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なんで「数学」が学校の科目にあるのか?「数学」は必要か?ワイの答えはこちら

 

 

数学

 

誰もが思うのではないだろうか

 

計算が最低限出来れば生きていく上で問題ないのに

何故こんなものを高等教育、大学の受験科目としてやらされるのか

 

今回はこれについて

解説していきます。

 

 

まずは

学校の数学とは何か

軽く説明しよう

 

数学の教科書というのは、

歴史的に「解」が発見された問題の集まりである

 

学校の生徒は、となると

「解」の出ている問題を「テクニック(公式やら)」で時間内に解く練習をさせられているということなのだが

 

数学の専門家は語る

 

これは、戦後教育の弊害である、と

 

だから、ワイ達は、

義務教育を馬鹿正直に9年間、更に、高校(普通科)で3年間を馬鹿正直に

授業に参加し、運が悪ければ馬鹿な先生の話を聞かないと怒られるような生き方をしてこなければならないわけだ

 

 

じゃあ、数学の本質とはなんなのであろうか?

 

数学とは集合論である

 

比例の勉強を擦る時に

優秀な数学の先生は「直線」は「点の集まり」と教えてくれたであろう

 

んで更に重要なのが

 

数学=集合学=論理学

 

これが数学の基本的前提に存在する

 

尚、現代数学のモデルは古代ギリシア発祥の数学が使われている

 

 

 

・日本人に数学がなじみのないないのは

文化の問題もある

 

例えば、

古代ユダヤ教、ほか外国人がそうであるのだが

 

上との契約、宗教ルールというのが存在する。

彼らはそれらのルールを守るが、

逆に言うと

それ以外のルールは守らない

ということになる。

 

ルールはいくつもある集合体→それ以外のルールのない集合体はまもらない

という論理である

これで、集合学=数学のイメージがついてきたでしょう

 

外国人は一神教もあって「白黒」つけたがるけれども

 

日本人はこういった発想がない。

義理と人情がなんだから知らないがルールが曖昧なのである

 

 

これは、文化の問題でもあるのでどちらかが悪いわけではないが

 

日本は「数学的思考」というのが弱いのである

 

 

更に数学には前提条件がある

 

存在問題

 

先ほどの集合論の話にも応用できるが

 

「存在する」ものに対してその特徴などと違う場合は「偽」になっていまうが

「存在しない」ものに関しては何を言っても「真」のである

 

例えば、

ワイの恋人はめちゃくちゃ美人で家事も出来るし、おしとやかでどんなプレイも喜んでやってくる

しかし「ワイの恋人」というもの自体が「存在しない」

存在しないモノに関しては何を言ってもいい

というのが数学的思考になる笑

 

ワイに恋人が本当にいたら

「えぇと、身長160センチ...」などと事実を述べないと「解」にならないのだ

 

ちょっとわかりにくいかもしれませんが

 

 

 

数学の世界では

説かれていない解の存在が無数にあり

 

解が存在するというだけでも大発見となる

 

解がわからない問題なんてうじゃうじゃある

 

それを検証する学問が数学

「集合学」であり、「論理学」である、と。

 

 

話を戻すと

数学の教科書はその中から

「解の存在が発見され、更に解がわかった奴を寄せ集めたのに過ぎない」

 

ということになる

 

 

 

結論・まとめ

 

本来の数学とは、

 

ギリシア発祥の

論理的思考能力を養う科目

 

数学で養われる本来の力というのは

・そもそも解が存在するか考える力

・命題の正否、必要十分条件(教科書にもある)

・矛盾を明確につかむ方法

 

といったものになる

 

いかがでしょう

物事を考える力ですね

数学は、すごく重要でしょう

 

本来なら、論理力が必要不可欠な

現代文との相乗効果が期待されるわけですね

 

 

そんでもって、

タイトルから

ワイの答えはこちらです

「数学」は必要であり重要な科目ではあるが

6年間数学の授業を受けてきたけれども

「数学とは何か?」は自分で調べないとわからなかったので

数学の本質を理解させないまま授業が進められる学校の数学の授業はゴミであり

受ける必要ない(偏差値の高い高校は知りません)

 

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