそうな人々ではなく、「貪欲は悪」という価値観に生きていたのです。

そのため、中世の一般市民は冬はほとんど働かず、夏でも日曜のほかにたくさんの休み・祭日を持っていました

ローマ帝国の最末期ですら、平均週休4日だったのです。

これが、本格的中世になると、本当に人々は働きませんでした。

たとえば、フランスの農民は、冬の三か月は全く働かず、夏季もいろんな理由をつけて休日だらけでした。

おまけに村単位、職能ギルド単位で労働時間を厳格に決め、駆け抜けの働きは厳しく罰せられました。

中世においては、「働くべき時に働かない」よりも、「働くべきではないときに働く」方が、ずっと重い罪だったのです。

えぇえええぇ~~~!?

そうです。働くことは「罪」なのです

また、王侯貴族や当時急増した聖職者など、ほとんど働かない人々が大勢いました。

働かずに済むと言えば楽しそうに聞こえるかもしれませんが、余った時間で別に遊んでいるわけではありません。

遊ぶ、というのは食べたり飲んだり、着飾ったり旅行したり、とにかく消費を伴うからです。

そんな余裕は中世にはありません。と

いうわけで、中世は極端な「モノ不足・時間あまり」の時代だったのです。

「不足するモノを節約し、有り余る時間をいっぱい使う」生き方として中世の人々が尊敬し、あこがれたのは「清貧な思索家」です。

ヨーロッパでも「貧乏ピエール」など、物欲に縛られない態度が尊敬されました。

十字軍に遠征した夫の無事を祈り、下着を何年も脱がせなかったセピア夫人の話は有名です。

そして、有り余った時間をいっぱい使って宗教的研究に没頭しました

これは、科学や実験といった、現実と関連するものではなく、魔女の研究や、デフォルメされたマリア像など、現実的なものとは無関係の抽象的心象的なものです。

中国でも、晋朝以降の貴族は、詩と酒に酔い、政務を顧みず、ほとんど働きませんでした。中には田舎に引っ越してしまい、世捨て人になって詩を呼んで暮らす聖人もいて、これがまた「竹林の七賢」と呼ばれて、みんなに尊敬を集めたりしていました。

身分や報酬も、こういった尊敬や血筋によってきめられてました。

いかによく働いたか、いかに生産性を上げたかといったことはマイナスに評価にこそなれ、プラスに評価されることはありませんでした。

たとえ頑張って生産性を上げても、それは神様の思し召しとしか考えてもらえないのです。

また、古代社会では常識だった、経済の等価交換の原則もこの時代で一旦崩れます。

同じ商品も相手の身分や売り手の機嫌、かけひきによって、全く値段が変わってしまうのです。

貧乏人にはタダにしてやったり、尊敬する人には安くしたり、気に入らない人には高くしたり。

せっかく古代人が作り上げた統一経済や、自由競争市場も失われてしまいました。

それを惜しむ人は、誰一人いなかったからです。

資源がなくなるとこういう思想の流れになるんですね。割と今の不景気の日本の若者と似た感性ですね

歴史は繰り返してます

高度抽象文明

モノへの関心が低かった中世の文化の特色は、その高度な抽象性にあります。

彼らは言葉や数値による正確で具体的な表現よりも、抽象的感覚的表現で雰囲気を伝えようとしました。中世の宗教はどれも、光・音・色など感覚的な要素をうまく融和させたトータルメディアとして見事に設計されています。

産業革命・近代社会がどのようにして起きたのか

・「中世」の時代何故、神父が尊敬されていたのか?

「モノ不足」の時代であり、必要以上働くことは「罪」とされていた中世。

もちろん収穫量には上限があり、ある程度以上は人口は増えず、バランスのいいところで安定しいました。

悪天候による飢饉や急な伝染病で人口が激減することも周期的ンは有りましたが、順調な時また、人口は戻りました。

隣国同士、多少の衝突はありましたが、強力な王が表れてヨーロッパを統一するといったこともなく、おおむね平和でした。

そんな時代ですから、いくら封建制度といっても王様はパッとしません。

もともと蛮族や、隣国の侵略から自分たちを守ってくれるための王様ですから、平和になって役目を追えれば、ありがたみも減るというものです。

「今日食べるもの」の心配も、蛮族から食料が奪われる心配も、あまり気にしなくてよくなかった人々にとって、最も大きな関心事は病気で死ぬことです。

なぜ病気になるのか、なぜ死なねばならないのか、死んだらどうなるのか、死ぬのは怖い、病気怖い、ケガ怖い。

当時はほとんどまともな医者もおらず、医療知識もなく、家族や自分が病気になってもけがをしても、なすすべがありません。

そんな人々にとって、病気やけがで死ぬことほど不安で恐ろしいことはなかったでしょう。

その不安を和らげてくれたのが、王様に代わる彼らのヒーロー、神父様だったのです。

神父様は「大丈夫、死んだら天国へ行ける」「神様に召されるのだから怖くない」と励ましてくれます。

立派な教会で、立派な神父様が分厚い聖書を手に、おごそかな声で話してくれるありがたいお話を聞いているとホッとします。

この前死んでしまったおじいさんも、天国で自分を待っていてくれるだろうか、と考えたりもします。

少々つらいことがあっても、感謝の気持ちを持って頑張ろうと思ったりもします。

神父様は立派な人です。

家のない者を泊めたり、スープを飲ませたりもしてくれます。

なんでも遠い町まで行って、神様の勉強をしてきたそうです。

病気の時には、家へ来て見守ってくれます。

だれかが臨終のときには必ず来て懺悔をさせ、天国に召されるようにしてくれます。

丘の上の教会の塔をみながら「ちゃんとした教会のある村に生まれて、本当に良かった。これも神様の思し召しだ」と感謝で胸がいっぱいになります。

大きな町には立派な教会が立てられ、どんな小さい村にも教会が建てられ、日曜日に教会に行かないのは、よほどの変わり者か、教会もないほどのド田舎に住んでいる人だけでした。

みんな暇さえあれば祈りました。

というより、無理やり時間を作ってでも祈ったわけです。

また、少しでも経済的に余裕があれば教会へ寄付したり、自分より貧しい人々に施しをしました。余裕がない家も、少し食べるものを我慢してでも施しをしました。

施しをしたために貧しくなるのは、立派なことだったのです。

はぁ~、なるほどね。中世時代のイメージが一気に膨らみましたね

「死んだらどうなるのか分からない。怖い怖い」と言われるよりよっぽど安心しますよね。「死んだら全部終わり」とか考えられるほどの勇者はほとんどいなかったとされています。不信者というのは神様自体を信じていなかったのではなくてつい面倒くさくてお祈りをさぼっちゃう人のことを指しています

俺らじゃん

この当時の人々の関心事は「天国があるか」ではなく「天国に行けるかどうか」なわけです

王様より神父様の方が絶大な支持を受けるわけですね

・「科学」はどこから生まれたのか

18世紀、社会は大きく変化します。

物欲を憎みモノを軽んじる中世の人々が、あらゆる努力で世の中をますますモノ不足に追い込んでいましたが、15世紀の新大陸発見による「有限感・閉鎖感の払拭」「世界航路発見による、新たな通商開拓」そして「産業革命」がやってきました。

これにより、「モノ余り・時間不足」という古代と同様の状況がよりバージョンアップして帰ってまいりました。

一時的に飽和状態に見えた工業化は新大陸の展開によって、また一気に花開き、大量の石油資源の発見とその応用技術の発達により、行動経済成長が歴史上みられなかったほどのハイスピードで成し遂げていきます。

なんでこんなに発展できたのかというと原因は「キリスト教」でした。

「神様がこの世界をお造りになったのだから、この世界は素晴らしい秩序で満ちているに違いない。

その秩序を見つけて、神様の御わざを讃えよう」という考え方の少数派が出てきました。

「そんな秩序を見つけなくても、神様がすごいのは分かっている。そんなことをする暇があったら真面目に祈ってろ」という主流派のいじめにあいながらも、この少数派は熱心に研究をつづけました。

これらの研究の成果が「メンデルの法則」「万有引力の法則」「ケプラーの法則」だったりします。

これらの発見は、神様を信じ、神の御わざをみようという敬虔な信者によってなされたわけです。

しかし、このような科学の成果によって人々の暮らしが徐々に変わっていき「科学や発明の力で人々は幸せになれる」とみんな、そう思い始めました。

その結果、キリスト教は昔のように絶対の権威を保てなくなってしまったわけです。

◆ここにがポイント!◆
キリスト教から生まれた「科学」が、キリスト教を否定した

産業革命の始まりとなった蒸気機関の原型「メコン機関」も、敬虔なキリスト教牧師たちの手で、神の御名をたたえるために発明されたそうです。

しかし、人々はもう、そこに神の偉大さはみておりません。

蒸気機関車、自動織機、無線機、蒸気船、エレベーター、ガラス、鉄、次々と科学の生み出す成果とその可能性に人々は酔いしれました。

もう神様に頼って死んでから天国に行く、なんて当てにならないことにかける必要はありません。

科学がこの世を天国にしてくれるのですから。

まさか、キリスト教徒が神のために科学を研究していたとは...

逆にいえば、キリスト教なしに科学はありえなわかったわけですね

そうなると、中世の「身分制度」も崩壊していきます。

自分も才能があれば大発明をしたり、事業を成功させたりしておお金持ちになれるのです。

そんなときに農奴らしくしていても仕方がない。

人々は祈る時間を削って働くようになり教会の力が弱まっていきました。

施しのお金を削って次の事業に使ったり、新しい電化製品を買うようになってしまったのです。

今までは悲しいこともうれしいことも生まれや育ちもすべて「神の思し召し」だった、世の中のことに疑問を感じたり、質問したりするのは良くないことだったのが、「なぜ」という科学的合理的思考法に変わったわけです。

「理由」がないと納得できないですもんね。現代人っぽくなってきた。

ところが、これはこれで、世の中のあらゆる不都合にはすべて原因があって、きちんと観察し、思考し、実験すれば必ず特定でき、把握できるという考え方は、逆にそうしなければならないプレッシャーを私たちの心に与えることとなりました

揚げ足しとりする人もいますもんね

つまり、私たちは永遠に与野のかの不都合に関して心配し、考え、本を読まねばならなくなってしまったのです

そういえば、義務教育制度も近代からって前回言ってましたね。勉学の強制って感じですね

6 「モノ余り・時間不足」近代社会突入

農地から解放された人々は、仕事を求めて都市から都市、工場から工場へ渡り住みます。

その結果、農業社会を支えていた大家制度は崩壊し、移動に適した「核家族制」が一般的となります。

工場労働者としては適当ではない「老人」は田舎に残すわけですね。

システム化した身分制度は崩壊し、常に平等のチャンスを要求する「市民」が誕生します

変かは常に「良いこと」となり、宗教は廃れて、他人を出し抜くのが正しい生き方になったのです。

その代わり、誰もが「豊か」になる権利が与えられました。

どんなに手の届かないものであろうと、「お金」の問題として解決できる。

お金さえ払えば、今まではあきらめるしかなかった医療も受けられる。

旅行にも行ける、どんなものも買える。

この世界のすべてのものが、自分のものになる可能性を秘めている。

このような価値観、考え方は、今まで中世の世界に生きていた人たちにとって、圧倒的な魅力に映ったに違いありません。

段々、現代人とシンクロする部分が増えてきましたね

そうして、近代のパラダイムはあらゆる点でモノをもっとたくさん作りだし、もっとたくさん消費することをかっこいいと感じ、時間や人手を節約し効率を上げることを正しいことだと感じる、という方向でかたちづくられます ・商品の規格化・画一化による大量生産・生産機械や輸送手段の大型化・高速化による効率化・人手を減らし、機会や資源によって労働を置き換える省力化これらすべてがモノ余りを促し、時間不足を助ける方向性を持っています。

そして、モノそのものに関心を持ち、物事を数値的・客観的にとらえる科学主義・経済主義・合理主義が他の考え方を駆逐した時代ともいえます。

この点も古代と似ていますね。

宗教は完全になくなったりしませんでしたが、人々の生活における重要度は著しく下がりました。

封建制度身分制度が崩れて世の中は自由経済競争社会となり、誰もが金持ちになり、大勢の人を雇う立場に立ったりできるようになった。

別にみんなが一斉にお金持ちや政治家になれるわけではないのですが、チャンスと能力とやる気さえあればトライできるという事実は、それまでの「自分の人生」に対する考え方を大きく変えていきました。

・中世と近代の「自我(アイデンティティ)」の違い

中世ヨーロッパでは「自分」は神の思し召しで生まれてきて、神様の思し召しで天に召される存在氏でした。

神様によって農民の子として生まれてきたのだから「なぜ農民じゃなきゃいけない?」と考えたりしません。

それよりは、農民としてちゃんと生きること、その中でいかに一生懸命祈ったり、施しを与えたりするか、が頑張り所、プライドの置き所だったのです。

しかし、自分がどんな自分であるか、自分自身で考えて決める、他人任せにしないというのが、現在のあたりまえの考え方です。

自分で決めると言っても、その時で好き勝手やるというのではありません。

自分はどうあるべきか、自分にとってなれそうな立派な自分とはどんな自分かを考え、それを目標に頑張るということです。

こういう「あるべき自分をちゃんと思い描いて頑張っている人」のことを「自我が確立している人」と呼びます。

「人間は社会に貢献しなければいけない」という自分の考えと自分の能力を考えて、サラリーマンを選んだり医者になったり警察官になったりするべきだ、という考え方です。

これはもちろん職業だけでなく、あるべき夫や妻の姿であったり、あるべき父親母親像であったり、あるべき国民の姿であったりします。

特にこういう、「神様が決めた通りに生きる」という枷がなくなったぶん、一人一人が自発的に立派であってもらう以外に社会秩序を保つ方法は一つもないので、「自我の確立」が何よりも大切となります。

しかし、それはまた、とんでもなく、難しく、面倒くさいことだったのです。

その結果、現代のわれわれは社会ストレスや、精神病、神経衰弱と言った「近代人の勲章」を手に入れることとなりました。

だって、自分が貧乏な理由、物事がうまくいかない理由、人から尊敬されない理由は、全部自分のせいなのですから。

みんなが豊かさを目指せる社会、とはもう一つの意味を含んでいます。豊かでない自分は負け犬である、ということです

うわぁ。割と、マジで「働いたら負け」というか、自分たちが生きていて当たり前だと思っていた考え方も結局は「洗脳」されているだけなんだなと痛感します

ですよね。本当、学校や家族って良くないわぁ

7「モノ不足・時間あまり」の中世が再び!? Z世代

オイルショックや環境破壊、不景気、我々は徐々にゼロ成長時代へと突入していることは薄々感じていることでしょう。

このように現代思想に疲弊して疲れ切った我々は、物欲や金に惑わされるのをみっともないと感じ、モノに関心を示さないのを立派と感じる、中世とよく似たパラダイムを持つ新しい時代に徐々に変化していっております

自分よりも一つ下の世代の「最近の若者」うんぬんって感じがしますね

日本の経済の成長に限界を迎え「資源・土地・環境に対する有限性」を感じ始める昨今、Z世代はバブルを全く知りませんし、日本が好景気だったころの時代も全く知りません。

親の給料はあがらず、いかにモノを使わないか、いかにモノを作らないか、が重要な社会となりつつあります。 土日も働くお父さんは、みっともなくみえてしまいます。

ただお金を儲けるために働くのは、自分を大切にしない、恥ずかしいことです。

自分たちがお父さんたちと同じ会社に入って、企業戦士として働かされるなんて、とんでもないことです。

だから、若者たちはアーティストやプログラマーや研究者といった、資源をほとんど浪費しない職業に就きたがる。

しかし、残念ながらそういった専門職の知識は高校でも大学でも教えてくれません。

仕方なく専門学校に入り治したり、フリーターをしながら独学したりします。

そんな彼らをお父さんは「いつまでも大人になれないモラトリアム族」と怒ります。

あぁ~、よくわかりますこれ

今の学生は、自分を豊かにすることに時間を使いたいと言います。

自分を見つめ、自分を清めるために祈った中世の人々と大変似ている発想です。

中世と現代とでは「モノ不足・時間あまり」という点では共通していますが「情報あまり・自分の捉え方・教育」の面で異なっています。

現代人「資源不足・時間あまり・情報あまり」

・アニメやゲームを制する者が現代を制する

トフラーが「第三の波とは情報革命である」といったように、現代は情報に溢れています。

特に資源をほとんど使わない「電子情報」は、今後もどんどん増え続けるはずです。「たくさんあるモノをぱーっと使う美意識」は「情報をたくさん使うこと」をカッコいいと感じさせることになります。

しかも「モノ不足」の時代ですから、どうしてもその関心は抽象的な方向に向かいます。

つまり、これからの情報は、科学的な分野や経済的な分野が中心ではありません。

いわば、「世界情勢や株価の動きが瞬時に、しかも正確に把握できること」が情報革命の本質ではない。

もっと、抽象的で総合的な芸術の分野において、その情報は使われるはずです。

わかりにくい表現ですけど、例えば、ゲームソフト、アニメ、CGを駆使した映画とかです。

これらは「モノ不足・時間あまり・情報あまり」の時代にぴったりの商品です。

自分至上主義

中世において、「私」とは神の思し召しで生まれてきた存在でした。

農奴に生まれてきたとしても、それを神様の思し召しとしてありがたく受け入れるか、シレンとして頑張るか、しかありません。

しかし、現代の若者は、自分のことを「唯一無二の自分」と捉えます。

「自分にとってのみ、自分が何者にも代えがたい存在」なのであり「他人にとっては大勢の中の一人」でしかないことも知っています。

だからこそ「自分らしさ」を大切にすることと「自分の気持ちを大切にすること」が何にもまして重要だと考えます。

「近代的自我の呪い」というプレッシャーを背負ってみんな生きている「近代人はつらいよ」ってなる。

この自分に対する考え方が「モノ不足」にきて、成立しなくなり、精神世界へと移行され、そのプレッシャーから解放される方向へ向かいました。

つまり、逃げたとも言えます。

決して「あきらめた」「逃げた」を否定的な側面のみで捉えないように。

だいたい、もともと「近代的自我」に無理があったんですから

人間、身体や心を悪くしてまで守らなければならない理念なんて、長続きするわけありません。簡単に、うつ病&自殺です

教育

「義務教育制度」は近代から導入されたのですから中世とは明らかに異なる点となります。

しかし、工業化社会の「教育」は大人になってから参加する経済競争の前哨戦という位置づけでとらえられていましたが、それが「モノ不足」の現代、大きく変質しており、これによって様々な齟齬が生まれております。

「ちゃんと学校を卒業すれば、いい会社に就職出来て、豊かな生活ができる」なんて誰がいえるのでしょうか。

ちゃんと学校へ行っても、何もいいことがないことをみんな知っております。

ところが、この「産業社会用カリキュラム」は無視して純粋に「勉強」したい若者も存在します。

彼らは「面白そう」「楽しそう」という自分の気持ちを大切に、勉強する分野を選びます。

彼らの目的は「自分の人生を豊かにするため」です。中世では、「勉強」という機会は存在しておらず、「祈り」続けていましたが、内面世界に重きを置いているという点では共通しております。

まとめ

  • ・古代と近代は「モノ余り、時間不足」で共通している
  • ・中世と現代は「モノ不足、時間あまり」で共通している
  • ・モノが不足して時間が余ると、自分の精神・抽象的世界を重要視する
  • ・今どきの若者は中世の人々と共通する部分がある

非常に長文記事になりましたが、結構面白いと思いますので、読めるんじゃないかなと思います。他人事じゃないし

各時代によっての考え方の違いを比較することで自分の考え方というのも客観的にみられる気がします

このブログは勿論、近代的な生き方を捨てて「モノ不足、時間あまり」の生き方を突っ走っていきたいと思います

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